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第五章 隣人
隣人(2)
しおりを挟む「彼女の方に声をかけてみようとしたこともあったわ。音成くんが一人で出かけたのを見かけたらから、家に彼女がいるんじゃないかと思って、お裾分けを持ってね。でも、無視するのよ。無視」
向井さんは眉間に深いしわを寄せながら話を続ける。
「出て来やしないの。日中はほとんど家にいるはずなのに……町内会の清掃にだって顔を出しやしない。本当に腹が立ったわ。それからしばらくして、あの女が……横田葵が引っ越して来たわ。あの女が前に住んでいた部屋のオーナーが古い知り合いだったから入居させたけど、まさか飛鳥くんにあんなことをするなんて。やっぱり若い女なんて入れたのが間違いね。最近の若い子は本当に、愛想も何もない」
かなり怒っているようで、向井さんはバンっと一発テーブルを殴る。
冷たいお茶が花柄の可愛らしいグラスの中で波打った。
私はそれを見て少し怖いと思ってしまったが、古住弁護士は顔色一つ変えずにお茶を一口飲んで、少し外れてしまった話を戻す。
「ところで、その音成さんは事件の後、すぐに引っ越していかれたそうですが……」
「え? ああ、そうそう、音成くんの話だったわね。ごめんなさい、つい熱くなってしまって————事件が起こる少し前くらいから、どうも様子がおかしかったの。滅多に部屋から出てこなくなってしまってね、引っ越すって話は本当に急に決まったのよ。私も最初は隣の部屋で殺人事件が起きたせいだと思っていたんだけど、本人とは話していないの。もしかしたら他に理由があったんじゃないかとも思ってるけど」
「本人とは話していない?」
「ええ、家族だか親戚だか忘れたけど、とにかくいきなりよ。とても一人暮らしをさせられる状態じゃないからって……」
どうも音成さんは兄の事件が起こる以前から、職場でトラブルがあったらしく精神状態がおかしかったそうだ。
そこへあの事件が起きて、心配した家族が音成さんを無理やり病院に連れて行き、そのまま入院。
引っ越しは本人ではなく家族が手配したようで、引越し業者がその日のうちにやって来て、荷物を全て持って行ったらしい。
「まるで夜逃げするみたいに出て行ったわ。まだ入院しているか、今はご実家にいるんじゃないかしら?」
同棲していたはずの彼女の姿もそこにはなかった。二人の関係がまだ続いているかどうかはわからないそうだ。
「それにしても、音成くんの話なんて、あの女が死刑になるのに重要なの?」
「し、死刑?」
兄が死んだのだから、遺族としてはそう考えるのが妥当なのかもしれないが、他人の口からはっきりそう言われるのはなんだか妙な気持ちになった。
まるで、私以上に向井さんの方が犯人を恨んでいるように思える。
古住弁護士は向井さんに確実に有罪にするためだと話していたそうだが、死刑とまでは言っていないはず。
驚いて古住弁護士の方を見ると、やはり彼女はとても冷静に、話を先へ進める。
「確実に有罪とするために、周囲の方から見た横田葵についての証言が必要なんです。ですから、音成さんにもお話を聞きたいと思っているんですよ。ご実家はどの辺りか、ご存知ですか?」
「場所はわからないけど、お父様の名刺なら」
向井さんは立ち上がると、社さんからもらった名刺が入っていたあの小さな三つ引きタンスの方へ。
いくつか名刺を見比べて、そのうちの一枚を持って来た。
「引越しの時にね、置いていったのよ。長いこと住んでいたから、壁とか床とか、修繕が必要なところがあれば連絡してくださいって」
テーブルの上に置かれた名刺には、大手食品会社のロゴマーク。
それを見た瞬間、私は背筋が凍るという言葉の意味を身を以て体験する。
古住弁護士も、この時初めて驚いた表情をしていた。
「え、この会社の専務の息子さんなんですか? あそこって、確か一族経営でしたよね?」
「私もびっくりしたわ。お金になんて困ってないだろうに、自分で言うのもなんだけど、なんでうちのアパートに住んでたのかなって」
しかし、それは私と同じ理由ではない。
単純に、その会社があまりにも有名な大手食品会社で、その専務の息子があんな古いアパートの住人だったということに対しての驚きだった。
私は何も言えなかった。
そこは、兄が一番最初に就職した会社で、大変な目にあった会社だ。
私は兄が前職でストーカー被害にあった話はしたが、社名までは古住弁護士には話していない。
知らないのだから当然の反応だ。
兄はそこで会長の孫娘に気に入られ、パワハラとセクハラの両方にあったあげく、ストーカー行為まで……正直、関わりたくない。
でも、隣人である音成さんはこの会社と関わりがあった。
一族経営なら、音成さんは兄に好意を寄せていた孫娘とは親戚ということだろうか?
もう二度と兄には近づけないようにしっかり監視することを約束したと聞いているが、その約束を反故にしていたのではないか?
もしそうなら、音成さんの部屋にいたのは、彼女ではなくて親戚だったのではないだろうか?
それなら、音成さんが「同棲なんてしてません」と言ったのはそういうことだったのではないか?
もし、この仮説が正しければ、兄を殺した髪の長い女は、その女ではないか?
そうであれば、スーパーの男性店員が目撃した雨の日に店の外から兄を見ていた髪の長い女も————そんな考えが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
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