【完結】白夜の花嫁 〜赤い瞳の少女は精霊の花嫁になる運命から逃れたい〜

平田加津実

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わたしの居場所

辛い味……だね

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 悔しい。
 悔しい、悔しい!

 涙がぽたりと、草に落ちた。

 好きでこんな色の瞳になったわけじゃない。
 精霊の花嫁になんか、なりたくなかった。
 おかしな小人たちにはやし立てられ、人からは悪魔でも見るような目で見られる。
 大好きだった森には立ち入れないし、顔を上げて堂々と町中を歩くこともできない。
 どこにも行けない。
 誰とも触れ合えない。

 この世界に、わたしの居場所は、どこにも、ない——。

 荷馬車が走り去る音が聞こえてこないから、あの農夫はまだこちらを見ているはずだ。
 だから、泣き崩れそうになるのを歯を食いしばって耐え、無理矢理、足を進める。

「大丈夫。僕がいる」

 辛い胸の内が伝わったかのようなニューリの囁きに、思わず顔を上げた。
 目が合うと、明るい緑の瞳がふっと細められる。

「ほら、だめだよ。君の目は、太陽の光に弱いんだから……ね」

 彼は青い上着の袖を伸ばして、涙に濡れた目元を覆い隠す。
 その直後、額の真ん中に、ふわりと柔らかな温もりが落ちた。

 慰めと、気遣いがこもった優しい感触に、目を閉じる。

 ああ、そうだ。
 わたしが精霊の花嫁であることは出会ってすぐに気付いたはずなのに、彼は、最初から全く普通に接してくれた。
「助けてもらったお礼」と言いながら、その何倍も助けてくれた。

 わたしの居場所は、ここにある。
 きっと彼は、この先もずっと味方でいてくれる——。

 そう思うと、少し落ち着いてきた。

 濃いグリーンのスカーフは、川岸に落ちていた。
 かろうじて、濡れてはいない。

「こんなところまで飛ばされるような風なんか、吹いていなかったのに……」

 ニューリはスカーフを取り上げると、軽くほこりを払って、カティヤの頭に被せた。
 目元が隠れるように前を引っ張り、顎の下で三角の布端を結んでくれる。

「風じゃ……ない」
「え?」
「風で飛ばされたんじゃないの。トントゥが精霊の花嫁を見つけたって、スカーフを奪って逃げて行ったの」

 そう説明しながら、辺りをきょろきょろと見回した。
 あんなに大勢いたトントゥは、どこへ行ってしまったのか、今は一人も見あたらない。

「トントゥって、赤い帽子の小人の妖精?」
「うん。スカーフを取り返そうと思って、慌ててトントゥを追いかけたら、荷馬車が来て……あんなことに」
「そうだったのか」
「ニューリには視えなかったの? あんなにいっぱいいたのに」
「ああ……。僕には、スカーフが風に飛ばされたようにしか見えなかった。確かに、不自然な動きだとは思ったけど、まさかトントゥの仕業だったなんて思いもしなかった。全然、視えなかった。僕には……トントゥが全く視えなかった。もう……僕は……」

 彼の言葉の後半は、無念そうに掠れていった。

 さっきは悪戯が過ぎたが、トントゥは人間に好意的な害のない妖精とされている。
 けれども、もし、出くわしたのが、邪悪な妖精や悪魔、強い力を得るために花嫁を手に入れようとする精霊だったら、どうなっていただろう。

「やっぱり、視えるのはわたし……だけなの? 触れられるのも……?」
「…………くっ」

 無力感に強く握られた彼の手が、カティヤの疑問に対する答えだった。

 以前、彼が言っていた通り、人の目に触れないものに遭遇したとき、誰も自分を助けることができないのだ。
 自分一人でなんとかするしかない。
 それを強く実感すると、背中にぞくりと悪寒が走り、カティヤは両手で自分を抱いた。

「……怖い」
「カティヤ。もし、ありえないものが視えたら、すぐに僕に知らせて。どう対処すればいいかは、きっと教えてあげられるから」

 二の腕をぎゅっと握った手の甲に、彼の手が重なった。

 彼は穏やかに微笑んでいるが、隠しきれない不安が表情の硬さとなって見え隠れする。
 けれど、彼の存在が近くにあるだけで、ずいぶん心強かった。

「それにしても……しつこい男だな」

 荷馬車の上からこちらを窺う農夫を、ニューリがさっと振り向いて睨むと、男は慌てた様子で手綱を振るった。
 顔を向けられないカティヤの耳に、蹄と車輪の軋む音が聞こえてきた。

「とにかく、隠れていよう」

 一刻でも早くこの場から立ち去りたかったが、ヴィルヨが町に出かけたばかりだ。
 彼が戻るまで、まだかなり時間がかかるだろう。

 二人は荷物をまとめると、川岸に生える灌木の陰に身を寄せた。
 道からは、よほど気をつけていないと見えないような場所だったが、道を通る人の気配を感じる度に、カティヤは恐怖に息を飲んだ。

「大丈夫、なんでもない。誰もここまでは来ないから」

 彼の手が背中をさする。
 髪を撫でる。

「いや……。怖い……」
「平気だよ。僕がいるから」

 思わず彼にすがるように、手を伸ばすと、そのままぎゅっと抱きしめられた。

「そんなに震えないで。大丈夫だから……ね」

 小川のせせらぎが耳に入ってくる。
 二人を庇う灌木が、さわさわと葉を揺する。

 髪をゆっくり滑る優しい手。
 温かな腕。
 深い森の香り……。

 徐々に恐怖と緊張から解放されていったカティヤは、いつしか、彼の腕の中でうとうとし始めた。



 カティヤの頭がことりと落ちて、腕の中の重みが僅かに増した。

「カティヤ、眠ったの?」

 そっとかけた言葉に返事はなかった。

 彼女を起こさないように注意しながら顔を覗き込むと、長い金色のまつげの端にきらきらと輝くものがあった。
 それがあまりにも綺麗だったから、ニューリは彼女の瞼に唇を寄せた。

 それはその繊細な美しさとは裏腹に、とても苦しい味がした。
 彼女の家で散々な目にあった、白い結晶を口にした時と同じ味だった。

「辛い味……だね。カティヤ」

 彼女をこの苦しみから救い出してあげたかった。
 このまま彼女を人間の世界から連れ去ってしまえたら、どんなにいいだろう。
 けれども、そんなことはできるはずもなかった。

「ねぇ、どうしたら君は幸せになれるの?」

 森の中を軽やかに駆け抜け、楽しげに歌っていた天真爛漫な姿を思い出す。
 彼女は、自分の森の中で、いちばん美しい生き物だった。
 愛おしい存在だった。

 あの頃の幸せな笑顔を取り戻してあげるには、どうしたら良いのだろう。
 そのためなら、僕は、なんだってするのに——。

 ニューリは彼女の小さな頭を両腕で抱え込んだ。

 周囲の物音が遠ざかっていく。
 潅木の葉の隙間から降ってくる日差しからも、熱や光が消えていく。
 世界に二人だけしかいなくなったような、不思議な錯覚。

「せめて今は、僕だけのものでいて」

 ニューリはカティヤの頭に頬ずりすると、どうしようもないせつなさに目を閉じた。 
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