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黒いスーツの男
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べたりと張り付くような何者かの視線を勇樹が感じたのは、商店街に入って間もなくの事だった。
6月15日午後4時27分。
校門を出て貴子と別れたすぐ後の出来事である。
…尾けられてるな。
勇樹はわざと歩く速度を抑えた。始めは気のせいかと思ったがどうも違う。複数の乱雑な気配が自分を尾行しているように感じた。
人混みに紛れればそのうちいなくなるだろうと考えていたが、やはり視線を感じる。
制服姿の集団と擦れ違う。
買い物客や通勤のサラリーマンに混じってゲームセンターの景品のヌイグルミを自慢げに友達に見せている男子生徒もいれば、一緒に手を繋いで歩く制服姿のカップルもちらほらいる。女のコ同士で手を繋いでプリクラを撮っている女子生徒達や、肉屋でコロッケを買っている男子生徒達の姿もある。
いつもと変わらない日常の光景だった。聖真学園のものとは違う、黒い学生服やセーラー服姿の高校生や中学生逹の姿も目立つ。聖真学園の制服は男子も女子もブレザータイプなので勇樹の姿とて取り分け不自然でもなんでもない。
それなのに。
張り付くような厭な視線は、先ほどから相変わらず続いている。
勇樹とて素人ではない。幼い時から武道を叩き込まれてきた分、こうした危険を察知する能力には人一倍自信があるつもりだった。そうした人間にだけ働く勘はある。
うなじの毛が逆立つような、皮膚をピリピリと刺すようなこの独特の感覚は明らかに勇樹へと向けられている。思い過ごしならばそれでいい。しかし、そうでなかったとしたら。
…誰が? …なぜ?…何の為に勇樹を?
確かめなければ。
勇樹はなるべく振り返らずに、尾行者の正体を探ることにした。
夕暮れ時にはまだ早い時間帯なのか、街にはまだ街灯の明かりもついていない。梅雨時の灰色の空は常に薄曇りで、雲の流れも心なしか早く感じる。予報では夜からまた雨だったはずだ。
梅雨時のじっとりと湿っぽい風と誰かの厭な気配が初夏の熱気とともに、勇樹の頬を撫でていく。
勇樹はさもメールが来たかのように装い、わざと携帯を取り出して歩みを止めた。こうすれば不自然ではない。相手を油断させるには、こちらが尾行の存在に気付いている事を相手に知られてはいけない。
勇樹は洋品店のショーウィンドウのガラス越しに、さりげなく背後から尾行してくる人間の姿を窺った。
バス停の近く。通勤帰りのサラリーマンの列に紛れるようにしてコンビニの煙草の自販機の付近に妙な連中がいるのに気付いた。
スカジャンにミリタリーパンツを穿いた男がガムを噛んでいる。だぶだぶのヒップホップのTシャツにスポーツキャップを被った太った男がいる。レザージャケットを着て不精髭を生やした茶髪の男が煙草を吹かしている。
こいつらだ。間違いない。
勇樹は瞬時に総身を緊張させた。自分の中で警戒信号がレッドアラートで点滅している気分だった。
適当な会話をしながら何気ない風を装っているが、三人が三人とも勇樹の方をチラチラと窺いながら何かを話している。勇樹と同じか、少し年上ぐらいだろう。
不良グループ、という言葉が頭に浮かんだ。いずれ人相風体からしてまともな連中には見えない。
もちろん勇樹はこんな連中に知り合いなどいない。柄の悪い連中にカツアゲされた事などないしストーキングされるような覚えもない。少なくとも校門へ続く桜並木を歩いていた時にはこんな連中はいなかったはずだ。
こんな街中でケンカ沙汰だけは避けたい。勇樹の足は、自然に人通りのない方向へと向いていた。
張り付いている連中は、依然として付かず離れず、勇樹の後を追ってくる。何が目的なのか、確かめなければいけない。
街中の路地裏へと足を向ける。
…しめた!
勇樹はほくそ笑んだ。
暗い路地の向こう側にシャッターが閉まった廃工場が二棟並んだ広い場所が見えた。
足運びに緩急をつけながら、勇樹は携帯片手にさらに無防備を装った。
後方の連中に尾行慣れした様子はない。だらだらと勇樹を尾けてきている。数を頼りにすれば、どうにでもなると考えているのかもしれない。
勇樹はいきなり住宅地から廃工場へと続く狭い路地を全速力でダッシュした。短距離走なら陸上部にだって引けをとらない自信があった。
暗い路地に足音が乱れる。
息遣いが荒くなる。
ゴールはもう目の前だった。はるか後方から案の定、連中の怒鳴り声がした。
路地は予想以上に狭い。
薄暗い闇を切り裂くように向こう側に白い光が見える。
柄の悪い不良達はいきなり走り出した勇樹目掛けて、逃がすか馬鹿野郎だの殺されてぇのかコノヤロウだのと獣じみた物騒な声で勇樹を追いかけてくる。剥き出しの敵意が伝わってきた。
案の定、危険な連中だ。あの様子では懐に凶器を忍ばせていてもおかしくない。尾行に気付かなければ、何をされていたかわからない。
少し走らされたくらいで殺気立って襲ってくる辺りは、単純で思慮の浅い連中だった。
…誘い出されたとも知らずに!
勇樹は相手が追い付くぐらいまでわざとスピードを落とし、後方の相手との距離を素早く目測した。
8メートル…6…4…。
…ここだ!
勇樹はいきなりピタリと足を止め、姿勢を若干低くし、左足にぐっと体重を乗せると、右足を左足の外側へとぐるりと大きく回してクロスさせて体を捻った。
反動をつけ、そのまま渾身の力で思い切り身を翻し、敵のいる後方へと右足を突き出す。
刹那、勇樹の足先に伝わってくる鈍い感触。
蹴りは一番前にいた太った男の腹にヒットした。傍らにあった青いゴミのポリ容器が倒れる、派手な音が暗い路地裏に響き渡った。
助走と回転による遠心力に加え、相手が突進してくる力も利用したカウンターの蹴りを喰らった相手は後方に大きくのけ反るようにして倒れた。狭い中、密集していた後ろの二人は堪らない。
「何やってんだよ!」
「どけ!この馬鹿!」
「クソッ!ぶっ殺してやる!」
勇樹を尻目にお互い口々に押し合いへし合い罵り合っている。
総崩れになった不良の集団を指をくわえて見ている程、勇樹は甘くない。勇樹は姿勢を低く構えると一気に間合いを詰めた。
勇樹は一番動きが鈍そうな太った男に狙いを定めると口と鼻のちょうど中間、人中と呼ばれる急所を目掛けて思い切り正拳突きを叩き込んだ。
「ぶふっ!」
豚が鼻づまりを起こしたような声をあげ、太った男はもんどり打って派手に倒れた。
こうなると動揺した残りの二人を片付けるのは、もはや造作もなかった。
黒い影が入り乱れる。
鈍い音とくぐもった声が薄暗い場所に反響する。
数分後、路地裏の暗がりは静まり返っていた。
「ふん…数に任せて油断してるからこうなるんだ。魔弾の貴公子をなめるな」
勇樹は戦意を失い地面で低く呻き声をあげている連中に向け、会心の捨て台詞を吐いた。我ながらスカした台詞だと思いながらも、自然とそう口をついていた。
その時だった。
不意にパチパチと薄暗い路地裏の向こう側から誰かの拍手の音がした。
勇樹は目を細めた。逆光の中にそびえ立つシルエット。相手の顔が見えない。
「お見事!まるで狼の狩りだな。無駄なくスムーズなハンティングだ。素晴らしい」
若い男の声がした。
勇樹は妙に甲高い、その男声に聞き覚えがあった。
人影が近づくにつれ、シルエットが次第にその輪郭をはっきりさせていく。眼前には勇樹と同じく聖真学園の制服を着た若い男が一人立っていた。
「須藤…お前か。こんなふざけた真似をしたのは?」
勇樹は吐き捨てるようにそう言うと、現れた男を最大の軽蔑の念を込めて睨み付けてやった。
黒いストレートの長髪を肩まで伸ばした長身。鋭い目つき。左耳に銀の輪のピアス。
須藤は片側の頬を引きつらせ、不敵に微笑みながら、勇樹を見下すような視線を送ってきた。
須藤直樹。奇しくも勇樹と同じクラスメートで空手部の同輩でもある。成績も優秀で時期主将候補とも噂されている男だ。
しかし、深夜のクラブで見掛けられたりチンピラのような連中とバイクに乗って騒いでいる所を何度も目撃されるなど、成績優秀で頭が切れる割に黒い噂も絶えない油断のならない男だった。
「つれないな…空手部のよきライバルとたまにはパーッと遊びに行こうと思って誘おうとしたのに」
「誰がお前なんかと!」
「あ~あ~…。こんなになるまで仲間を殴ってくれちゃってさぁ。早とちりでフルボッコなんて酷ぇコトするよなぁ。
…知らないよぉ? 先生に言い付けてやろっかなぁ?」
不意に勇樹の後ろからゲラゲラと複数の笑い声が聞こえた。
須藤の後ろに何人か人影が現れた。
しまった!
勇樹は己の迂闊さを呪った。
少し冷静に考えてみればわかる事だったのに。
二重尾行。
こいつらは…囮だ。
勇樹は嵌められたのだ。
勇樹は、不敵に薄笑いを浮かべた須藤の顔を、憎々しげに睨みつけた。
「このゲス野郎…卑怯だぞ!」
「お~怖ぇ怖ぇその顔! 助けてママ~ン! ボクちゃんオシッコちびっちゃう~!」
途端にギャッハッハッと不良達の下品な笑い声が狭い空間いっぱいに反響した。
うるさい。耳が痛い。まるで世界中から嘲笑されているような厭な気分だった。
「ところでお前、さっき面白ぇ事言ってたな? 『魔弾の貴公子をなめるな』?
馬鹿じゃねぇのか、お前?
あのヤリマン女の川島のクソネタに躍らされてよ。
…まぁ、お前みたいな何も知らないおめでたい馬鹿には、本っ当にお似合いな名前だけどな!」
須藤に合わせて爆笑するチンピラ達の声、声、声。
やかましい!
耳が張り裂けそうだった。
勇樹は頭が真っ白になった。
由紀子を悪し様に罵ったこの男を殴り倒してやりたい激情に駆られた。それは勇樹の心に生まれて始めて生まれた、明確な黒い衝動だった。
もうどうなったって構うものか!
「うわぁあああ!」
気が付けば勇樹はあらん限りの叫び声をあげ、須藤に飛びかかっていた。
しかし。
勇樹は唖然とした。
顔面に向けて放たれた、勇樹の渾身の正拳を須藤はひらりと上体の捻りだけで反らし、あっさりとかわした。
空振りで大きく体制を崩した勇樹のくるぶしを須藤は足払いだけで軽くバシリと打ち付け、勇樹を地面に叩き落とした。
「ぐぁっ…!」
冷たく、硬いコンクリートの感触が背中にあった。
いつの間に倒されたのか、勇樹は四角く長方形に切り取られたような路地裏の頭上を見ていた。
地面にしこたま背中を打ちつけたせいか、呼吸が苦しい。
鳩尾の辺りが痛む。受け身を取る事すら出来なかった。それほどに須藤の足払いのタイミングは、完璧で素早かった。
不意に視界が暗い影に遮られた。勇樹を見下ろす須藤の顔が目の前にあった。
「ふふっ…哀れだな成瀬。なんで自分がこんな目に合うのか不思議だってツラ…してるぜっ!」
「…ぐふっ!」
いきなり腹部に激痛が襲いかかった。
須藤は勇樹の鳩尾を思い切り踏み付けて、吐き捨てるように言った。
「気に入らねぇんだよ、お前!
いつもいつもスカしたツラして俺の邪魔ばかりしやがって!
お前が俺から何もかも奪っていきやがる! あの女も! 空手部での地位も名声も!
…さあ、言え! コソコソ何を嗅ぎ回ってやがる?川島から預かったアレをさっさと出せ! テメェが持ってんじゃねぇのか! あぁん!?」
ダンゴムシのように丸くなりながら、勇樹は痛みと罵声に必死で耐えた。無茶苦茶に蹴り飛ばしてくる。もはや空手の型も何もあったものではない。
須藤の荒い息遣いが聞こえた。
「うぅ…あぅ!」
須藤はいきなり勇樹の髪をむんずと鷲掴みにすると、しゃがみ込んで自分の眼前に勇樹の顔を持ってきた。
須藤は絶望的な言葉をさらに続ける。
「ちっ…その分じゃ何も知らないみたいだな。さぞかしあの女に骨抜きにされたらしい。だったらいい事を教えてやる。
死んだ川島はな、夜中に街で派手にウリだのクスリだのやってるグループの一人なんだぜ」
「ば、馬鹿言うな! 川島がそんなこと…」
「あるんだよ。ってか、別に今時の女にとっちゃ、それが普通なんじゃねーの?
お前にとっちゃ残念だが、こりゃ本当の話なのさ。何しろ客が先公なんだからな」
…自分はたった今、何を聞いたのだろう?
何もかもが真っ白だった。
由紀子が。
売春グループの…一人?
裏切られたような思いと嘘だと叫びたい思いがない交ぜになって、一斉に勇樹に襲いかかった。無知という己の罪を呪いたくなった。
なんだよ…それ…。
僕は何のために…。
勇樹は痛みと屈辱と侮蔑に、ボロボロに混乱していた。なぜか知らずに涙が滲み出て視界が曇った。
「アッハッハッ!
見ろよ! コイツ、あんだけ派手に暴れといて泣いてやがるぜ!」
周囲からまた、一際甲高い笑い声がこだました。勇樹はもう滲む視界の中で自分を見捨てたくなった。
いつもそうだ。
強がってみても自分ではどうにもならない現実。
為す術はなく、いきなり突きつけられる現実。
苦悩の先には諦めや絶望しか待っていない。
痛みつけられるだけの。
現実。
須藤は倒れたまま茫然自失している勇樹を無理矢理立たせ、軽蔑したような一瞥をくれると、もはや壊れた玩具に興味を失った子供のように、ぞんざいに勇樹の胸をどんと押した。
勇樹は大の字になって仰向けに冷たいコンクリートへと倒れた。
「さあ、待たせたな! 煮るなり焼くなりお前達の好きにしていいぞ!
…パーティータイムの始まりといこうぜ!」
高らかに須藤が宣言した。
正にその時だった。
地面に倒された勇樹は切り取られたような壁と壁の間の空に、先程までにはなかった、得体の知れない影を見た。
…アレは、何だ!?
影だ。
真っ黒な影が空からいきなり落ちてきた。
まるで翼を広げた真っ黒な鳥が、遥か上空から猛然と飛来してきたかのように勇樹には見えた。
刹那、勇樹の体がふわりと空中に持ち上がった。
な、何だよ…これ!?
だ、誰だよ、こいつ!?
黒い人影は勇樹を素早くさらい上げると、須藤とは反対側に固まっていたチンピラ達の隙間を擦り抜けるようにして、廃工場の前の広い場所に踊り出た。
須藤を始め不良達も、そして捕まった勇樹でさえ、今の一瞬で何が起こったのか、まるでわからなかった。
正に電光石火の一瞬の出来事だった。
いつの間にか日が暮れている。
気が付けば、勇樹は夕暮れ時の、真っ赤に鮮やかな茜空の真下にいた。
ギャアギャアと、けたたましい声で黄昏時のカラスが鳴いている。
長い間、薄暗い場所にいたせいか沈みゆく赤い太陽が眩しくて一瞬目が眩んだ。勇樹ははっとして上体を起こした。
いつの間にそこにいたのか、眼前に真っ黒なスーツを着た一人の男の背中が見えた。男は首だけを動かして勇樹の方を振り返った。
思わず見とれた。
勇樹は今までこれほど整った顔立ちをした男を見た事がなかった。
サラサラと風になびく黒髪。
細く鋭角的な眉。
蝋人形のような白い肌。
眼光鋭く勇樹を見つめる目はカラーコンタクトでも装用しているのか、瞳の部分が透き通ったような緋色をしていた。
上等そうな黒いスーツに身を包んだ痩せ形ですらりとした長身。
靴もアンダーシャツも黒い。
影法師のように真っ黒だ。
ネクタイだけが赤い。
長身の男はまるで非日常の世界から飛び出してきたような恰好をしていた。
「随分こっぴどくやられたな。…立てるか?」
低く、落ち着いた声で男は勇樹へと問い掛けた。ぶっきらぼうで愛想はないが、どこか温かみのある声だった。
「だ、大丈夫…です…。あの…あなたは一体…?」
「探偵だよ。話は後だ」
「た、探偵?」
男は勇樹を庇うように一歩後ろへと身を引いた。須藤を始めとする街の不良達が五、六人一斉に勇樹と男を取り囲んだ。
「おやおや…パーティーに突然の珍客の登場かよ。
…失礼ですがお客様、招待状はお持ちですか? 残念ながらご紹介のない方の御来場は、当店では固くお断りさせて頂いております」
男の服装を揶揄した須藤のおどけた立ち居振る舞いに、ギャッハッハッと周囲のチンピラ達が再び下品な声で笑った。
「オッサンが調子くれてんじゃねーぜ」
「さっさとホストクラブに帰んな!」
「ギャハハハ! 夕方の営業に行かなくていいのかよ! ホストの基本はキャッチだろ!」
クク…。
「早く家へ帰れよ! 奥さん泣いてるよー」
「いる訳ねーだろ!こんなおかしな奴によ!」
クククッ…。
「よぉ、おっさん。成瀬ちゃんのケツが好みなの~?」
「ってか、もうアナルぐらいヤッちまってんじゃねーの?」
「あの夜が忘れられないのよ~ってか? ギャハハ!」
…クックックックッ…。
不良達の声がピタリとやんだ。
勇樹は黒いスーツの男を見た。
男は顔を伏せ、細かく肩を揺すりながら笑っていた。
「テメェ! 何を笑ってやがる! 自分の状況がわかっ…ぉぶっ!」
不良の声はいきなり男の手によって遮られた。男は不良の顔面をいきなり鷲掴みにすると、コンクリートの地面へ強引に叩きつけた。
「ピーピーうるせぇよ」
勇樹は唖然とした。
男は驚愕の表情のまま固まっている若い不良を見下ろすと、今度は片足で思い切り腹の辺りを踏み付けた。
哀れな不良は口から泡を吹いて完全に失神した。
「クソガキ共が…。そのまま這いつくばって地べたを嘗めてな」
男は口の端を吊り上げるようにして不敵な笑みを浮かべた。驚くほど端正な顔立ちからは想像もつかないサディスティックな、ぞっとする冷たい微笑みだった。
静けさの中を夕闇の風が一陣、吹き抜けていく。
勇樹も須藤も、周りにいた若い不良達も呆気に取られたように、いきなり現れた黒服の男をただ見つめている。
「おい! 何、テンパってんだよ、お前ら! こんなスカしたホスト一人、さっさと片付けろ!」
須藤の恫喝の声が響く。
男は再びククッと笑った。
「お~! 怖ぇ怖ぇその顔! 助けてママ~ン! ボクちゃんオシッコちびっちゃう~…だっけか?
クックックッ…最近のガキは年上に対する口の利き方も知らねぇらしいな。あいにくとホストなんてチャチな商売してねェよ。
…しっかし世も末だよなァ。馬鹿で頭の悪いお前らみたいなクソガキを野放しなんざ、親も教師も揃ってイカれてんな。学校教育の荒廃ぶりを実感するぜ」
男は片方の眉を吊り上げ、究極に小馬鹿にしたような表情で、須藤を見下すとヘラヘラと笑いながらそう言った。
「ウタッてんじゃねーぞ! このクソ野郎!」
黒い男の後ろにいた別の不良が男に飛び掛かった。右手にはぎらりと光るナイフを握っている。
…危ない!
と勇樹が思ったのもつかの間、男はくるりと振り向くと、なんと自分からナイフの刃先へと向かっていった!
ボクシングのクロスカウンターのように刃を持った不良の右腕に自らの右腕を絡めると、男はその反動を利用して、ぐるりと回ってそのまま相手の頭をひっ掴んで近くにあった工場のシャッターへと強引に放り投げた。
勇樹は思わず目を覆った。
ガシャーンと派手な音がした。ズルズルと引きずるように若い不良は俯せにくず折れた。錆の浮いた青いシャッターには血の跡が縦に線を描くように付着していた。
衝撃で折れるか欠け落ちるかした歯が、無残に散らばっている。
「どうした、ガキ共。威勢のいいのは口だけかよ? もっとオジサンと遊んでくれよ。そんなに早くイッちまっちゃ男としてカッコつかねぇだろ? 早漏君は女のコに嫌われるぜ~」
黒いスーツの悪魔は不敵な姿勢を崩さず、命知らずにも不良達をさらに挑発した。
この男…何者だろう?
勇樹は舌を巻いていた。何者か知らないが、でたらめに強い。明らかに素人の動きではない。
男は左手に黒いレザーグローブをすっぽりと嵌めている。右手には何も着けていない所を見ると、酷い火傷か何かの跡があるのかもしれない。
「馬鹿野郎! 一人一人かかっていってどうする! 一斉に痛めつけろ! 殺したって構わねぇ!」
須藤はもはや半狂乱で不良達に命令している。
勇樹は改めて黒い男をまじまじと見た。
不思議な男だった。
年の頃は27、8といった所だろうか? 立ち居振舞いはひどく落ち着いているし、整った顔立ちは青年にも少年のようにも見える。
須藤を含め、10人近くの不良達に取り囲まれていても、まるで物怖じした様子がない。
須藤の恫喝に不良達は一斉に男を取り囲んだ。勇樹の周りにいた連中ですら全員、この不思議な男の元に集まった。
男はその時、勇樹をじっと見つめてから意味ありげに須藤にチラリと視線を向け、顎をしゃくった。
先程までヘラヘラと挑発していた男とは思えないほどに、その澄み切った赤い瞳は無言で勇樹に何かを語っていた。
…そういうことか。
須藤は探偵に気を取られ、こちらに気付いていない。周りの不良達もだ。
男は名乗った。探偵だと。
貴重な情報提供者を取り逃がす訳にはいかないということだ。首謀者の退路を断つのは勇樹しかいない。そういうことなのだ。
ケリをつけてやる。
勇樹は深く深呼吸を一つすると、両手をぐっと握りしめ、そして開く動作を繰り返す。四肢に力を込め、上体をぐっと起こす。
…大丈夫だ、動く。
思ったより痛みはない。このぐらいの打ち身程度なら、慣れている。
勇樹は気付いた。
不思議と自分がいつの間にか落ちついている事に。途中経過はどうあれ、この探偵と名乗った男の滅茶苦茶な言動が立ち直るきっかけを勇樹にくれたようだ。
ハードボイルドな探偵…か。
その響きが勇樹はなぜか可笑しかった。これまたなぜかほっとしたような安心感が湧く。あまりにも現実離れした状況に現実離れした探偵がいきなり現れる現実が、何だか夢みたいで可笑しかった。
勇樹は実感する。
これも現実だ。
どんな閉塞した物事も、こんな探偵が現実にいるのなら別にたいした事がないような気がしてくる。
現実は変わらない。けれど多分、為せば成る。為さねば成らない。何事も、だ。
勇樹はまだまだ半人前の半熟卵だったのだ。ハードボイルド小説の探偵のように自分で何かを決断して道を探さなければ、なるようにはならない。
現実は時に残酷だ。
茹で卵の殻のように、人間も一皮剥けば剥き出しの弱い本性を晒す。
勇樹は多分弱いのだ。
勇樹だけじゃない。現実は辛い事が多いけれど、多分皆そんなには違わない。
だから、自分が思うように思う事にした。
勇樹は再び立ち上がると、須藤の後方へと猛然と駆け抜けた。
薄曇りの茜空の真下、冷たい風が通り過ぎてゆく。
幸いなことに通りから少し離れているせいか、この付近では夕方過ぎには車や人が通る気配はないようだ。
砂埃が舞い、一陣の風が駆け抜けた。
「どうやらお前には後で、たっぷり聞かなきゃならない事があるらしいな」
「成瀬!? いつの間に!」
驚愕する須藤の表情。周囲の不良達にも僅かに動揺が走っていた。
「借りは即、返す主義なんでね。いつまでもやられっぱなしだと思うなよ」
勇樹は須藤の後方へ素早く回り込むと、周囲を警戒しつつ須藤を睨みつけた。
「ふん…さっきまで泣きベソかいてた奴が、しゃあしゃあとスカしやがるぜ。あのおかしな男とはとっくにグルって訳かよ?
…笑わせるぜ。二人だけで何が出来るってんだ?」
須藤はあくまで強気に勇樹を見下す。
「…とかいいつつ、ビビってんのは坊や、お前の方だろ?」
黒服の探偵はゆっくりと須藤を指差して挑発した。
「テメェ…」
須藤は勇樹から黒衣の男へと振り返ると、歯を食いしばり、憎しみに血走った目で男を睨みつけた。
額には汗。わなわなと震える唇。須藤の表情に最初の余裕の色はもはやない。
ゆっくりと勇樹は周りの状況を確認した。そのぐらい気持ちに余裕がある事に、自分でも驚きながら。
七対二。
誰が見ても明らかに不利な状況だった。
しかし。
期せずして探偵と名乗ったこの男と共闘する形となったが、今の勇樹は不思議とこの修羅場の中で戦う事に恐怖心がなかった。
そうした感情が麻痺した訳ではないはずだ。ただ、この男なら全面的に信頼できる気がした。
初対面であるにも関わらず、ましてや正義のヒーローと呼ぶにはあまりに程遠い言動をしているにも関わらず、勇樹はこの男に興味を持ち始めている。
不良グループ相手に暴力を振るう探偵などハードボイルドにしても滅茶苦茶だが、口先だけで暴力には一切干渉せず何もかも手遅れになってから現れる頭脳派の探偵より、はるかに信用に足る人物だと勇樹は思った。
たとえ拳銃を持った相手でも、この男なら顔色一つ変えずに相手を挑発するだろう。
なぜかそんな気がした。
男は次の瞬間には何をするかわからない、得体の知れない殺気に満ち溢れている。
本来なら勇樹が騙し討ちにされるはずだった二重尾行という罠。
まさかそれの裏をかく者が現れるとは思っていなかったのだろう。黒いスーツの男の出現は完全に須藤達の理解の範疇を越えていた。
今や完全に場を支配しているのはこの謎の男だった。
周りの不良達は迂闊に手を出す訳にいかず、かといって余計な口出しは先ほどのやり取りでわかったように自ら危険を招く事を本能的に悟ったのだろう。一様に口を閉ざし攻めあぐねていた。
「一つだけ約束しろよ」
勇樹は真っ直ぐ須藤を見据えた。
「僕とあの人が勝ったら、さっきお前が話してた川島の事を洗いざらい喋ってもらう」
「成瀬、テメェ…! 調子くれてんじゃねぇぞ。お前らは俺達にボコボコにされておしまいだよ」
「もし勝てたら?」
「好きにすればいいさ。まぁ、そんな事は絶対にありえねぇけどな」
須藤はニヤリと微笑んだ。
「おっと…成瀬とかいったな。その坊やに話があるのは俺の方が先だ。こっちのザコは任されてやるから、それは俺に譲れ」
バサリと黒いスーツを翻して背中を向けると、男はゆっくりと広い場所へと歩み出した。男の動きに合わせて不良達がじりじりと男を取り囲んだ。
真っ赤な夕日が周囲を茜色に染め上げている。
啜り泣くような風の音と共に砂埃が舞い上がる。
いつの間に集まってきたのか、電線には夥しいカラスの群れが狂ったように、けたたましい鳴き声で人間達を威嚇していた。
探偵はゆっくりとグローブを嵌めた左手で空を指差すとまるで誰かに宣言するかのように言った。
「さあ…いこうぜ。イカレたパーティーの始まりだ!」
男のその言葉を合図に不良達が一斉に男へと飛び掛かった。
勇樹と須藤は互いに牽制しあいながら、乱闘になりそうな集団から一旦離れた。
荒々しいがなり声。手にはナイフや角材を持った不良もいる。
探偵は左手を下げ、右手は自らの顎の部分をガードするように、ボクシングのデトロイトスタイルに構えると素手で飛び掛かってきた二人をステップワークで軽くいなし、ナイフを持った男へと狙いを定めた。
左のジャブを鼻先に二発。
怯んだ相手と素早く距離を計ると今度はジャブとストレートのワン、ツー。そして右のボディブローを鳩尾へと叩き込む。ナイフが地面に落ちる音がした。
男は今度は両の手の平を開き気味に斜めにして合気道のような構えを取ると、殴りかかってきた相手をするりと肘への当て身で後方へといなし、続いて向かってきた男の顔面に掌打を叩き込んだ。
相手の右腕を引き寄せ、体制を崩した相手に足払い。
そして仰向けに倒れた相手の喉笛に、とどめとばかりに手刀の一撃を見舞う。
探偵はまったく隙を見せない。即座に乱戦に対応するように集団と再び距離を取る。
勇樹は再び舌を巻いた。
この男、本当に強い。
無駄な動作が一切ない。
そして、人を傷つける行為に躊躇いや迷いが全くない。喧嘩や戦いにおいて、この点は非常に大きい。それでいて相手への急所はわずかに外している。
男の戦い方は、人の壊し方をよく心得ている者の戦い方だった。
勇樹は横目で男の常人離れした動きにひそかに戦慄していた。
「オラァ!よそ見してんじゃねぇぜ!」
突然、須藤の拳が鼻先を掠めた。続いて左右の正拳が顔面に向けて襲いかかってくる。勇樹は素早く後ろに飛びのいてかわした。
先ほどと違って見える。
須藤の拳の軌道はわずかに大振りで雑になっている。
「僕の何がそんなに気にいらないんだ?」
勇樹は動揺を誘い、須藤にそう問い掛けた。
「何がだと…!」
須藤の眉がピクリと動く。憤怒の表情で須藤は叫んだ。
「お前のすべてがだ!」
須藤が勇樹へと躍りかかった。
左右の正拳から上段蹴り。そして返す刀で中段への後ろ回し蹴り。須藤の得意とするコンビネーションだ。勇樹は防御とかわすのでせいいっぱいになる。
「そのスカした態度も! 言葉遣いも!そのツラも! 正義感ぶった偽善者が!すぐに由紀子の所へ送ってやる!」
「ああ、そうかい!」
互いの右の上段回し蹴りがクロスした。弾かれたように即座に距離をとる須藤と勇樹。
ぶつかり合う互いの視線。
あちこちに走る鈍い痛み。
喉がひりつくような荒い呼吸。
心臓の音がうるさい。
勇樹はごくりと唾を飲み込み、深呼吸した。
…焦るな。あの人がくれたチャンスなんだ。今なら勝てる。そして…由紀子の為にもこいつには勝たなきゃいけない!
勇樹は再び探偵の様子を伺った。
工場前の広いアスファルトの地面には既に四人の人間達が倒れていた。
六人も取り囲んでいた若い不良達は、今や二人にまで減っている。倒れた不良達はそれぞれに呻き声を上げている。
緋色の空の下で、輪郭さえ暗く曖昧になった周囲の風景に一際黒い探偵の影が佇んでいる。ギリギリと歯ぎしりをして須藤は探偵の姿を見ていた。
ぞっとする程に整った探偵の白い顔立ちに夕日が映える。深く、淡い緋色をした瞳は一層にその不吉な色を増していく。
不良達は目の前に広がる悪夢のような光景から逃げおおせようと、もう及び腰だった。
彼らにしてみればこんな展開など、予想だにしなかったことだろう。
男は始めから逃がすつもりはないのか、敵の退路を塞ぎながら争っていた。不良達は無茶苦茶に何やら叫びながら、男に踊りかかった。
黒いスーツの男は残りの二人の動きを完全に見切っていた。
素早く一人の鳩尾に肘撃ちを叩き込み、そのまま裏拳で顎を撃ち据える。そして、とどめとばかりに大きく体を開き、背中をぶつけて相手を地面に倒した。
見た事もない技だった。構えもいつの間にか変わっている。
最後の一人へは柔道技だった。一気に間合いを詰め、奥襟から相手の体制を崩したかと思うと黒いスーツの男は素早く腕をとり、不良の一人を豪快に一本背負いでコンクリートに叩きつけた。
とんでもない強さだった。
情け容赦が微塵もない。
それにしても、この男はどういう頭の構造をしているのだろう? 格闘技特有の型がまったくない。いや、型を一瞬で判断できない。
構え一つとっても、ボクシングに合気道に柔道にと当て嵌まる格闘スタイルがまったく特定できない。
ゼロコンマ何秒の一瞬かで無数のパンチや蹴りが飛び交う暴徒相手の修羅場だというのに、表情一つ変えずに六人もの人間を瞬く間に返り討ちにしてしまった。
長身の割に一つ一つの動きは非常に素早く滑らかで柔らかく、ぎこちなさというものが全くない。勇樹はまるで演舞や時代劇の殺陣を見ているような感覚に襲われた。
信じられない事だがどうもこの男、相手の体格や身長、腕や足のリーチの長さ、動きやクセ、所持した得物などを一瞬で判断し、それに対処する適切な格闘技を選び取って戦っているとしか思えない。
常人なら考えもつかない。
というより実行出来ない。
格闘技やスポーツに代表されるように、人間の滑らかな動作は反復によって成り立っている。いわば経験と記憶、学習してきた行動の一端だ。これは脳が動作シーケンスを体の機能に合わせて記憶するからだ。
勇樹は断言できる。
いかに反応速度や運動神経がずば抜けて高い能力の人間がいたとしても、様々な格闘技をスイッチして戦い、それをケンカに応用するなどという離れ業は絶対に無理なはずだ。
普通の人間ではありえないような過酷な訓練を反復してきたか、そうでなければ恐ろしく頭のいい人間という事になる。
勇樹は男の様子を伺った。
探偵は夕日に佇みながら一仕事終えたとでも言うように、黒いスーツのポケットからジッポーのオイルライターとセブンスターの白い箱を取り出した。中から一本抜き出し、火を点ける。
ピンという軽い金属音。
シャボン玉のような不思議な色合いをしたジッポーだった。
端正な横顔を紫煙が覆い隠す。男は虚しさとも寂しさとも取れるような、なんとも言えない表情をしてこちらを振り向いた。
一対一の勝負に手を出す気はないのだろう。
「もういいだろう須藤。…潔く負けを認めて洗いざらい話してくれないか?」
須藤は憎しみに満ちた目で勇樹を見据えた。
「ふざけろよ…そんな真似、死んでもできるか」
この期に及んでも須藤は虚勢を張った。勇樹はわずかに苛立つ。由紀子の顔が目の前にちらついた。
「なんでだよ…! なんで始めから、たった一人で向かってこない! こんな卑怯な真似までして僕に勝ちたいのか!?
川島は…由紀子はお前の幼なじみだろう!
あいつは…。あいつは死んだんだぞ! こんな真似して恥ずかしくないのかよ!」
勇樹はあらん限りの声をあげて須藤を詰問した。
先ほど須藤は由紀子とはっきり呼び捨てにした。ずっとモヤモヤしていた違和感。
それは正に核心に触れる須藤への揺さぶりのつもりだった。
「成瀬…お前に俺の気持ちはわからねぇ…」
須藤はわずかに視線を逸らした。その一瞬の表情で、勇樹は事の全てを理解した気がした。いずれこの争いは避けられなかったのだ。
生温い風が勇樹の頬を撫でた。残りわずかな西陽が燻った炎のように西の空を染めている。
須藤は後ろ足を引き気味にして低く構えた。
「言っておくが俺は負けないぜ。テメェを痛めつけて、あとはズラかる。トンズラだ。こんな奴らなんか知るものか」
勇樹は怒りを押し殺して目を閉じた。一瞬だけ由紀子の微笑む顔が浮かんだ気がした。
勇樹は感情を遮断する。
戦いの場には必要ない。
ゆっくりと目を開き、勇樹も正眼に低く構えた。
「ケリをつけてやる。
須藤…約束は覚えてるな?
僕は負けない。お前だけには…。
絶対負けない!」
夕日の下で二つの影が交錯した。
茜色の空に、カラス達の黒い影が爆ぜるように散った。
べたりと張り付くような何者かの視線を勇樹が感じたのは、商店街に入って間もなくの事だった。
6月15日午後4時27分。
校門を出て貴子と別れたすぐ後の出来事である。
…尾けられてるな。
勇樹はわざと歩く速度を抑えた。始めは気のせいかと思ったがどうも違う。複数の乱雑な気配が自分を尾行しているように感じた。
人混みに紛れればそのうちいなくなるだろうと考えていたが、やはり視線を感じる。
制服姿の集団と擦れ違う。
買い物客や通勤のサラリーマンに混じってゲームセンターの景品のヌイグルミを自慢げに友達に見せている男子生徒もいれば、一緒に手を繋いで歩く制服姿のカップルもちらほらいる。女のコ同士で手を繋いでプリクラを撮っている女子生徒達や、肉屋でコロッケを買っている男子生徒達の姿もある。
いつもと変わらない日常の光景だった。聖真学園のものとは違う、黒い学生服やセーラー服姿の高校生や中学生逹の姿も目立つ。聖真学園の制服は男子も女子もブレザータイプなので勇樹の姿とて取り分け不自然でもなんでもない。
それなのに。
張り付くような厭な視線は、先ほどから相変わらず続いている。
勇樹とて素人ではない。幼い時から武道を叩き込まれてきた分、こうした危険を察知する能力には人一倍自信があるつもりだった。そうした人間にだけ働く勘はある。
うなじの毛が逆立つような、皮膚をピリピリと刺すようなこの独特の感覚は明らかに勇樹へと向けられている。思い過ごしならばそれでいい。しかし、そうでなかったとしたら。
…誰が? …なぜ?…何の為に勇樹を?
確かめなければ。
勇樹はなるべく振り返らずに、尾行者の正体を探ることにした。
夕暮れ時にはまだ早い時間帯なのか、街にはまだ街灯の明かりもついていない。梅雨時の灰色の空は常に薄曇りで、雲の流れも心なしか早く感じる。予報では夜からまた雨だったはずだ。
梅雨時のじっとりと湿っぽい風と誰かの厭な気配が初夏の熱気とともに、勇樹の頬を撫でていく。
勇樹はさもメールが来たかのように装い、わざと携帯を取り出して歩みを止めた。こうすれば不自然ではない。相手を油断させるには、こちらが尾行の存在に気付いている事を相手に知られてはいけない。
勇樹は洋品店のショーウィンドウのガラス越しに、さりげなく背後から尾行してくる人間の姿を窺った。
バス停の近く。通勤帰りのサラリーマンの列に紛れるようにしてコンビニの煙草の自販機の付近に妙な連中がいるのに気付いた。
スカジャンにミリタリーパンツを穿いた男がガムを噛んでいる。だぶだぶのヒップホップのTシャツにスポーツキャップを被った太った男がいる。レザージャケットを着て不精髭を生やした茶髪の男が煙草を吹かしている。
こいつらだ。間違いない。
勇樹は瞬時に総身を緊張させた。自分の中で警戒信号がレッドアラートで点滅している気分だった。
適当な会話をしながら何気ない風を装っているが、三人が三人とも勇樹の方をチラチラと窺いながら何かを話している。勇樹と同じか、少し年上ぐらいだろう。
不良グループ、という言葉が頭に浮かんだ。いずれ人相風体からしてまともな連中には見えない。
もちろん勇樹はこんな連中に知り合いなどいない。柄の悪い連中にカツアゲされた事などないしストーキングされるような覚えもない。少なくとも校門へ続く桜並木を歩いていた時にはこんな連中はいなかったはずだ。
こんな街中でケンカ沙汰だけは避けたい。勇樹の足は、自然に人通りのない方向へと向いていた。
張り付いている連中は、依然として付かず離れず、勇樹の後を追ってくる。何が目的なのか、確かめなければいけない。
街中の路地裏へと足を向ける。
…しめた!
勇樹はほくそ笑んだ。
暗い路地の向こう側にシャッターが閉まった廃工場が二棟並んだ広い場所が見えた。
足運びに緩急をつけながら、勇樹は携帯片手にさらに無防備を装った。
後方の連中に尾行慣れした様子はない。だらだらと勇樹を尾けてきている。数を頼りにすれば、どうにでもなると考えているのかもしれない。
勇樹はいきなり住宅地から廃工場へと続く狭い路地を全速力でダッシュした。短距離走なら陸上部にだって引けをとらない自信があった。
暗い路地に足音が乱れる。
息遣いが荒くなる。
ゴールはもう目の前だった。はるか後方から案の定、連中の怒鳴り声がした。
路地は予想以上に狭い。
薄暗い闇を切り裂くように向こう側に白い光が見える。
柄の悪い不良達はいきなり走り出した勇樹目掛けて、逃がすか馬鹿野郎だの殺されてぇのかコノヤロウだのと獣じみた物騒な声で勇樹を追いかけてくる。剥き出しの敵意が伝わってきた。
案の定、危険な連中だ。あの様子では懐に凶器を忍ばせていてもおかしくない。尾行に気付かなければ、何をされていたかわからない。
少し走らされたくらいで殺気立って襲ってくる辺りは、単純で思慮の浅い連中だった。
…誘い出されたとも知らずに!
勇樹は相手が追い付くぐらいまでわざとスピードを落とし、後方の相手との距離を素早く目測した。
8メートル…6…4…。
…ここだ!
勇樹はいきなりピタリと足を止め、姿勢を若干低くし、左足にぐっと体重を乗せると、右足を左足の外側へとぐるりと大きく回してクロスさせて体を捻った。
反動をつけ、そのまま渾身の力で思い切り身を翻し、敵のいる後方へと右足を突き出す。
刹那、勇樹の足先に伝わってくる鈍い感触。
蹴りは一番前にいた太った男の腹にヒットした。傍らにあった青いゴミのポリ容器が倒れる、派手な音が暗い路地裏に響き渡った。
助走と回転による遠心力に加え、相手が突進してくる力も利用したカウンターの蹴りを喰らった相手は後方に大きくのけ反るようにして倒れた。狭い中、密集していた後ろの二人は堪らない。
「何やってんだよ!」
「どけ!この馬鹿!」
「クソッ!ぶっ殺してやる!」
勇樹を尻目にお互い口々に押し合いへし合い罵り合っている。
総崩れになった不良の集団を指をくわえて見ている程、勇樹は甘くない。勇樹は姿勢を低く構えると一気に間合いを詰めた。
勇樹は一番動きが鈍そうな太った男に狙いを定めると口と鼻のちょうど中間、人中と呼ばれる急所を目掛けて思い切り正拳突きを叩き込んだ。
「ぶふっ!」
豚が鼻づまりを起こしたような声をあげ、太った男はもんどり打って派手に倒れた。
こうなると動揺した残りの二人を片付けるのは、もはや造作もなかった。
黒い影が入り乱れる。
鈍い音とくぐもった声が薄暗い場所に反響する。
数分後、路地裏の暗がりは静まり返っていた。
「ふん…数に任せて油断してるからこうなるんだ。魔弾の貴公子をなめるな」
勇樹は戦意を失い地面で低く呻き声をあげている連中に向け、会心の捨て台詞を吐いた。我ながらスカした台詞だと思いながらも、自然とそう口をついていた。
その時だった。
不意にパチパチと薄暗い路地裏の向こう側から誰かの拍手の音がした。
勇樹は目を細めた。逆光の中にそびえ立つシルエット。相手の顔が見えない。
「お見事!まるで狼の狩りだな。無駄なくスムーズなハンティングだ。素晴らしい」
若い男の声がした。
勇樹は妙に甲高い、その男声に聞き覚えがあった。
人影が近づくにつれ、シルエットが次第にその輪郭をはっきりさせていく。眼前には勇樹と同じく聖真学園の制服を着た若い男が一人立っていた。
「須藤…お前か。こんなふざけた真似をしたのは?」
勇樹は吐き捨てるようにそう言うと、現れた男を最大の軽蔑の念を込めて睨み付けてやった。
黒いストレートの長髪を肩まで伸ばした長身。鋭い目つき。左耳に銀の輪のピアス。
須藤は片側の頬を引きつらせ、不敵に微笑みながら、勇樹を見下すような視線を送ってきた。
須藤直樹。奇しくも勇樹と同じクラスメートで空手部の同輩でもある。成績も優秀で時期主将候補とも噂されている男だ。
しかし、深夜のクラブで見掛けられたりチンピラのような連中とバイクに乗って騒いでいる所を何度も目撃されるなど、成績優秀で頭が切れる割に黒い噂も絶えない油断のならない男だった。
「つれないな…空手部のよきライバルとたまにはパーッと遊びに行こうと思って誘おうとしたのに」
「誰がお前なんかと!」
「あ~あ~…。こんなになるまで仲間を殴ってくれちゃってさぁ。早とちりでフルボッコなんて酷ぇコトするよなぁ。
…知らないよぉ? 先生に言い付けてやろっかなぁ?」
不意に勇樹の後ろからゲラゲラと複数の笑い声が聞こえた。
須藤の後ろに何人か人影が現れた。
しまった!
勇樹は己の迂闊さを呪った。
少し冷静に考えてみればわかる事だったのに。
二重尾行。
こいつらは…囮だ。
勇樹は嵌められたのだ。
勇樹は、不敵に薄笑いを浮かべた須藤の顔を、憎々しげに睨みつけた。
「このゲス野郎…卑怯だぞ!」
「お~怖ぇ怖ぇその顔! 助けてママ~ン! ボクちゃんオシッコちびっちゃう~!」
途端にギャッハッハッと不良達の下品な笑い声が狭い空間いっぱいに反響した。
うるさい。耳が痛い。まるで世界中から嘲笑されているような厭な気分だった。
「ところでお前、さっき面白ぇ事言ってたな? 『魔弾の貴公子をなめるな』?
馬鹿じゃねぇのか、お前?
あのヤリマン女の川島のクソネタに躍らされてよ。
…まぁ、お前みたいな何も知らないおめでたい馬鹿には、本っ当にお似合いな名前だけどな!」
須藤に合わせて爆笑するチンピラ達の声、声、声。
やかましい!
耳が張り裂けそうだった。
勇樹は頭が真っ白になった。
由紀子を悪し様に罵ったこの男を殴り倒してやりたい激情に駆られた。それは勇樹の心に生まれて始めて生まれた、明確な黒い衝動だった。
もうどうなったって構うものか!
「うわぁあああ!」
気が付けば勇樹はあらん限りの叫び声をあげ、須藤に飛びかかっていた。
しかし。
勇樹は唖然とした。
顔面に向けて放たれた、勇樹の渾身の正拳を須藤はひらりと上体の捻りだけで反らし、あっさりとかわした。
空振りで大きく体制を崩した勇樹のくるぶしを須藤は足払いだけで軽くバシリと打ち付け、勇樹を地面に叩き落とした。
「ぐぁっ…!」
冷たく、硬いコンクリートの感触が背中にあった。
いつの間に倒されたのか、勇樹は四角く長方形に切り取られたような路地裏の頭上を見ていた。
地面にしこたま背中を打ちつけたせいか、呼吸が苦しい。
鳩尾の辺りが痛む。受け身を取る事すら出来なかった。それほどに須藤の足払いのタイミングは、完璧で素早かった。
不意に視界が暗い影に遮られた。勇樹を見下ろす須藤の顔が目の前にあった。
「ふふっ…哀れだな成瀬。なんで自分がこんな目に合うのか不思議だってツラ…してるぜっ!」
「…ぐふっ!」
いきなり腹部に激痛が襲いかかった。
須藤は勇樹の鳩尾を思い切り踏み付けて、吐き捨てるように言った。
「気に入らねぇんだよ、お前!
いつもいつもスカしたツラして俺の邪魔ばかりしやがって!
お前が俺から何もかも奪っていきやがる! あの女も! 空手部での地位も名声も!
…さあ、言え! コソコソ何を嗅ぎ回ってやがる?川島から預かったアレをさっさと出せ! テメェが持ってんじゃねぇのか! あぁん!?」
ダンゴムシのように丸くなりながら、勇樹は痛みと罵声に必死で耐えた。無茶苦茶に蹴り飛ばしてくる。もはや空手の型も何もあったものではない。
須藤の荒い息遣いが聞こえた。
「うぅ…あぅ!」
須藤はいきなり勇樹の髪をむんずと鷲掴みにすると、しゃがみ込んで自分の眼前に勇樹の顔を持ってきた。
須藤は絶望的な言葉をさらに続ける。
「ちっ…その分じゃ何も知らないみたいだな。さぞかしあの女に骨抜きにされたらしい。だったらいい事を教えてやる。
死んだ川島はな、夜中に街で派手にウリだのクスリだのやってるグループの一人なんだぜ」
「ば、馬鹿言うな! 川島がそんなこと…」
「あるんだよ。ってか、別に今時の女にとっちゃ、それが普通なんじゃねーの?
お前にとっちゃ残念だが、こりゃ本当の話なのさ。何しろ客が先公なんだからな」
…自分はたった今、何を聞いたのだろう?
何もかもが真っ白だった。
由紀子が。
売春グループの…一人?
裏切られたような思いと嘘だと叫びたい思いがない交ぜになって、一斉に勇樹に襲いかかった。無知という己の罪を呪いたくなった。
なんだよ…それ…。
僕は何のために…。
勇樹は痛みと屈辱と侮蔑に、ボロボロに混乱していた。なぜか知らずに涙が滲み出て視界が曇った。
「アッハッハッ!
見ろよ! コイツ、あんだけ派手に暴れといて泣いてやがるぜ!」
周囲からまた、一際甲高い笑い声がこだました。勇樹はもう滲む視界の中で自分を見捨てたくなった。
いつもそうだ。
強がってみても自分ではどうにもならない現実。
為す術はなく、いきなり突きつけられる現実。
苦悩の先には諦めや絶望しか待っていない。
痛みつけられるだけの。
現実。
須藤は倒れたまま茫然自失している勇樹を無理矢理立たせ、軽蔑したような一瞥をくれると、もはや壊れた玩具に興味を失った子供のように、ぞんざいに勇樹の胸をどんと押した。
勇樹は大の字になって仰向けに冷たいコンクリートへと倒れた。
「さあ、待たせたな! 煮るなり焼くなりお前達の好きにしていいぞ!
…パーティータイムの始まりといこうぜ!」
高らかに須藤が宣言した。
正にその時だった。
地面に倒された勇樹は切り取られたような壁と壁の間の空に、先程までにはなかった、得体の知れない影を見た。
…アレは、何だ!?
影だ。
真っ黒な影が空からいきなり落ちてきた。
まるで翼を広げた真っ黒な鳥が、遥か上空から猛然と飛来してきたかのように勇樹には見えた。
刹那、勇樹の体がふわりと空中に持ち上がった。
な、何だよ…これ!?
だ、誰だよ、こいつ!?
黒い人影は勇樹を素早くさらい上げると、須藤とは反対側に固まっていたチンピラ達の隙間を擦り抜けるようにして、廃工場の前の広い場所に踊り出た。
須藤を始め不良達も、そして捕まった勇樹でさえ、今の一瞬で何が起こったのか、まるでわからなかった。
正に電光石火の一瞬の出来事だった。
いつの間にか日が暮れている。
気が付けば、勇樹は夕暮れ時の、真っ赤に鮮やかな茜空の真下にいた。
ギャアギャアと、けたたましい声で黄昏時のカラスが鳴いている。
長い間、薄暗い場所にいたせいか沈みゆく赤い太陽が眩しくて一瞬目が眩んだ。勇樹ははっとして上体を起こした。
いつの間にそこにいたのか、眼前に真っ黒なスーツを着た一人の男の背中が見えた。男は首だけを動かして勇樹の方を振り返った。
思わず見とれた。
勇樹は今までこれほど整った顔立ちをした男を見た事がなかった。
サラサラと風になびく黒髪。
細く鋭角的な眉。
蝋人形のような白い肌。
眼光鋭く勇樹を見つめる目はカラーコンタクトでも装用しているのか、瞳の部分が透き通ったような緋色をしていた。
上等そうな黒いスーツに身を包んだ痩せ形ですらりとした長身。
靴もアンダーシャツも黒い。
影法師のように真っ黒だ。
ネクタイだけが赤い。
長身の男はまるで非日常の世界から飛び出してきたような恰好をしていた。
「随分こっぴどくやられたな。…立てるか?」
低く、落ち着いた声で男は勇樹へと問い掛けた。ぶっきらぼうで愛想はないが、どこか温かみのある声だった。
「だ、大丈夫…です…。あの…あなたは一体…?」
「探偵だよ。話は後だ」
「た、探偵?」
男は勇樹を庇うように一歩後ろへと身を引いた。須藤を始めとする街の不良達が五、六人一斉に勇樹と男を取り囲んだ。
「おやおや…パーティーに突然の珍客の登場かよ。
…失礼ですがお客様、招待状はお持ちですか? 残念ながらご紹介のない方の御来場は、当店では固くお断りさせて頂いております」
男の服装を揶揄した須藤のおどけた立ち居振る舞いに、ギャッハッハッと周囲のチンピラ達が再び下品な声で笑った。
「オッサンが調子くれてんじゃねーぜ」
「さっさとホストクラブに帰んな!」
「ギャハハハ! 夕方の営業に行かなくていいのかよ! ホストの基本はキャッチだろ!」
クク…。
「早く家へ帰れよ! 奥さん泣いてるよー」
「いる訳ねーだろ!こんなおかしな奴によ!」
クククッ…。
「よぉ、おっさん。成瀬ちゃんのケツが好みなの~?」
「ってか、もうアナルぐらいヤッちまってんじゃねーの?」
「あの夜が忘れられないのよ~ってか? ギャハハ!」
…クックックックッ…。
不良達の声がピタリとやんだ。
勇樹は黒いスーツの男を見た。
男は顔を伏せ、細かく肩を揺すりながら笑っていた。
「テメェ! 何を笑ってやがる! 自分の状況がわかっ…ぉぶっ!」
不良の声はいきなり男の手によって遮られた。男は不良の顔面をいきなり鷲掴みにすると、コンクリートの地面へ強引に叩きつけた。
「ピーピーうるせぇよ」
勇樹は唖然とした。
男は驚愕の表情のまま固まっている若い不良を見下ろすと、今度は片足で思い切り腹の辺りを踏み付けた。
哀れな不良は口から泡を吹いて完全に失神した。
「クソガキ共が…。そのまま這いつくばって地べたを嘗めてな」
男は口の端を吊り上げるようにして不敵な笑みを浮かべた。驚くほど端正な顔立ちからは想像もつかないサディスティックな、ぞっとする冷たい微笑みだった。
静けさの中を夕闇の風が一陣、吹き抜けていく。
勇樹も須藤も、周りにいた若い不良達も呆気に取られたように、いきなり現れた黒服の男をただ見つめている。
「おい! 何、テンパってんだよ、お前ら! こんなスカしたホスト一人、さっさと片付けろ!」
須藤の恫喝の声が響く。
男は再びククッと笑った。
「お~! 怖ぇ怖ぇその顔! 助けてママ~ン! ボクちゃんオシッコちびっちゃう~…だっけか?
クックックッ…最近のガキは年上に対する口の利き方も知らねぇらしいな。あいにくとホストなんてチャチな商売してねェよ。
…しっかし世も末だよなァ。馬鹿で頭の悪いお前らみたいなクソガキを野放しなんざ、親も教師も揃ってイカれてんな。学校教育の荒廃ぶりを実感するぜ」
男は片方の眉を吊り上げ、究極に小馬鹿にしたような表情で、須藤を見下すとヘラヘラと笑いながらそう言った。
「ウタッてんじゃねーぞ! このクソ野郎!」
黒い男の後ろにいた別の不良が男に飛び掛かった。右手にはぎらりと光るナイフを握っている。
…危ない!
と勇樹が思ったのもつかの間、男はくるりと振り向くと、なんと自分からナイフの刃先へと向かっていった!
ボクシングのクロスカウンターのように刃を持った不良の右腕に自らの右腕を絡めると、男はその反動を利用して、ぐるりと回ってそのまま相手の頭をひっ掴んで近くにあった工場のシャッターへと強引に放り投げた。
勇樹は思わず目を覆った。
ガシャーンと派手な音がした。ズルズルと引きずるように若い不良は俯せにくず折れた。錆の浮いた青いシャッターには血の跡が縦に線を描くように付着していた。
衝撃で折れるか欠け落ちるかした歯が、無残に散らばっている。
「どうした、ガキ共。威勢のいいのは口だけかよ? もっとオジサンと遊んでくれよ。そんなに早くイッちまっちゃ男としてカッコつかねぇだろ? 早漏君は女のコに嫌われるぜ~」
黒いスーツの悪魔は不敵な姿勢を崩さず、命知らずにも不良達をさらに挑発した。
この男…何者だろう?
勇樹は舌を巻いていた。何者か知らないが、でたらめに強い。明らかに素人の動きではない。
男は左手に黒いレザーグローブをすっぽりと嵌めている。右手には何も着けていない所を見ると、酷い火傷か何かの跡があるのかもしれない。
「馬鹿野郎! 一人一人かかっていってどうする! 一斉に痛めつけろ! 殺したって構わねぇ!」
須藤はもはや半狂乱で不良達に命令している。
勇樹は改めて黒い男をまじまじと見た。
不思議な男だった。
年の頃は27、8といった所だろうか? 立ち居振舞いはひどく落ち着いているし、整った顔立ちは青年にも少年のようにも見える。
須藤を含め、10人近くの不良達に取り囲まれていても、まるで物怖じした様子がない。
須藤の恫喝に不良達は一斉に男を取り囲んだ。勇樹の周りにいた連中ですら全員、この不思議な男の元に集まった。
男はその時、勇樹をじっと見つめてから意味ありげに須藤にチラリと視線を向け、顎をしゃくった。
先程までヘラヘラと挑発していた男とは思えないほどに、その澄み切った赤い瞳は無言で勇樹に何かを語っていた。
…そういうことか。
須藤は探偵に気を取られ、こちらに気付いていない。周りの不良達もだ。
男は名乗った。探偵だと。
貴重な情報提供者を取り逃がす訳にはいかないということだ。首謀者の退路を断つのは勇樹しかいない。そういうことなのだ。
ケリをつけてやる。
勇樹は深く深呼吸を一つすると、両手をぐっと握りしめ、そして開く動作を繰り返す。四肢に力を込め、上体をぐっと起こす。
…大丈夫だ、動く。
思ったより痛みはない。このぐらいの打ち身程度なら、慣れている。
勇樹は気付いた。
不思議と自分がいつの間にか落ちついている事に。途中経過はどうあれ、この探偵と名乗った男の滅茶苦茶な言動が立ち直るきっかけを勇樹にくれたようだ。
ハードボイルドな探偵…か。
その響きが勇樹はなぜか可笑しかった。これまたなぜかほっとしたような安心感が湧く。あまりにも現実離れした状況に現実離れした探偵がいきなり現れる現実が、何だか夢みたいで可笑しかった。
勇樹は実感する。
これも現実だ。
どんな閉塞した物事も、こんな探偵が現実にいるのなら別にたいした事がないような気がしてくる。
現実は変わらない。けれど多分、為せば成る。為さねば成らない。何事も、だ。
勇樹はまだまだ半人前の半熟卵だったのだ。ハードボイルド小説の探偵のように自分で何かを決断して道を探さなければ、なるようにはならない。
現実は時に残酷だ。
茹で卵の殻のように、人間も一皮剥けば剥き出しの弱い本性を晒す。
勇樹は多分弱いのだ。
勇樹だけじゃない。現実は辛い事が多いけれど、多分皆そんなには違わない。
だから、自分が思うように思う事にした。
勇樹は再び立ち上がると、須藤の後方へと猛然と駆け抜けた。
薄曇りの茜空の真下、冷たい風が通り過ぎてゆく。
幸いなことに通りから少し離れているせいか、この付近では夕方過ぎには車や人が通る気配はないようだ。
砂埃が舞い、一陣の風が駆け抜けた。
「どうやらお前には後で、たっぷり聞かなきゃならない事があるらしいな」
「成瀬!? いつの間に!」
驚愕する須藤の表情。周囲の不良達にも僅かに動揺が走っていた。
「借りは即、返す主義なんでね。いつまでもやられっぱなしだと思うなよ」
勇樹は須藤の後方へ素早く回り込むと、周囲を警戒しつつ須藤を睨みつけた。
「ふん…さっきまで泣きベソかいてた奴が、しゃあしゃあとスカしやがるぜ。あのおかしな男とはとっくにグルって訳かよ?
…笑わせるぜ。二人だけで何が出来るってんだ?」
須藤はあくまで強気に勇樹を見下す。
「…とかいいつつ、ビビってんのは坊や、お前の方だろ?」
黒服の探偵はゆっくりと須藤を指差して挑発した。
「テメェ…」
須藤は勇樹から黒衣の男へと振り返ると、歯を食いしばり、憎しみに血走った目で男を睨みつけた。
額には汗。わなわなと震える唇。須藤の表情に最初の余裕の色はもはやない。
ゆっくりと勇樹は周りの状況を確認した。そのぐらい気持ちに余裕がある事に、自分でも驚きながら。
七対二。
誰が見ても明らかに不利な状況だった。
しかし。
期せずして探偵と名乗ったこの男と共闘する形となったが、今の勇樹は不思議とこの修羅場の中で戦う事に恐怖心がなかった。
そうした感情が麻痺した訳ではないはずだ。ただ、この男なら全面的に信頼できる気がした。
初対面であるにも関わらず、ましてや正義のヒーローと呼ぶにはあまりに程遠い言動をしているにも関わらず、勇樹はこの男に興味を持ち始めている。
不良グループ相手に暴力を振るう探偵などハードボイルドにしても滅茶苦茶だが、口先だけで暴力には一切干渉せず何もかも手遅れになってから現れる頭脳派の探偵より、はるかに信用に足る人物だと勇樹は思った。
たとえ拳銃を持った相手でも、この男なら顔色一つ変えずに相手を挑発するだろう。
なぜかそんな気がした。
男は次の瞬間には何をするかわからない、得体の知れない殺気に満ち溢れている。
本来なら勇樹が騙し討ちにされるはずだった二重尾行という罠。
まさかそれの裏をかく者が現れるとは思っていなかったのだろう。黒いスーツの男の出現は完全に須藤達の理解の範疇を越えていた。
今や完全に場を支配しているのはこの謎の男だった。
周りの不良達は迂闊に手を出す訳にいかず、かといって余計な口出しは先ほどのやり取りでわかったように自ら危険を招く事を本能的に悟ったのだろう。一様に口を閉ざし攻めあぐねていた。
「一つだけ約束しろよ」
勇樹は真っ直ぐ須藤を見据えた。
「僕とあの人が勝ったら、さっきお前が話してた川島の事を洗いざらい喋ってもらう」
「成瀬、テメェ…! 調子くれてんじゃねぇぞ。お前らは俺達にボコボコにされておしまいだよ」
「もし勝てたら?」
「好きにすればいいさ。まぁ、そんな事は絶対にありえねぇけどな」
須藤はニヤリと微笑んだ。
「おっと…成瀬とかいったな。その坊やに話があるのは俺の方が先だ。こっちのザコは任されてやるから、それは俺に譲れ」
バサリと黒いスーツを翻して背中を向けると、男はゆっくりと広い場所へと歩み出した。男の動きに合わせて不良達がじりじりと男を取り囲んだ。
真っ赤な夕日が周囲を茜色に染め上げている。
啜り泣くような風の音と共に砂埃が舞い上がる。
いつの間に集まってきたのか、電線には夥しいカラスの群れが狂ったように、けたたましい鳴き声で人間達を威嚇していた。
探偵はゆっくりとグローブを嵌めた左手で空を指差すとまるで誰かに宣言するかのように言った。
「さあ…いこうぜ。イカレたパーティーの始まりだ!」
男のその言葉を合図に不良達が一斉に男へと飛び掛かった。
勇樹と須藤は互いに牽制しあいながら、乱闘になりそうな集団から一旦離れた。
荒々しいがなり声。手にはナイフや角材を持った不良もいる。
探偵は左手を下げ、右手は自らの顎の部分をガードするように、ボクシングのデトロイトスタイルに構えると素手で飛び掛かってきた二人をステップワークで軽くいなし、ナイフを持った男へと狙いを定めた。
左のジャブを鼻先に二発。
怯んだ相手と素早く距離を計ると今度はジャブとストレートのワン、ツー。そして右のボディブローを鳩尾へと叩き込む。ナイフが地面に落ちる音がした。
男は今度は両の手の平を開き気味に斜めにして合気道のような構えを取ると、殴りかかってきた相手をするりと肘への当て身で後方へといなし、続いて向かってきた男の顔面に掌打を叩き込んだ。
相手の右腕を引き寄せ、体制を崩した相手に足払い。
そして仰向けに倒れた相手の喉笛に、とどめとばかりに手刀の一撃を見舞う。
探偵はまったく隙を見せない。即座に乱戦に対応するように集団と再び距離を取る。
勇樹は再び舌を巻いた。
この男、本当に強い。
無駄な動作が一切ない。
そして、人を傷つける行為に躊躇いや迷いが全くない。喧嘩や戦いにおいて、この点は非常に大きい。それでいて相手への急所はわずかに外している。
男の戦い方は、人の壊し方をよく心得ている者の戦い方だった。
勇樹は横目で男の常人離れした動きにひそかに戦慄していた。
「オラァ!よそ見してんじゃねぇぜ!」
突然、須藤の拳が鼻先を掠めた。続いて左右の正拳が顔面に向けて襲いかかってくる。勇樹は素早く後ろに飛びのいてかわした。
先ほどと違って見える。
須藤の拳の軌道はわずかに大振りで雑になっている。
「僕の何がそんなに気にいらないんだ?」
勇樹は動揺を誘い、須藤にそう問い掛けた。
「何がだと…!」
須藤の眉がピクリと動く。憤怒の表情で須藤は叫んだ。
「お前のすべてがだ!」
須藤が勇樹へと躍りかかった。
左右の正拳から上段蹴り。そして返す刀で中段への後ろ回し蹴り。須藤の得意とするコンビネーションだ。勇樹は防御とかわすのでせいいっぱいになる。
「そのスカした態度も! 言葉遣いも!そのツラも! 正義感ぶった偽善者が!すぐに由紀子の所へ送ってやる!」
「ああ、そうかい!」
互いの右の上段回し蹴りがクロスした。弾かれたように即座に距離をとる須藤と勇樹。
ぶつかり合う互いの視線。
あちこちに走る鈍い痛み。
喉がひりつくような荒い呼吸。
心臓の音がうるさい。
勇樹はごくりと唾を飲み込み、深呼吸した。
…焦るな。あの人がくれたチャンスなんだ。今なら勝てる。そして…由紀子の為にもこいつには勝たなきゃいけない!
勇樹は再び探偵の様子を伺った。
工場前の広いアスファルトの地面には既に四人の人間達が倒れていた。
六人も取り囲んでいた若い不良達は、今や二人にまで減っている。倒れた不良達はそれぞれに呻き声を上げている。
緋色の空の下で、輪郭さえ暗く曖昧になった周囲の風景に一際黒い探偵の影が佇んでいる。ギリギリと歯ぎしりをして須藤は探偵の姿を見ていた。
ぞっとする程に整った探偵の白い顔立ちに夕日が映える。深く、淡い緋色をした瞳は一層にその不吉な色を増していく。
不良達は目の前に広がる悪夢のような光景から逃げおおせようと、もう及び腰だった。
彼らにしてみればこんな展開など、予想だにしなかったことだろう。
男は始めから逃がすつもりはないのか、敵の退路を塞ぎながら争っていた。不良達は無茶苦茶に何やら叫びながら、男に踊りかかった。
黒いスーツの男は残りの二人の動きを完全に見切っていた。
素早く一人の鳩尾に肘撃ちを叩き込み、そのまま裏拳で顎を撃ち据える。そして、とどめとばかりに大きく体を開き、背中をぶつけて相手を地面に倒した。
見た事もない技だった。構えもいつの間にか変わっている。
最後の一人へは柔道技だった。一気に間合いを詰め、奥襟から相手の体制を崩したかと思うと黒いスーツの男は素早く腕をとり、不良の一人を豪快に一本背負いでコンクリートに叩きつけた。
とんでもない強さだった。
情け容赦が微塵もない。
それにしても、この男はどういう頭の構造をしているのだろう? 格闘技特有の型がまったくない。いや、型を一瞬で判断できない。
構え一つとっても、ボクシングに合気道に柔道にと当て嵌まる格闘スタイルがまったく特定できない。
ゼロコンマ何秒の一瞬かで無数のパンチや蹴りが飛び交う暴徒相手の修羅場だというのに、表情一つ変えずに六人もの人間を瞬く間に返り討ちにしてしまった。
長身の割に一つ一つの動きは非常に素早く滑らかで柔らかく、ぎこちなさというものが全くない。勇樹はまるで演舞や時代劇の殺陣を見ているような感覚に襲われた。
信じられない事だがどうもこの男、相手の体格や身長、腕や足のリーチの長さ、動きやクセ、所持した得物などを一瞬で判断し、それに対処する適切な格闘技を選び取って戦っているとしか思えない。
常人なら考えもつかない。
というより実行出来ない。
格闘技やスポーツに代表されるように、人間の滑らかな動作は反復によって成り立っている。いわば経験と記憶、学習してきた行動の一端だ。これは脳が動作シーケンスを体の機能に合わせて記憶するからだ。
勇樹は断言できる。
いかに反応速度や運動神経がずば抜けて高い能力の人間がいたとしても、様々な格闘技をスイッチして戦い、それをケンカに応用するなどという離れ業は絶対に無理なはずだ。
普通の人間ではありえないような過酷な訓練を反復してきたか、そうでなければ恐ろしく頭のいい人間という事になる。
勇樹は男の様子を伺った。
探偵は夕日に佇みながら一仕事終えたとでも言うように、黒いスーツのポケットからジッポーのオイルライターとセブンスターの白い箱を取り出した。中から一本抜き出し、火を点ける。
ピンという軽い金属音。
シャボン玉のような不思議な色合いをしたジッポーだった。
端正な横顔を紫煙が覆い隠す。男は虚しさとも寂しさとも取れるような、なんとも言えない表情をしてこちらを振り向いた。
一対一の勝負に手を出す気はないのだろう。
「もういいだろう須藤。…潔く負けを認めて洗いざらい話してくれないか?」
須藤は憎しみに満ちた目で勇樹を見据えた。
「ふざけろよ…そんな真似、死んでもできるか」
この期に及んでも須藤は虚勢を張った。勇樹はわずかに苛立つ。由紀子の顔が目の前にちらついた。
「なんでだよ…! なんで始めから、たった一人で向かってこない! こんな卑怯な真似までして僕に勝ちたいのか!?
川島は…由紀子はお前の幼なじみだろう!
あいつは…。あいつは死んだんだぞ! こんな真似して恥ずかしくないのかよ!」
勇樹はあらん限りの声をあげて須藤を詰問した。
先ほど須藤は由紀子とはっきり呼び捨てにした。ずっとモヤモヤしていた違和感。
それは正に核心に触れる須藤への揺さぶりのつもりだった。
「成瀬…お前に俺の気持ちはわからねぇ…」
須藤はわずかに視線を逸らした。その一瞬の表情で、勇樹は事の全てを理解した気がした。いずれこの争いは避けられなかったのだ。
生温い風が勇樹の頬を撫でた。残りわずかな西陽が燻った炎のように西の空を染めている。
須藤は後ろ足を引き気味にして低く構えた。
「言っておくが俺は負けないぜ。テメェを痛めつけて、あとはズラかる。トンズラだ。こんな奴らなんか知るものか」
勇樹は怒りを押し殺して目を閉じた。一瞬だけ由紀子の微笑む顔が浮かんだ気がした。
勇樹は感情を遮断する。
戦いの場には必要ない。
ゆっくりと目を開き、勇樹も正眼に低く構えた。
「ケリをつけてやる。
須藤…約束は覚えてるな?
僕は負けない。お前だけには…。
絶対負けない!」
夕日の下で二つの影が交錯した。
茜色の空に、カラス達の黒い影が爆ぜるように散った。
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