暁の魔術師

久浄 要

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コツ…コツ…コツ…。

一人で廊下を歩いている足音が、うるさいぐらいに周囲に響きわたる。

ここはどこだろう…?

学校の…廊下…?

夕暮れ時だろうか。片側の窓から差し込む、真っ赤な夕日がやけに眩しい。

一直線に延びた廊下はなぜか終わりがなく、左側の窓も延々続いている。

学校の廊下にいるはずの景色なのに、片側は白い壁ばかりが延々続いている。こちらもまったく終わりがない。

赤い…。真っ赤だ…。

赤い絵の具を一面にぶちまけたように世界は赤く染まり、周囲の時間は止まったように、ひっそりとしている。

そんな中、ただ一人だけ歩き続けている。

コツ…コツ…コツ…。

立ち止まる。

見られている。

すぐ後ろから。

そっと振り返る…。

そこにはボロボロのマネキン人形が立っていた。

ゆるくウェーブのかかった黒髪。なだらかな肩の線。豊かに膨らんだ裸の胸。全体的に丸みを帯びた、しなやかな体のライン。なまめかしい腰のくびれ。細い手足。

紛れもない裸の女性のマネキン人形がそこにあった。

しかし、それらを異常たらしめているのは、何よりもその不可解な形状だった。マネキン人形は全身の至る所にヒビが入っている。

頭の左側、頭頂部から目の上にかけては三分の一が崩れ落ち、左手は二の腕から先がない。まるで高所から落とされたような壊れたマネキン人形。

それがぼんやりと立っている。

ひたすら不気味で生々しく、目を背けたくなるような凄惨な姿をしていた。

感情のない虚ろな目。底なしの虚無へと突き落とすような、その凍り付いた表情。

冷や水を浴びせられたようにぞっとした。

全身を磔にされたように動けなかった。

ふいに。

マネキンの目からつう、と赤い線が一筋、頬を伝って流れ落ちる。

涙…?

赤い涙…?


体にかかっていたタオルケットを払いのけるようにして、成瀬勇樹は慌ててベッドから跳び起きた。

息が荒い。心臓が早鐘を打つようにバクバクとせわしなく鳴っている。裸の背中が、じわりと汗で湿っているのがわかった。

隣では、すやすやとやすらかな寝息を立てて、クラスメートの沢木奈美が裸の背中を向けて眠っている。

激しい情事が終わった後の心地よい余韻とけだるさに任せ、二人でそのまま眠ってしまったらしい。

いましがた見た悪夢の光景を思い出し、勇樹は奈美の背中まで伸びたストレートの黒髪をそっと撫でた。

「うぅん…」

奈美は甘えるような、か細い声をそう漏らすと、再びすやすやと寝息を立て始めた。

勇樹は途端にほっとして自分の胸を撫で下ろした。

それにしても…。

おかしな夢を見たものだ。

勇樹は自分の肩を抱くようにぶるりと身を震わせた。

じめじめした六月の梅雨。

不快な暑さも忘れるくらいに部屋の中は涼しかったが、あんな夢を見た勇樹にはただ寒いとしか感じられなかった。

エアコンのリモコンを探し当て、少し温度を上げる。

寝ている奈美を起こさないように、勇樹はゆっくりと起き上がって暫しベッドに腰掛けながら、ぼんやりと白い部屋を眺め渡した。

白い壁紙を基調とした、清潔感のある八畳ほどの広い洋室に勇樹はいる。

一人っ子の奈美には広すぎる部屋のような気もしたが、この辺りが一人娘を持つ親心というものなのかもしれない。

勇樹と奈美が互いの制服を脱ぎ捨てて、放課後にこうした秘密の関係を共有できるのも、奈美の両親の共働きによる所が大きかった。

口うるさい母親が、常時家にいる勇樹の家では、激しく情事とはいかないのが大人の事情というものである。

一方、奈美の両親はといえば父親も母親も同じ商社に勤めていて、帰ってくるのはいつも夜の9時過ぎになるのだという。

以前、勇樹が気になって寂しくないのかと聞いた時も奈美は、

「小さい時からそうだったし、もうすっかり慣れちゃったよ。多すぎるくらいお小遣いも貰ってるし、学校に行けば友達もいるしさ。
…もちろん勇樹もいるしね」

勇樹のその気遣いが嬉しかったのか、奈美はそう言って勇樹の頬にキスしてきた。本当にそう思っているようだった。

奈美は何かにつけて器用だったし家政婦なども雇っていないというから、料理や洗濯などの家事はお手のものなのだろう。改めて勇樹は部屋の中を眺め渡した。

木製の学習机が一つ。マガジンラックに大型テレビ、DVDデッキにオーディオセット。大きな洋服ダンス。メイク道具や化粧品がたくさん載った鏡台もあった。

部屋の備品といえば、そのくらいだった。年頃の女子にありがちなギャルっぽい派手な物や、子供っぽいキャラクターのぬいぐるみなどが置いてある訳でもなく、いたってシンプルなものだった。

もちろん勇樹の部屋のように芸能人のポスターが貼ってあったり、マニアックなプラモデルやフィギュアが所狭しと並んでいるような棚がある訳でもなかった。

むさ苦しい空手部の道場なんかとはやはり違う。甘ったるいような女性特有の匂いに満ちている。

新鮮で頭の芯がとろけそうな刺激の余韻か、はたまた先程見たおかしな夢の名残りか。中途半端に目覚めた身体は妙にけだるく、全身が重たかった。

盛大な欠伸あくびを一つ。

寝乱れた自分の髪を、勇樹はばりばりと掻きむしった。鏡を見ると少しクセのある髪には案の定、寝癖がついていた。

勇樹は眠っている奈美を起こさないように、そっと床の青いカーペットに脱ぎ散らしてあった制服を探り当てた。

Tシャツを着るのが面倒くさくなって、勇樹は裸のままワイシャツに袖を通した。手近にあったネクタイに手を伸ばす。

「もう帰っちゃうの?」

いつの間に起きていたのか、奈美が眠そうに目を擦りながら聞いてきた。こちらは片手でシーツごとしっかり胸元をガードしている。

「あ、ゴメン…! 起こしちゃった?」

「んーん、いいよ別に。
ふわぁ!…はぁ、それにしてもよく寝ちゃったねぇ。…わ、もう5時過ぎてんじゃん! 久しぶりの部活休みで疲れてたのかな…」

「いや、頑張り過ぎたんだろ」

「もぅ…このバカ!」

バフッという音と共に、不意に勇樹の目の前が真っ暗になった。奈美が枕を投げてきたらしい。恥ずかしそうに頬を赤らめ、奈美はシーツを両手で抱くようにして勇樹を咎めるように見つめている。

怒った表情が何とも可愛い。

窓から差し込む夕日に照らされた、クラスメートのあられもない姿に勇樹はドキリとした。

その姿は少女というにはセクシー過ぎたし、大人の女性にはけしてない、弾けるような可憐さと瑞々しさに溢れていた。

そんな表情をされると逆にイタズラしてやりたくなる。

勇樹は奈美の隣に座ろうとベッドに腰掛けるふりをしてシーツの端を掴むと、一気に引き剥がしにかかった。

「キャッ!ちょっ…やめてよ~」

「お前があまりに可愛いからだ」

裸にされてはたまらないと懸命に胸元のシーツを押さえる奈美。二人はもつれるようにしてじゃれあった。

「何、訳わかんないコト言ってんのよぉ! キャハハハ! そこはやめて~! くすぐったいってばぁ」

「痛てっ! 引っ掻いたな、こいつめ~」

「キャハハ! やだぁ! もう、どこ触ってんのよぉ」

その時、不意にブーッという何かが震える音と共に、携帯電話の着信音が大音量で部屋に流れた。

奈美や勇樹がお気に入りの、売り出し中の女性ロックバンドの曲だった。

「ぁん!ダメだって! ほらぁ、携帯鳴ってんじゃん。ママからだったら超やばいって」

「ちぇっ…」

まるで主人におあずけをくらった犬のようだ。

勇樹はさっさと着替えてしまおうと、自分の制服に再び手を伸ばした。

奈美はシーツをしっかり体に巻きつけながら携帯で話している。話し相手は親ではないようだ。

「もしもーし。あ、早紀。どうしたのよ? …今? もう家だよ。やだぁ! 一人に決まってんじゃん! これから買い物行くトコ。
…どうしたのよ早紀。ちょっとちょっと! なんか息が荒いよ。落ち着いて話してってば」

勇樹は手持ち無沙汰で、聞くともなしに奈美の声を聞いていた。

一人に決まってる…か。

勇樹は心の中でそっと溜息をついた。

高校二年生という、社会的には今が旬のブランド品とも言える二人が、わざわざ人目を偲んで付き合っているのが、勇樹には不満で堪らなかった。

『学生の本分を弁えぬ恋愛沙汰はご法度』などという、時代遅れでカビの生えた校則など、もちろんどうでもよかった。

いざ体の関係となるとお互いに積極的でも、お嬢様育ちの奈美は基本的に臆病過ぎるのだ。勇樹には、それがいつもじれったかった。

勇樹は制服に着替え終わると、奈美の学習机の椅子を引き寄せた。背もたれの部分を前にして顎を載せて腰掛け、奈美の様子を窺う。

どうした事か、奈美の顔色が異様に青白い。携帯電話を持つ手が小刻みに震えている。

何かあったのだろうか?

「うん…うん…。連絡網の件はわかった。次の人に回せばいいんでしょ? ねえ、それでさ、早紀はなんか聞いてない? その…」

勇樹の表情に気が付いたのか、奈美はちらりとこちらに視線を向けてきた。

「そう…。あ、ううん。何もわからないならいいの…。ゴメンね。うん…また明日ね、バイバイ」

奈美は携帯電話を握りしめたまま震えている。しばらくの間、奈美はうつむいて動かなかった。

ざわりと勇樹の胸に嫌な予感が去来する。

「奈美、今の電話、三浦でしょ? 何だったのさ?」

「勇樹…」

不意に、じわりと奈美の目が涙で潤んだ。不自然に顔を歪めたかと思うと、奈美は突然、勇樹に抱きついてきた。

椅子から半分ほど立ち上がりかけていた勇樹は、華奢な奈美の体をただオロオロと抱きとめた。危うくバランスを崩しそうになる。

椅子はゴトリと音を立て、勇樹の足元に倒れた。

勇樹の胸で子供のように泣きじゃくる奈美。

訳もわからず勇樹は、奈美がただ自分の胸で押し殺したように泣き叫ぶ悲痛な声を聞いていた。

勇樹は泣き止むまでの間、優しく奈美の頭を撫でた。

こういう時は大概の言葉は意味をなさない。何よりも、自分まで取り乱すのはいかにも格好悪い。

得体の知れない嫌な予感は、今や明確な形を結んで勇樹を包んでいた。

「奈美、大丈夫? 何があったか話してくれる?」

「…んだ…って…」

「え? 奈美、聞こえないよ、ちゃんと話してよ」

「勇樹。由紀子が…由紀子が…」

「由紀子が自殺したって…。学校の屋上から飛び下りて…死んじゃったって…!」



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