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変わり果てた森
おい、スカーフの娘だ
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夏至から何日も過ぎたせいか、白夜の空からは僅かな間だけ太陽が姿を隠すようになり、夜の色が濃くなった。
今晩は暑い雲かかかっているから、いつもよりさらに暗く感じる。
寝静まった小さな町を通り過ぎると、急に寂しい風景が目の前に広がった。
「きゃ……」
すぐ脇の草がかすかに揺れて、カティヤはぎくりと足を止めた。
昼間の事件の後遺症なのか、濃紺に染まった水の中やトウヒのがさがさした幹の裏側、草むらの奥の暗がりに何かが潜んでいる気がして仕方がない。
「大丈夫だよ。何もいやしないよ」
びくびくしながら歩くカティヤの手を、ニューリがしっかり握っている。
そんな二人の前を、荷物を載せたロバを引いたヴィルヨが歩いていた。
ぎゃぎゃぎゃ!
ロバの蹄の音と人の気配に驚いたのか、近くの白樺の枝から数羽の鳥が喚きながら一斉に飛び立った。
「きゃあっ!」
静寂の中にいきなり響き渡った不気味な声と羽音に驚いて、カティヤは思わずニューリにしがみついた。
恐怖に強ばった身体はぎゅっと抱きしめられ、その後、なだめるように優しく背中を叩かれる。
「今のは、ただの鳥だよ? 怖がらなくてもいいよ」
面白がる響きが少し混ざった心配そうな囁き声が聞こえてきて、ほっと肩の力を抜いた。
「おい、大丈夫か? カティヤ」
先を歩くヴィルヨがロバを引きながら戻ってきたから、腕を突っ張って慌ててニューリから離れる。
「う……うん。ちょっと鳥に驚いただけ」
「変なものが視えた訳じゃないんだな? 町も抜けたことだし、少し休むか?」
そう言いながらヴィルヨは辺りを見回した。
道の片側には収穫の終わったライ麦畑が広がり、反対側には白樺の明るい雑木林。
休憩するとしたら、道からこの林に少し入った場所が良さそうだ。
しかしカティヤは強がりの笑顔を浮かべ、首を横に振った。
白樺の林の向こうには、鬱蒼とした針葉樹の森が横たわっている。
黒にも見える濃い緑の重なりや、両手を広げたようなトウヒの枝が不気味だった。
「ううん。昼間にぐっすり眠ったから、まだ疲れていないわ」
「そうか、無理はするな。辛くなったら言うんだぞ」
「うん」
少々乱暴に頭のてっぺんを撫でていた大きな手が、突然止まった。
ヴィルヨが、強い緊張感を漂わせながら、今歩いてきた一本道の奥に視線を走らせる。
「どうしたの?」
「馬がこっちに向かってくる。四頭……いや、五頭」
ヴィルヨに代わって答えたニューリの声も硬い。
「そんなに?」
くすんだ青に染まった景色の向こうに目を凝らすと、確かに、いくつかの黒い影がこちらに向かって走って来るのが見えた。
これまでも、夜中に人や馬に出くわすことは何度かあったが、こんな集団は初めてだ。
しかも、どれほど馬を駆っているのか、かなりの速度で近づいてくる。
カティヤの背筋が、ぞくりと寒くなる。
怖いのは精霊だけではない。
人間も、怖い——。
「早く隠れなきゃ」
「いや。もう、あいつらからも俺らの姿は見えているだろう。こそこそ隠れる方が、怪しまれる。道をあけてやり過ごしたほうがいい」
「でも……」
強い不安に駆られておろおろしていると、ニューリに手をぐいと引っ張られた。
「大丈夫だよ。こっちに来て」
道の林側の端にカティヤ。
その隣を、彼女の姿を隠すようにしてニューリがゆっくりと歩く。
ロバを引いたヴィルヨは二人の後ろからついてくる。
こうして歩けば、少なくとも後方や、追い抜きざまにはカティヤの姿は見えづらい。
カティヤは肩に掛けていた濃緑のスカーフを頭から目深に被り、俯きながら歩く。
息をするのが怖いほどの緊張に足が震えたが、しっかり握ってくれる手に励まされながらなんとか歩いた。
かすかに聞こえ始めた幾重にも重なる蹄の音は、あっという間に大きくなった。
このまま早く通り過ぎて!
カティヤが息を詰めて強く願った時、疾走してきた馬の足音が背後で急に緩んだ。
強い警戒心に足を止めた三人の横を三頭の馬がゆっくりと通り過ぎ、道を塞ぐように目の前で止まった。
馬上からの探るような三つの視線が、カティヤ一人に向けられる。
同様の視線を、背後からも感じる。
まさか……!
バレた!
とっさにスカーフの前を引っ張って顔を隠すカティヤを、ニューリが左腕で背後に庇った。
彼の何気なく下ろされたような右手は、いつでも短刀を抜けるように隙がない。
「おい、スカーフの娘だ」
「噂は本当だったのか」
男たちの探るような視線が険を帯びる。
ひそひそと囁き合う声が興奮を孕む。
怖い!
カティヤはニューリの上着を握りしめ、彼の背中に顔を伏せた。
「俺たちに何か用か?」
ロバを引きながら前に出てきたヴィルヨが抑えた声で問うたが、男たちはそれに答えなかった。
リーダー格と思われる男が馬を下りた。
よく日に焼けた顔や、筋肉質の腕、質素な服装は農夫のようではあるが、腰には長剣が下げられている。
「そこの娘、顔を見せろ!」
「……い……や」
威圧的な大声に身体が凍り付いた。
きっぱり拒絶しなければと思いながらも、口の中がからからで、かすれた声しか出ない。
カティヤを背に庇うニューリが声を上げた。
「やめろよ! 怖がっているじゃないか!」
顔を上げて睨みつけてくる少年の顔を、男はじろじろと眺め、それからにやりと笑った。
今晩は暑い雲かかかっているから、いつもよりさらに暗く感じる。
寝静まった小さな町を通り過ぎると、急に寂しい風景が目の前に広がった。
「きゃ……」
すぐ脇の草がかすかに揺れて、カティヤはぎくりと足を止めた。
昼間の事件の後遺症なのか、濃紺に染まった水の中やトウヒのがさがさした幹の裏側、草むらの奥の暗がりに何かが潜んでいる気がして仕方がない。
「大丈夫だよ。何もいやしないよ」
びくびくしながら歩くカティヤの手を、ニューリがしっかり握っている。
そんな二人の前を、荷物を載せたロバを引いたヴィルヨが歩いていた。
ぎゃぎゃぎゃ!
ロバの蹄の音と人の気配に驚いたのか、近くの白樺の枝から数羽の鳥が喚きながら一斉に飛び立った。
「きゃあっ!」
静寂の中にいきなり響き渡った不気味な声と羽音に驚いて、カティヤは思わずニューリにしがみついた。
恐怖に強ばった身体はぎゅっと抱きしめられ、その後、なだめるように優しく背中を叩かれる。
「今のは、ただの鳥だよ? 怖がらなくてもいいよ」
面白がる響きが少し混ざった心配そうな囁き声が聞こえてきて、ほっと肩の力を抜いた。
「おい、大丈夫か? カティヤ」
先を歩くヴィルヨがロバを引きながら戻ってきたから、腕を突っ張って慌ててニューリから離れる。
「う……うん。ちょっと鳥に驚いただけ」
「変なものが視えた訳じゃないんだな? 町も抜けたことだし、少し休むか?」
そう言いながらヴィルヨは辺りを見回した。
道の片側には収穫の終わったライ麦畑が広がり、反対側には白樺の明るい雑木林。
休憩するとしたら、道からこの林に少し入った場所が良さそうだ。
しかしカティヤは強がりの笑顔を浮かべ、首を横に振った。
白樺の林の向こうには、鬱蒼とした針葉樹の森が横たわっている。
黒にも見える濃い緑の重なりや、両手を広げたようなトウヒの枝が不気味だった。
「ううん。昼間にぐっすり眠ったから、まだ疲れていないわ」
「そうか、無理はするな。辛くなったら言うんだぞ」
「うん」
少々乱暴に頭のてっぺんを撫でていた大きな手が、突然止まった。
ヴィルヨが、強い緊張感を漂わせながら、今歩いてきた一本道の奥に視線を走らせる。
「どうしたの?」
「馬がこっちに向かってくる。四頭……いや、五頭」
ヴィルヨに代わって答えたニューリの声も硬い。
「そんなに?」
くすんだ青に染まった景色の向こうに目を凝らすと、確かに、いくつかの黒い影がこちらに向かって走って来るのが見えた。
これまでも、夜中に人や馬に出くわすことは何度かあったが、こんな集団は初めてだ。
しかも、どれほど馬を駆っているのか、かなりの速度で近づいてくる。
カティヤの背筋が、ぞくりと寒くなる。
怖いのは精霊だけではない。
人間も、怖い——。
「早く隠れなきゃ」
「いや。もう、あいつらからも俺らの姿は見えているだろう。こそこそ隠れる方が、怪しまれる。道をあけてやり過ごしたほうがいい」
「でも……」
強い不安に駆られておろおろしていると、ニューリに手をぐいと引っ張られた。
「大丈夫だよ。こっちに来て」
道の林側の端にカティヤ。
その隣を、彼女の姿を隠すようにしてニューリがゆっくりと歩く。
ロバを引いたヴィルヨは二人の後ろからついてくる。
こうして歩けば、少なくとも後方や、追い抜きざまにはカティヤの姿は見えづらい。
カティヤは肩に掛けていた濃緑のスカーフを頭から目深に被り、俯きながら歩く。
息をするのが怖いほどの緊張に足が震えたが、しっかり握ってくれる手に励まされながらなんとか歩いた。
かすかに聞こえ始めた幾重にも重なる蹄の音は、あっという間に大きくなった。
このまま早く通り過ぎて!
カティヤが息を詰めて強く願った時、疾走してきた馬の足音が背後で急に緩んだ。
強い警戒心に足を止めた三人の横を三頭の馬がゆっくりと通り過ぎ、道を塞ぐように目の前で止まった。
馬上からの探るような三つの視線が、カティヤ一人に向けられる。
同様の視線を、背後からも感じる。
まさか……!
バレた!
とっさにスカーフの前を引っ張って顔を隠すカティヤを、ニューリが左腕で背後に庇った。
彼の何気なく下ろされたような右手は、いつでも短刀を抜けるように隙がない。
「おい、スカーフの娘だ」
「噂は本当だったのか」
男たちの探るような視線が険を帯びる。
ひそひそと囁き合う声が興奮を孕む。
怖い!
カティヤはニューリの上着を握りしめ、彼の背中に顔を伏せた。
「俺たちに何か用か?」
ロバを引きながら前に出てきたヴィルヨが抑えた声で問うたが、男たちはそれに答えなかった。
リーダー格と思われる男が馬を下りた。
よく日に焼けた顔や、筋肉質の腕、質素な服装は農夫のようではあるが、腰には長剣が下げられている。
「そこの娘、顔を見せろ!」
「……い……や」
威圧的な大声に身体が凍り付いた。
きっぱり拒絶しなければと思いながらも、口の中がからからで、かすれた声しか出ない。
カティヤを背に庇うニューリが声を上げた。
「やめろよ! 怖がっているじゃないか!」
顔を上げて睨みつけてくる少年の顔を、男はじろじろと眺め、それからにやりと笑った。
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