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3 じーっとしててもどうにもならない
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飛天が映理を呼び出したのは、それから二週間後のことだった。六月に入り、梅雨前線の北上が毎朝のニュースの話題に上がるようになっていた。
静かにドアが開いた気配を背後で察知したが、飛天は目の前のことに集中する。
「飛天さん?」
映理は怒っているのかもしれない。遠い駅まで呼び出しておいて、他人――次郎だ――を迎えに寄越した飛天に、愛想を尽かして、「もうやめましょう」と言ってくるかもしれない。
それでも飛天は、生まれ変わる自分自身を、彼女に見てもらいたかった。
「ハッ」
荒くなった呼吸を整える間もないまま、目の前の男は攻撃をしかけてくる。本気の暴力でもなければ、格闘技でもない。型通りの突きや蹴りを、同じく型通りにかわして受け流す。
訓練をこの二週間し続けているのだが、持ち前の運動神経をもってしても、何かがうまく噛み合わない。
でも映理が見学している今日こそは、先輩にも認められるような組手をしてみせる。
先輩の上段突きを、さっと右にずれてかわす。彼の腕を取り押さえ、下げる。続いての蹴り技は、痛くないようにわざと食らう。
時間にすればたったの一分だが、飛天は緊張していた。初めて大勢の前で踊ったときよりも、わずかな人間しかいないこの空間の方が、よほど気持ちが張り詰めている。
「……いいだろう」
先輩は息ひとつ乱していないし、汗もほとんどかいていない。そのままへたりこんでしまった飛天とは、大違いだった。
「飛天さん!」
ずっと見守ってくれていた映理が、駆け寄ってくる。真っ白なハンカチを取り出して、飛天の額の汗を拭う。ほのかな石けんの香に、飛天は「大丈夫だから」と制止することも忘れた。
「ここはいったい……?」
「俺のバイト先」
もともとは次郎のバイト先だった、イベント運営会社である。
意を決して電話した先は、次郎だった。彼を通じてこの会社に雇ってもらえないかと打診をした。
面接の際には、不純な動機を包み隠さず語った。すなわち、「恋人に格好いいところを見せたい」と。
社長は呆れ、それから笑った。人手不足もあったのか、飛天は無事に、スーツアクター見習いとして採用された。
「あのね、映理さん」
飛天は話しかけて、口を噤む。座ったままじゃ、格好悪い。よいしょ、と立ち上がった。
「俺はいろいろあって、人の多い場所……特に、若い子がたくさんいるような場所には行けない」
理由を聞かれたら、半分は正直に答えようと思っていた。だが、映理は何も言わずに先を話すように促してくる。
「だから、君が見たいヒーローイベントや、映画には一緒に行けない」
情けないようだが、これは映理のためでもある。飛天の存在がばれてしまえば、一緒にいる彼女にも累が及ぶかもしれない。
飛天は唇を湿らせてから、肝心なことを言う。気分的には、すでに告白の領域だ。
「その分俺、ここでバイトして、なるべく早く主役になれるように頑張るから。だから、俺が出るショーを見に来てほしい……最初は下っ端悪役だけど」
ヒーローを見たい映理と、なるべく自分の素顔を見られたくない飛天の中で折り合いがつきそうな案は、これしか思い浮かばなかった。我ながら、幼稚な考えだと思う。
ドキドキと死刑宣告を待つ気持ちで、飛天は映理の表情を窺った。
「飛天さん」
彼女は笑った。唇だけではない、目も、眉も、全身で笑顔を作る。
「下っ端悪役だって、私の中では十分、あなたはヒーローですよ」
「え? それって……」
なんだか熱烈な告白をされた気分になって、飛天は彼女の真意を確かめようと一歩踏み出す。
だが、実際に尋ねることは叶わなかった。
「おら、品川。彼女にいいところ見せるんだったら、もっと練習しねえとなあ!」
筋骨隆々の先輩――現時点での、主役スーツを着ることが一番多い男だ――が飛天の無防備な背中を、思い切り叩いたせいだ。
「いっ」
痛い、という叫び声すら上げられなかった。ギギギ、と身体を軋ませて振り返ると、すでに先輩はファイティングポーズを構えている。
「ほれ、練習あるのみだ!」
くっそ、と悪態をつき、飛天は自分よりも体格のいい男に、果敢に飛び込んでいったのだった。
静かにドアが開いた気配を背後で察知したが、飛天は目の前のことに集中する。
「飛天さん?」
映理は怒っているのかもしれない。遠い駅まで呼び出しておいて、他人――次郎だ――を迎えに寄越した飛天に、愛想を尽かして、「もうやめましょう」と言ってくるかもしれない。
それでも飛天は、生まれ変わる自分自身を、彼女に見てもらいたかった。
「ハッ」
荒くなった呼吸を整える間もないまま、目の前の男は攻撃をしかけてくる。本気の暴力でもなければ、格闘技でもない。型通りの突きや蹴りを、同じく型通りにかわして受け流す。
訓練をこの二週間し続けているのだが、持ち前の運動神経をもってしても、何かがうまく噛み合わない。
でも映理が見学している今日こそは、先輩にも認められるような組手をしてみせる。
先輩の上段突きを、さっと右にずれてかわす。彼の腕を取り押さえ、下げる。続いての蹴り技は、痛くないようにわざと食らう。
時間にすればたったの一分だが、飛天は緊張していた。初めて大勢の前で踊ったときよりも、わずかな人間しかいないこの空間の方が、よほど気持ちが張り詰めている。
「……いいだろう」
先輩は息ひとつ乱していないし、汗もほとんどかいていない。そのままへたりこんでしまった飛天とは、大違いだった。
「飛天さん!」
ずっと見守ってくれていた映理が、駆け寄ってくる。真っ白なハンカチを取り出して、飛天の額の汗を拭う。ほのかな石けんの香に、飛天は「大丈夫だから」と制止することも忘れた。
「ここはいったい……?」
「俺のバイト先」
もともとは次郎のバイト先だった、イベント運営会社である。
意を決して電話した先は、次郎だった。彼を通じてこの会社に雇ってもらえないかと打診をした。
面接の際には、不純な動機を包み隠さず語った。すなわち、「恋人に格好いいところを見せたい」と。
社長は呆れ、それから笑った。人手不足もあったのか、飛天は無事に、スーツアクター見習いとして採用された。
「あのね、映理さん」
飛天は話しかけて、口を噤む。座ったままじゃ、格好悪い。よいしょ、と立ち上がった。
「俺はいろいろあって、人の多い場所……特に、若い子がたくさんいるような場所には行けない」
理由を聞かれたら、半分は正直に答えようと思っていた。だが、映理は何も言わずに先を話すように促してくる。
「だから、君が見たいヒーローイベントや、映画には一緒に行けない」
情けないようだが、これは映理のためでもある。飛天の存在がばれてしまえば、一緒にいる彼女にも累が及ぶかもしれない。
飛天は唇を湿らせてから、肝心なことを言う。気分的には、すでに告白の領域だ。
「その分俺、ここでバイトして、なるべく早く主役になれるように頑張るから。だから、俺が出るショーを見に来てほしい……最初は下っ端悪役だけど」
ヒーローを見たい映理と、なるべく自分の素顔を見られたくない飛天の中で折り合いがつきそうな案は、これしか思い浮かばなかった。我ながら、幼稚な考えだと思う。
ドキドキと死刑宣告を待つ気持ちで、飛天は映理の表情を窺った。
「飛天さん」
彼女は笑った。唇だけではない、目も、眉も、全身で笑顔を作る。
「下っ端悪役だって、私の中では十分、あなたはヒーローですよ」
「え? それって……」
なんだか熱烈な告白をされた気分になって、飛天は彼女の真意を確かめようと一歩踏み出す。
だが、実際に尋ねることは叶わなかった。
「おら、品川。彼女にいいところ見せるんだったら、もっと練習しねえとなあ!」
筋骨隆々の先輩――現時点での、主役スーツを着ることが一番多い男だ――が飛天の無防備な背中を、思い切り叩いたせいだ。
「いっ」
痛い、という叫び声すら上げられなかった。ギギギ、と身体を軋ませて振り返ると、すでに先輩はファイティングポーズを構えている。
「ほれ、練習あるのみだ!」
くっそ、と悪態をつき、飛天は自分よりも体格のいい男に、果敢に飛び込んでいったのだった。
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