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時の彼方に消えた姫巫女
あの日の事故
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皓太の意識が戻ってから四日過ぎた。
彼は昨日、退院したはずだった。
夏休み後すぐの事故のせいで、毎日が慌ただしく過ぎていき、気がつけば九月も中旬を過ぎていた。
日中はまだ汗ばむ日も多いが、早朝の空気は澄んで、ひんやりとしている。
「うわ、カーディガンを着てくればよかったかな」
留以花が肩をすぼめ、半袖からのぞく腕をさすりながら呟いていると、背後から明るい声がした。
「ルイカ! おはよっ!」
振り向くと、ポロシャツ姿の皓太が走ってきた。
朝のこの時間に彼に会うのは珍しい。
入院していたせいではなく、彼は普段、陸上部の朝練のために登校時間が早いのだ。
「おはよう。具合、どう?」
「平気平気。もうどこも、なんともないよ」
「よかった」
いつもと変わらない、屈託のない笑顔にほっとする。
「でもさぁ、医者にしばらく部活を休むように言われちゃってさ。入院のせいで、ただでさえ身体がなまっているのに……。あー、早く走りてぇ」
彼がぶつぶつ文句を言いながら、右肘に左手をあて、ぐっと上半身をねじった。
二人が並んで歩くと、まるで姉弟のように見える。
背が高く大人びた顔立ちの留以花に比べて、皓太は十センチ以上小さく、どちらかといえば童顔。
留以花は中学三年生で、皓太は二年だったが、見た目にはもっと年が離れているように見えた。
二人の家は昔から家族ぐるみの付き合いがあり、お互い一人っ子だったこともあって、実際、姉弟のように育った。
そして、そのままの関係を、中学生になった今でもずっと続けていた。
「おー、岩崎! 生きてたか!」
横道から走ってきた一人の男子が、皓太に飛びついて羽交い締めにした。
「ぐ……ちょっと、やめろよ!」
「退院できて、良かったな!」
他にも数人の友人が加わり、あっという間に、じゃれあう中学男子の集団ができた。
ああ、以前のままだ……。
以前は、そんな騒々しい集団を鬱陶しく思っていた留以花だったが、この日は彼らがすごく眩しく見えた。
何か重いものから、ようやく解放された気がした。
その日の夕方、留以花が帰宅してしばらくすると、玄関チャイムが鳴った。
モニターを確認すると、箱を手にした皓太の姿があった。
「母さんが、顔見せに行ってこいって。これ、ケーキ」
「ありがとう。でも、これって逆に悪い気がするんだけど。今、お母さん出かけてるけど、上がってく?」
そう聞かれる前に、既にスニーカーを脱いでいた皓太は、そのまますたすたとリビングに入っていく。
彼はいつもこんな調子だったから、留以花の方も特に気にしない。
彼に続いてリビングに入ると、早速、手渡された箱を開けた。
「わ、おいしそう。せっかくだから、二人で先にケーキ食べちゃおうよ」
「俺、チーズケーキ」
皓太の母親が選んだケーキの箱には、ちゃんと二人の好みのものが入っていた。
留以花が選んだのはいちごのタルト。
二人はケーキとジュースを前に、ダイニングテーブルに向かい合わせに座った。
「俺さ、ルイカに聞きたいことがあるんだけど」
とりとめのない会話の途中で、彼がふと真面目な顔になった。
「なに?」
「あの事故のこと」
いちごを口に運ぼうとしていた留以花が、はっと顔を上げた。
「母さんがさ、ルイカが足を滑らせて川に落ちたんだって言ってたけど、あれは、そうじゃなかったよね。俺には、ルイカが川に引きずられていくように見えたけど?」
留以花の手からフォークが落ち、いちごがテーブルに転がった。
顔からみるみる血の気が失せ、手が小刻みに震える。
あの日、何が起こったのか——。
周囲の人たちに本当のことを話しても、『ショックで気が動転している』と、哀れむような目で見られるだけだった。
あんな話、誰も信じるはずがない。
わたしだって信じられない。
信じたくない。
だから、足を滑らせたということにしていた。
「わ、ごめん。思い出したくないことなんだよね。でも、どうしても気になって……えぇと……あの、大丈夫?」
皓太がおろおろした様子で、留以花の顔を覗き込んだ。
そうだ。
コウだって被害者だ。
あの事件に巻き込まれて、一週間も眠り続けていたのだから……。
だから、コウには本当のことを話さないと。
「だ……大丈夫」
留以花は震える手でグラスを取り、ジュースを一口飲んた。
大きく息を吐き出して、覚悟を決めた。
「あの日、あの川の土手を歩いていたら、誰かに呼ばれた気がしたの」
「呼ばれた?」
「うん。でも、あのとき、わたしの周りには、誰もいなかったの。だから、気のせいだと思ったんだけど、なぜか、すごく川が気になって……。それで、土手を下りて川の近くまで行ったの。そしたら、急に金縛りにあったように、身体が……」
思い出すだけで、あまりの恐怖に体温が奪われていく。
留以花は震える声でそこまで言うと、両手で頭を抱えて俯いた。
沈黙の時間が流れた。
皓太は留以花の震える肩を見ながら、話の続きを辛抱強く待った。
「何か……すごく気味の悪いものが身体に絡まって、動けなくなったの。黒い網? 違う、なんだろう? 蛇の鱗のような……」
「なっ……。蛇だって!」
皓太が突然立ち上がった。テーブルの上の食器が大きな音を立て、ジュースが少しこぼれた。
彼は大きく目を見開き、驚愕の表情を浮かべていた。
「コウ?」
「あ……えと……、ごめん。何でもない。ちょっと、びっくりして」
彼は色のない顔のまま、すとんと椅子に腰を下ろした。
「信じられないでしょ? こんな話、誰も信じてくれなかったもの」
「いや、信じるよ。……それで?」
「それで、逃げようとしたんだけど、どうしても動けなくて、声も出なくて……。そのまま、ものすごく強い力で川に引きずり込まれた」
それきり留以花は黙り込んだ。
今でも、不気味な網が身体に絡み付いている気がして、肩をすくめて自分の身体をさする。
「そっか……そうだったんだ。俺には、ルイカが何かに必死で抵抗しているように見えたんだ。それが何かは分からなかったけど、助けなきゃって思って……」
そして、二人は水に飲まれたのだ。
二人の耳の奥に、ゴボゴボと不気味な水の音が甦ってくる。
必死に伸ばした手が空気に触れるのに、顔を上げられない。
水底に膝がついているのに、身体を起こせない。
どんなにもがいても、大きな力に押さえつけられる。
全身が水に埋まる。
息が詰まる。
意識が黒く塗りつぶされていく——。
二人は、あのときの恐怖に捕われて、動けなくなった。
そのままどれくらい経ったのか、玄関で物音がして、ようやく二人は我に返った。
彼は昨日、退院したはずだった。
夏休み後すぐの事故のせいで、毎日が慌ただしく過ぎていき、気がつけば九月も中旬を過ぎていた。
日中はまだ汗ばむ日も多いが、早朝の空気は澄んで、ひんやりとしている。
「うわ、カーディガンを着てくればよかったかな」
留以花が肩をすぼめ、半袖からのぞく腕をさすりながら呟いていると、背後から明るい声がした。
「ルイカ! おはよっ!」
振り向くと、ポロシャツ姿の皓太が走ってきた。
朝のこの時間に彼に会うのは珍しい。
入院していたせいではなく、彼は普段、陸上部の朝練のために登校時間が早いのだ。
「おはよう。具合、どう?」
「平気平気。もうどこも、なんともないよ」
「よかった」
いつもと変わらない、屈託のない笑顔にほっとする。
「でもさぁ、医者にしばらく部活を休むように言われちゃってさ。入院のせいで、ただでさえ身体がなまっているのに……。あー、早く走りてぇ」
彼がぶつぶつ文句を言いながら、右肘に左手をあて、ぐっと上半身をねじった。
二人が並んで歩くと、まるで姉弟のように見える。
背が高く大人びた顔立ちの留以花に比べて、皓太は十センチ以上小さく、どちらかといえば童顔。
留以花は中学三年生で、皓太は二年だったが、見た目にはもっと年が離れているように見えた。
二人の家は昔から家族ぐるみの付き合いがあり、お互い一人っ子だったこともあって、実際、姉弟のように育った。
そして、そのままの関係を、中学生になった今でもずっと続けていた。
「おー、岩崎! 生きてたか!」
横道から走ってきた一人の男子が、皓太に飛びついて羽交い締めにした。
「ぐ……ちょっと、やめろよ!」
「退院できて、良かったな!」
他にも数人の友人が加わり、あっという間に、じゃれあう中学男子の集団ができた。
ああ、以前のままだ……。
以前は、そんな騒々しい集団を鬱陶しく思っていた留以花だったが、この日は彼らがすごく眩しく見えた。
何か重いものから、ようやく解放された気がした。
その日の夕方、留以花が帰宅してしばらくすると、玄関チャイムが鳴った。
モニターを確認すると、箱を手にした皓太の姿があった。
「母さんが、顔見せに行ってこいって。これ、ケーキ」
「ありがとう。でも、これって逆に悪い気がするんだけど。今、お母さん出かけてるけど、上がってく?」
そう聞かれる前に、既にスニーカーを脱いでいた皓太は、そのまますたすたとリビングに入っていく。
彼はいつもこんな調子だったから、留以花の方も特に気にしない。
彼に続いてリビングに入ると、早速、手渡された箱を開けた。
「わ、おいしそう。せっかくだから、二人で先にケーキ食べちゃおうよ」
「俺、チーズケーキ」
皓太の母親が選んだケーキの箱には、ちゃんと二人の好みのものが入っていた。
留以花が選んだのはいちごのタルト。
二人はケーキとジュースを前に、ダイニングテーブルに向かい合わせに座った。
「俺さ、ルイカに聞きたいことがあるんだけど」
とりとめのない会話の途中で、彼がふと真面目な顔になった。
「なに?」
「あの事故のこと」
いちごを口に運ぼうとしていた留以花が、はっと顔を上げた。
「母さんがさ、ルイカが足を滑らせて川に落ちたんだって言ってたけど、あれは、そうじゃなかったよね。俺には、ルイカが川に引きずられていくように見えたけど?」
留以花の手からフォークが落ち、いちごがテーブルに転がった。
顔からみるみる血の気が失せ、手が小刻みに震える。
あの日、何が起こったのか——。
周囲の人たちに本当のことを話しても、『ショックで気が動転している』と、哀れむような目で見られるだけだった。
あんな話、誰も信じるはずがない。
わたしだって信じられない。
信じたくない。
だから、足を滑らせたということにしていた。
「わ、ごめん。思い出したくないことなんだよね。でも、どうしても気になって……えぇと……あの、大丈夫?」
皓太がおろおろした様子で、留以花の顔を覗き込んだ。
そうだ。
コウだって被害者だ。
あの事件に巻き込まれて、一週間も眠り続けていたのだから……。
だから、コウには本当のことを話さないと。
「だ……大丈夫」
留以花は震える手でグラスを取り、ジュースを一口飲んた。
大きく息を吐き出して、覚悟を決めた。
「あの日、あの川の土手を歩いていたら、誰かに呼ばれた気がしたの」
「呼ばれた?」
「うん。でも、あのとき、わたしの周りには、誰もいなかったの。だから、気のせいだと思ったんだけど、なぜか、すごく川が気になって……。それで、土手を下りて川の近くまで行ったの。そしたら、急に金縛りにあったように、身体が……」
思い出すだけで、あまりの恐怖に体温が奪われていく。
留以花は震える声でそこまで言うと、両手で頭を抱えて俯いた。
沈黙の時間が流れた。
皓太は留以花の震える肩を見ながら、話の続きを辛抱強く待った。
「何か……すごく気味の悪いものが身体に絡まって、動けなくなったの。黒い網? 違う、なんだろう? 蛇の鱗のような……」
「なっ……。蛇だって!」
皓太が突然立ち上がった。テーブルの上の食器が大きな音を立て、ジュースが少しこぼれた。
彼は大きく目を見開き、驚愕の表情を浮かべていた。
「コウ?」
「あ……えと……、ごめん。何でもない。ちょっと、びっくりして」
彼は色のない顔のまま、すとんと椅子に腰を下ろした。
「信じられないでしょ? こんな話、誰も信じてくれなかったもの」
「いや、信じるよ。……それで?」
「それで、逃げようとしたんだけど、どうしても動けなくて、声も出なくて……。そのまま、ものすごく強い力で川に引きずり込まれた」
それきり留以花は黙り込んだ。
今でも、不気味な網が身体に絡み付いている気がして、肩をすくめて自分の身体をさする。
「そっか……そうだったんだ。俺には、ルイカが何かに必死で抵抗しているように見えたんだ。それが何かは分からなかったけど、助けなきゃって思って……」
そして、二人は水に飲まれたのだ。
二人の耳の奥に、ゴボゴボと不気味な水の音が甦ってくる。
必死に伸ばした手が空気に触れるのに、顔を上げられない。
水底に膝がついているのに、身体を起こせない。
どんなにもがいても、大きな力に押さえつけられる。
全身が水に埋まる。
息が詰まる。
意識が黒く塗りつぶされていく——。
二人は、あのときの恐怖に捕われて、動けなくなった。
そのままどれくらい経ったのか、玄関で物音がして、ようやく二人は我に返った。
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