8 / 19
第1章 翡翠行旅
第8話 金仁問
しおりを挟む
新羅の王都である金城、王が座す月城のほど近くにある邸では、二十過ぎの青年が朝から忙しく立ち働いていた。彼は一室で書き付けに眼を通していたかと思うと、次の瞬間にはもう回廊に出て手を叩き、駆け寄ってきた人々に何やら指示を出している。
青い上等の絹に包まれた父親譲りの長身痩躯、その上に載る面はすっきりと、二つの眼は杏仁形をしていた。
「お兄さま、仁問お兄さま」
鈴を転がすがごとき声に振り向いた兄――金仁問は、弓なりの眉を寄せた。
「智炤、また馬に乗っていたな」
筒袖の上着に裙ではなく袴を穿き、頬を上気させた妹は、手にした乗馬用の鞭を後ろに隠した。
「庾信の伯父さまに教えていただいているのだから、かまわないでしょう? お父さまも何もおっしゃいませんのよ。ええ、私も兄上たちのように戦場に出て、新羅のために尽くしてみせますから」
「おやおや、とんだ女将軍だ。全く、伯父上にすっかり感化されて……たしかに庾信伯父上は新羅一の勇将であるが、そなたまで……」
ことさらに渋面を作ってみせた仁問ではあったが、その実、口の端がほころぶのを止められはしなかった。彼には同母や異母ふくめ幾たりか姉妹兄弟がいるが、同母妹の智炤をとりわけ可愛がっていたのである。
それだけに、最近は智炤が親子ほども歳の離れた金庾信に、「伯父さま、おじさま」とついて回っているのを、ほほえましくも少しばかり寂しげな眼差しで見ていた。
兄妹並んで仁問の書斎に赴くと、あちこちの行李に書物が山のように入っており、納まりきれぬ巻子はなお卓上や棚に積まれて、山脈のごとき様相を呈している。儒学、老荘、そして御仏の教え……持ち主の学識をうかがわせる収集ぶりではある。
「それにしても、お兄さまが行かれる唐土にはそれこそこうした書物は山のようにあるのに。何万里も離れている長安の都にわざわざ持っていらっしゃらなくても……」
智炤は手にした鞭をぶらぶらさせながら、からかうようなそぶりを見せたが、兄は慣れたもので、それを軽く受け流した。
「そうは申しても、朝晩慣れ親しんだこれらがないと、どうも物寂しく感じそうでな……まあ、彼の地でまた買い込んでしまうだろうが」
妹はそれを聞き、ふっと寂しげな表情をする。
「そうよ、朝晩慣れ親しんだお兄様がいなくなってしまうなんて、私……」
仁問は困ったような顔をして手を伸ばすと、智炤のまなじりに光るものを優しく拭ってやった。
仁問がいよいよ唐土に旅立とうとする前日、春秋は息子を連れ出し、城近くの池に舟を浮かべて乗った。この池は蓮で名高く、今も蓮たちが桃色鮮やかにその美麗さを誇っている。
――我が父ながら風格は群を抜き、才知はこの池のさざ波のごとく煌めいている。まこと、君主の輔弼にふさわしい方。
舟中に向かい合わせになって座す父親を、仁問は眩しげに見つめた。そんな子の心を知っているのか否か春秋は微笑むと、かねて用意させていた杯を差し出した。
「さあ、取るがいい」
息子はうやうやしく杯を拝受して傍らに置き、まず父の杯に酒を注いだ。ついで、自分の杯にも。日光が杯のなかに飛び込んできらりと光る。
「明日は女王さまにお目にかかったのち、お前はこの金城を離れる。仁問、長安は遠い。慣れぬ土地、慣れぬ務めに難儀するであろう。せめて父として、そなたの無事を祈らせて欲しい」
「かたじけのうございます、父上」
仁問は声をとぎらせ、頬を赤らめた。
「あ、いえ。今日ばかりは『父さん』と呼ばせてくださいますか。幼い時のように」
「むろんのこと」
親子は杯を一気に飲み干す。「ああ、そうだ。忘れぬうちに――」と、父は言いさして杯を置き、たもとに手を入れて何かを引き出した。眼を丸くする息子の手を取り、それを握らせる。
「父さん、これは……」
いつも春秋が大切に身につけていたもの。切れ長の瞳にあらん限りの慈愛をにじませ、彼は頷いた。
「かつての持ち主は、これを譲るときに私と新羅の安寧を祈ってくれた。そして、この翡翠によって祈りは天に届き、私はその恩沢を受け、無事に新羅に帰ることができたばかりか、二代の女王にお仕えし、微力ながらその御世を盛り立てることもできたと思う。仁問、今度はそなたがこの恩沢をもって唐に行き、なすべきことをなせ」
仁問はしばらく返答せず、じっと父の愛情のかたちを眺めた。
――なすべきこと。それは私にとって一体何だろう? 新羅を守るため、それは確実だ。だが、他にも果たしてあるのだろうか。
青い上等の絹に包まれた父親譲りの長身痩躯、その上に載る面はすっきりと、二つの眼は杏仁形をしていた。
「お兄さま、仁問お兄さま」
鈴を転がすがごとき声に振り向いた兄――金仁問は、弓なりの眉を寄せた。
「智炤、また馬に乗っていたな」
筒袖の上着に裙ではなく袴を穿き、頬を上気させた妹は、手にした乗馬用の鞭を後ろに隠した。
「庾信の伯父さまに教えていただいているのだから、かまわないでしょう? お父さまも何もおっしゃいませんのよ。ええ、私も兄上たちのように戦場に出て、新羅のために尽くしてみせますから」
「おやおや、とんだ女将軍だ。全く、伯父上にすっかり感化されて……たしかに庾信伯父上は新羅一の勇将であるが、そなたまで……」
ことさらに渋面を作ってみせた仁問ではあったが、その実、口の端がほころぶのを止められはしなかった。彼には同母や異母ふくめ幾たりか姉妹兄弟がいるが、同母妹の智炤をとりわけ可愛がっていたのである。
それだけに、最近は智炤が親子ほども歳の離れた金庾信に、「伯父さま、おじさま」とついて回っているのを、ほほえましくも少しばかり寂しげな眼差しで見ていた。
兄妹並んで仁問の書斎に赴くと、あちこちの行李に書物が山のように入っており、納まりきれぬ巻子はなお卓上や棚に積まれて、山脈のごとき様相を呈している。儒学、老荘、そして御仏の教え……持ち主の学識をうかがわせる収集ぶりではある。
「それにしても、お兄さまが行かれる唐土にはそれこそこうした書物は山のようにあるのに。何万里も離れている長安の都にわざわざ持っていらっしゃらなくても……」
智炤は手にした鞭をぶらぶらさせながら、からかうようなそぶりを見せたが、兄は慣れたもので、それを軽く受け流した。
「そうは申しても、朝晩慣れ親しんだこれらがないと、どうも物寂しく感じそうでな……まあ、彼の地でまた買い込んでしまうだろうが」
妹はそれを聞き、ふっと寂しげな表情をする。
「そうよ、朝晩慣れ親しんだお兄様がいなくなってしまうなんて、私……」
仁問は困ったような顔をして手を伸ばすと、智炤のまなじりに光るものを優しく拭ってやった。
仁問がいよいよ唐土に旅立とうとする前日、春秋は息子を連れ出し、城近くの池に舟を浮かべて乗った。この池は蓮で名高く、今も蓮たちが桃色鮮やかにその美麗さを誇っている。
――我が父ながら風格は群を抜き、才知はこの池のさざ波のごとく煌めいている。まこと、君主の輔弼にふさわしい方。
舟中に向かい合わせになって座す父親を、仁問は眩しげに見つめた。そんな子の心を知っているのか否か春秋は微笑むと、かねて用意させていた杯を差し出した。
「さあ、取るがいい」
息子はうやうやしく杯を拝受して傍らに置き、まず父の杯に酒を注いだ。ついで、自分の杯にも。日光が杯のなかに飛び込んできらりと光る。
「明日は女王さまにお目にかかったのち、お前はこの金城を離れる。仁問、長安は遠い。慣れぬ土地、慣れぬ務めに難儀するであろう。せめて父として、そなたの無事を祈らせて欲しい」
「かたじけのうございます、父上」
仁問は声をとぎらせ、頬を赤らめた。
「あ、いえ。今日ばかりは『父さん』と呼ばせてくださいますか。幼い時のように」
「むろんのこと」
親子は杯を一気に飲み干す。「ああ、そうだ。忘れぬうちに――」と、父は言いさして杯を置き、たもとに手を入れて何かを引き出した。眼を丸くする息子の手を取り、それを握らせる。
「父さん、これは……」
いつも春秋が大切に身につけていたもの。切れ長の瞳にあらん限りの慈愛をにじませ、彼は頷いた。
「かつての持ち主は、これを譲るときに私と新羅の安寧を祈ってくれた。そして、この翡翠によって祈りは天に届き、私はその恩沢を受け、無事に新羅に帰ることができたばかりか、二代の女王にお仕えし、微力ながらその御世を盛り立てることもできたと思う。仁問、今度はそなたがこの恩沢をもって唐に行き、なすべきことをなせ」
仁問はしばらく返答せず、じっと父の愛情のかたちを眺めた。
――なすべきこと。それは私にとって一体何だろう? 新羅を守るため、それは確実だ。だが、他にも果たしてあるのだろうか。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
梅すだれ
木花薫
歴史・時代
江戸時代の女の子、お千代の一生の物語。恋に仕事に頑張るお千代は悲しいことも多いけど充実した女の人生を生き抜きます。が、現在お千代の物語から逸れて、九州の隠れキリシタンの話になっています。島原の乱の前後、農民たちがどのように生きていたのか、仏教やキリスト教の世界観も組み込んで書いています。
登場人物の繋がりで主人公がバトンタッチして物語が次々と移っていきます隠れキリシタンの次は戦国時代の姉妹のストーリーとなっていきます。
時代背景は戦国時代から江戸時代初期の歴史とリンクさせてあります。長編時代小説。長々と続きます。
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

戦争はただ冷酷に
航空戦艦信濃
歴史・時代
1900年代、日露戦争の英雄達によって帝国陸海軍の教育は大きな変革を遂げた。戦術だけでなく戦略的な視点で、すべては偉大なる皇国の為に、徹底的に敵を叩き潰すための教育が行われた。その為なら、武士道を捨てることだって厭わない…
1931年、満州の荒野からこの教育の成果が世界に示される。

【架空戦記】蒲生の忠
糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。
明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。
その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。
両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。
一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。
だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。
かくなる上は、戦うより他に道はなし。
信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる