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深淵なる闇の色
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聖真学園連続殺人事件の容疑者、間宮愛子が逮捕を目前にして薬物中毒者の女によっていきなり殺害されるというその事件の報道は、近年稀にない凶悪な犯罪事件の一つとして、しばらくの間、世間を大きく震撼させる事となった。
殺人事件の容疑者が、よもや学校の保健校医であったという、そのとんでもない事実もさることながら、事件の背景にあった動機が衆人の予想をはるかに越えたところに存在していたところが、この騒ぎに大きく拍車をかけた。
テレビのニュース番組や新聞報道の錯綜する情報の中、あれよあれよという間に思わぬ形で事件がいきなり収束してしまうという事は確かにある。しかし、この事件のこの結末は、正に青天の霹靂であった。
買春に関わっていたと思われる大手広告代理店の重役や某政党の議員秘書、陸上自衛隊の某二等陸尉の逮捕という不祥事の数々も日を跨いで報道され、この尋常ならざる騒ぎを大きく後押しした。
無論これらは氷山の一角にしか過ぎず、この一連の売買春事件に関する逮捕者は今後も増えるだろうと思われた。
折しも『赤魔女事件』と名付けられた、この非常識極まりない一連の事件の顛末を、人々は例によって口々に噂した。
街中では派手に号外まで配られ、民放の一部の報道番組では番組内容を変更して事件の詳細を伝え、週末深夜の某テレビ番組では、教育現場や権力者の荒廃ぶりをテーマにした異例の特番を設けるなど、例によって世間は蜂の巣を突いたような大騒ぎだった。
当初、容疑者と目されていた人物は芸能人。それも十七才の高校生だったという事もあるが、推理小説のごとく二転三転する非常識な事件の様相は、やはり口さがない世間の耳目を集めてやまなかったようだ。
カリスマ高校生モデルとなると、社会的な影響力はやはり大きかった。
戦前の陰惨極まりない猟奇犯罪事件や、戦後しばらく続いた暴力団員同士の抗争による連鎖事件が現代に蘇ったようだ、と報道番組でそう語った犯罪評論家もいたが、実際のところ結果だけを見れば世間の目にはそのようにしか見えなかったに違いない。
都会の闇に暗然と穿たれた深く、暗い穴。冷たく乾いた人の心と都会の闇は未来永劫に消える事のない、どす黒い悪意と暗黒をその内に秘めている。
非常識極まりない事件に対する世間の統一見解は、どうやらその一貫した主張と方向性によって収束を迎えるようだった。
花屋敷はもう何度目かの溜め息をついた。かの探偵の台詞ではないが、陰惨でやりきれない事件の顛末は、やはりやりきれない、救いのない結末をもって迎えるよりなかったのだ。
花屋敷はコンビニで手に入れてきた週刊誌の何冊かを、喫茶店の座席へと投げ出した。
既に待ち合わせ場所に来ていた相棒の石原は、花屋敷の昼食と自分のデザートを注文している。
午前中の主要な聞き込み捜査は既に終わっていた。退屈に飽きていた市井の言葉とやらを、花屋敷はこれを機会に興味深く拝聴してみるつもりだった。
花屋敷は幾分、鼻白んだ様子で週刊誌の一冊を手に取ると、とりあえず適当に頁を繰った。
少年犯罪が背景にあり、さらには学校の中という特殊な現場で起こった殺人事件でもあり、かの酒鬼薔薇事件を比較対象に、真っ先に引き合いに出した記事はやはり多かった。
また、容疑者が逮捕を目前に殺害されるというショッキングな事件は、いつぞやの宗教テロ事件の一幕を彷彿とさせる顛末でもあったようだ。
関係者の有名高校生モデルをして芸能界の暗部に広がる薬物犯罪をネタにした記事も殊の外多い。あるいは、ただの陰惨趣味の変質者同士が、自分の病ゆえに成した悪行のように書かれた記事もあった。
この記事を読んで花屋敷は、またぞろ胸をかき乱されるような、それは厭な感慨を覚えた。
事件の核心たるべき真犯人である間宮愛子は周知の通り、既に死んでしまっている。
地下へと続く中庭には、川島厚子に殴られて昏倒したと思われる、教頭の羽賀亮一が倒れていた。
教頭の本名は高橋亮一。
彼は高橋聡美の実の父親である。彼によれば、地下に何があるのか薄々感じてはいたらしい。真相を知るのが怖かったのだと、教頭は後に供述した。
幸い頭部に軽い打撲の痕が残った程度で、傷が浅かったのは不幸中の幸いだった。
逮捕された川島厚子は極度の錯乱状態にあり、すぐさま警察病院へと緊急搬送された。
なぜ彼女があの時間帯に学園に侵入できたのか。なぜ教頭を昏倒させたのか、未だに不可解な点は多かったが、事情聴取にはとても応じられる状況ではなかった。
事件が終わって一週間。ここ数日は落ち着きを取り戻しているらしいが、彼女が果たして自分の起こした事件を覚えているかどうか、これも甚だ怪しいものだった。
女子高生の飛び降り自殺に端を発した、この一連の不可解な事件の連鎖は様々な混乱の果てに殺人事件とは一切関わりのない、事故で死んだ生徒の母親によって闇に葬られるという皮肉な結末を迎えたのだ。
まさに前代未聞の絶奇な結末というよりない。
殺人事件にしたところで、当初は被害者達が派手な死に方をした割には何も解らず、殺人事件の犯人そのものが誤解されていたなら犯人の意図も一切不明で、あちこちがまったく辻褄の合わない不可解な事件だったというしかない。
調べを進めるにつれ、事件は怪談の様相まで呈し、社会的な権威ある人間達の犯罪を次々に浮き彫りにし、結局は全体が一貫するようになって警察はすっかり手を焼くしかなかったというのが真相だ。
その警察がどこかというと花屋敷が捜査協力しているところの目黒警察署である。
殺人事件と平行する形で進められていた売春事件や、覚醒剤の入手ルートに関しての捜査が、やはり一番進展があった。
川島由紀子のものと思われる例のムスカリという赤い髪留めの中からは、ビニールのパケットに包まれた少量の覚醒剤の一部と折り畳まれたメモが発見された。
メモには数人の生徒達の名前と、十二年前の事件について彼女自身が述懐した、非常に簡単な文章が書かれていた。内容は推して知るべし。売春していた女生徒達の告発文である。
これにより、川島由紀子がなぜ売春グループに関わっていたのかが、ようやく明白となった。大方の予想を裏付ける展開ではあった。
メモにはなぜか、沢木奈美の名前だけは記されておらず、捜査本部では川島由紀子へ秘密裏に情報提供していたのは、彼女ではないかとみている。
売春していた十人の生徒達や売春の美人局を依託されていた花屋の店主、薬物を提供していた例の研究員達は、到って従順に供述を始めているという。
一条明日香の住む自宅の一室から発見された覚醒剤に至っては、この事件の決定的な証拠といえた。また、時を同じくして殺害された校長の自宅からは、売春の顧客名簿の原本まで発見されたという。
花屋敷と石原が事実確認に右往左往している間に、都合がいいように捜査本部には次から次へと証拠の山が築かれていった。
ここに至り、全ての事件は一挙に全面解決を見たのだった。しかし、例によって花屋敷には納得のいくものではない。
わざわざ日曜日を選んで新宿まで来たものの、探偵は留守だった。彼をよく知る占い師もまた不在であった。付近の住人にそれとなくあたってはみたが、夜でさえ彼らを見かけることはあまりないらしい。商売する気が最初からまったくないのか、ここ数日彼らを見かけた様子もないのだという。
まったく尻つぼみな結末である。花屋敷と石原が、またぞろ消化不良のように感じた事はいうまでもない。
よく解らなくなっていることは事実だった。
花屋敷にはうまく言えない。
やはり。
未だに何かが噛み合っていない。花屋敷と石原が割り切れない思いを抱いているのは、正にこの居心地悪さゆえなのだ。
『事件の解明は、新たな悲劇の幕開けにしか過ぎないのではなくて?』
その通りじゃないか。
花屋敷は間宮愛子のあの言葉を思い出す度に、言い知れない怒りと苛立ちを覚えていた。
花屋敷があの場で何も言えなかったのは、ひとえに社会正義というヤツと花屋敷の考える善悪の基準というものが完全に添い遂げるものではないと感じたからだ。決して加害者側に同情したわけではない。
よもや自分が次の事件の犠牲者になるなど、彼女にしても思ってもみなかったことだろう。
簡単なことだった。
花屋敷達はしくじったのだ。それでも。
刑事なんだ。迷うより疑っているぐらいでちょうどよかったのさ。
花屋敷は半ば無理やりにそう開き直って、アイスコーヒーの氷を噛み砕いて一気に飲み干した。
じっと黙っていた目の前の石原が唐突に先輩、と言って握り拳を顎にあてながら、神妙な顔つきで切り出した。
「例えば訳のわからない事件があったとして、何とか筋道を立てて理解しようと努力して、その結果得られた仮説を次々と証明していく…。
これは実に真っ当な捜査のやり方だと思うんです。
…けど、やはりこの事件の後味の悪さや胡散臭さは一体、何なんでしょうか?」
花屋敷は相棒に頷いた。
「お前の言いたい事はわかるぜ。学園での間宮愛子の犯罪と川島厚子が覚醒剤を常用していた犯罪。これらはそれぞれ覚醒剤という一部の要素を共有していただけ…。全く別の事件と考えるべきだ。
しかし、なぜそれらの事件の終結が最悪なタイミングで、かち合ったのか。これではあまりに都合が良すぎる…。そう言いたいんじゃないのか?」
石原は真剣な表情で頷いた。
「ええ…。被疑者の間宮愛子は死亡。覚醒剤は一条明日香が隠匿していた。
その一部は、川島由紀子が売春グループの告発を目的に所持していた。
彼女の死を契機に全く別のルートから川島厚子が覚醒剤を入手し、常用していた。
状況を整理するなら本当にたったこれだけです。事件の全貌はこれで全て晒されました。事件は終わったはずなんです」
でも、と言って石原は悩ましげに目を逸らした。
「それでも何かこう…何かがベタリと張り付いてるような、この厭な感じは一体何なんでしょうか?」
石原の表情は、いつになく暗かった。花屋敷は例によって犬のように唸るしかなかった。
花屋敷も明確な言葉には出来ないまでも、相棒と全く同じように感じていたからだ。
だが、ここは相棒の為にも敢えて否定すべきだと感じた。
「あのな、石原。ロジック重視の推理小説の話じゃあるまいし、結末は一から十まで理に適ってなきゃいけないってものじゃないだろうぜ。
昨今の殺人事件なんて実際、十中八九が痙攣的なものだ。今さらだが、動機だけなら普段から誰だって持ってるんだ。
殺害を実行に移すか移さないかはともかくとして、かっとして前後不覚になった場合や、それこそ薬物で錯乱して犯罪を犯したような奴に犯行の理由をいくら求めても無理だろう。
犯罪の後始末だなんだなんて、それこそ何も考えちゃいない連中なんだぜ?
理に適うもクソもない」
「それを言うなら先輩、この事件は最初から何一つ理に適ってなどいないんですよ?」
それもその通りなのだ。花屋敷は堂々巡りの思考に頭を抱えたくなった。
石原は再度続けた。
「不可解な事実は、結局は計画となるものが破綻したから…。あるいは被疑者や関係者達が秘密を隠蔽するあまり、徐々に自分達自身を追い詰めていった結果でしょう?
有り体に言ってしまえば自滅なんです。度重なる犯罪の自滅が、さらにここまで重なる結末を偶然の一言で片付けられますか?」
「そりゃそうだが…。じゃあ偶然じゃなければ、何だっていうんだよ?」
花屋敷の問いに石原は少しの間、窓辺の彼方に視線を送っていた。
初夏の午後。日差しは強く、日曜日の新宿は例によってごった返していた。
慎重に言葉を選んでいる様子の彼女は、再び花屋敷へと視線を向けて続けた。
「例えば、予測した段階ではその予測は正しかったとしますよね?
この際だから、仮に予断でも見込み捜査でも何でも構わないことにしちゃいます。
しかし、予測をしたことそれ自体が系を乱してしまい、全く別の結果を呼び込んでしまったということはないんでしょうか?」
「そいつはまた…一体、どういう意味だよ?」
石原は目を逸らした。
「私、何だか不安で仕方がないんです…。死亡した間宮愛子の台詞じゃないんですが、事件の解決自体が新たな事件の幕開けへ近づくなんて事が、本当にあるような気がして…」
相棒の言う通りだった。花屋敷が抱えている漠然とした不安感も、正にそこに理由がある気がしたからだ。
確かにこの事件を全て一つの事件と捉えると、徹底的に理に適っていない。
事態を滅茶苦茶にすることで得られる誰かの利益というやつが、まず全く想定できないからだ。誰も、何一つ得などしていない。
仮に来栖が推理した内容を早瀬を始めとする警察が早期に採用し、関係者達も予め間宮愛子が犯人だと知った上で行動していたとして、果たして最後のあの惨劇だけは回避出来ていただろうか?
あまりにも唐突で。あまりにも呆気なく。
花屋敷はそこに、やはり違和感を感じてしまうのだ。
あの探偵でさえ、予測はできても予知など絶対にできないはずだ。誘拐監禁という事件ならまだしも、今回のあの鈴木貴子の救出劇のようなものは、非常に特殊なケースだろう。あの学園だからこそ、あの変な探偵だったからこそ可能だったことなのだ。
誰かが起こしうる殺人行為を予め全て未然に回避や予期できていたら、刑事や探偵などそもそも必要ない。
推理小説にはよく『日常の謎』というヤツが登場したりする。平凡な日常に存在する不可解な謎。一見すると些細な事なのだが、奇妙な謎。
事件にすらなっていないような不可解な謎を探偵だの刑事だのが解き明かし、予め起こり得る事件や犯罪を予測し、あわや大事件に発展するところを未然に防ぐような探偵役の活躍譚というのはよく描かれる。
だが、これもやはり絵空事だから出来る事なのだ。刑事だからという訳ではないが、花屋敷は寡聞にして、結局は探偵のキャラクターを際立たせる為に存在する、そんな都合のいい英雄譚には懐疑的だ。再び考え込んでしまった花屋敷に、石原は続けた。
「始めの川島由紀子の死因にせよ一条明日香の自殺にせよ最後の川島厚子による殺人行為にしても、表向きの結論は一応出ているのに何かこう、歪んでいるように感じてしまうんです…。
こんなことを言うと誤解を受けそうなんですけど、私たち警察がどう関わっても…。
…いいえ、たとえ誰がどのような形で関わろうとも、予めこうなる予定だったような…。
そんな私達も知り得ないような仕掛けや動機が、もし背後にあったとしたらなんですけど…。
今までの展開を考えると、すんなり終わったと実感できないというか…。
とにかく、モヤモヤした厭な感じが消えてくれないんです」
石原は悩ましげな表情から一転して右手で握り拳を作り、自分の掌に思い切り打ちつけた。パチンという乾いた音が鳴り響いた。
店内にいた客の何人かがこちらを振り向いたが石原は気にせず、苛立った様子で再び続けた。
「あぁ、もう! こんなややこしい場当たり的で偶然だらけの推理小説があったとしたら、作者の顔を思いっきり、ぶん殴ってやりたい気分です!」
花屋敷は呆れて溜め息をついた。
「そりゃあ無茶だ。無茶というより無茶苦茶だ。だいたいお前、それはただの考えすぎだぜ。推理モノを読む読者は、作者には逆らえないように出来ているもんだ」
花屋敷は目を逸らした。
軽く笑い飛ばすつもりだったが笑えなかった。案の定、石原も笑っていなかった。好物のチーズケーキに一切手をつけていないのも、彼女にしてはめずらしかった。
場当たり的。
事件の作者。
偶然だらけ。
狂い笑う死。
いちいち何か引っ掛かる原因はどうもこれらの単語のようだった。キーワードだけで対象となる事件が解決するような、そんな都合のいい検索エンジンが頭の中にインストールされた人間がいたら警察に一人欲しいぐらいだ。これは機械などにはとても出来そうにない事だろう。
…いや。一人だけいる。そんな出鱈目な奴が。
花屋敷は再び深い溜め息をついていた。もちろん、件の探偵のことが脳裏に浮かんだからだ。
物語に出てくる名探偵や登場人物たちを散々こき下ろして馬鹿にする癖に、奴は推理小説や実際に起こった過去の犯罪事件や事件記録には異常に詳しい。
ついでに何の因果か、奴自身も今は探偵だ。
ただし性格はすこぶる悪い。
口も悪いし態度もデカい。
かつてハードボイルドが好きで、レイモンド・チャンドラーの作品をよく読んでいた花屋敷のアパートに何を思ったか、お土産だと温泉卵を大量に持ってきたようなふざけた男だ。
人を小馬鹿にして喜ぶような変人なのだ。
喧嘩は強いし酒も強い。今回は傷害事件まで起こしている。改めて思うに、世間には滅茶苦茶な男がいるものだ。
…奴は今、一体何をしているのだろうか?
花屋敷は鬱陶しい幻想を頭から締め出し、仕切り直すように相棒に言った。
「とにかく、この事件は終わったんだ。色々と気に食わないところも多いが、それはもう仕方がない。明日からはまた本庁にトンボ帰りなんだ。刑事は刑事らしく、今出来る事をするしかないと思うぜ」
「ええ…」
俯く石原。花屋敷の脳裏に、再び幻想の中の女の言葉が蘇った。
『さあ、イカレたパーティーはもう終わりよ…』
花屋敷は喫茶店の窓越しに街の姿へ目を向けた。往来を行き交う羊達の群れは今日も変わらず、忙しそうに雑踏を行き来している。
何一つ変わっていない日常の、その退屈なだけの風景に花屋敷は再び大きく溜め息をついた。
※※※
「“敵を愛し、迫害する者の為に祈れ"。
マタイによる福音書の一節に、こんな言葉があります」
7月2日。午前9時7分。
日曜の主日礼拝は、司祭のそんな言葉で始まった。貴子は自分の首に提げたロザリオのネックレスを握りしめた。
今日はめずらしくウェディングチャペルでの結婚式の予定は入っていないようだった。
普段の日曜に比べて比較的、信徒達の数も多かった。親に連れられてきた、幼い子供達の姿もちらほら見える。
子供達には神父様の話はさぞかし退屈なのか、友達と鬼ごっこをしたり携帯ゲーム機で遊んだりしている。無邪気な子供達が親に窘められているのを見て、貴子は苦笑いした。自分の幼い頃の事を思い出したのだ。
教会のステンドグラスから燦々と降り注ぐ初夏の陽光を受け、神父様は穏やかな口調で続けた。
「たとえば“世界中の人々を愛しなさい"と言われたら、これは言葉の上では簡単な事かもしれません。自分には直接関係のない人達を愛せ、ということですから…。
しかし、あなた方の敵。あなた方に嫌なことをする人。あなた方をいつも困らせる人。あなた方を常日頃から苦しめる人までも含め、“汝の隣人を愛せよ"と言われたら、これは簡単な事ではないでしょう」
神父はそこで言葉を切って軽く咳払いすると、再び携帯ゲーム機で遊び始めた子供達の方へチラリと困ったような視線を送って微笑んだ。
「この言葉はつまり、天の父なる神は悪しき者にも憎き相手にも。また、たとえ罪科ある者にも平等に雨を降らせ、太陽を昇らせているのだということです。
この言葉は、たとえ敵であっても仕返しや復讐を考えたりしてはならないという戒めであると同時に、全て全能なる神にお任せしなさいという、信仰の正しさはいかにあるべきかを説いているのだと解釈できます。
けして皮肉や排他的な意味合いではなく、親愛の情なくしては、いかなる信仰も有り得ないという事でありましょう。
『神を信じる者は、七度倒れても立ち上がる』。
『剣を取る者は剣によって滅びる』。
我々の信仰は、こうした二律背反する概念によって支えられている部分が多いという事に、今さらですが気付かされますね」
壇上にいる神父は穏やかな口調で続けた。
「我らが神は荒れた野において、邪悪なる者から三度の誘惑を受けつつも、これを退け、己の内にある霊を極限まで高めたといわれております。
ここでいう霊とは、超自然的な力でも何でもなく、信じる力…主への信仰心という事です。
飢餓からの誘惑に負けてはならない。神への畏怖心を忘れてはならない。神へ感謝して生き、無償の奉仕を忘れてはならない…。
これは『荒野の誘惑』と呼ばれ、我々にとっては欲望への戒めや死への恐怖には如何にして立ち向かうべきなのかを説く重要な教義としても有名です」
神父は再び続けた。
「そう。似たような教えが仏教にもありますね。ブッダの悟りを妨げるマーラは、女性の姿で立ち現れてブッダを誘惑したといいます。これはブッダが男性であったからでしょう。
仏教は煩悩に限らず、あらゆる執着を捨てよと教えている訳ですから、本来は愛する事をも否定します。
愛は執着ですから、美しい女性は悟りの妨げという訳です。女人禁制というのは本来、女性が煩悩の塊だという意味ではなく、女性がいかに男性にとって絶ち難い現世の執着であるかという裏返しでもあるのです。
男と女。どちらが欠けても世の中は成り立ちません。仏教者にとっては、人間の営みを越えたところに悟りというのは存在するのかもしれませんね」
神父はそこで言葉を切って周囲を見渡した。
貴子は興味深く聞いていた。
「人は様々な誘惑に打ち勝ってこそ、本来ある生を全う出来るものです。
しかし、あらゆる命を刈り取り、そして己の糧として食べていかなければ、一日たりとして生きてはいけないのが我々、人です。
そうした人が生まれつき背負った罪を我々の教義では原罪といい、仏教では業やカルマといいます。だから人は人として自然を愛しなさい、自然に感謝しなさいと説くのです。
山川草木悉有仏性と、仏教の教義ではそういいます。
この世に生きとし生ける者は皆、仏性…仏の心を持って生まれてくる。何一つ無駄に機能しているものはない。
天地人とは、人は天然自然の一部であり、天と地と共にあるものということなのでしょう。人は今ある自分に感謝して生きるもの、という事です…」
司祭はそこで貴子を見留め、少し表情を曇らせた。貴子もなぜか神父様から目を逸らした。
「世は無常といいます…。変わらないモノは何一つとしてない。
反対に人の世は無情といいます。情け容赦ない悲しい事件が世の中には溢れています…。
この世は詰まるところ、悪意と悪意の果てしない争いによって成り立っているのだ、とそう極端な事を仰る方々もおられます…」
信徒達は静かに神父様の言葉を聞いている。
微かなピアノの調べが流れる中、再び神父は続けた。
「人の死は悲しいものでしょう。悼むものでしょう。尊いものでもあります。だからこそ、祝福された死を我々は望むのです」
神父様の言葉に耳を傾けながら、貴子は自然と俯いていた。この場にはふさわしくない冒涜的な考え方が、やはりどうしても頭に浮かんできてしまう。
どうしたところで人は死んでしまえば、ただのモノだ。腐るか燃やされるかしかない。生きた人間は腐らないし、焼いたりなど絶対に出来ない。
火葬された人間はもはや骨の欠片でしかなく、埋められた人間もやがては朽ちて骨に変わる。
人の形を留めていない肉体は、もはや死者と一括りにされるしかない。しかし、肉体という器が滅びても、人の精神は消えない。
だからこそ信仰が生まれるのだと思う。
けれど、それでいいんだ…。
貴子はそう思った。
死者は自らの心の中に速やかに見送ってやらなければ生きていく者の人生がたちゆかない。
死者の霊に捕らわれる意識や生き方は、やはり妄念でしかない。亡霊を見るのは全て生きている者なのだ。醜い姿を見られて嫌なのは死者自身だ。そこを勘違いしてはいけないのだろう。
「人の数々の罪を背負い、磔にされた我らが神の贖罪によって、我々の原罪は贖われました。
その尊い行いによって彼は救い主となり、その高潔な行いによって人々を導くことになったのです」
これも母から聞いた事があった。キリスト教徒にとって、『復活』という言葉は非常に特別な意味を持つものなのだ、と。
死とは肉体が消えてしまう事だ。死とは生者が普段、意識しないもの。
母ほど敬虔ではない信仰が半端な貴子には、せいぜいその程度の印象しか持てない。だが、気付いた事はある。
身近な人の死は記憶との線引きなのかもしれない、と。貴子は改めてそう思い、そっと瞳を閉じた。幾度となく繰り返された光景が、貴子の中でリフレインされた。
瞼を閉じると無限の闇の向こうに死んでいった人達の幾つもの顔が浮かんだ。
笑ったり怒ったり悲しんだり…。
いろんな表情が、目の前に幾つも浮かんでは、消えていった。
彼岸と此岸。現世と常世。生者と死者。
分け隔てられた互いの境界は、未来永劫に交わる事はない。死者は生きる者の観念や人の記憶の中にしか存在しなくなる。
楽しい思い出も、愛おしい思い出も何気ない思い出も。互いに傷つけあったり共感したり悲しんだりした思い出も。人は思い出を作る為に生きている。そして、思い出とは記憶だ。
人の記憶からその人が消えてしまえば、死者は本当の意味で死者になってしまうのだ。
それがたとえ。
親友でも。クラスメートでも。
有名人でも。名前すら知らなかった人でも。
そして、殺人者でも。
死ねば…終わりだ。
貴子は目を閉じて、やりきれない思いの中、ただ無心に祈った。
聖堂に静かに佇む聖像。
目の前には大きな十字架。
静かなピアノの旋律が静謐な空間に流れている。
「世間には苦難に満ちた事件が溢れています。こうした試練の時を、せめて人々が皆、心安らかに過ごせるように皆さんも共に祈りましょう」
キリエ・エレイソン、とその神父は厳かにそう言った。
それに合わせて神徒達も復唱し、祈った。
カトリックとプロテスタントは、礼拝堂における崇拝の対象が聖像か聖書の言葉かという違いにも現れている。
司祭という位階がはっきりしているのは、カトリックの方だ。この教会に神父様はいるけれど牧師様はいない。聖歌はあるが、賛美歌という呼び方はしない。
教会に死という概念も、近いようで遠い。
神を敬愛するという点では日本の神道と同じだが、日本ほど湿っぽい印象はない。
死を穢れとして扱わないせいもあるからかもしれない。
死とは永遠の始まり。安らぎと平静は、生きている者の信仰の中にこそある。
死者の魂は、父と子と聖霊の御名において、大いなる存在と一つになるものだからだ。死者を和御魂や荒御魂といった御霊として奉り上げる神道とはそこが違うのだろう。
貴子の胸に親友の言葉が蘇る。
『この世に地獄ってさ…。あるのかな?』
それはまだ私にはわからないよ、由紀子…。
貴子は心の中で呟いた。
今となっては親友の遺言になってしまった。
あの世というものがあるのかないのか、貴子はもちろん知らない。今後知ることも叶わないし、生きている以上は知る意味もないものだろう。
天国だろうと地獄だろうと、仮にあの世があったとしても、生きてこの世界が続いているうちは、貴子はそこに行くことは出来ないからだ。
天国も地獄も、生きている者の為にある。今の貴子はそう思うからだ。
教義では、自ら命を絶つ者の魂は永遠に救済されない。貴子は死んでいった親友と、その母を思った。
礼拝を終え、信徒達が三々五々に教会を出て行く中、貴子はやり切れない思いを抱えながら一人、目を閉じていた。
ここは死を悼むのではなく赦される場所。
紛れもない清浄な景色とゆったりと流れる時間の中で、ようやく貴子は悼むことを許されていた。
「また来ていたのですね」
先ほどの神父が目の前に立っていた。
貴子は神父に深々と頭を下げた。貴子は一昨日も告解をする為にここへ来ていたから、それを覚えていてくれたのだろう。
「ええ、すみません、何度も来てしまって…。ご迷惑ですよね…」
「なんのなんの。謝ることは何もない。神は全ての人に平等です。もう落ち着かれましたかな?」
「ええ、少しだけ…。ここに来ると、小さかった時のことを色々と思い出しちゃいます。
礼拝堂で騒いでお母さんに怒られたこととか。一番最初に友達が出来たのも、ここでしたから。でも…」
「でも…?」
「体の方はなんともないんです。けど…」
「心の空白が埋まる事はない…。違いますか?」
その通りだった。貴子は正直に神父に頷いた。
「はい…。今までと何一つ変わりはないのに、次から次へと様々な感情が湧いてくるんです。どうしても死んだ友達のことを思い出してしまうんです…。
この場所で瞳を閉じて、祈って、一切の感情を意識的に遮断する事で辛うじて私は私を保っている。そんな気がするんです…」
「そうですか…。貴女の心は未だ深く、暗い迷いの中にあるのですね?」
「はい…。たとえどんな理由があれ、祈りの中で誰かの死に思いを馳せるのは、これは神様への冒涜だと思います…」
「友達への思いや執着を断ち切れないのは、冒涜ではありません。その友達を思うのなら、むしろ忘れてあげてはなりません…」
「忘れては…ならない?」
「そうです。心配することは何もない。父なる神は貴女の心が今、自分にはない事を知っておられます。
だから今、貴女を試されているのですよ。その迷いがきっと今の貴女を変えるからです。今は貴女にとって試練の時なのです」
「試練の時…? そんな風に考えた事…ありませんでした。迷いは心の闇だ、邪悪は振り払えとばかり…」
貴子の言葉に、神父は眼鏡越しの柔和な目を再び細めて微笑んだ。
「貴女はやはり真面目な人だ…。そうしたところはお母様にそっくりですよ。敬虔で友達思いで、優しいところなんか特にね…」
神父様は、俯いた貴子を慈愛のこもった目で見つめている。
本当にそうなのだろうか…。自分ではわからない。貴子は友達の迷いに気付かなかった罪深い人間だと思う。
「私はね貴子さん、こう思うのですよ。時が経てば体の傷は治る。しかし、誰かの死が齎す苦しみや悲しみはどんなに時間が経っても癒やされない事がある、とね」
「ええ…」
神父は柔和な顔で、天井にあるステンドグラスを見上げた。百合の花を手にした識天使ガブリエルが、聖母マリアに受胎告知をしている様子を描いた絵だった。
「ここには様々な方々が来られますよ。結婚を祝福された夫婦の為にたくさんの友人や家族や、その親戚の方々が笑顔で訪れたり…。
逆に黒い喪服を来た人が、ヴェールで顔を隠したり、顔を伏せたりして告解に訪れたりね…」
貴子ははっとした。喪服の一言に胸を突かれたような気がした。
「そうした方々は皆、貴女のように悲しみに包まれている…。空気がやはり違って見えるのですな。そうした事は伝わるものですよ」
「やはり…解りますか?」
神父は大きく頷いた。
「解りますとも。神秘的な事でもなんでもない。人の死や罪というものが持つ負のイメージは、そうしたものですよ。死を悼むのは人として自然な事です」
貴子は再び俯いた。
幾つもの命が儚く、そしてあっという間に散った。人の命を軽く扱う忌まわしい言葉や事件など、やはりあってはならないのだ。
でも、どれだけ目の前で人が死んでも、貴子の世界は変わらない。それ故に貴子は苦しんでいる。
貴子は生きている。生きているから祈れる。今はそれだけでいい。
神父は後ろを向いて、何かを手に取った。
「これを貴女に差し上げます…。持っていって下さい」
それは白い百合の花束を円形にした、ラウンドブーケだった。赤い色のリボンが巻いてある。
「これは…?」
「間宮から、貴女に渡してくれと頼まれたのですよ」
理事長が…私に?
「あの…。理事長をご存知なんですか?」
「知っているも何も、あいつは私の神学校時代の同級生なのですよ。腐れ縁の古い親友です。あいつもああ見えて、一応は神父です。
派手好きな芸術家タイプで、とてもそうは見えませんがね」
神父は笑った。
「そうだったんですか…」
間宮理事長に神父の資格があるとは知らなかった。しかし、考えてみればミッションスクールに聖職者がいても不思議ではない。
「戦後間もなく、貴女の通うあの学園でね。あの頃はまだ、空襲の名残であちこちが瓦礫だらけで壊れていた、そんな時代でした」
神父は昔を懐かしむように後ろ手に手を組んで、眼鏡越しの目を細めた。
「いつも貧しくて、いつも腹が空いていて…。神様の教えじゃ腹は膨れないと、こっそり愚痴を言い合っては、私達は闇市のドヤドヤしたところに行ってはよく学校をサボっていました。少ない食糧を分け合って食べたりしたものですよ。
皆、生きる為に必死でしたから、あの頃は何というか独特のパワーがあったんです。戦争に負けた腹いせですかな。何だかコンチクショウ、という感じでしたな、ははは。
まぁ、いずれにしても、遠い昔の話ですよ」
「そうだったんですか…」
「自分とて今は大変な時だというのに、あいつは随分と貴女の事を心配していましたよ。
実を言えば、今日の礼拝の言葉は殆どあの男の受け売りなんです。今朝方、使いの若い先生が来て手紙と一緒にそれをね」
恐らく山内だろう。山内が近いうちに学園の理事長を引き継ぐ形になる事は、貴子も知っていた。
異例の大抜擢といえるだろう。周囲からの反対の声もなかったようだ。貴子はそこに娘の死を誰より悼む理事長と、恋人を失った山内の胸の痛みを垣間見た気がした。
「彼女はきっとまた来るからと。貴女に何かを伝えたかったのでしょう」
理事長が。私に…。
貴子は顔を上げた。
「また…来ますか?」
「いえ…しばらくは。母や理事長に心配をかけているようですから。それに私も…いつまでも立ち止まってる訳にいきませんから。
…本当にありがとうございます、神父様。きっと、これからは大丈夫です。神様が私を救ってくださったのは、きっと私にはまだ、やらなければならない事があるから…。そう思います」
それがいい、と神父様は穏やかに微笑んで、大きく頷いた。
俯けば、つい歪んでしまいそうになる景色。やり切れない悲しみを振り切るように、貴子は目の前の十字架を背にした。
渡された百合の花束を手に、扉の前で貴子はもう一度ゆっくりと振り返って神父様に深々と頭を下げた。無理に微笑んでみせたから、きっとぎこちなく見えた事だろう。
過去に縛られて生きるのはもうやめよう。俯いて生きるのもやめよう。希望や未来は、けして足元には転がっていないはずだ。
明日という字は、明るい日と書くはずだ。
そうでしょう? 奈美。由紀子…。
温かい夏の日差しが貴子を穏やかに照らしていた。午後は学園へと顔を出してみるつもりだった。夏の太陽の光は、ひどく貴子には眩しかった。
光に満ちた世界は親友達との。そして過去の弱い自分との訣別を促しているように貴子には思えた。
その時、貴子の前に一つの人影が差した。
貴子は驚いて顔を上げた。
「勇樹…」
貴子、と制服姿の勇樹が呟いた。
彼女はなぜか、ひどく真剣な表情で貴子を見つめていた。
※※※
あれは1980年代の後半。
トマス・ハリスのサイコホラー小説を映像化した作品だったか…。
早瀬は『羊達の沈黙』という、アメリカのホラー映画のワンシーンを思い出していた。
名優アンソニー・ホプキンスが演じる元精神科医にして殺人者、ハンニバル・レクターとジョディ・フォスターが演じるFBIの女刑事、クラリスが獄中で面会するというシーンだ。
あの映画には精神異常者と認定された元医師、レクター博士という興味深い殺人者が登場する。
彼は通称バッファロービルと呼ばれる猟奇殺人犯の心理を的確に読んで推理し、女刑事へ解決の為にアドバイスをするというシーンがある。
猟奇殺人犯の異常な手口の真意と犯行に至るまでの心理の過程。様々な証拠品が物語る複雑怪奇を極めた殺人事件。そして、殺人犯の内面へと深く入り込んだ動機の解明。
悉く的中するレクター博士の推理力と知能の高さにクラリスは驚嘆し、殺人犯である彼に密かに尊敬の念さえ抱くようになる。
闇に堕ちた住人であるが故に彼は他人の闇を覗く術に誰よりも長けており、女刑事の心の闇を覗いてみたいという風変わりな欲求と引き換えに、彼女を様々な面でアシストするのだ。
女刑事が異常な猟奇殺人事件の犯人を追い詰めていくという、そのスリリングな展開もさることながら、『人喰いレクター』とあだ名される元医師のアームチェア・ディテクティブ…いわゆる現場に行かずに事件を解決する安楽椅子探偵ぶりが、二十年以上過ぎた今でも鮮烈に印象に残る、ホラー映画屈指の名作である。
残虐にも人を喰い殺した医師の知能は恐ろしいほどに高く、けして狂人などではない深い知性と氷のような冷静さが根底にあり、残忍な中にも狡猾的ともいえるその怜悧なキャラクターの魅せる演出の数々が、早瀬には当時、ぞっとするほど怖かった記憶がある。
「よぉ、またお前か…」
留置場の冷たいコンクリートの向こう側。暗がりの奥から茫洋と響いてきたその声は、映画のレクター博士を彷彿とさせるかのようにあくまで低く、そして淡々としていた。
同じ配置。同じ暗闇。同じシチュエーション。
これまた飾り気の全くないパイプ椅子が、鉄格子の前にぽつんとある。早瀬はゆっくりと扉に近付いた。
変人は留置場の鉄格子に凭れかかって何を考えたものか、どうやら聖書を読んでいるらしかった。早瀬が労うつもりで差し出した煙草の箱を、彼は鉄格子の隙間から後ろ手に黙って受け取った。
ここに立つ度に冷たい闇と会話するような不可思議な気分になる。
ピンという軽い金属音。鉄格子の向こう側。
ゆらゆらと。ぼんやりとした炎の明かりが揺らめいた。
パチリ、とジッポーライターを閉じる金属質な音が鳴り響いた。深い闇の中、ニコチンの匂いと共に不確かな紫煙の流体が周囲に漂い始める。
その背中へ向けて、まず早瀬が口火を切った。
「またそこでいいのか? 署の空き部屋なら、どこを使ってくれても構わないとさえ、ここの署長は仰っていたんだぞ」
「あいにくだが、ここが一番落ち着くんだよ。留置場の中で喫煙させてくれる寛大な処置には本当に感謝している、と後で署長さんには伝えといてくれ」
変人はこちらの方を振り返りもしない。その目は執拗に、手元の聖書の活字を追っているようだ。
「この変人め。保護室ならいざ知らず、捜査協力者を留置場に入れておくなど、本来ならば俺の方が逮捕監禁で処罰モノだぞ。豚箱からの情報提供がすっかりお気に入りとはな」
「ああ、この半端な暗闇は最高だぜ。拘置所に入りたくて悪さをする連中の気持ちが少しだけわかった気がする。
乞食は三日やったらやめられないと言うが、犯罪も同じなのかな。…実に快適だ。なかなか出来ない体験をしているな」
来栖の言葉に、早瀬はわざと芝居がかったようにネクタイを締め直した。
「事件解決に貢献してくれている我らが名探偵の来栖殿には、特別に昔の留置場を見学してもらうことにした。狭い場所だが、ゆっくりと鑑賞していってほしい」
「なんのなんの。過分なもてなしに感謝するよ、早瀬警視殿」
我ながら奇妙なやりとりだな、と早瀬は苦笑した。探偵も肩を揺らせて笑った。
脱走防止の為、留置場は本来は警察署の上階にある。しんとした地下には探偵と早瀬以外に人影はなく、静かなものだった。看守もいない代用監獄の、そのまた代用である。
パタリと聖書を閉じて探偵はようやく早瀬の方を向いて言った。
「で、聞きたい事ってのはまた事件の事か? お前らに必要な情報は、もうほとんど喋ったつもりなんだが…」
「ただの確認だよ。俺も下手をすれば訓戒では済まない。今のうちに現場の雰囲気にも慣れておかなければな」
「クク…警察庁の会議室には、なかなか素敵な方々がいらっしゃるようだな。お前のせいで事件が起きた訳じゃあるまいに…」
「責任を取るのが俺の仕事さ。
出世したい奴らの中には『若いキャリアがまたしくじってくれた』と喜んでる連中もいるんだろうから、俺としては身軽になれて有り難いくらいだ。…何にせよ、事件が解決したのは、お前のおかげだよ。ここから出た暁にはとびきり上等な酒を奢ろう」
「そいつは楽しみだな」
探偵は器用に紫煙をドーナツの輪っか状にして吐き出した。
ところで、と早瀬は切り出した。
「単刀直入に聞こう。お前しか知り得ない情報が幾つもあったのは確かだ。間宮愛子の行動は全てお前の手の内だったのか?」
「まさか。親父の仕掛けた悪戯は所詮、副次的な要素さ。俺が真相を看破出来たのも、たまたまだ」
「偶然だというのか? お前の手並みと花屋敷達の報告を聞く限りでは、最後のあの結末まで、お前は予測していたようにも感じたものだからな…」
探偵は鼻を鳴らして笑った。
「ハッ…よしてくれ。ファイロ・ヴァンスじゃあるまいし。偶然を装って犯罪者に人知れず罰を与えるなんざ、俺の趣味じゃないね。
それに警察なんかに褒められてもケツが痒くなるだけだ」
「では川島厚子が間宮愛子を殺害したのもたまたま…偶然だったというのか? 覚醒剤が出てきて事件は大騒ぎの末に一挙に全面解決。こんな都合のいい偶然があるか」
「それを言うなら早瀬、世の中は全て偶然で出来ている。今さら驚くまでもないだろうぜ」
「それでは必然や蓋然の立場はどうなる?」
「人間というのは小賢しい生き物だからな。それだけでは納得しないのさ。
人は朧げな偶然と偶然の点と点を線で結んで、はっきりとした像を造りたがるんだ。綺麗な形になった場合を必然と呼び、歪になった形を蓋然と呼ぶ。ただそれだけの事だ」
探偵はさもつまらなそうに手近にあった書物の山から一冊を抜き出し、再び読み始めた。喋りながらよく活字を追えるものだと感心する。この男にとって情報を摂取する行為と考えながら喋る行為は、食事と同じように習慣化された行動なのかもしれない。
探偵は続けた。
「起こるべくして起きた偶然を運命だ必然だ、やれ奇跡だと決めつけたり、思い込んだりするのは恣意的な論理の捏造でしかないし、この世には起こるべき事しか起こらない。そんなのは小説の中だけさ」
早瀬はくい、と己の眼鏡を押し上げた。
「お前の推理が、いわゆる調査と予測に基づいた思考の集積だというのはわかる。
だが、証拠を集め、蓋然性の高い可能性を逐一拾いあげて推理しているという点では、俺達の捜査と同じだろう?」
探偵は下唇を突き出し、ふうっと盛大に煙を吐き出した。
「それも違うな。探偵に必要なのは結果だけだ。こっちは依頼人の利益の為に、要するに金の為に仕事をしている。捜査なんて大それたことはしない。そんな権限もないしな」
「お前だって推理はするだろう」
「ただの手段だよ。危険なヤマを踏む場合もあるから格闘技もやるが、これも結局は自分の身を護る為でね。お前らとは立場も志とやらも全く違うさ」
探偵は紫煙を深く吸い込んで、今度は盛大に天井へと吐き出した。早瀬は再び探偵に尋ねた。
「世間では探偵行為による事件の解明は、英雄的な行為とされているが?」
「ふん、くだらない。いつの世も探偵は過大に評価され過ぎさ。探偵が英雄よろしく図に乗っていいのは、作り事の中だけでいい」
非常識な探偵はそう言って非常識にも背中越しのままゴロリと寝転がった。
早瀬は笑った。
「名探偵というのは、どうも非常識であるという事と同義らしいな」
探偵は口元を歪ませて、ニヤリと微笑んだ。寝転がりながらも、目だけは相変わらず執拗に本の活字を忙しそうに追っている。
「探偵ってのは要するに、そうした役割を振られた人間達の事なんだろうさ。
その探偵の系譜というヤツを遡れば、俺の先達はざっと165年前、アメリカはモルグ街の辺りを起源に存在し続けていることになっている。
この国ではまだ認められていないが、アメリカには探偵のライセンスというのもある。
つまり捜査する権利が公的に与えられた探偵というのもいるんだ。おかしな話だよな」
「歴史の影には正義の英雄あり…という訳か?」
とんでもない勘違いだぜ、と探偵は細かく肩を揺らせて笑うと、首だけで早瀬に振り返った。
「言っておくが俺はボランティアでこの仕事をしてるんじゃない。ただ分かりやすいから『探偵』を名乗ってるだけさ。
この国の言葉じゃ、離婚の為の身辺調査や人捜しをする興信所の連中も同じような名称を使うから、よく要らぬ誤解は受けるがな。
だが、おかげ様で不可解な謎の方から勝手に俺のところに舞い込んでくれる。警察より、はるかに給料はいいぜ。この不景気にな」
「世間に人の損と格差が満ち溢れている証拠だな」
「その損を埋めた分だけ報酬はもらう。金がないなら謎をもらう。俺のスタンスなんて、せいぜいそんなものさ。謎に満ちた不可解な事件なら正直ロハでもいい。謎も金も事件も、貰えるものは何だって貰う。だから俺は探偵になった」
「狡い男だな、お前」
「クク…狡くなけりゃやってられるか。なんとでも言うがいいさ」
探偵は寝転がったまま、手元でカチカチとライターを弄んだ。
「蓋然というのは、類推される物事から結論される物事だ。蓄積されたあらゆるデータ上の中でカテゴリー化された可能性のうちから、さらに絞り込んで予測されうる物事。事象化する上で確率化、数値化が可能な物事という事さ。
他の奴らはどうか知らないが、俺のやり方は別に推理するのが専売という訳じゃない。パソコンと同じことを人間がしているだけだ。
検索項目が依頼内容さ。現実の過去の事件やら類例やら、時にはトリックやらという項目から類似したキーワードを引っ張り出してきて、ただ圧縮すればいい場合もある。
…そうそう。お前が馬鹿にした、あのベルギー人で卵頭で髭のオッサンが喩えた“灰色の脳細胞”とか、あのコカイン中毒で愛嬌の塊みたいなイギリス人探偵が喩えた“頭の中の屋根裏部屋"とかいう表現が、まぁ一番近いといえば近いかもな」
「別に馬鹿にした訳じゃないさ。エンターテイメントとしての往年の名作や推理モノをこれでも俺は高く評価している。
エルキュール・ポアロやエラリイ・クイーン、ヴァン・ダインは高校の頃はハマった。ホームズだって割と好きな方なんだ」
内心の照れ隠しも含めて早瀬はそう弁解した。もちろんポアロやクイーンを、この偏屈な男に置き換えて間接的に賞賛してみたかったのだ。
この男の存在なくして、この途方もない事件が果たしてこのような形で収束しえただろうか?
早瀬に出来ることといえば、この煩わしい確認作業を早く終えて花屋敷や石原も交え、昔と同じように、この変人と一杯やりたいという事だけだったが、彼自身は再三に渡って事情聴取される待遇を、なぜか不満に思っている様子は微塵もないようだった。
「お前がミステリーマニアだったとは意外だな。そういえばお嬢ちゃんはP・Dジェームズのコーデリア・グレイに憧れていたが、結局は刑事になったんだそうだ。相棒はハードボイルドが好きな大仏だしな。俺の周りは変な奴らばかり集まるな」
変人は再び笑いながら、嬉しそうにそう言った。
「俺は最近また読んだ中では、中井英夫の『虚無への供物』やヴァン・ダインの『僧正殺人事件』あたりがやはり名作だと思ったな。あの独特な雰囲気は、あの巨匠達じゃなきゃとても出せない味だ」
気のせいだろうか。どこか含みを持たせるような微妙な言い回しのように早瀬は感じた。まぁそれはともかく、と探偵は言った。
「言うまでもなく推理というのはそうした蓋然をパズルのように組み上げていった作業…。最終的な結末に至るまでの一つの過程だ。そして、得られた結末にどう始末をつけるかで、未来はまた幾通りも変容するという事さ。推理を経て結末へと至り、そしてオチと呼ばれるエピローグに差し掛かる訳だ」
探偵はそこで片方の眉を大きく吊り上げてニヤリ、と微笑んだ。
「推理小説でいうなら、推理もロクに披露しないうちに捕まる探偵なんざ、ただの間抜け野郎だし、事態をロクに先読みもしないで、いきなり被疑者を逮捕するような警察は野暮の極みのごとき石頭共だ。
ピーピー口やかましく、後講釈の小便を垂れるのが賢いと勘違いしているリアル主義者共や、徹底した論理こそが美しい、とかエレガントな解答を期待します、とか宣う『本格教』の狂信者共が相手なら、これまた石ころの一つも猿の惑星から飛んでくるだろうな」
早瀬はしばし開いた口が塞がらなかった。もはや破壊的なまでに人を小馬鹿にしている。呆れて物も言えないとはこの事だった。
「何年経ってもプライベートな時の、その口の汚さだけは超一流だな。世間では、お前のような酔っ払いを『キチガイ』や『狂人』と呼ぶんだ。かわいそうだなと思う賢明な人達なら、まず例外なく無視という行動を選択する。送検されなかっただけでも有り難いと思え。チンピラ気取りの間抜けな探偵風情に見下げ果てられるとは、つくづく日本の警察やミステリーファンも焼きが回ったな」
「いいや、お前なら或いは、とは思ったさ。花屋敷といいお前といい、本当に何も変わらない…」
来栖要はふっと笑って目を逸らした。その何ともいえない孤独に伏せられた赤い瞳に、早瀬は少しだけ居心地が悪くなった。早瀬はあえて無感情なロボットを装って尋ねた。
「何でもお見通しといったところだな。お前…まさかとは思うが、本当に間宮愛子を泳がせていたんじゃないだろうな?」
古きよき取調室かここは、と探偵はうんざりした口調で天井を仰いだ。
「俺があの時点で、いずれ起きる可能性のある殺人事件の犯人がすぐに割り出せるものか。予測の範疇なんて、あくまで確率的なものなんだ。因果応報というが、人の隠したい過去は常に未来に復讐したがっていると、そういう事だろうぜ」
…それが俺には嘘臭く聞こえるというのだ。
釈然としない早瀬のそんな表情を読み取ったのか、来栖は再び片方の眉を釣り上げて、どこかシニカルな笑みを浮かべた。
しばしの沈黙があった。
探偵は、また別の本を抜き出して読み始めた。
「人間の意志のベクトルというヤツは、なぜか正反対の方向にも働きたがる。
…前にも言ったな?
社会や親から与えられ、学習した情報や遺伝的な獲得形質であれ本能であれ、良識や良心、宗教的観念や道徳観や倫理観。公共心や公徳心。何でも構わないが、そうしたものは知らず知らず人の無意識の海に無限に漂う、泡のような自我の一つ一つといっていい。
その自我の泡が寄り集まって早瀬一郎という人間の精神を形作り、早瀬一郎の肉体という器の中に宿っている訳だ」
探偵は相変わらず、こちらを見もしないで喋り続けた。
「人の肉体と精神は生きていく環境や時間的経過によって日々、その時々で様々に形を変えている。人格も同様だ。一時たりとして変わらない時はない。そして、それらは不可分にして互いに相関関係にあるものだ。
日曜夕方のテレビ番組で放送するサザエさんと同じで、家族の誰かが面倒を起こすと割と厄介な揉め事に発展するんだ」
「後半の喩えはやや頂けないが、趣旨はよくわかる」
呆れている早瀬に向け、来栖はニヤリと微笑んだ。
「事件は湖に石を投げ込んだ時のように、人の抱えている現実にも波紋を生じさせる。
事件から人へ。そして、人から人へとな。
単純なのに今回の事件を一番ややこしくしていた点は、結局そこだろうさ」
神妙に頷いた早瀬に向け、探偵は再び続けた。
「警察関係者達は事態の収拾や、突飛な情報の数々にただ混乱するだけ…。
事件の関係者達は急変する事態に翻弄され、不可解に散見する事実の数々に、ただ居心地の悪い思いしかできない。
それは要するに底深い部分での神様の悪戯…いわゆるこの偶然というやつが、あまりに突拍子もなく重なっていたからこそ起きていた誤認に過ぎなかったんじゃないのか?」
早瀬は溜め息混じりに頷いた。
こればかりは、この男の言うとおりだった。早瀬など急変する事件の数々へ対応するべく、ただ意味もなく右往左往していただけだ。早瀬は呟いた。
「ああ、その通りだな。偶然はいつだって最強だよ。不測の事態があまりにも多く重なりすぎた。それが俺達やお前の敗因と言われれば、確かにそうなのかもしれないな…」
二人の間に微妙な沈黙が流れた。
闇の中でもよく通る、独特の低い声で探偵は答えた。
「そう。ハインリッヒの法則じゃないが、不測の事態が起きる最大の要因は幾つも重なりあった噛み合わせの悪い偶然だ。
あらゆる事態をシミュレーションしていても、なぜか悪魔的な確率で厭な偶然というやつは起きてしまう。人はせいぜいが用心するしかない。だから都合のいい偶然ばかりが集まると、少しばかり話は違ってくるのさ」
「どういう意味だ? それぞれの事件に全く関連のない人間達がそれぞれに事件を加速させ、最悪なタイミングで最悪な事態へと収束した。この事件の場合、それが偶然だというのだろう?」
「そうだな。但し…」
来栖は声を潜めた。
「その偶然の糸が予め、選り分けられていたとしたらどうだろうな…」
早瀬は眉を顰めた。
「どういう事だ…?」
「花屋敷達には言ったが、誰かの引いた理屈の上に並んだ偶然というのは有り得るという事だ。この場合、偶然は偶然だが、それは既に見えない所では必然と呼ばれるものにすり替わっている。その可能性は…ないこともないかもしれない」
偶然では…ないだと?
一つ面白い事例がある、と来栖は言った。
「早瀬、お前はレミングを知ってるか?」
早瀬は困惑した。例によって質問の意図がまるで汲めなかったが、一応予備知識は早瀬の中にあった。
「あ、ああ…。確か自殺をする鼠の一種だろう? 餌が確保できないほどに数が増えすぎると、個体数を調整する為に突如として群れで行動し、海や崖下に飛び込んで集団自殺をするというやつだ。少数の犠牲でもって種の保存をはかるという珍しい鼠の事だな」
「現在、それは真っ赤な嘘でディズニーの映画や、世界的にヒットしたゲームが原因で世界中に広まった誤解だということがわかっている。数が増えすぎるとレミングが群れで集団行動するのは確かだが、それは同じ餌場に偏り過ぎないようにテリトリーを変えるからで、レミングに自殺するような習性なんてない。さる動物愛護団体もこれは捏造であると抗議した」
「そうなのか?」
早瀬は少なからず驚いていた。迷信を信用していた訳である。
「生物に本来、自殺するような機能なんてそうそうないんだよ。種であれ個であれ、生物の本能は常に生きる事を前提にして選択される行動だ。余計な事をごちゃごちゃと色々と考える、霊長類ヒト科の哺乳類様とは違う」
「お前はそう言うが、種を残したら、後は死ぬように出来ているのが生物の性だろう。雌に食われる雄の蟷螂などもいる。
これはある意味、種としての理に根差した自殺じゃないのか? よく悪女は男を食い物にするとか、用済みになったオスはカス、などと譬えられたりするぞ」
「それは雄としての役目を負えたからじゃなく、ただの共食いだ。狭い高密度な環境下で餌が不足していれば、蟷螂に限らず、雌でも雄を平気で食う。
蟷螂の雄は頭を食われても、生殖機能に影響はないそうだ。まぁ結果的に雄は死ぬ訳だが、雌の蟷螂は自分より体が小さくて動くものを捕食する習性があるからだよ。ヒトの男女の在り方なんざ、それこそ関係ないさ」
来栖は微かに笑ってから、さらに続けた。
「日本人がたまに差別的な意味に使う“ケダモノじみた"という表現は、だから面白いよな。人間によって命を絶たれた獣たちを主体にすれば、実に矛盾に満ちた不自然な言葉だ。逆に“人間らしい"と言えば、大概の人は好意的な意味に受け取るだろう?
これが言葉という呪いだ。
人という種は排他の頂点に立つ事で、万物の霊長という神になりえた究極の破壊者だ。呪われた言葉で言えば神であり、英雄であり、悪魔でもある」
冒涜的な事をさらりと言ってのけるあたりが、来栖要らしいと早瀬は微かに笑った。
早瀬は尋ねた。
「冤罪と同じで、濡れ衣や誤解はいつだって、その悪魔たる人間達の都合のいい解釈によって齎されるという事か? そうした考え方なら俺も賛成だ」
探偵はやんわりと首を振った。
「そうじゃない。このレミングの事例から得られることは、集団の中に紛れて死んだ鼠達の一部が、結局は濡れ衣を着せられたという事さ。集団で行動している中での数匹の死が、あたかもレミングという種は集団自殺する習性がある、というように種として位置づけられてしまったことさ。
『老いた母猿は川で溺れた子猿と生まれたての子猿のどちらを助けるのか?』という事例のように、個体は種の保存を第一優先に選択すると考えるのは、確かに形としてはすっきりしている。…俺はな早瀬、この事件でそのレミングを思い出した」
「そのレミングの誤った認識が、この事件と何の関係があるというんだ?」
「個から集へのダイナミズム。この捏造や誤認識というものが作り上げられる過程や仕組みが、実に興味深いと思ったのさ」
興味深いとくるところも、いかにもこの男らしいと早瀬は思った。不適切な態度ばかりとるが、この男は知的好奇心を刺激するものに目がないだけなのだ。
探偵稼業もこの男にとっては、ただの道楽にしか過ぎないのかもしれない。
「誤解だったにせよ、このレミングの事例は長らく、個体数調節理論を支えるという形で多くの人に支持された。集団自殺というショッキングな事実とディズニー映画の映像ってのは、それだけインパクト抜群だったんだ。
もちろん専門家の意見は違っていた。新たに第三者的な客観的視点が集団の中に導入された。それ故に判りえた事なんだ。
俺達が通常、あたり前だと思っている社会や現実の認識なんて、割といい加減なものだということさ。
集団に生まれる意識に疑心暗鬼という現象が起きる事で、当たり前だった日常的な行動やアクションが一旦バラバラに取っ散らかって、それぞれが客観視できるような舞台が組み上がらなきゃ、こうした第三者的な視点はなかなか全体にまで浸透しない。
多数決の少数意見と同様、集団の利益にとって些末な事象は、それがたとえどんなに整合性を持った理論だろうと、横に退けられてしまうことがある」
早瀬は大きく頷いた。こと学究の世界では、先駆者達の理論を大きく越える発見をする事や覆す事は容易ではないだろう。
「それまで普通だった物事が実は異常な事、特別な事という認識がそれぞれの意識に生まれれば、あとは推して知るべしだ。
あとはそれに付随する情報を広げる何らかの手段があれば、本末は一気に転倒する。初めて反証がさざ波のごとく、影響力を持ち始めるんだ」
早瀬は興味深く聞いていた。法廷ミステリーによくある逆転無罪のようなものだろう。
確かに、と早瀬は眼鏡のフレームをかけ直した。
「戦後のオイルショックで商店街の張り紙一枚でトイレットペーパーが売り切れたり、まだ生きている有名芸能人が死んだという噂がさも本物のように思えたり、大地震の後に流れるデマが、あたかも本当の出来事であるかのように広がる原理と同じだな。
国民に愛されるドラえもんの結末が、実は全て植物人間である野比のび太の見ていた夢だった、という悲惨なものもあったな」
噂やデマ、あるいは流言飛語があたかも本物であるかのように社会に浸透し、世間を騒がせる事は実際によくあることなのだ。
そうだ噂は侮れないんだ、と来栖は静かに呟いた。
「きっかけはどんな些細なものでもいいんだ。流言の発生条件は、大切な事が嘘か本当かわからない時に発生するんだ。
これはある意味で究極の伝言ゲームだよ。デマが現実に浸透しきった時には、発言者の意図は既に現実を離れている。その真意が巷間に伝わる事はない。発言者だって忘れている場合もある。
…だが、きっかけは間違いなくこいつなんだ。こいつの些細な悪意が現実を変えてしまったんだ。現実とは、社会が作り出す幻だ。だが、言葉は時に幻を凌駕する。
量子力学の理論と一緒だよ。観測行為それ自体が知らず知らずのうちに対象に影響を及ぼしてしまうというのは、一つの真理だ。
個々の差違を増幅させる事で限られた人々の意識に矛盾や誤認を呼び、生まれてきた混乱に、さらにほんの少しだけ手心を加えてやれば、直接手を下さずとも対象には思いもよらない結果は生まれる…」
早瀬はぞくりとした。今、見たのは錯覚か?
暗闇の中で来栖が一瞬だけ見せた表情は、早瀬が知るどの来栖とも違う、まるで別人のごとく残忍な色を帯びたように見えた。
探偵はゆっくりと顔を上げた。やはり早瀬の錯覚だったのか、それはいつもと変わらない来栖の茫洋とした表情だった。
来栖、と早瀬は詰問するように、幾分か声のトーンを落とした。
「学校裏サイトや七不思議…。
行方不明だった、あの女生徒…。
隠されていた、あの地下室…。
笑いながら錯乱して死んだ、女生徒達…。
自らの過去に怯えて人を殺した、あの女…。
錯乱して人を殺した、あの女…。
…これらは全て、誰かの仕組んだ意図的な罠だと言いたいのか?」
さあな、と獄中の探偵はしらばっくれた。まるで他人事である。実際、他人事ではあるのだが。
「ところで早瀬。先ほど話した推理小説…。ミステリーというのはあらゆるジャンルを盛り込める、臨機応変で画期的な奇矯の文学だと思わないか?」
「今度は…何の話だ」
はぐらかしているのか、茶化しているのかまるで解らぬ、その口調に、早瀬は来栖を睨みつけた。自然と語気まで荒くなった。
「随分と苛ついてるな。
…まあ、いい。ただの俺の戯れ言だしな」
なぜ引くのだろう。そんな言われ方をされれば気になるもので、それも恐らくこの男の手の内なのだ。案の定、ふてくされたような口調で早瀬は尋ねた。
「ミステリーが一体どうしたというんだ?」
「だからさ、ミステリーってのは面白くないかって話だよ。たんに知的なエンターテイメントとしての要素を含んでいるだけでなく、純文学や恋愛、ファンタジーの要素や様々な人間模様も話の中に組み込む事ができる。
社会的でリアルな背景も盛り込めるし、ジャンルも幅広く、今や何でもアリだ。
近未来だろうが過去の歴史モノだろうが、時代の設定なんかも自由なんだろう?」
早瀬は当惑した。話の意図や流れがまったく読めないでいる早瀬をよそに、探偵は勝手に続けた。
「俺は真っ暗闇の中でそうした妄想に耽るのが好きでな…。最近は暇なものだからひょっとしたら、この現実にも対応可能なトリックを著している名作は意外に多いなという事に気付いて、色々といらぬ夢想を逞しくしてみた訳さ」
「牢獄の中で、そんなくだらない事を考えるのは、お前ぐらいのものだ」
早瀬の憎まれ口など、一向に意に介さぬ様子で、探偵は続けた。
「もし俺達が生きているこの現実にも、非常に巧緻で悪魔的ともいえる真犯人の邪悪な思惑が底深くに眠っている事件があったとしたら…。そして、それをまた逆に作品にしてみたとしたら…。
…なぁ、これはちょっとした面白い読み物になると思わないか?」
早瀬は眉をひそめた。
「できればの話だがな。事実は小説より奇なり、だ。現実の生々しい事件を体験すれば、絵空事の中での美しいリアリティーなど描く気も失せるだろう」
「それは、お前が人間性ってやつを常に疑う立場の警察官だからさ。それに絵空事ほどリアルなものだと人はよくそう言うぜ?
一見、無意味で無価値だとしか思えない事象も底深い部分で、何かの意志が働いていると考えてみるのはどうだ?」
「何が言いたいんだ?」
早瀬は再び当惑した。
…何かの意志だと? 散見する事実は、あくまでも偶然だと先ほど切って捨てたのは、この男なのである。
沈黙する早瀬をよそに探偵は淡々と続けた。
「関わる人間達は皆一様にバラバラで、物語の底に流れるテーマが何を意味するかは気付かない…。しかし、人の行動や細かい部分の因果関係には確実に作用していく罠がある。
そんなとんでもない仕掛けや計画が、もし背後にあれば、非常に面白い話が組めると思わないか?
成功するかしないかはこの際どうでもいい。何年もかけて、幾度も幾度も実験を繰り返し、組み上げていくと仮定する。
…もし、そんな難儀で意味不明な事件があったとして、探偵役に振られた連中がそれを解決しなきゃならないとしたら、これは容易な事じゃないだろうなぁ。
…そう。舞台は学校なんてどうだろう?
多分、世間でも大騒ぎになるからな。
…うん、こいつは面白い読み物になるかもしれない」
「来栖…お前、さっきから一体何の話を…」
推理小説の話…。あくまでも仮定の話…のはずだ。真意を問い質そうとして早瀬はなぜか躊躇った。少しだけ寒気を感じるのは、早瀬の気のせいだろうか。
不安な早瀬をよそに、探偵は再びライターの炎を手元で弄びながら独り言を続けた。
「たとえば学園の全般的な動きを掌握するのに確実なのは、生徒一人一人の行動について、先行する何がしかの情報を持っていればいいんだろうな。
…何年生のどのクラスに所属していて、部活は何部に所属しているのか?
その生徒の交友関係はどの程度で学校では誰と一緒に昼飯を食う機会が多くて、休み時間は何をしていて、誰と行動を共にする機会が多いのか?
…誰と登下校をして、何を趣味とし、何に怒りを感じ、そいつらはまた、どういうシチュエーションに対して喜びや悲しみや怒りを感じるタイプなのか?
これは普段、彼らをよく観察し、面と向かって話を聞かなければわからないことかもしれない。
…ああ、けど表面上わかる事というのも多いから、これはそんなには気にならないかもしれないな。
学校はありとあらゆる人の情報で溢れ返っているし、おしゃべりや日常会話も含めて最近の高校生達は特に、そうした情報の塊だ。
私服の時のファッションスタイルや髪型、どんなアーティストのどんな曲が好きで、どの作者が描いたどんな本やどんなマンガが好きで、携帯電話の機種やストラップはどんな物で、芸能人なら誰に似ているとよく言われていて、嫌いな授業や教師は誰なのか?
そいつの話の仕方や会話の流れ。
中学までの学歴、病歴、親の仕事や家での趣味や行動などなど…。
一見していらないと思うような情報まで、あればあるほどいい。知る事も苦にはならない。楽しい実験や創作活動や趣味の一貫だと思えばな」
淀みなくそう語ると、探偵はそこで薄く笑った。早瀬は微かにおののいた。
あくまで淡々とした口調で来栖は再び続けた。
「そうそう、学校といえば先生達だな。
生徒同様に履歴書でもわかる事だが、この場合はフィールドワークこそが大事だろうな。教師や学校関係者であれば、恩師と呼べる人はまず誰だったのか。尊敬する人物は誰なのか。
どんな仕事をして何の教科を担任して、どういった授業の教え方を主にして、どんな作者のどんな作品を好む傾向があるのか?
過去や現在の家族構成はどうなのか、住んでいる所は貸家なのか持ち家なのか、アパート暮らしなのかマンション住まいなのか。
車の車種や趣味、学校以外の時間は何に一番金をかけるタイプなのか。
タバコは吸うのか、酒はどの程度飲むのか。
これも今までの学歴や病歴、昔の学校生活や生活態度はどうだったか。
かつてどんな恋人がいて、過去に何人の異性と付き合っていたか。
これも、一見いらないと思えるような情報まで知っておけば知っておくほど、この場合は役に立つ。…苦にはならない。
そうした事が好きで、人間観察が趣味なんだと思えばな」
早瀬はぞくりとした。
話のその異常な内容にではない。
淡々と紡ぎ出される探偵の言葉からは、そんな事はたいした事ではないとでもいいたげに聞こえたのだ。相変わらず全く意図が汲めない。
「そう考えると聖真学園ってところは、実に魅力的なキャラクターばかり集まったものだなぁ。場の設定自体がまず巧妙だ」
早瀬は沈黙した。
「七不思議なんて呪いまである。
呪いだの祟りだのってのは本来、不幸を管理する為の人間の知恵であり、方便だぜ?
禁忌に触れると何かに祟られる。何かを禁じるのは、結局は危険を回避したいが為だ。これは呪いのせいだと解釈するのは、不慮の事故や病魔に対する畏れを遠ざける為の方便なんだよな。
事故や病気に限らず、災厄ってのは人にとって避けられない時もあるから、祟りや呪いを持ってくれば、回避する道筋がつく。
そこに理由が生まれてしまう。
そこに理由がある事で、人はまず安心感を得る。その真意も解らないままにな…」
暗闇は再び静止した。
居心地の悪い、厭な沈黙だった。探偵はただ本の活字を目で追っている。
ああそうそう、と探偵は思い出したように声のトーンを上げた。
「聞いたか? 来月、婚約する予定の花田先生だが、桂木さんのご両親も結婚披露宴に参加する事になったそうだ。
なんでも花田先生の人柄に、ご両親親戚一同も賛同したようだ。二人の年齢差に、やはり周囲は驚きを隠せなかったそうだが」
「それはめでたいな。不幸中の幸いという訳だ。もう七月だし、幸せなジュンブライドという予定にはならなかった訳だが、ヨーロッパは地中海地方の風習など、そもそも梅雨時の日本には不要だな。俺はその二人には会っていないが、話を聞く限りでは、うまくいきそうでよかったじゃないか」
「ああ、本当に何が幸いするかわからない。人の縁ってのは異なものだな」
探偵はそこで、ふっと目を閉じて微笑んだ。
結婚が男女の在り方の全てではないのだろうが、幸せそうにしている恋人達は、やはり祝福してやるべきなのだろう。早瀬もゆっくりと頷いて言った。
「まったくだな。しかし、二人の年齢差を考えると前途洋々な未来とはいかないかもしれん。…おっと、これは要らぬ世話というやつだな。石原君に叱られてしまう」
「そうだなあ…。二人の馴れ初めというのが、何でも渋谷で若い不良共に絡まれた桂木さんを、花田先生が手に手を取って孤軍奮闘の末に救出したというんだから、人生ってのは誠に華麗なドラマに満ち溢れてるな。
普通が一番といいながら、普通に生きる方が難しいぜ」
なぜだろうか。来栖の思わせぶりな物言いが早瀬には微妙に引っかかった。
「何が言いたいんだ?」
「だから結婚は幸せなもので縁は異なものさ」
尻つぼみな物言いである。この男からまさか、結婚という話題が出るとは思ってもみなかった。
結婚といえば、と探偵はふと本から目を上げた。
「殺された校長の村岡芳郎だが、事件の直前に彼の奥さんから正式に離婚の申し出があったんだそうだぜ」
「それは知っている。原因は村岡の女性関係の醜聞だそうだ。熟年離婚などといわれるが、いずれよくある話だよ。葬儀は実家の久留米市だ。
身内だけでのささやかな、ひどく寂しいものだったようだが…」
世間はつくづく勝手なものだと早瀬は思う。殺された人間はなぜか、いい奴と悪い奴に分類されてしまう。これはなぜか、そういうふうに相場が決まっているものらしい。探偵も頷いた。
「そのようだな。これは関係ないことかもしれないが、奴の部屋からは女子高生モノやSMモノといった表の販促ルートじゃ出回らない類のマニアックなアダルトビデオのコレクションが多数出てきたそうだぜ」
「教師だって人間だ。売買春事件に校長が関わっているというのは確かに出来過ぎの感は否めないが、これも今さらの醜聞だよ」
来栖は再び本に目を落としながら続けた。
「赴任してくる以前にも、そうした話は絶えなかったらしいな。奴は鶯谷にあるラブホテルで一年前に揉め事を起こしてもいる。
何でもデリヘル嬢を殴ったとか蹴ったとかいう、なんとも穏やかじゃない暴行事件だったそうだ。
まぁ、ここ最近は大人しくしていたらしいんだが、あの校長も結局は私立学園の雇われ校長に過ぎなかったというのが、近在でも専らの“噂"だよ。例の悪ガキ共は、それを知っていたから奴に目をつけたんだ」
「意外だな…。お前が他人の事にこれほど興味を示すとはな」
早瀬の皮肉など意に介さず探偵は続けた。
「いや、実際よく出来た話じゃないか。ブルジョアな香り漂うミッション系の私立学園なんだぜ? 普通ならその時点で大問題さ。女生徒に脅されていたとはいえ、売買春に関わり、尚且つ覚醒剤を使用して社会的に権威ある人間達を脅すだなんて、悪巧みにしても、超ド級の不祥事だろう。
奴にしてみれば、実にドラマチックなアクシデントの連続だ。生徒達だって殆ど知らない情報だったようだぜ?」
「情報は…いや、噂はどこからでも漏れる。それも今さらじゃないか」
「そうだなぁ。まあ校長にとっては、随分と間の悪いタイミングだったようだな。
あの面白い監察医のセンセイの話だと、死後の病理解剖の結果、胃潰瘍でいつ入院してもおかしくないような状態だったらしい。相当なストレスを抱えていたのさ。
要は最初から、そういう人間だったという事になるのかな…」
「どういう事だ?」
「別にどうもしない。哀れな末路だと思うしかないって話さ」
散々気にしているような素振りを見せながら、その実、随分あっさりと突き放すような言い方である。
そうそう、と探偵はまた言った。
「須藤直樹は一年生の時に埼玉から転校してきた生徒だ。幼なじみとはいえ、アイツも死んだ川島君とは、随分とドラマチックな再会を果たしていた訳だな」
「お前にしては随分と他人のゴシップ話に花を咲かせるな。教師の次は生徒か?」
話の展開が既に支離滅裂である。あちこちに飛ぶから気が気ではない。
「…まあ、そう言うなよ。探偵のファイルには後日談のような追加項目が付き物なんだ。ところで、アイツは今どうしてる?」
「絶対に口外するなよ。須藤直樹は保護監察処分だ。スカーズとかいう例のチームも、売春組織ヘブンズ・ガーデンも、綺麗さっぱり崩壊だ。誰かさんが無茶してくれたおかげで、警察の手間は最小限で済んだ。司法取引なんて、この国じゃあと十年は成立しないだろうがな。
そういう意味でも、お前はお手柄だった」
来栖は意味ありげに微笑んでからふふん、と鼻を鳴らした。
「若いうちは多少やんちゃな方がいい人生を送れると思うぜ。まぁこの国じゃ色々と不便だろうが、ハンデのついた人生ってのも割と悪くないもんだ」
探偵は左手のグローブをくい、と引っ張ってから言った。
「まぁ須藤直樹は札付きのワルとして地元じゃ随分と悪さをしたようだ。転校の理由ってのも繁華街で酔っ払ったサラリーマンに暴行を働いたのが原因だったらしい。
その事実をひた隠しにしたい須藤の母親が、仕方なく離婚した父親のいる目黒区に舞い戻ってきたってのが真相のようだぜ。転校時の詳細なデータにも載っている」
「探偵の情報網もなかなか馬鹿に出来ないな。情報屋でも飼っているのか?」
「さあ…情報はよく漏れるんだろう? ついでに言うと、鶯谷の一画は、悪ガキ共の溜まり場だ。援交目的の高校生や中学生の待ち合わせ場所ってのも、どこかにあるようだしな。…おっと、警視庁の警視殿の前で口が滑った」
「そう…なのか…」
早瀬は語尾を濁した。やはり何かが引っかかった。
そうそう売春といえば、と探偵はまた、声のトーンを上げた。
「売春していた十人の少女達は一条明日香の熱烈な取り巻きだったようだな。
死んだ一条明日香ってのは、正に若者達のカリスマ教祖だったという訳だ。
彼女達は『ネットアイドル専用掲示板』とかいうので、互いに知り合ったそうだ。
同じ学校だから、情報交換もかなりスムーズだったようだぜ。
売春云々は誉められた事じゃないが、他人のゴシップネタをスレで話題にしているうちに、ある日崇拝する明日香様本人が掲示板にやって来たというんだから、実に面白い奇遇もあったものだなぁ。こういうのを運命だとでも勘違いするのかね。
…ああ、そういえば須藤が転校してきたのも、桂木さんが暴漢に襲われたのも、川島君が新聞部の副部長に就いたのも、一年前で、その頃の事じゃないか。
じゃじゃ馬娘はあの屋上でよくサボり、鈴木君は放課後に遅くまで居残っていたのも、実はその頃の事なんだよなあ…。
これは面白い“偶然"だ。一応、クライアントの理事長に報告してやるとするかな」
ああ理事長といえば、と探偵はまた話をすっ飛ばした。
「あの理事長は本当にマメな人でな、具合の悪い生徒がいると聞きつけては、飛んで駆けつけるような人で、頻繁に保健室を訪れていたようだぜ。生徒や娘思いの、返す返すも人格者の理事長じゃないか。
…そういや、間宮愛子は私立学園の美人カウンセラーとして、最近では週刊誌にも載るほど目まぐるしい活躍をする傍ら、大学在学中は局部麻酔に関する優秀な論文も発表したらしいぜ。そういえばインタビュー記事が、どこかにあったな…」
しばらくの間、ゴソゴソという物音が暗闇の牢内に響き渡った。マンガ喫茶でもあるまいに、どれだけここで暇を潰すつもりだったのだろう。奥の方は書籍があちこちに散乱している。
ああこれだ、と変人の裏返った声がした。
「ほぉ。関西のK薬科大学を首席で卒業か。
里親殺しという凄まじい過去を抱えてる上に、過去には死体遺棄や損壊罪まで犯して高校を卒業したってのに、随分と華々しい優秀な学歴を残してくれたものだな。
ええっと…なになに、彼女の研究テーマやノウハウのルーツは彼女が大学の時に学んだものではない、とも書いてあるぞ。
…ほら、ここにインタビュー記事が書いてある。お前も見てみろよ、ほら。
ええと…モデル雑誌のインタビュー記事ってのが、他にもあったような気がするな」
探偵は罰当たりにも傍らにあった聖書を壁際へぞんざいに除けて、今度は別の週刊誌を手に取った。
「ええと…ああ、これだ。
『私がここまで来れたのは父の影響です。父は私立学園の理事長でありながら、神父の資格まで持っています。誰よりも優しく、そして知識を得る事に対して誰より貪欲で厳しい人です。
戦後を生き抜いた父の妥協しない熱意と向学心、何よりもその強いバイタリティーを私は誰よりも尊敬しています。これからも自分の生徒達に受け継いでいきたい感性です。学ぶことへの意欲が、人間をより深く人間を形作ると父は教えてくれました』
…だとさ。
…どうだい、早瀬? 英雄ってのは、こういう人の事なんだ。死んで功績が始めて認められるような人間の事じゃない」
「返す返すも世間は勝手なものだな。花田先生もそうだが、同情の声が多いのは彼らの人徳によるものだ」
「そうだなぁ。にこやかな表情で笑顔を振り撒く事を忘れない。過去の事件を誰よりも悔いている。転んでもただじゃ起きないとばかりに、今も老体に鞭を打って学園再建の為に負傷した教頭先生やあの植田先生、それに後任の山内先生らと共に尽力している。生徒の保護者達からの信頼も厚い。
…正に教育者の理想像だ」
「来栖、お前…。さっきから一体何を…」
「いや、俺達が『世間の人々』と一括りに呼んでる集団幻想の化け物ってのは、本当に掌をクルッと引っくり返すのが、お上手だな。
落差をつけて落とすのがオチって訳だ。事情を聞けば、同情したくなるというだけなんだがな…」
いいだけ喋った事に満足したのか、薄い暗がりの中で探偵は再びゆっくりと壁に凭れかかって別の書物を手に取った。
通路の粗末な蛍光灯の光だけを頼りに、よく本が読めるものだ。
早瀬が思うに、夜間の仕事を好んでしている人間というのは、なかなかに屈折した生き方をしているものだ。この男も、そうした世界に生きている。
闇の中がやたらと馴染むのは、この男の性質によるところが大きいだろう。
早瀬は、この探偵が執拗に黒い色にこだわる理由がほんの少しだけ理解できた気がした。
人は目を閉じて眠る。
人が心地よい夜の眠りを欲するのは、視覚から齎される情報量が他の受容器官に比べて極端に多いからだといわれている。
視覚を遮断する事で、司令塔である脳を一時的に休止状態にしなければ、人の身体は保たないように出来ているのだろう。
暗闇は怖いといいながらも、昏黒の闇に完全に身を委ねる事で得られる安心感というものを人は常に求め続けている。
眠りと死が、ある意味で非常に近いものとされるのは、意識のない状態イコール死と認識する機能が、人の体に本能的に備わっているからだろう。
ギリシア神話でもニュクスという夜の神から生まれた神はヒュプノスとタナトスという、眠りと死を司る二柱の兄弟神に大別されている。両者は同じ根を持っているという事だ。
薄暗がりの中で、探偵は相変わらず本を片手にライターの石をカチカチとせわしなく弄んでいる。まるで線香花火のようだった。
早瀬は自然と火花を目で追った。目が眩むと解っていても光を注視してしまう。これも、闇の中だから起こりえる奇妙な矛盾だ。
闇の持つ懐の深さと広がりは無限だ。
闇の色は夜の色。闇は漆黒の夜と奈落の穴を同時に想起させる象徴的な黒だ。
黒色の持つイメージは、あらゆる色とも完全に決別している。パレットに白い絵の具を混ぜて灰色にしようとも、灰色は結局は薄い黒ともいえる。原色の赤を混ぜようとも黒はそれすら覆い隠し、完全に塗り潰してしまう。
黒は黒だ。何物にも染まらない。それだけで完結している唯一無二の孤独と終着をその内に秘めた、絶対的な存在なのかもしれない。
居心地の悪い沈黙の中で、早瀬は再び考えていた。
早瀬一郎を白とするなら、来栖要は黒だ。彼の立ち位置は、ある意味で早瀬には不可侵な領域なのだ。光と闇。鍵のかかった牢獄を境界に、二つの異なった世界が存在している。そんな気がした。
事件の最中でも感じてきたことだが、早瀬は来栖のいる、そちら側の自由に抗い難い魅力を感じている。だが、同時に決して自分には踏み入れる事はできない領域だろうとも感じていた。
早瀬は学園での一連の出来事を思い出した。
早瀬はよく推理小説で名探偵が最後に行う、秘密の解明というものを、どこか嘘臭い約束事のように感じていたが、この現実の探偵の所作を見るにつけ、その考えはただの無知だという事を思い知らされた。この偏屈な男は、最後に出張る時にも言っていた。
“事件を解体する"と。
解明でも解決でもなく、解体すると言ったのだ。明瞭ではないが、その意味が早瀬には少しだけ解ったような気がした。
推理小説の舞台がそうであるように、探偵が事件の終末に語る膨大な言葉の集積は、事件の関係者達がそれまで積み重ねてきた習慣や常識、人の内的な自我、内在する世界観をことごとく破壊できるだけの力を持っているという事だろう。
整然と収まるべきところに収まる論理的帰結を、人は美しいとも感じるものだ。
けして喩えではなく、言葉が現実を凌駕する事は不可能ではないとさえ思えてくる。そこが推理小説の魅力の一つでもあるのだろう。
本の頁を繰る音がした。
早瀬は無駄と知りつつ、再び邪推を試みた。
この男が事件のある時期を境に事件に全く関与しなかった理由を、だ。
不測の事態を予測できなかったが故の失敗。
…本当にそうなのだろうか?
自分の発する言葉の威力と、探偵としての関わり方を知っていたが故の行動だったのではないのか?
ひたすら思わせぶりな態度で回りくどく、それでいて淡々としたこの男の様子を見ていると、なぜか早瀬にはそう思えてしまうのだ。
再び頁を捲る音がした。
読むのがひどく早い。
緋色の瞳が無表情に、まるでメトロノームで計ったような一定のスピードとタイミングで素早くページを追い、また捲っている。
「速読なんて慣れさ。文字を頭の中で音声化しないだけでも随分と速くなる。あとは読む時の姿勢だとか視線の動かし方だ」
「よく、こちらを見ずに俺の考えている事がわかるものだな」
「これも慣れさ。ここ数日、仕方なくお前と面会しているんだから」
早瀬は憮然とした。
感情が全く読めない、こうした機械的な所作を見ていると、この男には実は感情がないのではないかと、そう考えてしまう。
少女を守る為に自分が罪を犯す。全く別の罪を糾弾する事で法的な処置を免れる。
司法取引などというこの国ではまず通用しない無茶な手段は、早瀬なら絶対に取らないだろう。早まった英雄的な行為とも受け取れるが、結果だけを見るならば、これもやはり本末転倒だ。
だが、この男の決断は、追い詰められた犯罪者のそれとは一線を画すものだ。そこに早瀬は言い知れぬ脅威を感じている。
早瀬には、とてもこの男のような真似はできないだろう。
警官だからという理由以前に、法や常識、良識だの倫理的な規制だのに縛られ、あるいは守られて生きている早瀬には、この境界を踏み越えるのは容易ではない。
早瀬はこの友人の見識と人間の深さを尊敬すると同時に、どこかで戦慄すら覚えていた。
物事の白黒を、はっきりとけじめをつける為に警察組織は存在するはずだ。真実を暴く探偵も、それに近いものだ。
少なくとも、今まではそう思っていた。
しかし、この商売っ気の全く感じられない探偵は、いざとなれば足し算も引き算もしない。そうしたカテゴリーからも相当に逸脱している。型破りと言ってしまえばそれまでだが、この男の行動原理は既成のどの枠にも型にも嵌らない気がする。
刑事の勘などという曖昧なものではない。来栖要からは明らかに、あらゆる意味で予測不可能な危険な匂いを感じとってしまうのである。早瀬にとっては特異点のような存在だ。
己の動悸がなぜか早まっていた。早瀬は徐々に、焦りにも似た感覚を覚え始めている。ざわざわと漫ろな気配に背中を撫でられ、じりじりと腹の底が炙られていくような妙な感覚だった。座っているのに落ち着かない。
冷たく乾いた、牢獄の中の影法師は、眩暈にも似た感覚で早瀬の足元を不安定に、覚束なくさせている。じわじわとした厭な寒気が一向にやまなかった。
実行犯とは全く性質の異なる、真の犯人と呼ぶべき人間がいる…?
早瀬は首を振った。
そんな訳はない。
事件は終わった。
終わったはずだ。
そんな現実があるはずがない…。
それこそ偶然だ。人を食ったような態度で煙に巻くのを得意とする、この探偵一流の詭弁ではないだろうか?
だが、と早瀬は考えた。今や考えざるを得なくなってしまっていた。
仮に。
起こりうるあらゆる偶然を想定し、無関係な事象までをも全て掌握した、ある計画があったとする。
事件の関係者達へ。
無関係な者達へ。
ゆっくりと。
時をかけ。
確実に。
予め。
水面下のあらゆる場所に様々なバイアスをかけておく。人の行動を著しく狭め、事件とは全く無関係な場所から介入し、事件の構造そのものを操る…。
…もし、そんな事が可能なのだとしたら?
事件の関係者は元より、無関係な人間達までをも、まるで糸のついたマリオネットを操るがごとく、何気なく動かせる超越者。
そんな、乱歩の地獄の道化師のような奴が、もしこの世に存在するのなら…。
それはもはや、人智を遥かに越えた領域の技といえるのではないだろうか?
ラプラスの悪魔や神仏はいなくとも、あらゆる境界を平気で乗り越える人間がいるというのは、この男を見ているとよくわかる。
人の領域を超えた存在。
不可思議な技術を操る者。
それは。
「馬鹿な…」
思わず声に出してしまった。
探偵がチラッと目を向けてきた。
早瀬は居心地悪く眼鏡を外し、暫し自分の目頭を押さえた。
一旦意識された眩暈は周囲の暗さのせいか、探偵の思わせぶりな弁舌の故か、なかなか元通りに戻ってはくれなかった。
探偵は先ほどからカチカチと執拗にライターを弄んでいる。鬱陶しい。
意識するまいとしているのに、なぜか気になる。周囲が暗いせいか、目がチカチカした。ライターの火花が明滅する度に、青い残像が目の前にちらつく。
鉄格子の向こう側にいる暗闇は、早瀬がそれまで意識しなかった部分をやたらと刺激してくる。
思えば、この探偵の果たした役割の真意はどこにあったのだろう?
早瀬はここに至り、改めて腑に落ちない点を実感していた。
ただ事件の謎を解明するだけならば、やはり、わざわざこの男が学園に出向く必要はなかったのではないのだろうか?
鈴木貴子の救出を最優先し、犯人である間宮愛子を止める為。本人はそう言っているが、それとて花屋敷や石原に彼女の保護を依頼するか、直接的に早瀬に示唆すればよかった話ではないのか。
もはや結果論にしか過ぎないが、この男が積極的に関わらなければ、あるいはあの被疑者は死なずに済んだのではないのか?
早瀬は改めて思った。
目の前に転がっている、この不可解な事実こそが寒気の正体ではないのかと。
この男なら最初から、それこそ安楽椅子探偵のように指一本動かす事なく殺人犯を割り出し、警察を手足として使うことなど難なくできたはずなのだ。
そう。たった今の。この数日間の状況のように…。確か昨日もそうだった。
待てよ。
昨日…?
この数日間だと?
…事件が終わって俺がここに来たのは、確か今日が二度目だったはずだ。
この男はここから一歩も出ていない。この男は早瀬以外、誰にも会っていないはずだ。
昨日とは…いつだ?
『よぉ…またお前か』。
『あの面白いセンセイに聞いた話じゃ…』
『ここ数日、お前とは仕方なく一緒に…』。
早瀬は顔を上げた。
その時だった。
「赤い魔術師と黒い死神」
「うっ…!」
何だ。
体が…。
動かない!
「悪く思うなよ」
きぃ、という微かな音と共に早瀬の目の前の鉄格子があっさりと開いた。
「早瀬、タロットカードの魔術師の事だけどな…。魔術師の頭上に描いてある無限大のシンボルと腰帯は、ウロボロスの蛇を暗示しているんだそうだぜ。
無間地獄ってもんがこの世にあるとしたら、終わらない悪夢なんざ今の世の中、あちこちにいくらでも溢れ返ってるなぁ。
あの女は正しいぜ。人の悪意の数だけ、人の数だけ無限に悪夢が存在するなら、この世はある意味で既に無間地獄ってことさ」
「お、お前…。俺に…な、何を…した…?」
「ちょっとした暗示さ。
…いや、やはり魔術かな。お前が俺を疑うからだぜ? 思ったより手こずったな」
探偵は早瀬のポケットから銀色の鍵を抜き出し、早瀬の目の前に掲げた。
「自分で昨日外したことすら覚えていない鍵なんざ、ないも一緒だな。俺がこの週間、お前なしに飲まず食わずでいられた訳がないんだがな。
“昨日”って時間を認識できないだけで、このように過去はすべからず齟齬をきたす。
…驚いたぜ。効果覿面だ。
短期的な記憶を忘れさせるより、特定の時間を誤認させる作業の方がはるかに楽だな。
お前も身にしみて解ったろう…。こういう事だったのさ」
「お、あ、え…」
「種が解らないから驚く。手口が巧妙で、見えないからこそ動揺する。
…マジックの基本さ。
これが奇術のショーなら、観客が驚いて笑って拍手を送れば、後は幕引きだ。
なのに人が死ぬ。バタバタ死ぬ。つくづく笑えない魔術もあったものさ…」
来栖は鍵を早瀬のポケットに返して、背中を向けた。
「冒頭の不可解な謎ってのはミステリーじゃお馴染みだが、最初から不可解な事なんざ何一つ起こっちゃいなかったんだよ、早瀬。
時間をかけてターゲットとなる者を仕込み、導入キーワードという起爆装置さえ予め人の無意識の中に植え込んでおけば今のお前のように、たった一言だけであっさりと人が人の手に落ちるんだよ…」
息が詰まり、早瀬は喘いだ。瘧がついたように躰が、筋肉がぶるぶると震えていた。
「力を抜け。自分の意志で勝手に硬直しているんだから、変な抵抗はするな。
…ほら、ゆっくりとだ。落ち着いて呼吸するんだ。浅い呼吸の連続は心拍を上げ、焦りを生み出し、却って暗示にかかりやすい体になる。俺の言葉に身を委ねろ」
落ち着いたのならそのまま聞け、と探偵は感情のこもらない声で言った。
「笑いや泣くという行為が、人にとって喜怒哀楽という感情の発露から齎される発作の一現象だと仮定すれば、これは肉体的な痙攣症状の一種ともいえる。
思い出し笑いや泣き上戸というのがあるだろう? アレの極端な例だと思えばいい。
高ぶった感情がある一定の閾値を越えると、人は喜怒哀楽の感情が自分でもコントロール出来なくなる。笑いや泣きのツボってのは人それぞれで、本人も自覚できないが故の発作的な情動って事だ。
感動ってやつもこれに含まれる。泣いたり笑ったり、鳥肌が立ったりするだろ?」
探偵はこの上なく低い、ぞっとするような語り口調で続けた。
「被験者…敢えてこの言葉を使うが、被験者の記憶の底に散らばっている過去に大笑いした記憶や体験を、現在の某かの状況と差し替えて接続すれば、突然自分に起こるそうした発作が、もはや何によって齎された情動なのか、なぜ自分がそんな反応をするのか、暗示を受けた側には一切解らない…。
その原因さえも知覚できないのだから当然だ。その頃には、もう被験者は自ら意志決定など一切出来ない…」
深い闇の底から響いてくるような声に、早瀬はひたすら戦慄した。
「当然だが、被験者達のそうした発作の真意や原因は周囲の人間達には一切解らないし、その意図が伝わる事もない。
目撃者達は口を揃えてこう言うしかないはずだ。“あの人は突然、気が狂ったように笑いだした”とな…」
コツコツという足音が響き渡る。わんわんとしたその厭な残響は耳鳴りとなって、早瀬の心臓の律動に重なった。
虚構のような現実から現れた暗闇は、早瀬には到底理解できない言葉を語っていた。
「きっかけはキーワードでも特定の物音でも何でもいい。コントロールする部分も、ほんの些細な感情や情動でいい。
反復と入力と忘却を交互に繰り返す事で、対象となる記憶は、より鮮明に人の意識の内側に入っていく…。
入力源を隠蔽すれば、もはや記憶はその人間の体験した事実にしかならない…」
暗闇はそこで僅かに振り返った。
「そう…。静止した画像同士を切り取って、いきなり逆再生するようなものさ。
遡った記憶に基づいて、お前はお前の意志で全身が動かせなくなった。
もっとも…記憶がとっ散らかったお前には、それがいつ、なぜ、どうやって仕込まれたのかは知覚できない…。
ふざけた舞台の、ふざけた公開実験の猿真似さ。こんな事件、本当なら関わりたくなかった…。それが俺の本音だ。
お前も覚えておくといいぜ。こんなアンフェアで非人道的な犯罪もあるって事をな…」
相変わらず椅子に磔にされたように、早瀬は一切身動きがとれなかった。
「安心しろよ。お前にかけたのはごくごく単純なものだ。こんな無粋な真似なんざ、俺だってもうこりごりだからな。
ここ数日、俺と一緒にいた時の短期的な記憶を思い出せなくした。肉体的な支配も今だけだ。すぐにお前は思い出すさ。その頃には、おそらく全て終わっているだろうがな」
「あ…え…あ…」
強張ったように顎が硬直している。声にならない。早瀬は叫んでいた。
何故だ!?
なぜだ?
ナゼダ?
声が出ない。
腕が痺れる。
舌が…乾く。
「口の悪い連中は俺を『死神』なんて呼ぶ。
人が死んだ場所に好き好んで現れるからさ。バタバタ人が死ぬのは呪いかお前のせいだ、お前が事件を呼んでいると言うのさ。
…傷つくよなぁ。まぁ、探偵ってのは昔から死神の別名で、人は血生臭い叫びや事件を娯楽として楽しめる差別的で因果で醜い生き物なんだと思うぜ。
俺はこの通り、正義感なんて、黴臭いのとは一切無縁だ。かと言って弄ばれた人間達の命や人の死を前に、謎が解きたいだの知的好奇心を満たしたいだなんて今さら糞みたいな事は言わないし、そこまで恥知らずにも器用にも出来ていない。そして…不確定性の理を知らない阿呆でもない」
来栖要は吐き捨てるような、低い怒りの声を露わにして言った。
「早瀬、警察同様に探偵も嘗められたものさ…。人殺しにも一分の理。
犯罪にも芸術性があるはずで、これはそうしたゲームなんだと俺は勘違いさせられた。
わざわざ敵の用意したステージの上で探偵らしくフェアに戦うのが、あの女を死なせない為の暗黙のルールだと曲解した俺は、最高の間抜け野郎だよ。
それこそ、反吐が出るような敵の思う坪だったとも知らずにな…」
人はとことん残酷だぜ、と死神のような目つきで来栖は言った。
「全て仕組まれていた…。
ここから先は人の記憶を弄び、聖なる神の言葉を血で汚して喜ぶような下衆同士の争いだ。
お前らにとっては、ただの蛇足。結末を知る必要も、知る意味もない。お前らは手を引け。もう関わるな…」
来栖は真っ黒で裾の長いレザージャケットをバサリと羽織った。
「さよならってのはほんの僅かの間、お互いが死ぬ事…なんだそうだぜ。
昔の悪友共と再会出来たのが、今回の一番の報酬さ。なかなかに楽しめた。じゃあな…」
あばよ、と来栖要はどこか寂しげに微笑むと。動けない早瀬の視界から消えた。
コンクリートの床の上に奇妙な色をした、あのライターがあった。ちろちろと揺らめく赤い炎から、早瀬はなぜか目が離せなかった。
その時。
爛れたような薄気味の悪い、赤黒い何かが。
一瞬。
視界を覆った。
早瀬の意識は、あっという間に闇の底へと落ちていった。
聖真学園連続殺人事件の容疑者、間宮愛子が逮捕を目前にして薬物中毒者の女によっていきなり殺害されるというその事件の報道は、近年稀にない凶悪な犯罪事件の一つとして、しばらくの間、世間を大きく震撼させる事となった。
殺人事件の容疑者が、よもや学校の保健校医であったという、そのとんでもない事実もさることながら、事件の背景にあった動機が衆人の予想をはるかに越えたところに存在していたところが、この騒ぎに大きく拍車をかけた。
テレビのニュース番組や新聞報道の錯綜する情報の中、あれよあれよという間に思わぬ形で事件がいきなり収束してしまうという事は確かにある。しかし、この事件のこの結末は、正に青天の霹靂であった。
買春に関わっていたと思われる大手広告代理店の重役や某政党の議員秘書、陸上自衛隊の某二等陸尉の逮捕という不祥事の数々も日を跨いで報道され、この尋常ならざる騒ぎを大きく後押しした。
無論これらは氷山の一角にしか過ぎず、この一連の売買春事件に関する逮捕者は今後も増えるだろうと思われた。
折しも『赤魔女事件』と名付けられた、この非常識極まりない一連の事件の顛末を、人々は例によって口々に噂した。
街中では派手に号外まで配られ、民放の一部の報道番組では番組内容を変更して事件の詳細を伝え、週末深夜の某テレビ番組では、教育現場や権力者の荒廃ぶりをテーマにした異例の特番を設けるなど、例によって世間は蜂の巣を突いたような大騒ぎだった。
当初、容疑者と目されていた人物は芸能人。それも十七才の高校生だったという事もあるが、推理小説のごとく二転三転する非常識な事件の様相は、やはり口さがない世間の耳目を集めてやまなかったようだ。
カリスマ高校生モデルとなると、社会的な影響力はやはり大きかった。
戦前の陰惨極まりない猟奇犯罪事件や、戦後しばらく続いた暴力団員同士の抗争による連鎖事件が現代に蘇ったようだ、と報道番組でそう語った犯罪評論家もいたが、実際のところ結果だけを見れば世間の目にはそのようにしか見えなかったに違いない。
都会の闇に暗然と穿たれた深く、暗い穴。冷たく乾いた人の心と都会の闇は未来永劫に消える事のない、どす黒い悪意と暗黒をその内に秘めている。
非常識極まりない事件に対する世間の統一見解は、どうやらその一貫した主張と方向性によって収束を迎えるようだった。
花屋敷はもう何度目かの溜め息をついた。かの探偵の台詞ではないが、陰惨でやりきれない事件の顛末は、やはりやりきれない、救いのない結末をもって迎えるよりなかったのだ。
花屋敷はコンビニで手に入れてきた週刊誌の何冊かを、喫茶店の座席へと投げ出した。
既に待ち合わせ場所に来ていた相棒の石原は、花屋敷の昼食と自分のデザートを注文している。
午前中の主要な聞き込み捜査は既に終わっていた。退屈に飽きていた市井の言葉とやらを、花屋敷はこれを機会に興味深く拝聴してみるつもりだった。
花屋敷は幾分、鼻白んだ様子で週刊誌の一冊を手に取ると、とりあえず適当に頁を繰った。
少年犯罪が背景にあり、さらには学校の中という特殊な現場で起こった殺人事件でもあり、かの酒鬼薔薇事件を比較対象に、真っ先に引き合いに出した記事はやはり多かった。
また、容疑者が逮捕を目前に殺害されるというショッキングな事件は、いつぞやの宗教テロ事件の一幕を彷彿とさせる顛末でもあったようだ。
関係者の有名高校生モデルをして芸能界の暗部に広がる薬物犯罪をネタにした記事も殊の外多い。あるいは、ただの陰惨趣味の変質者同士が、自分の病ゆえに成した悪行のように書かれた記事もあった。
この記事を読んで花屋敷は、またぞろ胸をかき乱されるような、それは厭な感慨を覚えた。
事件の核心たるべき真犯人である間宮愛子は周知の通り、既に死んでしまっている。
地下へと続く中庭には、川島厚子に殴られて昏倒したと思われる、教頭の羽賀亮一が倒れていた。
教頭の本名は高橋亮一。
彼は高橋聡美の実の父親である。彼によれば、地下に何があるのか薄々感じてはいたらしい。真相を知るのが怖かったのだと、教頭は後に供述した。
幸い頭部に軽い打撲の痕が残った程度で、傷が浅かったのは不幸中の幸いだった。
逮捕された川島厚子は極度の錯乱状態にあり、すぐさま警察病院へと緊急搬送された。
なぜ彼女があの時間帯に学園に侵入できたのか。なぜ教頭を昏倒させたのか、未だに不可解な点は多かったが、事情聴取にはとても応じられる状況ではなかった。
事件が終わって一週間。ここ数日は落ち着きを取り戻しているらしいが、彼女が果たして自分の起こした事件を覚えているかどうか、これも甚だ怪しいものだった。
女子高生の飛び降り自殺に端を発した、この一連の不可解な事件の連鎖は様々な混乱の果てに殺人事件とは一切関わりのない、事故で死んだ生徒の母親によって闇に葬られるという皮肉な結末を迎えたのだ。
まさに前代未聞の絶奇な結末というよりない。
殺人事件にしたところで、当初は被害者達が派手な死に方をした割には何も解らず、殺人事件の犯人そのものが誤解されていたなら犯人の意図も一切不明で、あちこちがまったく辻褄の合わない不可解な事件だったというしかない。
調べを進めるにつれ、事件は怪談の様相まで呈し、社会的な権威ある人間達の犯罪を次々に浮き彫りにし、結局は全体が一貫するようになって警察はすっかり手を焼くしかなかったというのが真相だ。
その警察がどこかというと花屋敷が捜査協力しているところの目黒警察署である。
殺人事件と平行する形で進められていた売春事件や、覚醒剤の入手ルートに関しての捜査が、やはり一番進展があった。
川島由紀子のものと思われる例のムスカリという赤い髪留めの中からは、ビニールのパケットに包まれた少量の覚醒剤の一部と折り畳まれたメモが発見された。
メモには数人の生徒達の名前と、十二年前の事件について彼女自身が述懐した、非常に簡単な文章が書かれていた。内容は推して知るべし。売春していた女生徒達の告発文である。
これにより、川島由紀子がなぜ売春グループに関わっていたのかが、ようやく明白となった。大方の予想を裏付ける展開ではあった。
メモにはなぜか、沢木奈美の名前だけは記されておらず、捜査本部では川島由紀子へ秘密裏に情報提供していたのは、彼女ではないかとみている。
売春していた十人の生徒達や売春の美人局を依託されていた花屋の店主、薬物を提供していた例の研究員達は、到って従順に供述を始めているという。
一条明日香の住む自宅の一室から発見された覚醒剤に至っては、この事件の決定的な証拠といえた。また、時を同じくして殺害された校長の自宅からは、売春の顧客名簿の原本まで発見されたという。
花屋敷と石原が事実確認に右往左往している間に、都合がいいように捜査本部には次から次へと証拠の山が築かれていった。
ここに至り、全ての事件は一挙に全面解決を見たのだった。しかし、例によって花屋敷には納得のいくものではない。
わざわざ日曜日を選んで新宿まで来たものの、探偵は留守だった。彼をよく知る占い師もまた不在であった。付近の住人にそれとなくあたってはみたが、夜でさえ彼らを見かけることはあまりないらしい。商売する気が最初からまったくないのか、ここ数日彼らを見かけた様子もないのだという。
まったく尻つぼみな結末である。花屋敷と石原が、またぞろ消化不良のように感じた事はいうまでもない。
よく解らなくなっていることは事実だった。
花屋敷にはうまく言えない。
やはり。
未だに何かが噛み合っていない。花屋敷と石原が割り切れない思いを抱いているのは、正にこの居心地悪さゆえなのだ。
『事件の解明は、新たな悲劇の幕開けにしか過ぎないのではなくて?』
その通りじゃないか。
花屋敷は間宮愛子のあの言葉を思い出す度に、言い知れない怒りと苛立ちを覚えていた。
花屋敷があの場で何も言えなかったのは、ひとえに社会正義というヤツと花屋敷の考える善悪の基準というものが完全に添い遂げるものではないと感じたからだ。決して加害者側に同情したわけではない。
よもや自分が次の事件の犠牲者になるなど、彼女にしても思ってもみなかったことだろう。
簡単なことだった。
花屋敷達はしくじったのだ。それでも。
刑事なんだ。迷うより疑っているぐらいでちょうどよかったのさ。
花屋敷は半ば無理やりにそう開き直って、アイスコーヒーの氷を噛み砕いて一気に飲み干した。
じっと黙っていた目の前の石原が唐突に先輩、と言って握り拳を顎にあてながら、神妙な顔つきで切り出した。
「例えば訳のわからない事件があったとして、何とか筋道を立てて理解しようと努力して、その結果得られた仮説を次々と証明していく…。
これは実に真っ当な捜査のやり方だと思うんです。
…けど、やはりこの事件の後味の悪さや胡散臭さは一体、何なんでしょうか?」
花屋敷は相棒に頷いた。
「お前の言いたい事はわかるぜ。学園での間宮愛子の犯罪と川島厚子が覚醒剤を常用していた犯罪。これらはそれぞれ覚醒剤という一部の要素を共有していただけ…。全く別の事件と考えるべきだ。
しかし、なぜそれらの事件の終結が最悪なタイミングで、かち合ったのか。これではあまりに都合が良すぎる…。そう言いたいんじゃないのか?」
石原は真剣な表情で頷いた。
「ええ…。被疑者の間宮愛子は死亡。覚醒剤は一条明日香が隠匿していた。
その一部は、川島由紀子が売春グループの告発を目的に所持していた。
彼女の死を契機に全く別のルートから川島厚子が覚醒剤を入手し、常用していた。
状況を整理するなら本当にたったこれだけです。事件の全貌はこれで全て晒されました。事件は終わったはずなんです」
でも、と言って石原は悩ましげに目を逸らした。
「それでも何かこう…何かがベタリと張り付いてるような、この厭な感じは一体何なんでしょうか?」
石原の表情は、いつになく暗かった。花屋敷は例によって犬のように唸るしかなかった。
花屋敷も明確な言葉には出来ないまでも、相棒と全く同じように感じていたからだ。
だが、ここは相棒の為にも敢えて否定すべきだと感じた。
「あのな、石原。ロジック重視の推理小説の話じゃあるまいし、結末は一から十まで理に適ってなきゃいけないってものじゃないだろうぜ。
昨今の殺人事件なんて実際、十中八九が痙攣的なものだ。今さらだが、動機だけなら普段から誰だって持ってるんだ。
殺害を実行に移すか移さないかはともかくとして、かっとして前後不覚になった場合や、それこそ薬物で錯乱して犯罪を犯したような奴に犯行の理由をいくら求めても無理だろう。
犯罪の後始末だなんだなんて、それこそ何も考えちゃいない連中なんだぜ?
理に適うもクソもない」
「それを言うなら先輩、この事件は最初から何一つ理に適ってなどいないんですよ?」
それもその通りなのだ。花屋敷は堂々巡りの思考に頭を抱えたくなった。
石原は再度続けた。
「不可解な事実は、結局は計画となるものが破綻したから…。あるいは被疑者や関係者達が秘密を隠蔽するあまり、徐々に自分達自身を追い詰めていった結果でしょう?
有り体に言ってしまえば自滅なんです。度重なる犯罪の自滅が、さらにここまで重なる結末を偶然の一言で片付けられますか?」
「そりゃそうだが…。じゃあ偶然じゃなければ、何だっていうんだよ?」
花屋敷の問いに石原は少しの間、窓辺の彼方に視線を送っていた。
初夏の午後。日差しは強く、日曜日の新宿は例によってごった返していた。
慎重に言葉を選んでいる様子の彼女は、再び花屋敷へと視線を向けて続けた。
「例えば、予測した段階ではその予測は正しかったとしますよね?
この際だから、仮に予断でも見込み捜査でも何でも構わないことにしちゃいます。
しかし、予測をしたことそれ自体が系を乱してしまい、全く別の結果を呼び込んでしまったということはないんでしょうか?」
「そいつはまた…一体、どういう意味だよ?」
石原は目を逸らした。
「私、何だか不安で仕方がないんです…。死亡した間宮愛子の台詞じゃないんですが、事件の解決自体が新たな事件の幕開けへ近づくなんて事が、本当にあるような気がして…」
相棒の言う通りだった。花屋敷が抱えている漠然とした不安感も、正にそこに理由がある気がしたからだ。
確かにこの事件を全て一つの事件と捉えると、徹底的に理に適っていない。
事態を滅茶苦茶にすることで得られる誰かの利益というやつが、まず全く想定できないからだ。誰も、何一つ得などしていない。
仮に来栖が推理した内容を早瀬を始めとする警察が早期に採用し、関係者達も予め間宮愛子が犯人だと知った上で行動していたとして、果たして最後のあの惨劇だけは回避出来ていただろうか?
あまりにも唐突で。あまりにも呆気なく。
花屋敷はそこに、やはり違和感を感じてしまうのだ。
あの探偵でさえ、予測はできても予知など絶対にできないはずだ。誘拐監禁という事件ならまだしも、今回のあの鈴木貴子の救出劇のようなものは、非常に特殊なケースだろう。あの学園だからこそ、あの変な探偵だったからこそ可能だったことなのだ。
誰かが起こしうる殺人行為を予め全て未然に回避や予期できていたら、刑事や探偵などそもそも必要ない。
推理小説にはよく『日常の謎』というヤツが登場したりする。平凡な日常に存在する不可解な謎。一見すると些細な事なのだが、奇妙な謎。
事件にすらなっていないような不可解な謎を探偵だの刑事だのが解き明かし、予め起こり得る事件や犯罪を予測し、あわや大事件に発展するところを未然に防ぐような探偵役の活躍譚というのはよく描かれる。
だが、これもやはり絵空事だから出来る事なのだ。刑事だからという訳ではないが、花屋敷は寡聞にして、結局は探偵のキャラクターを際立たせる為に存在する、そんな都合のいい英雄譚には懐疑的だ。再び考え込んでしまった花屋敷に、石原は続けた。
「始めの川島由紀子の死因にせよ一条明日香の自殺にせよ最後の川島厚子による殺人行為にしても、表向きの結論は一応出ているのに何かこう、歪んでいるように感じてしまうんです…。
こんなことを言うと誤解を受けそうなんですけど、私たち警察がどう関わっても…。
…いいえ、たとえ誰がどのような形で関わろうとも、予めこうなる予定だったような…。
そんな私達も知り得ないような仕掛けや動機が、もし背後にあったとしたらなんですけど…。
今までの展開を考えると、すんなり終わったと実感できないというか…。
とにかく、モヤモヤした厭な感じが消えてくれないんです」
石原は悩ましげな表情から一転して右手で握り拳を作り、自分の掌に思い切り打ちつけた。パチンという乾いた音が鳴り響いた。
店内にいた客の何人かがこちらを振り向いたが石原は気にせず、苛立った様子で再び続けた。
「あぁ、もう! こんなややこしい場当たり的で偶然だらけの推理小説があったとしたら、作者の顔を思いっきり、ぶん殴ってやりたい気分です!」
花屋敷は呆れて溜め息をついた。
「そりゃあ無茶だ。無茶というより無茶苦茶だ。だいたいお前、それはただの考えすぎだぜ。推理モノを読む読者は、作者には逆らえないように出来ているもんだ」
花屋敷は目を逸らした。
軽く笑い飛ばすつもりだったが笑えなかった。案の定、石原も笑っていなかった。好物のチーズケーキに一切手をつけていないのも、彼女にしてはめずらしかった。
場当たり的。
事件の作者。
偶然だらけ。
狂い笑う死。
いちいち何か引っ掛かる原因はどうもこれらの単語のようだった。キーワードだけで対象となる事件が解決するような、そんな都合のいい検索エンジンが頭の中にインストールされた人間がいたら警察に一人欲しいぐらいだ。これは機械などにはとても出来そうにない事だろう。
…いや。一人だけいる。そんな出鱈目な奴が。
花屋敷は再び深い溜め息をついていた。もちろん、件の探偵のことが脳裏に浮かんだからだ。
物語に出てくる名探偵や登場人物たちを散々こき下ろして馬鹿にする癖に、奴は推理小説や実際に起こった過去の犯罪事件や事件記録には異常に詳しい。
ついでに何の因果か、奴自身も今は探偵だ。
ただし性格はすこぶる悪い。
口も悪いし態度もデカい。
かつてハードボイルドが好きで、レイモンド・チャンドラーの作品をよく読んでいた花屋敷のアパートに何を思ったか、お土産だと温泉卵を大量に持ってきたようなふざけた男だ。
人を小馬鹿にして喜ぶような変人なのだ。
喧嘩は強いし酒も強い。今回は傷害事件まで起こしている。改めて思うに、世間には滅茶苦茶な男がいるものだ。
…奴は今、一体何をしているのだろうか?
花屋敷は鬱陶しい幻想を頭から締め出し、仕切り直すように相棒に言った。
「とにかく、この事件は終わったんだ。色々と気に食わないところも多いが、それはもう仕方がない。明日からはまた本庁にトンボ帰りなんだ。刑事は刑事らしく、今出来る事をするしかないと思うぜ」
「ええ…」
俯く石原。花屋敷の脳裏に、再び幻想の中の女の言葉が蘇った。
『さあ、イカレたパーティーはもう終わりよ…』
花屋敷は喫茶店の窓越しに街の姿へ目を向けた。往来を行き交う羊達の群れは今日も変わらず、忙しそうに雑踏を行き来している。
何一つ変わっていない日常の、その退屈なだけの風景に花屋敷は再び大きく溜め息をついた。
※※※
「“敵を愛し、迫害する者の為に祈れ"。
マタイによる福音書の一節に、こんな言葉があります」
7月2日。午前9時7分。
日曜の主日礼拝は、司祭のそんな言葉で始まった。貴子は自分の首に提げたロザリオのネックレスを握りしめた。
今日はめずらしくウェディングチャペルでの結婚式の予定は入っていないようだった。
普段の日曜に比べて比較的、信徒達の数も多かった。親に連れられてきた、幼い子供達の姿もちらほら見える。
子供達には神父様の話はさぞかし退屈なのか、友達と鬼ごっこをしたり携帯ゲーム機で遊んだりしている。無邪気な子供達が親に窘められているのを見て、貴子は苦笑いした。自分の幼い頃の事を思い出したのだ。
教会のステンドグラスから燦々と降り注ぐ初夏の陽光を受け、神父様は穏やかな口調で続けた。
「たとえば“世界中の人々を愛しなさい"と言われたら、これは言葉の上では簡単な事かもしれません。自分には直接関係のない人達を愛せ、ということですから…。
しかし、あなた方の敵。あなた方に嫌なことをする人。あなた方をいつも困らせる人。あなた方を常日頃から苦しめる人までも含め、“汝の隣人を愛せよ"と言われたら、これは簡単な事ではないでしょう」
神父はそこで言葉を切って軽く咳払いすると、再び携帯ゲーム機で遊び始めた子供達の方へチラリと困ったような視線を送って微笑んだ。
「この言葉はつまり、天の父なる神は悪しき者にも憎き相手にも。また、たとえ罪科ある者にも平等に雨を降らせ、太陽を昇らせているのだということです。
この言葉は、たとえ敵であっても仕返しや復讐を考えたりしてはならないという戒めであると同時に、全て全能なる神にお任せしなさいという、信仰の正しさはいかにあるべきかを説いているのだと解釈できます。
けして皮肉や排他的な意味合いではなく、親愛の情なくしては、いかなる信仰も有り得ないという事でありましょう。
『神を信じる者は、七度倒れても立ち上がる』。
『剣を取る者は剣によって滅びる』。
我々の信仰は、こうした二律背反する概念によって支えられている部分が多いという事に、今さらですが気付かされますね」
壇上にいる神父は穏やかな口調で続けた。
「我らが神は荒れた野において、邪悪なる者から三度の誘惑を受けつつも、これを退け、己の内にある霊を極限まで高めたといわれております。
ここでいう霊とは、超自然的な力でも何でもなく、信じる力…主への信仰心という事です。
飢餓からの誘惑に負けてはならない。神への畏怖心を忘れてはならない。神へ感謝して生き、無償の奉仕を忘れてはならない…。
これは『荒野の誘惑』と呼ばれ、我々にとっては欲望への戒めや死への恐怖には如何にして立ち向かうべきなのかを説く重要な教義としても有名です」
神父は再び続けた。
「そう。似たような教えが仏教にもありますね。ブッダの悟りを妨げるマーラは、女性の姿で立ち現れてブッダを誘惑したといいます。これはブッダが男性であったからでしょう。
仏教は煩悩に限らず、あらゆる執着を捨てよと教えている訳ですから、本来は愛する事をも否定します。
愛は執着ですから、美しい女性は悟りの妨げという訳です。女人禁制というのは本来、女性が煩悩の塊だという意味ではなく、女性がいかに男性にとって絶ち難い現世の執着であるかという裏返しでもあるのです。
男と女。どちらが欠けても世の中は成り立ちません。仏教者にとっては、人間の営みを越えたところに悟りというのは存在するのかもしれませんね」
神父はそこで言葉を切って周囲を見渡した。
貴子は興味深く聞いていた。
「人は様々な誘惑に打ち勝ってこそ、本来ある生を全う出来るものです。
しかし、あらゆる命を刈り取り、そして己の糧として食べていかなければ、一日たりとして生きてはいけないのが我々、人です。
そうした人が生まれつき背負った罪を我々の教義では原罪といい、仏教では業やカルマといいます。だから人は人として自然を愛しなさい、自然に感謝しなさいと説くのです。
山川草木悉有仏性と、仏教の教義ではそういいます。
この世に生きとし生ける者は皆、仏性…仏の心を持って生まれてくる。何一つ無駄に機能しているものはない。
天地人とは、人は天然自然の一部であり、天と地と共にあるものということなのでしょう。人は今ある自分に感謝して生きるもの、という事です…」
司祭はそこで貴子を見留め、少し表情を曇らせた。貴子もなぜか神父様から目を逸らした。
「世は無常といいます…。変わらないモノは何一つとしてない。
反対に人の世は無情といいます。情け容赦ない悲しい事件が世の中には溢れています…。
この世は詰まるところ、悪意と悪意の果てしない争いによって成り立っているのだ、とそう極端な事を仰る方々もおられます…」
信徒達は静かに神父様の言葉を聞いている。
微かなピアノの調べが流れる中、再び神父は続けた。
「人の死は悲しいものでしょう。悼むものでしょう。尊いものでもあります。だからこそ、祝福された死を我々は望むのです」
神父様の言葉に耳を傾けながら、貴子は自然と俯いていた。この場にはふさわしくない冒涜的な考え方が、やはりどうしても頭に浮かんできてしまう。
どうしたところで人は死んでしまえば、ただのモノだ。腐るか燃やされるかしかない。生きた人間は腐らないし、焼いたりなど絶対に出来ない。
火葬された人間はもはや骨の欠片でしかなく、埋められた人間もやがては朽ちて骨に変わる。
人の形を留めていない肉体は、もはや死者と一括りにされるしかない。しかし、肉体という器が滅びても、人の精神は消えない。
だからこそ信仰が生まれるのだと思う。
けれど、それでいいんだ…。
貴子はそう思った。
死者は自らの心の中に速やかに見送ってやらなければ生きていく者の人生がたちゆかない。
死者の霊に捕らわれる意識や生き方は、やはり妄念でしかない。亡霊を見るのは全て生きている者なのだ。醜い姿を見られて嫌なのは死者自身だ。そこを勘違いしてはいけないのだろう。
「人の数々の罪を背負い、磔にされた我らが神の贖罪によって、我々の原罪は贖われました。
その尊い行いによって彼は救い主となり、その高潔な行いによって人々を導くことになったのです」
これも母から聞いた事があった。キリスト教徒にとって、『復活』という言葉は非常に特別な意味を持つものなのだ、と。
死とは肉体が消えてしまう事だ。死とは生者が普段、意識しないもの。
母ほど敬虔ではない信仰が半端な貴子には、せいぜいその程度の印象しか持てない。だが、気付いた事はある。
身近な人の死は記憶との線引きなのかもしれない、と。貴子は改めてそう思い、そっと瞳を閉じた。幾度となく繰り返された光景が、貴子の中でリフレインされた。
瞼を閉じると無限の闇の向こうに死んでいった人達の幾つもの顔が浮かんだ。
笑ったり怒ったり悲しんだり…。
いろんな表情が、目の前に幾つも浮かんでは、消えていった。
彼岸と此岸。現世と常世。生者と死者。
分け隔てられた互いの境界は、未来永劫に交わる事はない。死者は生きる者の観念や人の記憶の中にしか存在しなくなる。
楽しい思い出も、愛おしい思い出も何気ない思い出も。互いに傷つけあったり共感したり悲しんだりした思い出も。人は思い出を作る為に生きている。そして、思い出とは記憶だ。
人の記憶からその人が消えてしまえば、死者は本当の意味で死者になってしまうのだ。
それがたとえ。
親友でも。クラスメートでも。
有名人でも。名前すら知らなかった人でも。
そして、殺人者でも。
死ねば…終わりだ。
貴子は目を閉じて、やりきれない思いの中、ただ無心に祈った。
聖堂に静かに佇む聖像。
目の前には大きな十字架。
静かなピアノの旋律が静謐な空間に流れている。
「世間には苦難に満ちた事件が溢れています。こうした試練の時を、せめて人々が皆、心安らかに過ごせるように皆さんも共に祈りましょう」
キリエ・エレイソン、とその神父は厳かにそう言った。
それに合わせて神徒達も復唱し、祈った。
カトリックとプロテスタントは、礼拝堂における崇拝の対象が聖像か聖書の言葉かという違いにも現れている。
司祭という位階がはっきりしているのは、カトリックの方だ。この教会に神父様はいるけれど牧師様はいない。聖歌はあるが、賛美歌という呼び方はしない。
教会に死という概念も、近いようで遠い。
神を敬愛するという点では日本の神道と同じだが、日本ほど湿っぽい印象はない。
死を穢れとして扱わないせいもあるからかもしれない。
死とは永遠の始まり。安らぎと平静は、生きている者の信仰の中にこそある。
死者の魂は、父と子と聖霊の御名において、大いなる存在と一つになるものだからだ。死者を和御魂や荒御魂といった御霊として奉り上げる神道とはそこが違うのだろう。
貴子の胸に親友の言葉が蘇る。
『この世に地獄ってさ…。あるのかな?』
それはまだ私にはわからないよ、由紀子…。
貴子は心の中で呟いた。
今となっては親友の遺言になってしまった。
あの世というものがあるのかないのか、貴子はもちろん知らない。今後知ることも叶わないし、生きている以上は知る意味もないものだろう。
天国だろうと地獄だろうと、仮にあの世があったとしても、生きてこの世界が続いているうちは、貴子はそこに行くことは出来ないからだ。
天国も地獄も、生きている者の為にある。今の貴子はそう思うからだ。
教義では、自ら命を絶つ者の魂は永遠に救済されない。貴子は死んでいった親友と、その母を思った。
礼拝を終え、信徒達が三々五々に教会を出て行く中、貴子はやり切れない思いを抱えながら一人、目を閉じていた。
ここは死を悼むのではなく赦される場所。
紛れもない清浄な景色とゆったりと流れる時間の中で、ようやく貴子は悼むことを許されていた。
「また来ていたのですね」
先ほどの神父が目の前に立っていた。
貴子は神父に深々と頭を下げた。貴子は一昨日も告解をする為にここへ来ていたから、それを覚えていてくれたのだろう。
「ええ、すみません、何度も来てしまって…。ご迷惑ですよね…」
「なんのなんの。謝ることは何もない。神は全ての人に平等です。もう落ち着かれましたかな?」
「ええ、少しだけ…。ここに来ると、小さかった時のことを色々と思い出しちゃいます。
礼拝堂で騒いでお母さんに怒られたこととか。一番最初に友達が出来たのも、ここでしたから。でも…」
「でも…?」
「体の方はなんともないんです。けど…」
「心の空白が埋まる事はない…。違いますか?」
その通りだった。貴子は正直に神父に頷いた。
「はい…。今までと何一つ変わりはないのに、次から次へと様々な感情が湧いてくるんです。どうしても死んだ友達のことを思い出してしまうんです…。
この場所で瞳を閉じて、祈って、一切の感情を意識的に遮断する事で辛うじて私は私を保っている。そんな気がするんです…」
「そうですか…。貴女の心は未だ深く、暗い迷いの中にあるのですね?」
「はい…。たとえどんな理由があれ、祈りの中で誰かの死に思いを馳せるのは、これは神様への冒涜だと思います…」
「友達への思いや執着を断ち切れないのは、冒涜ではありません。その友達を思うのなら、むしろ忘れてあげてはなりません…」
「忘れては…ならない?」
「そうです。心配することは何もない。父なる神は貴女の心が今、自分にはない事を知っておられます。
だから今、貴女を試されているのですよ。その迷いがきっと今の貴女を変えるからです。今は貴女にとって試練の時なのです」
「試練の時…? そんな風に考えた事…ありませんでした。迷いは心の闇だ、邪悪は振り払えとばかり…」
貴子の言葉に、神父は眼鏡越しの柔和な目を再び細めて微笑んだ。
「貴女はやはり真面目な人だ…。そうしたところはお母様にそっくりですよ。敬虔で友達思いで、優しいところなんか特にね…」
神父様は、俯いた貴子を慈愛のこもった目で見つめている。
本当にそうなのだろうか…。自分ではわからない。貴子は友達の迷いに気付かなかった罪深い人間だと思う。
「私はね貴子さん、こう思うのですよ。時が経てば体の傷は治る。しかし、誰かの死が齎す苦しみや悲しみはどんなに時間が経っても癒やされない事がある、とね」
「ええ…」
神父は柔和な顔で、天井にあるステンドグラスを見上げた。百合の花を手にした識天使ガブリエルが、聖母マリアに受胎告知をしている様子を描いた絵だった。
「ここには様々な方々が来られますよ。結婚を祝福された夫婦の為にたくさんの友人や家族や、その親戚の方々が笑顔で訪れたり…。
逆に黒い喪服を来た人が、ヴェールで顔を隠したり、顔を伏せたりして告解に訪れたりね…」
貴子ははっとした。喪服の一言に胸を突かれたような気がした。
「そうした方々は皆、貴女のように悲しみに包まれている…。空気がやはり違って見えるのですな。そうした事は伝わるものですよ」
「やはり…解りますか?」
神父は大きく頷いた。
「解りますとも。神秘的な事でもなんでもない。人の死や罪というものが持つ負のイメージは、そうしたものですよ。死を悼むのは人として自然な事です」
貴子は再び俯いた。
幾つもの命が儚く、そしてあっという間に散った。人の命を軽く扱う忌まわしい言葉や事件など、やはりあってはならないのだ。
でも、どれだけ目の前で人が死んでも、貴子の世界は変わらない。それ故に貴子は苦しんでいる。
貴子は生きている。生きているから祈れる。今はそれだけでいい。
神父は後ろを向いて、何かを手に取った。
「これを貴女に差し上げます…。持っていって下さい」
それは白い百合の花束を円形にした、ラウンドブーケだった。赤い色のリボンが巻いてある。
「これは…?」
「間宮から、貴女に渡してくれと頼まれたのですよ」
理事長が…私に?
「あの…。理事長をご存知なんですか?」
「知っているも何も、あいつは私の神学校時代の同級生なのですよ。腐れ縁の古い親友です。あいつもああ見えて、一応は神父です。
派手好きな芸術家タイプで、とてもそうは見えませんがね」
神父は笑った。
「そうだったんですか…」
間宮理事長に神父の資格があるとは知らなかった。しかし、考えてみればミッションスクールに聖職者がいても不思議ではない。
「戦後間もなく、貴女の通うあの学園でね。あの頃はまだ、空襲の名残であちこちが瓦礫だらけで壊れていた、そんな時代でした」
神父は昔を懐かしむように後ろ手に手を組んで、眼鏡越しの目を細めた。
「いつも貧しくて、いつも腹が空いていて…。神様の教えじゃ腹は膨れないと、こっそり愚痴を言い合っては、私達は闇市のドヤドヤしたところに行ってはよく学校をサボっていました。少ない食糧を分け合って食べたりしたものですよ。
皆、生きる為に必死でしたから、あの頃は何というか独特のパワーがあったんです。戦争に負けた腹いせですかな。何だかコンチクショウ、という感じでしたな、ははは。
まぁ、いずれにしても、遠い昔の話ですよ」
「そうだったんですか…」
「自分とて今は大変な時だというのに、あいつは随分と貴女の事を心配していましたよ。
実を言えば、今日の礼拝の言葉は殆どあの男の受け売りなんです。今朝方、使いの若い先生が来て手紙と一緒にそれをね」
恐らく山内だろう。山内が近いうちに学園の理事長を引き継ぐ形になる事は、貴子も知っていた。
異例の大抜擢といえるだろう。周囲からの反対の声もなかったようだ。貴子はそこに娘の死を誰より悼む理事長と、恋人を失った山内の胸の痛みを垣間見た気がした。
「彼女はきっとまた来るからと。貴女に何かを伝えたかったのでしょう」
理事長が。私に…。
貴子は顔を上げた。
「また…来ますか?」
「いえ…しばらくは。母や理事長に心配をかけているようですから。それに私も…いつまでも立ち止まってる訳にいきませんから。
…本当にありがとうございます、神父様。きっと、これからは大丈夫です。神様が私を救ってくださったのは、きっと私にはまだ、やらなければならない事があるから…。そう思います」
それがいい、と神父様は穏やかに微笑んで、大きく頷いた。
俯けば、つい歪んでしまいそうになる景色。やり切れない悲しみを振り切るように、貴子は目の前の十字架を背にした。
渡された百合の花束を手に、扉の前で貴子はもう一度ゆっくりと振り返って神父様に深々と頭を下げた。無理に微笑んでみせたから、きっとぎこちなく見えた事だろう。
過去に縛られて生きるのはもうやめよう。俯いて生きるのもやめよう。希望や未来は、けして足元には転がっていないはずだ。
明日という字は、明るい日と書くはずだ。
そうでしょう? 奈美。由紀子…。
温かい夏の日差しが貴子を穏やかに照らしていた。午後は学園へと顔を出してみるつもりだった。夏の太陽の光は、ひどく貴子には眩しかった。
光に満ちた世界は親友達との。そして過去の弱い自分との訣別を促しているように貴子には思えた。
その時、貴子の前に一つの人影が差した。
貴子は驚いて顔を上げた。
「勇樹…」
貴子、と制服姿の勇樹が呟いた。
彼女はなぜか、ひどく真剣な表情で貴子を見つめていた。
※※※
あれは1980年代の後半。
トマス・ハリスのサイコホラー小説を映像化した作品だったか…。
早瀬は『羊達の沈黙』という、アメリカのホラー映画のワンシーンを思い出していた。
名優アンソニー・ホプキンスが演じる元精神科医にして殺人者、ハンニバル・レクターとジョディ・フォスターが演じるFBIの女刑事、クラリスが獄中で面会するというシーンだ。
あの映画には精神異常者と認定された元医師、レクター博士という興味深い殺人者が登場する。
彼は通称バッファロービルと呼ばれる猟奇殺人犯の心理を的確に読んで推理し、女刑事へ解決の為にアドバイスをするというシーンがある。
猟奇殺人犯の異常な手口の真意と犯行に至るまでの心理の過程。様々な証拠品が物語る複雑怪奇を極めた殺人事件。そして、殺人犯の内面へと深く入り込んだ動機の解明。
悉く的中するレクター博士の推理力と知能の高さにクラリスは驚嘆し、殺人犯である彼に密かに尊敬の念さえ抱くようになる。
闇に堕ちた住人であるが故に彼は他人の闇を覗く術に誰よりも長けており、女刑事の心の闇を覗いてみたいという風変わりな欲求と引き換えに、彼女を様々な面でアシストするのだ。
女刑事が異常な猟奇殺人事件の犯人を追い詰めていくという、そのスリリングな展開もさることながら、『人喰いレクター』とあだ名される元医師のアームチェア・ディテクティブ…いわゆる現場に行かずに事件を解決する安楽椅子探偵ぶりが、二十年以上過ぎた今でも鮮烈に印象に残る、ホラー映画屈指の名作である。
残虐にも人を喰い殺した医師の知能は恐ろしいほどに高く、けして狂人などではない深い知性と氷のような冷静さが根底にあり、残忍な中にも狡猾的ともいえるその怜悧なキャラクターの魅せる演出の数々が、早瀬には当時、ぞっとするほど怖かった記憶がある。
「よぉ、またお前か…」
留置場の冷たいコンクリートの向こう側。暗がりの奥から茫洋と響いてきたその声は、映画のレクター博士を彷彿とさせるかのようにあくまで低く、そして淡々としていた。
同じ配置。同じ暗闇。同じシチュエーション。
これまた飾り気の全くないパイプ椅子が、鉄格子の前にぽつんとある。早瀬はゆっくりと扉に近付いた。
変人は留置場の鉄格子に凭れかかって何を考えたものか、どうやら聖書を読んでいるらしかった。早瀬が労うつもりで差し出した煙草の箱を、彼は鉄格子の隙間から後ろ手に黙って受け取った。
ここに立つ度に冷たい闇と会話するような不可思議な気分になる。
ピンという軽い金属音。鉄格子の向こう側。
ゆらゆらと。ぼんやりとした炎の明かりが揺らめいた。
パチリ、とジッポーライターを閉じる金属質な音が鳴り響いた。深い闇の中、ニコチンの匂いと共に不確かな紫煙の流体が周囲に漂い始める。
その背中へ向けて、まず早瀬が口火を切った。
「またそこでいいのか? 署の空き部屋なら、どこを使ってくれても構わないとさえ、ここの署長は仰っていたんだぞ」
「あいにくだが、ここが一番落ち着くんだよ。留置場の中で喫煙させてくれる寛大な処置には本当に感謝している、と後で署長さんには伝えといてくれ」
変人はこちらの方を振り返りもしない。その目は執拗に、手元の聖書の活字を追っているようだ。
「この変人め。保護室ならいざ知らず、捜査協力者を留置場に入れておくなど、本来ならば俺の方が逮捕監禁で処罰モノだぞ。豚箱からの情報提供がすっかりお気に入りとはな」
「ああ、この半端な暗闇は最高だぜ。拘置所に入りたくて悪さをする連中の気持ちが少しだけわかった気がする。
乞食は三日やったらやめられないと言うが、犯罪も同じなのかな。…実に快適だ。なかなか出来ない体験をしているな」
来栖の言葉に、早瀬はわざと芝居がかったようにネクタイを締め直した。
「事件解決に貢献してくれている我らが名探偵の来栖殿には、特別に昔の留置場を見学してもらうことにした。狭い場所だが、ゆっくりと鑑賞していってほしい」
「なんのなんの。過分なもてなしに感謝するよ、早瀬警視殿」
我ながら奇妙なやりとりだな、と早瀬は苦笑した。探偵も肩を揺らせて笑った。
脱走防止の為、留置場は本来は警察署の上階にある。しんとした地下には探偵と早瀬以外に人影はなく、静かなものだった。看守もいない代用監獄の、そのまた代用である。
パタリと聖書を閉じて探偵はようやく早瀬の方を向いて言った。
「で、聞きたい事ってのはまた事件の事か? お前らに必要な情報は、もうほとんど喋ったつもりなんだが…」
「ただの確認だよ。俺も下手をすれば訓戒では済まない。今のうちに現場の雰囲気にも慣れておかなければな」
「クク…警察庁の会議室には、なかなか素敵な方々がいらっしゃるようだな。お前のせいで事件が起きた訳じゃあるまいに…」
「責任を取るのが俺の仕事さ。
出世したい奴らの中には『若いキャリアがまたしくじってくれた』と喜んでる連中もいるんだろうから、俺としては身軽になれて有り難いくらいだ。…何にせよ、事件が解決したのは、お前のおかげだよ。ここから出た暁にはとびきり上等な酒を奢ろう」
「そいつは楽しみだな」
探偵は器用に紫煙をドーナツの輪っか状にして吐き出した。
ところで、と早瀬は切り出した。
「単刀直入に聞こう。お前しか知り得ない情報が幾つもあったのは確かだ。間宮愛子の行動は全てお前の手の内だったのか?」
「まさか。親父の仕掛けた悪戯は所詮、副次的な要素さ。俺が真相を看破出来たのも、たまたまだ」
「偶然だというのか? お前の手並みと花屋敷達の報告を聞く限りでは、最後のあの結末まで、お前は予測していたようにも感じたものだからな…」
探偵は鼻を鳴らして笑った。
「ハッ…よしてくれ。ファイロ・ヴァンスじゃあるまいし。偶然を装って犯罪者に人知れず罰を与えるなんざ、俺の趣味じゃないね。
それに警察なんかに褒められてもケツが痒くなるだけだ」
「では川島厚子が間宮愛子を殺害したのもたまたま…偶然だったというのか? 覚醒剤が出てきて事件は大騒ぎの末に一挙に全面解決。こんな都合のいい偶然があるか」
「それを言うなら早瀬、世の中は全て偶然で出来ている。今さら驚くまでもないだろうぜ」
「それでは必然や蓋然の立場はどうなる?」
「人間というのは小賢しい生き物だからな。それだけでは納得しないのさ。
人は朧げな偶然と偶然の点と点を線で結んで、はっきりとした像を造りたがるんだ。綺麗な形になった場合を必然と呼び、歪になった形を蓋然と呼ぶ。ただそれだけの事だ」
探偵はさもつまらなそうに手近にあった書物の山から一冊を抜き出し、再び読み始めた。喋りながらよく活字を追えるものだと感心する。この男にとって情報を摂取する行為と考えながら喋る行為は、食事と同じように習慣化された行動なのかもしれない。
探偵は続けた。
「起こるべくして起きた偶然を運命だ必然だ、やれ奇跡だと決めつけたり、思い込んだりするのは恣意的な論理の捏造でしかないし、この世には起こるべき事しか起こらない。そんなのは小説の中だけさ」
早瀬はくい、と己の眼鏡を押し上げた。
「お前の推理が、いわゆる調査と予測に基づいた思考の集積だというのはわかる。
だが、証拠を集め、蓋然性の高い可能性を逐一拾いあげて推理しているという点では、俺達の捜査と同じだろう?」
探偵は下唇を突き出し、ふうっと盛大に煙を吐き出した。
「それも違うな。探偵に必要なのは結果だけだ。こっちは依頼人の利益の為に、要するに金の為に仕事をしている。捜査なんて大それたことはしない。そんな権限もないしな」
「お前だって推理はするだろう」
「ただの手段だよ。危険なヤマを踏む場合もあるから格闘技もやるが、これも結局は自分の身を護る為でね。お前らとは立場も志とやらも全く違うさ」
探偵は紫煙を深く吸い込んで、今度は盛大に天井へと吐き出した。早瀬は再び探偵に尋ねた。
「世間では探偵行為による事件の解明は、英雄的な行為とされているが?」
「ふん、くだらない。いつの世も探偵は過大に評価され過ぎさ。探偵が英雄よろしく図に乗っていいのは、作り事の中だけでいい」
非常識な探偵はそう言って非常識にも背中越しのままゴロリと寝転がった。
早瀬は笑った。
「名探偵というのは、どうも非常識であるという事と同義らしいな」
探偵は口元を歪ませて、ニヤリと微笑んだ。寝転がりながらも、目だけは相変わらず執拗に本の活字を忙しそうに追っている。
「探偵ってのは要するに、そうした役割を振られた人間達の事なんだろうさ。
その探偵の系譜というヤツを遡れば、俺の先達はざっと165年前、アメリカはモルグ街の辺りを起源に存在し続けていることになっている。
この国ではまだ認められていないが、アメリカには探偵のライセンスというのもある。
つまり捜査する権利が公的に与えられた探偵というのもいるんだ。おかしな話だよな」
「歴史の影には正義の英雄あり…という訳か?」
とんでもない勘違いだぜ、と探偵は細かく肩を揺らせて笑うと、首だけで早瀬に振り返った。
「言っておくが俺はボランティアでこの仕事をしてるんじゃない。ただ分かりやすいから『探偵』を名乗ってるだけさ。
この国の言葉じゃ、離婚の為の身辺調査や人捜しをする興信所の連中も同じような名称を使うから、よく要らぬ誤解は受けるがな。
だが、おかげ様で不可解な謎の方から勝手に俺のところに舞い込んでくれる。警察より、はるかに給料はいいぜ。この不景気にな」
「世間に人の損と格差が満ち溢れている証拠だな」
「その損を埋めた分だけ報酬はもらう。金がないなら謎をもらう。俺のスタンスなんて、せいぜいそんなものさ。謎に満ちた不可解な事件なら正直ロハでもいい。謎も金も事件も、貰えるものは何だって貰う。だから俺は探偵になった」
「狡い男だな、お前」
「クク…狡くなけりゃやってられるか。なんとでも言うがいいさ」
探偵は寝転がったまま、手元でカチカチとライターを弄んだ。
「蓋然というのは、類推される物事から結論される物事だ。蓄積されたあらゆるデータ上の中でカテゴリー化された可能性のうちから、さらに絞り込んで予測されうる物事。事象化する上で確率化、数値化が可能な物事という事さ。
他の奴らはどうか知らないが、俺のやり方は別に推理するのが専売という訳じゃない。パソコンと同じことを人間がしているだけだ。
検索項目が依頼内容さ。現実の過去の事件やら類例やら、時にはトリックやらという項目から類似したキーワードを引っ張り出してきて、ただ圧縮すればいい場合もある。
…そうそう。お前が馬鹿にした、あのベルギー人で卵頭で髭のオッサンが喩えた“灰色の脳細胞”とか、あのコカイン中毒で愛嬌の塊みたいなイギリス人探偵が喩えた“頭の中の屋根裏部屋"とかいう表現が、まぁ一番近いといえば近いかもな」
「別に馬鹿にした訳じゃないさ。エンターテイメントとしての往年の名作や推理モノをこれでも俺は高く評価している。
エルキュール・ポアロやエラリイ・クイーン、ヴァン・ダインは高校の頃はハマった。ホームズだって割と好きな方なんだ」
内心の照れ隠しも含めて早瀬はそう弁解した。もちろんポアロやクイーンを、この偏屈な男に置き換えて間接的に賞賛してみたかったのだ。
この男の存在なくして、この途方もない事件が果たしてこのような形で収束しえただろうか?
早瀬に出来ることといえば、この煩わしい確認作業を早く終えて花屋敷や石原も交え、昔と同じように、この変人と一杯やりたいという事だけだったが、彼自身は再三に渡って事情聴取される待遇を、なぜか不満に思っている様子は微塵もないようだった。
「お前がミステリーマニアだったとは意外だな。そういえばお嬢ちゃんはP・Dジェームズのコーデリア・グレイに憧れていたが、結局は刑事になったんだそうだ。相棒はハードボイルドが好きな大仏だしな。俺の周りは変な奴らばかり集まるな」
変人は再び笑いながら、嬉しそうにそう言った。
「俺は最近また読んだ中では、中井英夫の『虚無への供物』やヴァン・ダインの『僧正殺人事件』あたりがやはり名作だと思ったな。あの独特な雰囲気は、あの巨匠達じゃなきゃとても出せない味だ」
気のせいだろうか。どこか含みを持たせるような微妙な言い回しのように早瀬は感じた。まぁそれはともかく、と探偵は言った。
「言うまでもなく推理というのはそうした蓋然をパズルのように組み上げていった作業…。最終的な結末に至るまでの一つの過程だ。そして、得られた結末にどう始末をつけるかで、未来はまた幾通りも変容するという事さ。推理を経て結末へと至り、そしてオチと呼ばれるエピローグに差し掛かる訳だ」
探偵はそこで片方の眉を大きく吊り上げてニヤリ、と微笑んだ。
「推理小説でいうなら、推理もロクに披露しないうちに捕まる探偵なんざ、ただの間抜け野郎だし、事態をロクに先読みもしないで、いきなり被疑者を逮捕するような警察は野暮の極みのごとき石頭共だ。
ピーピー口やかましく、後講釈の小便を垂れるのが賢いと勘違いしているリアル主義者共や、徹底した論理こそが美しい、とかエレガントな解答を期待します、とか宣う『本格教』の狂信者共が相手なら、これまた石ころの一つも猿の惑星から飛んでくるだろうな」
早瀬はしばし開いた口が塞がらなかった。もはや破壊的なまでに人を小馬鹿にしている。呆れて物も言えないとはこの事だった。
「何年経ってもプライベートな時の、その口の汚さだけは超一流だな。世間では、お前のような酔っ払いを『キチガイ』や『狂人』と呼ぶんだ。かわいそうだなと思う賢明な人達なら、まず例外なく無視という行動を選択する。送検されなかっただけでも有り難いと思え。チンピラ気取りの間抜けな探偵風情に見下げ果てられるとは、つくづく日本の警察やミステリーファンも焼きが回ったな」
「いいや、お前なら或いは、とは思ったさ。花屋敷といいお前といい、本当に何も変わらない…」
来栖要はふっと笑って目を逸らした。その何ともいえない孤独に伏せられた赤い瞳に、早瀬は少しだけ居心地が悪くなった。早瀬はあえて無感情なロボットを装って尋ねた。
「何でもお見通しといったところだな。お前…まさかとは思うが、本当に間宮愛子を泳がせていたんじゃないだろうな?」
古きよき取調室かここは、と探偵はうんざりした口調で天井を仰いだ。
「俺があの時点で、いずれ起きる可能性のある殺人事件の犯人がすぐに割り出せるものか。予測の範疇なんて、あくまで確率的なものなんだ。因果応報というが、人の隠したい過去は常に未来に復讐したがっていると、そういう事だろうぜ」
…それが俺には嘘臭く聞こえるというのだ。
釈然としない早瀬のそんな表情を読み取ったのか、来栖は再び片方の眉を釣り上げて、どこかシニカルな笑みを浮かべた。
しばしの沈黙があった。
探偵は、また別の本を抜き出して読み始めた。
「人間の意志のベクトルというヤツは、なぜか正反対の方向にも働きたがる。
…前にも言ったな?
社会や親から与えられ、学習した情報や遺伝的な獲得形質であれ本能であれ、良識や良心、宗教的観念や道徳観や倫理観。公共心や公徳心。何でも構わないが、そうしたものは知らず知らず人の無意識の海に無限に漂う、泡のような自我の一つ一つといっていい。
その自我の泡が寄り集まって早瀬一郎という人間の精神を形作り、早瀬一郎の肉体という器の中に宿っている訳だ」
探偵は相変わらず、こちらを見もしないで喋り続けた。
「人の肉体と精神は生きていく環境や時間的経過によって日々、その時々で様々に形を変えている。人格も同様だ。一時たりとして変わらない時はない。そして、それらは不可分にして互いに相関関係にあるものだ。
日曜夕方のテレビ番組で放送するサザエさんと同じで、家族の誰かが面倒を起こすと割と厄介な揉め事に発展するんだ」
「後半の喩えはやや頂けないが、趣旨はよくわかる」
呆れている早瀬に向け、来栖はニヤリと微笑んだ。
「事件は湖に石を投げ込んだ時のように、人の抱えている現実にも波紋を生じさせる。
事件から人へ。そして、人から人へとな。
単純なのに今回の事件を一番ややこしくしていた点は、結局そこだろうさ」
神妙に頷いた早瀬に向け、探偵は再び続けた。
「警察関係者達は事態の収拾や、突飛な情報の数々にただ混乱するだけ…。
事件の関係者達は急変する事態に翻弄され、不可解に散見する事実の数々に、ただ居心地の悪い思いしかできない。
それは要するに底深い部分での神様の悪戯…いわゆるこの偶然というやつが、あまりに突拍子もなく重なっていたからこそ起きていた誤認に過ぎなかったんじゃないのか?」
早瀬は溜め息混じりに頷いた。
こればかりは、この男の言うとおりだった。早瀬など急変する事件の数々へ対応するべく、ただ意味もなく右往左往していただけだ。早瀬は呟いた。
「ああ、その通りだな。偶然はいつだって最強だよ。不測の事態があまりにも多く重なりすぎた。それが俺達やお前の敗因と言われれば、確かにそうなのかもしれないな…」
二人の間に微妙な沈黙が流れた。
闇の中でもよく通る、独特の低い声で探偵は答えた。
「そう。ハインリッヒの法則じゃないが、不測の事態が起きる最大の要因は幾つも重なりあった噛み合わせの悪い偶然だ。
あらゆる事態をシミュレーションしていても、なぜか悪魔的な確率で厭な偶然というやつは起きてしまう。人はせいぜいが用心するしかない。だから都合のいい偶然ばかりが集まると、少しばかり話は違ってくるのさ」
「どういう意味だ? それぞれの事件に全く関連のない人間達がそれぞれに事件を加速させ、最悪なタイミングで最悪な事態へと収束した。この事件の場合、それが偶然だというのだろう?」
「そうだな。但し…」
来栖は声を潜めた。
「その偶然の糸が予め、選り分けられていたとしたらどうだろうな…」
早瀬は眉を顰めた。
「どういう事だ…?」
「花屋敷達には言ったが、誰かの引いた理屈の上に並んだ偶然というのは有り得るという事だ。この場合、偶然は偶然だが、それは既に見えない所では必然と呼ばれるものにすり替わっている。その可能性は…ないこともないかもしれない」
偶然では…ないだと?
一つ面白い事例がある、と来栖は言った。
「早瀬、お前はレミングを知ってるか?」
早瀬は困惑した。例によって質問の意図がまるで汲めなかったが、一応予備知識は早瀬の中にあった。
「あ、ああ…。確か自殺をする鼠の一種だろう? 餌が確保できないほどに数が増えすぎると、個体数を調整する為に突如として群れで行動し、海や崖下に飛び込んで集団自殺をするというやつだ。少数の犠牲でもって種の保存をはかるという珍しい鼠の事だな」
「現在、それは真っ赤な嘘でディズニーの映画や、世界的にヒットしたゲームが原因で世界中に広まった誤解だということがわかっている。数が増えすぎるとレミングが群れで集団行動するのは確かだが、それは同じ餌場に偏り過ぎないようにテリトリーを変えるからで、レミングに自殺するような習性なんてない。さる動物愛護団体もこれは捏造であると抗議した」
「そうなのか?」
早瀬は少なからず驚いていた。迷信を信用していた訳である。
「生物に本来、自殺するような機能なんてそうそうないんだよ。種であれ個であれ、生物の本能は常に生きる事を前提にして選択される行動だ。余計な事をごちゃごちゃと色々と考える、霊長類ヒト科の哺乳類様とは違う」
「お前はそう言うが、種を残したら、後は死ぬように出来ているのが生物の性だろう。雌に食われる雄の蟷螂などもいる。
これはある意味、種としての理に根差した自殺じゃないのか? よく悪女は男を食い物にするとか、用済みになったオスはカス、などと譬えられたりするぞ」
「それは雄としての役目を負えたからじゃなく、ただの共食いだ。狭い高密度な環境下で餌が不足していれば、蟷螂に限らず、雌でも雄を平気で食う。
蟷螂の雄は頭を食われても、生殖機能に影響はないそうだ。まぁ結果的に雄は死ぬ訳だが、雌の蟷螂は自分より体が小さくて動くものを捕食する習性があるからだよ。ヒトの男女の在り方なんざ、それこそ関係ないさ」
来栖は微かに笑ってから、さらに続けた。
「日本人がたまに差別的な意味に使う“ケダモノじみた"という表現は、だから面白いよな。人間によって命を絶たれた獣たちを主体にすれば、実に矛盾に満ちた不自然な言葉だ。逆に“人間らしい"と言えば、大概の人は好意的な意味に受け取るだろう?
これが言葉という呪いだ。
人という種は排他の頂点に立つ事で、万物の霊長という神になりえた究極の破壊者だ。呪われた言葉で言えば神であり、英雄であり、悪魔でもある」
冒涜的な事をさらりと言ってのけるあたりが、来栖要らしいと早瀬は微かに笑った。
早瀬は尋ねた。
「冤罪と同じで、濡れ衣や誤解はいつだって、その悪魔たる人間達の都合のいい解釈によって齎されるという事か? そうした考え方なら俺も賛成だ」
探偵はやんわりと首を振った。
「そうじゃない。このレミングの事例から得られることは、集団の中に紛れて死んだ鼠達の一部が、結局は濡れ衣を着せられたという事さ。集団で行動している中での数匹の死が、あたかもレミングという種は集団自殺する習性がある、というように種として位置づけられてしまったことさ。
『老いた母猿は川で溺れた子猿と生まれたての子猿のどちらを助けるのか?』という事例のように、個体は種の保存を第一優先に選択すると考えるのは、確かに形としてはすっきりしている。…俺はな早瀬、この事件でそのレミングを思い出した」
「そのレミングの誤った認識が、この事件と何の関係があるというんだ?」
「個から集へのダイナミズム。この捏造や誤認識というものが作り上げられる過程や仕組みが、実に興味深いと思ったのさ」
興味深いとくるところも、いかにもこの男らしいと早瀬は思った。不適切な態度ばかりとるが、この男は知的好奇心を刺激するものに目がないだけなのだ。
探偵稼業もこの男にとっては、ただの道楽にしか過ぎないのかもしれない。
「誤解だったにせよ、このレミングの事例は長らく、個体数調節理論を支えるという形で多くの人に支持された。集団自殺というショッキングな事実とディズニー映画の映像ってのは、それだけインパクト抜群だったんだ。
もちろん専門家の意見は違っていた。新たに第三者的な客観的視点が集団の中に導入された。それ故に判りえた事なんだ。
俺達が通常、あたり前だと思っている社会や現実の認識なんて、割といい加減なものだということさ。
集団に生まれる意識に疑心暗鬼という現象が起きる事で、当たり前だった日常的な行動やアクションが一旦バラバラに取っ散らかって、それぞれが客観視できるような舞台が組み上がらなきゃ、こうした第三者的な視点はなかなか全体にまで浸透しない。
多数決の少数意見と同様、集団の利益にとって些末な事象は、それがたとえどんなに整合性を持った理論だろうと、横に退けられてしまうことがある」
早瀬は大きく頷いた。こと学究の世界では、先駆者達の理論を大きく越える発見をする事や覆す事は容易ではないだろう。
「それまで普通だった物事が実は異常な事、特別な事という認識がそれぞれの意識に生まれれば、あとは推して知るべしだ。
あとはそれに付随する情報を広げる何らかの手段があれば、本末は一気に転倒する。初めて反証がさざ波のごとく、影響力を持ち始めるんだ」
早瀬は興味深く聞いていた。法廷ミステリーによくある逆転無罪のようなものだろう。
確かに、と早瀬は眼鏡のフレームをかけ直した。
「戦後のオイルショックで商店街の張り紙一枚でトイレットペーパーが売り切れたり、まだ生きている有名芸能人が死んだという噂がさも本物のように思えたり、大地震の後に流れるデマが、あたかも本当の出来事であるかのように広がる原理と同じだな。
国民に愛されるドラえもんの結末が、実は全て植物人間である野比のび太の見ていた夢だった、という悲惨なものもあったな」
噂やデマ、あるいは流言飛語があたかも本物であるかのように社会に浸透し、世間を騒がせる事は実際によくあることなのだ。
そうだ噂は侮れないんだ、と来栖は静かに呟いた。
「きっかけはどんな些細なものでもいいんだ。流言の発生条件は、大切な事が嘘か本当かわからない時に発生するんだ。
これはある意味で究極の伝言ゲームだよ。デマが現実に浸透しきった時には、発言者の意図は既に現実を離れている。その真意が巷間に伝わる事はない。発言者だって忘れている場合もある。
…だが、きっかけは間違いなくこいつなんだ。こいつの些細な悪意が現実を変えてしまったんだ。現実とは、社会が作り出す幻だ。だが、言葉は時に幻を凌駕する。
量子力学の理論と一緒だよ。観測行為それ自体が知らず知らずのうちに対象に影響を及ぼしてしまうというのは、一つの真理だ。
個々の差違を増幅させる事で限られた人々の意識に矛盾や誤認を呼び、生まれてきた混乱に、さらにほんの少しだけ手心を加えてやれば、直接手を下さずとも対象には思いもよらない結果は生まれる…」
早瀬はぞくりとした。今、見たのは錯覚か?
暗闇の中で来栖が一瞬だけ見せた表情は、早瀬が知るどの来栖とも違う、まるで別人のごとく残忍な色を帯びたように見えた。
探偵はゆっくりと顔を上げた。やはり早瀬の錯覚だったのか、それはいつもと変わらない来栖の茫洋とした表情だった。
来栖、と早瀬は詰問するように、幾分か声のトーンを落とした。
「学校裏サイトや七不思議…。
行方不明だった、あの女生徒…。
隠されていた、あの地下室…。
笑いながら錯乱して死んだ、女生徒達…。
自らの過去に怯えて人を殺した、あの女…。
錯乱して人を殺した、あの女…。
…これらは全て、誰かの仕組んだ意図的な罠だと言いたいのか?」
さあな、と獄中の探偵はしらばっくれた。まるで他人事である。実際、他人事ではあるのだが。
「ところで早瀬。先ほど話した推理小説…。ミステリーというのはあらゆるジャンルを盛り込める、臨機応変で画期的な奇矯の文学だと思わないか?」
「今度は…何の話だ」
はぐらかしているのか、茶化しているのかまるで解らぬ、その口調に、早瀬は来栖を睨みつけた。自然と語気まで荒くなった。
「随分と苛ついてるな。
…まあ、いい。ただの俺の戯れ言だしな」
なぜ引くのだろう。そんな言われ方をされれば気になるもので、それも恐らくこの男の手の内なのだ。案の定、ふてくされたような口調で早瀬は尋ねた。
「ミステリーが一体どうしたというんだ?」
「だからさ、ミステリーってのは面白くないかって話だよ。たんに知的なエンターテイメントとしての要素を含んでいるだけでなく、純文学や恋愛、ファンタジーの要素や様々な人間模様も話の中に組み込む事ができる。
社会的でリアルな背景も盛り込めるし、ジャンルも幅広く、今や何でもアリだ。
近未来だろうが過去の歴史モノだろうが、時代の設定なんかも自由なんだろう?」
早瀬は当惑した。話の意図や流れがまったく読めないでいる早瀬をよそに、探偵は勝手に続けた。
「俺は真っ暗闇の中でそうした妄想に耽るのが好きでな…。最近は暇なものだからひょっとしたら、この現実にも対応可能なトリックを著している名作は意外に多いなという事に気付いて、色々といらぬ夢想を逞しくしてみた訳さ」
「牢獄の中で、そんなくだらない事を考えるのは、お前ぐらいのものだ」
早瀬の憎まれ口など、一向に意に介さぬ様子で、探偵は続けた。
「もし俺達が生きているこの現実にも、非常に巧緻で悪魔的ともいえる真犯人の邪悪な思惑が底深くに眠っている事件があったとしたら…。そして、それをまた逆に作品にしてみたとしたら…。
…なぁ、これはちょっとした面白い読み物になると思わないか?」
早瀬は眉をひそめた。
「できればの話だがな。事実は小説より奇なり、だ。現実の生々しい事件を体験すれば、絵空事の中での美しいリアリティーなど描く気も失せるだろう」
「それは、お前が人間性ってやつを常に疑う立場の警察官だからさ。それに絵空事ほどリアルなものだと人はよくそう言うぜ?
一見、無意味で無価値だとしか思えない事象も底深い部分で、何かの意志が働いていると考えてみるのはどうだ?」
「何が言いたいんだ?」
早瀬は再び当惑した。
…何かの意志だと? 散見する事実は、あくまでも偶然だと先ほど切って捨てたのは、この男なのである。
沈黙する早瀬をよそに探偵は淡々と続けた。
「関わる人間達は皆一様にバラバラで、物語の底に流れるテーマが何を意味するかは気付かない…。しかし、人の行動や細かい部分の因果関係には確実に作用していく罠がある。
そんなとんでもない仕掛けや計画が、もし背後にあれば、非常に面白い話が組めると思わないか?
成功するかしないかはこの際どうでもいい。何年もかけて、幾度も幾度も実験を繰り返し、組み上げていくと仮定する。
…もし、そんな難儀で意味不明な事件があったとして、探偵役に振られた連中がそれを解決しなきゃならないとしたら、これは容易な事じゃないだろうなぁ。
…そう。舞台は学校なんてどうだろう?
多分、世間でも大騒ぎになるからな。
…うん、こいつは面白い読み物になるかもしれない」
「来栖…お前、さっきから一体何の話を…」
推理小説の話…。あくまでも仮定の話…のはずだ。真意を問い質そうとして早瀬はなぜか躊躇った。少しだけ寒気を感じるのは、早瀬の気のせいだろうか。
不安な早瀬をよそに、探偵は再びライターの炎を手元で弄びながら独り言を続けた。
「たとえば学園の全般的な動きを掌握するのに確実なのは、生徒一人一人の行動について、先行する何がしかの情報を持っていればいいんだろうな。
…何年生のどのクラスに所属していて、部活は何部に所属しているのか?
その生徒の交友関係はどの程度で学校では誰と一緒に昼飯を食う機会が多くて、休み時間は何をしていて、誰と行動を共にする機会が多いのか?
…誰と登下校をして、何を趣味とし、何に怒りを感じ、そいつらはまた、どういうシチュエーションに対して喜びや悲しみや怒りを感じるタイプなのか?
これは普段、彼らをよく観察し、面と向かって話を聞かなければわからないことかもしれない。
…ああ、けど表面上わかる事というのも多いから、これはそんなには気にならないかもしれないな。
学校はありとあらゆる人の情報で溢れ返っているし、おしゃべりや日常会話も含めて最近の高校生達は特に、そうした情報の塊だ。
私服の時のファッションスタイルや髪型、どんなアーティストのどんな曲が好きで、どの作者が描いたどんな本やどんなマンガが好きで、携帯電話の機種やストラップはどんな物で、芸能人なら誰に似ているとよく言われていて、嫌いな授業や教師は誰なのか?
そいつの話の仕方や会話の流れ。
中学までの学歴、病歴、親の仕事や家での趣味や行動などなど…。
一見していらないと思うような情報まで、あればあるほどいい。知る事も苦にはならない。楽しい実験や創作活動や趣味の一貫だと思えばな」
淀みなくそう語ると、探偵はそこで薄く笑った。早瀬は微かにおののいた。
あくまで淡々とした口調で来栖は再び続けた。
「そうそう、学校といえば先生達だな。
生徒同様に履歴書でもわかる事だが、この場合はフィールドワークこそが大事だろうな。教師や学校関係者であれば、恩師と呼べる人はまず誰だったのか。尊敬する人物は誰なのか。
どんな仕事をして何の教科を担任して、どういった授業の教え方を主にして、どんな作者のどんな作品を好む傾向があるのか?
過去や現在の家族構成はどうなのか、住んでいる所は貸家なのか持ち家なのか、アパート暮らしなのかマンション住まいなのか。
車の車種や趣味、学校以外の時間は何に一番金をかけるタイプなのか。
タバコは吸うのか、酒はどの程度飲むのか。
これも今までの学歴や病歴、昔の学校生活や生活態度はどうだったか。
かつてどんな恋人がいて、過去に何人の異性と付き合っていたか。
これも、一見いらないと思えるような情報まで知っておけば知っておくほど、この場合は役に立つ。…苦にはならない。
そうした事が好きで、人間観察が趣味なんだと思えばな」
早瀬はぞくりとした。
話のその異常な内容にではない。
淡々と紡ぎ出される探偵の言葉からは、そんな事はたいした事ではないとでもいいたげに聞こえたのだ。相変わらず全く意図が汲めない。
「そう考えると聖真学園ってところは、実に魅力的なキャラクターばかり集まったものだなぁ。場の設定自体がまず巧妙だ」
早瀬は沈黙した。
「七不思議なんて呪いまである。
呪いだの祟りだのってのは本来、不幸を管理する為の人間の知恵であり、方便だぜ?
禁忌に触れると何かに祟られる。何かを禁じるのは、結局は危険を回避したいが為だ。これは呪いのせいだと解釈するのは、不慮の事故や病魔に対する畏れを遠ざける為の方便なんだよな。
事故や病気に限らず、災厄ってのは人にとって避けられない時もあるから、祟りや呪いを持ってくれば、回避する道筋がつく。
そこに理由が生まれてしまう。
そこに理由がある事で、人はまず安心感を得る。その真意も解らないままにな…」
暗闇は再び静止した。
居心地の悪い、厭な沈黙だった。探偵はただ本の活字を目で追っている。
ああそうそう、と探偵は思い出したように声のトーンを上げた。
「聞いたか? 来月、婚約する予定の花田先生だが、桂木さんのご両親も結婚披露宴に参加する事になったそうだ。
なんでも花田先生の人柄に、ご両親親戚一同も賛同したようだ。二人の年齢差に、やはり周囲は驚きを隠せなかったそうだが」
「それはめでたいな。不幸中の幸いという訳だ。もう七月だし、幸せなジュンブライドという予定にはならなかった訳だが、ヨーロッパは地中海地方の風習など、そもそも梅雨時の日本には不要だな。俺はその二人には会っていないが、話を聞く限りでは、うまくいきそうでよかったじゃないか」
「ああ、本当に何が幸いするかわからない。人の縁ってのは異なものだな」
探偵はそこで、ふっと目を閉じて微笑んだ。
結婚が男女の在り方の全てではないのだろうが、幸せそうにしている恋人達は、やはり祝福してやるべきなのだろう。早瀬もゆっくりと頷いて言った。
「まったくだな。しかし、二人の年齢差を考えると前途洋々な未来とはいかないかもしれん。…おっと、これは要らぬ世話というやつだな。石原君に叱られてしまう」
「そうだなあ…。二人の馴れ初めというのが、何でも渋谷で若い不良共に絡まれた桂木さんを、花田先生が手に手を取って孤軍奮闘の末に救出したというんだから、人生ってのは誠に華麗なドラマに満ち溢れてるな。
普通が一番といいながら、普通に生きる方が難しいぜ」
なぜだろうか。来栖の思わせぶりな物言いが早瀬には微妙に引っかかった。
「何が言いたいんだ?」
「だから結婚は幸せなもので縁は異なものさ」
尻つぼみな物言いである。この男からまさか、結婚という話題が出るとは思ってもみなかった。
結婚といえば、と探偵はふと本から目を上げた。
「殺された校長の村岡芳郎だが、事件の直前に彼の奥さんから正式に離婚の申し出があったんだそうだぜ」
「それは知っている。原因は村岡の女性関係の醜聞だそうだ。熟年離婚などといわれるが、いずれよくある話だよ。葬儀は実家の久留米市だ。
身内だけでのささやかな、ひどく寂しいものだったようだが…」
世間はつくづく勝手なものだと早瀬は思う。殺された人間はなぜか、いい奴と悪い奴に分類されてしまう。これはなぜか、そういうふうに相場が決まっているものらしい。探偵も頷いた。
「そのようだな。これは関係ないことかもしれないが、奴の部屋からは女子高生モノやSMモノといった表の販促ルートじゃ出回らない類のマニアックなアダルトビデオのコレクションが多数出てきたそうだぜ」
「教師だって人間だ。売買春事件に校長が関わっているというのは確かに出来過ぎの感は否めないが、これも今さらの醜聞だよ」
来栖は再び本に目を落としながら続けた。
「赴任してくる以前にも、そうした話は絶えなかったらしいな。奴は鶯谷にあるラブホテルで一年前に揉め事を起こしてもいる。
何でもデリヘル嬢を殴ったとか蹴ったとかいう、なんとも穏やかじゃない暴行事件だったそうだ。
まぁ、ここ最近は大人しくしていたらしいんだが、あの校長も結局は私立学園の雇われ校長に過ぎなかったというのが、近在でも専らの“噂"だよ。例の悪ガキ共は、それを知っていたから奴に目をつけたんだ」
「意外だな…。お前が他人の事にこれほど興味を示すとはな」
早瀬の皮肉など意に介さず探偵は続けた。
「いや、実際よく出来た話じゃないか。ブルジョアな香り漂うミッション系の私立学園なんだぜ? 普通ならその時点で大問題さ。女生徒に脅されていたとはいえ、売買春に関わり、尚且つ覚醒剤を使用して社会的に権威ある人間達を脅すだなんて、悪巧みにしても、超ド級の不祥事だろう。
奴にしてみれば、実にドラマチックなアクシデントの連続だ。生徒達だって殆ど知らない情報だったようだぜ?」
「情報は…いや、噂はどこからでも漏れる。それも今さらじゃないか」
「そうだなぁ。まあ校長にとっては、随分と間の悪いタイミングだったようだな。
あの面白い監察医のセンセイの話だと、死後の病理解剖の結果、胃潰瘍でいつ入院してもおかしくないような状態だったらしい。相当なストレスを抱えていたのさ。
要は最初から、そういう人間だったという事になるのかな…」
「どういう事だ?」
「別にどうもしない。哀れな末路だと思うしかないって話さ」
散々気にしているような素振りを見せながら、その実、随分あっさりと突き放すような言い方である。
そうそう、と探偵はまた言った。
「須藤直樹は一年生の時に埼玉から転校してきた生徒だ。幼なじみとはいえ、アイツも死んだ川島君とは、随分とドラマチックな再会を果たしていた訳だな」
「お前にしては随分と他人のゴシップ話に花を咲かせるな。教師の次は生徒か?」
話の展開が既に支離滅裂である。あちこちに飛ぶから気が気ではない。
「…まあ、そう言うなよ。探偵のファイルには後日談のような追加項目が付き物なんだ。ところで、アイツは今どうしてる?」
「絶対に口外するなよ。須藤直樹は保護監察処分だ。スカーズとかいう例のチームも、売春組織ヘブンズ・ガーデンも、綺麗さっぱり崩壊だ。誰かさんが無茶してくれたおかげで、警察の手間は最小限で済んだ。司法取引なんて、この国じゃあと十年は成立しないだろうがな。
そういう意味でも、お前はお手柄だった」
来栖は意味ありげに微笑んでからふふん、と鼻を鳴らした。
「若いうちは多少やんちゃな方がいい人生を送れると思うぜ。まぁこの国じゃ色々と不便だろうが、ハンデのついた人生ってのも割と悪くないもんだ」
探偵は左手のグローブをくい、と引っ張ってから言った。
「まぁ須藤直樹は札付きのワルとして地元じゃ随分と悪さをしたようだ。転校の理由ってのも繁華街で酔っ払ったサラリーマンに暴行を働いたのが原因だったらしい。
その事実をひた隠しにしたい須藤の母親が、仕方なく離婚した父親のいる目黒区に舞い戻ってきたってのが真相のようだぜ。転校時の詳細なデータにも載っている」
「探偵の情報網もなかなか馬鹿に出来ないな。情報屋でも飼っているのか?」
「さあ…情報はよく漏れるんだろう? ついでに言うと、鶯谷の一画は、悪ガキ共の溜まり場だ。援交目的の高校生や中学生の待ち合わせ場所ってのも、どこかにあるようだしな。…おっと、警視庁の警視殿の前で口が滑った」
「そう…なのか…」
早瀬は語尾を濁した。やはり何かが引っかかった。
そうそう売春といえば、と探偵はまた、声のトーンを上げた。
「売春していた十人の少女達は一条明日香の熱烈な取り巻きだったようだな。
死んだ一条明日香ってのは、正に若者達のカリスマ教祖だったという訳だ。
彼女達は『ネットアイドル専用掲示板』とかいうので、互いに知り合ったそうだ。
同じ学校だから、情報交換もかなりスムーズだったようだぜ。
売春云々は誉められた事じゃないが、他人のゴシップネタをスレで話題にしているうちに、ある日崇拝する明日香様本人が掲示板にやって来たというんだから、実に面白い奇遇もあったものだなぁ。こういうのを運命だとでも勘違いするのかね。
…ああ、そういえば須藤が転校してきたのも、桂木さんが暴漢に襲われたのも、川島君が新聞部の副部長に就いたのも、一年前で、その頃の事じゃないか。
じゃじゃ馬娘はあの屋上でよくサボり、鈴木君は放課後に遅くまで居残っていたのも、実はその頃の事なんだよなあ…。
これは面白い“偶然"だ。一応、クライアントの理事長に報告してやるとするかな」
ああ理事長といえば、と探偵はまた話をすっ飛ばした。
「あの理事長は本当にマメな人でな、具合の悪い生徒がいると聞きつけては、飛んで駆けつけるような人で、頻繁に保健室を訪れていたようだぜ。生徒や娘思いの、返す返すも人格者の理事長じゃないか。
…そういや、間宮愛子は私立学園の美人カウンセラーとして、最近では週刊誌にも載るほど目まぐるしい活躍をする傍ら、大学在学中は局部麻酔に関する優秀な論文も発表したらしいぜ。そういえばインタビュー記事が、どこかにあったな…」
しばらくの間、ゴソゴソという物音が暗闇の牢内に響き渡った。マンガ喫茶でもあるまいに、どれだけここで暇を潰すつもりだったのだろう。奥の方は書籍があちこちに散乱している。
ああこれだ、と変人の裏返った声がした。
「ほぉ。関西のK薬科大学を首席で卒業か。
里親殺しという凄まじい過去を抱えてる上に、過去には死体遺棄や損壊罪まで犯して高校を卒業したってのに、随分と華々しい優秀な学歴を残してくれたものだな。
ええっと…なになに、彼女の研究テーマやノウハウのルーツは彼女が大学の時に学んだものではない、とも書いてあるぞ。
…ほら、ここにインタビュー記事が書いてある。お前も見てみろよ、ほら。
ええと…モデル雑誌のインタビュー記事ってのが、他にもあったような気がするな」
探偵は罰当たりにも傍らにあった聖書を壁際へぞんざいに除けて、今度は別の週刊誌を手に取った。
「ええと…ああ、これだ。
『私がここまで来れたのは父の影響です。父は私立学園の理事長でありながら、神父の資格まで持っています。誰よりも優しく、そして知識を得る事に対して誰より貪欲で厳しい人です。
戦後を生き抜いた父の妥協しない熱意と向学心、何よりもその強いバイタリティーを私は誰よりも尊敬しています。これからも自分の生徒達に受け継いでいきたい感性です。学ぶことへの意欲が、人間をより深く人間を形作ると父は教えてくれました』
…だとさ。
…どうだい、早瀬? 英雄ってのは、こういう人の事なんだ。死んで功績が始めて認められるような人間の事じゃない」
「返す返すも世間は勝手なものだな。花田先生もそうだが、同情の声が多いのは彼らの人徳によるものだ」
「そうだなぁ。にこやかな表情で笑顔を振り撒く事を忘れない。過去の事件を誰よりも悔いている。転んでもただじゃ起きないとばかりに、今も老体に鞭を打って学園再建の為に負傷した教頭先生やあの植田先生、それに後任の山内先生らと共に尽力している。生徒の保護者達からの信頼も厚い。
…正に教育者の理想像だ」
「来栖、お前…。さっきから一体何を…」
「いや、俺達が『世間の人々』と一括りに呼んでる集団幻想の化け物ってのは、本当に掌をクルッと引っくり返すのが、お上手だな。
落差をつけて落とすのがオチって訳だ。事情を聞けば、同情したくなるというだけなんだがな…」
いいだけ喋った事に満足したのか、薄い暗がりの中で探偵は再びゆっくりと壁に凭れかかって別の書物を手に取った。
通路の粗末な蛍光灯の光だけを頼りに、よく本が読めるものだ。
早瀬が思うに、夜間の仕事を好んでしている人間というのは、なかなかに屈折した生き方をしているものだ。この男も、そうした世界に生きている。
闇の中がやたらと馴染むのは、この男の性質によるところが大きいだろう。
早瀬は、この探偵が執拗に黒い色にこだわる理由がほんの少しだけ理解できた気がした。
人は目を閉じて眠る。
人が心地よい夜の眠りを欲するのは、視覚から齎される情報量が他の受容器官に比べて極端に多いからだといわれている。
視覚を遮断する事で、司令塔である脳を一時的に休止状態にしなければ、人の身体は保たないように出来ているのだろう。
暗闇は怖いといいながらも、昏黒の闇に完全に身を委ねる事で得られる安心感というものを人は常に求め続けている。
眠りと死が、ある意味で非常に近いものとされるのは、意識のない状態イコール死と認識する機能が、人の体に本能的に備わっているからだろう。
ギリシア神話でもニュクスという夜の神から生まれた神はヒュプノスとタナトスという、眠りと死を司る二柱の兄弟神に大別されている。両者は同じ根を持っているという事だ。
薄暗がりの中で、探偵は相変わらず本を片手にライターの石をカチカチとせわしなく弄んでいる。まるで線香花火のようだった。
早瀬は自然と火花を目で追った。目が眩むと解っていても光を注視してしまう。これも、闇の中だから起こりえる奇妙な矛盾だ。
闇の持つ懐の深さと広がりは無限だ。
闇の色は夜の色。闇は漆黒の夜と奈落の穴を同時に想起させる象徴的な黒だ。
黒色の持つイメージは、あらゆる色とも完全に決別している。パレットに白い絵の具を混ぜて灰色にしようとも、灰色は結局は薄い黒ともいえる。原色の赤を混ぜようとも黒はそれすら覆い隠し、完全に塗り潰してしまう。
黒は黒だ。何物にも染まらない。それだけで完結している唯一無二の孤独と終着をその内に秘めた、絶対的な存在なのかもしれない。
居心地の悪い沈黙の中で、早瀬は再び考えていた。
早瀬一郎を白とするなら、来栖要は黒だ。彼の立ち位置は、ある意味で早瀬には不可侵な領域なのだ。光と闇。鍵のかかった牢獄を境界に、二つの異なった世界が存在している。そんな気がした。
事件の最中でも感じてきたことだが、早瀬は来栖のいる、そちら側の自由に抗い難い魅力を感じている。だが、同時に決して自分には踏み入れる事はできない領域だろうとも感じていた。
早瀬は学園での一連の出来事を思い出した。
早瀬はよく推理小説で名探偵が最後に行う、秘密の解明というものを、どこか嘘臭い約束事のように感じていたが、この現実の探偵の所作を見るにつけ、その考えはただの無知だという事を思い知らされた。この偏屈な男は、最後に出張る時にも言っていた。
“事件を解体する"と。
解明でも解決でもなく、解体すると言ったのだ。明瞭ではないが、その意味が早瀬には少しだけ解ったような気がした。
推理小説の舞台がそうであるように、探偵が事件の終末に語る膨大な言葉の集積は、事件の関係者達がそれまで積み重ねてきた習慣や常識、人の内的な自我、内在する世界観をことごとく破壊できるだけの力を持っているという事だろう。
整然と収まるべきところに収まる論理的帰結を、人は美しいとも感じるものだ。
けして喩えではなく、言葉が現実を凌駕する事は不可能ではないとさえ思えてくる。そこが推理小説の魅力の一つでもあるのだろう。
本の頁を繰る音がした。
早瀬は無駄と知りつつ、再び邪推を試みた。
この男が事件のある時期を境に事件に全く関与しなかった理由を、だ。
不測の事態を予測できなかったが故の失敗。
…本当にそうなのだろうか?
自分の発する言葉の威力と、探偵としての関わり方を知っていたが故の行動だったのではないのか?
ひたすら思わせぶりな態度で回りくどく、それでいて淡々としたこの男の様子を見ていると、なぜか早瀬にはそう思えてしまうのだ。
再び頁を捲る音がした。
読むのがひどく早い。
緋色の瞳が無表情に、まるでメトロノームで計ったような一定のスピードとタイミングで素早くページを追い、また捲っている。
「速読なんて慣れさ。文字を頭の中で音声化しないだけでも随分と速くなる。あとは読む時の姿勢だとか視線の動かし方だ」
「よく、こちらを見ずに俺の考えている事がわかるものだな」
「これも慣れさ。ここ数日、仕方なくお前と面会しているんだから」
早瀬は憮然とした。
感情が全く読めない、こうした機械的な所作を見ていると、この男には実は感情がないのではないかと、そう考えてしまう。
少女を守る為に自分が罪を犯す。全く別の罪を糾弾する事で法的な処置を免れる。
司法取引などというこの国ではまず通用しない無茶な手段は、早瀬なら絶対に取らないだろう。早まった英雄的な行為とも受け取れるが、結果だけを見るならば、これもやはり本末転倒だ。
だが、この男の決断は、追い詰められた犯罪者のそれとは一線を画すものだ。そこに早瀬は言い知れぬ脅威を感じている。
早瀬には、とてもこの男のような真似はできないだろう。
警官だからという理由以前に、法や常識、良識だの倫理的な規制だのに縛られ、あるいは守られて生きている早瀬には、この境界を踏み越えるのは容易ではない。
早瀬はこの友人の見識と人間の深さを尊敬すると同時に、どこかで戦慄すら覚えていた。
物事の白黒を、はっきりとけじめをつける為に警察組織は存在するはずだ。真実を暴く探偵も、それに近いものだ。
少なくとも、今まではそう思っていた。
しかし、この商売っ気の全く感じられない探偵は、いざとなれば足し算も引き算もしない。そうしたカテゴリーからも相当に逸脱している。型破りと言ってしまえばそれまでだが、この男の行動原理は既成のどの枠にも型にも嵌らない気がする。
刑事の勘などという曖昧なものではない。来栖要からは明らかに、あらゆる意味で予測不可能な危険な匂いを感じとってしまうのである。早瀬にとっては特異点のような存在だ。
己の動悸がなぜか早まっていた。早瀬は徐々に、焦りにも似た感覚を覚え始めている。ざわざわと漫ろな気配に背中を撫でられ、じりじりと腹の底が炙られていくような妙な感覚だった。座っているのに落ち着かない。
冷たく乾いた、牢獄の中の影法師は、眩暈にも似た感覚で早瀬の足元を不安定に、覚束なくさせている。じわじわとした厭な寒気が一向にやまなかった。
実行犯とは全く性質の異なる、真の犯人と呼ぶべき人間がいる…?
早瀬は首を振った。
そんな訳はない。
事件は終わった。
終わったはずだ。
そんな現実があるはずがない…。
それこそ偶然だ。人を食ったような態度で煙に巻くのを得意とする、この探偵一流の詭弁ではないだろうか?
だが、と早瀬は考えた。今や考えざるを得なくなってしまっていた。
仮に。
起こりうるあらゆる偶然を想定し、無関係な事象までをも全て掌握した、ある計画があったとする。
事件の関係者達へ。
無関係な者達へ。
ゆっくりと。
時をかけ。
確実に。
予め。
水面下のあらゆる場所に様々なバイアスをかけておく。人の行動を著しく狭め、事件とは全く無関係な場所から介入し、事件の構造そのものを操る…。
…もし、そんな事が可能なのだとしたら?
事件の関係者は元より、無関係な人間達までをも、まるで糸のついたマリオネットを操るがごとく、何気なく動かせる超越者。
そんな、乱歩の地獄の道化師のような奴が、もしこの世に存在するのなら…。
それはもはや、人智を遥かに越えた領域の技といえるのではないだろうか?
ラプラスの悪魔や神仏はいなくとも、あらゆる境界を平気で乗り越える人間がいるというのは、この男を見ているとよくわかる。
人の領域を超えた存在。
不可思議な技術を操る者。
それは。
「馬鹿な…」
思わず声に出してしまった。
探偵がチラッと目を向けてきた。
早瀬は居心地悪く眼鏡を外し、暫し自分の目頭を押さえた。
一旦意識された眩暈は周囲の暗さのせいか、探偵の思わせぶりな弁舌の故か、なかなか元通りに戻ってはくれなかった。
探偵は先ほどからカチカチと執拗にライターを弄んでいる。鬱陶しい。
意識するまいとしているのに、なぜか気になる。周囲が暗いせいか、目がチカチカした。ライターの火花が明滅する度に、青い残像が目の前にちらつく。
鉄格子の向こう側にいる暗闇は、早瀬がそれまで意識しなかった部分をやたらと刺激してくる。
思えば、この探偵の果たした役割の真意はどこにあったのだろう?
早瀬はここに至り、改めて腑に落ちない点を実感していた。
ただ事件の謎を解明するだけならば、やはり、わざわざこの男が学園に出向く必要はなかったのではないのだろうか?
鈴木貴子の救出を最優先し、犯人である間宮愛子を止める為。本人はそう言っているが、それとて花屋敷や石原に彼女の保護を依頼するか、直接的に早瀬に示唆すればよかった話ではないのか。
もはや結果論にしか過ぎないが、この男が積極的に関わらなければ、あるいはあの被疑者は死なずに済んだのではないのか?
早瀬は改めて思った。
目の前に転がっている、この不可解な事実こそが寒気の正体ではないのかと。
この男なら最初から、それこそ安楽椅子探偵のように指一本動かす事なく殺人犯を割り出し、警察を手足として使うことなど難なくできたはずなのだ。
そう。たった今の。この数日間の状況のように…。確か昨日もそうだった。
待てよ。
昨日…?
この数日間だと?
…事件が終わって俺がここに来たのは、確か今日が二度目だったはずだ。
この男はここから一歩も出ていない。この男は早瀬以外、誰にも会っていないはずだ。
昨日とは…いつだ?
『よぉ…またお前か』。
『あの面白いセンセイに聞いた話じゃ…』
『ここ数日、お前とは仕方なく一緒に…』。
早瀬は顔を上げた。
その時だった。
「赤い魔術師と黒い死神」
「うっ…!」
何だ。
体が…。
動かない!
「悪く思うなよ」
きぃ、という微かな音と共に早瀬の目の前の鉄格子があっさりと開いた。
「早瀬、タロットカードの魔術師の事だけどな…。魔術師の頭上に描いてある無限大のシンボルと腰帯は、ウロボロスの蛇を暗示しているんだそうだぜ。
無間地獄ってもんがこの世にあるとしたら、終わらない悪夢なんざ今の世の中、あちこちにいくらでも溢れ返ってるなぁ。
あの女は正しいぜ。人の悪意の数だけ、人の数だけ無限に悪夢が存在するなら、この世はある意味で既に無間地獄ってことさ」
「お、お前…。俺に…な、何を…した…?」
「ちょっとした暗示さ。
…いや、やはり魔術かな。お前が俺を疑うからだぜ? 思ったより手こずったな」
探偵は早瀬のポケットから銀色の鍵を抜き出し、早瀬の目の前に掲げた。
「自分で昨日外したことすら覚えていない鍵なんざ、ないも一緒だな。俺がこの週間、お前なしに飲まず食わずでいられた訳がないんだがな。
“昨日”って時間を認識できないだけで、このように過去はすべからず齟齬をきたす。
…驚いたぜ。効果覿面だ。
短期的な記憶を忘れさせるより、特定の時間を誤認させる作業の方がはるかに楽だな。
お前も身にしみて解ったろう…。こういう事だったのさ」
「お、あ、え…」
「種が解らないから驚く。手口が巧妙で、見えないからこそ動揺する。
…マジックの基本さ。
これが奇術のショーなら、観客が驚いて笑って拍手を送れば、後は幕引きだ。
なのに人が死ぬ。バタバタ死ぬ。つくづく笑えない魔術もあったものさ…」
来栖は鍵を早瀬のポケットに返して、背中を向けた。
「冒頭の不可解な謎ってのはミステリーじゃお馴染みだが、最初から不可解な事なんざ何一つ起こっちゃいなかったんだよ、早瀬。
時間をかけてターゲットとなる者を仕込み、導入キーワードという起爆装置さえ予め人の無意識の中に植え込んでおけば今のお前のように、たった一言だけであっさりと人が人の手に落ちるんだよ…」
息が詰まり、早瀬は喘いだ。瘧がついたように躰が、筋肉がぶるぶると震えていた。
「力を抜け。自分の意志で勝手に硬直しているんだから、変な抵抗はするな。
…ほら、ゆっくりとだ。落ち着いて呼吸するんだ。浅い呼吸の連続は心拍を上げ、焦りを生み出し、却って暗示にかかりやすい体になる。俺の言葉に身を委ねろ」
落ち着いたのならそのまま聞け、と探偵は感情のこもらない声で言った。
「笑いや泣くという行為が、人にとって喜怒哀楽という感情の発露から齎される発作の一現象だと仮定すれば、これは肉体的な痙攣症状の一種ともいえる。
思い出し笑いや泣き上戸というのがあるだろう? アレの極端な例だと思えばいい。
高ぶった感情がある一定の閾値を越えると、人は喜怒哀楽の感情が自分でもコントロール出来なくなる。笑いや泣きのツボってのは人それぞれで、本人も自覚できないが故の発作的な情動って事だ。
感動ってやつもこれに含まれる。泣いたり笑ったり、鳥肌が立ったりするだろ?」
探偵はこの上なく低い、ぞっとするような語り口調で続けた。
「被験者…敢えてこの言葉を使うが、被験者の記憶の底に散らばっている過去に大笑いした記憶や体験を、現在の某かの状況と差し替えて接続すれば、突然自分に起こるそうした発作が、もはや何によって齎された情動なのか、なぜ自分がそんな反応をするのか、暗示を受けた側には一切解らない…。
その原因さえも知覚できないのだから当然だ。その頃には、もう被験者は自ら意志決定など一切出来ない…」
深い闇の底から響いてくるような声に、早瀬はひたすら戦慄した。
「当然だが、被験者達のそうした発作の真意や原因は周囲の人間達には一切解らないし、その意図が伝わる事もない。
目撃者達は口を揃えてこう言うしかないはずだ。“あの人は突然、気が狂ったように笑いだした”とな…」
コツコツという足音が響き渡る。わんわんとしたその厭な残響は耳鳴りとなって、早瀬の心臓の律動に重なった。
虚構のような現実から現れた暗闇は、早瀬には到底理解できない言葉を語っていた。
「きっかけはキーワードでも特定の物音でも何でもいい。コントロールする部分も、ほんの些細な感情や情動でいい。
反復と入力と忘却を交互に繰り返す事で、対象となる記憶は、より鮮明に人の意識の内側に入っていく…。
入力源を隠蔽すれば、もはや記憶はその人間の体験した事実にしかならない…」
暗闇はそこで僅かに振り返った。
「そう…。静止した画像同士を切り取って、いきなり逆再生するようなものさ。
遡った記憶に基づいて、お前はお前の意志で全身が動かせなくなった。
もっとも…記憶がとっ散らかったお前には、それがいつ、なぜ、どうやって仕込まれたのかは知覚できない…。
ふざけた舞台の、ふざけた公開実験の猿真似さ。こんな事件、本当なら関わりたくなかった…。それが俺の本音だ。
お前も覚えておくといいぜ。こんなアンフェアで非人道的な犯罪もあるって事をな…」
相変わらず椅子に磔にされたように、早瀬は一切身動きがとれなかった。
「安心しろよ。お前にかけたのはごくごく単純なものだ。こんな無粋な真似なんざ、俺だってもうこりごりだからな。
ここ数日、俺と一緒にいた時の短期的な記憶を思い出せなくした。肉体的な支配も今だけだ。すぐにお前は思い出すさ。その頃には、おそらく全て終わっているだろうがな」
「あ…え…あ…」
強張ったように顎が硬直している。声にならない。早瀬は叫んでいた。
何故だ!?
なぜだ?
ナゼダ?
声が出ない。
腕が痺れる。
舌が…乾く。
「口の悪い連中は俺を『死神』なんて呼ぶ。
人が死んだ場所に好き好んで現れるからさ。バタバタ人が死ぬのは呪いかお前のせいだ、お前が事件を呼んでいると言うのさ。
…傷つくよなぁ。まぁ、探偵ってのは昔から死神の別名で、人は血生臭い叫びや事件を娯楽として楽しめる差別的で因果で醜い生き物なんだと思うぜ。
俺はこの通り、正義感なんて、黴臭いのとは一切無縁だ。かと言って弄ばれた人間達の命や人の死を前に、謎が解きたいだの知的好奇心を満たしたいだなんて今さら糞みたいな事は言わないし、そこまで恥知らずにも器用にも出来ていない。そして…不確定性の理を知らない阿呆でもない」
来栖要は吐き捨てるような、低い怒りの声を露わにして言った。
「早瀬、警察同様に探偵も嘗められたものさ…。人殺しにも一分の理。
犯罪にも芸術性があるはずで、これはそうしたゲームなんだと俺は勘違いさせられた。
わざわざ敵の用意したステージの上で探偵らしくフェアに戦うのが、あの女を死なせない為の暗黙のルールだと曲解した俺は、最高の間抜け野郎だよ。
それこそ、反吐が出るような敵の思う坪だったとも知らずにな…」
人はとことん残酷だぜ、と死神のような目つきで来栖は言った。
「全て仕組まれていた…。
ここから先は人の記憶を弄び、聖なる神の言葉を血で汚して喜ぶような下衆同士の争いだ。
お前らにとっては、ただの蛇足。結末を知る必要も、知る意味もない。お前らは手を引け。もう関わるな…」
来栖は真っ黒で裾の長いレザージャケットをバサリと羽織った。
「さよならってのはほんの僅かの間、お互いが死ぬ事…なんだそうだぜ。
昔の悪友共と再会出来たのが、今回の一番の報酬さ。なかなかに楽しめた。じゃあな…」
あばよ、と来栖要はどこか寂しげに微笑むと。動けない早瀬の視界から消えた。
コンクリートの床の上に奇妙な色をした、あのライターがあった。ちろちろと揺らめく赤い炎から、早瀬はなぜか目が離せなかった。
その時。
爛れたような薄気味の悪い、赤黒い何かが。
一瞬。
視界を覆った。
早瀬の意識は、あっという間に闇の底へと落ちていった。
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