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姫巫女の記憶とルイカの決意
身体に残る記憶
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むき出しの岩肌に橙色の光が揺らいで映っている。
火の爆ぜる音がする。
あぁ、篝火の色なのか。
ぼんやりと、そう考える。
懐かしさを覚える煙の臭い。
少し湿り気のある、ひんやりとした空気を肌に感じる。
身体の下に、はっきりと硬いものがあった。
「え?」
袴だけを身に着けて横たわっていた青年が、驚いて上半身を起こした。
視点が変わる。
長い髪が、裸の背中を撫でていくのが分かる。
自分自身に、そして周囲に存在感があった。
訝しげに辺りを見回すと、膝の高さほどの台の四隅に篠竹を結びつけた細い棒が立てられ、ぐるりと縄が張り渡されている。
どうやら、祭壇のような場所に寝かされていたようだ。
「ここは……?」
近くにいた人々が慌てて駆け寄ってきた。
口々に何かを言っているが、音が耳を素通りしてよく分からない。
頭の中がしびれて、思考が働かない。
くらくらする頭を支えようとして腕を上げると、その両腕に、濃紺の文様が刻まれていることに気付いた。
「この文様は」
濃い霧が晴れるように、急速に意識が鮮明になっていく。
目の端に、腕以外の文様が映った。
視線を落とすと、胸や腹にもびっしりと砂の文様が刻まれている。
驚いて膝を引き寄せると、袴からのぞく裸足の甲にも同じ文様が見えた。
「どういう……ことだ。この、身体は……。私は一体……」
震える手で右の脇腹に触れてみると、そこには引き攣れて塞がった大きな傷跡があった。
しかし、それは古傷のようであった。
この傷は、もしや、あのときの。
まさか、この身体は自分の……?
「弐徒! 気づいたか!」
顔を上げると、よく知った顔がそこにあった。
「お……さ」
砂の文様を左頬と腕に刻んだ壮年の男が、弐徒の両肩をぐっと掴んだ。
皺のある目尻に、光るものが見える。
「弐徒、よかった。よく戻ったな」
肩を掴まれた感触と、その力強さをはっきりと感じる。
ついさっきまであまりにも頼りなく儚かった自分が、今、確かな実体を持ってここに在る。
しかし、なぜ?
こんなはずはないのに。
「長。私は、死んだのではなかったのですか。この、身体は……」
「その身体は、大巫女様が残してくださったのだよ。お前がいつか、戻って来られるようにと。全身に刻まれたその文様は、魂の抜けたお前の身体を、朽ち果てさせないためのまじないなのだよ」
「大巫女様が、私を……?」
そうだったのか。
あの時、死んだはずの身体を、大巫女様が救ってくださった。
だから、私は今ここに——。
弐徒がはっとした。
「ルイ……姫はっ! 姫様は戻られていないのですか!」
必死の思いで長の腕にすがると、長が頷いた。
「お前が戻ったのなら、姫様も戻られたのやもしれぬ。……来なさい」
弐徒は手渡された衣をもどかしく着込むと、砂徒長の後に続いた。
外からの光が全くささない通路を、松明の明かりを頼りに歩いていく。
足音が反響する、四方のすべてを岩で囲まれた洞窟のような場所だった。
「ここは一体、どこなのですか」
弐徒の問いに、長は唇を結んだままだった。
しばらく歩くと、右側に光が漏れている場所があった。
「砂徒長だ。入ってもよろしいか」
長が声を掛けると、光の向こうから返答があった。
立てかけられた板戸をずらすと、中は小さな部屋になっていた。
篝火の色が揺れている。
「弐徒、戻ったのですか!」
壁際に控えていた数人の侍婢が、弐徒の姿を認めて驚きの声を上げた。
弐徒は彼女達に目を向けることなく、真っすぐ部屋の奥の祭壇に駆け寄った。
そこに、少女の小さな身体が横たえられていた。
少女は好んで身につけていた茜色の衣ではなく、上下ともに白い装束を身にまとっていた。
顔も唇も、ほっそりとした指も、篝火の橙色を映すだけで全く血の気がない。
こんなはずが……。
「姫! 姫様!」
必死に呼びかけても、少女は人形のように身動きひとつしない。
力のない手に触れても、冷たさが伝わってくるだけだった。
「姫……どうして」
ツクスナの時代に行くと言っていたではないか。
一緒に戻ってきたのではなかったのか。
どうして、自分だけがここにいるのか。
「ずっと、そばにいると誓ったのに……。私は、また……守れなかったのか」
どうしようもない絶望感に身体が震えた。
ごつりと岩に落ちた両膝の痛みが呪わしかった。
彼女がいなければ、こんな身体も命も不用なのだ。
「ルイカ」
冷えきった小さな手を、砂の文様が刻まれた両手で握りしめた。
「戻ると言ったのはあなたなのに、どうして私だけなのですか。私一人では、生きる意味がないというのに。……お願いです、ルイカ……ここに」
戻ってきてください。
どうか、ここに——。
慟哭する弟子の様子を見守っていた砂徒長の眉が、ぴくりと上がった。
冷たい岩に跪き肩を震わせる男の全身から、銀色の砂が陽炎のように立ち上っている。
儚げなそれは、彼の手を伝い少女の輪郭に沿って流れていき、全身を包み込む。
何が起こっているのか、弐徒はおそらく気付いていない。
視えているのは砂徒長だけだ。
長の目に映っていた銀色の輝きがふっと消えたとき、弐徒が握りしめていた少女の指先が微かに動いた。
「ルイカ……?」
ツクスナが慌てて少女の顔を覗き込むと、彼女の長い睫毛の間に光を反射するものがうっすら浮かんだ。
やがてそれは雫となって、左右にはらはらとこぼれ落ちる。
「ルイカ! 私はここです。ルイカ!」
その声に応えるように、少女がゆっくりと目を開けた。
なぜだろう……。
初めて見る人なのに、この人を知っている。
真っすぐ見つめる瞳を知っている。
頬に刻んだ砂の文様も。
形の良い唇も、精悍な顔立ちも。
その顔の前に落ちてきた長い黒髪も。
ああ、そうか。
これは、この少女の身体に残る記憶。
……きっと、彼は。
「ツク……ス……ナ?」
「ルイカ……」
あぁ、この低く響く声も知っている。
この人が、ツクスナ。
本当の——。
「ツクスナ。生きて……る……じゃない。ちゃんと、こうして……いる、じゃない」
次々とあふれてくる涙が言葉の邪魔をする。
もっとよく顔を見たいのに、視界の邪魔をする。
その砂の文様の頬に触れたくて、本当にそこにいるのか確かめたくて、おずおずと手を伸ばした。
自分を見つめる彼の瞳の奥が、大きく揺れた。
二本のたくましい腕が背中の下に差し込まれ、身体がすくい上げられた。
そしてそのまま、大きく力強いものに包み込まれる。
「よかっ……た。あなたが、無事……で」
耳元で聞こえる途切れ途切れの低い声が、心を震わせる。
冷えきってこわばっていた全身に、彼の温もりが伝わってくる。
自分も彼も、確かに、ここにいる。
胸の奥に小さな炎が灯ったかと思うと、あっという間に大きく膨らんで身体中を駆け巡る。
せつなくて、しょうがない。
愛おしくて、どうにもならない。
この押さえられない強い思いも、この身体の記憶?
それとも……?
たまらなくなって、白く華奢な両腕を彼の背中に回した。
「ルイカ……」
また、耳元で小さく名を呼ぶ声がした。
もう、涙で声にならない。
ルイカは両腕に力を込めて、彼の声に応えた。
姫巫女が襲われたあの日から、丸二年が経っていた。
姫とツクスナの魂が肉体から離れていたその二年の間に、邪馬台国の大巫女ヒミコは逝去していた。
偉大なる女王の死に際し、直径百歩あまりの塚がつくられ、奴婢約百名が殉葬されたと『魏志倭人伝』には記されている。
しかし、巨大な墓にも殉葬されたという大勢の人々にも、女王を葬るためとは別の重要な理由があった。
大巫女は死の間際、姫巫女とツクスナの身体を自分の墳墓の中に隠すようにと、言い残したのだという。
この国を導く次代の王らを、必ず守り抜くようにと——。
火の爆ぜる音がする。
あぁ、篝火の色なのか。
ぼんやりと、そう考える。
懐かしさを覚える煙の臭い。
少し湿り気のある、ひんやりとした空気を肌に感じる。
身体の下に、はっきりと硬いものがあった。
「え?」
袴だけを身に着けて横たわっていた青年が、驚いて上半身を起こした。
視点が変わる。
長い髪が、裸の背中を撫でていくのが分かる。
自分自身に、そして周囲に存在感があった。
訝しげに辺りを見回すと、膝の高さほどの台の四隅に篠竹を結びつけた細い棒が立てられ、ぐるりと縄が張り渡されている。
どうやら、祭壇のような場所に寝かされていたようだ。
「ここは……?」
近くにいた人々が慌てて駆け寄ってきた。
口々に何かを言っているが、音が耳を素通りしてよく分からない。
頭の中がしびれて、思考が働かない。
くらくらする頭を支えようとして腕を上げると、その両腕に、濃紺の文様が刻まれていることに気付いた。
「この文様は」
濃い霧が晴れるように、急速に意識が鮮明になっていく。
目の端に、腕以外の文様が映った。
視線を落とすと、胸や腹にもびっしりと砂の文様が刻まれている。
驚いて膝を引き寄せると、袴からのぞく裸足の甲にも同じ文様が見えた。
「どういう……ことだ。この、身体は……。私は一体……」
震える手で右の脇腹に触れてみると、そこには引き攣れて塞がった大きな傷跡があった。
しかし、それは古傷のようであった。
この傷は、もしや、あのときの。
まさか、この身体は自分の……?
「弐徒! 気づいたか!」
顔を上げると、よく知った顔がそこにあった。
「お……さ」
砂の文様を左頬と腕に刻んだ壮年の男が、弐徒の両肩をぐっと掴んだ。
皺のある目尻に、光るものが見える。
「弐徒、よかった。よく戻ったな」
肩を掴まれた感触と、その力強さをはっきりと感じる。
ついさっきまであまりにも頼りなく儚かった自分が、今、確かな実体を持ってここに在る。
しかし、なぜ?
こんなはずはないのに。
「長。私は、死んだのではなかったのですか。この、身体は……」
「その身体は、大巫女様が残してくださったのだよ。お前がいつか、戻って来られるようにと。全身に刻まれたその文様は、魂の抜けたお前の身体を、朽ち果てさせないためのまじないなのだよ」
「大巫女様が、私を……?」
そうだったのか。
あの時、死んだはずの身体を、大巫女様が救ってくださった。
だから、私は今ここに——。
弐徒がはっとした。
「ルイ……姫はっ! 姫様は戻られていないのですか!」
必死の思いで長の腕にすがると、長が頷いた。
「お前が戻ったのなら、姫様も戻られたのやもしれぬ。……来なさい」
弐徒は手渡された衣をもどかしく着込むと、砂徒長の後に続いた。
外からの光が全くささない通路を、松明の明かりを頼りに歩いていく。
足音が反響する、四方のすべてを岩で囲まれた洞窟のような場所だった。
「ここは一体、どこなのですか」
弐徒の問いに、長は唇を結んだままだった。
しばらく歩くと、右側に光が漏れている場所があった。
「砂徒長だ。入ってもよろしいか」
長が声を掛けると、光の向こうから返答があった。
立てかけられた板戸をずらすと、中は小さな部屋になっていた。
篝火の色が揺れている。
「弐徒、戻ったのですか!」
壁際に控えていた数人の侍婢が、弐徒の姿を認めて驚きの声を上げた。
弐徒は彼女達に目を向けることなく、真っすぐ部屋の奥の祭壇に駆け寄った。
そこに、少女の小さな身体が横たえられていた。
少女は好んで身につけていた茜色の衣ではなく、上下ともに白い装束を身にまとっていた。
顔も唇も、ほっそりとした指も、篝火の橙色を映すだけで全く血の気がない。
こんなはずが……。
「姫! 姫様!」
必死に呼びかけても、少女は人形のように身動きひとつしない。
力のない手に触れても、冷たさが伝わってくるだけだった。
「姫……どうして」
ツクスナの時代に行くと言っていたではないか。
一緒に戻ってきたのではなかったのか。
どうして、自分だけがここにいるのか。
「ずっと、そばにいると誓ったのに……。私は、また……守れなかったのか」
どうしようもない絶望感に身体が震えた。
ごつりと岩に落ちた両膝の痛みが呪わしかった。
彼女がいなければ、こんな身体も命も不用なのだ。
「ルイカ」
冷えきった小さな手を、砂の文様が刻まれた両手で握りしめた。
「戻ると言ったのはあなたなのに、どうして私だけなのですか。私一人では、生きる意味がないというのに。……お願いです、ルイカ……ここに」
戻ってきてください。
どうか、ここに——。
慟哭する弟子の様子を見守っていた砂徒長の眉が、ぴくりと上がった。
冷たい岩に跪き肩を震わせる男の全身から、銀色の砂が陽炎のように立ち上っている。
儚げなそれは、彼の手を伝い少女の輪郭に沿って流れていき、全身を包み込む。
何が起こっているのか、弐徒はおそらく気付いていない。
視えているのは砂徒長だけだ。
長の目に映っていた銀色の輝きがふっと消えたとき、弐徒が握りしめていた少女の指先が微かに動いた。
「ルイカ……?」
ツクスナが慌てて少女の顔を覗き込むと、彼女の長い睫毛の間に光を反射するものがうっすら浮かんだ。
やがてそれは雫となって、左右にはらはらとこぼれ落ちる。
「ルイカ! 私はここです。ルイカ!」
その声に応えるように、少女がゆっくりと目を開けた。
なぜだろう……。
初めて見る人なのに、この人を知っている。
真っすぐ見つめる瞳を知っている。
頬に刻んだ砂の文様も。
形の良い唇も、精悍な顔立ちも。
その顔の前に落ちてきた長い黒髪も。
ああ、そうか。
これは、この少女の身体に残る記憶。
……きっと、彼は。
「ツク……ス……ナ?」
「ルイカ……」
あぁ、この低く響く声も知っている。
この人が、ツクスナ。
本当の——。
「ツクスナ。生きて……る……じゃない。ちゃんと、こうして……いる、じゃない」
次々とあふれてくる涙が言葉の邪魔をする。
もっとよく顔を見たいのに、視界の邪魔をする。
その砂の文様の頬に触れたくて、本当にそこにいるのか確かめたくて、おずおずと手を伸ばした。
自分を見つめる彼の瞳の奥が、大きく揺れた。
二本のたくましい腕が背中の下に差し込まれ、身体がすくい上げられた。
そしてそのまま、大きく力強いものに包み込まれる。
「よかっ……た。あなたが、無事……で」
耳元で聞こえる途切れ途切れの低い声が、心を震わせる。
冷えきってこわばっていた全身に、彼の温もりが伝わってくる。
自分も彼も、確かに、ここにいる。
胸の奥に小さな炎が灯ったかと思うと、あっという間に大きく膨らんで身体中を駆け巡る。
せつなくて、しょうがない。
愛おしくて、どうにもならない。
この押さえられない強い思いも、この身体の記憶?
それとも……?
たまらなくなって、白く華奢な両腕を彼の背中に回した。
「ルイカ……」
また、耳元で小さく名を呼ぶ声がした。
もう、涙で声にならない。
ルイカは両腕に力を込めて、彼の声に応えた。
姫巫女が襲われたあの日から、丸二年が経っていた。
姫とツクスナの魂が肉体から離れていたその二年の間に、邪馬台国の大巫女ヒミコは逝去していた。
偉大なる女王の死に際し、直径百歩あまりの塚がつくられ、奴婢約百名が殉葬されたと『魏志倭人伝』には記されている。
しかし、巨大な墓にも殉葬されたという大勢の人々にも、女王を葬るためとは別の重要な理由があった。
大巫女は死の間際、姫巫女とツクスナの身体を自分の墳墓の中に隠すようにと、言い残したのだという。
この国を導く次代の王らを、必ず守り抜くようにと——。
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