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結局、レイナールがジョシュアと再び顔を合わせたのは、三日後のことであった。
目の下に隈をつくり、表情は一層険しい。疲労がそうさせるのか、それとも仕事で気に入らないことがあったのか、レイナールは尋ねようとしたが、彼はすぐに自室に籠もってしまい、話しかける隙がなかった。
以降もジョシュアは夜遅くに帰宅し、朝早くに出て行く。レイナールと顔を合わせることがほとんどなく、彼の本心を知る機会は、なかなか訪れそうにない。
グェインの家にとって、レイナールは国王から押しつけられた厄介者だ。料理長のアンディや侍女のマリベルが、親しげに接してくれるから忘れがちだが、カールの冷たい目にさらされると、自分の立場を思い出す。
もしも本当に邪魔なら、当初の予定どおり出家しよう。王家との繋がりを切るわけにはいかなかったヴァイスブルム時代とは違い、こちらは俗世との関わりを完全に断ち切ることができる。戒律の厳しい神殿であろうがなんだろうが、とにかく王都から離れた場所に移るべきだ。
そのうち、ジョシュアとゆっくり話ができるようになったら、まずは彼が自分のことをどう思っているのかを聞いて、身の処し方を相談しよう。
早いに越したことはないのだが、自分からジョシュアの生活時間に合わせて行動に移す気にならないのは、グェイン邸の居心地がよいからだった。
グェイン家に働きにくる女たちは、みんなお喋りだ。洗濯物を干しているときの高い笑い声は、レイナールのこれまでの生活にはなかった。神殿は男女に分かたれており、働く人間もまた、男に限られていた。
特にマリベルは、レイナールが「あなたと似た響きの名前の義妹がいるんだ」と、リザベラの話をすると、「おいたわしい!」と、おいおい泣きながら聞いてくれた。
彼女だって侯爵家に仕えるくらいなのだから、貴族の家の出であろうに、感情の起伏が激しいのは、少女めいていて、ますますリザベラのことを思い起こさせた。
料理長のアンディは、レイナールの手足が細いことを心配して、毎食の感想を聞きにくる。苦手な食材であっても、調理法を工夫して食べさせようとする彼は、レイナールにもジョシュアと同様に、ざっくばらんな口調だ。
予想していたとおり、彼はジョシュアの元同僚、つまりは軍人だった。同期に入隊し、親友なのだと話をしてくれた。訓練中の事故で大怪我をして、軍にはいられず、かといって頼る身寄りのないアンディを、ジョシュアは料理人として雇い入れた。
「あの頃は、料理なんてひとつもできなかったのにな」
とんでもないもんを作っても、あいつは黙って完食しやがるんだ。
そう笑って話をしてくれた。
彼らの語るジョシュアは、無表情の強面だが、悪い人ではない。しかし、レイナールが直接彼の人となりを知るには、彼との時間が少なすぎる。
マリベルやアンディに、主人のことを聞くのが日課になっていた。今日も、午後のお茶の準備をしているふたりを捕まえて、一緒にテーブルを囲んでいる。
「ジョシュア様は、私のことを鬱陶しいお荷物だと思っていないだろうか」
割と深刻な顔をしての相談は、ふたりに笑い飛ばされた。ないない、と手を横に振って否定される。
「でも、ジョシュア様は私と話をしたくないようにしか……」
「ないない。死んでもない」
「むしろ坊ちゃまは……」
マリベルの打ち明け話は、カールの「ふたりとも、自分の仕事を終わらせてから遊んでくださいね」という圧によってかき消されてしまった。三人のうちで一番若いのもカールだが、一番威張っているのもカールだ。舌を出したアンディが、焼き菓子をひとつつまんだまま厨房へ戻り、マリベルも会釈をしてそそくさと去って行く。
「まったく……」
呆れて肩から力を抜いたカールとふたりきりで残されるのは、気まずかった。レイナールは名目上はジョシュアの妻だから、彼よりも立場は上のはずだ。なのに、カールに厳しい目を向けられると、途端に萎縮してしまう。
架空の物語に出てくる、嫁をいじめる姑のようだ。
「何か他にもご用ですか?」
レイナールは首を横に振った。頭の中で姑扱いしていたことを知られたら、何を言われるか、わかったものじゃない。感情を隠すのは貴族らしく得意だったが、あの無表情の最高峰であるジョシュアに仕えている執事だ。レイナール程度なら、何を考えているのかすぐに察知してしまうだろう。
レイナールはダイニングから脱出した。ぐずぐずせず、ふたりと一緒に逃げればよかった。
「さて……」
家の中で何をしようとも構わないと言われているが、自由を与えられると、右往左往してしまう性質だ。本を読んで、ボルカノ王国やグェイン侯爵家について調べたりするにも限度がある。読書は嫌いではないが、それよりもレイナールには、好きなことがあった。
自然と早足になり、廊下を渡って屋敷の裏口へ。外に出て、深まる秋の空気を吸い込むと、華やかな甘い香りが胸を満たした。秋咲きの薔薇は好きだ。初夏に咲くものよりも、色も香も、深みがある気がする。
侯爵家の屋敷としては狭いが、その分、庭は広い。前の侯爵様のご趣味ですよ、とマリベルが教えてくれた。ジョシュアの両親は、爵位を引き継ぐ前に亡くなってしまったので、前侯爵といえば彼の祖父のことだ。
庭園を一周すると、どれだけ考えて設計されているのかがよくわかり、感動した。
ボルカノの気風として、とにかく豪華に盛っていくのがよいとされているのは、王宮の統一性のない装飾品を見ればよくわかった。だから当然、一般的には庭園も、とにかく高くて大輪の花が咲く品種のみをごちゃごちゃと配置するのが、この国の伝統だ。
グェインのタウンハウスの庭は、違う。季節の花を一カ所に集めるのではなく、点在させることによって、四季折々で偏らず、季節の移り変わりを、景観で感じられるように工夫されている。
今は秋の花が咲いているが、これから冬になると、針葉樹の緑に雪がうっすらと積もる幻想的な光景が見られるそうだ。春は春、夏は夏でまた別の庭を楽しむことができると思うと、レイナールは少なくとも、季節を一巡するまでは、グェイン邸で厄介になりたいと思ってしまう。
「サム爺?」
船旅を続けて、元気がなくなった雪割草の鉢を抱えて困っていたレイナールを、たまたま通りかかったアンディが、庭師のサムに紹介してくれた。
ヴァイスブルムの実家にいた庭師と同じで、サムも人間よりも植物を愛し、その言葉を理解しているような男だった。
すでに老境にさしかかっているが、体格がよく、レイナールが手伝いを申し出ても、首を横に振る。自分の使う農具を人任せに、まして家に来たばかりの細腕の若造に任せることはできないという、かなり責任感の強い人物であった。
そんなサムの姿が見えない。自然が相手だから、一日たりとも休んだりしない。休まなければならないときは、本当は気が進まないが、弟子を派遣するという話だったのに。
なんだか嫌な予感がして、レイナールは庭中を歩き回った。サムの名前を呼びながら歩いていると、呻き声が微かに聞こえた。
ハッとして、声の主を探す。
「サム爺!」
小さな小屋の前で、サムは倒れ込んで唸っていた。傍には車輪のついた荷台が倒れている。中に入れていたジョウロやスコップなども散らばっていた。
パクパクと動く口元に耳を寄せると、「腰が、腰が……」と言っている。必要な農具を入れた状態で持ち上げ、腰に衝撃が走ったらしい。
ひとまずサムを家の中に運んで、医者を呼んでもらわなければ。
レイナールは庭師の身体を支え、屋敷に運ぼうとしたけれど、体格が違いすぎた。老人とは思えない筋肉の重さに、彼もまた、退役軍人なのかもしれないと思った。非力なレイナールには、運ぶことができない。少し持ち上がったものの、腰に刺激があったようで、サムは呻いた。
「だ、誰か……! 助けて!」
本当なら走って母屋に行き、アンディを連れてくるのが正解だった。しかし頭が混乱し、痛みに喘ぐサムをこの場に置いていくことができず、レイナールは声を張り上げた。
「誰か!」
呼び声に応えたのは、サムやカールではなかった。まして、ジョシュアではない。
「何があった?」
後ろから声をかけられ、恐る恐る振り返ると、そこにいたのは老紳士であった。屋敷で見たことのない人物だったが、身なりは立派だし、何よりも庭にいきなり現れたあたり、グェイン家の関係者なのは間違いない。
レイナールはためらいがちに、
「庭師のサム爺が、腰を痛めたみたいで……」
そう言うと、彼はガハハと豪快に笑った。
「なんだ、サム。ぎっくり腰か? お前も寄る年波には勝てないようだのう」
親しげに語りかける紳士に、サムは名前を呼びかけようとしているのだろうが、口からは苦しい息しか出てこない。
「ふむふむ。抱き上げて連れていってほしい、とな?」
たぶん、そんなことは言ってないんじゃないかと思う。
レイナールがサムをフォローする隙もなく、紳士は庭師の身体をひょいと抱き上げた。演劇のフィナーレで、幸せなエンディングを迎えた恋人同士、男が女を抱き上げて一回転するときにしか見たことがない。
筋肉だるまのサムを軽々と持ち上げることのできる、この紳士は何者なのだろう。ひょいひょいと歩き、屋敷に勝手知ったるとばかり入っていこうとする。
唖然としていたレイナールは、我に返って彼のあとを小走りに追う。先回りをして、扉を開けた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「いいえ……」
少し高いところから見下ろす顔は、会ったことはないけれど、見たことはあった。屋敷に飾ってある、肖像画だ。
もしかして。
レイナールが自分の中に浮かんだ名前と答え合わせをしようとした瞬間、カールの叫び声が、先に教えてくれた。彼の手には、手紙が握られている。
「アルバート様! ずいぶんとお早いお着きで……」
やはり、アルバート・グェイン。
逞しい体躯の老紳士は、にやりと笑った。
「手紙を出すのと同時に、わしも向こうを出発したからな」
彼は、ジョシュアの祖父で、前の侯爵だった。
目の下に隈をつくり、表情は一層険しい。疲労がそうさせるのか、それとも仕事で気に入らないことがあったのか、レイナールは尋ねようとしたが、彼はすぐに自室に籠もってしまい、話しかける隙がなかった。
以降もジョシュアは夜遅くに帰宅し、朝早くに出て行く。レイナールと顔を合わせることがほとんどなく、彼の本心を知る機会は、なかなか訪れそうにない。
グェインの家にとって、レイナールは国王から押しつけられた厄介者だ。料理長のアンディや侍女のマリベルが、親しげに接してくれるから忘れがちだが、カールの冷たい目にさらされると、自分の立場を思い出す。
もしも本当に邪魔なら、当初の予定どおり出家しよう。王家との繋がりを切るわけにはいかなかったヴァイスブルム時代とは違い、こちらは俗世との関わりを完全に断ち切ることができる。戒律の厳しい神殿であろうがなんだろうが、とにかく王都から離れた場所に移るべきだ。
そのうち、ジョシュアとゆっくり話ができるようになったら、まずは彼が自分のことをどう思っているのかを聞いて、身の処し方を相談しよう。
早いに越したことはないのだが、自分からジョシュアの生活時間に合わせて行動に移す気にならないのは、グェイン邸の居心地がよいからだった。
グェイン家に働きにくる女たちは、みんなお喋りだ。洗濯物を干しているときの高い笑い声は、レイナールのこれまでの生活にはなかった。神殿は男女に分かたれており、働く人間もまた、男に限られていた。
特にマリベルは、レイナールが「あなたと似た響きの名前の義妹がいるんだ」と、リザベラの話をすると、「おいたわしい!」と、おいおい泣きながら聞いてくれた。
彼女だって侯爵家に仕えるくらいなのだから、貴族の家の出であろうに、感情の起伏が激しいのは、少女めいていて、ますますリザベラのことを思い起こさせた。
料理長のアンディは、レイナールの手足が細いことを心配して、毎食の感想を聞きにくる。苦手な食材であっても、調理法を工夫して食べさせようとする彼は、レイナールにもジョシュアと同様に、ざっくばらんな口調だ。
予想していたとおり、彼はジョシュアの元同僚、つまりは軍人だった。同期に入隊し、親友なのだと話をしてくれた。訓練中の事故で大怪我をして、軍にはいられず、かといって頼る身寄りのないアンディを、ジョシュアは料理人として雇い入れた。
「あの頃は、料理なんてひとつもできなかったのにな」
とんでもないもんを作っても、あいつは黙って完食しやがるんだ。
そう笑って話をしてくれた。
彼らの語るジョシュアは、無表情の強面だが、悪い人ではない。しかし、レイナールが直接彼の人となりを知るには、彼との時間が少なすぎる。
マリベルやアンディに、主人のことを聞くのが日課になっていた。今日も、午後のお茶の準備をしているふたりを捕まえて、一緒にテーブルを囲んでいる。
「ジョシュア様は、私のことを鬱陶しいお荷物だと思っていないだろうか」
割と深刻な顔をしての相談は、ふたりに笑い飛ばされた。ないない、と手を横に振って否定される。
「でも、ジョシュア様は私と話をしたくないようにしか……」
「ないない。死んでもない」
「むしろ坊ちゃまは……」
マリベルの打ち明け話は、カールの「ふたりとも、自分の仕事を終わらせてから遊んでくださいね」という圧によってかき消されてしまった。三人のうちで一番若いのもカールだが、一番威張っているのもカールだ。舌を出したアンディが、焼き菓子をひとつつまんだまま厨房へ戻り、マリベルも会釈をしてそそくさと去って行く。
「まったく……」
呆れて肩から力を抜いたカールとふたりきりで残されるのは、気まずかった。レイナールは名目上はジョシュアの妻だから、彼よりも立場は上のはずだ。なのに、カールに厳しい目を向けられると、途端に萎縮してしまう。
架空の物語に出てくる、嫁をいじめる姑のようだ。
「何か他にもご用ですか?」
レイナールは首を横に振った。頭の中で姑扱いしていたことを知られたら、何を言われるか、わかったものじゃない。感情を隠すのは貴族らしく得意だったが、あの無表情の最高峰であるジョシュアに仕えている執事だ。レイナール程度なら、何を考えているのかすぐに察知してしまうだろう。
レイナールはダイニングから脱出した。ぐずぐずせず、ふたりと一緒に逃げればよかった。
「さて……」
家の中で何をしようとも構わないと言われているが、自由を与えられると、右往左往してしまう性質だ。本を読んで、ボルカノ王国やグェイン侯爵家について調べたりするにも限度がある。読書は嫌いではないが、それよりもレイナールには、好きなことがあった。
自然と早足になり、廊下を渡って屋敷の裏口へ。外に出て、深まる秋の空気を吸い込むと、華やかな甘い香りが胸を満たした。秋咲きの薔薇は好きだ。初夏に咲くものよりも、色も香も、深みがある気がする。
侯爵家の屋敷としては狭いが、その分、庭は広い。前の侯爵様のご趣味ですよ、とマリベルが教えてくれた。ジョシュアの両親は、爵位を引き継ぐ前に亡くなってしまったので、前侯爵といえば彼の祖父のことだ。
庭園を一周すると、どれだけ考えて設計されているのかがよくわかり、感動した。
ボルカノの気風として、とにかく豪華に盛っていくのがよいとされているのは、王宮の統一性のない装飾品を見ればよくわかった。だから当然、一般的には庭園も、とにかく高くて大輪の花が咲く品種のみをごちゃごちゃと配置するのが、この国の伝統だ。
グェインのタウンハウスの庭は、違う。季節の花を一カ所に集めるのではなく、点在させることによって、四季折々で偏らず、季節の移り変わりを、景観で感じられるように工夫されている。
今は秋の花が咲いているが、これから冬になると、針葉樹の緑に雪がうっすらと積もる幻想的な光景が見られるそうだ。春は春、夏は夏でまた別の庭を楽しむことができると思うと、レイナールは少なくとも、季節を一巡するまでは、グェイン邸で厄介になりたいと思ってしまう。
「サム爺?」
船旅を続けて、元気がなくなった雪割草の鉢を抱えて困っていたレイナールを、たまたま通りかかったアンディが、庭師のサムに紹介してくれた。
ヴァイスブルムの実家にいた庭師と同じで、サムも人間よりも植物を愛し、その言葉を理解しているような男だった。
すでに老境にさしかかっているが、体格がよく、レイナールが手伝いを申し出ても、首を横に振る。自分の使う農具を人任せに、まして家に来たばかりの細腕の若造に任せることはできないという、かなり責任感の強い人物であった。
そんなサムの姿が見えない。自然が相手だから、一日たりとも休んだりしない。休まなければならないときは、本当は気が進まないが、弟子を派遣するという話だったのに。
なんだか嫌な予感がして、レイナールは庭中を歩き回った。サムの名前を呼びながら歩いていると、呻き声が微かに聞こえた。
ハッとして、声の主を探す。
「サム爺!」
小さな小屋の前で、サムは倒れ込んで唸っていた。傍には車輪のついた荷台が倒れている。中に入れていたジョウロやスコップなども散らばっていた。
パクパクと動く口元に耳を寄せると、「腰が、腰が……」と言っている。必要な農具を入れた状態で持ち上げ、腰に衝撃が走ったらしい。
ひとまずサムを家の中に運んで、医者を呼んでもらわなければ。
レイナールは庭師の身体を支え、屋敷に運ぼうとしたけれど、体格が違いすぎた。老人とは思えない筋肉の重さに、彼もまた、退役軍人なのかもしれないと思った。非力なレイナールには、運ぶことができない。少し持ち上がったものの、腰に刺激があったようで、サムは呻いた。
「だ、誰か……! 助けて!」
本当なら走って母屋に行き、アンディを連れてくるのが正解だった。しかし頭が混乱し、痛みに喘ぐサムをこの場に置いていくことができず、レイナールは声を張り上げた。
「誰か!」
呼び声に応えたのは、サムやカールではなかった。まして、ジョシュアではない。
「何があった?」
後ろから声をかけられ、恐る恐る振り返ると、そこにいたのは老紳士であった。屋敷で見たことのない人物だったが、身なりは立派だし、何よりも庭にいきなり現れたあたり、グェイン家の関係者なのは間違いない。
レイナールはためらいがちに、
「庭師のサム爺が、腰を痛めたみたいで……」
そう言うと、彼はガハハと豪快に笑った。
「なんだ、サム。ぎっくり腰か? お前も寄る年波には勝てないようだのう」
親しげに語りかける紳士に、サムは名前を呼びかけようとしているのだろうが、口からは苦しい息しか出てこない。
「ふむふむ。抱き上げて連れていってほしい、とな?」
たぶん、そんなことは言ってないんじゃないかと思う。
レイナールがサムをフォローする隙もなく、紳士は庭師の身体をひょいと抱き上げた。演劇のフィナーレで、幸せなエンディングを迎えた恋人同士、男が女を抱き上げて一回転するときにしか見たことがない。
筋肉だるまのサムを軽々と持ち上げることのできる、この紳士は何者なのだろう。ひょいひょいと歩き、屋敷に勝手知ったるとばかり入っていこうとする。
唖然としていたレイナールは、我に返って彼のあとを小走りに追う。先回りをして、扉を開けた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「いいえ……」
少し高いところから見下ろす顔は、会ったことはないけれど、見たことはあった。屋敷に飾ってある、肖像画だ。
もしかして。
レイナールが自分の中に浮かんだ名前と答え合わせをしようとした瞬間、カールの叫び声が、先に教えてくれた。彼の手には、手紙が握られている。
「アルバート様! ずいぶんとお早いお着きで……」
やはり、アルバート・グェイン。
逞しい体躯の老紳士は、にやりと笑った。
「手紙を出すのと同時に、わしも向こうを出発したからな」
彼は、ジョシュアの祖父で、前の侯爵だった。
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