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Case.3
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しおりを挟むこれは悪夢か何かなのか?
…いや、いつの間にか見知らぬ異世界にでも迷いこんでしまったのだ。そうでなければ美波が。血塗れで。人を。
ダン、という音と共に西園寺が苛立った様子でデジタルサイネージの柱に拳を打ちつけた。その暴力的な音と衝撃に私は思わず我に返った。己の許容範囲を越えた出来事にいきなり直面すると、人は思考が働かなくなるものらしい。頭が真っ白になるとは正にこの事だ。
そして一瞬で認識した。先ほど見た信じ難い白昼の悪夢は夢でも幻でもなく、まぎれもない現実に他ならなかったのだと。そう思った瞬間、血の臭いがやたらと鼻について目に沁みた。未知の瘴気が辺りに立ち込め、頭蓋の内を得体の知れないものが這い回っているかのような不快感に、私は悪寒がして思わず顔をしかめた。
一度意識された血の臭いは消えない。噎せ返り、嘔吐くような、生々しい濃密な臭気が地下街に残留している。事件記者である私は、この臭いを嗅ぐのはもちろん一度や二度ではない。投身自殺のあった場所で。交通事故の場所で。列車の人身事故のあった現場で。そして…殺人のあった現場でも嗅いだ。何度も嗅いできた。
何度嗅いでも慣れるものではない。大の大人が恥ずかしい限りだが、私は血に弱い。そして、私はそのことをどうやら幸いに思っている。血の臭いを嗅ぎ、他人の命が失われた事件を何度も取材する過程で私は人でありながら、人から遠ざかっていくような思いを幾度も抱いたものだからだ。経験的な感覚に慣れるというのは、人としての当たり前な感覚を麻痺させてしまうものだろう。非日常などそうそうあっていいものではない。
人の嗅覚、殊に血の臭いとは現実の生々しさと死の恐怖を思い起こさせる時に最も鋭敏に働く器官ではないだろうか? 人の血は人の内側にある様々なものを呼び起こす。痛みを。恐怖を。暴力を。衝動を。他人の血を通して人はそうした血の記憶の残滓に恐怖し、忌避し、時にはおぞましい不浄な穢れにも感じるのだろう。人間の血とは…否、生き物の血とは、どうしてここまで生臭いものなのか。
「一体、何がどうなってやがる…。あの美波が人を刺したってのか? 見ず知らずの赤の他人をか? どこの誰ともわからねぇ通行人を? ンな馬鹿な話があってたまるか…」
「わからない…。本当に突然だった。アレは一体、何だったんだ…。死体がいきなり通路に現れたようにしか見えなかった…。訳がわからない。あり得ない。こんな馬鹿なこと…」
「東城、お前は被害者の顔を見たか? あの時の状況を正確に覚えてるか?」
「ゴメン、わからない…。スーツを着て白いワイシャツ姿の男だったのは覚えてるけど、じっくりと被害者の顔どころか美波さんの姿すら途中からまともに見ていないんだ。トイレに行ってたはずなんだけど…。人混みで急に見えなくなった現場に、いつの間にかいたんだ…」
血塗れで。という言葉を私は思わず呑み込んだ。何かの間違いだ。いや、そうでなければあんな現実は見間違いだ。
「ああ、俺も同じだ。喫煙所にいた時間はせいぜい10分くらいのものだった。ということは事件が起こった正確な時間は13時20分かそこらだな。いきなり誰かの悲鳴が聞こえてよ、大騒ぎだった通路に直ぐさま駆けつけた訳だが、人混みでまったく何も見えなくて…」
西園寺の言葉と共に私の記憶が鮮明になるようだった。どす黒くも赤いペンキをぶちまけたかのようだった。血飛沫を斑に浴びたような美波の血塗れの顔が脳裏によぎり、私は再び身震いした。あれは本当に美波だったのだろうか。私は未だ性懲りもなく、そんな現実逃避をしていた。
西園寺は臆せず、あの時の状況を正確にトレースしている。私は無意識に腕時計で現在の時刻を確認した。時刻は13時42分。既に事件発生から20分は経過していることになる。
銀座中央署の動きは。いや、桜庭警部補の指揮は恐ろしく迅速だった。死体はすぐさま駆けつけてきた付近の交番巡査達によってブルーシートで覆われ、好奇の目で現場を撮影する野次馬達は早々に警官隊によって怒鳴りつけられ、ある者は突き飛ばされるような形でロープの外へと散り散りに追いやられた。
即席の警官達のバリケードによって現場は即座に目隠しされ、事件現場周辺の通路及び地上への導線の封鎖はあっという間に完了した。事件の発生から10分と経っていなかったと思う。
現場写真その他の検分を終えて、あれよあれよという間に警官達が搬送していったので、我々は被害者の身元どころか死体すらまともに確認できなかった。容疑者の身内ということで私と西園寺は現場から早々に離され、ご丁寧にも監視役の刑事と警官まで付けられた為、西園寺ですら現場には踏み込めなかったのだ。
そういえば事件が起こる前。あの時、西園寺は桜庭と共に喫煙所にいた。現場を指揮することも多いキャリアの刑事達が一体、何を話していたのだろう? そして、いち早く美波を現行犯逮捕した張本人である桜庭はなぜ、日曜日の地下街などにいたのだ? 銀座中央署の刑事達は何の事件を捜査していたのだ? 気になったが、私とて今は美波の身が気がかりだった。まずは落ち着く意味でも、西園寺と同じように、あの時の状況を整理してみるべきだろう。
「うん、時間は確かに13時20分か、そのくらいの時間だったと思う。僕は美波さんがトイレに行った後に風祭さんに…ああ、知り合いの元上司の記者に声を掛けられて話し込んでいたんだ。せいぜい5分くらいのものかな。
その後のことだった。何気なく通路の方を見たら、いきなり紺色のスーツを着た人が血塗れで通路のど真ん中に倒れていて…。その…変な言い方なんだけど、本当に突然に現れたんだ。
直感的にああ、死んでるなって思ってさ…。地下街も混雑してて、人だかりで見えなくなって、いきなり悲鳴が聞こえてきて。人だかりを避けて前に行ったら、そこに血塗れの美波さんが座っていた…」
「そこだよ。俺は喫煙所に入ってお前らの様子をそれとなく見ていた訳だが、美波はあの時トイレに行ったんだよな? つまり、俺もお前も美波がトイレから出てきた後の行動を一切見ていない。なぁ東城、こいつはまさか…」
「誰かに嵌められたっていうんだね? 僕も真っ先にそう思ったさ。でもね西園寺、多くの通行人が見ているんだよ? いつ戻ってきたか分からないけど、美波さんが男の人の死体のそばで血塗れになっているっていうのは僕も含めて多くの人が実際に目撃している。第一、こんな人だらけの衆人環視の真っ只中で殺人…」
私の尻窄みな声が、周囲のざわめきにかき消された。何の騒ぎだ? 怒鳴り声とがなり立てる声がぶつかる不快な騒音に私は思わず振り返った。どうやら現場の通路を封鎖している警官と旅客達が何やら騒いでいる。
「迂回して下さい! 捜査中の為、ここから先の通路は立ち入り禁止です! あちら側へ迂回してください!」
「知らねぇよ、そんなこと! いつまでやってんだよ。なぁ、俺達だけでいいから通してくれよ。だいたい狭い通路で邪魔くさいんだよ! どれだけの人間が通ると思ってんだよ!」
「捜査に協力して! ほら、迂回しなさい! 」
旅客の自分勝手な様子に苛立ったのか、はたまた警官の誘導がいかにも頼りなく感じたのか、西園寺は思わず舌打ちして他の導線への誘導を自ら買って出た。咎めていたのは八重洲地下街を抜けて銀座方面に行こうとしているカップル達のようだ。
好奇の声や怒声や罵声に遮られ、これでは会話すらままならない。通行人達にとっても、地上や東京駅へと通じている主要な導線を警官があちこちで塞いでいるのだから、ショートカットしたくもなるのだろう。いちいち己の身元を警官一人一人に開示しなければ、通路さえ通れない状況に置かれてしまっているのである。
相変わらず周囲は人が多く、生活音と雑音で騒然としていた。地下街に明るい曲調のBGMが流れている緊迫感のない異常を今さらのように感じ、私は改めて慄然とした。日曜日で尚且つ休日という状況が最悪だった。密集とまではいかないが、そこかしこで人同士が騒ぎになっている様子が見受けられる。多くが地上へのルートを分断された旅客達による、警察への苦情のようである。
目撃者とそうでない人物達を無理矢理に分けたものか、野次馬は既に警察によって幾つかのグループに分断され、事件に関係ないと思われる者達は早々に現場からは離されていた。容疑者の知り合いで、且つ現場の付近にいた私と西園寺は当然のように他の何人かの旅客と共に、桜庭率いる銀座中央署の刑事達による事情聴取待ちの状態である。こうした事件が起こった場合、民間人達は対応の遅い警察組織を何かにつけて揶揄するものだが、初動捜査としては異例の早さの対応といえるだろう。
地上へと続く階段の通路が赤色灯の光でいくつも明滅している。この様子では地上の様子とて尋常ではあるまい。この辺りでは地下駐車場以外に余分な駐車スペースなどない。無断で停めようものなら、即レッカー移動の憂き目に遭う。公道をパトカーが塞いでいるのだから、混乱も相当である。夥しい血の跡と金臭い臭気が未だに通路に残る生々しい現場は既にロープで封鎖され、警官が壁のように周囲に立っており、多くの人間が携帯やスマートフォンでその尋常ではない様子を写真や動画に撮っている。
私は未だ焦りと未知への恐怖に、早鐘のように鳴る心臓の律動を無理矢理に押さえつけた。休日の八重洲地下街を血に染める殺人事件。いつの間にか、忽然と現れた他殺死体。そんな、あり得なくも非常識きわまりない惨劇の現場には制服やスーツ姿の警察関係者は元より、報道のカメラマンや記者連中といった有象無象も含めて、かなりの数の人間がひっきりなしに今も出入りしていた。身内同士で囁き合う奇妙なざわめきと局所的ないざこざは、既にあちこちで起こっている状況のようだ。
警備員達の協力によって急遽、ショッピングエリアのテープバリカーで規制されていた部分に、今度は新たに警官によって黄色と黒の警戒色の規制テープが地上への通路を塞ぐように設置されていた。私はその光景を未だ現実感の伴わない心境で茫然と見つめていた。
ランバージャックデスマッチ。プロレスに確かそんな名前のルールがあった気がする。戦いの場であるリングを覆うバリケードのように有象無象の人で囲まれた即席の檻。リングに上がった者達の決着がつくまでは檻からはけっして出られない。出ることを許されない。
この状況を作ったのが、他ならぬ私達の友人だという事実が未だに信じられなかった。得体の知れない悪夢を見せられているように現実感が伴わなかった。今でも到底信じ難い、この現実を認めたくないという心境だった。
地下街は今や未曾有の厳戒態勢である。地上階に近い事件現場を完全に閉じ込めた形である。どこにも行けない、逃げられない、逃がさない。様々な者達の思惑が交錯する、我々にとっては文字通りの檻の中だった。
現場周辺はトイレや公衆電話に到るまで封鎖されたのか警察官が既に立哨しており、完全に関係者以外立ち入り禁止のようである。我々は規制線の内側に囚われてしまった。不幸中の幸いというべきか、店舗が立ち並ぶ通りからは若干外れていたせいか、周囲の店の営業活動などに支障は来していないようだが、これでは営業妨害もいいところだろう。規制テープの外側で制服のデザインが違う警備員やスーツ姿の人々がそれぞれに連絡を取っている。
その時、現場付近のロープの向こうからスーツ姿の刑事二人を引き連れ、白い手袋を嵌めた長身の桜庭警部補が我々の方へと向かってくるのを見た私は、即座に警戒した。テキパキと刑事や警官達に指示している姿は手慣れたもので、こうした緊迫した現場の指揮にも通じている様子なのは明らかだった。
かなりの長身で西園寺に負けず劣らず痩せてはいるが、がっしりとしたモデルのような体格をした男だ。175㎝の私を基準に少し上の西園寺よりも背が高いから身長は182㎝ほどか。記者という職業柄、警察と接する機会は多いが先ほど突き飛ばされた手前、警察関係者でも私が最も苦手な強引で乱暴な印象の男である。銀縁メガネの奥の、垂れ目がちだが冷たい雰囲気のする目で不審感たっぷりといった様子で彼は私を一瞥すると西園寺へと向き直った。
「西園寺、本庁の捜査一課が間もなく到着する。捜査本部はウチに置かれることになった。今さらだが事件の関係者として、お前にも幾つか確認させてもらうぞ」
桜庭の低いが有無を言わせぬ威圧的な口調に、西園寺が即座に噛みついた。
「おい、何でそうなるんだよ。ここは丸の内で丸の内警察署の管轄で起きた事件だろうが!」
「違う。住所の上では千代田区丸の内で通称ヤエチカこと八重洲地下街だが、地図上では現場は中央区の管轄なんだ。お前の知り合いは厄介な場所で事件を起こしてくれたもんだな!」
「チッ! 美波がやったって証拠は…」
「目撃者がいる。それも何人もな! 何から何まで呆れた事件だが、起こった事は単純だ。身障者の女がトイレに車椅子を遺棄して、衆人環視の真っ只中で知り合いでも何でもない中年の男を隠し持っていた鋭利なナイフでいきなり首筋を切りつけ、殺害した。
女子トイレに入る前後にあの女に何があったか知らないが、相当な癇癪持ちだな。自制の効かない狂人による凶悪にして痙攣的な衝動殺人だと断言できる。現場その他の状況証拠だけでも立件出来る。
現場の線引きを明確にするなら、あの現場はウチの管轄だ。悪いが現逮した以上はカンドリはウチで受け持つ。ジドリ以外で丸警の出番などない。況してやお前が容疑者の知り合いだというのなら尚更だ」
略語と専門用語が出てきたが、ジドリとは地取り捜査のことだろう。事件現場周辺で刑事や警官達が聞き込みをすることを指す。対象地域を決めて、捜査員が2人1組で行うことが多い。
カンドリは鑑取りで、こちらは事件などが発生した際に、容疑者や被害者の関係筋を辿って聞き込みをする事を指す警察用語だったはずだ。近年は都市部を中心に防犯カメラが普及しているため、初動捜査では防犯カメラ映像の収集に特に力を入れている。おそらく、そちらの捜査には銀座中央署の人員が割かれるだろう。
つまり美波を現行犯逮捕した銀座中央署に捜査本部が置かれた以上、今後は被疑者に密接に関わった捜査をする主要な権限は、彼らに与えられたということだろう。西園寺は不快感を顕に桜庭に詰め寄った。
「足手まといになるってか? ハッ! こいつは何の冗談だ? 手柄なんぞに興味ねぇし縄張り争いをしたいわけでもねぇが、まさか、この殺人事件は銀座中央署の捜査1課が…お前らが主導で受け持つってのかよ?」
「そのまさかだ。お前、まさか天下の丸の内の管轄にいる警部補の癖に、このグランルーフフロントって場所が千代田区と中央区の境界にあることを知らないわけじゃないだろう? この特殊な場所で事件が起こるということが、どういうことかも解っているはずだな」
「ンな今さらなことは言われなくってもわかってんだよ。随分とお前らに都合のいい話じゃねぇかって言ってるんだよ。
…仮に美波が犯人だとしてだぜ、犯行としちゃ余りにお粗末で突然過ぎねぇか? アイツは確かにアホだが、考えなしにいきなり犯行に及ぶようなことはしない。お前は痙攣的な衝動殺人と切って捨てたが、アイツに見知らぬ男をいきなり殺すような動機なんざねぇだろうが。そもそもが計画性の余地がある犯行の可能性だって大だって言ってるんだよ」
「手回しが杜撰過ぎると? ついでに俺の根回しまで手際が良すぎるとでも言いたげだな」
「おおよ、俺としちゃ警察と美波。身内の両方を疑いたくはねぇんだがな。
…考えてもみろよ。即席ですぐさま、こんな立派な厳戒態勢がすぐに張れる状況、それ自体がおかしいだろ。いくらこの場所がやんごとなき方々がいらっしゃる特殊な場所でも、この平和な大都会東京の日曜日の真っ只中じゃ、そうそうねぇ出来事のはずだがな」
「それだけ迅速で慎重な対応が求められている事件だという状況は分かっているようだな。
ならばそれこそ答える義務はない。この事件とは無関係の別件の捜査とだけ言っておこう。そうした意味では、お前らはウチに感謝するべきじゃないのか? 危険な犯罪者による被害が警察関係者一人の命で最小限に抑えられたんだからな」
「警察関係者? 被害者はスーツ姿だったよな? 刑事なのか。へっ! 情報ありがとよ。その別件がどんな事件で、なぜ美波がマークされなきゃいけないのか、現時点でお前は身内の俺にすら説明してくれる気はなさそうだな」
「そういうことだ。目下、鋭意捜査中だ」
「ケッ! 俺も普段から使ってる科白だが、面と向かって言われるとやたら便利でムカつくもんだな。だが、美波が第一容疑者だとしても、アイツは俺達のダチでもある。
確かにアイツが片桐財閥の令嬢だったってのは偶然にしても出来すぎだけどな。お前らにとっちゃ被害者も容疑者の情報も、両方とも守秘義務で極秘事項なんだろうが、捜査する俺には少なくとも関連した事件も含めて知る権利はあるはずだぜ」
「まったく必要性を感じないな。管轄内で起こった出来事の情報をいちいちお前に説明したところで、別件の捜査の進展に寄与するとは思えん。無駄なことはしない主義だ」
「ふん、そもそも、お前はなぜ美波を追っていた? 喫煙所じゃ何一つ教えてくれなかったな。明らかに堅気じゃねぇような連中が、これまた都合よくスーツ姿で、おまけに警察だってバレねぇように日曜日の地下街のあちこちに配置されてた涙ぐましい努力の理由をまず聞かせるのは筋じゃねぇのか。必要な情報の公開は必須事項だ。責任者なら解れよ、そのぐらい」
「それも今、説明する必要はない。容疑者の片桐美波は疑われるだけの理由があるからマークされていただけのことだ。もちろん、捜査資料なら後でいくらでも送ってやる。同期のよしみだ。そちらが捜査協力するというのなら、こちらも協力は惜しまない」
「協力…? 共有はできないかもってことか?
…なぁ桜庭、冗談や皮肉や腹芸なんかいらねぇんだよ。この事件はそういった意味じゃ、何から何まで臭ぇぞ? 片桐財閥に配慮しての政治的な判断ってやつがいくらかでも警視庁に働いてるんだろうってのは想像つくが、そもそも、あのいきなり現れた訳のわからねぇ刺殺死体が刑事だっていうのなら、どこの所属だ? 何の捜査をしていた? 被害者の身元もそうだが、目撃者全員にまず裏を取らねぇことには…」
「越権行為だぞ、西園寺。キャリア同士で今は余計な悶着を起こすつもりなど俺にはない」
そう言って桜庭警部補は西園寺の言葉を中途で遮ると、険しい眉間にあからさまに皺を寄せて私をチラリと一瞥した。睨みつけたと言った方が正確だろうか。既に私がどういう素性の人間か知っていると考えた方がよさそうだ。マスコミの人間を前に迂闊な発言はできないということか。
既にフリージャーナリストの風祭まで現場にいたのだ。先ほどからの大騒ぎで既に周辺にはマスメディアの関係者だって大勢来ていることだろう。現場の責任者にとっては、関わっている人間達の動向は余さずチェックしておかなければならないということだろうか。いずれにせよ冷静で狡猾というよりない。
「チッ…捜査協力はもちろんする。お前の独断専行の感は拭えねぇが、こちらも捜査員の増援がてら応援は呼ぶぜ。かまわねぇよな?」
もうこれ以上話すことはできないと判断したのか、懐からスマートフォンを取り出した西園寺は桜庭を無視して通りすぎた。
西園寺、と桜庭はすれ違い様、やや大きめの声で言った。西園寺は彼と背中越しになる形で立ち止まった。
「わかっているだろうが、身内に警察官がいようが財閥令嬢という社会的な立場があろうが、たとえ身障者だろうが、あの被疑者には何一つ有利にはならない。片桐美波は緊急逮捕の上での拘束だ。
これは政治的な判断でそうしている訳ではなく決して覆らない事実だからだ。容疑者の移送が終わり次第、お前達にもすぐに事情を聞かせてもらう。それまで、せいぜい西園寺警部補には現場のイチ捜査員として情報収集に貢献してもらおう」
西園寺が僅かに振り返って言った。
「桜庭よ、お前は本当に変わらねぇな。いつだって強く正しいさ。だが、人に優しくねぇ。
人間ってのは本当に馬鹿で弱っちくてよ、取り返しのつかねぇことになって始めて命の重さと事の重大さに気づいて取り乱すんだ。だからこそ俺達は厳格な法の上に立って、弱いそいつらに寄り添わなきゃならねぇんだよ。警官だって犯罪者だって、同じ弱い人間なんだぜ。人間はそもそもが間違いを犯しちまう愚かで脆い生き物なんだよ」
「西園寺、お前も変わらないな。誇り高いだけで非情になれない甘ったれた理想主義者だ。忠告しておいてやる。その甘さはいつか致命的な命取りになってお前自身に返ってくるぞ。
…いいか? 今までのお前達はただ運がよかっただけだ。俺達が守るべき民間人達は今回のように、いつだって嘘のように掌を返す。身内に狂犬とまで呼ばれている、お前なら知らない訳じゃあるまい」
西園寺和也と桜庭。二人のキャリアは互いに相手に向き直ると、臆することなく相手を睨み据えたまま対峙した。冷たい目をソフト帽の下に隠した西園寺は毅然として答えた。
「ああ、うんざりするほど知ってるさ! 弱さ故に間違いを冒すような、そんな馬鹿な奴らだからこそ、時には殴って、叱りつけてでも目を覚まさせてやらなきゃならねぇってことはな」
「見解の相違だな。去年の犯罪白書の刑法犯の再犯率の高さを知っているか? 出所から5年以内に犯罪者が刑務所に戻る確率は、覚醒剤が49.4%、窃盗は45.7%。傷害や暴行は36.1%に達するそうだ。 強姦・強制わいせつ(24.1%)や殺人(10.3%)という凶悪犯罪でも1~2割は必ず刑務所に戻ってくる。
…いいか、人は何も学ばないんだ。いつでも、どこでも、何度でも罪を犯す。誰だって罪を重ねる。それも次から次にな! 犯罪者に容赦などいらん。右から左に捌いて己の手柄にして上へと登り詰めることの何が悪い。お前のような温いやり方じゃ、腐った身内や世の中の仕組みなんか何一つ変えられやしないんだよ!」
「厳格な法や服務規程に縛られるのは、警官なら当たり前だ! ひたすら手柄を立てたがる完璧主義者のその強さと正しさと強引さの一辺倒じゃ、犯罪者を殴ることや追いつめることはできても、弱い奴らの気持ちなんか何も解ってやれない。事件が容疑者と被害者だけで成り立ってるとでも思ってるのか? お前のやり方じゃ誰一人守れやしねぇし、信頼も感謝もされない」
「刑事なら余計な人間性など捨てろ。情けなど無用だ。税金を払っているから誰かが守ってくれると頑なに信じ、誰かが守ってくれる安全という名の幻想にぶら下がって胡座をかいて喚いているような市民達など、どうせ結果しか俺達に求めていない。検挙率こそが俺達の唯一無二の結果であり存在価値の全てだ」
桜庭は掌で表情を覆い隠すようにして銀縁の眼鏡を押し上げて続けた。
「犯罪者は獣と同じだ。決して赦してはならないんだ。檻に入れて糾弾され、社会から爪弾きにして断罪されるべき存在だ。俺達は法で縛られているからこそ強権を与えられ、奴らを狩らなければならないんだ。
人は裏切る。平気で嘘をつく。相手が弱いと思えば一瞬で裏返って強盗や人殺しにだって変わる。ここが日本でよかったな、西園寺。アメリカなら俺はさっき躊躇わずにあの女の眉間に引き金を引いていたはずだ。
…いいか? 人を殺める恐ろしい獣は人間じゃない。命知らずにも人として扱っていたのでは、奴らの犠牲者が際限なく増えるだけだ。誇りと魂とやらで人は救えるようにはできていない」
「哀れな野郎だ…。容疑者は絶対の悪。何がなんでも許さねぇって奴らはよ、きっと誰一人孤独な連中を救えもせず、癒すことも赦すこともできねぇ奴らなんだろうな。何でもかんでも自己責任の一言で片付けちまう。
ひたすら他人の痛みに無関心な、孤独で憐れなそんな奴らの行く先の道がどこに続いているか、想像したことはあるか?
…これだけは言っておいてやる。お前が振りかざしてるのは、正義じゃない。臆病者が武器を手にして強がってるだけなんだよ」
大袈裟でもなく、それは今にも命のやり取りさえ行われそうな緊迫した邂逅だった。刑事二人が争い合う状況は既にして異常であり、非日常の真っ只中だ。互いに相容れぬ矜持を携えた法の番人たる刑事。二人の狩人達は決して相手から視線を外さず、相手の一挙手一投足を油断なく窺っているように感じた。
ピンと張り詰めた空気に息苦しささえ覚える。私は反目し合う西園寺と桜庭の価値観の違いを目の当たりにしていた。警察は縄張り意識が強い組織だと言われる。実際警察には各都道府県警や所轄署ごとに、それぞれ管轄区域が設けられており、別の管轄の事件に首を突っ込むことは御法度とされている。
“交通違反でパトカーに追いかけられていても、県境を越えれば警察は追ってこない”などという嘘か真か判断しかねる噂も、こうした警察独自の縄張り意識から生まれたものと言えるだろう。もっとも、いくら縄張りがあるとはいえ、本当に県境でパトカーがピタリと追跡を諦めるなどということはない。というのも、どの警察が捜査を行うかは“事件の起きた場所”で決まるからだ。
たとえば東京都で発生した事件の被害者が、神奈川県に住んでいたとする。この場合事件を捜査するのは東京都の警視庁になる。したがって、被疑者を逮捕するために、警視庁の刑事が神奈川県へ出向いて捜査しても何の問題もない。つまり、自分たちの管轄で発生した事件であれば、県を跨いで自由に捜査することができるというわけだ。
ただし、実際に捜査するとなると、土地勘のある人間の協力があれば効率がいいのは確かだ。そのため、捜査協力という形でその区域を管轄する所轄の警察署の担当部署に情報などの提供を依頼する、というのが一般的らしい。警視庁を“本店”、所轄の地方警察を“支店”などと警察官ですら呼ぶのはそういう理由による。
こういうと縄張り争いなどなさそうと思うかもしれないが、問題となるのは複数の県にまたがって犯罪が発生した場合だ。こうなると、どこが捜査の主導権を握るかで、各都道府県警による綱引きが行われる。事件が重大であるほど、解決に導けば「お手柄」となるだけに、こうした主導権争いはより熾烈なものになりがちだ。どの警察も「自分たちがホシを挙げたい」という思いは一緒なのだ。
また、事件の種類によっては、都道府県間だけでなく警察の部署間による綱引きも発生する。有名なオウム真理教の事件では、地下鉄サリン事件の発生した警視庁と教団本部のあった山梨県警だけでなく、刑事部と公安部による綱引きも事実あったのだそうである。
もちろん、ひとたび捜査が始まれば、団結して捜査に当たるのは当然のことだ。たとえ不満があっても、犯人逮捕という目的のためなら協力を惜しまないというのが、現場の捜査員たちの偽らざる本心ではないのだろうか。西園寺と桜庭には余人には計り知れない因縁があるように思える。
「ふっ…捜査員達には期待してる。俺をがっかりさせてくれるなよ、西園寺警部補」
「へっ…そういうテメェはせいぜい足元を掬われるなよ、桜庭大介」
桜庭は西園寺に一瞥すると、背中を向けて遠ざかっていった。
待てよ。桜庭大介…? あの刑事は桜庭大介というのがフルネームなのか? 私はその名前に思わず口許を手で覆っていた。その名前に聞き覚えがあっただけでなく、彼の素性について気づいたことがあった。私は思わず西園寺に近づいて問いかけていた。
「西園寺…あの桜庭って人。いつか君が…そう、この間の事件の後で松岡さん達と美波さんとで打ち上げした時だよ。君がめずらしく酔ってた時に愚痴ってた…。
桜庭大介って確か、あの人って元々公安にいた刑事じゃなかった? 確か捜査一課の配属になったのはつい最近で、元々の担当は外事第二課で…」
警視庁公安部外事第二課は主に中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国の工作活動、戦略物資の不正輸出などを捜査対象とする部署だ。そんな人間が休日の八重洲地下街にいる…? 一体、何の捜査をしていたというのだ?
「ちっ…物覚えがいいな、お前も。酒の席で警察の身内のことをベラベラと愚痴っちまった俺が言うのもなんだけどな…。
ああ、あの桜庭だよ。桜庭大介…。俺と同期の警察キャリアだ。ついでに研修でL.Aに渡米した時にも一緒だった奴だよ。アイツの言動見てりゃ分かるだろう? 強引な捜査で民間人にも容赦しねぇし、事件に巻き込まれた被害者のことなんざ歯牙にもかけねぇ手柄第一主義の男さ。
何かデカい山を捜査する為に出向中の身なんじゃねぇかって聞いたから協力を持ちかけてみたら、邪険に扱ってくれる始末でな! 見ての通り、陽気な俺様は秘密主義で陰気なムッツリ野郎とは、とことんウマが合わなくてよ!」
「西園寺、まさかとは思うけど、この事件の被害者って公安の刑事なんじゃ…。いや、でもまさかそんなことが…」
「俺もたった今、それを疑ってたぜ…。殺されたのは警察関係者とか言ってたよな。公安の刑事が事件の被害者だってのなら、話は随分と違ってくるぜ。奴がマークしてた人間が美波だってのか? わからねぇ。ますます訳がわからねぇ…」
その時だった。
「うわっ…グロっ…! これってさ、さすがにホラー映像…だよね?」
「ヤバくねぇ? これ…。普通はアクセス禁止だぜ。殺った奴も撮ってた奴も揃ってイカレてる!」
「これってさ、スナッフ動画ってヤツ? いいの? こんなの大勢の人目に晒して…」
事情聴取を受けようと、それぞれがバラバラに呼び出しを待っている状態だった私の耳にそんな声が聞こえてきた。
「あの、どうしたんですか?」
「あ、いや…あの…アンタ、誰…?」
「あっ! 失礼しました。『週刊実録犯罪』編集部の東城達也といいます。事件を取材してて…。あの、今しがたスナッフ動画って聞こえましたけど、何か先ほどの事件に関係あることでも…?」
私は早々に自分の身分や氏素性を明かした。真っ当な週刊誌のように見えて、ゴシップ記事を平気で扱うこともある。あまり誉められたことではないのだが、大概の人はこれで口が軽くなるという打算があってのことだ。まだ学生風の三人は目を丸くした。
「アンタ、記者だったのかよ? いやね、さっきからやることないから、コイツらとリアルタイムの事件のニュースとか見てたのよ。そしたらSNSで早くも出回ってんだよ。事件の決定的な瞬間ってヤツ」
「なんか、“神狩ちなみ”って名前と“片桐財閥”がトレンドワードに入ってるっスよ」
「もうバズってるぜ! 凄ぇ! 片桐財閥のお嬢様が人殺しとかマジかよ!」
「大型掲示板とか見てみようぜ。なぁ、俺ら実況とかできんじゃね?」
言うが早いか、彼らが全てを言い終わる前に私は既にスマートフォンで検索していた。
昨今のSNSやネット検索にはトレンドワードという機能がある。世の中の変化によって今話題になっているキーワードのことでWEB業界では“トレンドキーワード”と呼ぶこともある。
最悪だ! 瞬間、私の全身から何かが抜けていくような感覚だった。やられた!
決定的瞬間! 八重洲地下街で“神狩ちなみ”こと元モデル“片桐美波”容疑者を逮捕。
動画を配信して、拡散している人物が既に複数いるようだが、Twitterで検索してみるとすぐにヒットした。私がフォローしている人物が配信していたのだ。アカウント名は“JUNYA”。相当な数の人間が既にフォローしている。
動画は複数アップロードされていた。先ほど私が見た光景と同じものも、角度を変えた別の動画映像になって撮し出されていた。この場所は、先ほど私がいた場所から近い。決定的かどうかはわからないが、血塗れの人間が徐々にアップになり、はっきりと映っている。
私は顔面の血の気が引いていくと同時に、直ぐさま駆け出していた。
「おい、東城。待てって! どこに行くんだよ! すぐにでも事情聴取が始まるぞ!」
「ごめん! こんなことをした人間に心当たりがあるんだ! 美波さんの為だ。確かめてくる!」
「チッ、長くは引き延ばせねぇぞ。俺の方も応援を呼ぶから、なるべく早く戻れ」
「わかった! すぐ近くにいるから、何かあれば連絡して!」
この騒ぎの出所は明らかだった。あの時の騒ぎになった現場の状況がリアルタイムで付近から撮影されていたのだ。美波を傷つける、心ない忌まわしき言葉の数々が事件から一時間と経たずに既に拡散されていることに私は猛烈に苛立った。髪の毛が逆立つような怒りと沸々と滾る暴力的な言葉を吐きたくなる衝動を私は必死で堪えた。理性的にならねばならないと思いはしたが、我慢できなかった。
言葉は時として凶器になり、悪意にまみれたナイフは人の心に突き刺さり、抉る。私はその恐ろしさをよく知っている。まるでゲーム感覚に手軽に使えるスマートフォンの普及と共に、現代人はSNSの言葉をあまりに軽く扱い過ぎている。
無自覚で無責任に呟かれ、吐き出される残酷な言葉の数々には、歯止めが利かない。これは即ち人間の内側にはまぎれもなく暴力衝動や狂気や破壊願望がある何よりの証明でもある。美波の無実を信じたい一方で、私は怒りで己の頭が真っ白になるような感覚を覚えていた。相手をナイフで抉る殺人者なら言葉で抉られて当然だとでもいうのか。まだ容疑者の段階なのだ。そんな馬鹿な話があるものか!
私の予想は中っていた。あの時の状況を具に撮影できた人間は、その後に警察によって現場が即座に封鎖されることまで予想していたはずなのだ。その人物ならどうするだろう? きっと間近で騒動の渦中にいようとするだろう。その人物。
“JUNYA”ことフリーライターの風祭純也は、怒りに震える私の視線など歯牙にもかけずにスマートフォン片手にコーヒーを啜っていた。事件の騒ぎの影響か、店内に他の客はいなかった。
「なぜ美波さんの顔や名前や個人情報が今の段階で晒されているんです! これじゃ、いじめのニュースと同じじゃないですか! 世間の好奇心に応えるためですか? こんなに早く彼女を晒し者にして一体、どういうつもりですか?」
私は彼の傍らに立つと事の経緯や前後を無視して開口一番にまくし立てていた。自然と声まで荒くなる自分を抑えられなかった。彼は悠然と余裕のある態度で私を見上げた。余裕綽々といったその態度が私の最悪な予想を裏付けていた。こうなることは予め予想していたとでもいったような様子だ。
「騒々しいな、東城。少しは周りの目を気にしたらどうなんだ。まぁ座れよ。
…ジャーナリストはいつだってクールに。感情的にならず、ただカメラを構えるように、あらゆる角度から物事を見ろ。自分のファインダーに事実だけを撮れ。ありのままを見て、記事を書くのはそれからだとそう教えたはずだがな」
「生憎、そんな暇はありませんね。僕のカメラは今、あなたを捉えている。スクープに必要なものは集中力だと教えてくれたのはあなただ。
…どうなんですか、風祭さん。他人の空似どころか、あなたは美波さんの過去や背景を既に知っていたんじゃありませんか? だからこそ、つい先ほど根掘り葉掘り僕に尋ねたんでしょう。
彼女があの財界の黒幕とも言われた片桐財閥の長、片桐清史郎の孫で元ファッションモデルで芸能界にいただなんて情報、僕だって今日まで知りませんでしたよ。何も知らない世間の人達だってそうです。誰にだって隠したい過去がある昔の話なら、彼女のプライバシーには配慮するべきでしょう。
裏を取ってはいませんが、あなたの情報では八年も前だ。現在の彼女を知りもしないで、よくこんなことが出来ますね。
…答えてください、風祭さん。なぜ、こんなにも早く、被害者どころか美波さんの個人情報まで世間に流す必要があったんですか?」
「なぜだって? ふん、何を今さら…。個人情報保護法は生きた人間にしか適用されないルールだからさ。被疑者が誰で、何者なのかも、みんなが挙って知りたい情報だろうに。
高校時代に謎の失踪を遂げた金の卵の財閥令嬢。パリコレのランウェイさえ夢ではないといわれた女が一転して稀代の犯罪者だぞ?
死んだ被害者と糾弾されるべき憎き加害者である容疑者に、その個人情報保護法とやらは適用されるのか?
…生憎だったな。加害者も容疑者も、どちらもこの国じゃ一緒なんだよ。馬鹿高い給料を貰ってチヤホヤされる芸能人なんぞ、騒がれるくらい有名税のうちだ。下衆な大衆は芸能人を時に羨み神格化もするが、逆に奈落に落っこちてくれた方が楽しいし痛快だとも思ってるさ。
俺はお前の方が信じられないね。今、目の前に世間の知りたいがある。こんな大スクープをみすみす逃す必要があるのか?」
その言葉に、私は全身から力が抜けたような思いだった。内心の絶望にうちひしがれた気分で私は小さなテーブル席にいる彼の正面に座った。いくら他に客の姿はないとはいえ、さすがに店内で大っぴらにトラブルは不味い。これ以上の騒ぎは控えなければ。
所在をなくした様子で突っ立っていた傍らの店員にホットコーヒーを、とだけ告げて私は一先ず呼吸を整える。絶望と失望が入り交じった声で私は彼に言った。
「否定…しないんですね。風祭さん、信じたくなかったです。あなたが赤の他人を平気で売るような人だなんて…」
「赤の他人だからだよ。東城、死んだ人間の死体を散々蹂躙するような狂った国のマスメディアにいながら、お前もSNSでマナーやモラルやルールやメディア倫理のあるべき姿を人様に説いて回りたいクチか? 無駄な説法はやめておけ。
愚かな大衆は一個人の発する考え方や価値観に“いいね”なんて押してくれないし、動画のチャンネル登録だってしてくれない。ましてメディアの記者なら尚更だ。今、マスメディアと呼ばれる人間達は、この国では人を食い物にする最底辺の人種と思われている。発言には気をつけるんだな。いいだけ叩かれるだけだぞ?」
「メディア倫理の是非についてあなたと今、この場で議論したいわけじゃない。なぜ、芸能界にいて、お金持ちの美波さんなら晒されて当然だとでもいうような流れになるんですか!? おかしいでしょう」
「あのな、東城。奇麗事だけで飯が食っていけるのか? お前だって、マスメディアの記者で特ダネを挙げたことがある以上、そんな人間の一人なんだよ。俺もお前も同じ穴の狢だろう。それに勘違いするな。
スポンサー様の意向は最大限に尊重し、公共の利益の為に情報を読者や視聴者に提供するのがマスメディアの仕事だ。記者に必要なのは売れた部数だ。報道番組なら視聴率だ。話題性が全てだ。人々の関心という形のないものを売る。それ以上でもそれ以下でもない。俺は昔、お前に言ったはずだぞ。俺達は情報を売り物にしているんだってことを忘れるな、とな」
「あなたはこうも言いましたよ。どこまでも己の納得のいく真実を求めて駆け回るのが記者の仕事。読者に一生懸命な姿は必ず伝わると。
…敢えて言います、風祭さん。全盛期のあなたなら、最初からこんな偏った記事を公にするようなことはしなかった! 加害者と被害者の双方に寄らず、物事の真贋を見分ける為に事件の経緯と真実の在処の方を追い掛けて取材したはずだ。僕の尊敬する風祭さんは、一体どこへ行ってしまったんですか?」
「言ったか? 忘れちまったな、そんな昔のことは…。ふっ…東城、お前の弱点は変わらないな。俺の全盛期だと? 散々俺の世話になっておきながら無礼な男になったな、お前も。
俺は落ちぶれてなんかいない。全盛期というなら、今が俺の全盛期だ。お前はスクープが目の前に転がっていながら、それを見逃していたんだ。俺は世間の目を一瞬で引くスクープをモノにした。これから俺に入ってくる金の話でもするか? フォロワーの数が俺の優秀さを証明するはずだ。現実の数字ってやつが全てを物語る。覚えておけ、これが格の違いってやつだ」
「こんな状況下でスクープ? 話題性だけを追いかけて読者を煽動して、疑わしい人間を追い詰めることが正しいことだと?」
「そうさ、正しければいいんだ。血に狂った人殺しを社会的に抹殺して何が悪いんだ?
フリーの仕事もいいもんだぞ、東城。情だの倫理だのコンプライアンスだのと会社組織の余計な柵に惑わされずに済む。俺はな、東城。そんな他人の顔色を窺い、他人の後追いしかできないくだらない環境が嫌でフリーになったんだ。スクープを独占して会社で共有し、世間的な評価が上がったとして、俺達に直接、金が入ってくるのか? 決まった給料と他人の評価と社内の地位だの名誉だので俺の腹は満たされない。それだけのことだ」
「汚いです…。こんなの最低だ。誇りも信念もない。あなたがしたことは、結果がどうなるか知っていながら、狼の群れに生きた人間を投げ込んだのと同じだ。寄って集って美波さんが食い物にされることを何とも思っていないんだ。
…いや、知っていながらやったんだ。僕はそれが許せない。
己の悪意を正当化して正義だと疑わない。他人の不幸に無頓着な最低の悪だ。軽蔑しますよ。やり過ぎです。あなた達が無抵抗だと思っているサンドバッグは血の通った人間なんですよ? やり方がえげつないです、風祭さん…」
「そうだよ、汚いだろう? 正当化? ああ、するさ。この国では、視聴者が知りたいという情報こそが絶対なんだよ。叩きたいサンドバッグが目の前に転がっていたらリンチだってするさ。なぜ、こんなことがいつまで経ってもなくならないのかって? なくなるわけないだろうが!
加害者と被害者、その両方の情報を、何も知らない顔の見えない大衆が求めているからさ。
…現場を見ただろう? 皆が写真を撮っていただろう? 目の前で人が飛び降りても、子供が目の前で溺れていても、誰かが車に牽かれても、その場にいたら嬉々として彼らは同じことをするだろうさ。彼らは新聞記者でも報道カメラマンでもないのにだぞ? やりたい放題さ!
個人情報の保護なんて言っておきながら、実際はこんなものさ。そこにルールなんか何一つ敷いていないからさ。人混みでごった返す、この都会の地下街と同じさ。邪魔だと思ったら、人をゴミか障害物としか思わない。同調圧力が暴力になるだなんて彼らは少しも思っていないのさ。無自覚で愚かな大衆は、その場が面白ければいいんだ。話題になればそれでいいのさ」
「デマや誤った情報が拡散して人を追い詰め、死なせることだってあるんですよ! 何も知らない人々がデマや捏造を信じて拡散されたなら、どうなります? 彼らは冤罪だとしても責任をとれない。人が死んだ頃には、もう手遅れだ。僕らはメディアであり、ジャーナリストです。自覚と責任なき言葉が人を殺すことの狂気と残酷さを誰よりも糾弾し、訴え続けなければならない側なんです!
無責任な人々が発した無責任な言葉は声高に反響します。煽動する者達が無責任なスピーカーで煽り、血の通った一人の人間を不特定多数の人間が寄って集って面白おかしく囃したて、乗しかかり、押し潰す。話題になれば、さらに無限の言葉の刃が作り出される。
言葉は凶器なんです。無数に誰かに刺さる凶器を無限に作り出すことだってできるんです。
最近の調査では、SNSで“死ね”だの“殺す”だのといったネガティブな発言をする層は若者や未成年が最も多いそうですよ。正しければ何を言っても許されると子供に刃物を握らせようとする、そうしたメディアリテラシーを無視したフェイクが意図的に行われたなら、それはもはや犯罪だ。何をどう糾弾されても仕方がない。
…それを解った上でやったというんですね?」
「ああ。殺人犯だと分かっている人間に配慮などしないさ。お前こそ、自分が今や時代遅れの人間だと感じないのか? 誰もがカメラ付きの端末を当たり前のように持っていてリアルタイムで動画を配信したり文字で実況さえできているこの時代、今は誰もが事件記者であり、誰もがマスメディアなんだ。今、ここが、悲劇のグラウンドゼロだ。ライブ中継がもっともホットな手段なら、皆そうすればいいのさ。
誰もがフォロワーという数字の為、自分が話題の中心を作り出したいと思っているのさ。これがこの国の、今の、リアルなんだよ! 一般市民でさえも、今や知る権利をいいだけ振り翳す。金を得る理由にだってなる。誰かの為になるだろうと思うからやっているんだ。
誰かが死んでからピーピー喚く視聴者様という顔のない化け物共はな、スポンサーであり、消費者でもあり、フォロワーでもあるからさ。彼らが求めているという需要に俺達は応えているだけだ。昭和の偉大な歌手が言っただろう、お客様は神様だ。今さらだろう」
「だからって何を書いてもいいということにはならないでしょう! 何度でも言いますよ、風祭さん。言葉は凶器だ。あなたのように、お客様は神様だなどと平気で発言者の真意を曲解して伝えるクレーマーだって生み出す。
本来は聴衆を神様に見立て、神前に参るような気持ちで声高らかに感謝を込めて歌い上げよう。そうした心持ちで、その偉大な歌手は言ったのです。祝福を呪いにさえ変える。これが言葉という僕達の持つ文化であり、人間だけに与えられた特殊な能力だ。
だからこそ認め、自覚しなきゃいけないんです。僕達は獣じゃない! 誰もが弱く、打たれ弱い血の通った人間だということを!
呪いの言葉を吐き続ける方がより人間らしいというのなら、それは己の内に眠る暗闇に気づけていないんです。それは最後には自らを傷つけ、追い詰め、自滅させてしまう狂気という名の獣の病です。金に狂った者達が呪詛の言葉で人を傷つけ、殺めていい訳がない!」
「ふん、奇麗事を言うなよ。SNSや巨大掲示板で好き勝手にほざく奴らの言葉を見てみろ。
言葉のナイフで他人を滅多刺しなんて今やめずらしくもないだろう。いちいち死んだ人間に配慮した発言なんかするか? 疲れたという遺書を残して社会をドロップアウトして自殺した人間に同情でもするのか? 今度はいじめた奴らや荷担した奴らを、逆に滅多刺しにでもして憂さを晴らすか?
世間の奴らなんて、いつだって、いい加減で勝手なものさ。いいだけ騒いでるのだって最初のうちだけ。新しい玩具を見つけたら、どうせ飽きてボロボロにして捨てるだけのことだ。
被害者に対する同情だの憐憫の情なんてそんな金にならないものはな、俺達は必要としないんだよ。政治、経済、芸能、科学、IT。世間には次から次へと話題が転がる。人は熱しやすく冷めやすい。すぐに忘れて好きなことだけやって、他人の不幸なんか目を閉じ、高尚な意見には耳を塞ぐ。そんな三歩歩けばすぐに忘れる世間の鳥頭共を相手に、俺達は情報を売り物にしているんだよ。
…いいか、結果なんて必要ないんだ。落ちるところに落ちるだけだ。彼らの最終的な落としどころに落ちるように書けばそれで終わりだ。真実なんかどこにもない。陳腐な社会正義で終わるなら、それだけでいいのさ。何も変わらない。誰も変えられない。そして、これからも何一つ変わることはないんだよ」
なぜ、こんなことになったのだ。たった一年で人間はここまで変わってしまうものなのか。失望と絶望と人の持つ暗闇に暗澹とした心持ちで私は言った。
「本当にあなたは変わってしまった…。世の中で最も危ない思想は悪ではなく正義と無責任です。悪には罪悪感が付いてまわるけど、正義にはそれがない。歯止めも効かない。皆、正義という大義名分さえあれば徹底的に相手を痛めつけてもいいとさえ思っている。相手が再起不能になるまで追い詰める。
追い詰められた人の側に立てない人達は、神にでもなったつもりですか? けっして失敗や間違いなど犯さないと言えるんですか? 己が安全な場所からナイフを投げつけている卑怯者の一人だと自覚していますか?
人が最も残酷になれるのは悪に染まった時ではありません。自分が正義の側に立ったという時に人は箍が外れ、加虐のブレーキが壊れる。あなたのように、はき違えた正義と、それを煽動する人間が最も危険な悪です」
「ふん、ご立派なことだな、東城。
…いいか、犯罪はいけないことです。個人情報は大事ですなどと遵法者ぶっているが、実際のところはどうだ? お前は何も知らない彼らの好奇心に寄り添ったことはあるのか? 鬱屈としたストレスを抱えている彼らの言い分やフラストレーションを、ほんの少しでも和らげてやるような痛快な望みを一度でも叶えてやれたのか?
彼らの望みは分かるだろう? 被害者の情報が知りたい。被疑者の情報が知りたい。容疑者を訳知り顔で叩きたい、だ。勝手だよな? 今のお前がいい例だ。自分の身に降りかからなきゃ、何も解るものか。解る訳がないんだよ。誰が死のうが苦しもうが、他人なんだから知ったこっちゃないんだよ。有象無象の一人である他人である自分には、関係のないことなんだからな」
「関係ないから、どう叩いてもいいというんですか? 相手が女性でも、身障者であってもですか? 元モデルで元芸能人で、おまけに金持ちならサンドバッグにちょうどいいと?」
「そうだ。鉄は熱いうちに打て。善は急げ。情報はナマモノなんだ。リアルタイムで新鮮なほどいい。何せ金になるんだからな。国営放送ですらスクランブル化や電波オークションが叫ばれている世の中だが、情報が売り物なのは変わらない。売り物の命は鮮度だ。速報性がなければ陳列すらされない。同じ情報では売れないんだよ。その中でも個人情報ってのは最高だ。特に読者や視聴者の食いつきがいい。寄せ餌に持ってこいの素材なんだよ」
「個人情報を晒して被疑者を追い込むこと、それ自体が情報による集団リンチを助長する犯罪行為だったとしてもですか? 」
「そうさ。晒してやればいいんだ。自分の正義は正しいと信じて、皆で個人情報が剥き出しにされた被害者の死体や加害者である容疑者をスッポンポンの丸裸にして、いいだけ蹂躙すればいいだけだろう。皆していることさ。何を気に病む必要もない。やったもの勝ちさ。
同じ醜いハイエナ同士なら仲良く皆で獲物を食い漁ればいいだろ。ハイエナは腐った肉を好んで食うが、人間は勝手なものだよなぁ? 新鮮な肉じゃなきゃ食わないんだよ。ケダモノなのさ。醜いだろう? 下品だろう? グロテスクな生き物だろう? けどな、それが人間だ。それが世間って化け物の正体さ。こっちはその化け物共の腹を満たしてやるのさ。知りたいことを教えてやっているだけさ」
「教えて…やっている? この上、読者や視聴者に上から目線ですか?」
「そうさ。個人情報を尊ぶ、お上品な遵法者でいたいならそうすればいい。他社に抜かれるだけさ。他人の情報は売り物になるんだよ。SNSなんて、今やこんなケダモノだらけだろう? 今は皆がマスメディアさ。晒せばいい。知ればいい。叩けばいい。こんな奴は社会から消えろと我先に情報を挙げて共有するじゃないか。それこそ、お前が蔑む狼の群れと同じだ。
俺達は醜い獣の人間様だ。誰かが挙げた後追い情報なんて腐った肉と同じだ。まるで価値なんかない。哀悼の意を捧げる人間の顔や憎むべき犯人の顔や背景が解れば、いろんなことが出来るだろう。最高の暇潰しのエンターテイメントの始まりだ。
被害者のことを皆でシェアして悲しめばいい。容疑者のことは皆でシェアして苦しめろ。死人に口なし。疑わしきは罰しろ。罪人には容赦なく鞭を打て。死んだなら首を晒せ。生きている加害者の身内には被害者へ賠償させろ。昔から行われてきたことだ」
「何てことだ…。僕は今ほど、自分の信念を捻じ曲げられていると感じたことはない…!
風祭さん、今の僕の怒りと悲しみとあなたへの憐れみが解りますか? マスメディアが、なぜ力を失ったのか、なぜ視聴者や読者から金子のご機嫌を窺うだけの、心底腐った人間達の集まりだと思われているのか、あなたはその本質を理解していない! いや、知っていて、それでも行うからこそ僕は許せないんだ!」
「解っているなら、この時間がいかに無意味かも解るだろう。勘違いするな」
「勘違いしているのはあなただ。視聴者を何だと思っているんですか? あなたは世間でクズ呼ばわりされる悪いテレビ屋と同じだ。
無意味な現場リポートだったり、被害者を追い詰める質問だったり、インタビューされる側が感極まった時の過剰なフラッシュや不必要な顔のアップ。あのわざとらしい演出は本当に必要なことだからやっていることですか?
感情に訴えるのが正しいという勘違い。視聴者が求めているという勘違い。原因の追求ではなく誰かの責任の追及。視聴者の知る権利の代弁者気取り。この勘違いの数々こそがメディアが腐ったハイエナだといわれている原因だ」
「なら、解るだろう? この世にメディアと呼ばれる人間達がどんな人間かなんてことは。お前はレイモンドチャンドラーの作品が好きだったな。その作品に例えてやろうか?
報道が声を枯らせて叫ぶ報道の自由とはな、ほんの僅かの例外を除いて醜聞、犯罪、性、憎悪、個人攻撃を書き立てる自由のことなんだ。商業主義の理からマスメディアは逃れることなんてできないんだよ。全ては金だ。金で世の中が回り、金で世の中は動いているんだ。世界を焼くのも、子供達を戦争に駆り立てるのも、言葉で呪い殺そうと思うのも金の力だ。人は永遠に搾取されるだけの金の奴隷だ」
「…ええ、知っていますよ。いいだけ知っている! そして、あなたが道を間違った人間で、それでも僕の師匠だということを知った上であなたに言います。言わなきゃならない」
激情と憤りを無理矢理に押さえ込むようにして私は変わってしまった自分の先輩を真っ直ぐに見据える。店内に流れるBGMは昔、流行った推理モノのドラマで作中で流れた挿入歌だった。私の好きな曲だ。バックに流れるナンバーとしては、やたらとハマっている気がした。
「風祭さん、あなたは真実なんかどこにもないと仰った。僕の見解は違います。僕はこの世で真実と呼ばれるものには二つあると思っています。
一つは人の道を照らしだすもの。もう一つは人の心を温めるもの。前者は科学で後者が芸術だとするなら、我々マスメディアの言葉はどちらに立つべきですか?」
「言葉は言葉だ。真実など、ただの希望的観測であり自己完結した幻想だ。妄言なんだ。言葉など科学でも芸術でもない。もう一度、言っておく。真実なんかどこにもない。結果が全てだ。獣の皮を被った人間ごときに至れる大仰な真実なんかない。それが俺の真実だ。それでも真実を語るというなら、お前が人の道を照らし、人の心を温めるのか? メディアの記者風情に何が出来る。人を都合よく煽動する偽善者の騙りといわれるだけなんじゃないのか?」
「あなたはそうやって騙る方の道を選んだ。答えから逃げたんです。それは嘘を嘘と承知で生きている人々を歪め、煽り立て、対立させる虚無の道です。それは人ではない、鬼や外道と呼ぶべき歪んだ心の形だと思う。
僕はフェイクよりファクトです。事実と真相こそが僕の全てです。真実を語るなんてもちろん大それたことはしませんし、出来ません。それは僕の役目じゃない。
…それでも僕は語る方の側でありたい。何が正しくて何が間違っているのか。そして、言葉が何の目的を持って使われ、どう収めるところに収められるべきなのか。その真実の在処をきちんと語れる人間がいるということを僕は知っているからです。僕は弱いんです。だからこそ真実を語る者や虐げられた者達の立場に立つことをしなければいけない」
「ほぉ、言い切ったな東城。ご立派なことだな。自分自身が真実の為の飾りだとでも言うつもりか? ならばそう嘯く弱者代表のお前のファクトは、どこにある? 事実なくして真相はなく、真相なくして真実などない」
「今はまだ何も見えません。
…けれど、必ず見つけてみせますよ。真相は内側にのみあるわけじゃない。真実を飾る装飾ですら、時に真相になることだってあるからです。装飾ですら価値に置き換え、呪いを祝福に変えられるのも人の言葉だからです」
「見解の相違だな。東城よ、俺は人間がいかに愚鈍で醜いかを知っている。ファクトなど立ち位置の違いだ。そして、お前の言うように人は弱い。権威ある者や金のある者、力のある者や声の大きな者達の言葉で、いくらでも歪んでしまうものだ。人間なんてしょせん、自分が信じたいと思うものしか信じない。真実など、探すだけ無駄だ。虚構や幻想を信じているのと変わりはないんだ。分かったら出ていけ」
「見解の相違ですね。ならば、最後に一つだけ青臭いハッタリを吐いて立ち去ります。
風祭さん、真実とは虚無でも幻想でもありません。真実とは人間だけが至れる真理なんです。理性と希望という名の灯火が未来へと続いていると信じられる道のことです。
たとえ現実が嘘と虚無にまみれていようと、それでも僕は人の道を照らし、人を癒せる道を選びます。僕の大切な友達がいつもそうしているようにね。
…さようなら、風祭さん。今まで本当にありがとうございました」
私は静かに伝票を手にして席を立った。別離の言葉はいつだって辛い。その重い言葉は不可逆なもので一度口にしたら、簡単に引っ込めることなどできないのだ。だが、後悔はするまい。私達は今、はっきりと道を違えたのだ。忸怩たる思いに駆られる結果になったが、もはや過去への時間は戻らない。私は振り返って彼に殊更に深く長く一礼してから、その場を立ち去った。
『ロンググッドバイ』。チャンドラーの作品での邦題は『長いお別れ』。さよならとは長い間死ぬことだ。
私が急いで西園寺の元に戻ると、待ちかねた様子の西園寺の傍らには6人の人間達がいた。大所帯である。西園寺班が揃い踏みということか。
「遅いぞ東城。こちらの応援は既に到着してるぜ」
西園寺の傍らに見知らぬ三人がいることに気づいた。一人は私や西園寺よりずっと年配の刑事であとの二人は若い男女で大柄な男と矢鱈と細い女性で実に個性的な面々である。頼もしいメンバーが応援に来たのだろう。西園寺が先ほどとは打って変わった表情で快活に言った。
「東城はこちらの三人は始めてだったな。紹介するぜ。俺の部下で大越さんに中山に小宮だ」
西園寺がそう言うと、傍らの50くらいの色白の男がまずは私に一礼した。
「大越一生といいます。はじめましてでんな、東城さん。西園寺さんより年は上ですが、気にせずこき使ったって下さい」
こなれた関西弁でそう言うと大越は目を細めてにっかりと微笑んだ。鼻の横に大きなイボがあり、目尻の皺が深く、それほど年老いた印象はないのだが人懐こい好々爺のような印象の男である。
「そうはいきませんよ。東城、この人は元大阪府警のMAATに所属していたっていう経歴があってな、気のいいオッサンだが、こう見えてウチでは一番の武闘派だ。現役のSITも顔負けのな。優しい人だがキレたら多分、一番やべぇから絶対に怒らせたりするんじゃねぇぞ」
「ははは、そない言われたら構えてしまいますよ。東城さん、気にせずよろしくやって下さい」
そう言って大越は再び笑った。私よりも小柄だが言われてみると、確かに黒のスーツを上品に着こなした色白の刑事は物腰は柔らかだが、全体的にがっしりとした体格で動作も隙がない。特殊部隊マート(MAAT)は立てこもり事件の突入に特化した部隊で、SITとほぼ同じものだ。SITが警視庁でMAATが大阪府警の管轄だったはずである。
挨拶もそこそこに今度は大越刑事の傍らにいた細面な女性が、ぴょこんと私に向けてお辞儀した。
「中本絢子です。東京に越してきたばかりで、あ、あの、自己紹介ってなんばいいっちゃろう? あ、班長には東城さんのことはバリ聞いとりました。よろしくお願いします」
年齢は25くらいだろうか。大越刑事とは対象的に多分、この中では隣にいる大柄な刑事と共にかなり若い方だろう。灰色のスーツ上下をぴっしりと着こなしたキャリアウーマンといった印象の見ためで全体的に細くてスマートな印象の女性だ。地味な印象こそ与えるものの地声はやや高く、端々の博多弁がなかなかに特徴的である。
挨拶もそこそこに今度は中山の隣にいる若い大男がおずおずと頭を下げた。
「小宮小次朗といいます。東城さんのことは班長に聞いてよッく聞いてます。この通りの大食いで、こんな事件がなければ東城さんとも、一緒にラーメンでも食いに行きたかったです。名前と違って全然小さくないですが、どうぞよろしくお願いします」
大柄な小宮がそう言って快活そうに笑った。こちらは最初から一団の中では一番目立っていた。若いが肩幅も上背も腹回りもとにかく大きい。耳が潰れているところを見ると、重量級の柔道の有段者だろうか。私の好物まで西園寺から聞いて知っているようである。見た目通りの大食漢のようだし、確かに小宮小次朗とは名前にそぐわぬ非常に大柄な刑事である。笑うと目が細く愛嬌があり、気が優しくて力持ちを地でいくような性格のようである。
大越に中本に小宮か。傍らにいる松岡、竹谷、梅田共々、私は彼ら西園寺班の面々を不遜なやり方でカテゴライズしながらも名前を一瞬で覚えてしまった。大中小に松竹梅。新旧刑事六人。美波ほど不埒なやり方はしないが、名前とは実に便利な記憶の記号化に他ならない。彼らが私達の味方になったのは本当に心強い。
「悪いが今は時間がねぇ。お互いの自己紹介はまた別の機会にしよう。じゃあ、三人は先行して第一発見者達の方に回ってくれ」
「了解しました」
西園寺がそう言うと、三人はそれぞれ別方向に地下街へと散開した。残りの三人は私もよく知っている刑事達だった。
スーツ姿のこざっぱりした印象の長身の男が松岡。長い髪を後ろで束ねたスーツ姿の女が竹谷。小柄で飄々とした雰囲気を持った黒縁眼鏡の小男が梅田。私も美波も旧知の刑事達である。
「ざっくりとだが、皆には今までの経緯は説明しておいた。このまま桜庭の野郎にやられっぱなしじゃ癪に触るからな」
「松岡さんに竹谷さんに梅田さんも。西園寺班の精鋭達が揃い踏みとは心強いね」
「何言ってるんですか。美波さんには色々と世話になりっぱなしですからね」
「水臭いですよ、東城さん。一蓮托生なら私達もちゃんと巻き込んでもらわないと」
「チェスなら先ずポーンがいないと話になりませんからな。いやはや、東城さん。それにしても、いきなりクィーンを取られているとは恐れ入りましたなぁ!こういうの何ていうんでしたっけ? 晴天のバッキバキ?」
「霹靂ね。晴天の霹靂」
「そう、『晴天の霹靂』。僕の実家の青森の特産品なんです。アレは美味いですよ! おにぎりでご飯が食えます」
「お米の話はいいの」
「そういう掴みとか要らないから」
「そこはほら、全力を出して美波さんの無罪放免を勝ち取ろうって僕なりの意気込みですよ。日頃の感謝を込めに込めて、米でコメントっつうことで」
「駄洒落とかいいの」
「韻を踏むにしても、ちょっと強引過ぎ」
竹谷と松岡が緊張感のない同僚を窘めた。梅田にまで気を使わせてしまっている。自責と後悔の只中にいる私に配慮して、彼らなりに明るく振る舞ってくれているのだろうと思うと心底申し訳なくなってくる。そろそろ動揺してばかりではいられない。漸くだが、私も何とかしなければと思う。
「三人とも、面目ない。僕がもう少し彼女のことを注意深く見守っていたらこんなことには…。
…西園寺、美波さんの方は? 何か進展は?」
「相変わらずだ。弁護士が来るまでは"桜庭主任"と銀座中央署の刑事達が取り調べるんで接見禁止だとよ。俺とお前は取り敢えず最後だとよ。
…丸の内の刑事が丸の内で仕事しなくても、優秀な銀座中央署の刑事さん達がいらっしゃるから一切困らないらしいぜ。有難いことだな。
…よし、こうなりゃ自棄だ。このまま焼き肉でも食って真っ昼間からビールと洒落混むか?」
「いいですねぇ! 我々はあからさまに蚊帳の外ですからねぇ。本店の刑事さん達も間もなく、続々と到着するはずですよ。確かに本店さんが来るならウチにやることはないですなぁ」
「もう! 主任も梅田君も真面目にやって! 東城さん、何かすみません。何か内々の縄張り争いに巻き込んじゃったみたいで…。
それにしても私も信じられません、あの美波さんがいきなり殺人事件の容疑者だなんて…」
「ええ、そもそも足が不自由な美波さんがスタスタ歩いて通路で人殺しなんて訳のわからないこと、出来るはずもないんですがね…。
これはもう、なんというべきなのか…違和感だらけで何を、誰を、どう疑うべきなのか、自分には今のところ皆目分かりませんよ…」
竹谷と松岡の両刑事も私と同じように美波犯人説には懐疑的のようだ。当然の見解だろう。そういえば、前回の事件からまだ十日と経ってはいないのだが、松岡、竹谷、梅田の三人は既に美波とは旧知の間柄なのである。
西園寺の呼び掛けで六人で集まった東京駅直近のレストラン街でのささやかな宴会が、今や遠い昔の出来事であるように錯覚してしまう。美波と西園寺が終始、騒がしかったのはよく覚えているのだが、梅田はあの時、美波の故事成語を物の見事に間違うという天然ボケ具合が、いたく気に入ったようである。その梅田が言った。
「進展といえるかは分からないんですが、妙な噂は聞きましたな。ガイシャ…被害者ですが、警察無線で流れてきた内容を聞いた限りでは公安の刑事で間違いないようですよ。捜査員の身元は現在照会中だそうですが。
地下駐車場に駐車する際の入場記録があるようなんで、後であたってきますよ。ちなみにベンツのSクラス。高級外車ですな。ガイシャがガイシャになっちゃうんじゃ、もう話がアベコベで」
梅田が真面目な松岡と竹谷に比べ、終始マイペースでのんびり屋なのは緊迫した状況でも変わらないようである。それにしても、やはり被害者は公安の刑事か。松岡が言った。
「東城さん、僕らがやるべきことは当然、現在最有力の容疑者とされている美波さんの逮捕に関わる証拠を集めることです。もちろん、我々としては美波さんにかけられた冤罪を晴らして彼女の名誉を守りたいと思っています。そこは私個人の、というよりは一人の人間としての見解です。第一、この事件は何か根本的なところから色々とキナ臭いですよ」
「ふむ、陰謀の臭いがぷんぷんしますな。公安が絡んでいるとなると一筋縄ではいかない」
「公安の刑事が秘密裏に殺された可能性…か」
「ええ。ですが正直、イチ刑事の見解としては、既に状況は大変に不味いと言わざるを得ません。初動の綱引きでウチが勝っていれば、少しは違ったんでしょうが…」
「かまわないよ。僕も美波さんの為にやれることはやってみるつもりだ。世間にこれだけ情報が晒されてる状況下で彼女を擁護するのは正直しんどいけどね。叩かれる覚悟なんか、記者になった時からとっくに出来てる。
…だからこそ解るんだ。一人も味方がいない状況に置かれること自体がおかしいんだってね。正直、今も何がなんだかわからない状況だけど、これだけははっきりしてる。美波さんは誰かに罠に嵌められたんだよ」
そう。そう考えなければ辻褄が合わない。私の断定的で直情的な考えを、幸いなことに刑事達も汲んでくれたようである。西園寺は腕組みをしながら、頷いて言った。
「ああ。誰が、何の為にこんなことをして美波を殺人犯に仕立てなきゃいけねぇのか、さっぱり解らねぇ状況だが、目撃者の地取り捜査だけでもやれるだけのことはやろうぜ。この事件は確かに何かが変だ。変というなら何から何まで変なんだが、何がどう変なのかを、はっきりさせなきゃならねぇ」
現場の刑事達ですら、事件現場に踏み込めないという状況がまず普通ではない。正直なところ、状況は最悪だ。現場にさえ踏み込めない状況で私達に一体、何ができる?
それにしても異常だ。噂の足が早すぎる。風祭が現場にいたというだけで、ここまで事態が悪化するものだろうか? 一寸先は闇というが、あの美波がここまで突然に窮地に陥るとは思いだにしなかった。
SNSや事件記者が敵に回るということの恐ろしさを私は誰よりもよく知っているつもりだ。ヒステリックな感情こそ最も事態の打開には寄与しないだろう。況してや個人情報が晒されているという状況が、美波の今後にどれだけ不利に働くことか。前回の事件よりも加速度的に不味い状況に置かれている。
…一体、いつ、どこで、誰によって、何の為に、どうやって仕掛けられた罠なのだ?
事件直後にしても情報が少なすぎるのだ。被害者の所属はともかく名前すら分かっていない。この時点で首謀者のいる恣意的な事件なのか偶発的に起こった事象がもたらした突発的な事件なのかも分からない。
だが、これが何者かの意思による作為的な犯罪だというなら、その人物の作戦は今のところ概ね成功しているといえるのではないだろうか。もちろん、決定的な証拠どころか事件に至った経緯ですら未だに掴めてなどいない。結果だけがいきなり目の前に転がっている状況だ。一体これをどう捌く?
いきなり地下街に死体が現れる。あり得ないことだ。普通に考えれば、あの美波が車椅子をトイレに放棄して、公安刑事を鋭利な刃物で襲ったということになるのだが。そんな馬鹿げたことが現実にあり得ることなのか? そもそものきっかけとなった動機は? なぜ、そんな状況になる? 関係者である以上は大っぴらに取材するわけにいかないが、そこからまずは検証してみなければならないだろう。
取り敢えず状況を整理しよう、と西園寺は仲間達に水を向けた。
「何かこの場で東城に改めて聞いておきたいことはあるか? 確認でもなんでもかまわねぇが」
そうですね、と言ってスーツ姿の竹谷刑事が軽く手を挙げ私の方へと体を向けた。
「東城さん、早速ですが、いくつか確認させてください。捜査会議もまだで捜査資料などの詳しい情報も届いていないんで尋ねるんですが、現場に凶器の類いか、それに準ずるような何かがあったか、東城さんは見ましたか?」
それだ。竹谷刑事の言う通りだ。まず問題となるのは凶器の所在だ。あの時はどうだった? 少なくとも私は凶器どころか殺害の瞬間そのものを直接は見ていない。あの動画の映像でも凶器は映っていなかった。風祭の撮影した、あの動画を通じて、今や第三者ですら事件の状況を窺い知るところとなってしまった。
だから、この事件の場合の目撃者とは、リアルタイムで美波が殺害した犯行を見ていた者と定義できるだろう。
つまり、被害者殺害後の騒ぎを見るなり聞くなりして駆けつけた私や西園寺は、残念ながら身内であるという理由を抜きにしても、彼女の有罪や無罪を積極的に証言できる立場にはないということだ。私は首を振って否定した。
「いや、残念ながら見ていない。血塗れの美波さんを見たけど、彼女の周辺にそれらしいものは確認できなかったよ」
神妙に首を振って答えた私に竹谷が形の良い眉をひそめて考え込んでしまった。それを受けてか、今度は松岡が私に質問した。
「殺害当時に見たそれは、本当に死体だったんですか? 東城さんは一瞬しか現場を見ていないというので思いついた…我ながら馬鹿な発想だと思うんですが、どうでしょう? 被害者が死んだ振りをしていた。或いは死体に似せた人形か何かだったという可能性は?」
「それに関しては…まず人間の死体で間違いないと思うよ。目に沁みる、あの金臭い独特な臭気は人間の血液特有の有機的なものだ。死体の格好や形状も…変な言い方だけど、きわめて自然な人間の他殺死体で間違いないと思う」
私の脳裏に生々しくも忌まわしい記憶が惹起された。一瞬の光景で正直、今でも信じられない思いだったが、あの時の美波は少なくとも尋常な姿ではなかった。顔や着ていたショルダーレスのワンピースも揃いのミニスカートも血塗れだったのである。あれだけ派手な出血量はそうそう見れるものではない。
地下街が騒がしかったのは確かだが、殺害時の被害者の悲鳴や誰かが騒ぎたてる声や争う物音は少なくとも私は聞いていない。だからこそ、死体がいきなり出現したなどという、あり得ない話になっているのだ。にべもない私の答えに、松岡が顎の辺りに手をあてて考え込みながら再び私に言った。
「ううん、そうなると美波さんを擁護するのは、ますます厳しいってことになりませんか? 希望的観測で申し訳ないんですが、被害者は本当にあの場所で殺害されたんでしょうか? でなきゃ死体が現れたなんて荒唐無稽な証言はあり得ませんよ。
例えばこれが屋外なら空中から降ってきたとか、近くにマンホールがあって地面から現れたなんてトリックもあり得るのでしょうが、混雑した地下街というロケーションにこんな不可能状況はミステリーでも聞いたことないです。
…どうですか、東城さん。死体はどこか別の場所で殺害された後で、あの通路のど真ん中に運び込まれたということはありませんか? それなら死体が現れたという突拍子もない証言にも信憑性があります。美波さんが誰かに罪を被せられたなら、そっちの可能性を積極的に疑わなきゃならない」
「残念だけど、それはないと思うよ。死体が運ばれてきたのなら、大型の台車だとか大きな物音がしたとか周辺に某かの兆候は必ずある。
それに、あの血の跡は並の出血量じゃない。人だらけで一瞬しか見ていないから自信はないんだけど、少なくとも死体が動かされてきた形跡はなかったと思う」
犯人は。敢えてこの言い方をするのだが、犯人は相当に手際のいい殺し方をしたことになる。恐らくだが被害者は即死に近い状況だったのではないのか?
そこに、たまたま美波がいたのだ。そして、これまた恐らくだが死因は頸部損傷による失血死だろう。あれだけの出血量だ。まだ生活反応があるうちに、つまり生きている状態の被害者を鋭利な刃物か何かで喉元を正確に…頸動脈を恐ろしいほど速く斬りつければ、どうだろう? それならば、あの出血量と返り血の飛び方にも納得がいく。
だが、それは我々にとってあまり歓迎すべき事柄ではないだろう。それはつまり、あの死体は美波によって、あの場で、あの瞬間に切りつけられたからこそ生まれた状況だと考えねばならなくなるからだ。桜庭警部補が強調した動かし難い事実とは、要はそういうことではないのか。これで犯行の瞬間を目撃した決定的な目撃者でもいるのなら、もはやお手上げである。
こういうのはどうです、と飄々とした口調で梅田が言った。
「被害者が自ら首をかっ切った!」
私達はその発言に一様に目を丸くした。
「え? 被害者が自分で?」
「自殺ですよ。自決ですな。美波さんがその場にいたのは最悪の偶然だったんです。たまたま彼女が近くにいたから返り血を浴びる結果になった。凶器は被害者自身が所持していた為、倒れた際に死体の下に隠れてしまった。これなら凶器が現場から見当たらなかったのも道理というものです」
そんなことがあり得るのだろうか。私が可能性の一つとして考えようとした時、竹谷刑事が言った。
「駄目よ。それだと現場にいた目撃者達がすぐさま“人殺し”と叫んでいた理由の説明にはならないわ。少なくとも美波さんがやったとしか思えないような何かがあったから目撃者達が騒いだ方が自然よ」
「うぅん。いい線いってると思ったんですが、さすがに無茶な可能性ですかね」
三人とも状況証拠を下に、既にそれぞれの推論を組み立てている。
「もういいか? ここで起こった可能性をあげつらうのは、まず証拠が揃ってからにしようぜ」
どうやら西園寺は部下三人による可能性の検討という展開を読んでいたようである。こうした思いつきや予断というものはけっして思い込みではない。複数の捜査員がそれぞれに捜査の方向性を決定する為の指針としては大いに有効な手段だ。
もちろん、それは美波が殺害したという信じ難い事実も検討しなければならないだろう。あらゆる可能性を検討し、除外できるものがたとえどんな信じ難い結果でも、それが真相であるというのは一つの真理である。一連の状況から事件の推移を検討するのには、まだ圧倒的に情報量が足りない。
「ここで件の目撃者達についておさらいだ。自宅待機だったところ悪いが、まずは本庁に先行する形で既に区分けされてる事件の目撃者達から順番にあたっていくぜ。
…分かっていると思うが、捜査協力をお願いしている立場上、相手には常に最大限に敬意は払え。だが、有象無象の主観ってやつは徹底的に疑ってかかっていい。その人間の立派な肩書きや主張なんかは除外していい。そいつの人間性を証明するだけの余計な“おまけ”は、ミステリなんかじゃ多くが何かしら事件の背後関係や動機とも結びついたりする訳だが、今回は目撃者の証言がより重要になってくると思え。
目撃者の“間違いない”って断言する科白の一切は当てにならないぜ。差別的な発言や警察を愚弄したり美波個人への中傷やその他諸々全てだ。連中は相当に苛ついてる。十中八九、ムカつくことを言われるし胸糞悪くなるだろうが、そこは例によって仕事だと思って堪えろ」
「思った以上に難航しそうですね…。拘束時間が長い上に、同じことを何度も聞かれる。残念ですが、動画が出回っているせいで美波さんに誹謗中傷が向くのは自然な流れですよ。目撃者達も相当にイライラしていますから」
「こんな時の正義の免罪符ってやつは怖いですなぁ。正義という名の棍棒や正しいというナイフで容疑者を悪だと見なしたら、殴る蹴るぶった切る。まだ美波さんは容疑者の段階だっていうのに、名前まで晒されてSNSは祭状態です。
こうした個人情報を無視した私的制裁の方を僕ぁ取り締まりたいところですな。どうせ被害届なんざ出る訳がないと高を括って乗っかる輩の多いこと多いこと。善良な市民は善良であるが故に恐ろしい。うんざりします」
「警察としちゃやることは変わりませんよ。こちらがお帰りくださいと促しても応じないのは不退去罪。リアルやネット上問わず、人様の評判を貶めるような嘘の書き込みや無言電話には偽計業務妨害。大声を上げて人様を恫喝したら脅迫罪。不当な言いがかりや難癖で金をせびれば恐喝罪。最近は一般の民間人でさえ、そんな輩は増えてるようですがね。なぁに、本職の人間をなめてもらっちゃ困ります。やってることはヤクザと変わりませんからね。こちらは堂々といつも通り仕事をこなすだけです」
「うん、悔しいけど美波さんに向けられてる誹謗中傷の類はもう耳に堪えないレベルだ。既に押さえられなくなっている。不味いね。とても不味い状況だ。悪い噂を流しているのは僕の先輩だった風祭純也って人だ。既に他人の尻馬に乗っかって正義感から叩いている人達まで現れ出してる。ヒステリックに騒ぐ雑音に囚われず、まずは必要なデータを集めよう。
僕達だけでも美波さんを信じてあげなきゃ。松岡さんが言ったように、僕らはいつも通りにやるってことだけだよ。僕らは現状、状況証拠以外のアプローチをしていくしか方法がない。思い込みっていうのは厄介なんだよ。動画の映像ってのは印象が強烈で第一印象が最悪だからね。歪んだ同調圧力や恣意的な言動が僕達が今、最も警戒しなきゃいけないと思う」
「そうだ。いいか、作為的に作られた事件の状況ってのは急拵えであれ計画的なものであれ、必ずどこかに矛盾や綻びが生まれる。
何がなんだかわからねぇ事件の結果がいきなりあるって状況は、多くが絵を描いた奴がいたとして、その絵があまりに下手くそだからなのか、描いた目的すら分からないからか、はたまた重なり合った偶然が事件を不可能状況って芸術に見せてるだけのことだ。言うまでもねぇことだが、論理だの推理だのってのは、要は弁当箱の隅をいいだけ突ついた食いカスの集積だ。それを手当たり次第に集めていく」
西園寺は明瞭な口調で断言した。現場百辺。証言や証拠に無駄なものなど何一つなく塵一つでも価値があるとは彼の持論である。
「ICレコーダーは持ってるな? 事態は刻一刻を争う。可能な限り俺は美波に接触できるように中央署や本店に掛け合ってみる。お前らは目撃者達の証言からなんとか糸口を見つけてくれ。
…東城、お前には俺達、警察にはできないことを頼みてぇ。遊撃みてぇなポジションをな。
…その顔だと俺がもう何をしてもらいたいかなんて、分かってるようだが」
「ああ。最近のメディアの悪い癖を漱ぐ為に僕には僕のできることをやるよ。難しいだろうけど、美波さんが無実かもしれないって可能性を改めて世間に訴えてみる。後輩の記者達の中にも取材に出てる連中はいるから、事件と関連性がありそうな地下街で拾える噂をかき集めさせてみるよ」
既に私は風祭より大きく出遅れてしまっている。金の為に形振り構わない相手というのは、実際にいくら正論や感情で諭そうとも無駄だ。それだけに厄介なのだ。風祭の台詞ではないが、メディアの記者である私の擁護の言葉に耳を貸す人間などいるだろうか?
今のところ動画という絶対的な動かぬ証拠まである上に、美波の個人情報まで晒されてしまっているというのは痛い。元モデルで芸能人で片桐財閥の令嬢で地下街で爆買い。これだけでも叩かれる材料としては充分過ぎる理由になってしまうのだ。今日の我々の行動だけでも悪目立ちしているだけに、大っぴらに彼女のフォローをするというのは相当に難しい。危険を伴う行為でもある。
だが、私は既に数々の違和感の一つから突破口になりそうな部分は見つけていた。図らずも件の動画や先ほどの風祭や刑事達とのやり取りの中でふと思い付いた私なりの推論である。もちろん、ただの思いつきであるし余りに突拍子もない推論なので、自分の中で改めて咀嚼してみる必要がありそうだ。
それにしてもアンフェアというよりない。なぜ、こんな状況が生まれてしまうのか。しかし考えてみれば現実の事件とは概ね前触れなく訪れ、いきなり結果だけが目の前にあるというのはいつだって変わらない。
物語や推理小説ではないが、基本的に我々は全知全能な神の視点など持たない。己や第三者という他人の視点だの観察だの思考だのを通じて、事件現場や登場人物達から事件の全体像を類推するしかない。現場から得られた物的証拠や状況証拠を下に推論だの推理だのを重ねるというのは全てにおいて、まず最優先に示されなければならない手順のはずなのだが、この事件の場合はノイズが多すぎる。捜査や推理の大前提をいきなり封じられてしまっている。
松岡はミステリに準えたが、資料やデータを推理の材料にする手法を常とするなら、目撃者の証言ほどあてにならないものはないだろう。目撃者の証言というものは、多くが恣意的且つ個人的な心情が絡む。時間的な経過と共に勘違いや思い込みや記憶違いだって発生しやすい。人は事実に合う論理的な説明を求めず、理論的な説明に合うように、時には事実のほうを知らず知らず曲げがちになる。もちろん、西園寺はそれを百も承知で釘を刺しているのだろう。
何者かが美波を陥れている。陥れなければならない、何らかの理由が彼女にある。
私はまず、何をおいてもこのスタンスで事件に臨まなくてはならないだろう。やるべき事は山積みだ。地下街という仮設の檻から難攻不落の警察署の檻に美波が入ってしまったら、その時点でタイムアウトだ。
「よし、時間はあまりない。とにかく一刻も早く事件の全体像を掴むぞ」
西園寺の言葉に決意を新たにした私達は互いに強く頷くと、それぞれ地下街の各所に散開した。
だが、この時の私はまだ知る由もなかった。
限りなく深く、底なしに暗い人の深淵を覗くこととは即ち、己の内の暗闇を覗くことと同義であり、謎の答えを求めて迷宮に踏み込む者は、いつだって血に渇いた獣が蠢く無慈悲な暗闇にその身を晒しているに他ならないということを。
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