暁の魔術師

久浄 要

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狂騒

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21

「それでは次のニュースです。
秋田県藤里町で起こった、小1児童殺害事件の容疑者が昨日逮捕された影響を受け、今年に入って全国で子供が殺害される事件が相次いで起きていることに関し、文部科学省では…」

外の大雨の音に混じって、テレビから女性ニュースキャスターのそんな声が聞こえてきた。早々の帰宅を諦めざるを得なくなった老教師の花田光司と事務員の桂木涼子が、部屋の隅にあるテレビを見て、何やら話していた。

山内は束の間、テストの採点の手を休め、窓の向こう側へと視線を向けた。

上空から降り注いでくる白い糸のような雨の軌跡が、濃密な暗闇の中、その輪郭をはっきりと際立たせている。

ニュースの前のローカル番組では雨合羽を着たアナウンサーの女性が、関東一円に暴風波浪警報が発令されたことを伝えていた。

蛍光灯の白々しい照明が、きちんと整頓された殺風景な職員室の内部を照らしている。味も素っ気もない丸い壁掛け時計の針は、夕方の18時10分を指し示していた。

山内は三分の一ほどを片付けた答案用紙を押しやり、ホッと一つ溜め息をつくと、どしゃ降りの雨に霞む暗い窓の向こうを眺めた。

結局、今日も遅くなってしまった。

花田や桂木と同様、この大雨の中を突っ切って職員用の駐車場へ向かうのは、些か無謀な気がした。

残った仕事を片付ける間に、ほんの少しでも小雨に変わるのを期待していたのだが、表の豪雨は止むところを知らず、今も暴風が吹き荒れている。

山内はデスクの上の電話機に視線を落とした。職員会議が終わってほどなくして、成瀬勇樹の母親から連絡があった。

心配していた警察による事情聴取の方は、ただの確認作業だけだったようだ。特に何も問題となるようなこともなく、成瀬の体調にも異状は見られないということで、ひとまずはホッとした。

母親の話では、成瀬は明日からは普通に登校できるだろうということだった。

ご迷惑をお掛けして本当にすみません、と成瀬勇樹の母親は何度も山内にそう言った。受話器の向こう側で、頭を下げて必死で謝る姿が目に浮かぶような声音だった。

だが、成瀬の安否をほっと安堵する一方で、山内は今度は別の意味でため息をつかざるを得なかった。

加害者側である須藤直樹。

彼の母親へは、明日にも学園の理事会で正式に退学処分が決定したことを告げねばならない。須藤の家は確か母子家庭だったはずだ。

目黒署にいるのであろう本人には、果たしてどう伝えたらよいものだろうか。

須藤に加担していた渡辺と佐藤も含め、最後通告を伝えるのは担任教師達の役目だ。そう思うと山内は、ますます気が重くなった。

世界が歪んでいる。

そんな風に感じてしまったのは、一体いつの頃からだろう。

山内は自問自答を繰り返してばかりいた。

一体、何がここまで彼らを狂わせてしまったというのだろうか?

山内は、自分の生徒達のことは誰よりも気にかけてきたつもりだ。

成瀬にしろ須藤にしろ、川島由紀子の自殺を始め、自分のクラスの生徒ばかり、立て続けに事件を引き起こしているようなこの現状を、山内は計りかねている。

なぜ、今なのだろうか?

よりによって山内の周辺で。

これではまるで…。

まるで12と同じではないか。

こんな奇妙な偶然が、果たして有り得るのだろうか?

川島と親しかった鈴木は今、どうしていることだろう?

事件当日に体育館の片隅で膝を抱え、まるで世界の全てを閉ざしてしまったかのように、茫然自失した鈴木貴子の、寂しそうな姿を山内は思い出していた。

あの時、山内が鈴木に声を掛けたのは、彼女が自分の担任クラスの生徒だったからというよりも、昔の自分の姿を彼女に重ねていたからだった。

身近で大切な誰かが突然いなくなってしまう気持ち。それは山内にとっては他人事ではない。誰よりも仲のよかった親友を、あんな形でいきなり失ってしまった彼女の気持ちを考えると本当にやりきれなかった。

溌剌とした明るい笑顔をいつも振りまいていた川島由紀子の笑顔を思い出す。

山内は思う。学校という環境で親友と呼べる人間と巡り会い、同じ制服を着て共に過ごせる時間は、たった三年間という時間の間にしかないのだ。

川島はもういない…。

座る者のいなくなった机にポツンと飾られた花瓶。やがては朽ちてゆく真新しい白い百合の花。

死という動かしようのない孤独な事実と、心にいきなりぽっかりと空いたような空白。そして、幾つもの思い出と共に浮かんでくる、彼女の存在が失われてしまったという喪失感。

それらが真綿で首を絞められるようにジワジワと生徒達を蝕んでいくのは、きっとこれからなのだろう。

卒業式の日に黒板に大きな落書きをして、共に新たな場所に旅立つことも。卒業文集に自由にメッセージを綴ることも。一緒に卒業証書を受け取ることも。友人と再会を誓い合うことも、自分の秘めた想いを誰かに伝えることもできないままに…。

一年生にとっては二年後の。二年生にとっては一年後の。そうした当たり前のように想像できる、予定調和化された未来の景色こそが、実はその時、その一瞬しかない学校生活を、何よりも貴重で幸運な時間にしているのだろう。山内はそう思う。

その時、職員室の扉が開き、白衣を着た保健校医の間宮愛子が入ってきた。彼女は何やら神妙な顔をしながら、山内の隣にある自分用のデスクにやって来た。

「お疲れ様。理事長の具合はどうだい?」

山内は彼女に尋ねた。彼女は心配ないとでもいうように微笑んでみせた。

「ええ、大丈夫よ。いつも通りの軽い発作だったみたい。薬が効いて、今は理事長室で子供みたいに眠っているわ」

「そうか…。いろんなことが起こり過ぎて、理事長も身体のあちこちに無理がたたってるんだろうな。昼頃に来た刑事さん達の事情聴取にも応じていたらしいし。すまないな…。君にばかり苦労をかけて…」

「別にあなたが謝ることじゃないでしょ」

と愛子は困ったような嬉しいような表情で、再び山内に微笑んで見せた。

「…大丈夫よ。お父様はああ見えてかなり頑丈な人だから。70過ぎとはいえ、戦後の食糧難の時代を生き抜いてきた人の生命力を甘くみちゃいけないわ」

彼女はそう言って再度、微笑むとデスクの自分の椅子に腰掛け、ホッとしたような溜め息を一つついた。

気丈な言葉とは裏腹に、やはり父親が心配だったのであろうその様子に、山内も打ち解けたように態度を軟化させた。

「コーヒーでも淹れるよ。…飲むだろ?」

「ええ、ありがとう。頂くわ」

彼女はそう言って微笑んだ。

彼女の父親、聖真学園の理事長である間宮孝陽が突発性の心臓発作で倒れたのは、そろそろ雪も降ろうかというくらいに夜風も冷たくなってきた、昨年の10月のことだった。

夕方を過ぎても時計塔から一向に戻ってこない父親を心配した娘の愛子が、機械室のアトリエで胸を押さえながら倒れている理事長を発見したのだという。

生徒達が帰った後。放課後の遅い時間に鳴り響いた、救急車のけたたましいサイレン。

即座に病院に緊急搬送された間宮理事長は、なんとか一命だけはとりとめたが、あと少し発見が遅れていれば心筋梗塞に陥っていた可能性もあり、本当に命が危うかったらしい。

異型狭心症。医師はそう診断した。そうした心臓病の専門的なことは山内にはわからなかったのだが、何でも心臓の冠動脈が強く痙攣し、心筋全体が虚血状態に陥ってしまう病気らしかった。

治らない病気ではなかったが、高齢の理事長の症状は一進一退だった。

生徒や教師達の前では常に苦労する素振りは見せず、矍鑠かくしゃくとしてにこやかな笑みを絶やさない理事長であるからつい忘れそうにもなるが、既に老齢の肉体は、目に見えぬところで衰えていたのだ。

自分の身体が、いきなり思い通りにならなくなるその痛みと苦しみは、余人には想像もつかないもののはずだった。

「警察はもう引き上げたみたい。屋上への階段も封鎖は解除したらしいけど、しばらくは立ち入り禁止の方針でいくみたいよ。
川島さんの件は、やはり自殺として処理…。そういうことなんでしょうね」

ブラック党の彼女は、山内が淹れた熱いコーヒーにそのまま口をつけると、開口一番そう言った。

「自殺…か。嫌な言葉だ」

自分の声は覇気がなく、沈んでばかりだ。情けないことだが、こればかりは仕方ない。

「その顔色じゃ、やっぱり納得がいってないのね、川島さんが自殺と判断されたことに…。まぁ、私も実はそうなんだけど…」

あの川島さんがね、と呟いて彼女はコーヒーカップを片手に遠い目をして窓辺の闇に視線を向けた。

保健校医の彼女も、川嶋由紀子の在りし日の姿に思いを馳せているのだろうか。

山内は苦々しくも熱い液体を口にした。胃が焼け爛れるような感覚だったが、頭はすっきりする。

愛子がぽつりと呟いた。

「自分を殺すと書いて自殺…。だったら笑いながら飛び降りるような行為は、一体何と呼んだらいいのかしらね…。
どちらも行為としての結果は同じことだし、理由もなしに衝動的に自殺を考える鬱病気質のある人は、確かにいるわ。自殺の動機なんて、それこそ彼女にしかわからないことかもしれないけど、私は彼女が自分の意志で飛び降りたとはとても思えないのよね…。
何か辻褄が合わないことがあって、その正体がわからなくて苛々する。
こんなことはありえない。
自分たちが及びもつかないような理由があるんじゃないか。そう考えてしまう。
明るくて誰にでも打ち解けるような性格の、川島さんの行動原理としてはあまりにそぐわない。この上もなく歪に感じる。しっくりこない。
…あなたは、きっとそんなふうに思ってるんじゃない?」

まさにその通りだ。カウンセラーらしいアプローチの仕方だと思った。

「鈴木さん、あれから大丈夫なのかしら…」

愛子はそう言うと山内と同様に表情を曇らせた。こうした必要以上に他人を気づかう所が、いかにも愛子らしいと山内はそう思った。

彼女は昔から本当に何も変わらない。愛子はいつだって優しく、献身的で、山内は彼女のこの和やかな笑顔に学生時代から、どれだけ救われてきたことだろう。

また、自分を過去の事件の被害者としてではなく一人の教師として、この学園へ迎え入れてくれた間宮理事長の寛大な配慮にはどれだけ救われたことだろうか。

愛子に至っては、親友と尊敬する先輩を一度に失ってしまった事件だったというのに。

高橋聡美。その名前を思い出す度に、山内は胸の奥を締め付けられるような切なさと悲しみを同時に覚えてしまう。

山内と隣にいる愛子は一年生の時にクラスが一緒だった。一年先輩の聡美と山内は中学校が同じだったこともあり、またサークルでも仲の良かった妹の洋子を介して話す機会も多かった。

聡美は当時、山内の家に時々来ることもあった。愛子と聡美、そして洋子は、ちょうど今の川島由紀子と鈴木貴子のように仲がよかった。

彼女達はミステリー研究会という正規の文芸部の部活動とは別に、同好会を立ち上げていたほどだった。

もっともミス研の名前で呼ばれたその活動は、いわゆる摩訶不思議な超常現象を扱うようなサークルではなく、推理小説好きが集まり、文芸部とはまた違う活動をしながら定期的に会報などを発行したりして、それぞれが書いた推理小説を発表しあうようなサークルだったらしい。

年子で双子の妹の洋子も、同じサークルだった。洋子は昔から推理小説の愛好家だったから、山内は当時は喜んで妹を部長の聡美に紹介したものだった。

洋子を失った時も、愛子は親友の身に起きた突然の不幸を、自分のことのように泣いた。葬儀の時も、泣きはらした顔で焼香していた彼女の姿は、今でもありありと思い出せる。

線香の香り。鯨幕に黒い喪服。生徒達のすすり泣きと嗚咽の声だけが響く葬儀の席。ひそひそと誰かの囁く声。

事件が事件であるだけに、マスコミも格好のターゲットとばかりに何度も何度もテレビのワイドショーなどで取り上げた。

深夜でも、玄関先で殺害された女生徒の家を撮り続けるテレビ局のカメラと、しょせん他人事と延々と他人の不幸を全国に伝える現場アナウンサーの声がひたすらに鬱陶しかった。ゴシップ専門の写真週刊誌の記者達にとっても、いいエサだったに違いない。

山内は抜け殻のように、妹の棺の前でただ座っていただけだった。あの時、山内の日常はいとも呆気なく完全に崩壊したのだ。妹の洋子がいなくなって山内の家は変わった。

元々事務的で仲のよい夫婦でこそなかったが、両親は離婚して山内は母親側に引き取られたが、その母も交通事故で事故を起こして死んだ。飲酒運転だった。父親は母の葬儀にすら顔を出さなかった。それから山内は親戚中をあちこちたらい回しにされることになった。

あまり思い出したい過去ではなかった。

推理小説というものが決定的に嫌いになったのも、その頃のことだ。

本当に、何が俺達の時間をここまで狂わせてしまったというのだろう?

山内は再びの自問を己の内で繰り返した。

12年前…あの時もこうだった。

ミス研の顧問であり、生物を担当するあの優しかった武内先生がいきなり洋子を殺し、一年先輩の高橋聡美は突然のように失踪した。

当時、聡美は何かの事件に巻き込まれていなくなったのだと、学園ではもっぱらの噂だった。

12年という時を経て、山内の周辺で再び繰り返された、この悲劇の連鎖。果たしてこれは偶然に過ぎないのだろうか?

あの時と今回は発生の仕方がどこか…。

…いや、違う。混同をするな。これは全く別々の事件じゃないか。

山内は、ゆるゆるとかぶりを振って己の下手な考えを否定した。いくら似ているとはいえ、殺人事件と自殺事件、失踪事件と傷害事件では、そもそも事件の規模も内容も時系列も全く違う。比べること自体、無理がありすぎる。

あまりにも立て続けに事件が起こり過ぎて、何をどう考えてよいのかが、わからなくなっているだけだ。

口さがない生徒や、近隣の住人達やネットの噂では、この学園は呪われた学園と呼ばれているらしい。

七不思議に祟られた人間は、例外なく時計塔の魔術師なる怪人に生贄にされ、殺されてしまうのだという。

屋上の十三階段。

登ると発狂する階段。

後ろに立つ少女。

高橋聡美の幽霊まで現れるという噂もあった。

…馬鹿馬鹿しい。

もちろん、山内とてそんな荒唐無稽なくだらない噂を信じている訳ではない。しかし、何から何まで、12年前のあの時とシンクロするように感じてしまうのも確かだ。

これも大嫌いな推理小説のシチュエーションと同じで、まるで現実味がない。

大雨で学園に閉じ込められたり、自分の担任する生徒達がいきなり殺し合いに近い乱暴を働いたり、明るく人気者だった女生徒は発狂して飛び降り自殺をする。そんな現実は、嘘に決まっている。

俺はどこかで開けてはならぬ扉を開け、いつの間にか次元の異なる異世界にでも足を踏み入れてしまったんじゃないのか?

それまで自分が暮らしてきた世界と、現在自分がいる世界は、何から何までそっくりではあるが、どこかが微妙にズレている。何も変わらないのに、まるで違う。こんな世界は偽物だ。狂っている。

どこが違うのかまるで解らないのだが、どこか歪んでいるのだ。生徒達が壊れたのも、その歪みのせいに違いない。

俺はどこで間違った?

どこで異界の扉を開けた?

そこまで考えて、山内は無駄な思考をやめた。一旦、自分の頭を数学の図形問題を解くようにクリアにする。

溜め息をつき山内は一人、再びかぶりを振るった。

…現実逃避だな。

そうだ。やはりこれらは妄想に過ぎない。

どんなに歪んで見えようと狂って感じられようと、どれだけ不条理であろうと辛かろうと。

これが現実なんだ。

両手で頬を軽く叩く。どうも疲れている。やはり連日に渡る寝不足は、とことんまで自分の身体を蝕んできているようだ。

「すっかり雨と風に閉じ込められてしまったわね」

「ああ…」

山内が淹れたコーヒーを口にして、愛子は再び一息ついた。山内はようやく採点の終えた答案を、纏めてデスクの引き出しにしまった。

「ねぇ、タッ君…」

と愛子が呼びかけた。彼女は二人だけの時は山内を今でもそう呼ぶ。昔のあだ名で呼ばれるのはやはりどこかくすぐったいのだが、下の名前を呼ばれることが少なくなった山内に悪い気はしなかった。

ふと向こう側を見るとテレビがついたままだった。花田と桂木の姿がいつの間にか見えなかった。彼女も気を許したのだろう。

「ねぇ…タッ君は覚えてない? 聡美先輩がいなくなったあの日も、確かこんな雨の日だったわね…」

はっとして彼女の白い端正な顔を見つめた。己の浅はかな胸の中を覗かれたような気がした。

山内は苦々しい口調で苦言を呈した。

「愛子…その名前は、もう二度と口にしないでくれって言っただろ」

山内の言葉に、彼女は複雑な表情をした。私情が絡むと途端に校医らしくなくなる友人は、少し感情的になって言った。

「私は一日だって忘れたことはないわ。
ううん…大事な友達や先輩のことを忘れられる訳ないじゃないの」

「俺は…忘れたいんだ」

山内は顔を背けた。

「そうやって、あの時も逃げ出したの? 聡美先輩や洋子から…。
タッ君…二年になった時、聡美先輩と付き合ってたんじゃなかったの?」

思い出したい過去ではない。山内は彼女の、どこか悲壮感さえ漂うその真っ直ぐな視線が堪らなくなって目を逸らした。

確かに、山内と先輩の聡美は一時は恋人として付き合っていたことはある。いわゆる男女の関係だ。

先輩が洋子を訪ねてきた時のことだった。両親も洋子もいない誰もいない家。

夕日に照らされた自分の部屋で、山内は始めて女性というものを知った。

先輩にとっても自分にとっても、今思えば一時の淡く苦い、そして儚い気の迷いのようなものだったのかもしれない。

「あの時、聡美先輩とあなたに何があって別れることになったのか、私にはわからないわ…。先輩…あなたに酷いことをしたって、部室でただ沈んでばかりで、理由も何も話さなかったから…」

「言える訳ないさ…。10才以上も年の違う教師を、いきなり好きになったから別れたいだなんて、誰が言えるもんか…」

山内は視線を逸らしながら、吐き捨てるようにそう言った。言ってしまってから自分がひどく惨めで哀れに感じた。言わなければよかった。案の定、愛子は先ほどよりさらに感情的な口調になって言った。

「どうしてそう投げ出すようにして言うの? 先輩のコトだけじゃない。
洋子のことだってそう…。タッ君だって、本当は洋子の気持ちには気づいていたんでしょ?
武内先生の為に、あの日に彼女や聡美先輩が学園に来ることは、タッ君にだってわかってたはずよ。だって、あの日は武内先生にとって特別な…」

「やめてくれ!」

山内はつい声を荒げた。

傷ついたような彼女の顔が一瞬だけ曇った。

「すまない…。つい…」

半分ほど中身の残ったコーヒーカップを、馬鹿のように見つめている自分がいた。

過去という、堅い殻に閉じこもった自分。誰かに触れられることを頑なに拒否している小さなヤドカリのようだった。触れられる度に、逃げていく。ひどく惨めだ。

何もかも失ったあの頃の苦しみを、繰り返し思い出して誰かと離れていく日々など、地獄の責め苦となんら変わらなかった。

愛子は今にも泣き出しそうな顔で、山内の背中側に回った。山内は彼女の方を振り返れなかった。

「もう、そうやって自分を責めるのはやめて。自分の気持ちに嘘をつくのもやめて…。もう我慢しないでよ、タッ君…。
辛かったら泣いたっていいわ…。
弱音を吐いたっていいでしょ?
私は、聡美先輩が羨ましかった。
先輩とタッ君は別れたけど、私は逆に嬉しかった。けれど、あなたは傷ついて…。私、ずっとずっと…そんなあなたを見てられなかった…」

「愛子…」

背中越しに彼女の柔らかな体温を感じた。じんわりと伝わる彼女の手のひらの温もりが山内に安心感を与える。

「お父様から聞いたの…。
今度の定期異動で、あなたが別の学校に移ることが正式に決まったって…」

悲痛な声だった。

しかし、山内はさほど驚かなかった。山内はふっと自嘲気味に微笑んでみせた。

「これだけ続けざまに問題を起こす生徒達がいるクラスだ。担任教師が何らかの責任を取らされるのは当たり前だろ…」

「けど、あなたは何も悪くないじゃない…! あの時だって、わざわざあなたが別の学校に転校することなんてなかったわ…」

「あれは家の事情さ。親父が外に女を作ってたんだ。お袋だって親父にはとっくに愛想を尽かしてた。仕方なかったんだよ…」

山内は懺悔をする時のような気分で続けた。

「俺や洋子の親父も教師だった。お袋は親父の元教え子でね。確かに昔はお袋の葬儀にも来なかった親父を恨んだりもしたけど、今ならわかる…。今だから、わかる気がするんだ。教師が割に合わない仕事だなんて最初から分かりきったことだった。
…知ってるかい?
今、この国じゃ自分から進んで教師になりたがる人間は、昔と比べて随分少なくなってるそうだ。
…教師だけじゃない。親や生徒達だって、誰だって本当は誰かの起こした不祥事の責任なんて取りたくないんだよ。逃げられるものなら誰だって逃げたいのさ…」

「そんなことない…。タッ君は…タッ君はそんな人じゃない…。あなたは、あなたのお父さんとは違うわ…」

背中越しに愛子が強く首を振るのがわかった。山内はそんな彼女の手に、自分の手を重ねた。こんなに素直な気持ちになれたのは何年ぶりだろうか?

諦観。罪悪感。それとも孤独感。充実感か。

多分、どれも違う。

理由を探すのは野暮な気がした。

自分でも驚くぐらいに優しい気持ちになれた。きっと彼女が自分をさらけ出して、不器用で臆病な自分に向き合ってくれようとしているのが伝わってきたからだ。

山内は言った。

「後ろ指を指されて、糾弾される孤独な人間を見たことがあるかい?
明日虐められたり、誰かに傷つけられることがわかってても、それでも学校に来る生徒は?その逆はあるかい?
悪い噂を立てる連中は『あれが自分の姿じゃなくてよかった』とホッとしながら、結局はそいつらと同じことをする。
人は他人の不幸を見て、安心したいんだ。けど、悪い噂は膨らんで…いつしか人の手に負えなくなった頃には、噂が立った側の当たり前だった日常は、もう修復できないほどボロボロに壊れている。
そんな正視に堪えないような現実は、きっと今も、どこの学校にだってあるんだと思う」

「じゃあ、タッ君はその為に教師に?」

山内は頷いた。

「最初はそんな生徒達を守ってやりたい一心での義務感だとか正義感だのといった青臭い感情がきっかけだったよ。そうすることで、あの時、何も出来なかった自分が救われると信じてたんだ。
…おかしいだろ? 贖罪のようなものだったのかもしれないな…」

「洋子や聡美先輩への?」

彼女は問うた。

「みんなへの…」

山内は続けた。

「もちろん、今はそんな風には思ってないよ。何だかんだ言っても、俺にはやっぱりこの場所しかないんだ。この街で、この場所で…君や理事長や、いろんな人に支えられながら俺は今もこうしてちゃんと生きてるんだからね。誰かに感謝して生きるってことの素晴らしさを、俺は伝えたいんだ。
それだけで、人は生きていけるんだ。
…そう思うと、もう孤独じゃないだろ? 
ありがとうっていつ言葉はさ、一人じゃ伝えられないものなんだ。
生徒達といるのは、やはり楽しい。どんな形であれ、俺は教師でいたいんだと思う。これもやはり、ただの自己弁護だって君は言うのかもしれないけどね…」

愛子は再び山内の背中越しに首を振った。腕にしがみついた手を彼女は山内の存在を確かめるように、ぎゅっと力を込めた。

山内は握りしめた彼女の手の温もりをじんわりと感じた。山内は言った。

「憎しみや辛さ、孤独を抱えて生きてるのは俺だけじゃない…。それを君や理事長は教えてくれた。
なら、理由なんか何もいらない。孤独な誰かの味方になって、その人の名前をちゃんと呼んであげられる…。ありがとうって生徒にいつか、言ってもらいたい。そんな生徒にありがとうと返すんだ。そんな当たり前なことを楽しみにしてる教師として生きていければ、それでいいじゃないかって思ったのさ。誰もが皆、そんな悲しみを抱いて生きてるなら、それが出来なきゃ嘘だ」

「そうじゃない…」

「え…?」

「私が聞きたいのは、そんな教師としてのあなたの言葉じゃない。タッ君はまた…私を一人ぼっちにして置いていくつもりなの?」

「愛子…」

山内はそっと振り返った。

どこか訴えるような表情をした愛子の潤んだ瞳が間近にあった。頬がほんのりと上気している。化粧っ気の少ない、眼鏡をかけていない睫毛の長い顔。

それは12年前、いつも溌剌として山内を元気づけてくれていた時と何も変わらない、けれど、女性としてより魅力的に変わった間宮愛子のもう一つの貌だった。

口づけを待つように彼女はそっと瞳を閉じた。そう。言葉は何もいらない。

山内も顔を近づけた。

その時だった。

ガラーン…ガラーン。

ガラーン…ガラーン。

いきなり鐘の音が辺りに響き渡った。

それは荘厳なる教会の鐘の調べ…ウエディングベルの旋律にも似ていた。

だが、何かがおかしい。

「なっ…!?」

「な、何よ…。これ?」

二人は揃って頭上を見上げた。音はほぼ、真上の方から響いてくる。

「何事ですか!?」

バタバタと廊下から血相を変えた花田が入ってきた。

傍らには青白い顔をして俯いた桂木もいる。

「ああ、花田先生! 今まで一体どちらに?」

「桂木君が急に気分が悪くなったというので…。それより山内先生! 間宮先生も…この鐘の音は、一体何事ですか…!?」

花田のその言葉に初めて気付いたように山内は、はっと上を見上げた。

「時計塔だ!」

山内は叫んだ。

「え…!? と、時計塔って…。タッ…山内先生、一体何を言ってるの?」

つい徒名で呼ぼうとした愛子が、怯えたような表情で山内に問いかけた。

「愛子! すぐに教頭先生を呼んできてくれ!」

「え…。ど、どうして!?」

「わからないのか! これは時計塔の鐘の音だ!放課後に自動的に鳴る、あの音じゃない。あの場所に今、誰かがいるんだ!」

「え…えぇっ!?」

「急ぐんだ、愛子! この鳴らし方…絶対に普通じゃない!」

「え、ええ…! けどあなたはどうするの?」

「植田先生と合流して、すぐに向かう。しかし、こんな時間に鳴らすなんて…。一体誰が…」

狂ったように、けたたましく鳴らされる鐘の音。音階を無視して滅茶苦茶なテンポで打ち鳴らされている、この胸を掻き毟りたくなるような不吉な不協和音。

あの時に聞いた、狂ったような笑い声がそこに重なる。

慌てて廊下へと走っていく花田と愛子の二人。青白い顔で入口の扉の前に呆然と立ち尽くした桂木の血の気の失せた表情。

山内は、時計塔のある西側の廊下へと駆け出した。全身に怖気がくまなく走っているような感覚だった。

今まさに繰り返されようとしている第三の悲劇の予感を、山内はひしひしと己の身に感じていた。時計塔の鐘は延々と鳴らされ続けている。

その何かが狂った音色は、ただひたすらに不気味でおぞましく、最悪な事態の訪れを予感させるものだった。


※※※

『いつもそう!あなたはいつもそうやって』

『パパ、やめて! ママをぶたないでぇ!』

………

『何で、ここまでしなくちゃいけないんですか?』

『いつも校則校則ってうるせぇんだよ!』

『なぜですか? 先生はどうしていつもそう…』

………

『あ~あ…。またアイツにイビられるぜ…』

『ああいう体罰ってサイテーだよな…』

『本当に教師かよ』

『暴力教師ね…』

『なぁ、知ってっか? アイツ…自分の家でもアレなんだって話だぜ…』

『世も末だよな。息子もいずれグレるぜ。あのままじゃ…』

………

『…ねぇ、聞きました?
あそこの奥さん…昨日から実家の方に逃げちゃったんですってよ』

『この間もね、夜にお風呂場の方から子供が泣く声が聞こえてきて…』

『まぁ! 可哀相に…』

『警察や児童相談所に連絡した方が…』

………

『タバコが見つかって腕に根性焼き入れられた奴がいるんだってよ…』

『メイクが見つかって洗面器に無理やり顔突っ込まれたコもいるのよ…』

『マジかよ…。真正のサディストじゃん…』

『奥さんと別れるに決まってるよね…アレじゃ…』

『…シッ!聞こえたらどうすんのよ…』

『またアイツだぜ…』

『ああ…ヤツだ…』

『植田が来たよ…』

『あっち行こ…』

………
……


コツ…コツ…コツ…。

廊下に響き渡る自分の足音が、驚くほどに大きな残響音を暗闇に残している。

先ほどよりも周囲の雨音が強くなってきていた。風が悲鳴のような音を立てて表に吹き荒ぶ度に、廊下の頼りないアルミサッシの窓枠がカタカタと揺れた。

植田は懐中電灯の丸い光線で、次々と廊下の暗がりを照らしていった。

消火栓。その先の定位置に置かれた消火器。そのそばにある配電盤の標示灯。

窓の施錠も問題はない。

放課後の暗い学園のこと。当然、教室に居残っている人影などある訳もない。

異常なし、と。

泊まり込みの宿直でなくて本当によかった。当直当番の帰りが遅くなるのは当然だとしても、この大雨でこれ以上足止めされたのでは堪らない。

ガランとした自宅に誰が待っている訳でもなかったが、今は仕事を忘れてウィスキーグラスでも傾けたいと植田はそう思った。

例の自殺事件以来、家に帰るなり、寝るだけの毎日が続いていた。生徒指導部の顧問ほど割に合わない役回りはない。

自殺だけならまだしも、暴力事件まで起きた学園のことは、家に帰った時くらいは忘れたかった。妻や子供と別居してから自宅が安息の場所に変わってしまったなど、誰が予想できたろう。皮肉な話だ。

自殺の次は暴力事件。そして、退学か。

忌々しい。植田は舌打ちした。

会議の席で、自分よりも若い山内が反発した理由は理解できないでもなかったが、植田は生徒達が教師にあそこまで守ってもらえるほどの価値がある連中とは思えなかった。

校則に限らず、彼にとってモラルだの規律だのという、いわゆる約束事は、常に自分の身近で整然と保たれていなければならない、至極あたり前なものに過ぎなかったからだ。魚は水を意識しない。

子供の頃から植田は約束事には非常に細かい、神経質なタイプだった。

本棚の教科書や本、新聞や雑誌の位置など種類別、判形別になっていないとどうにも気になる。時間通りに物事がいかないと、どうにも苛々する。

テレビのリモコンの位置。パソコンのマウスの定位置。食事の時に出される食器の位置や箸やスプーン、フォークの置き場所や向きもそうだ。

何から何まで最初から定められた型通り、収まるところに収まっていないとどうにも落ち着かない人間というのはいるものだ。

植田の場合、痙攣的なまでに秩序や世間的な常識を重んじるタイプだというだけのことだと思う。

誰がどう手にとっても、使いやすい場所に物がないとなんだかそわそわするし、整斉と物事がなっていないと腹が立つ。

それは学園の中だけに留まらず、家庭でもそうだった。結婚式や葬儀の時に着ていく礼服の皺だって極端に気になる。襟の汚れやシミなど論外だ。アイロンのあたっていないスラックスやワイシャツなど、袖を通したいとも思わない。

弁当箱の飯粒が偏って隙間が空いていたり、惣菜の調味料が白い飯の部分を浸していたりなどすると、食い気より怒りが勝ってもう食う気もなくなる。

教師としての植田のこうした潔癖なまでに神経質な部分は、好意的に見れば社会的なシステムや集団生活を正しく維持しようとする集団の枠組の中では、本来歓迎されるべきことのはずなのだが、それらは往々にして人間同士の余計なトラブルを招く一因でもあった。

しかし。

挨拶をキチンとしろ髪を染めるな髭は伸ばすな服装はだらしなくするなネイルアートをするな爪は染めるなちゃんと切れ指輪をするなピアスをするなブレスレットを着けるなアンクレットを着けるなネックレスをするな校内でメイクをするなスカート丈は校則通りにしろ廊下を走るな話を聞けお喋りをするな。

植田が今まで数限りなく繰り返してきた、そうした小理屈は、生徒達にはそもそも伝わる訳がない。植田は常々そう思う。

折目正しく節度を保て、学生らしく身嗜みを整え威容を正せだのという理屈は、幼少期に学び、経験的に体得されてきた土台を基にした概念のはずなのだ。

学ぶ機会がなかったというならまだしも、そうした非経験的な概念を受け入れようとする意識や姿勢すら生徒側に始めからないのでは、秩序も何もあったものではない。

三つ子の魂百までの喩え通り、幼少期に親が当然教育すべき所を学校側が教えること自体、矛盾している。

それは無駄なことなのだ。

伝えよう教えようという以前に、言葉が通じないのかと最初は本気で疑った。

まるで約束事は、破ることを前提に作られているのだと暗に認めているか、秩序など必要ない、どうにでもなると始めから高を括って軽く生きているように感じるのだ。実に薄っぺらい人間性である。

実に無駄だ。

学生の質は年々低下しているといっていい。

異性の興味を引くことにだけは積極的に関心を示し、授業はそっちのけでお喋りに興じていたり。部室でタバコや麻雀に興じていたり。避難訓練の日に、部室で男女裸で抱き合っていた生徒達もいたほどだ。

獣にも劣る。モラルのない人間は、人間の振りをしているだけのケダモノ以下だ。

秩序だっていない物事や無駄なことには腹が立つ。生徒指導という名目はあるが、植田の前にはそうした不正は、義憤も私憤もない。ただの怒りだ。

だから彼は殴った。

言うことを利かぬ妻を。

幼い息子を。生徒達を。

無駄な言葉は何も齎さないし伝わらない。そもそも彼らに言葉など通じない。

教師や親の伝えたい言葉や授業内容がどれだけ高尚で有り難いものでも、おしゃべりをしたり携帯電話を弄って自分の世界にこもったり、イヤホンで音楽を聴いたり居眠りしたり、仲間とお喋りをして最初から聞いていないような連中は、それがとても大事なことだと理解するまでに、そもそも時間がかかる。

質問に質問を重ねたり、話の腰を折ったりするようなことまで平気でする。大事な事は重要だからこそ学ぶチャンスは少なく、そうそう繰り返したりしないものなのだという本質を、まず彼らは理解しようとしない。

その癖、プライドだけは妙に高くて、執拗に自分をよく見せることだけには異常なほど心血を注ぐ。

異性によく見られる為のファッションを模索したり、自分の殻にひたすら閉じこもり、興味といえば自分の好きなマンガやゲームの世界一辺倒になる。

だから彼らは知能は高いはずなのに、社会的に常識とされるような物事に関しては驚くほどに疎く、無知だったりもする。

出来ないのではない。

しようと思わないのだ。

モラルや至極あたり前な公衆道徳を、知っていて敢えて禁忌を冒すのだ。

自分が知らないことは誰にも教わらなかったからで、自分には少しも責任や落ち度なんかない。押し付ける方が間違っている。

どうやら、それが彼らの理屈らしかった。

そこには感謝も謝罪も、非を認めようとする素直さや謙虚さも、悪いことをしたという罪の意識も最初からない。あるはずもない。

うんざりだった。

教育の現場に限らず、世の中は悉く嘘と言い訳と体裁、そして人を貶める悪い噂で組み上がっているようなものだ。

実に無駄だ。

しつけられてさえいないから、同じことを誰かに聞き返す。同じミスを連発する。注意をすれば反発する。反省は一時だけで、また繰り返す。最後には、親や教師や周りの人々のせいにする。

実に無駄だ。

無駄は愚かだ。同じことを繰り返すのは無駄だ。無駄は悪であり劣だ。無駄な虚ろこそ馬鹿の証明だと植田はそう思う。

だから彼は殴る。中身が何も詰まっていない雑然と並んだ伽藍堂がらんどうのマネキンをどうにかしようと思うなら、外側を揺らすか、中身を満たそうとする以外にない。

あるいは箱をこじ開けるがごとく、外的な力を与えなければ、そうした意識など生まれない、人間の皮を被った動物だというのなら、もはや身体に痛みを刻みつけてでも教え込む以外にない。

植田の叱責や怒声、罵声が校内の一角で響く度に、無機質で整然とした秩序だった空間は保たれた。逆に植田の周囲数メートルに生徒は好き好んで近付かなくなった。

植田は再び舌打ちをした。本当に忌々しい。

こうして夜にも差し掛かろうかという時間に、校内の見回りをしていること自体、無駄な時間だ。

植田は半ば無理やり義務感を感じながら、廊下を巡回していった。

西側廊下のどん詰まりには何もない。この上には屋上へと通じる階段があり、そこには校舎を見下ろすような時計塔が建っている。

そのせいだろうか、この西側の構造は普通の学園とは多少違った造りになっている。

階段の向こう側には、大きな鏡があるくらいだ。廊下の突き当たり、階段の向こう側の一方通行の廊下へと植田は進んだ。

この階段でつい先日、転んで怪我をした女生徒もいたらしい。幽霊を見たなどという馬鹿馬鹿しい理由で、足を踏み外したのだそうだ。

一応、用心の為に姿見のある、あの突き当たりも見回っておくべきかもしれない。

植田は突き当たりにある、ただの行き止まりへと差し掛かった。無駄に大きな鏡が眼前に迫ってくる。背中側にある廊下の殆どが見渡せるような鏡だ。

迷路のアトラクションには鏡を使ったものがあるが、こうして暗闇の中で鏡を見ているとまるで廊下が延々と続いているような錯覚を齎す。特に異常はない。

その時だった。

植田はふと足を止めた。

…風がどこからか吹き込んできている。

その事自体が、まず屈強で猜疑心の強い体育教師を警戒させた。即座に植田は懐中電灯を消した。

誰かいるのか? いや、それよりも…。

侵入者なら、こちら側の存在に気付かれてはいけない。

唾を飲み込む。

…正体を確かめねば。

一歩足を踏み出した。

コッ…。

暗がり。何もない。

周囲を再び見回してみる。

目の前には鏡。ただの姿見だけがある。

暗闇。

しかし…。

何なんだ…?

生温い風が蛇のように蜷局とぐろを巻いている。

そんな気がした。

怖気が皮膚の表面から全身に走り、動けなかった。

それがまるで合図だったかのように、次の瞬間、植田は鏡の中の廊下のど真ん中に突如として現れた、その異常なを捉えた。

コツ…コツ…コツ…。

異質な足音。

もちろん自分のものではない…!

瞬間、植田は凍りついた。

あれは何だ!?

いや…。

アレはだ!?

虚像にくっきりと浮かび上がった、その異様な影…。後ろ姿。

僅かに上体を前へと傾け、腕をダラリと垂らしたその黒々とした影は、酩酊した酔漢のように、あるいは壊れた玩具のように右に左にと身体を傾けながら、廊下の左右の壁に滅茶苦茶にぶつかっていた。

足が折れた時のような妙な角度で、ひょこひょこと歩いている。

何より異常なのは、頭の動きだった。交通事故の衝突する瞬間を映したダミー人形のように頭部がゆっくりとグラグラ、ユラユラとあらぬ角度で揺れている。

夢でも見ているのか?

植田はバチバチとまばたきを繰り返した。

暗がりの中でユラユラと。

ふらふらとした足取りの緩慢な動きが一層に気味が悪く、植田は身動き一つ出来ずにその異様な光景を見つめていた。

ゆ、幽霊…!?

まさか生徒達が噂していた怪談話の…。

『何かを訴えかけるような寂しげな少女が、あなたの後ろに…』

馬鹿な…!

ぶるぶると首を振り、植田は馬鹿馬鹿しい妄想を振り払った。

植田は振り返れなかった。

その時、キィキィとどこかから、何かが軋むような妙な音が聞こえた。

夥しい数の蝙蝠こうもりが一斉に鳴くような、ガラスを引っ掻いた時のような寒気の走る、薄気味悪い音だった。

もちろん、彼の背後には彼の背中しか写らないはずの鏡しかないはずだ。

異常を確かめねば…。

振り返ればわかる…。

だが、動けなかった。

屈強な体育教師の植田をして竦ませるほどに、先ほど見た影の動きは人間のそれとは思えなかった。

植田の価値観を一瞬で崩壊させるような、まさに常軌を逸した光景だった。

本当に馬鹿馬鹿しいことだが、マネキン人形が鏡の中の廊下をぶつかりながら歩いていくように感じたのだ。

その時間にしてコンマ何秒かの一瞬が、不審な人影を追うという植田の正常な判断を鈍らせた。

けたたましい鐘の音がその時、学園中に響き渡る中でも、植田はただ呆然とその場に立ち尽くしていることしか出来なかった。

それは彼にとって屈辱だった。

しかし植田はその時、尋常ではない事態とは裏腹に、心中では全く別なことを考えていた。

取り返しのつかない過ちをしたという思いが己の胸の内でいきなり満たされ、それを悔いていた。

その時になって初めて植田は罪悪感という感情を、生徒達や別れた女房子供に対して抱いていた。

その感情は、彼が久しく過去に置き忘れてきたはずの感情が引き金になった。

それは…恐怖だった。

鏡の前で、植田はただ無駄に立ち尽くしていた。懐中電灯を傍らに落としたことも、その時になって始めて気付いた。

カタカタと己の全身に震えが走っている。膝が笑っている。ひどく寒気がした。

たった一つだけ植田にわかった事があるとすれば、あの黒い人影は。

髪が長く、見慣れないセーラー服を着て、スカートを履いた女だったということだ。

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