62 / 69
民衆の前に降り立つ希望
伊邪国へ(一)
しおりを挟む
月明かりに照らされた道を伍徒が先導し、ツクスナ、ヤナナの順に駆けていく。
ツクスナは自分を背負っているし、女性のヤナナも同行しているから、おそらく、これでも遅いペースのはずだ。
なのに、墨絵のような景色が後ろに流れていく速さは、驚くほどだった。
ツクスナは大きな歩幅で飛ぶように走っていく。
上半身が安定しているから、あまり振動を感じず、背負われていても辛くはなかった。
しかし、徐々に上がっていく彼の体温が、折り畳んだ掛布ごしに伝わってくる。
体温が上がれば、彼の匂いが強く立つ。
いつも近くにあるこの匂いは決して嫌いではないが、濃厚すぎてくらくらしてきた。
だいたい、こんな風に男の人にしがみつく状況なんて、普通ありえない。
考えてみればおんぶどころかお姫様だっこもあるし、強くだきしめられたことも何度もある。
眠るときに手を握ってもらった……のは、自分からだったけど。
彼の匂いが記憶を刺激し、次々に頭に浮かんでくるとんでもないシーンに、ルイカは強烈な羞恥を覚えて身もだえた。
ついつい彼の首に回していた腕に力が入る。
すると、彼の大きな手が確認するように腕に触れてきて、心臓が跳ね上がった。
「大丈夫ですか?」
速い呼吸の間から心配そうな声が聞こえてきて、ルイカは慌てて、こくこくと頷いた。
しゃべらないように言われていて良かった。
きっと今は、まともに話せない。
「辛いのでは?」
今度は首を横に振る。
彼との間に掛布が挟んであって良かった。
それがなければ、走ってもいないのに全力疾走しているような鼓動の速さを、知られてしまうだろう。
「もう少し、辛抱してください」
申し訳なさそうにそう言って、彼は手を離した。
ルイカは彼に気付かれないように、そっと息をついた。
それからさらに走り続け、先導の伍徒が「少し休みましょう」と立ち止まった時には、ルイカはすっかりのぼせ上がっていた。
それでも、彼の背中から離されると、密着していた二人の間に夜風が通り思わず身体が震える。
「これでは、風邪をひいてしまいますね」
彼も同じ冷気を背中に感じたようで、二人の間にあった掛布を広げるとルイカに巻き付けてくれた。
あれだけの速度で長時間走ってきたのに、男達は呼吸が乱れている程度で平気な顔をしている。
ヤナナはさすがに、辛そうに木にもたれ掛かっていた。
「汗をかいていますね。顔も熱い。暑かったでしょう?」
大きな手が、しっとりと汗ばんだルイカの頬や額に触れてきた。
夜風に冷えたはずの身体が、またかっと熱くなってくる。
「……うん」
「私もかなり背中が暑かったので、気になっていたのですが……。でも、何かうめいていませんでしたか? 気分が悪かったのではありませんか?」
「だ、大丈夫。ホント、暑かっただけだから」
月に群雲がかかって辺りは薄暗く、表情が見えづらいのをいいことに、ルイカは何もかもを暑さのせいにすることにした。
「それなら良いのですが。無理はしないでください」
彼はそう言って、竹筒に入った水をルイカに差し出した。
一行は中継地点のムラ長の館でしばらく休息した後、昼間のうちに四つのムラを移動し、山あいの小規模な市に到着した。
この市の後方に迫る山を越えると、伊邪国内に入るのだという。
市楼の上階に身を寄せた四人は、市に常駐する役人から差し入れられた夕餉を囲んでいた。
「先に山に入った者たちが、道を簡単に整えて目印を置いてくれているはずです。険しい山ではありませんから、越えるのは難しくありません。さほど急がなくても、夜明け前には伊邪国の宮に着けるかと。砂徒長らとは現地で落ちあうことになっております」
「いよいよ……じゃな」
伍徒の説明に、ルイカは立ち上がって跳ね上げの窓から外を見た。
先程、楼の外に篝火が灯されたばかりだ。
西の空は陽の色の名残を僅かに残している。
あの空が、完全に深い藍に覆い尽くされたら、伊邪国への最後の道を辿るのだ。
ルイカは目を閉じ、気を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
「では、ツクスナ、伍徒。そなたらは、しばらく外に出てくれぬか」
「外へ? 構いませんが、どうかされましたか」
怪訝な顔をするツクスナに、ルイカはふふと笑った。
「ヤナナ。そなたに預けた荷を開けておくれ」
「はい」
彼女が昨晩以外いつも背負って運んでいた荷は、邪馬台国を出るときにタダキに準備させたものだ。
包みを解くと、中から鮮やかな茜に染められた大袖の衣とひだのある白い裳、貝紫の腰帯が出てきた。
それらは薄暗い楼の中でも、はっきりとした色彩を放っている。
「これは……」
「わらわの、お気に入りの衣じゃ。ヨウダキと相対するときは、どうしてもこれを身につけていたいのじゃ」
ルイカは『わらわの』という言葉をことさらに強調した。
茜の大袖と白の裳はイヨ姫のお気に入りというだけでなく、彼女が最期にまとっていた装いでもある。
ルイカは同じものを身につけて、彼女の無念を晴らしたかった。
その強い思いはツクスナにも伝わり、彼は大きく頷いた。
「分かりました。では、我々は山の様子を少し見てきましょう」
男達は連れ立って、外に出て行った。
ツクスナは自分を背負っているし、女性のヤナナも同行しているから、おそらく、これでも遅いペースのはずだ。
なのに、墨絵のような景色が後ろに流れていく速さは、驚くほどだった。
ツクスナは大きな歩幅で飛ぶように走っていく。
上半身が安定しているから、あまり振動を感じず、背負われていても辛くはなかった。
しかし、徐々に上がっていく彼の体温が、折り畳んだ掛布ごしに伝わってくる。
体温が上がれば、彼の匂いが強く立つ。
いつも近くにあるこの匂いは決して嫌いではないが、濃厚すぎてくらくらしてきた。
だいたい、こんな風に男の人にしがみつく状況なんて、普通ありえない。
考えてみればおんぶどころかお姫様だっこもあるし、強くだきしめられたことも何度もある。
眠るときに手を握ってもらった……のは、自分からだったけど。
彼の匂いが記憶を刺激し、次々に頭に浮かんでくるとんでもないシーンに、ルイカは強烈な羞恥を覚えて身もだえた。
ついつい彼の首に回していた腕に力が入る。
すると、彼の大きな手が確認するように腕に触れてきて、心臓が跳ね上がった。
「大丈夫ですか?」
速い呼吸の間から心配そうな声が聞こえてきて、ルイカは慌てて、こくこくと頷いた。
しゃべらないように言われていて良かった。
きっと今は、まともに話せない。
「辛いのでは?」
今度は首を横に振る。
彼との間に掛布が挟んであって良かった。
それがなければ、走ってもいないのに全力疾走しているような鼓動の速さを、知られてしまうだろう。
「もう少し、辛抱してください」
申し訳なさそうにそう言って、彼は手を離した。
ルイカは彼に気付かれないように、そっと息をついた。
それからさらに走り続け、先導の伍徒が「少し休みましょう」と立ち止まった時には、ルイカはすっかりのぼせ上がっていた。
それでも、彼の背中から離されると、密着していた二人の間に夜風が通り思わず身体が震える。
「これでは、風邪をひいてしまいますね」
彼も同じ冷気を背中に感じたようで、二人の間にあった掛布を広げるとルイカに巻き付けてくれた。
あれだけの速度で長時間走ってきたのに、男達は呼吸が乱れている程度で平気な顔をしている。
ヤナナはさすがに、辛そうに木にもたれ掛かっていた。
「汗をかいていますね。顔も熱い。暑かったでしょう?」
大きな手が、しっとりと汗ばんだルイカの頬や額に触れてきた。
夜風に冷えたはずの身体が、またかっと熱くなってくる。
「……うん」
「私もかなり背中が暑かったので、気になっていたのですが……。でも、何かうめいていませんでしたか? 気分が悪かったのではありませんか?」
「だ、大丈夫。ホント、暑かっただけだから」
月に群雲がかかって辺りは薄暗く、表情が見えづらいのをいいことに、ルイカは何もかもを暑さのせいにすることにした。
「それなら良いのですが。無理はしないでください」
彼はそう言って、竹筒に入った水をルイカに差し出した。
一行は中継地点のムラ長の館でしばらく休息した後、昼間のうちに四つのムラを移動し、山あいの小規模な市に到着した。
この市の後方に迫る山を越えると、伊邪国内に入るのだという。
市楼の上階に身を寄せた四人は、市に常駐する役人から差し入れられた夕餉を囲んでいた。
「先に山に入った者たちが、道を簡単に整えて目印を置いてくれているはずです。険しい山ではありませんから、越えるのは難しくありません。さほど急がなくても、夜明け前には伊邪国の宮に着けるかと。砂徒長らとは現地で落ちあうことになっております」
「いよいよ……じゃな」
伍徒の説明に、ルイカは立ち上がって跳ね上げの窓から外を見た。
先程、楼の外に篝火が灯されたばかりだ。
西の空は陽の色の名残を僅かに残している。
あの空が、完全に深い藍に覆い尽くされたら、伊邪国への最後の道を辿るのだ。
ルイカは目を閉じ、気を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
「では、ツクスナ、伍徒。そなたらは、しばらく外に出てくれぬか」
「外へ? 構いませんが、どうかされましたか」
怪訝な顔をするツクスナに、ルイカはふふと笑った。
「ヤナナ。そなたに預けた荷を開けておくれ」
「はい」
彼女が昨晩以外いつも背負って運んでいた荷は、邪馬台国を出るときにタダキに準備させたものだ。
包みを解くと、中から鮮やかな茜に染められた大袖の衣とひだのある白い裳、貝紫の腰帯が出てきた。
それらは薄暗い楼の中でも、はっきりとした色彩を放っている。
「これは……」
「わらわの、お気に入りの衣じゃ。ヨウダキと相対するときは、どうしてもこれを身につけていたいのじゃ」
ルイカは『わらわの』という言葉をことさらに強調した。
茜の大袖と白の裳はイヨ姫のお気に入りというだけでなく、彼女が最期にまとっていた装いでもある。
ルイカは同じものを身につけて、彼女の無念を晴らしたかった。
その強い思いはツクスナにも伝わり、彼は大きく頷いた。
「分かりました。では、我々は山の様子を少し見てきましょう」
男達は連れ立って、外に出て行った。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー
長髄彦ファン
歴史・時代
日向の皇子・磐余彦(のちの神武天皇)は、出雲王の長髄彦からもらった弓矢を武器に人喰い熊の黒鬼を倒す。磐余彦は三人の兄と仲間とともに東の国ヤマトを目指して出航するが、上陸した河内で待ち構えていたのは、ヤマトの将軍となった長髄彦だった。激しい戦闘の末に長兄を喪い、熊野灘では嵐に遭遇して二人の兄も喪う。その後数々の苦難を乗り越え、ヤマト進撃を目前にした磐余彦は長髄彦と対面するが――。
『日本書紀』&『古事記』をベースにして日本の建国物語を紡ぎました。
※この作品はNOVEL DAYSとnoteでバージョン違いを公開しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
『神山のつくば』〜古代日本を舞台にした歴史ロマンスファンタジー〜
うろこ道
恋愛
【完結まで毎日更新】
時は古墳時代。
北の大国・日高見国の王である那束は、迫る大和連合国東征の前線基地にすべく、吾妻の地の五国を順調に征服していった。
那束は自国を守る為とはいえ他国を侵略することを割り切れず、また人の命を奪うことに嫌悪感を抱いていた。だが、王として国を守りたい気持ちもあり、葛藤に苛まれていた。
吾妻五国のひとつ、播埀国の王の首をとった那束であったが、そこで残された后に魅せられてしまう。
后を救わんとした那束だったが、后はそれを許さなかった。
后は自らの命と引き換えに呪いをかけ、那束は太刀を取れなくなってしまう。
覡の卜占により、次に攻め入る紀国の山神が呪いを解くだろうとの託宣が出る。
那束は従者と共に和議の名目で紀国へ向かう。山にて遭難するが、そこで助けてくれたのが津久葉という洞窟で獣のように暮らしている娘だった。
古代日本を舞台にした歴史ロマンスファンタジー。


大陰史記〜出雲国譲りの真相〜
桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ
ラスト・シャーマン
長緒 鬼無里
歴史・時代
中国でいう三国時代、倭国(日本)は、巫女の占いによって統治されていた。
しかしそれは、巫女の自己犠牲の上に成り立つ危ういものだった。
そのことに疑問を抱いた邪馬台国の皇子月読(つくよみ)は、占いに頼らない統一国家を目指し、西へと旅立つ。
一方、彼の留守中、女大王(ひめのおおきみ)となって国を守ることを決意した姪の壹与(いよ)は、占いに不可欠な霊力を失い絶望感に伏していた。
そんな彼女の前に、一人の聡明な少年が現れた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる