上 下
48 / 69
奪われた想い出

壺に収められた想い出(一)

しおりを挟む
 あれから何事もなく、何度目かの朝を迎えた。

 濃い色の雲が低くたれ込め、山々の姿を隠している。
 すでに遠方では雨が降り始めているらしく、生暖かい風が濡れた土の匂いを運んできていた。

 日を追うごとに、ルイカやツクスナ、警備の砂徒たちの緊張感は高まっているが、詳しい事情を知らされていない侍婢たちは、今では呑気なものだった。
 四六時中付き添っているツクスナも、ルイカが身支度を整えている間だけは追い払われてしまい、館の中に残っているのはルイカと若い侍婢が三人だけだ。

「今日は、この櫛を差しましょうか。茜の衣にはよく合いますよ」
「でしたら、髪は大きく結った方が……」

 侍婢たちは、今朝も楽しそうに話に花を咲かせながらルイカの髪を結い上げている。
 この日は、侍婢頭のタダキがいないこともあって、さらに伸び伸びとしていた。

 話は髪型の話から、いつしか恋の話へと移っていく。
 侍婢の二人は既婚者だったが、いつの時代も若い女の子の関心ごとは同じらしい。
 ルイカは、学校の教室で友達とはしゃいでいた日々を懐かしく思い出しながら、彼女たちの話を聞いていた。

「姫様もいつか、この想いが分かるようになりますわ」

 誰を想っているのか、未婚の侍婢が頬をほんのりと染めている。

 悪気はないのだろうが、侍婢たちにまで幼い子ども扱いされて、ルイカがむっと口を曲げた。
 見かけは小さな姫巫女でも、実際の年齢は彼女達と同じくらいだ。
 恋の一つや二つくらい……と思い出そうとして頭に浮かんだのは、両頬に砂の文様を刻んだ顔だった。
 それを慌てて打ち消すと、つんとすました顔を作る。

「わらわは男子おのこになど、興味はないわ」
「姫様ももう少し大人になれば、分かりますわ」

 ふふふと顔を見合わせて笑う侍婢たちに、さらに子ども扱いされてしまったことに気付き、ルイカは小さく唸った。

「もうよい。早く朝餉の支度を……」

 嫌な話の流れを断ち切ろうと立ち上がりかけた時、左胸に強い痛みが走った。

「う……、くっ!」

 喘ぐように口を開くが、全身を縛りつけるような強烈な痛みに息をすることすらできない。

「きゃあぁぁー! 姫様っ!」

 胸を押さえてその場に倒れ込んだ姫巫女に、館の中は騒然となった。

「姫様! どうなされたのですか! 苦しいのですか!」

 板敷きの冷たい床でのたうち回って苦しむ姫巫女に、二人の侍婢が両側からおろおろと手を伸ばす。
 もう一人の侍婢は、戸口で待っているツクスナを呼びに行った。

「姫! どうされたのですか!」

 既に異変に気づいていたツクスナが、呼びにきた侍婢を押しのけるようにして部屋に駆け込んできた。

「ううっ……あぁぁぁー!」

 身体の中の小さな蛇が、心臓に牙を突き立てて膨れ上がり、もう一つの激しい鼓動を刻んでいた。
 心臓を食い破り、新しい心臓に成り代わろうとしているようだ。
 頭の中も、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられているようで、正気を保っていられない。
 ルイカは狂ったように髪を振り乱し、床の上を転げ回っていた。

「姫! 大丈夫ですか!」

 駆け寄ってきたツクスナは、とっさにルイカの二の腕を両手で押さえつけて床に縫い止めた。
 暴れる両足には膝で乗りかかって動きを封じる。
 それでも、額に脂汗を浮かべ、左右に激しく振る頭をどうにもできなかった。

「くそっ、だめだ!」

 ツクスナは、一旦放した両手を頭と背中の下に差し入れ、ルイカの上半身をしっかりと胸に抱え込んだ。

「くっ」

 泣きながら暴れたルイカを拘束したときとは、比べ物にならない激しさだ。
 この小さな身体のどこに、これだけの力があるのかと思うほど、硬直した身体が大きく跳ねる。
 必死にすがるルイカの爪が、彼のむき出しの肩や背中を掻きむしっていく。

「ルイカ。ルイカ、しっかりしてください」

 ツクスナは凶暴なほどに暴れ回る小さな身体を必死に受け止めながら、自分の無力さに唇を噛んだ。

『さあ、イヨ姫。わらわに従うのじゃ!』

 ルイカの頭の中に、意識をどす黒く塗りつぶすような、あの憎き女の声が響いた。

 どれほどの苦痛に苛まれようと、この声に従うことなどできるはずがない。
 閉じかけた意識が、激しく反発する。

「いやああぁぁぁー!」

 声がつぶれそうな絶叫とともに、ルイカの身体が大きくのけぞった。
 ツクスナは奥歯を噛み締めて、彼女の苦痛を抱き止める。

 その直後、彼の肩に突き刺さっていた爪が外れ、小さな手がするりと落ちた。
 強ばっていた身体からもふっと力が抜ける。

「…………ルイ……カ?」

 ぐったりとした小さな身体を胸に、ツクスナが呆然と目を見開いた。
 周りの侍婢たちも、同じことを思ったのか、甲高い悲鳴を上げた。

「ルイカっ!」

 慌てて腕を緩め、ルイカの顔を覗き込んだ。
 血の気の引いた真っ白な顔に、一瞬、心臓が凍り付く。
 しかしルイカは、腕の中で浅く早い息をついていた。

「だ……いじょう……ぶ、よ」

 これほど近くにいれば、苦痛に霞んだ目にも彼の必死な顔は分かる。
 どれだけ悲痛な思いでいたのかも、彼の震える腕から伝わってくる。
 だからルイカは、自分の無事を知らせようと、苦しい息の下から声を絞り出した。

「もう、行っ……たわ」
「よかっ……た」

 耳元でくぐもる彼の声。
 背中に回された腕に力がこもる。
 大きな安堵感に包まれ、ルイカの意識がゆっくりと遠のいていく。

「申し訳ありません。あなたがこんなに苦しんでいるのに、私は盾になることも、代わって差し上げることもできない。私は……無力だ」

 霧の向こうから聞こえるような無念の滲む声に、そんなことはないと伝えたかった。
 しかしもう、声を出すことも、身体を動かすこともできなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天冥聖戦 伝説への軌跡

くらまゆうき
ファンタジー
あらすじ 狐の神族にはどんな過去があって人に封印されたのか? もはや世界の誰からも忘れられた男となった狐神はどうにかして人の体から出ようとするが、思いもよらぬ展開へと発展していく… 消えている過去の記憶を追い求めながら彼が感じた事は戦争のない世界を作りたい。 シーズンを重ねるごとに解き明かされていく狐の神族の謎は衝撃の連発! 書籍化、アニメ化したいと大絶賛の物語をお見逃しなく

『神山のつくば』〜古代日本を舞台にした歴史ロマンスファンタジー〜

うろこ道
恋愛
【完結まで毎日更新】 時は古墳時代。 北の大国・日高見国の王である那束は、迫る大和連合国東征の前線基地にすべく、吾妻の地の五国を順調に征服していった。 那束は自国を守る為とはいえ他国を侵略することを割り切れず、また人の命を奪うことに嫌悪感を抱いていた。だが、王として国を守りたい気持ちもあり、葛藤に苛まれていた。 吾妻五国のひとつ、播埀国の王の首をとった那束であったが、そこで残された后に魅せられてしまう。 后を救わんとした那束だったが、后はそれを許さなかった。 后は自らの命と引き換えに呪いをかけ、那束は太刀を取れなくなってしまう。 覡の卜占により、次に攻め入る紀国の山神が呪いを解くだろうとの託宣が出る。 那束は従者と共に和議の名目で紀国へ向かう。山にて遭難するが、そこで助けてくれたのが津久葉という洞窟で獣のように暮らしている娘だった。 古代日本を舞台にした歴史ロマンスファンタジー。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー

長髄彦ファン
歴史・時代
日向の皇子・磐余彦(のちの神武天皇)は、出雲王の長髄彦からもらった弓矢を武器に人喰い熊の黒鬼を倒す。磐余彦は三人の兄と仲間とともに東の国ヤマトを目指して出航するが、上陸した河内で待ち構えていたのは、ヤマトの将軍となった長髄彦だった。激しい戦闘の末に長兄を喪い、熊野灘では嵐に遭遇して二人の兄も喪う。その後数々の苦難を乗り越え、ヤマト進撃を目前にした磐余彦は長髄彦と対面するが――。 『日本書紀』&『古事記』をベースにして日本の建国物語を紡ぎました。 ※この作品はNOVEL DAYSとnoteでバージョン違いを公開しています。

RISING 〜夜明けの唄〜

Takaya
ファンタジー
戦争・紛争の収まらぬ戦乱の世で 平和への夜明けを導く者は誰だ? 其々の正義が織り成す長編ファンタジー。 〜本編あらすじ〜 広く豊かな海に囲まれ、大陸に属さず 島国として永きに渡り歴史を紡いできた 独立国家《プレジア》 此の国が、世界に其の名を馳せる事となった 背景には、世界で只一国のみ、そう此の プレジアのみが執り行った政策がある。 其れは《鎖国政策》 外界との繋がりを遮断し自国を守るべく 百年も昔に制定された国家政策である。 そんな国もかつて繋がりを育んで来た 近隣国《バルモア》との戦争は回避出来ず。 百年の間戦争によって生まれた傷跡は 近年の自国内紛争を呼ぶ事態へと発展。 その紛争の中心となったのは紛れも無く 新しく掲げられた双つの旗と王家守護の 象徴ともされる一つの旗であった。 鎖国政策を打ち破り外界との繋がりを 再度育み、此の国の衰退を止めるべく 立ち上がった《独立師団革命軍》 異国との戦争で生まれた傷跡を活力に 革命軍の考えを異と唱え、自国の文化や 歴史を護ると決めた《護国師団反乱軍》 三百年の歴史を誇るケーニッヒ王家に仕え 毅然と正義を掲げ、自国最高の防衛戦力と 評され此れを迎え討つ《国王直下帝国軍》 乱立した隊旗を起点に止まらぬ紛争。 今プレジアは変革の時を期せずして迎える。 此の歴史の中で起こる大きな戦いは後に 《日の出戦争》と呼ばれるが此の物語は 此のどれにも属さず、己の運命に翻弄され 巻き込まれて行く一人の流浪人の物語ーー。 

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

少年神官系勇者―異世界から帰還する―

mono-zo
ファンタジー
幼くして異世界に消えた主人公、帰ってきたがそこは日本、家なし・金なし・免許なし・職歴なし・常識なし・そもそも未成年、無い無い尽くしでどう生きる? 別サイトにて無名から投稿開始して100日以内に100万PV達成感謝✨ この作品は「カクヨム」にも掲載しています。(先行) この作品は「小説家になろう」にも掲載しています。 この作品は「ノベルアップ+」にも掲載しています。 この作品は「エブリスタ」にも掲載しています。 この作品は「pixiv」にも掲載しています。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

処理中です...