【完結】白夜の花嫁 〜赤い瞳の少女は精霊の花嫁になる運命から逃れたい〜

平田加津実

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交錯する想い

こっちへおいで、私の花嫁

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 夜の間に、小さな隣町を通り過ぎた。
 湖に沿ってつけられた道の両側に、薄紫のルピナスが短い夏を謳歌するように咲き乱れている。
 まどろむだけの夜はとうに明けたが、日差しはさほど強くなく、湖面を渡る風はひんやりしていた。

 前日の午前中に少し眠っただけだったから、三人は疲れきっていた。
 日当りの良い湖のほとりで、夕方までゆっくり休むことにする。

「ここまで来れば大丈夫だろう。さっさと何か食って、休むぞ」

 さすがのヴィルヨも疲弊した様子で、ロバから荷を降ろした。
 ニューリも背中の矢筒を下ろし、大きく伸びをした。

 夏草の上に毛布を敷き、昨晩のカラクッコの残りと、ライ麦のパン、チーズとジャムを並べる。
 そのまま食べられるものばかりだったが、せめて温かいお茶を飲もうという話になった。

「わたしがお水を汲んでくるわ。顔も洗いたいし」
「ニューリ、お前は、火を見ていてくれ」
「あぁ」

 ヴィルヨの背中で運ばれる時間が長かったカティヤは、比較的元気そうだ。
 桶を抱えて桟橋へと向かう後ろ姿を、ニューリは眩しく見送った。

 彼女の長い金色の髪は、太陽の輝きがよく映える。
 その美しい髪をふわふわと遊ばせる透明な風も似合う。

 なんて、きれいなんだろう……。

 ニューリはうっとりと彼女の様子を眺めていたが、風に吹かれた彼女の髪が、隣を歩く男の腕にふわりと触れたとき、ぱっと顔を背けた。

 胸の中がもやもやし、手にしていた小枝を力任せに折って火にくべる。

 以前は、言葉を交わせなくても、触れられなくても、彼女の姿を眺めているだけで幸せだった。
 けれども今は、それだけでは苦しかった。
 何かが足りなかった。

 小枝をもう一本折って火に投げ入れると、火の粉が僅かに上がった。

「きゃあぁぁ!」
「カティヤっ!」

 突然、叫び声と二つの大きな水音が、相次いで響き渡った。

 弾かれたように立ち上がり湖に視線を向けると、水を汲んでいたはずの桟橋に二人の姿がない。

「カティヤ! ヴィルヨ! どうした!」

 慌てて桟橋に駆けつけると、静かな青い湖面の一部分が不自然に大きく波立ち、細かな泡で白く濁っていた。
 その隙間から、ヴィルヨが着ていたベストの茶色がかろうじて確認できる。

「カティヤ!」

 迷わず水に飛び込み、水中の風景に目を疑った。

 小さな湖だったにも関わらず、そこにはとてつもなく広くて深い水の空間が広がっていた。
 すぐそばにあるはずの岸も、さっきまでいた桟橋の足も、どこにも見あたらない。

 そんな圧倒的な水の支配の中、ヴィルヨはカティヤを抱きかかえながら、必死に頭上の湖面を目指していた。
 しかし、彼の努力も虚しく、二人は引きずり込まれるように深い湖底に沈んでいく。

 これは……。
 まさか!

 ニューリの目には、二人の姿と、とてつもなく広い水の空間以外は何も映らなかった。
 しかし、直感的に、視えない何かが水中に潜んでいることを感じ取る。

 このままでは、二人とも死んでしまう!

 水に深く潜ってカティヤに近づき、彼女の腰を抱えた時、彼女の右足を掴む手がぼんやりと目に浮かび上がってきた。

 ——早く、こっちへおいで。私の花嫁。

 甘く囁くような声が聞こえたかと思うと、目の前の光景が一変した。

 カティヤの足首を掴む極端に長い手の向こうに、緑色の長い髪をゆらゆらと水に広げた銀色の瞳の美しい男の顔があった。
 その髪のいくつかの束は、彼女の手足や身体に巻き付いて、ぴんと張り詰めている。
 踊るように水中をくねる裸体は、背面だけが毛むくじゃらだ。

 こいつは……ネアッキ!

 ネアッキは桟橋や橋の裏側や、湖や川、井戸などの水中に潜み、気に入った人間を水に引きずり込む下等な精霊だ。
 おそらく、水を汲もうと覗き込んだカティヤの瞳の色に気付いたのだろう。

 ニューリもカティヤを引き上げるために水を蹴ったが、ヴィルヨとの二人掛かりでも、水を棲家とする精霊には敵わなかった。
 鏡のような湖面はどんどん遠ざかっていく。

 早く水から上がらないと、カティヤが死んでしまう!

 必死にもがいていると、カティヤの足首を掴んでいた手に足がぶつかり、はっとした。
 そういえば、周囲を漂う長い髪が肌に触れる感触もある。

 そうか、視えるだけじゃない。
 これは……!

 ニューリは腰の短刀を抜いて、カティヤの足首を捕らえている手に斬りつけた。

 ——ぎゃあぁぁ!

 不気味な悲鳴が上がり、手がぱっと離れた。
 あちこちに巻き付いていた髪もするりと緩み、カティヤの身体が急に軽くなった。

 ニューリとヴィルヨはこの隙に水面を目指す。

 ——花嫁は私のものだ! 逃がすものか! 私は水の王になるのだ!

 その声と共に、解けかけた緑色の髪が、また、カティヤの手足に絡み始めた。

 カティヤの口から、最後の息がぼこりと上がった。
 もがいていた手足から力が抜け、だらりと動かなくなる。

 もう、時間がない!
 今すぐ水から引き上げなければ、カティヤが死んでしまう。

 ニューリは手にした短刀を死にものぐるいで振るい、花嫁を取り返そうと巻き付いてくる髪を次々と切断していった。

 抵抗が少なくなったカティヤの身体が、浮き上がる。
 ほどなく、水の天井を突き破った水しぶきの音が伝わってきた。

 よし。
 これで大丈夫だ。

 ヴィルヨとカティヤの頭が水の上に上がったのを確認し、ニューリも浮上しようとする。
 しかし、もう少しで水面というところで、足首がぐいと引っ張られた。
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