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第1章 翡翠行旅
第2話 越の乙女
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そして、どれほどの時が経ったのだろうか。
そこは越の国。女神が翡翠と別れたあの浜で、一人の乙女がゆっくりと歩みを進めていた。
草木で丁寧に染められた衣をまとい、みなりからして富貴な身分の娘であろう。潮風に煽られて袖が翻り、頭頂部だけ結って流した髪は肩や腕にまとわりついている。
蒼から翠に、そして灰がかった青に変化しながら寄せ来る浪。彼女は飽かずそれを眺めていたが、遠くから呼ぶ声に気づいたようである。
「鮎児、あゆこ」
籠を背負って駆けてくるのは少女と同じくらいの歳の少年、のびやかな肢体を飛ぶように運び、手を振っている。
「あら、何よ、気安く呼ばないで」
少女はつんとして花のごとき顔をそむける。
「あなたと私とは身分が違うのよ、もう犬ころみたいに互いにまとわりつき、転がっていた昔のようにはいかないんだから。私を『お嬢さま』と呼びなさいよ」
少年は息を静めて眉を寄せ、背中の籠をひと揺すりすると腕を組んだ。
「お前の邸に寄ったら、聞き捨てならないことを聞いた。お前、『采女』とかいうのになって、大王さまの都に行くんだって?」
「お前呼ばわりはさらに嫌だわ、勇魚はどうしてお嬢さまって呼んでくれないの?」
「だから、本当なのか、采女になってここからいなくなるっていうのは」
「そうよ、大王さま方のお近くにお仕えするの。だからあなたには軽々しく名前を呼ばれたくないし」
言いしな、自分の肩口に伸ばされた彼の手を振り払う。その瞳には、火を蔵する山のごとく燃えるものがあった。
「気安く呼ばれたくもないの、わかった? 私が采女になるって決まった後は、お父さまやお母さまだってそんな口はきかないのに」
少年は手を引っ込め、溜息をついた。
「……じゃあ、本当なんだな」
唇を噛みしめ、水平線を睨みつける。
「本当よ」
怒ったかのように鮎児も答えたが、ただ彼を心底嫌っていないことは、そのまま黙って相手に寄り添い、海をしばらく眺めていたことでも察せられた。
「都は遠いだろう? もう会えなくなるかな」
「たぶんね。せいせいするわ、あなたと会えなくなって。私が身分高き方にお仕えするなんて思いもしなかったけれど、きっと都での毎日は楽しいわ」
「都にも、こんなに広い海はあるのかい?」
勝ち誇った調子の鮎児に、勇魚は表情もなく問いかける。だが返ってきたのは、それまでとは打って変わったか細い声。
「あるそうよ、あるけど……」
あまりに少女が黙っているので、少年は相手の顔を覗き込み、眼を丸くした。
ぽたり、ぽたり。
少女の両眼から、水晶の粒が転がり落ちている。ぽたり、ぽたりと足元の小石に吸い込まれていく。
「鮎児……おや」
涙の吸い込まれていく先を見下ろした少年は何かを見つけたらしい。かがみ込み、それを拾い上げる。
「これは……すごい」
「何よ」
石を海水で濡らし、鮎児を振り返る勇魚の顔は旭日よりもなお輝いていた。
「こんなに綺麗な翡翠の石は初めてだ、まさかここで拾えるなんて思いもしなかった。ねえ見てよ、奴奈川姫さまのお導きかな。磨けばさぞかし……」
鮎児はつんとして顔をそらした。
「何よ、私のことを心配してくれてると思ったのに、そんな石っころに心を奪われて……もう知らないったら、あんたなんか、大っ嫌い」
勇魚の呼び止める声も聞かず、少女は足元をよろめかせながら走り去っていった。少年はおもわぬ嵐に呆然としつつ、手の中の翡翠がじんわりと温もりと光を放っていることなど知る由もない。
そこは越の国。女神が翡翠と別れたあの浜で、一人の乙女がゆっくりと歩みを進めていた。
草木で丁寧に染められた衣をまとい、みなりからして富貴な身分の娘であろう。潮風に煽られて袖が翻り、頭頂部だけ結って流した髪は肩や腕にまとわりついている。
蒼から翠に、そして灰がかった青に変化しながら寄せ来る浪。彼女は飽かずそれを眺めていたが、遠くから呼ぶ声に気づいたようである。
「鮎児、あゆこ」
籠を背負って駆けてくるのは少女と同じくらいの歳の少年、のびやかな肢体を飛ぶように運び、手を振っている。
「あら、何よ、気安く呼ばないで」
少女はつんとして花のごとき顔をそむける。
「あなたと私とは身分が違うのよ、もう犬ころみたいに互いにまとわりつき、転がっていた昔のようにはいかないんだから。私を『お嬢さま』と呼びなさいよ」
少年は息を静めて眉を寄せ、背中の籠をひと揺すりすると腕を組んだ。
「お前の邸に寄ったら、聞き捨てならないことを聞いた。お前、『采女』とかいうのになって、大王さまの都に行くんだって?」
「お前呼ばわりはさらに嫌だわ、勇魚はどうしてお嬢さまって呼んでくれないの?」
「だから、本当なのか、采女になってここからいなくなるっていうのは」
「そうよ、大王さま方のお近くにお仕えするの。だからあなたには軽々しく名前を呼ばれたくないし」
言いしな、自分の肩口に伸ばされた彼の手を振り払う。その瞳には、火を蔵する山のごとく燃えるものがあった。
「気安く呼ばれたくもないの、わかった? 私が采女になるって決まった後は、お父さまやお母さまだってそんな口はきかないのに」
少年は手を引っ込め、溜息をついた。
「……じゃあ、本当なんだな」
唇を噛みしめ、水平線を睨みつける。
「本当よ」
怒ったかのように鮎児も答えたが、ただ彼を心底嫌っていないことは、そのまま黙って相手に寄り添い、海をしばらく眺めていたことでも察せられた。
「都は遠いだろう? もう会えなくなるかな」
「たぶんね。せいせいするわ、あなたと会えなくなって。私が身分高き方にお仕えするなんて思いもしなかったけれど、きっと都での毎日は楽しいわ」
「都にも、こんなに広い海はあるのかい?」
勝ち誇った調子の鮎児に、勇魚は表情もなく問いかける。だが返ってきたのは、それまでとは打って変わったか細い声。
「あるそうよ、あるけど……」
あまりに少女が黙っているので、少年は相手の顔を覗き込み、眼を丸くした。
ぽたり、ぽたり。
少女の両眼から、水晶の粒が転がり落ちている。ぽたり、ぽたりと足元の小石に吸い込まれていく。
「鮎児……おや」
涙の吸い込まれていく先を見下ろした少年は何かを見つけたらしい。かがみ込み、それを拾い上げる。
「これは……すごい」
「何よ」
石を海水で濡らし、鮎児を振り返る勇魚の顔は旭日よりもなお輝いていた。
「こんなに綺麗な翡翠の石は初めてだ、まさかここで拾えるなんて思いもしなかった。ねえ見てよ、奴奈川姫さまのお導きかな。磨けばさぞかし……」
鮎児はつんとして顔をそらした。
「何よ、私のことを心配してくれてると思ったのに、そんな石っころに心を奪われて……もう知らないったら、あんたなんか、大っ嫌い」
勇魚の呼び止める声も聞かず、少女は足元をよろめかせながら走り去っていった。少年はおもわぬ嵐に呆然としつつ、手の中の翡翠がじんわりと温もりと光を放っていることなど知る由もない。
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