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9 グェイン家の一員として

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 ジョシュアの天然すぎる一面を見た翌日、「もう大丈夫だろう」と、アルバートは領地へと帰っていった。一週間あまりの滞在だったが、なんだかもうずっと一緒に暮らしているかのようで、寂しい。レイナール自身が、ボルカノに来てまだ半月ほどだというのに、アルバートと過ごすうちに、すっかりこちらの生活に慣れていた。

「あれは筆無精だからのう。屋敷の様子は、レイが伝えておくれ」

 別れの握手とともに、文通の約束を交わしたアルバートを見送った。時間が合わずに立ち会うことのできなかったジョシュアの分まで、レイナールは馬車に向かっていつまでも、手を振り続けた。

 アルバートは洒落者で粋で、その場にいるだけで、パッと周囲を明るくできる紳士だった。アンディやマリベルもお喋りで楽しい人たちだが、彼らには仕事があるし、あまりなれなれしくしていると、お互いにカールに怒られてしまう。

 アルバートが領に戻ってから、レイナールは再び退屈になってしまった。庭師のサム爺さんの復帰はまだで、その間は彼の弟子が来てくれているのだが、若い青年に、なぜかジョシュアは難色を示した。

 レイナールが青年と草木の越冬について議論を交わしていると、不機嫌そうに引き剥がしにかかる。

「君は遊びに来たのか?」

 軍隊仕込みの低い声で凄んでみせれば、青年は背筋を正し、青い顔をして首を横に振った。

「ならば仕事をしろ」

 一目散に庭に向かった男が哀れだった。若いとはいえ、侯爵家の庭園を師匠に任せてもらえるくらいだから、彼は一人前の庭師だ。彼と話すことは、レイナールにとっては非常に面白く、有意義なものだった。

「ジョシュア様。失礼ですよ」

 そう諫めると、なぜか彼はひどくショックを受けたという顔で、大きな背中を丸めた。

 その姿は、子どもの頃実父の膝の上で読んでもらった絵本に出てくる、気弱な熊にそっくりだった。

 無表情の冷たい男だという見た目の印象は、大きく変わった。

 彼は非常に真面目で、不器用な男である。

 レイナールに気を遣ってくれるが、少し思考がずれている。

 初夜だの結婚式だの言い始めたこともそうだし、レイナールが「美味しい」とこぼした料理を、毎日毎日アンディに作らせようとしているあたり、相手に好意を示す方法をあまり知らない。

 そこまで考えて、レイナールは、自分の中の確信に、はたと気づいた。ジョシュアに好意を抱かれている。勘違い
ではない。

 最初は、国をひとり離れたレイナールを哀れんでいるのだと思ったが、どうも違うような気がする。庭師は自分と年があまり変わらない青年で、ボルカノに友人のひとりもいないレイナールの退屈しのぎの相手として、申し分ない。

 身分の差はあれど、この屋敷ではないようなものだ。何せ主人と料理人が親友同士なのだから、レイナールが庭師の青年と友情を育むのも、なんらおかしくない。

 なのに、ジョシュアは脅しつけて、遠ざけた。レイナールに近づく男は許さないというように。

 彼の矛先は、時折、アンディにも向けられる。彼と喋っているときに視線を感じると、だいたいじとっとした目つきで、ジョシュアがこちらを睨んでいる。アンディは気づいていながら、何も知らない振りで構い倒してくるが、レイナールは落ち着かない気分になり、会話を中断して、ジョシュアの元へ行く。

 何かご用ですか、と問えば、なんでもないとむっつり押し黙ってしまうジョシュアは、しかし、レイナールが隣にいると、どこか機嫌がよさそうにしているのだった。

 結局、ジョシュアに責められて以降、庭師の青年は、レイナールを見つけても、会釈だけして慌てて逃げてしまうようになった。レイナールが不用意に庭園に顔を出せば、彼の迷惑になる。趣味のひとつを封じられて、不満だった。家の中で育てている雪割草だけが、心の慰めである。

 加えて、今日はあいにくの空模様だ。秋の空はからりと乾いていることの方が多いが、一度雨が降り出すと、数日続く。明日まで止まないだろう。

 マリベルもアンディも仕事をしている午前中、レイナールは書庫に向かうことにした。

 ジョシュアの書斎には、現在必要な書物が整然と並んでいるが、地下の書庫は、歴代のグェイン侯爵がかき集めた本が、適当に積み上げられている。中には貴重な本もありそうなものだが、まるで管理されていない。

 最初に入ったときは、独特のかびっぽい臭いにやられて二十分も滞在することができなかったが、徐々に慣れてきた。とはいえ、椅子も机もないし、その場で読む気には、到底なれない。

 レイナールは適当に見繕った分厚い本を五冊重ねて、元の道を戻る。階段をえっちらおっちらのぼっていると、「危ない!」と、声をかけられた。

 えっ、と思う間もなく、レイナールは躓きかける。階段の途中だ。下手をすれば、大怪我をしたり、頭を打てば、命を落とす可能性もあった。

 しかし、レイナールが平穏無事だったのは、誰かが支えてくれたおかげであった。紙の束が舞う中、ようやく見えたその「誰か」は、カールだった。

「大丈夫ですか?」

 あまりよく思われていないとはいえ、レイナールは一応、主人預かりの貴人である。怪我の有無を問う口調は、本当に心配してくれているのが伝わってきた。

「あ、ああ。平気だ」
「なら、よかったです……」

 驚きすぎて、心臓がバクバクと弾むのを、深呼吸でどうにか抑える。レイナールが落ち着くのを待ってから、カールは落とした紙を集め始めた。

 自分のせいで散乱してしまったから、レイナールも手伝う。

「レイナール様」
「大丈夫」

 紙の束は、便箋だった。グェイン侯爵家の紋が加工されている。それから、文字が書かれている封筒が多数。封が切られており、送り主の名前を確認すると、ボルカノの名だたる貴族たちの家名が書かれている。

 レイナールは、封筒の中の書状を取り出した。開封した状態でカールが持っていたくらいだから、グェイン侯爵宛の親書ではない。他人という点で、カールと自分は変わらないのだから、中身を少し確認するくらい、構わないはずだ。

 その証拠に、カールの制止は本気のものではなく、レイナールはざっと目を通す。

「将軍就任祝いの返事を?」

 カールの請け負った仕事を確認すれば、渋々彼は頷いた。

 グェイン侯爵家は、代々国境線を守る由緒正しい家柄である。そんな家でも、将軍を輩出することは滅多になく、しかもジョシュアは、三十にもならない青年である。同門の貴族を中心に、あれこれと祝いの品や手紙が届いていた。

「しかし、ジョシュア様は究極の筆無精でして」

 アルバートもそんなことを言っていた。もう期待するのはやめた、という濁った目で、レイナールだけが頼りだと、しきりに頼んできたくらいだ。貴族としての礼儀だとしても、「字が汚い」「時間がない」と言い訳をして、のらりくらりと逃げていた。本当なら、書類仕事すら放棄して、軍の訓練に毎日参加したいほどだという。

 レイナールという想定外の存在によって混乱していた事情も、貴族たちは察している。だが、それにしてもいまだ返事をしていないというのは、いかがなものだろうか。

 今はこうして、好意的にグェイン侯爵家に接してくれていても、礼儀知らずだと侮られるようになる。信頼を築くには長い時間が必要だが、崩れ去るのは一瞬なのだ。

「返事を書くのに、何か参考になるものはないかと、書庫に来てみたのですが」

 ジョシュア、そしてグェイン家の人々には、恩がある。

 お祝いを送ってきた貴族たちは、レイナールが国王から押しつけられた「名目上の妻」だということを知っているはず。ならば、「妻」の自分から礼状を出すことは、不自然ではないだろう。

「私がやろう」
「え?」

 カールの持っていた紙束を、彼が呆気にとられている間に奪い取り、レイナールは階段をすたすたとのぼった。自室として与えられている客間に戻ると、早速ペンとインクを準備する。

 大丈夫。顔は知らないけれど、相手の名前は知っている。グェイン侯爵家との力関係も、頭に入っている。

 神殿暮らしが長く、血は繋がっていないとはいえ、レイナールとて、いち王族である。正式な礼状の書き方や、貴族が好む気の利いた言葉などについても、知識があった。

 それに、儚げと形容される容貌からは想像ができないほど、弁が立つとも自覚している。アーノン公爵家の血筋が関係しているのだろう。あの家は、代々有能な外交官を出している。外交とはすなわち、言葉を駆使して、自国に有利になるように運ぶのが仕事だ。

 レイナールは頭に浮かんだ言葉をすぐに、流れるように綴っていく。筆記は素早いが、字は読みやすいものだ。

 まず一通目を書き上げたところで、カールに読んでもらった。彼はまず、美しい筆跡に目を瞠ると、それから無言で、手紙を確認し始めた。

「何か、失礼なことは言っていないだろうか? ヴァイスブルムとボルカノでは、マナーも違うだろうから」

 言えば、カールは微妙な顔をした。痛みを覚えたような表情が、レイナールには気になった。

「どこかおかしかったか?」
「いえ……マリベルを呼んでも?」

 なぜ自分の目で確認しないのか不思議だったが、深く詮索はしない。

 やってきたマリベルは手紙を読み、「完璧でございます。さすがはレイナール様」と、褒めた。彼女は仕事の途中だったようで、すぐに出ていく。

「じゃあ、全部この調子で終わらせよう」

 何十通もあった手紙の返事に取りかかったレイナールを見届けて、カールはそっと、この場を離れた。執事の彼も、多数の仕事を抱えている。

 レイナールが最後の手紙を書き終え、ふぅ、と一息を入れた頃には、もう昼食の時間はとっくに過ぎていた。凝り固まった肩や背中を伸ばしてほぐししていると、すっとタイミングよく、カップが差し出される。

 カールだった。

「ありがとう。あとは、ジョシュア様にサインだけしてもらって……」

 途中で言葉が途切れたのは、視界に入ったカールが、深々と頭を下げていたせいだった。

 彼は、慇懃無礼とはこのことか、と苦笑してしまうほど、レイナールに冷たかった。丁寧な対応は崩さないが、浮かぶのは微笑みではなくて冷笑だった。アンディたちが話しかけても、「ふん」と、そっぽを向くような男だから、そういう性格なのだと諦めていた。

 頭を上げてほしいと言って、ようやくカールは、レイナールと向き直った。目が合うのはいたたまれない様子で、視線を足下に落としている。

「今回、私では、ジョシュア様のお役に立てませんでした」

 カールは非常に言いにくそうに、自らの出自について語った。

 高位貴族の家で働くには、身元の保証が必要だ。下働きの人間であっても、紹介状を携えていなければ、門前払いを食らう。執事や侍女など、上級の職に就けるのは、領地を持たない下位貴族か、準男爵とも呼ばれる軍人や官僚の家系、最低でも裕福な町人の子弟でなければならない。そもそも職務の補助をしたり、家政を取り仕切るための知識は、ある程度の身分の家でないと、身につかない。

「私には、学がないもので」

 カールは、捨て子だった。神殿の前に捨てられ、そのまま孤児院に収容された。当然、幸福とは言えない幼年時代を過ごしてきた彼は、荒れていた。孤児院を飛び出して、路上で生活するようになったときには、人殺し以外なら、なんでもやる覚悟だった。

 現在のカールから、そんな荒んだ暮らしは想像がつかなかった。四角四面で、自分にも他人にも厳しい彼の姿を見ると、自分もしゃんとしなければならないと、レイナールは背筋が伸びる思いがした。

「いよいよ食べるものに困ったときに、馬車の前に飛び出したんです。いわゆる、当たり屋というやつですね」

 レイナールの語彙の中にはない単語だったが、なんとなく意味合いはわかる。馬車にわざと当たって、慰謝料や治療費をせしめる詐欺であろう。

「その馬車に乗っていたのが……」
「そうです。ジョシュア様でした」

 当時、ジョシュアも十歳ほどで、カールはもっと幼かった。今のリザベラよりも年下の男の子が、路上で生活し、騙し騙され、露店で食べ物を盗んで命を繋いでいたのだ。

 想像しただけで、レイナールの目には、涙が滲む。

「ジョシュア様は、ああいうお方なので」

 しっかりしているように見えて、天然を発揮する。無愛想に見えて、情に深い。

 レイナールだけではなく、退役して途方に暮れるアンディを引き受けた。そして、カールのことも救い上げていたのだ。

 御者は警邏隊にカールのことを引き渡そうとしたが、ジョシュアは「なぜ? 馬車で轢きかけたのはこちらだろう?」と、疑問を挟んだ。大人がいくら、わざと馬車に轢かれようとしたのだと言っても、彼は聞かなかった。

『死んでしまう可能性が高いのに、わざと轢かれる? なぜ? 僕にはこの子が、そんな馬鹿には見えない』

 孤児院では、年長の子どもはおろか、世話役の大人たちからも「馬鹿だ馬鹿だ」と見下されていたカールは、自分を「馬鹿じゃない」と言い切ったジョシュアに、興味を抱いた。そして彼の手を取ったその瞬間に、運命が変わった。

 金持ち貴族のお坊ちゃん相手だと侮って、悪さばかりしていたカールは、当時まだ現役であったアルバートやジョシュアの両親(特に母)に、悪事の度に鉄拳制裁を食らっていた。

 何よりも、ジョシュアが根気強く、カールにあれこれと教えてくれた。時には、カールが教えることもあった。軍に入る前に、ジョシュアが食べられる野草についての知識を得ていたのは、野宿生活をしていたカールのおかげだったという。

 浮浪者の子どもを庭で遊ばせて、侯爵家の跡取り息子が草を食べている。

 グェイン家も落ちたものだと、社交の場に行く度に、馬鹿にされていることを、カールも風の噂で知っていた。愛情深く、忍耐強く教育を授けてくれたグェイン家の人たちが馬鹿にされるのは、嫌だった。
「だから、必死になって教養を身につけました。仕事をするなら紹介すると、アルバート様には言われましたが、私はここで、グェイン家の方々に恩返しをしたいと思いました」

 今年になってから、タウンハウスの執事を任されるようになったが、グェイン家の役割上、領地の方が重要なため、若輩者でもなんとか務まっていると自嘲した。アンディもマリベルも、あれで仕事ができるから、実際助けてもらっているのはカールの方だなのだという。

「返礼の手紙を代筆するには……私は悪筆なもので。それに、貴族らしい言葉選びなどは身につきません。私が代筆して、グェインの名にきずがついては困ります」

 自虐に唇を歪めたカールは、悔しそうだった。自分ひとりの力でどうにかしようと思っていたのに、というのがありありと見えた。

 レイナールは首を横に振る。

 自分の方こそ、お荷物でしかないのだ。カールはジョシュアの弟分として、執事として立派にやっている。

「私もジョシュア様に恩返しをしたいと思っているんだ。だから、カールの力になれたのが、嬉しい」

 微笑んで彼の手を取れば、カールもぎこちなく、笑みを返してくれる。

「また、何かあればお願いしても?」
「もちろん!」

 ようやくグェイン家の一員に迎え入れられた気がして、レイナールは嬉しかった。
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