【完結】白夜の花嫁 〜赤い瞳の少女は精霊の花嫁になる運命から逃れたい〜

平田加津実

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交錯する想い

少しだけ我慢して……

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 しかし、そこには何も視えないし、何の感触もない。
 掌に食い込む爪が痛いだけだ。

 ヴィルヨも目を細めてニューリの手元を見つめたが、やはり何も視えなかったようだ。

「ニューリは、何も手に持ってねぇよ。きっと、気のせいだ」
「お兄ちゃんには視えないのよ! あれは、わたしを湖の底に引きずり込んだ化け物の髪なの! ニューリが握ってるの! 本当よ!」

 必死の訴えに、ヴィルヨは悔しそうに頭を振った。

「お前、なんのことか分かるか?」
「あぁ。ネアッキっていう水に潜む精霊が、カティヤを水に引きずり込んだんだ。自分の花嫁にするために……」
「ネアッキだと? まさか、お前には視えたのか。その精霊が?」

「最初は視えなかったよ。水に飛び込んでも、深い水の底に、二人が沈んでいくようにしか……。だけど、途中から視えるようになったし、相手に触れることもできるようになった。だから、僕は奴の手に斬りつけて、カティヤに絡み付く緑色の髪を断ち切ったんだ」

「そうか……そうだったのか。だからお前は、短刀を抜いたのか。あの時、お前は精霊と戦っていたんだな」
「そうだ」

「……くそっ!」

 ヴィルヨは、カティヤの背中を抱いていた手を離すと、無念そうにぎゅっと握りしめた。
 彼にも、カティヤを引きずり込もうとする不気味な力は感じ取れたし、ニューリの動きも見えていた。
 しかし、何が起こっているのかは全く視えていなかった。

「それで今、奴の髪を持っているのか」
「分からない。今は何も視えないんだ。でも、カティヤがそう言うんなら、多分……」

 ニューリはまた、握りしめたままの手を見つめた。
 やはり、どれだけ目を凝らしても、ネアッキの緑色の髪は視えない。
 水中であの邪悪な下等精霊と直接戦ったことは、間違いないのに。

 どういうことだろう……?

 以前、トントゥに遭遇したときも、大勢いたというその姿を視ることはできなかった。
 湖に飛び込んだときも、最初はネアッキの姿は目に映らなかった。
 今、手に握っているらしい髪も視えないし、何の感触もない。

 あの時なぜ途中から、精霊の姿が視えるようになったのだろうか。
 自分を水底に引きずりこもうとしたネアッキの髪は、なぜ急に消え失せたのだろうか。
 きっと、何か理由があるはずだ。

 ——もしかすると?

 ニューリの頭に一つの仮定が浮かんだ。

「ごめん、カティヤ。少しだけ君に触れるよ。怖かったら、そのまま顔を伏せていて」

 ネアッキの髪を握っているのは、おそらく短刀を持たない左手だ。

 そう考えて右手を伸ばす。
 ヴィルヨの胸に額を押し付け、恐怖に耐えているカティヤの背中にそっと触れると、華奢な肩がびくりと震えた。

「ごめんね。少しだけ我慢して……」

 彼女に触れた直後は何の変化もなかったが、徐々に、左手から下がる緑色のものが視え始めた。
 水を含んで一つにまとまった緑色の髪の束が、手から真っすぐに下がり、水面にゆらゆら広がっている。
 手の中に、はっきりとその感触が生まれる。

「あぁ……。やっぱり、そういうことだったのか」

 つまり、彼女に触れていれば視えるのだ。

 試しに彼女から手を離してみると、少し遅れて手の中から髪が消えた。
 しかし、実際には視えなくなっただけで、そこにあるのだ。

「視えるの? その、緑色の髪」

 カティヤが庇われた腕の間から、恐る恐るこっちを覗き見た。

「うん。どうやら、君に触れていると視えるらしい。それに、多分……。ヴィルヨ、短刀を持っているか? 僕のは湖に落としてしまった」
「あ、ああ……」

 彼から短刀を受け取ると、手の中から髪が消えてしまう前に、髪の束に刃を引っ掛けた。

 ぶつりという感覚があって、髪が二つに切れる様が一瞬だけ視えた。
 その後は、何も視えなくなったが、切断された髪の一方は、まだ手にあるはずだ。

「切れた! 切れたわ!」
「うん。視えるだけじゃなくて、こんな風に手出しすることもできる」

 だから、ネアッキと戦い、彼女を救い出すことができたのだ。

 カティヤに触れていれば、人には視えないはずのものが実体化する。
 もう、彼女一人に怖い思いをさせなくてもすむ。
 彼女一人を危険にさらすことも。

 ニューリの胸に喜びと自信が湧き上がる。

「相手が精霊でも、もう大丈夫。僕が、君を守るよ」

 その力強い言葉に、カティヤの真紅の瞳が希望に輝き、目の縁に涙が膨らんだ。

「ほんと……に?」
「本当だよ。だから、安心して」
「う……ん。よかった。ありがとう、ニューリ」

 カティヤは両手で顔を覆い、肩を震わせた。

 彼女は、これまで想像もしていなかった異世界に、たった一人で放り込まれたようなものだ。
 そばについている男二人も、同じものを視ることはできないし、触れられない。
 自分にしか視えない存在の恐怖を、トントゥに遭遇したときに思い知らされ、今回は花嫁を強引に手に入れようとする邪悪な精霊に生命の危機にも直面させられた。

 どれほど、恐ろしかっただろう。
 どれほど不安だっただろう。

 カティヤ……。

 できることなら、彼女を抱きしめて力づけたかった。
 慰めたかった。
 しかし彼女は、皮肉なことに、苦痛に耐えるように顔を歪めたヴィルヨの腕の中にいた。

「くそっ! 俺には全く視えねぇ。水の中でも、今でも、カティヤを抱きしめていたって何一つ視えねぇ! なんで、お前にだけ視えんだよ!」
「……さぁ。でも僕は、以前は視えていたから」

 ニューリは、そう答えることしかできなかった。

 精霊の花嫁は、伴侶となった精霊に強大な力を与える存在だ。
 だからこれは、花嫁の持つ能力が関係しているのだろう。
 その力は、人間であるヴィルヨには、何の影響も与えなくても不思議はない。

「人間相手ならどんな奴にも負けねぇ自信がある。だけど、姿も視えない、触れられもしない化け物を相手に、どうやってカティヤを守れっていうんだよ!」
「それは、僕が……」
「それじゃ駄目だ! 俺が、俺の手でカティヤを守りてぇんだ。なのに……くそっ!」
「お兄ちゃ……ん」

 ヴィルヨは腕の中の少女を強く抱きしめた。
 何者にも奪われないように、この世のすべてから彼女を隠すように、自分の内側にしっかりと抱え込む。
 その腕は、目の前にいるニューリをも拒絶していた。

 ああ、この男は僕と同じだ。
 自分が、自分こそが彼女を守りたいのだ。
 その役目を、他の男に取られたくないのだ。

 ニューリは二人から目をそらし、ネアッキの髪を握っているはずの左手を見た。
 指を開くと、視えないはずの髪が風に吹かれ、指の間を滑っていく気がした。

「ここから早く離れたほうがいい。濡れた服も着替えないと風邪をひく」

 もうこれ以上、こんな二人を見ていたくはなかった。

 ニューリは桟橋の上に声だけ残し、水の中をざぶざぶ歩いて岸に向かった。
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