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第1章 翡翠行旅
第5話 長身の客人
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「越や、お客人をお呼びしておくれ、庭にいらっしゃるから」
「はい、みことさま」
さして広くもない庭であるはずなのに、その客人を探すのに少しく時間を要したが、やがて蓮池の端に立つ客人を見つけた鮎児は、はっと息を止めた。
その長身痩躯の男はとし四十ほどでろうか、白皙の面に切れ長の双眸、そして何よりも美しい髭を持っていた。彼は歩み寄る鮎児を認め、にこりとする。
「皇祖母尊さまの采女か? 私を呼びに遣わされたかな」
その男は異国からの賓客だと聞いていたが、こちらの言葉は話せるらしかった。
「はい、御方さま。恐れ入りますが同道を願いまする」
貴人は軽く頷くと、采女の先に立って歩く。堂々として、かつ滑らかな足運びだった。だがそのまま殿に向かう途中、彼は突然立ち止まってくるりと振り向き、まじまじと采女の顔を見た。
「な、何か……?」
「そなたはここ以外の海を見たことがあるか?」
――海?
鮎児は首を傾げたが、問いには素直に答えた。
「私は北の国の生まれですが、海の近くで育ちましたゆえ」
「ふむ」
客人は笑んで、また歩き出した。
「海の彼方に行ってみたいと思ったことは? どのような国があって、どのような人々が住んでいると思った?」
唐突で矢継ぎ早な質問に、鮎児の眉根は八の字になった。
――この客人は一体何を?
「そのようなことをおっしゃられても……考えたことはありますが、実現しないことをあれこれ思ったところで、致し方ないとも」
「ふふふ、いきなり困った質問をされた……そう思っているだろう?」
「はい」
貴人は、今度は声を上げて笑った。
「きっぱりとした、物おじをしない答えだな。ふむ、皇祖母尊さまはきっとそなたをお気に召していることだろう」
客人は、やさしげだが鋭く射抜く瞳を持っていた。その眼光にいっしゅん鮎児も身をすくませる。
「ここから遠く、海を渡った彼方が私の祖国になる。私は金春秋といって、新羅の王族だ」
*****
その新羅の客人は酒膳を前にし、皇祖母尊と歓談していた。膳は難波の海から揚がった海の幸が中心で、采女たちが数人、貴人たちの前に居流れている。
「越や、酒をあちらに」
皇祖母尊が促すのを受けて、鮎児は春秋の差し出した杯に酒を満たす。
「春秋どの、今宵は異国の酒に異国の肴、そして異国の月という趣向なれど、そろそろ新羅の酒に新羅の肴、そして新羅の月が恋しくなっていましょうな?」
皇祖母尊の笑みを含んだ問いに、春秋は微笑んでわずかに首を振った。
「酒も肴も月も恋しく存ずるが、残してきた妻が最も恋しゅうございます」
「ふふ、さもありなん。……いとも誇り高き新羅の王子よ」
彼女はふっと息をつき、杯を置いた。
「新羅の女王(善徳女王)の名代としてのそなたの申し出、我が朝廷は拒んだでありましょう。だが、やむを得ぬ仕儀じゃ。百済との長年の争いで疲れた貴国をおもんぱかるも、我が国は我が国としての立場がある。まことに残念じゃが、貴国への救援の儀は……」
春秋は皆まで聞かず首を横に振った。
「ええ、わかっております。私がいかに中大兄どのや中臣どのに情理を尽くして説いても、色よい返事はいただけなかった。これ以上、私はこの国にいるべきではないゆえ、準備ができ次第、難波を離れます」
「そうでありましたか」
皇祖母尊はほっとしたような、寂しげな表情となって杯を再び挙げる。
「かといって、早々に旅支度が終わるわけでもなし、万事整うまでゆっくりされるが良い。そこの――」
いたずらっぽく老女は笑い、傍らに控えた一人の少女を指す。
「越の采女をつけるゆえ、都でも見て回ればよろしかろう」
「えっ」
采女は当惑げな顔をしたが、外出できる貴重な機会ではあり、他の采女たちはいかにも悔し気な表情を鮎児に投げつける。いっぽう、春秋は少年のようにくすりと笑い、一礼をもって相手に謝した。
「はい、みことさま」
さして広くもない庭であるはずなのに、その客人を探すのに少しく時間を要したが、やがて蓮池の端に立つ客人を見つけた鮎児は、はっと息を止めた。
その長身痩躯の男はとし四十ほどでろうか、白皙の面に切れ長の双眸、そして何よりも美しい髭を持っていた。彼は歩み寄る鮎児を認め、にこりとする。
「皇祖母尊さまの采女か? 私を呼びに遣わされたかな」
その男は異国からの賓客だと聞いていたが、こちらの言葉は話せるらしかった。
「はい、御方さま。恐れ入りますが同道を願いまする」
貴人は軽く頷くと、采女の先に立って歩く。堂々として、かつ滑らかな足運びだった。だがそのまま殿に向かう途中、彼は突然立ち止まってくるりと振り向き、まじまじと采女の顔を見た。
「な、何か……?」
「そなたはここ以外の海を見たことがあるか?」
――海?
鮎児は首を傾げたが、問いには素直に答えた。
「私は北の国の生まれですが、海の近くで育ちましたゆえ」
「ふむ」
客人は笑んで、また歩き出した。
「海の彼方に行ってみたいと思ったことは? どのような国があって、どのような人々が住んでいると思った?」
唐突で矢継ぎ早な質問に、鮎児の眉根は八の字になった。
――この客人は一体何を?
「そのようなことをおっしゃられても……考えたことはありますが、実現しないことをあれこれ思ったところで、致し方ないとも」
「ふふふ、いきなり困った質問をされた……そう思っているだろう?」
「はい」
貴人は、今度は声を上げて笑った。
「きっぱりとした、物おじをしない答えだな。ふむ、皇祖母尊さまはきっとそなたをお気に召していることだろう」
客人は、やさしげだが鋭く射抜く瞳を持っていた。その眼光にいっしゅん鮎児も身をすくませる。
「ここから遠く、海を渡った彼方が私の祖国になる。私は金春秋といって、新羅の王族だ」
*****
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「越や、酒をあちらに」
皇祖母尊が促すのを受けて、鮎児は春秋の差し出した杯に酒を満たす。
「春秋どの、今宵は異国の酒に異国の肴、そして異国の月という趣向なれど、そろそろ新羅の酒に新羅の肴、そして新羅の月が恋しくなっていましょうな?」
皇祖母尊の笑みを含んだ問いに、春秋は微笑んでわずかに首を振った。
「酒も肴も月も恋しく存ずるが、残してきた妻が最も恋しゅうございます」
「ふふ、さもありなん。……いとも誇り高き新羅の王子よ」
彼女はふっと息をつき、杯を置いた。
「新羅の女王(善徳女王)の名代としてのそなたの申し出、我が朝廷は拒んだでありましょう。だが、やむを得ぬ仕儀じゃ。百済との長年の争いで疲れた貴国をおもんぱかるも、我が国は我が国としての立場がある。まことに残念じゃが、貴国への救援の儀は……」
春秋は皆まで聞かず首を横に振った。
「ええ、わかっております。私がいかに中大兄どのや中臣どのに情理を尽くして説いても、色よい返事はいただけなかった。これ以上、私はこの国にいるべきではないゆえ、準備ができ次第、難波を離れます」
「そうでありましたか」
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「越の采女をつけるゆえ、都でも見て回ればよろしかろう」
「えっ」
采女は当惑げな顔をしたが、外出できる貴重な機会ではあり、他の采女たちはいかにも悔し気な表情を鮎児に投げつける。いっぽう、春秋は少年のようにくすりと笑い、一礼をもって相手に謝した。
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