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狂宴
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喫茶店の近くにあるネットカフェに勇樹は来ていた。アリサが残していったメモには、几帳面な文字で見慣れた記号と英数字が並んでいたのだ。
「これって…。URL…」
あの来栖が、何の意味もなくアリサを勇樹の下へ寄越すはずがない。これにはきっと重要なメッセージがある。
画面を立ち上げるのももどかしく、勇樹はすぐさま付属のエクスプローラーを立ち上げ、素早くアドレスを打ち込んでいった。
あっ、と思わず声が漏れそうになった。勇樹は画面の文字に凍りついた。
ネットに表示された無機質な液晶の画像には勇樹の全く知らなかった、もう一つの世界が広がっていた。
<インターネットの花屋。フラワーショップ>
『Heaven's Garden』(ヘブンズガーデン)へようこそ。
『花から人へ…。あなたからあの人へ…。
花はあなたの想いを繋ぐ、あなただけのメッセージ。
フラワーシップ加盟店の『セイント・トゥルース』が、あなたのお花を全国へお届けします。
心温まる花のメッセージに、あなただけのメッセージカードを添えてみては? 全国無料配送も承っております。
ここではネットアイドルの現役女子高生達の写真と共に、花に託されたメッセージを幾つかご紹介していきましょう』
勇樹は文章に写真の付いたファイルを、次々とドラッグしていった。我知らず、マウスをクリックして、上から下へとスライドする指が細かく震えていた。
色とりどりの花…。その花と一緒に写っている、この女生徒達…。
見慣れたブレザー姿…。
イメージキャラクターの、このあまりに有名な女生徒…。
写真の下には花の紹介記事が載っていた。
○ガーベラ…キク科の多年草の総称。別名アフリカセンボンヤリ。
温帯、熱帯アジア、アフリカに広く分布し、野生のものは約40種存在する。写真の花は園芸品種のピンクのガーベラ。花の持ちが良くフラワーアレンジメントでも比較的多く取り入れられているメジャーな花です。
花言葉…『神秘』。『あなたは光に満ちている』。『崇高な美』。
○リリー…写真の白い百合の花は中国産のリーガルリリー。中国原産のリーガルリリー、キカノコユリ、ハカタユリを中心とする品種は総称してトランペットハイブリッドとも呼ばれています。
花言葉…『純潔』。『無邪気』。『処女性』。
○トレニア…写真の青い小さなトレニアはハナウリクサとも呼ばれる。和名はツルウリクサですが、現在あまりこの名称は用いられていません。沖縄県の北部、宮古島のツルウリクサが、国内ではその名称のオリジナルであり、絶滅危惧種1Aに分類されている花です。
○ダチュラ…朝鮮朝顔の名で知られているナス科の一年草。江戸時代の外科医、華岡清州が女性の出産に伴う麻酔薬の素材としても用いられ鎮痛、痙攣に効果があったとされる花。
花言葉『偽りの魅力』。『愛嬌』。『二面性』。
その先を勇樹は全く読んでいなかった。
その白い花と共に写った少女の写真を見た瞬間、目の前に薄暗いカーテンがかかり、自分の足元が急速に冷えていくのを感じた。
不規則な鼓動を繰り返す、己の胸に左手をあて、勇樹は無意識に画面をシャットダウンしていた。
一瞬でフォルダの並んだメインメニューへと切り替わるディスプレイの表示。
底知れぬ暗澹とした思いに言葉がなかった。
何なんだよ…これ…。
信じられない思いとは裏腹に、勇樹の思考は勝手に組み上がっていった。
花屋のホームページ…なぜ、聖真学園の女生徒達が写っているのだ?
『セイント・トゥルース』
聖なる…真実?
来栖はこれを勇樹に知らせたかっただけか?
…いや、違う。勇樹は一人、かぶりを振った。偏屈で思わせぶりだが、アンダーグラウンドな世界にも通じているあの探偵がマークしていた以上、これがただのネット専門のフラワーショップのホームページであるはずがない。
ネットアイドル。
現役の女子高生達。
サイトのイメージキャラクターにもなっている、このあまりに見慣れた有名人の端正な顔。彼女達のこの制服。
撮影用にメイクアップしているが、あまりに見慣れた、この写真の顔ぶれ。このサイトの意味するところはもう明らかだった。
「そういう事か…!畜生…。まさか、こんな方法で売春をしていたなんて…!」
間違いない。これは売春のメニューリストだ! 勇樹は改めて、先ほどのページをもう一度探ってみた。広告の大部分はオフィシャルサイトがほとんどだ。有名なコミュニティー系サイトに大手ネットオークションのサイトまである。
恐らく正規の店舗に掲載する大手サイトの広告やリンク先、そして何よりも花を買う一般客の方を隠れ蓑にしているのだ。
売春の客層は恐らく、社会的な金持ちや一部の人間だけで、一見はお断り。売春を示唆するような隠されたメッセージは一部の人間にしか知らされていない、そうした仕組みになっているのだろう。
ヘブンズガーデン…直訳すれば楽園の庭。聖真学園の、あの噴水のある場所だ。勇樹は改めてサイトのディテールを眺めてみた。
国民的美少女コンテストにも優勝した、爽やかで清楚な一条明日香をイメージキャラクターにしたり、校長が自ら自分達の高校の園芸部員達が丹精込めて育てた花です、と自慢げに宣伝しているなど、実に手が込んでいる。
だが、堂々と顔を晒すのには別の意味がある。
この場合、花を買う一般客の方がカモフラージュになるという事。そして校長や生徒会長の存在は、聖真学園や学校関係者へのカモフラージュにもなる。
まさかこんな方法で売春をしているなど、思いもしないだろう。
インターネットが普及するにつれ、匿名性を利用した書き込みは内容によってはかえって足がつきやすい。表向きは普通に営業するネットの花屋。何も知らない不特定多数の人間には堂々と通常の営業をし、実際の売買春は一部の人間しか相手をしない。
この方法は、組織だった売春の隠蔽工作としてはかなり効果的だ。あまりに堂々とし過ぎていて誰も疑わないのだ。
勇樹の脳裏にふいにアリサの言葉が蘇った。
『真実は自分の目で確かめてごらんなさい。
アイツがなぜ、あなたをそこまでして守ろうとするのか、ある程度その理由もわかると思うわ…』
アリサが残していったあの言葉。そして、このメモ。
『楽園の庭から、お迎えが来るはずだ…』
逮捕される直前に来栖が残したあの言葉。怪我こそしたが、今も五体満足でいる勇樹。改めてその事実に気づき、勇樹は目の前が真っ暗になった。
なんてことだ…。なんて馬鹿だったんだ! 僕は…!
アリサと来栖が残していったこのメモこそ、勇樹の無能と愚かさの証明だ。
URLの書かれたそのメモを勇樹は思い切り握り潰し、気がつけば街へと走り出していた。
※※※
…あと少しだ!
豪雨に視界が霞む中、勇樹は上体を僅かに屈め、全力疾走する獣のごとく闇の中を駆け抜けていた。ようやく判った。全て。
何もかも…!
どしゃ降りの雨の中を駆けた。駆けて駆けて駆け続けた。愚かな勇樹に出来るのは、今はただ、もうそれだけだった。
学園を覆う空が、鳴動していた。
荒れ狂う風は上空で渦巻き、空には夥しいほどの暗い雨雲が分厚く垂れこめていた。
全身に大粒の冷たい雨が幾つも当たっては弾け飛び、足元の水溜まりへボタボタと滴り落ちていく。
体中が重たい。ベタリと濡れた衣服や下着が身体に、肌に纏わりついてくる。髪も靴も、もうびしょ濡れだった。
…構うもんか!走れ!
心臓が裂けるまで走れ!
学園までは、もうこの一本道だけだった。
どしゃ降りの豪雨。見慣れた鬱蒼とした林。ザワザワと草の茂った闇。漆黒の闇に閉ざされた世界。アスファルトを走る度に水溜まりの波紋がグシャグシャグシャグシャと、いびつに歪んでいく。
疾走する暗闇に、須藤達と争ったあの時の記憶が重なる。悪意に満ちた濃密な闇の全てが愚かな勇樹を阻み、一斉に声を上げて嘲笑しているようだった。
『無駄だ無駄。何をしたって無駄無駄無駄! 無駄に決まってるって!』
『必死で走ろうと足掻こうと無理なものは無理! お前には無理!』
『お前なんかが行ったって状況は何一つ変わらないんだよ!』
『お前は馬鹿だから』
『お前は何も気付かないから』
『お前は何も知らないから』
『お前は何も判らないから』
『お前は何も…』
ああ、そうさ!そうだよ!
僕は何も…何一つ判っちゃいなかった!
金臭い唇を噛み締めた。無知蒙昧な己の顔面を拳で思い切り殴りつけてやりたい衝動に駆られた。こんな馬鹿な事があって堪るか!
難解な答案用紙の上に、いきなり解答用紙を渡された気分だ。問いに対する解答権は既にしてなく、そこには予定調和な答えが書いてあるだけ。
当然過ぎる真相に、勇樹は未だ信じられない思いだった。
バシャバシャバシャバシャ!
荒い呼吸。不規則に乱れ始めた己の足音。濡れた前髪が額に、頬に張り付いてくる。鬱陶しい。
沸騰した頭の中で、ぐるぐると様々な疑問符が渦を巻いていた。
…なぜだ?
なぜ今まで気付かなかった?
なぜ判らなかった?
バシャバシャバシャバシャ!
なぜ?
ナゼ?
何故?
…なぜ最初に死んだのが、由紀子でなければならなかったのか?
…なぜ須藤達に狙われたのが勇樹だったのか?
…なぜ何も知らないはずの探偵が、前もって勇樹の危機を察知できたのか?
ビシャリ!
その時、一際眩しい雷光が暗闇の空を照らし出した。
答えは一つしかないじゃないか!
耳をつん裂くような雷鳴が遅れてやってくる。一瞬の蠢動に大地が震える。
信じられなかった。
由紀子に須藤に勇樹。そして、おそらくは由紀子と親しかった貴子も。
不可解な事件が始まって巻き込まれる形になった僕達の共通点。
唯一の共通点。
あのサイト…。
あの写真…。
あの生徒達…。
あの噂…。
その全てが、あからさまに物語っている。
僕達はたった一人の人物に、予め選ばれたキャストに過ぎなかったのだ。
そう…。
クラスメートに!
由紀子の転落死から始まった、この事件。最初に死んだのが由紀子だったのも、おそらくは偶然ではない。
決まっていたのだ。全て。
最初から。校長の村岡と一条明日香も恐らくは連中とグルなのだ。
…なぜだ?
なぜもっと早く気付かなかった?
なぜだ?
ナゼだ!?
何故だ!
アイツの携帯の番号が通じない。電源が切られている。
貴子がもし今、学園にいるのだとしたら…。
最悪の予想が頭によぎり、勇樹は慌てて首を振った。
チクショウ!
前方を睨みつける。
待ってろよ、貴子…!
雨に煙る黒々とした校舎。
聳えるように建った黒々とした時計塔が見える。槍のような忍び返しが付いた、鉄柵の校門に手をかける。
ここはまるで檻だ!
ザワザワと中庭の木々が揺れている。勇樹は今、はっきりと形を成した闇と対峙していた。きっといるはずだ。早くアイツに…。
奈美に会わなければ!
※※※
ぼんやりと黄色い照明が空間を照らし出した。銀色の仮面を被って笑う黒マントの異形達。そして足元には、ヌラリと怪物のように蠢く得体の知れない全裸の校長がいた。
ビシャリ!
雷鳴の白い閃光が再び闇を照らし出した。
根源的な恐怖と、抗えない暴力という無慈悲な力に貴子は思わず悲鳴を上げていた。
怪物がゾンビのようにして、貴子へジリジリと這い寄って来る。
「あぁあぁ…」
「ひっ!」
その時、バシッと強く畳を叩いたような音がして裸の校長がベタリと地面に手をついた。
「ダメよ、おあずけ!
…いいコだからおとなしく待ってるのよ」
「あ…あうぅ…」
黒いマント姿に仮面の中から、まだあどけなさの残る女の声がした。まるでサーカスの猛獣を扱うように女は片手に黒皮の鞭を、もう片方の手には鎖を握っていた。
黒皮の鞭と銀色の鎖が、艶々と不気味な光沢を放っている。
これが…校長先生?
「あぁうう…あぁ…」
貴子は己の目を疑った。
校長の目は既に、正常な人間のそれではなかった。
視点はあちこちに飛び、涙と鼻水で顔はグシャグシャで、白髪混じりの乱れ放題の髪が哀れなほど額にうちかかっている。
女が手にした鎖は校長の首輪へと繋がっている。まるでペット扱いだ。
校長という権威と尊厳、村岡義郎という人間性が、その滑稽で哀れな姿の為に残らず失われてしまっている。
正視に堪えない、その常軌を逸した変わり果てた姿に、貴子は後退りしながら、再び叫び出したい恐怖を覚えた。
その時、クスクスという忍び笑いと共に頭上から声が響いてきた。
「ふふふ…。
魔女達の館へ改めてようこそ、鈴木貴子さん…。心より、あなたを歓迎致しますわ」
微かに鼻にかかったようなこの声…。間違いない。
一条明日香の声だった。
貴子は恐る恐る、声のした天井のステンドグラスの辺りを仰いだ。
「ふふふ…びっくりさせちゃったかしら? けど、そこに転がっている下品なケダモノは、あなたもよく知る校長先生ですわよ。
彼は私達の言うコトなら何でも聞きますの。
土をお食べと命令すれば、ちゃんとそうするし、靴をお舐めと言えば喜んで舌を出しますわ。
…ほら、ちゃんとよくご覧になって。気持ち悪いけど、よく見れば愛嬌があってカワイイでしょう? 涎を垂らして舌まで出して…」
クスクスクス…。
ふふふふふ…。
女達は再び笑った。
「ふふ…クスリが効いている間はこの人は私達に絶対服従の奴隷…いいえ、犬かしらね。
そうね…ポチとでも命名しましょうか?」
ふふふ…。
クスクスクス…。
黒マントの女達の笑い声。残響音が四方八方から響いてくる。塔の上から響いてくる一条明日香の声は理性的で上品な声色だけに、それがかえってゾッとするほど冷たく聞こえてきた。
貴子はステンドグラスに描かれた、黒い山羊の悪魔に直接話しかけられているような錯覚を覚えた。
「貴子さんはハイチのゾンビをご存知かしら? 仮死状態の人間にフグの毒であるテトロドトキシンを使って奴隷として使役する、いわゆるブードゥ教のゾンビパウダーと同じですわ。
その人は今、五十路を過ぎた村岡義郎という人間でもなければ、生徒達の教育に携わる社会的な地位ある人間ではありませんの。
地べたを嫌らしく這いずり回る地虫。心なきケダモノ。ただの生ける屍ですわ」
「あぁああ…」
見ていられない。正視に堪えないその光景に貴子は再び目を逸らした。
「それではリリー、カトレア、ガーベラ、後は頼みましたよ。私はダチュラと共に後始末をしてこなければ…。
それでは鈴木さん、ごきげんよう…。今宵のパーティーを楽しんでらしてね。全ての儀式が終われば、あなたも晴れて私達の仲間入りでしてよ」
高らかな哄笑が、再び吹き抜けの塔に響き渡った。
ダチュラと共に…?
どういうコト…?
「…だってさ。かわいそうに」
「馬鹿な奴。何にも知らずに、のこのこ現れてくるんだもんねぇ」
仮面の女達は貴子を憐れむようにそう言った。図書室で聞いたリリーとガーベラの声と全く同じだ。
「…だから言ったでしょ?
事件の真相だの、誰かの役に立ちたいとか、それなりにおいしそうな餌を撒いときゃ、獲物は勝手に引っかかってくれるもんなのよ。ボランティア活動と同じよ」
カトレアと呼ばれた別の少女が言った。
「ふふふっ…。ダチュラもなかなかエグいコトするわね。大事な友達を助けたいばかりに、もう一人の友達を平気で売るなんてさ」
え…?
「成瀬勇樹ねぇ…。あんな奴の何がいいのかしら。由紀子のコトといい、つくづく罪作りな学園のアイドルよね…アハハハ!」
ダチュラが…奈美?
なぜ、勇樹の名前が出てくるの?
「こうなると由紀子も哀れよね。あの裏切り者も、結局は私達を警察に売ろうとしてたみたいだし」
「クスクス…どうやら罰があたって、死んじゃったみたいだけどね…」
少女達は再び笑った。
貴子は耳を疑った。
まさか…。
「や、やっぱり…。あ、あなた達が…あなた達が由紀子を殺したの!?」
「ちょっと、勝手に勘違いしないでくれる?
あのイカレた女は勝手に狂って死んだだけじゃない。ま、裏切り者にはちょうどいい天罰だけど…」
「そうそう。どうせタチの悪いクスリでもキメてたのよ。
私達の不正を暴こうとサツにタレ込もうとするは、仲間も売ろうとするはの最低の泥棒猫よねぇ。…本当に自業自得だわ」
「由紀子が!? 薬って…一体何のコト…!?」
貴子は恐怖を抑え、それだけを問いかけた。自分の声が震えているのがわかった。
「アンタ、本っ当におめでたい女ね。そこそこ頭よさそうな顔して、実は天然記念物級のバカなんじゃない?
…そんなに知りたきゃ、教えてあげるわ」
カトレアという少女は手にした鎖をグイッと引っ張った。ジャラッという音と共に、哀れな校長が目の前に引き出された。
「あぁ…あうぅ…」
「校長のこの姿を見てみなさい。あの方が言っていたでしょ?
意識のない人間を操るゾンビパウダー…あのお方に不可能なんてないの。学園を統べる校長も、あの方の魔力の前では、ただの奴隷…。
ただ、困った事にこの校長の異変に気付いた奴がいた…」
「それが…由紀子?」
「そう。あいつは薬が切れる前の校長を偶然、見てしまったようなの。最初は取材とか言って、渋谷のラブホ辺りに誘ったみたいけどね。薬の効果が切れると、その人間は、自分が何していたかも、何をされていたかも思い出せない。意識が朦朧として、しばらくの間、混乱するの。
アイツはそれをネタに私達を脅すどころか、自分も仲間に入れてくれと言ってきたわ」
「由紀子は…じゃあ、自分から、あなた達の仲間になったってコト?」
「さあね…あのコが何を考えてたのかなんて知らないわ。どうせもう死んじゃってるし、今さらどうでもいいコトだしね」
貴子は思う。由紀子は七不思議を取材する過程で校長と接し、恐らくは口にするのもはばったい、この世の地獄のような光景を見たか聞いたかしたのだろう。校長さえも脅して仲間に引き入れていたというのか。
やはり仲間に入った目的は、この少女達の告発にあったということだろうか…?
ゾンビパウダー…それが何なのかが判らない。この少女達に聞いても無駄な気がした。
「けど、私らは新聞部の由紀子なんて最初から信用してなかった。
客も取らずに仲介役とか裏方の仕事ばかりする女なんか信じらんない。あの方に逆らったから、きっと罰があたったのよ」
「奈美まで…そうやって、あなた達が無理やり仕事をさせていたのね…」
恐怖と共に沸々と怒りが湧いてくる。
「あんた、何か勘違いしてんじゃない? 奈美はね、とっても優秀なアタシ達の仲間よ。目的の為なら仲間以外の友達だって売る。アンタがその証拠じゃない。由紀子なんかと違って、平気で身体だって売れちゃう女なのよ」
「え…」
嘘だと信じたかった。
あの奈美が…売春!?
「クスクス…。ダチュラはアタシらの中じゃ一番の稼ぎ頭よ。ボーイッシュな女って人気あるのよね~。あっちの成績の方も優秀で、羨ましい限りよね…」
「ほんとほんと」
「奈美が…!? 嘘よ!
だって私のコトだって…ついさっきだって、私をボーガンから庇ってくれて…」
「あんたバカぁ? まだ気付かないの?
あのボーガンを撃ったのが誰かも気付かないなんて、相当おめでたい頭してんのね。
言っとくけど、私達はあの方も含めて、最初からここにいたわよ」
「けどダチュラって一条先輩のコトなんじゃ…」
「残念でした。それも奈美のアイディアよ。
あの方は、最初から私達とは何の関係もないわ。私達に捜査の手が及ばないように、色々とアドバイスはしてくれたけどね」
「そ、そんな…」
じゃあ由紀子は…。
私達は最初から、その為に…。
ただクラスメートというだけで、あの奈美に選ばれたというのか?
「校長先生も可哀相に…。
随分悩んでたわよ。…当然よね? 自分の高校の生徒が薬物に売買春だもの…。
この人だって最初は猛反対だったのよ。家族一筋の堅物が、よりによって自分の高校の女子生徒に誘惑されて、たった一回ダチュラと寝ただけで…」
ガーベラと呼ばれた少女は後ろから、足で校長の太股の辺りを蹴った。
「あぁぁあぁ…」
「このザマだもんね」
「ふふ…そんな風に言わないの。実際たいしたもんじゃない、あのコって。死んだら多分、地獄行き確定ね…」
女達は再び笑った。
「さ、話はここまで。あんたもコレでコイツの仲間入りって訳よ…」
そう言うと女は、黒マントの下から何かを取り出した。
貴子はそれを見た瞬間、全身が凍り付く恐怖に襲われた。
…注射器!?
後ずさる。厭だ…。
「後がつかえてるし、植田も見回ってるみたいだから早くパパッと済ましちゃおうよ。ま、どうせこんな地味なヤツ、誰も助けになんか来やしないだろうけど」
「アハハハ!そうそう。
どんなに泣いたって叫んだって、白馬の王子様なんて来ないのよ。泣こうが叫ぼうが、ここなら絶対に聞こえないわ!」
貴子は人を人とも思わない、この少女達の言動に、心底腹が立っってきた。
孤独と裏切り。排斥と差別。
それはこの世で最も罪深い行為ではないのか? 貴子は怒りと恐怖で、頭が真っ白になっていくのを感じた。
「最低…」
一度はっきりとそう声に出すと、何だか無性に腹が立ってきた。
「あなた達…最ッ低!
こんなの…こんなの最低!
絶対に間違ってる!
…あなた達、普通じゃない!
自分達が何してるか、わかってんの!?
売春なんだよ!? 薬物なんだよ!?
捕まっちゃうんだよ!?
そんなにお金が欲しいの!?
…ねぇ、何で!?
何で好きでもない男の人に、平気で抱かれたりできるの!?
何で売春をビジネスみたいに考えられるの?
何で普通に生きてる人にこんなコトできるの!?
…ねぇ!何で!? どうしてなの!?」
貴子は近くにいたリリーのマントを掴んだ。
「ちっ…離せよ、このバカ!」
「ぅぐっ!」
すがりつくように詰め寄った貴子を、リリーは、さも面倒くさそうに地面に突き飛ばした。
再び倒れた貴子は、尚も気丈に女達を睨みつけた。
「答えてよ!」
「…ぷっ!…アハハハハハハハハ!
…ねぇ聞いたぁ、今の?
捕まっちゃうんだよォ、だって!
…アハハハハッ! 最高!
マジウケるんですけど!」
「キャハハハ! 売春だってさ! どッこの国の言葉ぁ、それぇ!? ひょっとして食べ物ぉ? あたしバカだから、わかんなーい!」
「アハハハ! あー腹痛い!超ウケる!」
「プッ…クスクス。何よ、それぇ?
愉しいからに決まってんじゃん? バっカじゃないの、アンタ」
「た、愉しいって!?」
「…だってこんなに愉しいコト、他にある!?
…昼には普通に真面目くさった顔して働いてる、どっかの会社の社長とか、重役みたいな偉ぶってるキモいオヤジ共がよ?
他人に命令する事に慣れてるような社会的にも地位も金もある奴らが、アタシ達にほんの少し弱み握られりゃ、途端に手の平返したように、泣きながら土下座してくんのよ。
『妻や子供や会社には黙っててくれ!金なら幾らでも出すから!』
とか言ってさぁ!
…傑作でしょ? 警察官や自衛官があたしの客だったコトもあるわよ。…ウブなアンタにゃわかんないでしょうけどね」
奈美は再び恐怖を覚えた。
何なの…。このコ達は?
本当に自分と同じ学校で同じ世代を生きている人間が発する言葉なのか? この上もなく歪で邪悪だ。
このコ達を支配している、このどす黒い闇の正体は一体…?
「いーい? 出会い系とかで、年齢を偽っておとなしそうな女子高生をそれらしく気取ってりゃ、男なんてバカだから幾らでも寄ってくるじゃない? キャバ嬢や風俗嬢やアイドルにだって、馬鹿な男はいくらでも貢いでくれるじゃない?
仕事が忙しい、家族が冷たい、会社が冷たい、人生に疲れたとか、なんだかんだ言い訳にして、身近にいる人間のコトすら顧みない、そんな父親や、自分勝手で下半身でしか生きてないようなバカ男は、世間には吐いて捨てるほどいるじゃないよ」
「そうそう。安っぽい映像作ったり、オタクなアニメ見て喜んで、勝手に妄想膨らませて盛り上がってちゃってさ。女を食い物にするのは、いつだってバカな男だけ。
金にブランド…リア充だの彼氏だのって、何、勘違いしてんのかしらね。そんな退屈なモノ、すぐに飽きるに決まってんじゃん。勝手に思い込んでくれるのは勝手だけどそんなもの正直、どうだっていいのよ。自業自得なそんなバカな父親やオタク共のせいで家族が、社会が崩壊するのよ?
最高のエンターテイメントじゃない!」
「それにアタシ達は加害者じゃないわ。女子高生をビジネスにしてるのは、アタシらじゃなくて、結局は男達なのよね。結果的にはアタシ達は被害者になるのよ。だって法律はアタシ達を裁かないし、実名だって報道しないじゃない?裁かれるのは未成年に手を出した、バカな男達の方。私達はただの被害者なの。
正に本末転倒とはこのコトね。
…傑作だと思わない?」
「く、狂ってる…」
貴子は女達のあまりに普通なその話しぶりに心底、戦慄を覚えた。この上もない嫌悪感に顔が引きつるのがわかった。
「あら、アタシ達は多分、この国で一番まともよ。自分勝手でバカな男共は、こうして豚のように飼い慣らしてあげなきゃ、すぐに悪いコトしちゃうでしょ? 飼育方法としては、これが一番真っ当だわ」
「…わかる? この国ってさ、昔からこうなのよ? アンダーグラウンドな金の流れや暴力こそが、結局は力になるのよ。
アンタも女ならさぁ、制服着てて気付かない? 女子高生ってだけで毎日、差別的で厭らしい男の視線に晒されて。携帯を触ってるだけで、親や世間の奴らにはいいだけ誤解されて。
…わかる? セックスで失う物があるのも女! 男の暴力には勝てないのも女! 年間世界中で行方不明になる三万人ぐらいの人間は、大半が女! 始めから女はね、対等じゃないのよ。存在からしてアンフェアって位置付けられてるの」
「出生率は下がるし、離婚率は上がるに決まってるっつーの。太ったブサイク男ばっかり幅を利かせてる国なんだもの。
…そういやさ、この国の死亡原因の本当の一位って何か知ってる?」
「中絶でしょ? 何を今さらって感じだけどね」
「…ねぇ、とりあえず、いつものヤツで、さっさとクスリ漬けにしちゃわない?」
「賛成。コイツ生意気だし、気に食わないんだけど。口じゃ何言っててもさ、大人しいヤツの方が結局、スケベだったりするじゃない?
アタシさ、こういう優等生っぽいヤツが、狂ったように自分から腰振って、男のモノとかくわえ込んでんの、一度ナマで見てみたいんだよねぇ…」
「そうする? ビデオカメラならあるよ。男優もちょうどスタンバってるコトだしね…」
女は地面に這う異形の校長を見下ろしながら吐き捨てるように言った。
「それともこの間、ナンパしてきたブッサイクな奴らとか使う?
マサさんのトコにでもテープ売りとばせば、そこそこ高くなるんじゃない?」
「結構いいトコのお嬢様っぽいしさ、親とかそれで脅してやった方が、後々面倒にはなんないかもね。
娘がレイプされたなんて知ったら、親なんてすぐにおとなしくなるわ。恥ずかしくて警察に訴える気もなくなるだろうし」
「わぁ、おめでとう!親に捨てられたら公認でAV女優やれるかもね。タイトルとかアタシらが付けてあげよっか?」
「…ねぇねぇ、それよっかさ! どっかの高校でもあったじゃん? こいつのアソコに電球入れてさ、みんなで腹とか蹴り飛ばしてやんない?子宮内損傷…一生ガキとか作れない体にしてやれば、ちょっとは反省するし、安心じゃん?」
「いいわね、それ! …さあ、ポチ。そいつをしっかりと捕まえておくのよ! 後でたっぷりご褒美あげるからねェ!」
「いっ…嫌! 嫌ぁ!」
女達が徐々に迫ってくる。地面に這いつくばった校長にがっしりと掴まれた右の足首。
貴子は残った左足で、校長の顔面を蹴り飛ばそうと滅茶苦茶にもがいた。
「お願い! 離して! 嫌っ! 嫌ぁっ!」
ふふ…。
ふふふっ…。
クスクスクス…。
禍々しい気配が、貴子に向けて一斉に迫ってくる。
その時だった。
「ふふふふっ…ハハハハ!あははははは!
あーっはっはっはっはっはっはっ!」
笑い声がした。どこかで聞いた、この調子の外れたおかしな…。
次いで異常な悲鳴が塔の上から聞こえた。
上を仰いだ女生徒達に、一斉に動揺が走った。
※※※
「1994年の事だ…」
警視庁刑事部の管理官、古井は低い声で改めて捜査員達にそう切り出した。
「東京都第3方面…目黒管内の薬局で、ある薬物が大量に盗難の被害に遭うという事件が発生した。
被害にあったのは、祐天寺にあるドラッグストアで『ワールドドラッグ祐天寺南支店』。
深夜に何者かが倉庫の中を荒らし回った形跡があり、開店前に店主が発見し、慌てて警察に通報したものだった。
後に山城組系の暴力団員、根元和彦24才の自宅アパートから、その薬物の一部と約7g…当時の末端価格にして約800万円の透明なビニール袋に入れられた覚醒剤のパケットが押収され、根元は逮捕。
同居していた根元の妹も、目黒署に任意同行という形で出頭している」
「シャ…シャブ…ですか!? その薬局から盗まれて、一緒に押収された薬物ってのは一体…?」
「フェンサイクリジン。それが薬物の名称だ。『エンジェルダスト』とも呼ばれている。今では立派な幻覚剤として扱われている有名な薬物だよ」
「エンジェル…ダスト…。天使の…粉…?」
石原が嘆息の吐息を漏らした。またもや薄気味の悪い名称に花屋敷は心底うんざりした。
こうした事に詳しい山瀬医師が乗り出した。
「元々は獣医が手術に使う麻酔薬として使用されているものです。
近似の物質にケタミンという薬があるのですが、この薬物はセルニランという名前で実際に販売されています。効果時間が約4~6時間ほどの、動物用の麻酔薬なのですな。
この薬物は妄想や幻覚などの副作用や症状から、例外なく暴力行為や自傷行為を行うなど、近年になって薬物中毒者の濫用が問題視され、来年の2007年度からは完全に麻薬取締法の規制対象に挙げられている薬物ですよ」
再び古井が続けた。
「今でこそ刑事部の管理官だが、平成6年のその当時、私は目黒署に配属したての駆け出しの刑事で、階級もまだ巡査だった」
「古井管理官…ここの刑事だったんですか?」
驚いている様子の柏崎の問いに、仮面を脱ぎ捨てたキャリアは昔の話だよ、とどこか自嘲気味に微笑んだ。
「君達が言う所の叩き上げというヤツさ。国家公務員試験一種をパスしてキャリアになったのは、その二年後の事だよ。…それはまぁいいだろう。
君達も知っての通り、2003年4月に警視庁の組織犯罪対策部は従来の刑事部の捜査第4課、暴力団対策課、生活安全部の銃器対策課、薬物対策課が統合される形で新設された。
私の本来の部署は、その銃器薬物対策課だよ。
…といっても主な業務は昔と変わらずの暴力団対策だがね。別の名前で呼んだ方が、君達には解りやすいのかもしれないが…」
「マル暴ですか? まさか古井警視がマル暴上がりの人だったなんて…」
石原は驚いてばかりである。花屋敷とて同じ思いだった。
意外というべきだろう。四六時中ヤクザの動向や麻薬の密売ルートに目を光らせているマル暴の刑事には、強面で屈強な花屋敷のような刑事の方が多いイメージがあるからだ。
話を戻そう、とマル暴上がりのキャリアは言った。
「根元は全面自供。今も都内に服役中だが、奴の供述で奇妙な事が判明した。
実際のヤクは10g近くあったのだという。若者向けに捌いていた少量の覚醒剤が入ったキャンディも足りなくなっていたらしい。
それについて妹の根元朱美が後に白状し、一人の女子高生が捜査線上に浮かび上がった。
その容疑者の名前が、高橋聡美…当時17才。
石原君の言葉を借りるなら、山内洋子殺害事件と前後して行方不明になっている失踪少女だ」
ようやく、その名前が出てきた。花屋敷はゴクリと唾を飲み込んだ。
「高橋聡美は根元朱美の中学時代の同級生だ。朱美は中学を卒業後、聖真学園に入学した高橋聡美とは別の高校に進学しているが、窃盗と傷害の容疑で二度の補導歴があり、そのせいで高校を退学させられている。
朱美は兄から預かった覚醒剤入りのキャンディやエンジェルダストを若者相手に密かにクラブや盛り場でバラまく、いわゆるポン引きの役だった。
妹が派手にクスリ入りのキャンディやエンジェルダストをバラまき、嵌った頃合いを見計らって兄貴が登場する。
依存性の高い薬物を欲しがる若者には、キャンディより強力なシャブを高値で売り渡す。根元はその利益の一部を組に上げようとしていた所を、まんまと逮捕されたという訳だ」
石原が古井に尋ねた。
「もしかして…。その少女が当時、田舎の学校に転校扱いになってしまったのは、まさか世間体があったから…ですか?」
「そういう事だ。高橋聡美には覚醒剤窃盗の容疑がかかっている。
私は刑事時代に彼女の両親にも会っているが、親戚や周囲からの非難、何よりも山城組の末端組員からの不当な圧力や嫌がらせは相当なものだったようだ。
自宅は窓ガラスに石を投げられ、玄関の戸も壊され、荒らされ放題…。組員が怒鳴りつけてくるような被害も実際にあり、周辺住民の目を何よりも恐れたのだろう。
何しろ、覚醒剤窃盗の容疑者が17才…しかも薬物共々に行方知れずときている。
当時の警察が公開捜査にも踏み切らず、マスコミへ箝口令を大々的に敷いたのも当然だ。パニックを恐れたんだ。高橋聡美の存在は徹底的になかった事にされたんだよ」
何という事だろう…。
聞いてみなければこんな展開、誰が予想しえただろう? もはやこの展開は、非常識どころの話ではない。
「あれから12年経ち、ヤクは未だに発見されてはいない。海外に秘密裏に流されたのか、今も誰かが故意に隠匿しているのか…。
いずれにせよ、エンジェルダストと覚醒剤は高橋聡美と共に、今も完全に行方をくらませたままになっているんだ…」
殺人事件が霞んでしまうほどの大事件である。花屋敷は言葉を失っていた。これらはもはや事件群と言ってもいい。
川島由紀子の墜落死…。
12年前の黒魔術殺人…。
七不思議の噂…。
売買春の不穏な噂…。
薬物の存在…。
行方不明の女生徒…。
そして来栖コレクションではないと判明した、あの虚実の塔…。
これらの事件群は壮大な、ある事件の一つの側面にしか過ぎないのではないのか?
探れば探るほどに別の事件にぶち当たり、また不可解な展開に翻弄される。
一つ一つの事件はまるで切り離されているのに、互いが互いに目をくらましあう事件…。
散見する事実は、そんな疑問を抱かせるに充分な暗喩を含んでいる。
そして、恐らくは誰も知りえない情報を握っている来栖要は、その幾つかの側面から事件全体の形を掴んでいるはずなのだ。
その末のアイツのあの傷害事件と逮捕劇である。思わせぶりで、訳の判らない事ばかりする男であるのはわかっているが…。
…気持ち悪くなるだけじゃないか馬鹿野郎!
花屋敷は心中で、かの探偵である旧友に思いきり悪態をついていた。
古井が言った。
「今さらだから私も話すが、聖真学園には昔から奇妙な噂がある…。学園の生徒達の間では昔から『後ろに立つ少女』という名の怪談話として語られ始めた時期というのが、どうも高橋聡美の失踪した時期や山内洋子が殺害された時期と重なっているようなんだ」
そこに繋がる訳か。
そう。火のない所に噂は立たないものなのだ。なるほど、七不思議という、歪で突拍子もない不可解な噂は形を変え、名前を変えた、ある種のメッセージとも受け取れる。
同じ根を持っている別物同士。枝は分かれ、呼び水のように、また別の事件が発生する不可解な構造。
まるで、魔術だ…。
花屋敷は今さらだが気付いた。あの理事長がなぜ、七不思議の噂なる迂遠な方法で、過去に学園で起こった不穏な噂を払拭しようとしたのかが。
彼に依頼された来栖要が、なぜこの事件に執拗に拘っていたのかが。花屋敷は今ようやく、その一端を握った気がした。
花屋敷は己の無力と不明さを今ほど恥じた時はない。自分の頭を、思い切り何かに打ち付けてやりたい衝動に駆られた。
アイツは…来栖は始めから事件のこの不可解な構造を理解し、その核心に最も近い場所にいたのだ。奴が早瀬に言った司法取引のネタが、まさか覚醒剤のことだったとは思いもしなかった。
俺は…何て馬鹿なんだ!
俺が想像している以上に、この事件は根深い。俺は親友を…アイツを…!
「いずれにせよ、この事件と無関係と言われれば確かにそうなのかもしれな…」
「た、大変です!」
その時だった。制服を着た警官が転がるように部屋に入ってきた。
「どうした!一体、何事だ?」
磯貝警部が恫喝する。
「たった今、地元の交番に通報が…聖真学園で、さ、殺人事件が! あ、あの学園でまた…ま、また人が死んだと!殺されました!」
「何だとぉ!? 馬鹿な!」
「どういう事ですか!?」
「クソッ! 警邏は一体、何をしていた!」
混乱している。立ち上がった古井がバン、と机を叩いた。
「落ち着くんだ!君、詳しい通報の内容は?」
「そ、それが…通報してきたのは学園の事務員だと名乗る女性で、そ、その…混乱しているらしく…」
「だ、誰が…誰が死んだんですか!?」
「何時頃の事だ!?」
「し、死因は!?」
「学園のどこでだ!?」
錯綜している。もう滅茶苦茶だ。
捜査本部に動揺が走っている。
花屋敷は俄かに、早くなる鼓動を抑えながら腹の内では全く別な事を考えていた。
来栖を…あの探偵を一刻も早く、この事件に引きずり出さなければ…!
こうなった以上、もう奴に頼る以外にない!証拠不十分で不起訴になるのは判りきっている!
乱れ舞う風と狂雷が渦巻く表の風景が、花屋敷を最悪の不安へと駆り立てていた。
何かが狂ってしまった世界の全てが花屋敷にはその時、底知れぬ悪意を抱き、死の上に死を重ねようと目論む、禍々しい何者かの嘲笑う声のように聞こえていた。
絶望的な言葉などもう聞きたくなかった。いっそ耳を塞いでしまいたかった。
「し、死んだのは…」
…畜生っ! 言うな!
…その先を言うなっ!
「し、死んだのは…。 さ、三人だそうです!」
「な、何だとぉ!?」
目眩がした。足元にいきなり穴が開いたようだった。
6月某日夕刻。事件はこうして最悪の振り出しを迎える事となる。
喫茶店の近くにあるネットカフェに勇樹は来ていた。アリサが残していったメモには、几帳面な文字で見慣れた記号と英数字が並んでいたのだ。
「これって…。URL…」
あの来栖が、何の意味もなくアリサを勇樹の下へ寄越すはずがない。これにはきっと重要なメッセージがある。
画面を立ち上げるのももどかしく、勇樹はすぐさま付属のエクスプローラーを立ち上げ、素早くアドレスを打ち込んでいった。
あっ、と思わず声が漏れそうになった。勇樹は画面の文字に凍りついた。
ネットに表示された無機質な液晶の画像には勇樹の全く知らなかった、もう一つの世界が広がっていた。
<インターネットの花屋。フラワーショップ>
『Heaven's Garden』(ヘブンズガーデン)へようこそ。
『花から人へ…。あなたからあの人へ…。
花はあなたの想いを繋ぐ、あなただけのメッセージ。
フラワーシップ加盟店の『セイント・トゥルース』が、あなたのお花を全国へお届けします。
心温まる花のメッセージに、あなただけのメッセージカードを添えてみては? 全国無料配送も承っております。
ここではネットアイドルの現役女子高生達の写真と共に、花に託されたメッセージを幾つかご紹介していきましょう』
勇樹は文章に写真の付いたファイルを、次々とドラッグしていった。我知らず、マウスをクリックして、上から下へとスライドする指が細かく震えていた。
色とりどりの花…。その花と一緒に写っている、この女生徒達…。
見慣れたブレザー姿…。
イメージキャラクターの、このあまりに有名な女生徒…。
写真の下には花の紹介記事が載っていた。
○ガーベラ…キク科の多年草の総称。別名アフリカセンボンヤリ。
温帯、熱帯アジア、アフリカに広く分布し、野生のものは約40種存在する。写真の花は園芸品種のピンクのガーベラ。花の持ちが良くフラワーアレンジメントでも比較的多く取り入れられているメジャーな花です。
花言葉…『神秘』。『あなたは光に満ちている』。『崇高な美』。
○リリー…写真の白い百合の花は中国産のリーガルリリー。中国原産のリーガルリリー、キカノコユリ、ハカタユリを中心とする品種は総称してトランペットハイブリッドとも呼ばれています。
花言葉…『純潔』。『無邪気』。『処女性』。
○トレニア…写真の青い小さなトレニアはハナウリクサとも呼ばれる。和名はツルウリクサですが、現在あまりこの名称は用いられていません。沖縄県の北部、宮古島のツルウリクサが、国内ではその名称のオリジナルであり、絶滅危惧種1Aに分類されている花です。
○ダチュラ…朝鮮朝顔の名で知られているナス科の一年草。江戸時代の外科医、華岡清州が女性の出産に伴う麻酔薬の素材としても用いられ鎮痛、痙攣に効果があったとされる花。
花言葉『偽りの魅力』。『愛嬌』。『二面性』。
その先を勇樹は全く読んでいなかった。
その白い花と共に写った少女の写真を見た瞬間、目の前に薄暗いカーテンがかかり、自分の足元が急速に冷えていくのを感じた。
不規則な鼓動を繰り返す、己の胸に左手をあて、勇樹は無意識に画面をシャットダウンしていた。
一瞬でフォルダの並んだメインメニューへと切り替わるディスプレイの表示。
底知れぬ暗澹とした思いに言葉がなかった。
何なんだよ…これ…。
信じられない思いとは裏腹に、勇樹の思考は勝手に組み上がっていった。
花屋のホームページ…なぜ、聖真学園の女生徒達が写っているのだ?
『セイント・トゥルース』
聖なる…真実?
来栖はこれを勇樹に知らせたかっただけか?
…いや、違う。勇樹は一人、かぶりを振った。偏屈で思わせぶりだが、アンダーグラウンドな世界にも通じているあの探偵がマークしていた以上、これがただのネット専門のフラワーショップのホームページであるはずがない。
ネットアイドル。
現役の女子高生達。
サイトのイメージキャラクターにもなっている、このあまりに見慣れた有名人の端正な顔。彼女達のこの制服。
撮影用にメイクアップしているが、あまりに見慣れた、この写真の顔ぶれ。このサイトの意味するところはもう明らかだった。
「そういう事か…!畜生…。まさか、こんな方法で売春をしていたなんて…!」
間違いない。これは売春のメニューリストだ! 勇樹は改めて、先ほどのページをもう一度探ってみた。広告の大部分はオフィシャルサイトがほとんどだ。有名なコミュニティー系サイトに大手ネットオークションのサイトまである。
恐らく正規の店舗に掲載する大手サイトの広告やリンク先、そして何よりも花を買う一般客の方を隠れ蓑にしているのだ。
売春の客層は恐らく、社会的な金持ちや一部の人間だけで、一見はお断り。売春を示唆するような隠されたメッセージは一部の人間にしか知らされていない、そうした仕組みになっているのだろう。
ヘブンズガーデン…直訳すれば楽園の庭。聖真学園の、あの噴水のある場所だ。勇樹は改めてサイトのディテールを眺めてみた。
国民的美少女コンテストにも優勝した、爽やかで清楚な一条明日香をイメージキャラクターにしたり、校長が自ら自分達の高校の園芸部員達が丹精込めて育てた花です、と自慢げに宣伝しているなど、実に手が込んでいる。
だが、堂々と顔を晒すのには別の意味がある。
この場合、花を買う一般客の方がカモフラージュになるという事。そして校長や生徒会長の存在は、聖真学園や学校関係者へのカモフラージュにもなる。
まさかこんな方法で売春をしているなど、思いもしないだろう。
インターネットが普及するにつれ、匿名性を利用した書き込みは内容によってはかえって足がつきやすい。表向きは普通に営業するネットの花屋。何も知らない不特定多数の人間には堂々と通常の営業をし、実際の売買春は一部の人間しか相手をしない。
この方法は、組織だった売春の隠蔽工作としてはかなり効果的だ。あまりに堂々とし過ぎていて誰も疑わないのだ。
勇樹の脳裏にふいにアリサの言葉が蘇った。
『真実は自分の目で確かめてごらんなさい。
アイツがなぜ、あなたをそこまでして守ろうとするのか、ある程度その理由もわかると思うわ…』
アリサが残していったあの言葉。そして、このメモ。
『楽園の庭から、お迎えが来るはずだ…』
逮捕される直前に来栖が残したあの言葉。怪我こそしたが、今も五体満足でいる勇樹。改めてその事実に気づき、勇樹は目の前が真っ暗になった。
なんてことだ…。なんて馬鹿だったんだ! 僕は…!
アリサと来栖が残していったこのメモこそ、勇樹の無能と愚かさの証明だ。
URLの書かれたそのメモを勇樹は思い切り握り潰し、気がつけば街へと走り出していた。
※※※
…あと少しだ!
豪雨に視界が霞む中、勇樹は上体を僅かに屈め、全力疾走する獣のごとく闇の中を駆け抜けていた。ようやく判った。全て。
何もかも…!
どしゃ降りの雨の中を駆けた。駆けて駆けて駆け続けた。愚かな勇樹に出来るのは、今はただ、もうそれだけだった。
学園を覆う空が、鳴動していた。
荒れ狂う風は上空で渦巻き、空には夥しいほどの暗い雨雲が分厚く垂れこめていた。
全身に大粒の冷たい雨が幾つも当たっては弾け飛び、足元の水溜まりへボタボタと滴り落ちていく。
体中が重たい。ベタリと濡れた衣服や下着が身体に、肌に纏わりついてくる。髪も靴も、もうびしょ濡れだった。
…構うもんか!走れ!
心臓が裂けるまで走れ!
学園までは、もうこの一本道だけだった。
どしゃ降りの豪雨。見慣れた鬱蒼とした林。ザワザワと草の茂った闇。漆黒の闇に閉ざされた世界。アスファルトを走る度に水溜まりの波紋がグシャグシャグシャグシャと、いびつに歪んでいく。
疾走する暗闇に、須藤達と争ったあの時の記憶が重なる。悪意に満ちた濃密な闇の全てが愚かな勇樹を阻み、一斉に声を上げて嘲笑しているようだった。
『無駄だ無駄。何をしたって無駄無駄無駄! 無駄に決まってるって!』
『必死で走ろうと足掻こうと無理なものは無理! お前には無理!』
『お前なんかが行ったって状況は何一つ変わらないんだよ!』
『お前は馬鹿だから』
『お前は何も気付かないから』
『お前は何も知らないから』
『お前は何も判らないから』
『お前は何も…』
ああ、そうさ!そうだよ!
僕は何も…何一つ判っちゃいなかった!
金臭い唇を噛み締めた。無知蒙昧な己の顔面を拳で思い切り殴りつけてやりたい衝動に駆られた。こんな馬鹿な事があって堪るか!
難解な答案用紙の上に、いきなり解答用紙を渡された気分だ。問いに対する解答権は既にしてなく、そこには予定調和な答えが書いてあるだけ。
当然過ぎる真相に、勇樹は未だ信じられない思いだった。
バシャバシャバシャバシャ!
荒い呼吸。不規則に乱れ始めた己の足音。濡れた前髪が額に、頬に張り付いてくる。鬱陶しい。
沸騰した頭の中で、ぐるぐると様々な疑問符が渦を巻いていた。
…なぜだ?
なぜ今まで気付かなかった?
なぜ判らなかった?
バシャバシャバシャバシャ!
なぜ?
ナゼ?
何故?
…なぜ最初に死んだのが、由紀子でなければならなかったのか?
…なぜ須藤達に狙われたのが勇樹だったのか?
…なぜ何も知らないはずの探偵が、前もって勇樹の危機を察知できたのか?
ビシャリ!
その時、一際眩しい雷光が暗闇の空を照らし出した。
答えは一つしかないじゃないか!
耳をつん裂くような雷鳴が遅れてやってくる。一瞬の蠢動に大地が震える。
信じられなかった。
由紀子に須藤に勇樹。そして、おそらくは由紀子と親しかった貴子も。
不可解な事件が始まって巻き込まれる形になった僕達の共通点。
唯一の共通点。
あのサイト…。
あの写真…。
あの生徒達…。
あの噂…。
その全てが、あからさまに物語っている。
僕達はたった一人の人物に、予め選ばれたキャストに過ぎなかったのだ。
そう…。
クラスメートに!
由紀子の転落死から始まった、この事件。最初に死んだのが由紀子だったのも、おそらくは偶然ではない。
決まっていたのだ。全て。
最初から。校長の村岡と一条明日香も恐らくは連中とグルなのだ。
…なぜだ?
なぜもっと早く気付かなかった?
なぜだ?
ナゼだ!?
何故だ!
アイツの携帯の番号が通じない。電源が切られている。
貴子がもし今、学園にいるのだとしたら…。
最悪の予想が頭によぎり、勇樹は慌てて首を振った。
チクショウ!
前方を睨みつける。
待ってろよ、貴子…!
雨に煙る黒々とした校舎。
聳えるように建った黒々とした時計塔が見える。槍のような忍び返しが付いた、鉄柵の校門に手をかける。
ここはまるで檻だ!
ザワザワと中庭の木々が揺れている。勇樹は今、はっきりと形を成した闇と対峙していた。きっといるはずだ。早くアイツに…。
奈美に会わなければ!
※※※
ぼんやりと黄色い照明が空間を照らし出した。銀色の仮面を被って笑う黒マントの異形達。そして足元には、ヌラリと怪物のように蠢く得体の知れない全裸の校長がいた。
ビシャリ!
雷鳴の白い閃光が再び闇を照らし出した。
根源的な恐怖と、抗えない暴力という無慈悲な力に貴子は思わず悲鳴を上げていた。
怪物がゾンビのようにして、貴子へジリジリと這い寄って来る。
「あぁあぁ…」
「ひっ!」
その時、バシッと強く畳を叩いたような音がして裸の校長がベタリと地面に手をついた。
「ダメよ、おあずけ!
…いいコだからおとなしく待ってるのよ」
「あ…あうぅ…」
黒いマント姿に仮面の中から、まだあどけなさの残る女の声がした。まるでサーカスの猛獣を扱うように女は片手に黒皮の鞭を、もう片方の手には鎖を握っていた。
黒皮の鞭と銀色の鎖が、艶々と不気味な光沢を放っている。
これが…校長先生?
「あぁうう…あぁ…」
貴子は己の目を疑った。
校長の目は既に、正常な人間のそれではなかった。
視点はあちこちに飛び、涙と鼻水で顔はグシャグシャで、白髪混じりの乱れ放題の髪が哀れなほど額にうちかかっている。
女が手にした鎖は校長の首輪へと繋がっている。まるでペット扱いだ。
校長という権威と尊厳、村岡義郎という人間性が、その滑稽で哀れな姿の為に残らず失われてしまっている。
正視に堪えない、その常軌を逸した変わり果てた姿に、貴子は後退りしながら、再び叫び出したい恐怖を覚えた。
その時、クスクスという忍び笑いと共に頭上から声が響いてきた。
「ふふふ…。
魔女達の館へ改めてようこそ、鈴木貴子さん…。心より、あなたを歓迎致しますわ」
微かに鼻にかかったようなこの声…。間違いない。
一条明日香の声だった。
貴子は恐る恐る、声のした天井のステンドグラスの辺りを仰いだ。
「ふふふ…びっくりさせちゃったかしら? けど、そこに転がっている下品なケダモノは、あなたもよく知る校長先生ですわよ。
彼は私達の言うコトなら何でも聞きますの。
土をお食べと命令すれば、ちゃんとそうするし、靴をお舐めと言えば喜んで舌を出しますわ。
…ほら、ちゃんとよくご覧になって。気持ち悪いけど、よく見れば愛嬌があってカワイイでしょう? 涎を垂らして舌まで出して…」
クスクスクス…。
ふふふふふ…。
女達は再び笑った。
「ふふ…クスリが効いている間はこの人は私達に絶対服従の奴隷…いいえ、犬かしらね。
そうね…ポチとでも命名しましょうか?」
ふふふ…。
クスクスクス…。
黒マントの女達の笑い声。残響音が四方八方から響いてくる。塔の上から響いてくる一条明日香の声は理性的で上品な声色だけに、それがかえってゾッとするほど冷たく聞こえてきた。
貴子はステンドグラスに描かれた、黒い山羊の悪魔に直接話しかけられているような錯覚を覚えた。
「貴子さんはハイチのゾンビをご存知かしら? 仮死状態の人間にフグの毒であるテトロドトキシンを使って奴隷として使役する、いわゆるブードゥ教のゾンビパウダーと同じですわ。
その人は今、五十路を過ぎた村岡義郎という人間でもなければ、生徒達の教育に携わる社会的な地位ある人間ではありませんの。
地べたを嫌らしく這いずり回る地虫。心なきケダモノ。ただの生ける屍ですわ」
「あぁああ…」
見ていられない。正視に堪えないその光景に貴子は再び目を逸らした。
「それではリリー、カトレア、ガーベラ、後は頼みましたよ。私はダチュラと共に後始末をしてこなければ…。
それでは鈴木さん、ごきげんよう…。今宵のパーティーを楽しんでらしてね。全ての儀式が終われば、あなたも晴れて私達の仲間入りでしてよ」
高らかな哄笑が、再び吹き抜けの塔に響き渡った。
ダチュラと共に…?
どういうコト…?
「…だってさ。かわいそうに」
「馬鹿な奴。何にも知らずに、のこのこ現れてくるんだもんねぇ」
仮面の女達は貴子を憐れむようにそう言った。図書室で聞いたリリーとガーベラの声と全く同じだ。
「…だから言ったでしょ?
事件の真相だの、誰かの役に立ちたいとか、それなりにおいしそうな餌を撒いときゃ、獲物は勝手に引っかかってくれるもんなのよ。ボランティア活動と同じよ」
カトレアと呼ばれた別の少女が言った。
「ふふふっ…。ダチュラもなかなかエグいコトするわね。大事な友達を助けたいばかりに、もう一人の友達を平気で売るなんてさ」
え…?
「成瀬勇樹ねぇ…。あんな奴の何がいいのかしら。由紀子のコトといい、つくづく罪作りな学園のアイドルよね…アハハハ!」
ダチュラが…奈美?
なぜ、勇樹の名前が出てくるの?
「こうなると由紀子も哀れよね。あの裏切り者も、結局は私達を警察に売ろうとしてたみたいだし」
「クスクス…どうやら罰があたって、死んじゃったみたいだけどね…」
少女達は再び笑った。
貴子は耳を疑った。
まさか…。
「や、やっぱり…。あ、あなた達が…あなた達が由紀子を殺したの!?」
「ちょっと、勝手に勘違いしないでくれる?
あのイカレた女は勝手に狂って死んだだけじゃない。ま、裏切り者にはちょうどいい天罰だけど…」
「そうそう。どうせタチの悪いクスリでもキメてたのよ。
私達の不正を暴こうとサツにタレ込もうとするは、仲間も売ろうとするはの最低の泥棒猫よねぇ。…本当に自業自得だわ」
「由紀子が!? 薬って…一体何のコト…!?」
貴子は恐怖を抑え、それだけを問いかけた。自分の声が震えているのがわかった。
「アンタ、本っ当におめでたい女ね。そこそこ頭よさそうな顔して、実は天然記念物級のバカなんじゃない?
…そんなに知りたきゃ、教えてあげるわ」
カトレアという少女は手にした鎖をグイッと引っ張った。ジャラッという音と共に、哀れな校長が目の前に引き出された。
「あぁ…あうぅ…」
「校長のこの姿を見てみなさい。あの方が言っていたでしょ?
意識のない人間を操るゾンビパウダー…あのお方に不可能なんてないの。学園を統べる校長も、あの方の魔力の前では、ただの奴隷…。
ただ、困った事にこの校長の異変に気付いた奴がいた…」
「それが…由紀子?」
「そう。あいつは薬が切れる前の校長を偶然、見てしまったようなの。最初は取材とか言って、渋谷のラブホ辺りに誘ったみたいけどね。薬の効果が切れると、その人間は、自分が何していたかも、何をされていたかも思い出せない。意識が朦朧として、しばらくの間、混乱するの。
アイツはそれをネタに私達を脅すどころか、自分も仲間に入れてくれと言ってきたわ」
「由紀子は…じゃあ、自分から、あなた達の仲間になったってコト?」
「さあね…あのコが何を考えてたのかなんて知らないわ。どうせもう死んじゃってるし、今さらどうでもいいコトだしね」
貴子は思う。由紀子は七不思議を取材する過程で校長と接し、恐らくは口にするのもはばったい、この世の地獄のような光景を見たか聞いたかしたのだろう。校長さえも脅して仲間に引き入れていたというのか。
やはり仲間に入った目的は、この少女達の告発にあったということだろうか…?
ゾンビパウダー…それが何なのかが判らない。この少女達に聞いても無駄な気がした。
「けど、私らは新聞部の由紀子なんて最初から信用してなかった。
客も取らずに仲介役とか裏方の仕事ばかりする女なんか信じらんない。あの方に逆らったから、きっと罰があたったのよ」
「奈美まで…そうやって、あなた達が無理やり仕事をさせていたのね…」
恐怖と共に沸々と怒りが湧いてくる。
「あんた、何か勘違いしてんじゃない? 奈美はね、とっても優秀なアタシ達の仲間よ。目的の為なら仲間以外の友達だって売る。アンタがその証拠じゃない。由紀子なんかと違って、平気で身体だって売れちゃう女なのよ」
「え…」
嘘だと信じたかった。
あの奈美が…売春!?
「クスクス…。ダチュラはアタシらの中じゃ一番の稼ぎ頭よ。ボーイッシュな女って人気あるのよね~。あっちの成績の方も優秀で、羨ましい限りよね…」
「ほんとほんと」
「奈美が…!? 嘘よ!
だって私のコトだって…ついさっきだって、私をボーガンから庇ってくれて…」
「あんたバカぁ? まだ気付かないの?
あのボーガンを撃ったのが誰かも気付かないなんて、相当おめでたい頭してんのね。
言っとくけど、私達はあの方も含めて、最初からここにいたわよ」
「けどダチュラって一条先輩のコトなんじゃ…」
「残念でした。それも奈美のアイディアよ。
あの方は、最初から私達とは何の関係もないわ。私達に捜査の手が及ばないように、色々とアドバイスはしてくれたけどね」
「そ、そんな…」
じゃあ由紀子は…。
私達は最初から、その為に…。
ただクラスメートというだけで、あの奈美に選ばれたというのか?
「校長先生も可哀相に…。
随分悩んでたわよ。…当然よね? 自分の高校の生徒が薬物に売買春だもの…。
この人だって最初は猛反対だったのよ。家族一筋の堅物が、よりによって自分の高校の女子生徒に誘惑されて、たった一回ダチュラと寝ただけで…」
ガーベラと呼ばれた少女は後ろから、足で校長の太股の辺りを蹴った。
「あぁぁあぁ…」
「このザマだもんね」
「ふふ…そんな風に言わないの。実際たいしたもんじゃない、あのコって。死んだら多分、地獄行き確定ね…」
女達は再び笑った。
「さ、話はここまで。あんたもコレでコイツの仲間入りって訳よ…」
そう言うと女は、黒マントの下から何かを取り出した。
貴子はそれを見た瞬間、全身が凍り付く恐怖に襲われた。
…注射器!?
後ずさる。厭だ…。
「後がつかえてるし、植田も見回ってるみたいだから早くパパッと済ましちゃおうよ。ま、どうせこんな地味なヤツ、誰も助けになんか来やしないだろうけど」
「アハハハ!そうそう。
どんなに泣いたって叫んだって、白馬の王子様なんて来ないのよ。泣こうが叫ぼうが、ここなら絶対に聞こえないわ!」
貴子は人を人とも思わない、この少女達の言動に、心底腹が立っってきた。
孤独と裏切り。排斥と差別。
それはこの世で最も罪深い行為ではないのか? 貴子は怒りと恐怖で、頭が真っ白になっていくのを感じた。
「最低…」
一度はっきりとそう声に出すと、何だか無性に腹が立ってきた。
「あなた達…最ッ低!
こんなの…こんなの最低!
絶対に間違ってる!
…あなた達、普通じゃない!
自分達が何してるか、わかってんの!?
売春なんだよ!? 薬物なんだよ!?
捕まっちゃうんだよ!?
そんなにお金が欲しいの!?
…ねぇ、何で!?
何で好きでもない男の人に、平気で抱かれたりできるの!?
何で売春をビジネスみたいに考えられるの?
何で普通に生きてる人にこんなコトできるの!?
…ねぇ!何で!? どうしてなの!?」
貴子は近くにいたリリーのマントを掴んだ。
「ちっ…離せよ、このバカ!」
「ぅぐっ!」
すがりつくように詰め寄った貴子を、リリーは、さも面倒くさそうに地面に突き飛ばした。
再び倒れた貴子は、尚も気丈に女達を睨みつけた。
「答えてよ!」
「…ぷっ!…アハハハハハハハハ!
…ねぇ聞いたぁ、今の?
捕まっちゃうんだよォ、だって!
…アハハハハッ! 最高!
マジウケるんですけど!」
「キャハハハ! 売春だってさ! どッこの国の言葉ぁ、それぇ!? ひょっとして食べ物ぉ? あたしバカだから、わかんなーい!」
「アハハハ! あー腹痛い!超ウケる!」
「プッ…クスクス。何よ、それぇ?
愉しいからに決まってんじゃん? バっカじゃないの、アンタ」
「た、愉しいって!?」
「…だってこんなに愉しいコト、他にある!?
…昼には普通に真面目くさった顔して働いてる、どっかの会社の社長とか、重役みたいな偉ぶってるキモいオヤジ共がよ?
他人に命令する事に慣れてるような社会的にも地位も金もある奴らが、アタシ達にほんの少し弱み握られりゃ、途端に手の平返したように、泣きながら土下座してくんのよ。
『妻や子供や会社には黙っててくれ!金なら幾らでも出すから!』
とか言ってさぁ!
…傑作でしょ? 警察官や自衛官があたしの客だったコトもあるわよ。…ウブなアンタにゃわかんないでしょうけどね」
奈美は再び恐怖を覚えた。
何なの…。このコ達は?
本当に自分と同じ学校で同じ世代を生きている人間が発する言葉なのか? この上もなく歪で邪悪だ。
このコ達を支配している、このどす黒い闇の正体は一体…?
「いーい? 出会い系とかで、年齢を偽っておとなしそうな女子高生をそれらしく気取ってりゃ、男なんてバカだから幾らでも寄ってくるじゃない? キャバ嬢や風俗嬢やアイドルにだって、馬鹿な男はいくらでも貢いでくれるじゃない?
仕事が忙しい、家族が冷たい、会社が冷たい、人生に疲れたとか、なんだかんだ言い訳にして、身近にいる人間のコトすら顧みない、そんな父親や、自分勝手で下半身でしか生きてないようなバカ男は、世間には吐いて捨てるほどいるじゃないよ」
「そうそう。安っぽい映像作ったり、オタクなアニメ見て喜んで、勝手に妄想膨らませて盛り上がってちゃってさ。女を食い物にするのは、いつだってバカな男だけ。
金にブランド…リア充だの彼氏だのって、何、勘違いしてんのかしらね。そんな退屈なモノ、すぐに飽きるに決まってんじゃん。勝手に思い込んでくれるのは勝手だけどそんなもの正直、どうだっていいのよ。自業自得なそんなバカな父親やオタク共のせいで家族が、社会が崩壊するのよ?
最高のエンターテイメントじゃない!」
「それにアタシ達は加害者じゃないわ。女子高生をビジネスにしてるのは、アタシらじゃなくて、結局は男達なのよね。結果的にはアタシ達は被害者になるのよ。だって法律はアタシ達を裁かないし、実名だって報道しないじゃない?裁かれるのは未成年に手を出した、バカな男達の方。私達はただの被害者なの。
正に本末転倒とはこのコトね。
…傑作だと思わない?」
「く、狂ってる…」
貴子は女達のあまりに普通なその話しぶりに心底、戦慄を覚えた。この上もない嫌悪感に顔が引きつるのがわかった。
「あら、アタシ達は多分、この国で一番まともよ。自分勝手でバカな男共は、こうして豚のように飼い慣らしてあげなきゃ、すぐに悪いコトしちゃうでしょ? 飼育方法としては、これが一番真っ当だわ」
「…わかる? この国ってさ、昔からこうなのよ? アンダーグラウンドな金の流れや暴力こそが、結局は力になるのよ。
アンタも女ならさぁ、制服着てて気付かない? 女子高生ってだけで毎日、差別的で厭らしい男の視線に晒されて。携帯を触ってるだけで、親や世間の奴らにはいいだけ誤解されて。
…わかる? セックスで失う物があるのも女! 男の暴力には勝てないのも女! 年間世界中で行方不明になる三万人ぐらいの人間は、大半が女! 始めから女はね、対等じゃないのよ。存在からしてアンフェアって位置付けられてるの」
「出生率は下がるし、離婚率は上がるに決まってるっつーの。太ったブサイク男ばっかり幅を利かせてる国なんだもの。
…そういやさ、この国の死亡原因の本当の一位って何か知ってる?」
「中絶でしょ? 何を今さらって感じだけどね」
「…ねぇ、とりあえず、いつものヤツで、さっさとクスリ漬けにしちゃわない?」
「賛成。コイツ生意気だし、気に食わないんだけど。口じゃ何言っててもさ、大人しいヤツの方が結局、スケベだったりするじゃない?
アタシさ、こういう優等生っぽいヤツが、狂ったように自分から腰振って、男のモノとかくわえ込んでんの、一度ナマで見てみたいんだよねぇ…」
「そうする? ビデオカメラならあるよ。男優もちょうどスタンバってるコトだしね…」
女は地面に這う異形の校長を見下ろしながら吐き捨てるように言った。
「それともこの間、ナンパしてきたブッサイクな奴らとか使う?
マサさんのトコにでもテープ売りとばせば、そこそこ高くなるんじゃない?」
「結構いいトコのお嬢様っぽいしさ、親とかそれで脅してやった方が、後々面倒にはなんないかもね。
娘がレイプされたなんて知ったら、親なんてすぐにおとなしくなるわ。恥ずかしくて警察に訴える気もなくなるだろうし」
「わぁ、おめでとう!親に捨てられたら公認でAV女優やれるかもね。タイトルとかアタシらが付けてあげよっか?」
「…ねぇねぇ、それよっかさ! どっかの高校でもあったじゃん? こいつのアソコに電球入れてさ、みんなで腹とか蹴り飛ばしてやんない?子宮内損傷…一生ガキとか作れない体にしてやれば、ちょっとは反省するし、安心じゃん?」
「いいわね、それ! …さあ、ポチ。そいつをしっかりと捕まえておくのよ! 後でたっぷりご褒美あげるからねェ!」
「いっ…嫌! 嫌ぁ!」
女達が徐々に迫ってくる。地面に這いつくばった校長にがっしりと掴まれた右の足首。
貴子は残った左足で、校長の顔面を蹴り飛ばそうと滅茶苦茶にもがいた。
「お願い! 離して! 嫌っ! 嫌ぁっ!」
ふふ…。
ふふふっ…。
クスクスクス…。
禍々しい気配が、貴子に向けて一斉に迫ってくる。
その時だった。
「ふふふふっ…ハハハハ!あははははは!
あーっはっはっはっはっはっはっ!」
笑い声がした。どこかで聞いた、この調子の外れたおかしな…。
次いで異常な悲鳴が塔の上から聞こえた。
上を仰いだ女生徒達に、一斉に動揺が走った。
※※※
「1994年の事だ…」
警視庁刑事部の管理官、古井は低い声で改めて捜査員達にそう切り出した。
「東京都第3方面…目黒管内の薬局で、ある薬物が大量に盗難の被害に遭うという事件が発生した。
被害にあったのは、祐天寺にあるドラッグストアで『ワールドドラッグ祐天寺南支店』。
深夜に何者かが倉庫の中を荒らし回った形跡があり、開店前に店主が発見し、慌てて警察に通報したものだった。
後に山城組系の暴力団員、根元和彦24才の自宅アパートから、その薬物の一部と約7g…当時の末端価格にして約800万円の透明なビニール袋に入れられた覚醒剤のパケットが押収され、根元は逮捕。
同居していた根元の妹も、目黒署に任意同行という形で出頭している」
「シャ…シャブ…ですか!? その薬局から盗まれて、一緒に押収された薬物ってのは一体…?」
「フェンサイクリジン。それが薬物の名称だ。『エンジェルダスト』とも呼ばれている。今では立派な幻覚剤として扱われている有名な薬物だよ」
「エンジェル…ダスト…。天使の…粉…?」
石原が嘆息の吐息を漏らした。またもや薄気味の悪い名称に花屋敷は心底うんざりした。
こうした事に詳しい山瀬医師が乗り出した。
「元々は獣医が手術に使う麻酔薬として使用されているものです。
近似の物質にケタミンという薬があるのですが、この薬物はセルニランという名前で実際に販売されています。効果時間が約4~6時間ほどの、動物用の麻酔薬なのですな。
この薬物は妄想や幻覚などの副作用や症状から、例外なく暴力行為や自傷行為を行うなど、近年になって薬物中毒者の濫用が問題視され、来年の2007年度からは完全に麻薬取締法の規制対象に挙げられている薬物ですよ」
再び古井が続けた。
「今でこそ刑事部の管理官だが、平成6年のその当時、私は目黒署に配属したての駆け出しの刑事で、階級もまだ巡査だった」
「古井管理官…ここの刑事だったんですか?」
驚いている様子の柏崎の問いに、仮面を脱ぎ捨てたキャリアは昔の話だよ、とどこか自嘲気味に微笑んだ。
「君達が言う所の叩き上げというヤツさ。国家公務員試験一種をパスしてキャリアになったのは、その二年後の事だよ。…それはまぁいいだろう。
君達も知っての通り、2003年4月に警視庁の組織犯罪対策部は従来の刑事部の捜査第4課、暴力団対策課、生活安全部の銃器対策課、薬物対策課が統合される形で新設された。
私の本来の部署は、その銃器薬物対策課だよ。
…といっても主な業務は昔と変わらずの暴力団対策だがね。別の名前で呼んだ方が、君達には解りやすいのかもしれないが…」
「マル暴ですか? まさか古井警視がマル暴上がりの人だったなんて…」
石原は驚いてばかりである。花屋敷とて同じ思いだった。
意外というべきだろう。四六時中ヤクザの動向や麻薬の密売ルートに目を光らせているマル暴の刑事には、強面で屈強な花屋敷のような刑事の方が多いイメージがあるからだ。
話を戻そう、とマル暴上がりのキャリアは言った。
「根元は全面自供。今も都内に服役中だが、奴の供述で奇妙な事が判明した。
実際のヤクは10g近くあったのだという。若者向けに捌いていた少量の覚醒剤が入ったキャンディも足りなくなっていたらしい。
それについて妹の根元朱美が後に白状し、一人の女子高生が捜査線上に浮かび上がった。
その容疑者の名前が、高橋聡美…当時17才。
石原君の言葉を借りるなら、山内洋子殺害事件と前後して行方不明になっている失踪少女だ」
ようやく、その名前が出てきた。花屋敷はゴクリと唾を飲み込んだ。
「高橋聡美は根元朱美の中学時代の同級生だ。朱美は中学を卒業後、聖真学園に入学した高橋聡美とは別の高校に進学しているが、窃盗と傷害の容疑で二度の補導歴があり、そのせいで高校を退学させられている。
朱美は兄から預かった覚醒剤入りのキャンディやエンジェルダストを若者相手に密かにクラブや盛り場でバラまく、いわゆるポン引きの役だった。
妹が派手にクスリ入りのキャンディやエンジェルダストをバラまき、嵌った頃合いを見計らって兄貴が登場する。
依存性の高い薬物を欲しがる若者には、キャンディより強力なシャブを高値で売り渡す。根元はその利益の一部を組に上げようとしていた所を、まんまと逮捕されたという訳だ」
石原が古井に尋ねた。
「もしかして…。その少女が当時、田舎の学校に転校扱いになってしまったのは、まさか世間体があったから…ですか?」
「そういう事だ。高橋聡美には覚醒剤窃盗の容疑がかかっている。
私は刑事時代に彼女の両親にも会っているが、親戚や周囲からの非難、何よりも山城組の末端組員からの不当な圧力や嫌がらせは相当なものだったようだ。
自宅は窓ガラスに石を投げられ、玄関の戸も壊され、荒らされ放題…。組員が怒鳴りつけてくるような被害も実際にあり、周辺住民の目を何よりも恐れたのだろう。
何しろ、覚醒剤窃盗の容疑者が17才…しかも薬物共々に行方知れずときている。
当時の警察が公開捜査にも踏み切らず、マスコミへ箝口令を大々的に敷いたのも当然だ。パニックを恐れたんだ。高橋聡美の存在は徹底的になかった事にされたんだよ」
何という事だろう…。
聞いてみなければこんな展開、誰が予想しえただろう? もはやこの展開は、非常識どころの話ではない。
「あれから12年経ち、ヤクは未だに発見されてはいない。海外に秘密裏に流されたのか、今も誰かが故意に隠匿しているのか…。
いずれにせよ、エンジェルダストと覚醒剤は高橋聡美と共に、今も完全に行方をくらませたままになっているんだ…」
殺人事件が霞んでしまうほどの大事件である。花屋敷は言葉を失っていた。これらはもはや事件群と言ってもいい。
川島由紀子の墜落死…。
12年前の黒魔術殺人…。
七不思議の噂…。
売買春の不穏な噂…。
薬物の存在…。
行方不明の女生徒…。
そして来栖コレクションではないと判明した、あの虚実の塔…。
これらの事件群は壮大な、ある事件の一つの側面にしか過ぎないのではないのか?
探れば探るほどに別の事件にぶち当たり、また不可解な展開に翻弄される。
一つ一つの事件はまるで切り離されているのに、互いが互いに目をくらましあう事件…。
散見する事実は、そんな疑問を抱かせるに充分な暗喩を含んでいる。
そして、恐らくは誰も知りえない情報を握っている来栖要は、その幾つかの側面から事件全体の形を掴んでいるはずなのだ。
その末のアイツのあの傷害事件と逮捕劇である。思わせぶりで、訳の判らない事ばかりする男であるのはわかっているが…。
…気持ち悪くなるだけじゃないか馬鹿野郎!
花屋敷は心中で、かの探偵である旧友に思いきり悪態をついていた。
古井が言った。
「今さらだから私も話すが、聖真学園には昔から奇妙な噂がある…。学園の生徒達の間では昔から『後ろに立つ少女』という名の怪談話として語られ始めた時期というのが、どうも高橋聡美の失踪した時期や山内洋子が殺害された時期と重なっているようなんだ」
そこに繋がる訳か。
そう。火のない所に噂は立たないものなのだ。なるほど、七不思議という、歪で突拍子もない不可解な噂は形を変え、名前を変えた、ある種のメッセージとも受け取れる。
同じ根を持っている別物同士。枝は分かれ、呼び水のように、また別の事件が発生する不可解な構造。
まるで、魔術だ…。
花屋敷は今さらだが気付いた。あの理事長がなぜ、七不思議の噂なる迂遠な方法で、過去に学園で起こった不穏な噂を払拭しようとしたのかが。
彼に依頼された来栖要が、なぜこの事件に執拗に拘っていたのかが。花屋敷は今ようやく、その一端を握った気がした。
花屋敷は己の無力と不明さを今ほど恥じた時はない。自分の頭を、思い切り何かに打ち付けてやりたい衝動に駆られた。
アイツは…来栖は始めから事件のこの不可解な構造を理解し、その核心に最も近い場所にいたのだ。奴が早瀬に言った司法取引のネタが、まさか覚醒剤のことだったとは思いもしなかった。
俺は…何て馬鹿なんだ!
俺が想像している以上に、この事件は根深い。俺は親友を…アイツを…!
「いずれにせよ、この事件と無関係と言われれば確かにそうなのかもしれな…」
「た、大変です!」
その時だった。制服を着た警官が転がるように部屋に入ってきた。
「どうした!一体、何事だ?」
磯貝警部が恫喝する。
「たった今、地元の交番に通報が…聖真学園で、さ、殺人事件が! あ、あの学園でまた…ま、また人が死んだと!殺されました!」
「何だとぉ!? 馬鹿な!」
「どういう事ですか!?」
「クソッ! 警邏は一体、何をしていた!」
混乱している。立ち上がった古井がバン、と机を叩いた。
「落ち着くんだ!君、詳しい通報の内容は?」
「そ、それが…通報してきたのは学園の事務員だと名乗る女性で、そ、その…混乱しているらしく…」
「だ、誰が…誰が死んだんですか!?」
「何時頃の事だ!?」
「し、死因は!?」
「学園のどこでだ!?」
錯綜している。もう滅茶苦茶だ。
捜査本部に動揺が走っている。
花屋敷は俄かに、早くなる鼓動を抑えながら腹の内では全く別な事を考えていた。
来栖を…あの探偵を一刻も早く、この事件に引きずり出さなければ…!
こうなった以上、もう奴に頼る以外にない!証拠不十分で不起訴になるのは判りきっている!
乱れ舞う風と狂雷が渦巻く表の風景が、花屋敷を最悪の不安へと駆り立てていた。
何かが狂ってしまった世界の全てが花屋敷にはその時、底知れぬ悪意を抱き、死の上に死を重ねようと目論む、禍々しい何者かの嘲笑う声のように聞こえていた。
絶望的な言葉などもう聞きたくなかった。いっそ耳を塞いでしまいたかった。
「し、死んだのは…」
…畜生っ! 言うな!
…その先を言うなっ!
「し、死んだのは…。 さ、三人だそうです!」
「な、何だとぉ!?」
目眩がした。足元にいきなり穴が開いたようだった。
6月某日夕刻。事件はこうして最悪の振り出しを迎える事となる。
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