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第二章 恋と偏見
恋と偏見(2)
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私が小学四年生の頃、兄のせいでちょっとした騒動があった。
いや、正確には、兄に一方的に思いを寄せていた女のせいである。
その年、新任教師として赴任してきた彼女は、どの生徒にも分け隔てなく平等に接し、とても優しそうな人だった。
ところが、運動会の保護者席に兄の姿を見つけた途端、私に対する態度が明らかに急変した。
実は、兄と同じ中学の出身だったのだ。
これは後から知ったが、中学時代に彼女は大勢いた兄に思いを寄せている女子生徒のうちの一人だった。
彼女にとってのいわゆる初恋の相手だった兄と運命の再会をしたと思い込んだのだ。
彼女は、兄が仕事を休んでまで運動会に見にくるほど溺愛していた妹の私に取り入ることで、兄との仲を取り持ってもらおうとしていたのか、色々とやらかした。
私だけを明白に特別扱い。
毎日のように授業以外でも声をかけられ、兄のことを聞いてくるようになった。
なんの仕事をしているのか、恋人はいるのか、今どこに住んでいるのか、次はいつ帰ってくるのか————家庭訪問の時期でもないのに度々家に押しかけてきたこともあった。
明らかに行動がおかしいので、母が学校にクレームを入れると、なんと逆ギレした彼女は泣きながら再び家に押しかけてきて「飛鳥くんのことが好きだったんです。仕方がないじゃないですか。好きな人のことをもっと知りたいと思うのは、当然のことでしょう!?」そうわめき散らして、一人で大騒ぎ。
いつの間にか学校からいなくなっていた。
明らかな迷惑行為や法律に反するような行為であっても、「恋」を理由に正当化しようとする。
過去にも兄に対し、そういう自分の「恋愛」が最優先になってしまう女は他にもたくさんいたらしい。
私はまだ小さかったためはっきりとは覚えていなかったが、近所に住んでいたよく遊んでくれたお姉さんとか、通っていた保育園の先生だったり、同級生の姉妹や母親————とにかく、兄はそういう恋愛脳の人間から好意を寄せられることが多かった。
思い込んだら一直線という感じの、異常な危うさを持っているような人から好かれることが。
小さい頃にも、あまりの可愛さに何度か誘拐されそうになったこともあったそうだ。
今回も、それと同じ。
家近さんも、「恋」を理由に兄の個人情報を盗み見たのだ。
この調子だと、名前だけでなく電話番号も住所も把握しているだろう。
「飛鳥さんは、とても素敵な方で……いつも私がいる時間に来店してくださって、いつも私のいるレジの前に立つんです。背がすごく高くて、脚がモデルさんみたいに長くて、顔も、何もかも別次元。つい見惚れてしまうほどに綺麗な人で……性格もそう。他のお客様なんてお釣りを投げてきたり、仏頂面だったりで最悪なんですけど、飛鳥さんはいつも温厚で、たまに見せてくれる笑顔も、私が何か間違ってしまったりしても、焦らなくてもいいよって言ってくれて————」
兄のことを思い出しているのか、うっとりとした表情で家近さんは語り始めた。
兄が買ったおでんだとか、いつも夏になると苺味のアイスを必ず買っていったとか————初めて兄と出会ったという、台風の日のことから順に。
全部覚えているのが異常で気味が悪かったけれど、それが段々と終わりに近づくにつれて、家近さんの目には涙が浮かぶ。
「飛鳥さんも私のことが好きだったはずなのに、そういうことには奥手のようで中々告白してくれなくて……だから私、今度飛鳥さんが来たら、思いきって告白しようと思っていたんです。これは私の方から言った方がいいんじゃないかと、勇気を出そうと心に決めていたのですが————あの事件があって……」
兄が家近さんを好きだったかどうかは、本人がいないので今更わかりようもない。
だが、この様子だと家近さんの一方的な片思いであった確率の方が高い。
少なくとも私の前での兄は店員に対して横柄な態度をとるような人間では決してないし、人を急かしたり、すぐに怒ったりするようなことはない。
優しい人だった。
だからこそ、兄は私にとって自慢の兄だったのだ。
「あの女が、私から飛鳥さんを奪ったんです。飛鳥さんは、私の全てでした。それなのに……!」
家近さんは、悔しそうに親指のきりきり爪を噛む。きっと子供の頃からそういう癖がある人なのだろう。よく見れば親指以外の爪も不自然に歪んでいた。
「それじゃぁ容疑者の————横田葵のことも、知ってたんですか?」
「はい。名前までは知りませんでしたが、何度か買い物に来ていたのを覚えています。ニュースで顔写真を見てすぐに気づきましたし、警察の方が聞き込みに来たこともありました。事件当日のも私のシフトが入っていない時間にこの店に来ていたようでしたので、警察の方と一緒に防犯カメラの映像を確認しました。まさか隣に住んでいたなんて知りませんでしたけど、私はずっと前から、あの女は怪しいとは思っていたんです」
「怪しい……?」
「だって、いつも飛鳥さんの後ろをつけるように歩いていたんですもの。私は何度も目撃しています。この店でも、飛鳥さんが買っていかれたものと同じものを買っていくことが多かったです。初めはただの偶然かと思いましたが、改めてレジの履歴も確認してみると、まったく同じだったんです。私が知る限り七回はありました。きっと、悪質なストーカーだったんですよ」
あなたも同じようなものじゃないかと、思ったが、そんなこと口に出して言ってしまったら大変なことになる。
父も母も、きっと同じように思っていたはずだ。
一刻も早く、帰りたいと思っているのがなんとなくわかった。
「それじゃぁ、その……兄が他の誰かと、一緒に来ていたことはありませんか?」
私はとりあえず、最初に聞こうと思っていたことぐらいは聞いてから帰るべきだと話を切り替えた。
「え? 他の誰かと言いますと?」
「例えば、友人とか……近所ですし、誰かと一緒にいる兄を見たことはないかと思いまして」
流石に、部屋から見つかったTバックのことは話せなかった。これ以上変に刺激して、ややこしくなったら困る。
「うーん……そうですね……」
家近さんはしばらく目を閉じて考えた後、思い当たることがあったのか目をぱっと開いて言った。
「来店時は別々でしたけど、退店時に話しながら一緒に出て行った人なら……————二回ほど。飛鳥さんとは同じ年くらいに見えましたし、お友達だったのではないかと」
兄の顔ばかり見ていたので、はっきと顔は覚えていないそうだが、女性ではなく、男性だったそうだ。
いや、正確には、兄に一方的に思いを寄せていた女のせいである。
その年、新任教師として赴任してきた彼女は、どの生徒にも分け隔てなく平等に接し、とても優しそうな人だった。
ところが、運動会の保護者席に兄の姿を見つけた途端、私に対する態度が明らかに急変した。
実は、兄と同じ中学の出身だったのだ。
これは後から知ったが、中学時代に彼女は大勢いた兄に思いを寄せている女子生徒のうちの一人だった。
彼女にとってのいわゆる初恋の相手だった兄と運命の再会をしたと思い込んだのだ。
彼女は、兄が仕事を休んでまで運動会に見にくるほど溺愛していた妹の私に取り入ることで、兄との仲を取り持ってもらおうとしていたのか、色々とやらかした。
私だけを明白に特別扱い。
毎日のように授業以外でも声をかけられ、兄のことを聞いてくるようになった。
なんの仕事をしているのか、恋人はいるのか、今どこに住んでいるのか、次はいつ帰ってくるのか————家庭訪問の時期でもないのに度々家に押しかけてきたこともあった。
明らかに行動がおかしいので、母が学校にクレームを入れると、なんと逆ギレした彼女は泣きながら再び家に押しかけてきて「飛鳥くんのことが好きだったんです。仕方がないじゃないですか。好きな人のことをもっと知りたいと思うのは、当然のことでしょう!?」そうわめき散らして、一人で大騒ぎ。
いつの間にか学校からいなくなっていた。
明らかな迷惑行為や法律に反するような行為であっても、「恋」を理由に正当化しようとする。
過去にも兄に対し、そういう自分の「恋愛」が最優先になってしまう女は他にもたくさんいたらしい。
私はまだ小さかったためはっきりとは覚えていなかったが、近所に住んでいたよく遊んでくれたお姉さんとか、通っていた保育園の先生だったり、同級生の姉妹や母親————とにかく、兄はそういう恋愛脳の人間から好意を寄せられることが多かった。
思い込んだら一直線という感じの、異常な危うさを持っているような人から好かれることが。
小さい頃にも、あまりの可愛さに何度か誘拐されそうになったこともあったそうだ。
今回も、それと同じ。
家近さんも、「恋」を理由に兄の個人情報を盗み見たのだ。
この調子だと、名前だけでなく電話番号も住所も把握しているだろう。
「飛鳥さんは、とても素敵な方で……いつも私がいる時間に来店してくださって、いつも私のいるレジの前に立つんです。背がすごく高くて、脚がモデルさんみたいに長くて、顔も、何もかも別次元。つい見惚れてしまうほどに綺麗な人で……性格もそう。他のお客様なんてお釣りを投げてきたり、仏頂面だったりで最悪なんですけど、飛鳥さんはいつも温厚で、たまに見せてくれる笑顔も、私が何か間違ってしまったりしても、焦らなくてもいいよって言ってくれて————」
兄のことを思い出しているのか、うっとりとした表情で家近さんは語り始めた。
兄が買ったおでんだとか、いつも夏になると苺味のアイスを必ず買っていったとか————初めて兄と出会ったという、台風の日のことから順に。
全部覚えているのが異常で気味が悪かったけれど、それが段々と終わりに近づくにつれて、家近さんの目には涙が浮かぶ。
「飛鳥さんも私のことが好きだったはずなのに、そういうことには奥手のようで中々告白してくれなくて……だから私、今度飛鳥さんが来たら、思いきって告白しようと思っていたんです。これは私の方から言った方がいいんじゃないかと、勇気を出そうと心に決めていたのですが————あの事件があって……」
兄が家近さんを好きだったかどうかは、本人がいないので今更わかりようもない。
だが、この様子だと家近さんの一方的な片思いであった確率の方が高い。
少なくとも私の前での兄は店員に対して横柄な態度をとるような人間では決してないし、人を急かしたり、すぐに怒ったりするようなことはない。
優しい人だった。
だからこそ、兄は私にとって自慢の兄だったのだ。
「あの女が、私から飛鳥さんを奪ったんです。飛鳥さんは、私の全てでした。それなのに……!」
家近さんは、悔しそうに親指のきりきり爪を噛む。きっと子供の頃からそういう癖がある人なのだろう。よく見れば親指以外の爪も不自然に歪んでいた。
「それじゃぁ容疑者の————横田葵のことも、知ってたんですか?」
「はい。名前までは知りませんでしたが、何度か買い物に来ていたのを覚えています。ニュースで顔写真を見てすぐに気づきましたし、警察の方が聞き込みに来たこともありました。事件当日のも私のシフトが入っていない時間にこの店に来ていたようでしたので、警察の方と一緒に防犯カメラの映像を確認しました。まさか隣に住んでいたなんて知りませんでしたけど、私はずっと前から、あの女は怪しいとは思っていたんです」
「怪しい……?」
「だって、いつも飛鳥さんの後ろをつけるように歩いていたんですもの。私は何度も目撃しています。この店でも、飛鳥さんが買っていかれたものと同じものを買っていくことが多かったです。初めはただの偶然かと思いましたが、改めてレジの履歴も確認してみると、まったく同じだったんです。私が知る限り七回はありました。きっと、悪質なストーカーだったんですよ」
あなたも同じようなものじゃないかと、思ったが、そんなこと口に出して言ってしまったら大変なことになる。
父も母も、きっと同じように思っていたはずだ。
一刻も早く、帰りたいと思っているのがなんとなくわかった。
「それじゃぁ、その……兄が他の誰かと、一緒に来ていたことはありませんか?」
私はとりあえず、最初に聞こうと思っていたことぐらいは聞いてから帰るべきだと話を切り替えた。
「え? 他の誰かと言いますと?」
「例えば、友人とか……近所ですし、誰かと一緒にいる兄を見たことはないかと思いまして」
流石に、部屋から見つかったTバックのことは話せなかった。これ以上変に刺激して、ややこしくなったら困る。
「うーん……そうですね……」
家近さんはしばらく目を閉じて考えた後、思い当たることがあったのか目をぱっと開いて言った。
「来店時は別々でしたけど、退店時に話しながら一緒に出て行った人なら……————二回ほど。飛鳥さんとは同じ年くらいに見えましたし、お友達だったのではないかと」
兄の顔ばかり見ていたので、はっきと顔は覚えていないそうだが、女性ではなく、男性だったそうだ。
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