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第五章 隣人
隣人(5)
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「メールでいただいた質問でも、優さんが誰か女性と同棲していたとあったので、確認をしました。優さんは特定の女性と交際していた事実はありません。そもそも……」
弁護士は少し言いづらそうにしていて、ほんの一瞬だが言葉に詰まる。
それでも、咳払いをした後、続ける。
「優さんは女性とお付き合いしたことがありません。一切女性経験のない独身男性が、女性と同棲なんてありえないです」
「————では、どなたか親戚の方は?」
それまで一言も喋らずに黙っていた私の口は、勝手に言葉を紡いでいた。
兄に異常な行為を寄せていたこの会社の会長の孫娘の可能性だ。
兄がこの会社の元社員であることや、辞めた原因がその孫娘のせいであることぐらい、把握しているはず。
もしも、その人が自分の親戚が住んでいる部屋の隣に兄が住んでいることを知ったら……
今まで見てきた兄に対してそういう感情を抱く女性たちの行動を考えると、私としてはそれが一番妥当な考えだった。
「……お嬢さん、それは、誰のことを言っているのかな?」
「誰って、それは専務さんが一番ご存知なのではないですか? 兄がこの会社の元社員で、どうして辞めたのか、あなたが知らないはずないですよね?」
「……」
音成専務はしばらく何も言わずに黙ったあと、大きなため息を吐いてから私をじっと見つめる。
「お兄さんから直接聞いたのかい?」
「いえ、人伝いです。でも、兄がこの会社で受けた被害は事実ですよね?」
「人伝いか。誰にも話さないという条件で、慰謝料を払ったはずだが……まぁ、いい。本人はもう亡くなってしまっているし……————確かに、問題を起こしたあの子と優は親戚だ。どちらも会長の孫。息子とはイトコということになる」
「専務、その話は……!」
「いいんだ。このお嬢さんは何か誤解をしているようだし、はっきりと言おう」
止めようとする弁護士にそう言って、音成専務は私に告げる。
「もし本当に優が誰か女性と同棲していたとしても、あの子だけはありえない。あの子————姫乃は、四年前から海外にいる。一度も日本には帰ってきていない。疑うなら渡航履歴を調べてもらって構わないよ」
「え……?」
「飛鳥くんのことは、私もよく覚えている。私も多くの人間と接してきたが、彼ほど綺麗な顔をした男性は見たことがない。芸能界にでも行けば大成功していただろうなと思ったくらいだ。『広告に出演者として出してみたらどうか』なんて会議で上がったこともあった」
音成専務の話によれば、兄は社内でも有名だった。
それと同時に、『姫乃お嬢様のお気に入り』としても。
出世コースどころか、玉の輿コースだと思われていた。
会長が溺愛している孫娘の姫乃さんは、自分のお気に入りが世間に知れることを嫌がったため、広告の話は無くなったそうだ。
しかも、兄と親しげに話している女性社員がいるようなら、その女性社員にはキツく当たり、何人も本社から地方の営業所へ左遷。もしくは辞職退職に追い込んでいたらしい。
「そのうち何かやらかすだろうと思っていたが、見事にやらかしてね……会長は姫乃を溺愛していたから、最初は部署異動と降格だけで済まされた。本人も二度としないと反省しているようだったからね。でも、我慢できなかった。『飛鳥くんが好きで好きで仕方がない。彼は私の運命の人だ。どうしても飛鳥くんと結婚したい』と子供のように泣いて喚いた。前はあんな子じゃなかったはずなんだが、飛鳥くんと出会ってから、まるで人が変わったようにおかしくなっていった。恋とはここまで人を変えてしまうのかと、私も驚いたよ。さすがにあの贈り物の件は会長が激怒してね。最初の不祥事が外部に漏れないようにと手を回していたところだったのに、わざわざ犯人が自分である決定的な証拠を残したんだ。更に状況が悪化してしまったからね」
その後、姫乃さんは徹底的に会長の管理下に置かれ、家から自由に出歩くことも禁止。
それでも何度か抜け出して、兄に会いに行こうとしていたらしい。
あまりにも酷いので、有名な精神科医に協力を仰ぎ、物理的に離すことにしたのだそうだ。
「あれだけ騒いでいたけれどね、今は日系アメリカ人の男と暮らしているよ。飛鳥くんが亡くなった日も、二人目の子供の出産時期と重なっている。だからね、本当に関係がないんだよ。優が偶然、飛鳥くんと隣人だった。それだけなんだ」
「それだけって……他にもあるでしょう!?」
自分の予想が外れたことはショックだった。
またいらぬ疑いをかけてしまったことは悪かったと思ったけれど、まだある。
音成専務は兄と音成さんが同級生であったことにも触れていない。
父親なら知っているはずだ。
それなのに、どうして頑なにただの隣人であったことを強調するのかわからなかった。
「音成さんは、兄とは高校で————」
そこまで言いかけた瞬間、役員室の電話が鳴る。
話は中断され、もう話せることはないからと、私たちは追い出されてしまった。
* * *
「陽菜さん、どういうことか説明してもらえますか?」
「どうって……」
「私の目的は、音成優さんが同棲していた相手を知ることでした。横田葵ではなく、その人が本当の犯人なのでないかと」
古住弁護士は怒っていた。私が余計なことを口走ったからだ。
というより、古住弁護士が知らない情報を話したから……というのが正しいかもしれない。
無理やり乗せられたエレベーターには私たち二人しか乗っていなくて、気まづい空気が流れる。
「飛鳥さんがこの会社で働いていたことは聞いていませんよ。どうして事前に話してくれなかったんですか?」
「それは……その……」
言えなかった。
古住弁護士自身が、兄と同級生であることを隠しているのではないかと、私に嘘をついているのではないかと疑っていたせいだなんて……
古住弁護士と写真に写っている古住みなみさんは別人だったとわかっていたのに————本当に申し申し訳ないと思ったのと、怒られているというこの空気に耐えかねて、私はわかっていることを全て話してしまおうと口を開く。
「実は……」
それと同時にエレベーターのドアも開いた。
一階についたのだ。
エレベーターを待っていた人と目が合う。
その瞬間、私はまるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。
ミモレ丈のワンピースを着た、長髪で妙に白い顔の人だった。
弁護士は少し言いづらそうにしていて、ほんの一瞬だが言葉に詰まる。
それでも、咳払いをした後、続ける。
「優さんは女性とお付き合いしたことがありません。一切女性経験のない独身男性が、女性と同棲なんてありえないです」
「————では、どなたか親戚の方は?」
それまで一言も喋らずに黙っていた私の口は、勝手に言葉を紡いでいた。
兄に異常な行為を寄せていたこの会社の会長の孫娘の可能性だ。
兄がこの会社の元社員であることや、辞めた原因がその孫娘のせいであることぐらい、把握しているはず。
もしも、その人が自分の親戚が住んでいる部屋の隣に兄が住んでいることを知ったら……
今まで見てきた兄に対してそういう感情を抱く女性たちの行動を考えると、私としてはそれが一番妥当な考えだった。
「……お嬢さん、それは、誰のことを言っているのかな?」
「誰って、それは専務さんが一番ご存知なのではないですか? 兄がこの会社の元社員で、どうして辞めたのか、あなたが知らないはずないですよね?」
「……」
音成専務はしばらく何も言わずに黙ったあと、大きなため息を吐いてから私をじっと見つめる。
「お兄さんから直接聞いたのかい?」
「いえ、人伝いです。でも、兄がこの会社で受けた被害は事実ですよね?」
「人伝いか。誰にも話さないという条件で、慰謝料を払ったはずだが……まぁ、いい。本人はもう亡くなってしまっているし……————確かに、問題を起こしたあの子と優は親戚だ。どちらも会長の孫。息子とはイトコということになる」
「専務、その話は……!」
「いいんだ。このお嬢さんは何か誤解をしているようだし、はっきりと言おう」
止めようとする弁護士にそう言って、音成専務は私に告げる。
「もし本当に優が誰か女性と同棲していたとしても、あの子だけはありえない。あの子————姫乃は、四年前から海外にいる。一度も日本には帰ってきていない。疑うなら渡航履歴を調べてもらって構わないよ」
「え……?」
「飛鳥くんのことは、私もよく覚えている。私も多くの人間と接してきたが、彼ほど綺麗な顔をした男性は見たことがない。芸能界にでも行けば大成功していただろうなと思ったくらいだ。『広告に出演者として出してみたらどうか』なんて会議で上がったこともあった」
音成専務の話によれば、兄は社内でも有名だった。
それと同時に、『姫乃お嬢様のお気に入り』としても。
出世コースどころか、玉の輿コースだと思われていた。
会長が溺愛している孫娘の姫乃さんは、自分のお気に入りが世間に知れることを嫌がったため、広告の話は無くなったそうだ。
しかも、兄と親しげに話している女性社員がいるようなら、その女性社員にはキツく当たり、何人も本社から地方の営業所へ左遷。もしくは辞職退職に追い込んでいたらしい。
「そのうち何かやらかすだろうと思っていたが、見事にやらかしてね……会長は姫乃を溺愛していたから、最初は部署異動と降格だけで済まされた。本人も二度としないと反省しているようだったからね。でも、我慢できなかった。『飛鳥くんが好きで好きで仕方がない。彼は私の運命の人だ。どうしても飛鳥くんと結婚したい』と子供のように泣いて喚いた。前はあんな子じゃなかったはずなんだが、飛鳥くんと出会ってから、まるで人が変わったようにおかしくなっていった。恋とはここまで人を変えてしまうのかと、私も驚いたよ。さすがにあの贈り物の件は会長が激怒してね。最初の不祥事が外部に漏れないようにと手を回していたところだったのに、わざわざ犯人が自分である決定的な証拠を残したんだ。更に状況が悪化してしまったからね」
その後、姫乃さんは徹底的に会長の管理下に置かれ、家から自由に出歩くことも禁止。
それでも何度か抜け出して、兄に会いに行こうとしていたらしい。
あまりにも酷いので、有名な精神科医に協力を仰ぎ、物理的に離すことにしたのだそうだ。
「あれだけ騒いでいたけれどね、今は日系アメリカ人の男と暮らしているよ。飛鳥くんが亡くなった日も、二人目の子供の出産時期と重なっている。だからね、本当に関係がないんだよ。優が偶然、飛鳥くんと隣人だった。それだけなんだ」
「それだけって……他にもあるでしょう!?」
自分の予想が外れたことはショックだった。
またいらぬ疑いをかけてしまったことは悪かったと思ったけれど、まだある。
音成専務は兄と音成さんが同級生であったことにも触れていない。
父親なら知っているはずだ。
それなのに、どうして頑なにただの隣人であったことを強調するのかわからなかった。
「音成さんは、兄とは高校で————」
そこまで言いかけた瞬間、役員室の電話が鳴る。
話は中断され、もう話せることはないからと、私たちは追い出されてしまった。
* * *
「陽菜さん、どういうことか説明してもらえますか?」
「どうって……」
「私の目的は、音成優さんが同棲していた相手を知ることでした。横田葵ではなく、その人が本当の犯人なのでないかと」
古住弁護士は怒っていた。私が余計なことを口走ったからだ。
というより、古住弁護士が知らない情報を話したから……というのが正しいかもしれない。
無理やり乗せられたエレベーターには私たち二人しか乗っていなくて、気まづい空気が流れる。
「飛鳥さんがこの会社で働いていたことは聞いていませんよ。どうして事前に話してくれなかったんですか?」
「それは……その……」
言えなかった。
古住弁護士自身が、兄と同級生であることを隠しているのではないかと、私に嘘をついているのではないかと疑っていたせいだなんて……
古住弁護士と写真に写っている古住みなみさんは別人だったとわかっていたのに————本当に申し申し訳ないと思ったのと、怒られているというこの空気に耐えかねて、私はわかっていることを全て話してしまおうと口を開く。
「実は……」
それと同時にエレベーターのドアも開いた。
一階についたのだ。
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その瞬間、私はまるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。
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