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使節団滞在五日目。
その日は、朝から人々が慌ただしく出入りしていた。
急遽、ラヴィル計画に関する両国間の会合が入る事になったからだ。
同席を求められているものの、ニーナ自身は用意するものなどない。
時間になるまで、邪魔にならないように庭で過ごそう、と普段は足を運ばない王宮の中庭へと向かった所、見覚えのある後姿を見つけた。
バートランドだ。
反射的に踵を返そうとして、知っている顔がもう一人、バートランドの向こうにいる事に気が付く。
「ガンズネル宰相閣下ではありませんか?」
護衛としてついてきていたオリアナが、ニーナの耳元に小声で囁いた。
「そうみたいね…」
ラヴィル計画において、ガルダ王国はアイル王国と手を結び、共同で当たる事を希望しているけれど、現状では条件の折り合いがついていない。
具体的には、『花嫁の交換』にガルダ側が難色を示している状態だ。
その状況で、ガルダ国宰相であるガンズネルが、アイル王国王太子のバートランドに会っている。
それも、人目を忍ぶようにして。
どう見ても、正式な面会には見えない。
「ねぇ、オリアナ。音声を保存できる魔法石を持ってる、って言ってたよね?」
「はい。私はニーナ様の護衛でもありますから、ニーナ様が外部の方と面会される時には常に起動しています」
「それは、使用時に相手に気づかれる?」
「いいえ、直接、魔法石を見られなければ問題ないかと」
「判った。起動させた状態で貸してくれる?」
ニーナの言葉に、オリアナは焦ったように、
「何をなさるおつもりですか」
と問うた。
「あの二人、絶対、何か企んでる。怪しいから、こっそり近づいて、会話を残そうと思って」
「そんな、危険です!」
「大丈夫。私は小さいから、隠れられる場所は一杯あるもの」
王宮の中庭には、不審者が身を潜める事を警戒してか、低木しか植えられていない。
しかし、低木、と言っても、それは体格のいいガルダ人にとっての事。
ニーナならば、十分に身を隠せる。
オリアナの姿に気づかれたらニーナの存在もバレてしまう、と、距離を取るように求められて、躊躇しながらもオリアナはバートランドとガンズネルの姿が見えない位置まで下がった。
中庭に行くだけだから、と護衛騎士を連れて来なかった事を後悔するけれど、もしかすると、ガルダに有利な証言が得られるのではと思うと、ニーナを止める事もできない。
ニーナを危険に晒す不安と共に、このままではニーナをアイルに奪われるかもしれないと言う不安もあるのだ。
何よりも、ニーナが一度決めた事を容易には撤回しない事を、オリアナはもう知っている。
オリアナを置いて、ニーナはバートランド達の死角から、じりじりと距離を詰めていた。
会合直前に着替えるつもりで、今は普段着にしているワンピースドレス姿なのも幸いした。
裾をたくし上げて低木の陰に身を潜めるように進んでいくと、二人の会話が届く位置まで到達する。
余り近づきすぎては、今度は見つかってしまう危険性が高い。
「……?」
けれど。
確かに声は聞こえるのに、一体、何を言っているのかが判らない。
単語の端々に、聞いた事のあるニュアンスがあるものの、どう聞いてもガルダ語ではない。
まさか、と、久し振りに翻訳機能の制限を解除した所、二人の会話が聞き取れるようになった。
「ガンズネル殿、聞いていた話と違うではないか」
「一体、何について仰っているのでしょうか、バートランド殿下」
「落ち人だ。年端もいかない初心な小娘と聞いていたのに、あれは違う」
「はて?多少、小賢しい所はありますが、男どもの誘いにも気づかないような未熟な娘でございましょう。見目の良い子飼いの男どもを、どれ程送り込んで誘惑しても、手応えがありませぬ。成人していると主張はしておりますが、頭の中身は子供です」
「いや、とんだ勘違いだ。最初は、ヒースクリフ陛下やジェラルディン殿下で目が肥えているせいで、他の男に興味が向かないのかと思ったがな。あれは、自分が誘惑されている事も、恋心でもって操ろうと狙われている事も、すべてを理解した上で気づかぬ振りをしているだけだ。存外、狸だぞ」
「まさか…では、もしや、あれ程にジェラルディン殿下のご寵愛を向けられながらも、その手を取らないのは…」
「何か、考えがあると見た方がいいな。それが何かは判らんが」
「ですが、そうは言っても所詮、娘です。バートランド殿下のお情けを頂けば、これ以上、ジェラルディン殿下に縋る事はできますまい。ジェラルディン殿下もまた、ただ毛色が変わっている娘に興味をお持ちであるだけの事。汚れた娘には見切りをつけましょう。そうなれば、婚姻外交としては成功かと」
「…やはり、それしかないか。無理矢理組み敷くのは趣味ではないのだが…」
「バートランド殿下。ラヴィル計画は、歴史に残る偉業となりましょう。その際、史書に残るのは落ち人の存在です。落ち人を妃に迎えてこそ、バートランド殿下の御名が永世、残っていくのです。どうか、ご決断を」
足音が去っていくまで、ニーナは両手で口を押えて、悲鳴を堪えていた。
怪しい、とは思っていたけれど、まさか、本気で既成事実を作って結婚に持ち込もうと考えているとは。
物音が消えた事を確認して、そろり、と低木の影から出ようとしたニーナは、背後からぽん、と肩に手を置かれて、飛び上がって驚いた。
「ニーナ嬢、奇遇だね」
「誰かと思えば…バートランド殿下でしたか。驚かさないでください」
「こんな所で、何をしていたのかな?」
「耳飾りを落してしまって、探していたんです」
大丈夫。
突然、背後から声を掛けられれば、誰だって驚くものだから。
だから、ニーナが何を聞いたかなんて、判る筈もない…。
ニーナは、先程、咄嗟にピアスを外した左耳をバートランドに見せる。
「これと同じものなんですけど…」
右の耳朶に下がった小振りなピアスを、頬に手を添えるようにして指差すと、バートランドは、
「ちょっと見せて」
と、顔を近づけて来た。
普段使いの小さな石だけれど色の濃いサファイアのピアスに、バートランドは目を眇める。
「…もしかして、これもジェラルディン殿下からの贈り物?」
「いえ、違います」
「ふぅん?残念だけど、この大きさじゃあ、ちょっと見つけるのは難しいかもね。…じゃあさ、私が代わりを贈ろうか」
「装飾品は、特別な関係の人からしか受け取らないと決めてるんです」
一歩、ニーナが後ろに下がると、一歩、バートランドが距離を詰める。
じりじりとした攻防は、ニーナの背が木にぶつかった事で終わりを迎えた。
「ニーナ嬢」
「…何でしょうか」
バートランドが木の幹に両手をついて、ニーナを腕の檻に閉じ込める。
頬を染めるでも脅えるでもなく、真っ直ぐ顔を見上げて来るニーナに、バートランドは片頬を上げて笑った。
「それは、わざとかな?口づけをねだってるの?私は君を妃に欲しいと言ってるのに、どうして、煽るような事をするんだい?」
「バートランド殿下の勘違いです」
「勘違い?そうかな?…じゃあ、さっき、君は一体、何を聞いた?」
「……何を言ってるのか、判りません」
「いや、君は判ってる筈だよ。だって私は今、アイル語で話してるんだからね」
「…!」
ニーナの動揺など、目の前のバートランドには筒抜けだろう。
余りにも突然の事で、咄嗟に翻訳機能を遮断できていなかったのだ。
「おかしいよね。ガルダに来て一年、漸くガルダ語の日常会話ができるようになった、と言う触れ込みの君が、アイル語ぺらぺらなんてさ。…君、落ち人じゃないだろう?」
「わ、たしが、異世界から落ちて来た事は、トアーズ博士が、証明を…」
「聞いたよ、君には魔力がない、だから異世界人なのは確実、って。でもさ…」
バートランドは、頬が重なる位に顔を寄せ、ニーナの耳元で囁いた。
「ガルダを訪れる異世界人は、落ち人だけとは限らないよね?」
「!!」
その時だった。
「ニーナ様…!」
悲鳴のようなオリアナの声に、バートランドがゆっくりと体を離す。
今度こそ、翻訳機能を遮断して、ニーナは慌てて駆け寄ってくるオリアナに目を向けた。
「バートランド殿下、ニーナ様に何をなさったのですか…!」
「…大丈夫、オリアナ。何もないわ」
「ですが…!」
「いいからっ」
震える声で強くオリアナを止めると、バートランドは面白そうに笑った。
「本来の身分を偽って二国の王族を手玉に取るなんて、悪い子だね、ニーナ嬢。ますます、欲しくなった――私との結婚、考えてくれるよね?」
「それ、は…」
「期待してるよ。君だって、歴史に悪女として名を残したくはないだろう?」
何事もなかったかのように悠然と立ち去るバートランドの背を見送って、オリアナは震えの止まらないニーナの肩に触れた。
「ニーナ様、緊急時ですので、失礼致します」
年の離れた妹よりもずっと軽いニーナを抱き上げて、オリアナは急いで後宮に戻る。
何があったのかと駆け寄って来たアンリエッタにヒースとディーンへの伝達を頼むと、青白い顔をしたニーナを、椅子に下ろし、その前に跪いた。
「ニーナ様」
冷たくなった指先を、温めるように両手で包み込む。
「ニーナ様…申し訳ございません、私がお傍に控えておりながら、御身を危険に晒してしまいました」
「違う、私が無理を言ったから、」
「ニーナ様のなさりたい事を補助するのが、私の役目です。ニーナ様のご希望を叶えつつ、安全も守らなくてはならなかったのです。処分は後程、如何様にも。ですが、まずは、何があったのかを話して頂けますか。ニーナ様を、お守りする為に」
「…そ、れは…」
「大丈夫です。私も、アンリエッタ様も、キャシー様も、バーサ様も…勿論、ヒースクリフ陛下も、ジェラルディン殿下も、側近の皆様方も、ニーナ様をお守り致します。何があっても。真実が、何であっても。……そうですね、もしも、ニーナ様が他国の間諜であったとしても」
「間諜なんて、そんな、」
「それ位、ニーナ様を大切に思っている、と言う事ですよ。それは、ニーナ様が落ち人だから、ではありません。ニーナ様がニーナ様だからです」
俯けていた視線を、ニーナは初めて真っ直ぐオリアナに向けた。
「…聞いてたでしょ、私、は…」
「…本来の身分を偽って、二国の王族を手玉に取る、ですか?」
「……」
「さすが、ニーナ様です!それでこそ、私がお仕えするお方です!」
「オリアナ…」
動揺しているせいか、普段よりも一層小柄に見えるニーナを、オリアナはわざと大仰に褒め称える。
「私は、ニーナ様の侍女ですよ?ニーナ様が、殿方の好意に気づいていながら、実は気づかない素振りで相手にしていないだけ、と言う事実に気づいていないとでもお思いですか?」
「え…」
「ニーナ様にお仕えするまで、有望株のご令息が、懸命にご自身を売り込むご令嬢を適当にあしらう姿に憤りを感じておりましたが、確かに、はっきりと拒絶できない方法で好意を示されるのは対処に困るものですね。選択する側の苦悩に、思い至っておりませんでした。人々の好意を弄んでいると思われないよう、そもそも、好意に気づいていない振りをする、と言うのは賢明だと思います」
「…そんなにちゃんと考えてるわけじゃないよ…」
「えぇ、勿論、理解しておりますとも。ニーナ様は、面倒臭がり屋ですから」
「……」
何も言い返せず、ニーナは恨めしそうにオリアナを見つめ返した。
「そんなニーナ様に気づいているのは、私だけではありません。先程、お名前を上げさせて頂いた皆様は、全員、ご存知の事です。ご存知の上で、ニーナ様がニーナ様らしく暮らしていかれる事を、望んでいらっしゃるのです」
ニーナは、驚いて目を見開いた。
ディーンがニーナを気遣ってくれていた事は判っていたけれど、彼以外にも、見守ってくれていた人々がいたとは。
――自分の事だけで手一杯で、いつかは皆に捨てられる、と心の何処かで思っていたニーナは、全く周囲の気持ちが見えていなかった。
「…でも、それは…落ち人の知識が必要だからで…」
「確かに、ニーナ様と、異世界からいらした方である、と言う事実を切り離す事はできません。ですが、私達がニーナ様をお慕いしているのは、これまでにニーナ様が成し遂げられた事を尊敬しているからです」
「私が、成し遂げた事…?」
ぴんと来ない様子で首を傾げるニーナに、オリアナはそんな事だろうと頷いた。
「例えば、ですね。靴を改良してくださいました」
「改良、って…大袈裟ね、ちょっと中敷きを入れただけでしょ?」
「それ!それですよ!私達、立ち仕事の者にとって、どれだけの革命だったか…!」
長時間履いていると足裏が痛くなる靴が辛すぎて、綿と布を貰って適当に中敷きを作った所、それがアンリエッタの目に留まり、いつの間にやら、王宮に勤める女性達が皆、中敷き入りの靴を履くようになった、とは、確かに小耳に挟んだ事があるけれど。
「それと、ですね…その、これまでは月のものの痛みにただ耐えるしかなかったのに、ニーナ様は腰やお腹を温めれば楽になる、と教えてくださいました。後は、体を内部から温める食べ物の事も」
「楽になったなら、良かった」
「そうなんです、良かったんです」
この世界では、どんな痛みであれ、軽減する方法は、治癒魔法しか存在しない。
魔力が多い者は自己治癒力が高い為、そもそも、痛みを感じるような状況に陥る事が少ないのだ。
本来であれば、魔力の少ない者が多い庶民にこそ治癒魔法が必要なのだけれど、治癒魔術師が希少である事から彼等の治療は高額である為、治癒魔法の恩恵にはそう簡単に与れない。
だから、月経痛を感じるレベルの魔力しか持たない女性達は、毎月、その痛みにただ無言で耐えて来た。そう言うものだ、と思っていたから。
それを、誰でも試す事の出来る簡単な方法を教えてくれたニーナに感謝している王宮勤めの女性は多い。
「今、挙げたのは極々一部です。語れと言われれば幾らでも語りますが」
「いや、でも、大した事じゃ…」
「大した事なんです」
きっぱりと言い切ったオリアナは、それでも、納得のいかない顔をしているニーナに、笑い掛ける。
「そして、それを『大した事ではない』と私達に気を遣わせないニーナ様だからこそ、お慕いしているのですよ。…そうですね、もし、私の見込み違いで、先程挙げた方々の中にニーナ様の望まぬ道を強いる方がいらっしゃったならば、ニーナ様、私と一緒に逃げましょうか」
その日は、朝から人々が慌ただしく出入りしていた。
急遽、ラヴィル計画に関する両国間の会合が入る事になったからだ。
同席を求められているものの、ニーナ自身は用意するものなどない。
時間になるまで、邪魔にならないように庭で過ごそう、と普段は足を運ばない王宮の中庭へと向かった所、見覚えのある後姿を見つけた。
バートランドだ。
反射的に踵を返そうとして、知っている顔がもう一人、バートランドの向こうにいる事に気が付く。
「ガンズネル宰相閣下ではありませんか?」
護衛としてついてきていたオリアナが、ニーナの耳元に小声で囁いた。
「そうみたいね…」
ラヴィル計画において、ガルダ王国はアイル王国と手を結び、共同で当たる事を希望しているけれど、現状では条件の折り合いがついていない。
具体的には、『花嫁の交換』にガルダ側が難色を示している状態だ。
その状況で、ガルダ国宰相であるガンズネルが、アイル王国王太子のバートランドに会っている。
それも、人目を忍ぶようにして。
どう見ても、正式な面会には見えない。
「ねぇ、オリアナ。音声を保存できる魔法石を持ってる、って言ってたよね?」
「はい。私はニーナ様の護衛でもありますから、ニーナ様が外部の方と面会される時には常に起動しています」
「それは、使用時に相手に気づかれる?」
「いいえ、直接、魔法石を見られなければ問題ないかと」
「判った。起動させた状態で貸してくれる?」
ニーナの言葉に、オリアナは焦ったように、
「何をなさるおつもりですか」
と問うた。
「あの二人、絶対、何か企んでる。怪しいから、こっそり近づいて、会話を残そうと思って」
「そんな、危険です!」
「大丈夫。私は小さいから、隠れられる場所は一杯あるもの」
王宮の中庭には、不審者が身を潜める事を警戒してか、低木しか植えられていない。
しかし、低木、と言っても、それは体格のいいガルダ人にとっての事。
ニーナならば、十分に身を隠せる。
オリアナの姿に気づかれたらニーナの存在もバレてしまう、と、距離を取るように求められて、躊躇しながらもオリアナはバートランドとガンズネルの姿が見えない位置まで下がった。
中庭に行くだけだから、と護衛騎士を連れて来なかった事を後悔するけれど、もしかすると、ガルダに有利な証言が得られるのではと思うと、ニーナを止める事もできない。
ニーナを危険に晒す不安と共に、このままではニーナをアイルに奪われるかもしれないと言う不安もあるのだ。
何よりも、ニーナが一度決めた事を容易には撤回しない事を、オリアナはもう知っている。
オリアナを置いて、ニーナはバートランド達の死角から、じりじりと距離を詰めていた。
会合直前に着替えるつもりで、今は普段着にしているワンピースドレス姿なのも幸いした。
裾をたくし上げて低木の陰に身を潜めるように進んでいくと、二人の会話が届く位置まで到達する。
余り近づきすぎては、今度は見つかってしまう危険性が高い。
「……?」
けれど。
確かに声は聞こえるのに、一体、何を言っているのかが判らない。
単語の端々に、聞いた事のあるニュアンスがあるものの、どう聞いてもガルダ語ではない。
まさか、と、久し振りに翻訳機能の制限を解除した所、二人の会話が聞き取れるようになった。
「ガンズネル殿、聞いていた話と違うではないか」
「一体、何について仰っているのでしょうか、バートランド殿下」
「落ち人だ。年端もいかない初心な小娘と聞いていたのに、あれは違う」
「はて?多少、小賢しい所はありますが、男どもの誘いにも気づかないような未熟な娘でございましょう。見目の良い子飼いの男どもを、どれ程送り込んで誘惑しても、手応えがありませぬ。成人していると主張はしておりますが、頭の中身は子供です」
「いや、とんだ勘違いだ。最初は、ヒースクリフ陛下やジェラルディン殿下で目が肥えているせいで、他の男に興味が向かないのかと思ったがな。あれは、自分が誘惑されている事も、恋心でもって操ろうと狙われている事も、すべてを理解した上で気づかぬ振りをしているだけだ。存外、狸だぞ」
「まさか…では、もしや、あれ程にジェラルディン殿下のご寵愛を向けられながらも、その手を取らないのは…」
「何か、考えがあると見た方がいいな。それが何かは判らんが」
「ですが、そうは言っても所詮、娘です。バートランド殿下のお情けを頂けば、これ以上、ジェラルディン殿下に縋る事はできますまい。ジェラルディン殿下もまた、ただ毛色が変わっている娘に興味をお持ちであるだけの事。汚れた娘には見切りをつけましょう。そうなれば、婚姻外交としては成功かと」
「…やはり、それしかないか。無理矢理組み敷くのは趣味ではないのだが…」
「バートランド殿下。ラヴィル計画は、歴史に残る偉業となりましょう。その際、史書に残るのは落ち人の存在です。落ち人を妃に迎えてこそ、バートランド殿下の御名が永世、残っていくのです。どうか、ご決断を」
足音が去っていくまで、ニーナは両手で口を押えて、悲鳴を堪えていた。
怪しい、とは思っていたけれど、まさか、本気で既成事実を作って結婚に持ち込もうと考えているとは。
物音が消えた事を確認して、そろり、と低木の影から出ようとしたニーナは、背後からぽん、と肩に手を置かれて、飛び上がって驚いた。
「ニーナ嬢、奇遇だね」
「誰かと思えば…バートランド殿下でしたか。驚かさないでください」
「こんな所で、何をしていたのかな?」
「耳飾りを落してしまって、探していたんです」
大丈夫。
突然、背後から声を掛けられれば、誰だって驚くものだから。
だから、ニーナが何を聞いたかなんて、判る筈もない…。
ニーナは、先程、咄嗟にピアスを外した左耳をバートランドに見せる。
「これと同じものなんですけど…」
右の耳朶に下がった小振りなピアスを、頬に手を添えるようにして指差すと、バートランドは、
「ちょっと見せて」
と、顔を近づけて来た。
普段使いの小さな石だけれど色の濃いサファイアのピアスに、バートランドは目を眇める。
「…もしかして、これもジェラルディン殿下からの贈り物?」
「いえ、違います」
「ふぅん?残念だけど、この大きさじゃあ、ちょっと見つけるのは難しいかもね。…じゃあさ、私が代わりを贈ろうか」
「装飾品は、特別な関係の人からしか受け取らないと決めてるんです」
一歩、ニーナが後ろに下がると、一歩、バートランドが距離を詰める。
じりじりとした攻防は、ニーナの背が木にぶつかった事で終わりを迎えた。
「ニーナ嬢」
「…何でしょうか」
バートランドが木の幹に両手をついて、ニーナを腕の檻に閉じ込める。
頬を染めるでも脅えるでもなく、真っ直ぐ顔を見上げて来るニーナに、バートランドは片頬を上げて笑った。
「それは、わざとかな?口づけをねだってるの?私は君を妃に欲しいと言ってるのに、どうして、煽るような事をするんだい?」
「バートランド殿下の勘違いです」
「勘違い?そうかな?…じゃあ、さっき、君は一体、何を聞いた?」
「……何を言ってるのか、判りません」
「いや、君は判ってる筈だよ。だって私は今、アイル語で話してるんだからね」
「…!」
ニーナの動揺など、目の前のバートランドには筒抜けだろう。
余りにも突然の事で、咄嗟に翻訳機能を遮断できていなかったのだ。
「おかしいよね。ガルダに来て一年、漸くガルダ語の日常会話ができるようになった、と言う触れ込みの君が、アイル語ぺらぺらなんてさ。…君、落ち人じゃないだろう?」
「わ、たしが、異世界から落ちて来た事は、トアーズ博士が、証明を…」
「聞いたよ、君には魔力がない、だから異世界人なのは確実、って。でもさ…」
バートランドは、頬が重なる位に顔を寄せ、ニーナの耳元で囁いた。
「ガルダを訪れる異世界人は、落ち人だけとは限らないよね?」
「!!」
その時だった。
「ニーナ様…!」
悲鳴のようなオリアナの声に、バートランドがゆっくりと体を離す。
今度こそ、翻訳機能を遮断して、ニーナは慌てて駆け寄ってくるオリアナに目を向けた。
「バートランド殿下、ニーナ様に何をなさったのですか…!」
「…大丈夫、オリアナ。何もないわ」
「ですが…!」
「いいからっ」
震える声で強くオリアナを止めると、バートランドは面白そうに笑った。
「本来の身分を偽って二国の王族を手玉に取るなんて、悪い子だね、ニーナ嬢。ますます、欲しくなった――私との結婚、考えてくれるよね?」
「それ、は…」
「期待してるよ。君だって、歴史に悪女として名を残したくはないだろう?」
何事もなかったかのように悠然と立ち去るバートランドの背を見送って、オリアナは震えの止まらないニーナの肩に触れた。
「ニーナ様、緊急時ですので、失礼致します」
年の離れた妹よりもずっと軽いニーナを抱き上げて、オリアナは急いで後宮に戻る。
何があったのかと駆け寄って来たアンリエッタにヒースとディーンへの伝達を頼むと、青白い顔をしたニーナを、椅子に下ろし、その前に跪いた。
「ニーナ様」
冷たくなった指先を、温めるように両手で包み込む。
「ニーナ様…申し訳ございません、私がお傍に控えておりながら、御身を危険に晒してしまいました」
「違う、私が無理を言ったから、」
「ニーナ様のなさりたい事を補助するのが、私の役目です。ニーナ様のご希望を叶えつつ、安全も守らなくてはならなかったのです。処分は後程、如何様にも。ですが、まずは、何があったのかを話して頂けますか。ニーナ様を、お守りする為に」
「…そ、れは…」
「大丈夫です。私も、アンリエッタ様も、キャシー様も、バーサ様も…勿論、ヒースクリフ陛下も、ジェラルディン殿下も、側近の皆様方も、ニーナ様をお守り致します。何があっても。真実が、何であっても。……そうですね、もしも、ニーナ様が他国の間諜であったとしても」
「間諜なんて、そんな、」
「それ位、ニーナ様を大切に思っている、と言う事ですよ。それは、ニーナ様が落ち人だから、ではありません。ニーナ様がニーナ様だからです」
俯けていた視線を、ニーナは初めて真っ直ぐオリアナに向けた。
「…聞いてたでしょ、私、は…」
「…本来の身分を偽って、二国の王族を手玉に取る、ですか?」
「……」
「さすが、ニーナ様です!それでこそ、私がお仕えするお方です!」
「オリアナ…」
動揺しているせいか、普段よりも一層小柄に見えるニーナを、オリアナはわざと大仰に褒め称える。
「私は、ニーナ様の侍女ですよ?ニーナ様が、殿方の好意に気づいていながら、実は気づかない素振りで相手にしていないだけ、と言う事実に気づいていないとでもお思いですか?」
「え…」
「ニーナ様にお仕えするまで、有望株のご令息が、懸命にご自身を売り込むご令嬢を適当にあしらう姿に憤りを感じておりましたが、確かに、はっきりと拒絶できない方法で好意を示されるのは対処に困るものですね。選択する側の苦悩に、思い至っておりませんでした。人々の好意を弄んでいると思われないよう、そもそも、好意に気づいていない振りをする、と言うのは賢明だと思います」
「…そんなにちゃんと考えてるわけじゃないよ…」
「えぇ、勿論、理解しておりますとも。ニーナ様は、面倒臭がり屋ですから」
「……」
何も言い返せず、ニーナは恨めしそうにオリアナを見つめ返した。
「そんなニーナ様に気づいているのは、私だけではありません。先程、お名前を上げさせて頂いた皆様は、全員、ご存知の事です。ご存知の上で、ニーナ様がニーナ様らしく暮らしていかれる事を、望んでいらっしゃるのです」
ニーナは、驚いて目を見開いた。
ディーンがニーナを気遣ってくれていた事は判っていたけれど、彼以外にも、見守ってくれていた人々がいたとは。
――自分の事だけで手一杯で、いつかは皆に捨てられる、と心の何処かで思っていたニーナは、全く周囲の気持ちが見えていなかった。
「…でも、それは…落ち人の知識が必要だからで…」
「確かに、ニーナ様と、異世界からいらした方である、と言う事実を切り離す事はできません。ですが、私達がニーナ様をお慕いしているのは、これまでにニーナ様が成し遂げられた事を尊敬しているからです」
「私が、成し遂げた事…?」
ぴんと来ない様子で首を傾げるニーナに、オリアナはそんな事だろうと頷いた。
「例えば、ですね。靴を改良してくださいました」
「改良、って…大袈裟ね、ちょっと中敷きを入れただけでしょ?」
「それ!それですよ!私達、立ち仕事の者にとって、どれだけの革命だったか…!」
長時間履いていると足裏が痛くなる靴が辛すぎて、綿と布を貰って適当に中敷きを作った所、それがアンリエッタの目に留まり、いつの間にやら、王宮に勤める女性達が皆、中敷き入りの靴を履くようになった、とは、確かに小耳に挟んだ事があるけれど。
「それと、ですね…その、これまでは月のものの痛みにただ耐えるしかなかったのに、ニーナ様は腰やお腹を温めれば楽になる、と教えてくださいました。後は、体を内部から温める食べ物の事も」
「楽になったなら、良かった」
「そうなんです、良かったんです」
この世界では、どんな痛みであれ、軽減する方法は、治癒魔法しか存在しない。
魔力が多い者は自己治癒力が高い為、そもそも、痛みを感じるような状況に陥る事が少ないのだ。
本来であれば、魔力の少ない者が多い庶民にこそ治癒魔法が必要なのだけれど、治癒魔術師が希少である事から彼等の治療は高額である為、治癒魔法の恩恵にはそう簡単に与れない。
だから、月経痛を感じるレベルの魔力しか持たない女性達は、毎月、その痛みにただ無言で耐えて来た。そう言うものだ、と思っていたから。
それを、誰でも試す事の出来る簡単な方法を教えてくれたニーナに感謝している王宮勤めの女性は多い。
「今、挙げたのは極々一部です。語れと言われれば幾らでも語りますが」
「いや、でも、大した事じゃ…」
「大した事なんです」
きっぱりと言い切ったオリアナは、それでも、納得のいかない顔をしているニーナに、笑い掛ける。
「そして、それを『大した事ではない』と私達に気を遣わせないニーナ様だからこそ、お慕いしているのですよ。…そうですね、もし、私の見込み違いで、先程挙げた方々の中にニーナ様の望まぬ道を強いる方がいらっしゃったならば、ニーナ様、私と一緒に逃げましょうか」
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