アート・オブ・テラー

星来香文子

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2 Coco

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 葉月が子猫を拾って来た。
 教え子が来るのを待っていた家庭教師の影山は、まさかの事態に唖然とする。
 いつも時間通りに部屋で待っている葉月。
 それが珍しくどこにもいないことに気づき、メイドの繭子が探しに行ってくれていたが、まさか子猫を連れて現れるとは思ってもいなかった。
 ずっと受験勉強のことしか考えていなかった葉月が、この日はその手のひらで隠れてしまいそうなほど小さな生物に夢中になっている。

「葉月お嬢様、とりあえずこちらに。何か病気でも持っていたら大変ですから……」
「大丈夫よ、自分でする。とにかく……温めてあげないと……お湯とタオル用意して」

 繭子は葉月の体に何かあってはならないと、土や泥、枯れ草にまみれた子猫をこちらに渡すように手を出すが、葉月は頑なに渡そうとしなかった。

「まだ子猫だね。すごく汚れているけど……どこで見つけたの?」
「ああ、先生いたんですね」
「いたんですねって……ひどいな、ずっと待っていたのに」

 なんだか葉月の様子がいつもと違う。
 いつもなら名前を呼べばすぐにこちらを見て、明らかに自分に好意をもっていると表情から読み取れていたのに……
 こんなことは、葉月の家庭教師となってから初めてのことだった。

 影山は自覚している。
 どうやら自分は女性にモテるらしい……と。
 そう自覚するには十分な出来事が、葉月の前に担当していた生徒の家で起きた。

 その生徒からも葉月と同じように自分に対して好意を向けられ、さらに、その母親からも同じように好意を向けられていた。
 一度その母親から生徒が帰宅するずっと前の時間を指定され、家に行くと母親と二人っきり。
 その上、体の関係を迫られたこともある。
 何度か誘われたが、年上の女性……それも人妻には全く興味のない影山は、全て断っていた。
 ところが、ある日今度はその生徒の方から誘って来た。
 母親と同じ顔だが、ずっと幼く若い中学生の子供だというのに、かなり積極的に……
 影山は決して自分からは手を出さなかったが、その生徒がしたいようにさせてやった。
 抵抗するのも面倒だったからだ。
 満足すれば終わるだろうと思っていた。

 生徒の手が影山の下半身を撫で始めたところで、その母親が止めに入る。
「大事な娘に手を出した」として、家庭教師をクビになった。
 男としてモテることは嬉しいが、何もしていない影山にとってそれは不名誉なこと。
 むしろ、影山の方が被害者だ。
 そんな理由で辞めたと知れ渡れば、誰も影山を家庭教師として雇ってはくれなくなる。
 そこで、影山は母親が自分を誘っていたことを娘や父親に暴露しない代わりに、とても優秀な家庭教師だったと評判を上げるように要求。

 そのおかげで、影山はこの二階堂家の家庭教師になれた。
 生粋のお嬢様である葉月は、あの家の娘とは違って自分に好意を抱いていても、あんな淫らな行為をしようとしてきたこともない。
 さすが、名家のお嬢様は違うと思った。
 大人しくて、あまり余計なことは喋らない。
 容姿は姉と比べると普通だが、影山の話をきちんと素直に聞いてくれるので、成績も順調に伸びている。
 このまま受験まで順調に進めばそれでいい。

 向けられた好意を利用して、成績を上げていく。
 ただそれだけのことだったのに、昨日まで向けられていたその好意が、今日はなんだか冷たく感じた。

「先生、獣医さんの知り合いとかいないですか?」

 葉月は、繭子が慌てて持ってきた暖かいお湯で子猫を洗いながら影山に尋ねる。
 この日の葉月の関心は、すべてその子猫に向けられていた。

「……さぁ、俺は動物を飼ったことがないし、動物は苦手でね。臭いし、汚いし、獣医学部とはキャンパスが違うから知り合いもいないよ。……それより、今日の授業はどうする?」
「授業……あぁ、別にいいです。先生、来てもらって悪いけど、今はそれどころじゃないの。この子がいた裏庭で……————あ、いや、なんでもないです」

 葉月は何かを言いかけたが、猫から視線をそらさずに続ける。

「今日は帰っていいです。お詫びにそこの引き出し……机の一番上の引き出しに入ってる箱、持って帰って」
「え……?」

 昨日の授業中、葉月がやけにチラチラと見ているなと思っていた引き出しを開けると青いリボンでラッピングされた箱が入っていた。

「先生、昨日誕生日だったでしょう? 渡すのを忘れていたんです」
「あ、あぁ、ありがとう」

 葉月の声は、やはりどこか冷たかった。
 明らかに昨日と今日で態度が違う。
 影山は何か葉月の機嫌を損ねるようなことをしただろうかと、小首を傾げながら考える。
 しかし何一つ思い当たらなかった。
 美月とのことは、うまく隠し通せていると思い込んでいるからだ。


「繭子さん」
「は、はい!! どうしました葉月お嬢様」
「乾かしたらすぐに病院に連れて行きましょう? うちの系列に動物病院ってあったかしら?」
「え、えーと……聞いてきます!」

 慌ただしく繭子が部屋を出て行き、影山もその後すぐに出て行った。
 一人と一匹になった葉月は、片手で猫を撫でながらもう片方の手をスカートのポケットに入れる。

 子猫の上にあった三角ネクタイを取り出して改めて広げると、刺繍の名前をもう一度確認する。
 いつから裏庭に落ちていたのか、見当もつかないがよく見るとセーラー服と同じように茶色いシミがついている。
 乾いた血が、赤い三角ネクタイについている。

「犯人は誰なんだろう…………ねぇ、あなたは知ってる?」

 葉月は子猫に尋ねる。

「にゃー」
「それに、あなたどこから来たの?」
「にゃー」

 しかし子猫は鳴くだけで、会話は成立しない。
 葉月はその後、子猫を連れて繭子と一緒に近所の動物病院へ向かった。
 病気や怪我は特に見つからなくて一安心だったが、病院から戻って来た時、母親の珠美と遭遇する。

 同じ家に住んでいるのに、会うのは約一ヶ月ぶりだった。
 ドラマの撮影で数日フランスに行っていたらしい。
 同行した所属事務所のマネージャーとスタッフたちは両手にいくつもの荷物を抱えて、それらを運ぶのを執事たちが手伝っている。
 ブランド物のバッグや靴、服など買い込んでくるのはいつものことだが、その量はいつもの倍あった。

「お母さ……」
「何よそれ……猫?」

 珠美は葉月の顔は一切見ずに、抱きかかえている猫に視線を向ける。

「飼うなら、あなたの部屋から出ないようにしてちょうだいね。私、猫は大嫌いなの」

 色の薄い大きなサングラスを外して、執事に持たせると玄関で頭を下げて待っている薫に珠美は尋ねる。

「美月とレオンは?」
「————お出かけになっております」
「なーんだ、せっかくあの子に似合う服を用意したのに……部屋に運んで置いてちょうだい」
「はい、かしこまりました」
「それと、夕食は私の部屋に運んで。ちゃんと日本食を用意してあるわよね?」
「はい、もちろんでございます」
「あ……それから、帰って来たらレオンに私の部屋に来るよう言っておいて」
「はい、かしこまりました」

 珠美は颯爽と自分の部屋へ向かう。
 葉月の顔を数秒も見ることはない。

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