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深い森には精霊がいるから気をつけろ
森の王タピオ、この森を助けて!
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その瞬間、穏やかな森の姿が一変した。
きぃんとした強い耳鳴り。
その直後、最初に視えたのは、周囲を縦横無尽に飛び回るぼんやりとしたたくさんの黒い影だった。
それらは最初は幻のようで、身体に触れてもそのまますり抜けていく。
「これは……何? どうしたの?」
カティヤは背筋に凍えるような悪寒を感じ、肩をすくめて両腕で自分を抱いた。
おろおろと辺りを見回していると、飛び回る影が、徐々にはっきりとした形に視えてくる。
あっと思ったとき、腹部に強い衝撃を受け、濃い緑の苔の上に弾き飛ばされた。
トウヒの巨木に激しく背中をぶつけ、息が詰まって悲鳴も上げられない。
そのまま、呻きながらずるずると地面に崩れた。
恐怖に怯えながら、苦痛にかすむ目で辺りの様子をうかがう。
ついさっきまで朧げに視えていた黒い影たちは、今は、生まれたばかりの赤ん坊のような大きさの実体を持っていた。
丸い頭と胴体には、はっきりとした輪郭があるが、手足はぼやけている。
それらが、木々の間を狂ったように飛び回っていた。
周囲を取り巻くトウヒやマツの枝が、おののくようにざわめいている。
「まさか……。これはヒイシ?」
カティヤは兄のヴィルヨの話を思い出した。
深い森の中には、ヒイシという邪悪な精霊がいるから気をつけろ——。
しかし、カティヤにとって森は、いつでも自分を温かく迎えてくれる大好きな場所だった。
美しく澄んだ水。
宝石のようにキラキラした森の恵み。
背中を預ければ優しく抱きとめてくれる大樹。
小さく可憐な花や、人懐っこい小鳥やリスたち。
森を怖いと思ったことなど、これまで一度もなかった。
ヒイシの話も、森に通い詰める妹をたしなめるために兄が口にした、ただの迷信だと思っていた……のに。
「いやぁ! やめて! この森から出て行って!」
カティヤは足元に落ちていたトウヒの枯れ枝を振り回しながら、声の限りに叫んだ。
荒れ狂うヒイシは怖かったが、それ以上に、大好きな森が荒らされることが嫌だった。
「お願い! 森の王タピオ、この森を助けて!」
その声が届いたのか、ヒイシたちは一斉に動きを止めた。
時間が止まったかのように、黒い影が宙に浮いたまま固まっている。
あれほどざわついていた木々の音もぴたりと止み、辺りは静寂に包まれた。
「と……まった?」
カティヤが奇妙な光景を見回していると、ヒイシたちの姿が、さらさらと崩れていく。
そして、黒い霧となってあたりに立ちこめた後、風に流されて森の奥に消えていった。
ふと気付くと、頬に柔らかな木漏れ日を感じる。
穏やかな風が長い髪を梳いていく。
小鳥たちのさえずり、清々しい緑の匂い——。
目の前にはいつもと何ら変わらない、大好きな森の風景が広がっていた。
「……夢でも、見てたの?」
胸を押さえると、まだどきどきと強い鼓動を刻んでいた。
「今日は夏至祭だから、こんなことが起こったのかしら。夏至には悪霊たちも動き出すって言うもんね」
なんでもないと自分に言い聞かせるように明るい声でそう言うと、額にじっとりと浮かんでいた嫌な汗を手の甲で拭った。
「……もう、帰ろうかな」
夏至祭の飾りつけに使う白樺の枝や、未来の結婚相手を占う七種の草花を集めたくて、兄の言いつけを破って森にやってきた。
目的の物は何一つ手に入れていなかったが、そんな気はすっかり失せてしまった。
今すぐ帰れば、お兄ちゃんには気付かれないはず……。
そう思った時、すぐ背後でどさりと重いものが落ちた音がした。
カティヤはひっと息を飲み、しばらくそのまま凍り付いたように立ち尽くす。
けれども、それ以上の異変は起こらない。
勇気を振り絞って、そろそろと肩越しに振り返ってみると、苔に覆われた地面の上に七、八歳ぐらいの小さな子どもがうつぶせに倒れていた。
「え?」
ついさっきまで、ここにはわたししか、いなかったのに……?。
しかし、わき上がった疑問は、ぴくりとも動かない子どもを前に消え失せた。
「ねぇ! どうしたの、大丈夫?」
慌てて駆け寄り、小さな体を仰向けに抱き起こした。
幼くとも鼻筋の通った整った顔立ち。
透き通るほどに白い肌。
周囲の緑の色を映した銀色の長い髪は、背中でゆるく三つ編みにされている。
一瞬、女の子かと思うほどの美しい容姿だが、蔦の模様が刺繍された、不思議な光沢を持つ丈の長い青い上着と、ズボン、革のブーツ姿を見ると、どうやら男の子らしかった。
あまりの美しさに、しばし見とれていたのだが、それどころではないとはっと気付く。
「ねえ、起きて! 起きてったら!」
声をかけながら体を揺さぶってみたが、何の反応もない。
手も足も、首も、力なく下がったままだ。
胸に耳を当てて、心臓の音を確認してみたが、消え入りそうな弱い鼓動しか感じられなかった。
伝わってくる体温も、ずいぶん低い。
「どうしよう。このままじゃ、この子、死んじゃうわ」
カティヤの顔から血の気が引いた。
どうしていいか分からず、子どもを腕に抱いたまま、助けを求めるようにおろおろと辺りを見回すと、木々の間の遠くにきらりとした輝きが見えた。
森をもう少し進んだところに、小さな湖があるのだ。
冷たい水を飲ませたら、目を覚ますかもしれない。
「待ってて。お水を持ってきてあげる」
そう声をかけて、彼の身体を地面に下ろしかけた。
けれど、瀕死の子どもを、たとえ僅かな間でも一人にしておくことが躊躇われる。
そうだ。
ムスティッカのジュース!
ムスティッカはこの地に自生する濃い青紫色のベリーだ。
森の中で飲もうと、今朝、家の周囲に実っていたその実をジュースにして持って来ていたのだ。
カティヤは「ごめんね」と彼を下ろし、少し離れた場所に落ちていた籠に駆け寄った。
籠の中身はすべて外に飛び出していたが、果汁を入れた瓶は、厚く柔らかな苔の上に落ちたおかげて無事だった。
急いで子どもの元に戻り、彼を膝の上に抱え上げた。
コルク栓をはずして、瓶の口を彼の色のない唇に当て、中身をたらしてみる。
しかし流れ出た濃い青紫色の液体は、彼の唇と頬を同じ色に染めただけで、どうしても飲んではくれなかった。
「だめだわ」
カティヤは瓶の中身を口に含むと、ためらうことなく彼に口づけた。
慎重に、ゆっくりと、甘酸っぱい液体を彼の口内に注ぎ込む。
すると、細い喉がこくりと小さな音を立てた。
飲んだ!
唇を外し、少し離れて彼の顔をじっと見つめると、銀色の長い睫毛が微かに震えた。
「…………う……」
瞼は開かなかったが、僅かに開かれた紫色に濡れた唇の間から、小さなうめき声が漏れる。
「よかった! 気がついた?」
「…………っ……と……」
「え? 何?」
か細い声での訴えを聞き取ろうと顔を寄せると、小さな両手が伸びてカティヤの首に回った。
「……もっと……」
うわごとのようなその声は、さっき与えた果汁を欲しているらしい。
「もっと? うん、分かった」
カティヤは地面に置いた瓶に手を伸ばした。
しかし、弱々しかった彼の両手に急に力がこもり、頭がぐいと引き寄せられる。
「え? 待って。まだ……」
慌てたカティヤは、腕を突っ張って彼を制止しようとするが、必死な両手がそれを赦してくれなかった。
自分より小さい子どもとは思えないほどの強い力で拘束され、強引に唇が重ねられる。
「まっ……て、まだ、んっ…………う……んっ」
小さな子どもは死にものぐるいでしがみつき、空気を求めるように唇に吸いついてくる。
そうしなければ、死んでしまうかのように。
しかし、カティヤは息を継ぐ僅かの隙間もない。
もちろん、彼が欲しがっている果汁を飲ませることもできない。
まって!
これじゃ、だ……め……。
しかし、どんなに抵抗しても、彼の細い腕を振りほどくことができなかった。
強く押し付けられている唇から、水分ではない何かが、吸い取られていくような奇妙な感覚。
急速に全身がだるくなり、頭の中が白い霧で覆われていく。
やがて、身体を支えていた腕からがくりと力が抜け、カティヤは小さな身体の上に崩れ落ちた。
きぃんとした強い耳鳴り。
その直後、最初に視えたのは、周囲を縦横無尽に飛び回るぼんやりとしたたくさんの黒い影だった。
それらは最初は幻のようで、身体に触れてもそのまますり抜けていく。
「これは……何? どうしたの?」
カティヤは背筋に凍えるような悪寒を感じ、肩をすくめて両腕で自分を抱いた。
おろおろと辺りを見回していると、飛び回る影が、徐々にはっきりとした形に視えてくる。
あっと思ったとき、腹部に強い衝撃を受け、濃い緑の苔の上に弾き飛ばされた。
トウヒの巨木に激しく背中をぶつけ、息が詰まって悲鳴も上げられない。
そのまま、呻きながらずるずると地面に崩れた。
恐怖に怯えながら、苦痛にかすむ目で辺りの様子をうかがう。
ついさっきまで朧げに視えていた黒い影たちは、今は、生まれたばかりの赤ん坊のような大きさの実体を持っていた。
丸い頭と胴体には、はっきりとした輪郭があるが、手足はぼやけている。
それらが、木々の間を狂ったように飛び回っていた。
周囲を取り巻くトウヒやマツの枝が、おののくようにざわめいている。
「まさか……。これはヒイシ?」
カティヤは兄のヴィルヨの話を思い出した。
深い森の中には、ヒイシという邪悪な精霊がいるから気をつけろ——。
しかし、カティヤにとって森は、いつでも自分を温かく迎えてくれる大好きな場所だった。
美しく澄んだ水。
宝石のようにキラキラした森の恵み。
背中を預ければ優しく抱きとめてくれる大樹。
小さく可憐な花や、人懐っこい小鳥やリスたち。
森を怖いと思ったことなど、これまで一度もなかった。
ヒイシの話も、森に通い詰める妹をたしなめるために兄が口にした、ただの迷信だと思っていた……のに。
「いやぁ! やめて! この森から出て行って!」
カティヤは足元に落ちていたトウヒの枯れ枝を振り回しながら、声の限りに叫んだ。
荒れ狂うヒイシは怖かったが、それ以上に、大好きな森が荒らされることが嫌だった。
「お願い! 森の王タピオ、この森を助けて!」
その声が届いたのか、ヒイシたちは一斉に動きを止めた。
時間が止まったかのように、黒い影が宙に浮いたまま固まっている。
あれほどざわついていた木々の音もぴたりと止み、辺りは静寂に包まれた。
「と……まった?」
カティヤが奇妙な光景を見回していると、ヒイシたちの姿が、さらさらと崩れていく。
そして、黒い霧となってあたりに立ちこめた後、風に流されて森の奥に消えていった。
ふと気付くと、頬に柔らかな木漏れ日を感じる。
穏やかな風が長い髪を梳いていく。
小鳥たちのさえずり、清々しい緑の匂い——。
目の前にはいつもと何ら変わらない、大好きな森の風景が広がっていた。
「……夢でも、見てたの?」
胸を押さえると、まだどきどきと強い鼓動を刻んでいた。
「今日は夏至祭だから、こんなことが起こったのかしら。夏至には悪霊たちも動き出すって言うもんね」
なんでもないと自分に言い聞かせるように明るい声でそう言うと、額にじっとりと浮かんでいた嫌な汗を手の甲で拭った。
「……もう、帰ろうかな」
夏至祭の飾りつけに使う白樺の枝や、未来の結婚相手を占う七種の草花を集めたくて、兄の言いつけを破って森にやってきた。
目的の物は何一つ手に入れていなかったが、そんな気はすっかり失せてしまった。
今すぐ帰れば、お兄ちゃんには気付かれないはず……。
そう思った時、すぐ背後でどさりと重いものが落ちた音がした。
カティヤはひっと息を飲み、しばらくそのまま凍り付いたように立ち尽くす。
けれども、それ以上の異変は起こらない。
勇気を振り絞って、そろそろと肩越しに振り返ってみると、苔に覆われた地面の上に七、八歳ぐらいの小さな子どもがうつぶせに倒れていた。
「え?」
ついさっきまで、ここにはわたししか、いなかったのに……?。
しかし、わき上がった疑問は、ぴくりとも動かない子どもを前に消え失せた。
「ねぇ! どうしたの、大丈夫?」
慌てて駆け寄り、小さな体を仰向けに抱き起こした。
幼くとも鼻筋の通った整った顔立ち。
透き通るほどに白い肌。
周囲の緑の色を映した銀色の長い髪は、背中でゆるく三つ編みにされている。
一瞬、女の子かと思うほどの美しい容姿だが、蔦の模様が刺繍された、不思議な光沢を持つ丈の長い青い上着と、ズボン、革のブーツ姿を見ると、どうやら男の子らしかった。
あまりの美しさに、しばし見とれていたのだが、それどころではないとはっと気付く。
「ねえ、起きて! 起きてったら!」
声をかけながら体を揺さぶってみたが、何の反応もない。
手も足も、首も、力なく下がったままだ。
胸に耳を当てて、心臓の音を確認してみたが、消え入りそうな弱い鼓動しか感じられなかった。
伝わってくる体温も、ずいぶん低い。
「どうしよう。このままじゃ、この子、死んじゃうわ」
カティヤの顔から血の気が引いた。
どうしていいか分からず、子どもを腕に抱いたまま、助けを求めるようにおろおろと辺りを見回すと、木々の間の遠くにきらりとした輝きが見えた。
森をもう少し進んだところに、小さな湖があるのだ。
冷たい水を飲ませたら、目を覚ますかもしれない。
「待ってて。お水を持ってきてあげる」
そう声をかけて、彼の身体を地面に下ろしかけた。
けれど、瀕死の子どもを、たとえ僅かな間でも一人にしておくことが躊躇われる。
そうだ。
ムスティッカのジュース!
ムスティッカはこの地に自生する濃い青紫色のベリーだ。
森の中で飲もうと、今朝、家の周囲に実っていたその実をジュースにして持って来ていたのだ。
カティヤは「ごめんね」と彼を下ろし、少し離れた場所に落ちていた籠に駆け寄った。
籠の中身はすべて外に飛び出していたが、果汁を入れた瓶は、厚く柔らかな苔の上に落ちたおかげて無事だった。
急いで子どもの元に戻り、彼を膝の上に抱え上げた。
コルク栓をはずして、瓶の口を彼の色のない唇に当て、中身をたらしてみる。
しかし流れ出た濃い青紫色の液体は、彼の唇と頬を同じ色に染めただけで、どうしても飲んではくれなかった。
「だめだわ」
カティヤは瓶の中身を口に含むと、ためらうことなく彼に口づけた。
慎重に、ゆっくりと、甘酸っぱい液体を彼の口内に注ぎ込む。
すると、細い喉がこくりと小さな音を立てた。
飲んだ!
唇を外し、少し離れて彼の顔をじっと見つめると、銀色の長い睫毛が微かに震えた。
「…………う……」
瞼は開かなかったが、僅かに開かれた紫色に濡れた唇の間から、小さなうめき声が漏れる。
「よかった! 気がついた?」
「…………っ……と……」
「え? 何?」
か細い声での訴えを聞き取ろうと顔を寄せると、小さな両手が伸びてカティヤの首に回った。
「……もっと……」
うわごとのようなその声は、さっき与えた果汁を欲しているらしい。
「もっと? うん、分かった」
カティヤは地面に置いた瓶に手を伸ばした。
しかし、弱々しかった彼の両手に急に力がこもり、頭がぐいと引き寄せられる。
「え? 待って。まだ……」
慌てたカティヤは、腕を突っ張って彼を制止しようとするが、必死な両手がそれを赦してくれなかった。
自分より小さい子どもとは思えないほどの強い力で拘束され、強引に唇が重ねられる。
「まっ……て、まだ、んっ…………う……んっ」
小さな子どもは死にものぐるいでしがみつき、空気を求めるように唇に吸いついてくる。
そうしなければ、死んでしまうかのように。
しかし、カティヤは息を継ぐ僅かの隙間もない。
もちろん、彼が欲しがっている果汁を飲ませることもできない。
まって!
これじゃ、だ……め……。
しかし、どんなに抵抗しても、彼の細い腕を振りほどくことができなかった。
強く押し付けられている唇から、水分ではない何かが、吸い取られていくような奇妙な感覚。
急速に全身がだるくなり、頭の中が白い霧で覆われていく。
やがて、身体を支えていた腕からがくりと力が抜け、カティヤは小さな身体の上に崩れ落ちた。
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