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時の彼方に消えた姫巫女
月の砂(三)
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満月を少し過ぎた月が、空に昇っている。
冴えた銀色の光が、ツクスナの足元に彼のものではない小さな影をくっきりと映していた。
「あぁ、こんな夜だったな」
目を細めて月を見上げ、ツクスナが足を止めた。
篝火の炎の色をかき消してしまうほどの、冴えた銀色の光が降る月夜だった。
その晩、少年は長柄の矛を手に、城柵の北門の警備にあたっていた。
年は十四。
まだ少年っぽさが強く残る顔立ちだったが、彼は同じ年頃の少年たちと比べて頭一つ分は背が高く、周囲の大人たちとさほど変わらない体格をしていた。
左の頬と左腕には砂の文様。
この年で既に、八徒と呼ばれていた。
月が高く上がった頃、城柵の内側から少年を呼ぶ女性の声がした。
見ると、年配の侍婢が手招きしている。
彼女に隠れるようにして、小さな影がもう一つあった。
少年はもう一人の警備の男に断って、持ち場を離れた。
侍婢と一緒にいたのは、宮の者たちから姫と呼ばれている少女だった。
姫は最近、たった一人で大巫女の宮に引き取られてきた。
年は五つ。
色白で、大きな瞳が印象的なあどけない幼女だった。
詳しくは聞かされていないが、姫とか姫巫女と呼ばれていることから察するに、大巫女の血縁らしかった。
姫はどういう訳か少年に懐いていた。
そのため、侍婢たちが手を焼くときは、この晩のように、姫を彼のところに連れて来ることもあった。
少年が屈み込んで、小さな姫の顔をのぞき込む。
「姫様、どうしたの?」
「何やら怖い夢を見られたようで……。どうしても、八徒のところへ行くと言って聞かないのですよ」
涙をいっぱい溜めた大きな眼で見上げてくるだけで、何も話さない姫に代わって、侍婢が答えた。
「少し、散歩しようか?」
少年の提案に、姫が嬉しそうにこくりと頷いた。
平和で静かな夜だ。
姫のお相手ということであれば、少々持ち場を離れたところで咎められることはないだろう。
お付きの侍婢が、やれやれといった風情で館に戻っていった。
姫がいつものように、少年の右手の人差し指と中指を小さな手で握った。
ほとんど真上を向くように彼を見上げてにこっと笑い、指を引っ張るようにして歩き始める。
城柵の内側を、二人はときどき白い小石を拾ったり虫の声に耳を澄ませたりしながら、ゆっくりと歩いていく。
「ね、ね、八徒。砂を出して」
姫が立ち止まってせがんだ。
「いいよ」
少年が左手を高く上げて、姫の頭の上から細かな砂をさらさらと降らせた。
銀色の繊細な粒は、真上から降り注ぐ月光を受けて輝きながら、風に流されていく。
「わぁ」
姫が両手を上げて飛び跳ね、銀色に輝く砂を捕まえようとする。
「ほら。見て、見てぇ!」
姫が掌に少しだけくっついた砂を見せようと無邪気な顔で少年を見上げると、彼の背後に重なって月が見えなくなった。
「そうだ、いいこと思いついた。ねぇ、ねぇ、八徒」
「なに?」
八徒が姫の眼の高さにしゃがむと、彼の後ろからまた月が顔を見せた。
その光があまりに眩しくて、姫がしかめっ面をする。
その顔に八徒は思わず笑った。
姫もつられて、声を立てて笑った。
「あのね、八徒の砂って、こんなにきらきら光ってきれいでしょ? 月から降ってくるみたいだなーって」
「うん」
「だから、わらわは八徒のこと、ツクスナって呼ぶ」
「……は?」
少年は突然のことに面食らった。
姫の方は満面の笑みだ。
「いいでしょ。ね」
「え……と、いやそれは、ちょっと……」
思わず口ごもり、どうしたものかと悩んだ末、少年は姫の両肩に手を置いた。
「姫、月は神様でしょう? だから、俺のことを神様と同じ名で呼んじゃだめだよ。神様が怒るかもしれないでしょう?」
「神様はそんなに意地悪じゃないもん。なんでだめなの? 八徒はどうして八なの? 砂徒はみんな壱とか弐とか呼んでておかしいわ。ちゃんとした名前の方がいいじゃない。だから、わらわが付けてあげる」
「それはいいけど、せめて別の呼び名に」
「いやっ! 八徒は月なの! 月がいいの!」
少年がため息をついた。
この無邪気な姫を説得するのは、到底無理だった。
砂徒達は慣例で、序列を示す数字を呼び名にしていた。
正式な名や、通り名を持つ者もいるが、八徒にはそれ以外の呼び名はなかった。
相手は高貴な姫であるから、彼女にどう呼ばれようと問題はない。
しかし、月の名はあまりにも重すぎて気が引ける。
「それじゃあ、姫と俺だけの内緒の名前にしようか。内緒なんだから、他に誰かいるときは、絶対、その名前で呼んじゃだめだよ」
幼い子どものことだから、この夜のことも名前のことも、すぐ忘れるだろうと少年は高をくくっていた。
「内緒? うん、じゃあ、そうする。内緒ね、内緒。うふふ」
内緒という特別な響きの言葉に、姫の顔がぱっと明るくなった。
「さあ、もう、姫の館に戻ろう」
「やぁだ! もっと遊びたい」
「だめだよ。もう戻って休まないと……」
そう言って、背を向けてしゃがんでみせると、姫が嬉しそうに背中に飛びついてきた。
ふわりと柔らかで温かな温もりを背に、少年はゆっくり立ち上がり、歩き始めた。
館まではごく僅かな距離しかなかったが、そこにたどり着く前に、姫は背中で安らかな寝息を立てていた。
ほどなくして少年は、姫のたっての望みで、彼女の護衛の任に就くことになった。
姫は少年に懐いていたし、彼はまだ少年とはいえ、武人としては並の大人以上の実力を持っていたから、護衛としても適任だった。
そしてその後ずっと、彼は姫巫女の傍らにあった。
少年は青年となり、いつしか弐徒と呼ばれるまでになった。
ツクスナという呼び名は、彼の期待に反して、姫に忘れられることはなかった。
いつの間にか、その名は内緒でもなんでもなくなっていたのだが、彼をそう呼ぶのは姫だけだった。
遠い日の優しい記憶は、必ず、堪え難い痛みを連れてくる。
六年間も、姫のそばにいたのだ。
たった五つの幼子が、いつしか凛とした瞳の少女となり、大巫女を助けるまでに成長していく様子を、いつもいちばん近くで見ていた。
誰よりも、大切に思っていた。
ずっと、彼女を守っていくのだと、心に決めていた。
なのに。
守り切ることができなかった。
彼女の悲痛な叫び声が、決して消えない傷となって耳の奥に残っている。
後悔、罪悪感、無力感。
何よりも自分自身への強い憎しみ……。
すべてが大きく渦を巻いて、自分の中でのたうち回る。
ツクスナは掌に爪が刺さるほど強く拳を握りしめ、唇を噛んだ。
気づけば、足元の小さな影は、先ほどよりさらに小さく濃くなっていた。
肌にヒリヒリとした光を落としてくる銀色の月は、彼の真上近くにあった。
冴えた銀色の光が、ツクスナの足元に彼のものではない小さな影をくっきりと映していた。
「あぁ、こんな夜だったな」
目を細めて月を見上げ、ツクスナが足を止めた。
篝火の炎の色をかき消してしまうほどの、冴えた銀色の光が降る月夜だった。
その晩、少年は長柄の矛を手に、城柵の北門の警備にあたっていた。
年は十四。
まだ少年っぽさが強く残る顔立ちだったが、彼は同じ年頃の少年たちと比べて頭一つ分は背が高く、周囲の大人たちとさほど変わらない体格をしていた。
左の頬と左腕には砂の文様。
この年で既に、八徒と呼ばれていた。
月が高く上がった頃、城柵の内側から少年を呼ぶ女性の声がした。
見ると、年配の侍婢が手招きしている。
彼女に隠れるようにして、小さな影がもう一つあった。
少年はもう一人の警備の男に断って、持ち場を離れた。
侍婢と一緒にいたのは、宮の者たちから姫と呼ばれている少女だった。
姫は最近、たった一人で大巫女の宮に引き取られてきた。
年は五つ。
色白で、大きな瞳が印象的なあどけない幼女だった。
詳しくは聞かされていないが、姫とか姫巫女と呼ばれていることから察するに、大巫女の血縁らしかった。
姫はどういう訳か少年に懐いていた。
そのため、侍婢たちが手を焼くときは、この晩のように、姫を彼のところに連れて来ることもあった。
少年が屈み込んで、小さな姫の顔をのぞき込む。
「姫様、どうしたの?」
「何やら怖い夢を見られたようで……。どうしても、八徒のところへ行くと言って聞かないのですよ」
涙をいっぱい溜めた大きな眼で見上げてくるだけで、何も話さない姫に代わって、侍婢が答えた。
「少し、散歩しようか?」
少年の提案に、姫が嬉しそうにこくりと頷いた。
平和で静かな夜だ。
姫のお相手ということであれば、少々持ち場を離れたところで咎められることはないだろう。
お付きの侍婢が、やれやれといった風情で館に戻っていった。
姫がいつものように、少年の右手の人差し指と中指を小さな手で握った。
ほとんど真上を向くように彼を見上げてにこっと笑い、指を引っ張るようにして歩き始める。
城柵の内側を、二人はときどき白い小石を拾ったり虫の声に耳を澄ませたりしながら、ゆっくりと歩いていく。
「ね、ね、八徒。砂を出して」
姫が立ち止まってせがんだ。
「いいよ」
少年が左手を高く上げて、姫の頭の上から細かな砂をさらさらと降らせた。
銀色の繊細な粒は、真上から降り注ぐ月光を受けて輝きながら、風に流されていく。
「わぁ」
姫が両手を上げて飛び跳ね、銀色に輝く砂を捕まえようとする。
「ほら。見て、見てぇ!」
姫が掌に少しだけくっついた砂を見せようと無邪気な顔で少年を見上げると、彼の背後に重なって月が見えなくなった。
「そうだ、いいこと思いついた。ねぇ、ねぇ、八徒」
「なに?」
八徒が姫の眼の高さにしゃがむと、彼の後ろからまた月が顔を見せた。
その光があまりに眩しくて、姫がしかめっ面をする。
その顔に八徒は思わず笑った。
姫もつられて、声を立てて笑った。
「あのね、八徒の砂って、こんなにきらきら光ってきれいでしょ? 月から降ってくるみたいだなーって」
「うん」
「だから、わらわは八徒のこと、ツクスナって呼ぶ」
「……は?」
少年は突然のことに面食らった。
姫の方は満面の笑みだ。
「いいでしょ。ね」
「え……と、いやそれは、ちょっと……」
思わず口ごもり、どうしたものかと悩んだ末、少年は姫の両肩に手を置いた。
「姫、月は神様でしょう? だから、俺のことを神様と同じ名で呼んじゃだめだよ。神様が怒るかもしれないでしょう?」
「神様はそんなに意地悪じゃないもん。なんでだめなの? 八徒はどうして八なの? 砂徒はみんな壱とか弐とか呼んでておかしいわ。ちゃんとした名前の方がいいじゃない。だから、わらわが付けてあげる」
「それはいいけど、せめて別の呼び名に」
「いやっ! 八徒は月なの! 月がいいの!」
少年がため息をついた。
この無邪気な姫を説得するのは、到底無理だった。
砂徒達は慣例で、序列を示す数字を呼び名にしていた。
正式な名や、通り名を持つ者もいるが、八徒にはそれ以外の呼び名はなかった。
相手は高貴な姫であるから、彼女にどう呼ばれようと問題はない。
しかし、月の名はあまりにも重すぎて気が引ける。
「それじゃあ、姫と俺だけの内緒の名前にしようか。内緒なんだから、他に誰かいるときは、絶対、その名前で呼んじゃだめだよ」
幼い子どものことだから、この夜のことも名前のことも、すぐ忘れるだろうと少年は高をくくっていた。
「内緒? うん、じゃあ、そうする。内緒ね、内緒。うふふ」
内緒という特別な響きの言葉に、姫の顔がぱっと明るくなった。
「さあ、もう、姫の館に戻ろう」
「やぁだ! もっと遊びたい」
「だめだよ。もう戻って休まないと……」
そう言って、背を向けてしゃがんでみせると、姫が嬉しそうに背中に飛びついてきた。
ふわりと柔らかで温かな温もりを背に、少年はゆっくり立ち上がり、歩き始めた。
館まではごく僅かな距離しかなかったが、そこにたどり着く前に、姫は背中で安らかな寝息を立てていた。
ほどなくして少年は、姫のたっての望みで、彼女の護衛の任に就くことになった。
姫は少年に懐いていたし、彼はまだ少年とはいえ、武人としては並の大人以上の実力を持っていたから、護衛としても適任だった。
そしてその後ずっと、彼は姫巫女の傍らにあった。
少年は青年となり、いつしか弐徒と呼ばれるまでになった。
ツクスナという呼び名は、彼の期待に反して、姫に忘れられることはなかった。
いつの間にか、その名は内緒でもなんでもなくなっていたのだが、彼をそう呼ぶのは姫だけだった。
遠い日の優しい記憶は、必ず、堪え難い痛みを連れてくる。
六年間も、姫のそばにいたのだ。
たった五つの幼子が、いつしか凛とした瞳の少女となり、大巫女を助けるまでに成長していく様子を、いつもいちばん近くで見ていた。
誰よりも、大切に思っていた。
ずっと、彼女を守っていくのだと、心に決めていた。
なのに。
守り切ることができなかった。
彼女の悲痛な叫び声が、決して消えない傷となって耳の奥に残っている。
後悔、罪悪感、無力感。
何よりも自分自身への強い憎しみ……。
すべてが大きく渦を巻いて、自分の中でのたうち回る。
ツクスナは掌に爪が刺さるほど強く拳を握りしめ、唇を噛んだ。
気づけば、足元の小さな影は、先ほどよりさらに小さく濃くなっていた。
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