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第2章 琥珀哀歌
第3話 南面官
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契丹は統治機構が二重構造となっており、すなわち漢人および渤海人を漢制に従って統治する南面官、そして契丹族の伝統的な制度に従って契丹人などを統治する北面官に分かれている。
南面官の官署は皇帝の牙帳の北にあり、今しも王循が上官の楊勉を相手に熱弁を振るっているところだった。
「宋と我が国の貿易は榷場での取引で管理されているというのに、密貿易が絶えぬと聞きます。両国の互いの権益を損ない、よこしまな者が私腹を肥やす一方、規範を守る商人が馬鹿を見ることになっているのです」
傍らで同僚の長広舌を聞きながら、半ばぼんやりと立っていた李朝慶ではあったが、次の言葉に耳がぴんとなった。
「一昨日、民家で契丹人の武官が三人、斬られていたというではありませんか。調べさせたところ、みな密貿易に関わっていたとの由。北面から報告も回ってきております」
「それはわかっている。だが、その事件は契丹人が関わっているゆえ、我らとしても慎重に事を運ばねばなるまい。北枢密院の出方もあろう」
――やはり、な。あの覆面の男たちが言っていた通りだった。そういえば、斬られたのは『後家さん』も同じだったはずだが……。
「さしあたり、榷場の管理をより強化することが第一歩だ。密貿易の摘発も重要だが……李はどう思う?」
突然に話を振られて目をしばたたいた李だったが、恭しく一礼した。
「榷場での宋との取引は、このところ順調に、品目や取引高の値を伸ばしております。密貿易に関しては、国境は長うございます。すべての国境を見張ることはできませんが、入境して市場に流れるところを押さえ、出どころをたどれば……」
「以前よりその取り締まりをやってはいるが、密貿易は増える一方で……」
楊のぼやきに、李朝慶は数年前に亡くなった、ある人物を思い出した。いつも微笑みを浮かべていて、ひそやかに歩き、話し、そして智謀を巡らせ、並ぶもののない敏腕ぶりを発揮していた功臣。亡き父の親友だった方。
――朝慶。そなたはいまだに契丹が憎いか。契丹の都に住み、契丹に仕えながらなおも……。
――韓丞相、奴らは我が両親の仇です、どうして憎まずにはおれましょう。ですが、悲しいかな。私はただの一人の官人。「蟷螂之斧」のごとく、強大な仇を前になすすべもありません。
――ふふふ、では朝慶はわしも憎いか。契丹に仕えてその国勢を盛り立て、あまつさえ、太后さまの情人でもあった私を。
――……いえ、そんな。
――わしの寿命はもう長くない、ゆえにそなたには、契丹に一矢報いる方法を教えて遣わす。冥途への置き土産と思って。
――冥途などと……。それはともかく、一矢報いる方法とは?
――そうだな、いちど一日かけて草原に行って、また都に戻ってくればいい。
――それだけで?答えなどわかるものですか?
――ああ、わかるとも。そのような、胡散臭い目で私を見るな。いや、聡明なそなたならばきっとわかる。馬や弓で勝てなくとも、別の方法で勝つ方法がな。
温雅で高齢な男の名は、韓徳譲。
南面官の官署は皇帝の牙帳の北にあり、今しも王循が上官の楊勉を相手に熱弁を振るっているところだった。
「宋と我が国の貿易は榷場での取引で管理されているというのに、密貿易が絶えぬと聞きます。両国の互いの権益を損ない、よこしまな者が私腹を肥やす一方、規範を守る商人が馬鹿を見ることになっているのです」
傍らで同僚の長広舌を聞きながら、半ばぼんやりと立っていた李朝慶ではあったが、次の言葉に耳がぴんとなった。
「一昨日、民家で契丹人の武官が三人、斬られていたというではありませんか。調べさせたところ、みな密貿易に関わっていたとの由。北面から報告も回ってきております」
「それはわかっている。だが、その事件は契丹人が関わっているゆえ、我らとしても慎重に事を運ばねばなるまい。北枢密院の出方もあろう」
――やはり、な。あの覆面の男たちが言っていた通りだった。そういえば、斬られたのは『後家さん』も同じだったはずだが……。
「さしあたり、榷場の管理をより強化することが第一歩だ。密貿易の摘発も重要だが……李はどう思う?」
突然に話を振られて目をしばたたいた李だったが、恭しく一礼した。
「榷場での宋との取引は、このところ順調に、品目や取引高の値を伸ばしております。密貿易に関しては、国境は長うございます。すべての国境を見張ることはできませんが、入境して市場に流れるところを押さえ、出どころをたどれば……」
「以前よりその取り締まりをやってはいるが、密貿易は増える一方で……」
楊のぼやきに、李朝慶は数年前に亡くなった、ある人物を思い出した。いつも微笑みを浮かべていて、ひそやかに歩き、話し、そして智謀を巡らせ、並ぶもののない敏腕ぶりを発揮していた功臣。亡き父の親友だった方。
――朝慶。そなたはいまだに契丹が憎いか。契丹の都に住み、契丹に仕えながらなおも……。
――韓丞相、奴らは我が両親の仇です、どうして憎まずにはおれましょう。ですが、悲しいかな。私はただの一人の官人。「蟷螂之斧」のごとく、強大な仇を前になすすべもありません。
――ふふふ、では朝慶はわしも憎いか。契丹に仕えてその国勢を盛り立て、あまつさえ、太后さまの情人でもあった私を。
――……いえ、そんな。
――わしの寿命はもう長くない、ゆえにそなたには、契丹に一矢報いる方法を教えて遣わす。冥途への置き土産と思って。
――冥途などと……。それはともかく、一矢報いる方法とは?
――そうだな、いちど一日かけて草原に行って、また都に戻ってくればいい。
――それだけで?答えなどわかるものですか?
――ああ、わかるとも。そのような、胡散臭い目で私を見るな。いや、聡明なそなたならばきっとわかる。馬や弓で勝てなくとも、別の方法で勝つ方法がな。
温雅で高齢な男の名は、韓徳譲。
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