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時計塔の悲劇
でもっ、彼を放っておけない
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南校舎と東寮の角に、時刻を知らせる時計塔がある。
全校生徒が一度に席につける大きな食堂や図書館、職員室などがある管理棟は、その向こう側の東南に面して、斜めに建てられていた。
中庭にも、周囲を取り囲む校舎や寮にも、人気はほとんどない。
夕食を知らせる鐘が鳴ってからかなり時間が経ってしまったから、みんなとっくに食堂に集まっているのだろう。
北校舎にいたティルアは薄暗くなった中庭を抜け、食堂へと急いだ。
「相変わらず、うす気味悪いわね」
ティルアはふと足を止めた。
この学院の中でいちばん古い建物である時計塔は、紫色の葉脈が走る蔦の葉に鬱蒼と覆われ、藍色に染まった世界に立ちふさがる支配者のようにも見える。
白くぼんやりと浮かび上がる文字盤付近に、ちらちらと見える黒い影は蝙蝠だ。
あまりの不気味さに普段なら迂回することも多いのだが、今日は早く食堂にたどり着きたくて、真っすぐに時計塔に向かう道を進む。
そして、塔のすぐ根元に黒い物体が横たわっていることに気付き、ぎくりとなった。
「ひっ……。なに?」
こわごわながら、何であるのかを確認するために目を凝らす。
そしてそれが動かないと分かると、ゆっくり数歩近づいてみた。
「フリーデル?」
顔は見えなかったが、茶色の巻き毛に見覚えがある。
時計塔の根元にうつぶせで倒れていたのは、ティルアと同じ年にこの学院に入学した、最上級生のフリーデル・プラネルトだった。
「ちょっと、どうしたの? 大丈夫」
慌てて駆け寄り、彼を助け起こそうとして、掌に生暖かくぬるついた感触を覚えた。
ぎょっとなって引いた手は、暗がりの中で黒く染まって見えた。
鉄のような臭いが鼻をつく。
まさか、血——!
「き……きゃあぁぁっ! 誰か、誰か来て! 誰かっ!」
彼の状態を認識すると同時に、甲高い悲鳴が勝手に喉から飛び出した。
「誰かっ! 誰か助けてー!」
その声を聞きつけて、管理棟から二人の教師が駆けつけた。
一人は灰色の髪をひっつめた年配の女性教師、トラレス。
もう一人は、ティルアの知らない、銀色の髪に片眼鏡をかけたの若い男性教師った。
「おい、君! どうした」
「彼……が、フリーデルが……」
倒れている男子生徒を震える指で差すと、その不吉な光景にトラレスが悲鳴を上げた。
男性教師も息を飲んだが、冷静だった。
「あなたたちは、少し離れていてください。……光」
男性教師は女性二人を腕でかばうようにして少し下がらせると、左手の人差し指の先に光を灯した。
右目にかかる片眼鏡の位置を反対の手で調整すると、倒れている生徒にゆっくりと近づいていく。
「フリーデル! フリーデル・プラネルト、何があった! おいっ、しっかりしろ!」
おそらく屈み込んだ自分の背中で、無惨な姿を隠してくれているのだろう。
教師が呼びかけながら、生徒の身体を強く揺さぶっていることは分かったが、明かりに照らされた彼の顔はティルアからは見えなかった。
何度か彼の名前の呼んだ後、教師の肩からがっくりと力が抜けた。
無念の言葉が続く。
「だめだ。……彼は、もう」
教師は、夜が迫った空に黒々とそびえ立つ時計塔を振り仰いだ。
「おそらく、あそこから落ちたのだろう」
「そんな……。どうして」
ティルアも同じ場所を見上げた。
校舎の屋根よりも高い位置に白く浮かび上がる文字盤の下には、ひと一人が通れる張り出した通路が塔をぐるりと取り囲んでいる。
昼間なら眺望を楽しむためにそこに登る生徒もいるが、夕方以降は、薄気味悪い時計塔に近づく者すらいない。
「来年選ばれる可能性もあるからと、あれほど言ったのに。どうして、こんな早まったことを……」
男性教師の呟きに、トラレスがはっと顔を上げた。
「リーム先生。まさか、彼は……」
「はっきりとしたことは、まだ分かりません。しかし彼は、魔術統括省の名簿が貼り出された後、ひどく思い詰めた様子で、僕のところに相談に来たんです」
「じゃあ、やっぱり……」
「断定はできませんが、可能性は……」
彼らはその言葉を口にはしなかったが、何を言わんとしているかは、ティルアにも容易に想像できた。
自殺——。
『嘘だ! そんなはずがない!』
しかし、その想像を否定する叫びが背後から聞こえてきた。
振り返ると、下ろした両手を震えるほどに握りしめたユーリウスが、すぐ後ろにいた。
おそらく、ティルアやトラレスの悲鳴を聞きつけてやってきたのだろう。
「ユー……」
思わず声の主の名を口にしそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。
彼の姿は教師たちには見えていないはずなのだ。
『あいつは、魔術薬学者になりたがっていた。魔術統括省には全く興味がなかったんだ。むしろ、名簿に自分の名前がなかったことにほっとしていたんだよ』
もちろんその声も、教師たちには聞こえていない。
『それとも、本当は魔術統括省に行きたかったのか? そんな話は聞いてないぞ! どうなんだよ、フリーデル!』
ユーリウスはつかつかと、変わり果てた姿の同級生に近づいていくと、その前に屈み込んだ。
『フリーデル! おいっ! なに寝てるんだ。起きろよ!』
触れられない手で彼の身体を揺さぶり、届かない声で必死に呼びかける。
けれども、彼が目覚めることは決してない。
ああ。そうだったんだ……。
年上の同級生たちに囲まれ、ずば抜けた才能ゆえに孤立し、誰にも心を開くことがないと思われていたユーリウスだったが、ちゃんと友達はいたのだ。
きっと、フリーデルはそうだったのだ。
ティルアの頬に涙が伝った。
ティルアにとっても、彼は一年生の間、同じクラスで学んだ間柄だ。
ティルアには、今のひょろりとした長身の姿より、茶色の巻き毛と人懐っこい瞳が印象的な幼い頃のイメージが強い。
そう言えばあの頃から、薬草だけに特別な感心を示す変わり者だった。
確かに、役人を目指すようなタイプではなかった。
二人の教師は何やら話を続けているようだが、ティルアの耳には入らなかった。
涙にかすむ目で、ユーリウスの細かく震える背中を見つめていた。
だから、いきなりトラレスに腕を掴まれてぎくりとする。
「さ、行きましょう」
「えっ? 待って!」
「だめです。あなたはここにいてはいけません。他の生徒たちも食事が終わり次第、速やかに寮に戻らせます」
「でもっ、彼を放っておけない」
あんなに辛そうなユーリウスを放っておくことができなくて、つい、そんなことを言ってしまった。
しかし、女教師はそれをフリーデルに対しての思いだと勘違いする。
「そう言えば、あなたはフリーデルとは同期生だったわね。気持ちは分かるけど、今は私たちに任せなさい。あなたには、後で詳しい話を聞かせてもらいますからね」
「だけど……」
どうしても心残りで、強引に腕を引かれながらもユーリウスを振り返る。
『ティルア、行けよ。俺はここに残って調べてみる』
そう言うと彼は、時計塔の入り口に向かって駆け出した。
おそらく、フリーデルが落ちたと思われる、文字盤の下の通路に行ってみるのだろう。
彼の姿が塔の中に消えると、ティルアは急に心細くなった。
一刻も早く、この凄惨な現場から離れたいという気持ちもわき上がってくる。
ここに残っていても、自分にできることは何もない。
彼と教師たちに任せた方がいい。
そう自分に言い訳して、管理棟に向かって歩き出そうとしたが、足ががくがくと震えてまともに歩けなかった。
「あぁ……。フリーデル……」
ティルアは両手で顔を覆った。
特別親しかった訳ではないが、目の前でのひとの死は、これほどまでに衝撃的だった。
薄暗くてよく見えなくても、真紅に染まった悲惨な光景を脳が簡単に補完してしまう。
お守りのネックレスを握りしめても、身体の震えは止まらなかった。
一年生の頃の、彼のあどけない笑顔が脳裏に甦る。
魔術薬学者になりたかったという彼の夢が、頭の中でぐるぐると回る。
そんな彼が、どうして死ななければならなかったんだろう——。
「大丈夫? 歩ける?」
「……はい」
背中に回された教師の手に支えられながら、ティルアはのろのろと管理棟に向かって歩き出した。
全校生徒が一度に席につける大きな食堂や図書館、職員室などがある管理棟は、その向こう側の東南に面して、斜めに建てられていた。
中庭にも、周囲を取り囲む校舎や寮にも、人気はほとんどない。
夕食を知らせる鐘が鳴ってからかなり時間が経ってしまったから、みんなとっくに食堂に集まっているのだろう。
北校舎にいたティルアは薄暗くなった中庭を抜け、食堂へと急いだ。
「相変わらず、うす気味悪いわね」
ティルアはふと足を止めた。
この学院の中でいちばん古い建物である時計塔は、紫色の葉脈が走る蔦の葉に鬱蒼と覆われ、藍色に染まった世界に立ちふさがる支配者のようにも見える。
白くぼんやりと浮かび上がる文字盤付近に、ちらちらと見える黒い影は蝙蝠だ。
あまりの不気味さに普段なら迂回することも多いのだが、今日は早く食堂にたどり着きたくて、真っすぐに時計塔に向かう道を進む。
そして、塔のすぐ根元に黒い物体が横たわっていることに気付き、ぎくりとなった。
「ひっ……。なに?」
こわごわながら、何であるのかを確認するために目を凝らす。
そしてそれが動かないと分かると、ゆっくり数歩近づいてみた。
「フリーデル?」
顔は見えなかったが、茶色の巻き毛に見覚えがある。
時計塔の根元にうつぶせで倒れていたのは、ティルアと同じ年にこの学院に入学した、最上級生のフリーデル・プラネルトだった。
「ちょっと、どうしたの? 大丈夫」
慌てて駆け寄り、彼を助け起こそうとして、掌に生暖かくぬるついた感触を覚えた。
ぎょっとなって引いた手は、暗がりの中で黒く染まって見えた。
鉄のような臭いが鼻をつく。
まさか、血——!
「き……きゃあぁぁっ! 誰か、誰か来て! 誰かっ!」
彼の状態を認識すると同時に、甲高い悲鳴が勝手に喉から飛び出した。
「誰かっ! 誰か助けてー!」
その声を聞きつけて、管理棟から二人の教師が駆けつけた。
一人は灰色の髪をひっつめた年配の女性教師、トラレス。
もう一人は、ティルアの知らない、銀色の髪に片眼鏡をかけたの若い男性教師った。
「おい、君! どうした」
「彼……が、フリーデルが……」
倒れている男子生徒を震える指で差すと、その不吉な光景にトラレスが悲鳴を上げた。
男性教師も息を飲んだが、冷静だった。
「あなたたちは、少し離れていてください。……光」
男性教師は女性二人を腕でかばうようにして少し下がらせると、左手の人差し指の先に光を灯した。
右目にかかる片眼鏡の位置を反対の手で調整すると、倒れている生徒にゆっくりと近づいていく。
「フリーデル! フリーデル・プラネルト、何があった! おいっ、しっかりしろ!」
おそらく屈み込んだ自分の背中で、無惨な姿を隠してくれているのだろう。
教師が呼びかけながら、生徒の身体を強く揺さぶっていることは分かったが、明かりに照らされた彼の顔はティルアからは見えなかった。
何度か彼の名前の呼んだ後、教師の肩からがっくりと力が抜けた。
無念の言葉が続く。
「だめだ。……彼は、もう」
教師は、夜が迫った空に黒々とそびえ立つ時計塔を振り仰いだ。
「おそらく、あそこから落ちたのだろう」
「そんな……。どうして」
ティルアも同じ場所を見上げた。
校舎の屋根よりも高い位置に白く浮かび上がる文字盤の下には、ひと一人が通れる張り出した通路が塔をぐるりと取り囲んでいる。
昼間なら眺望を楽しむためにそこに登る生徒もいるが、夕方以降は、薄気味悪い時計塔に近づく者すらいない。
「来年選ばれる可能性もあるからと、あれほど言ったのに。どうして、こんな早まったことを……」
男性教師の呟きに、トラレスがはっと顔を上げた。
「リーム先生。まさか、彼は……」
「はっきりとしたことは、まだ分かりません。しかし彼は、魔術統括省の名簿が貼り出された後、ひどく思い詰めた様子で、僕のところに相談に来たんです」
「じゃあ、やっぱり……」
「断定はできませんが、可能性は……」
彼らはその言葉を口にはしなかったが、何を言わんとしているかは、ティルアにも容易に想像できた。
自殺——。
『嘘だ! そんなはずがない!』
しかし、その想像を否定する叫びが背後から聞こえてきた。
振り返ると、下ろした両手を震えるほどに握りしめたユーリウスが、すぐ後ろにいた。
おそらく、ティルアやトラレスの悲鳴を聞きつけてやってきたのだろう。
「ユー……」
思わず声の主の名を口にしそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。
彼の姿は教師たちには見えていないはずなのだ。
『あいつは、魔術薬学者になりたがっていた。魔術統括省には全く興味がなかったんだ。むしろ、名簿に自分の名前がなかったことにほっとしていたんだよ』
もちろんその声も、教師たちには聞こえていない。
『それとも、本当は魔術統括省に行きたかったのか? そんな話は聞いてないぞ! どうなんだよ、フリーデル!』
ユーリウスはつかつかと、変わり果てた姿の同級生に近づいていくと、その前に屈み込んだ。
『フリーデル! おいっ! なに寝てるんだ。起きろよ!』
触れられない手で彼の身体を揺さぶり、届かない声で必死に呼びかける。
けれども、彼が目覚めることは決してない。
ああ。そうだったんだ……。
年上の同級生たちに囲まれ、ずば抜けた才能ゆえに孤立し、誰にも心を開くことがないと思われていたユーリウスだったが、ちゃんと友達はいたのだ。
きっと、フリーデルはそうだったのだ。
ティルアの頬に涙が伝った。
ティルアにとっても、彼は一年生の間、同じクラスで学んだ間柄だ。
ティルアには、今のひょろりとした長身の姿より、茶色の巻き毛と人懐っこい瞳が印象的な幼い頃のイメージが強い。
そう言えばあの頃から、薬草だけに特別な感心を示す変わり者だった。
確かに、役人を目指すようなタイプではなかった。
二人の教師は何やら話を続けているようだが、ティルアの耳には入らなかった。
涙にかすむ目で、ユーリウスの細かく震える背中を見つめていた。
だから、いきなりトラレスに腕を掴まれてぎくりとする。
「さ、行きましょう」
「えっ? 待って!」
「だめです。あなたはここにいてはいけません。他の生徒たちも食事が終わり次第、速やかに寮に戻らせます」
「でもっ、彼を放っておけない」
あんなに辛そうなユーリウスを放っておくことができなくて、つい、そんなことを言ってしまった。
しかし、女教師はそれをフリーデルに対しての思いだと勘違いする。
「そう言えば、あなたはフリーデルとは同期生だったわね。気持ちは分かるけど、今は私たちに任せなさい。あなたには、後で詳しい話を聞かせてもらいますからね」
「だけど……」
どうしても心残りで、強引に腕を引かれながらもユーリウスを振り返る。
『ティルア、行けよ。俺はここに残って調べてみる』
そう言うと彼は、時計塔の入り口に向かって駆け出した。
おそらく、フリーデルが落ちたと思われる、文字盤の下の通路に行ってみるのだろう。
彼の姿が塔の中に消えると、ティルアは急に心細くなった。
一刻も早く、この凄惨な現場から離れたいという気持ちもわき上がってくる。
ここに残っていても、自分にできることは何もない。
彼と教師たちに任せた方がいい。
そう自分に言い訳して、管理棟に向かって歩き出そうとしたが、足ががくがくと震えてまともに歩けなかった。
「あぁ……。フリーデル……」
ティルアは両手で顔を覆った。
特別親しかった訳ではないが、目の前でのひとの死は、これほどまでに衝撃的だった。
薄暗くてよく見えなくても、真紅に染まった悲惨な光景を脳が簡単に補完してしまう。
お守りのネックレスを握りしめても、身体の震えは止まらなかった。
一年生の頃の、彼のあどけない笑顔が脳裏に甦る。
魔術薬学者になりたかったという彼の夢が、頭の中でぐるぐると回る。
そんな彼が、どうして死ななければならなかったんだろう——。
「大丈夫? 歩ける?」
「……はい」
背中に回された教師の手に支えられながら、ティルアはのろのろと管理棟に向かって歩き出した。
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