4 / 7
Ⅱ
しおりを挟む屠り場に引かれていく仔羊のように、あるいは毛を刈りとる者の前で黙っている仔羊のように、彼は一切口を開かなかった
(イザヤ書 53章 7節)
2
長い話を終えて少女はそう呟くと、疲れたように寂しげな笑みをそっと口元に浮かべ、本来は恵梨子が飲むはずだったアイスコーヒーのストローに口をつけた。
注文の品を間違えて飲んでしまう辺り、彼女のショック体験がいかに凄まじいものであったかを物語っている…。
恵梨子はあどけない笑顔で微笑んでいるのであろう、目の前の少女を複雑な思いで見つめた。
彼女は病院のパジャマ姿。しかも全身包帯だらけという入院患者である。
身体で露出している部分といえば、うっすらと黒髪がまばらに伸び始めた頭部のみ…。
今や包帯だらけで右目と口元でしか表情を読み取る事ができない…。
火傷で腫れ上がり、めくれあがったその唇で微笑む、この少女。
『…何なの、このコ…。気味が悪いわ…』
恵梨子は看護師として、そう考えてはいけないと思いつつも、異形といってもいい彼女の凄惨なその姿には正直、戦慄を覚えざるを得なかった。
そして、この違和感。
そう…違和感だ。
この背筋が薄ら寒くなるような違和感は一体、何に起因しているのだろうか?
そう、それは彼女が語った死んだ母親から夜毎送られてくるという、例の数字だけの謎のメールであったり…。
真っ暗な暗闇に吸い込まれていくという彼女の悪夢であったり…。
全身に及んだ火傷は、たいした怪我ではないと平然と言い切ってしまう彼女自身のことであったり…。
そして、火災のあったホテルから忽然と消え失せてしまった彼女の両親であったり…。
様々な、この違和感…。
この決定的に何かが噛み合っていないような不安定な感じは一体、何だというのか…?
猛暑と呼んでもいい暑い真夏の最中だというのに、彼女の語るこの世ならぬ不吉な闇に、恵梨子は徐々に心胆が冷え切ってくるような肌寒さを覚え始めていた…。
『私、何かが欠けてるんです…』か。
恵梨子はチラリと上目遣いに、改めて神経質そうにキョロキョロと周囲を見渡している彼女の表情を伺った。
彼女が基本的に嘘を言っていないのは間違いない。少なくとも虚言癖のある人間や患者のつく拙い嘘なら、応対している看護師はすぐに分かる。
自分の身体に異常を感じている人間の嘘ならば、見破る事は比較的容易だ。患者は心のどこかで痛みや苦しみを誰かに共有してもらいたいと、そう願ってもいるものだからだ。
しかし、目の前のこの患者から伝わってくるものといえば、ひたすら不気味で不可解な、妙な違和感ばかりを恵梨子は感じてしまうのだった。
九死に一生を得た自分自身を、まるでどこかへ突き放すような言い方ばかりする言動も、やたらと気になる…。
彼女がこの話をするのはしかも、一度や二度ではない。
この患者は…阿部沙夜子は執拗に同じ話ばかり語っている…。
同僚の看護師や臨床心理士も、何人かはこれと全く同じ話を彼女に聞かされている。
その事も、恵梨子がこの患者を薄気味悪く感じる理由の一つだ。
確かに可哀想な患者だとは思う。
彼女は今や火傷や熱傷で身体中ボロボロに傷み、天涯孤独に放り出された、一人ぼっちの浦島太郎のようなものなのだ。
術後の経過は順調で、来週にはスキンバンクから提供された皮膚による、第二回目の他家移植手術と整形手術も控えている。
しかし、外科の担当医の話では、通常の患者よりも外傷の回復が異様に遅いのが気になるという話だった。
精神的なショックによる影響…。
少なくとも医師はそう見ている。
恵梨子は周囲を見渡し、なぜか不安になる。
彼女の抱えている、この底無しの暗闇が、果たして白日の下に晒される時など来るのだろうか?
恵梨子は彼女に悟られまいと、オレンジジュースに口をつける振りをして、そっと顔を伏せた。
少なくともそれは、私の仕事じゃない…。
恵梨子は窓辺にある鏡をチラリと伺い、心中でそっと溜め息をつくと、やや疲れたような表情をして車椅子の背凭れにゆったりと寄りかかった、ミイラ男のような彼女を伴って席を立った。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
4
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる