【完結】白夜の花嫁 〜赤い瞳の少女は精霊の花嫁になる運命から逃れたい〜

平田加津実

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岸辺と花の文字が並ぶ地名

十五歳、おめでとう

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 その直後、同じ窓から、目をぎらぎらと光らせた灰色の大きな獣が飛び込んできた。

 牙を剥いた口から漏れる威嚇の唸り声。
 狭い部屋に一気に充満する獣の臭い。

「ひっ……狼っ!」

 薄情なことにスルホともう一人の男が、首領を置き去りにして一目散に扉の壊れた玄関に走っていく。
 その間にも、窓からは次々と、唸り声を上げた狼が飛び込んできた。

「きゃぁぁぁ」
「うわぁぁ」

 ニューリとヴィルヨが悲鳴を上げ、飛びかかってきた狼をよけた。
 そのどさくさで逃げ出した首領と大男に、狼たちが一斉に襲いかかる。

「た、助けてくれー!」

 男たちと狼は室内でしばらくもみ合った後、外へ飛び出していった。

 ヴィルヨが台所の窓から身を乗り出してみると、二頭の狼に飛びかかられながら、必死に逃げていく首領の姿が見えた。
 少し遅れて大男が、腕に噛み付いた狼をぶら下げながらもう一頭に追われ、別の方向に走っていくのも見えた。
 他の男たちも、それぞれ逃げていったようだ。

 あっという間に、家の中はしんとなった。

「分かっていても、怖ぇえな。狼はよ」

 ヴィルヨがようやくほっとした声を漏らした。

「これで狼たちはあいつらの臭いを憶えたから、あの四人はもう、ここには近づけないよ。ついでに言えば、君とカティヤを襲うこともない」

 二人の話し声が聞こえてきたから、天井裏のカティヤはいてもたってもいられない。
 自分の故郷かもしれない村の話をしたくて、天井板を外して顔をのぞかせる。

「もう、降りていい?」
「おう。気をつけろよ」

 そろそろと戸棚の上に足を下ろすと、下で両手を広げたヴィルヨが待ち構えていた。

 どうしよう……。

 昨日までなら、こんな時、兄の腕の中にぽんと飛び込んでいたのだ。
 けれども今、兄の顔をして自分を受け止めようとしている男は本当は兄ではない。

 ヴィルヨは以前と変わらない態度で、自分に接してくれている。
 けれども、カティヤの心の中には、彼との間に細い線が一本引かれてしまった。
 彼の気持ちを聞かされてしまった今、妹の顔をして彼の腕に飛び降りることなど、できるはずがなかった。

「どうした。早く降りてこいよ」
「う……うん」

 当然のような顔をして下で待っている「兄」に、どうしていいか分からなくて困っていると、彼を押しのけるように、戸棚の前に椅子が押し込まれた。

「ほら。後ろ向きに降りたら椅子に足が届くよ。僕が椅子を押さえているから、ゆっくり降りて」

 椅子の背もたれを支え持ちながらにっこり笑うニューリに促され、自力でそろそろと戸棚を降りる。
 ヴィルヨは苦々しい面持ちで二人を見守っていたが、口も手も出さなかった。

 椅子から降りるときに手を貸してくれたのも、ニューリだった。
 彼はカティヤが無事に床に降り立つと、同じ椅子を勧めてくれた。

「君の生まれ故郷の名前、聞こえた?」
「うん。パンキクッカって……」

 屋根裏にいたカティヤの位置からは壁の文字は見えなかったから、慌ててあたりを見回した。
 そして竃の上の壁に、ものすごい癖字で書かれた文字を発見する。

 ゆっくりと一文字ずつ読んでいくと、確かに、天井裏で耳にした言葉通りの文字が並んでいた。

「あぁ……。本当にパンキクッカで間違いないのね! どこにあるの?」

 腕組みをして壁にもたれているヴィルヨに期待に輝く目を向けると、彼は黙って首を横に振った。
 今度はニューリを見たが、彼も同じだった。

「ごめん。僕も知らないんだ。あの男はこの国の北の端にあるって言ってたけど、あの極寒の地に、花という地名はそぐわない気がする」
「あぁ。奴が正直に教えてくれるはずがない。正しいのは村の名前だけだろう」

 ヴィルヨの視線に釣られて、カティヤはもう一度壁に書かれた文字を見た。

 それは、彼ら二人が、命がけで盗賊団から引き出してくれた真実。
 岸辺と花の文字が並ぶ美しい地名。

「でも、湖の近くにあるっていうのは正しいでしょ? 村の名前に岸辺ってついているくらいだから」
「まぁな。だが、この国には湖が何百ってあるんだ。ほとんどの町や村は湖のほとりだ。何の手がかりにもならねぇよ」
「あぁ……そっか。そうね」

 がっくりと落とした肩がぽんと叩かれ、明るい緑の瞳に覗き込まれる。

「でもさ、名前から考えると、温かな南の地方のような気がするな。ほら、森の中で君に話しただろう? 南にある大きな湖の近くに咲く、珍しい花のこと。君の故郷がそこだったら素敵だね」
「うん」

 本当にそうだといい。

 彼が話してくれたその湖には、周囲を取り囲むように真紅の花が咲き乱れているのだという。
 その景色を頭に思い描くと、少しだけ気持ちが上を向いた。

 ヴィルヨが壁から離れ、部屋の隅で埃まみれになっていた上着を拾い上げた。

「これから、旅に必要なものを買いに町に行ってくる。ついでに、その村を知っている人がいないか聞いてこよう」
「だったら、わたしも一緒に行くっ!」
「……だめだ。お前は留守番だ。ここで旅支度をしていろ」
「でも、しばらく旅に出るんだし、みんなに挨拶ぐらいしたいわ」

 椅子から立ち上がってヴィルヨに詰め寄ると、彼はカティヤの瞳をじっと見つめた後、辛そうに目を背けた。

「だめだ。…………今のお前を、町の皆の前に出す訳にはいかない」
「……あ」

 さっきまでの騒動でしばらく忘れていた最も厳しい現実が、いきなり覆い被さってきた気がした。

 精霊の花嫁である証拠——真紅の瞳。
 この瞳の色を、町の人々に知られる訳にはいかない。

 精霊の花嫁の伝説は、この町では悪く伝えられてはいないが、花嫁が実在すると分かったらきっと騒ぎになるだろう。
 これまで親しくつき合ってきた人々も、奇異の目で見るだろう。
 それに、せっかく追い払った盗賊団に噂が伝わってしまっては元も子もない。

「あぁ……」

 カティヤは重圧に背中を丸め、両手で顔を覆った。
 自分一人が、人間の世界からはじき出されてしまった気がした。

 ヴィルヨの気配が近づいてきても顔が上げられないでいると、頭のてっぺんに大きな手が置かれた。
 そのままぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられる。

「誕生日おめでとう」
「……え?」

 思いがけない言葉に驚いて、顔を覆った手を離そうとすると、細いものが手にぴんと引っかかった。
 それを慌てて外すと、首の後ろに細く重みがかかり、何かが目の前に落ちてきた。

「昨日は、お前にとって忌まわしい日だっただろうけど、それでも俺は、お前の誕生日を祝いたいんだよ。だから……十五歳、おめでとう」

 大きな手はカティヤの頭をぽんぽんと叩くと「行ってくる」と離れていった。

 細い革ひもに結ばれた、小さな円錐状のトナカイの角が胸元で揺れている。
 手に取ってみると、角の削られた側面に、並んだ二羽の小鳥が彫り込まれていた。
 この国で、古くから幸福の鳥と呼ばれて親しまれている図柄だ。

 その一羽は自分で、もう一羽はきっと……。

 カティヤはその角を両手でぎゅっと握りしめて立ち上がると、壊れた玄関扉をくぐろうとしているヴィルヨを目で追った。

「お兄ちゃん! あの……ありがとう」

 ようやく口にできたのは、たったそれだけだった。
 プレゼントに込められた彼の想いに触れても、やはり「お兄ちゃん」としか呼べない自分が歯がゆかった。

 彼は振り返ることなく右手を上げて「おう」と応え、そのまま出かけていった。
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