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<番外編>
と或る令嬢の物語。
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「エレオノーラ。暫く、領地にいなさい」
苦虫を噛み潰したような顔で、ヘーデル公爵は娘に言い放った。
「そうよ、エレオノーラ。ほとぼりが冷めるまで、領地で大人しくしていらっしゃい」
母である公爵夫人も、心配そうな面持ちを作っているが、内心では腸が煮えくり返っている事を、エレオノーラは知っている。
「…承知致しました」
エレオノーラは先日、二十一歳になった。
婚約者のいない二十一歳の令嬢が、社交の場が限られる領地に引っ込む事…それはすなわち、婚期を逃して、下手すると結婚出来ない、と言う事である。
けれど、両親二人からの命令に、エレオノーラは逆らう事は出来なかった。
エレオノーラ・ヘーデル。
彼女は、サンクリアーニ王国の南域にあるバルアン領を治めるヘーデル公爵家の長子として生まれた。
サンクリアーニの貴族は、なかなか子供を授からない。
それ故に、婿を取って公爵家を継ぐ事を前提に育てられていたエレオノーラの生活が一変したのは、六歳の時。
弟のジョセフが生まれたのだ。
以来、両親の関心は専ら弟に向けられるようになり、エレオノーラは、より良い条件の男性の元に嫁ぐ事を求められるようになった。
「エレオノーラ。こちらが、ユーキタス公爵家のご子息、ジェレマイア様よ」
初めて、母にジェレマイアと引き合わされたのは、七歳の時。
両親と共に、王都を訪れた時だった。
王都の屋敷が近いと言う事で、双方の母親がお茶会をした際に挨拶したのだ。
「初めまして、エレオノーラ嬢」
そう微笑んだジェレマイアは、まだ十一歳の少年だと言うのに、これまでにエレオノーラが出会ったどの少年よりも大人びていて、礼儀正しく、美しかった。
一目惚れ、と言うよりも、憧れと言った方がいいだろう。
まるで、童話の中の王子様みたいだ。
けれど、両親の考えは、違った。
「いいか、エレオノーラ。ユーキタス家の子はジェレマイア殿一人。ユーキタス公爵のお母上は前陛下の妹君であったし、今でも王家と親しくしている。上手く取り入れば、我がヘーデル家の力が一層増すと言うものだ。それは、ジョセフの力になる」
「そうよ、エレオノーラ。女の幸せは、どれだけ爵位が高く、資産のある家に嫁げるかで決まるのです。貴方は家を出て嫁ぐ身なのですから、己を磨いて、ジェレマイア様を振り向かせなさい。そして、ジョセフに良い伝手を作ってちょうだい」
公爵家の令嬢として受けるべき教育に追加される、様々な指導。
まだ幼い娘の肌を、擦り剥ける程に磨き、化粧を施し、完璧な令嬢の笑みが浮かべられるようになるまで、食事も与えない。
食べ盛りのエレオノーラのウェストをコルセットで締め上げ、
「淑女は、小鳥のように少食なものよ」
と嘯く母。
唯一、気が抜けたのは、乳兄弟であるバーネットと共にいる時だけだった。
バーネットの母であるエディール子爵夫人が、エレオノーラの母に会いに来ると、子供達は自由に遊ばせて貰える。
昔からの友人であるエディール子爵夫人とのお茶会だけは、母がお喋りに夢中になって、エレオノーラから目を離してくれるのだ。
「…エリー…また、ちっちゃくなった?」
「私が小さいのではないわ。バーニー、貴方が大きくなったのよ」
そう言うと、エレオノーラは、バーネットに微笑んだ。
茶色の髪に茶色の目、清潔感はあるけれど、決して王子様のようにきらきらしていない彼は、少し心配そうに目を細めた。
幼い頃は、同じ位の背丈だった筈が、ぐんぐん成長するバーネットと異なり、なかなか背が伸びないエレオノーラ。
華奢で小柄な女性の方が愛される、と言う母の持論で、エレオノーラはいつもお腹が空いていた。
「でも、それにしても、エリーは細すぎるよ。ちょっと強い風が吹いたら、飛んでっちゃいそうだ。だから、ほら」
そう言って渡してくれるのは、日持ちのする焼き菓子。
「部屋に隠しておいで」
笑うと、目尻にくしゃりと皺が寄る。
「…有難う、バーニー」
バーネットはいつでも、エレオノーラの味方だ。
そんな二人の関係が変わり始めたのは、ジェレマイアが社交界デビューした年の事。
「エレオノーラ。王都の屋敷に滞在なさい」
母の指示に、エレオノーラは首を傾げた。
「理由を伺ってもよろしいですか?」
「ジェレマイア様が、社交界デビューなさるのよ。ジェレマイア様は、お父様と同じく西域騎士団に入団されるから、なかなか社交の場にお姿をお見せになる事はないでしょう。だから、少しでもお会い出来る機会を逃さない為に、これからはずっと、王都にいるべきだわ」
エレオノーラは、まだ十四歳。
以来、領地と王都を行き来する両親と弟と離れ、一人で王都の屋敷に滞在する事になる。
社交界デビューする年齢ではないが、同じくデビュー前のご令嬢達とのお茶会を通じて、社交界に確実な地位を築いていった。
筆頭公爵家の嫡男であるジェレマイアを慕う令嬢は、多い。
その中で、一歩でも先んじる為に、懸命に己の美と社交術を磨き、他の令嬢を牽制する。
公爵令嬢であるエレオノーラがジェレマイアを望んでいる、と知れば、下位貴族の令嬢は、まず勝ち目はないとして身を引く。
なかなか諦めないのが、伯爵家以上のご令嬢だ。
婿取りをしなくてはいけない令嬢ですら、彼の事を慕うと言うのだから、恋敵の多さは尋常ではない。
母の予想通り、ジェレマイアが王都に出て来る機会は多くはないが、その数少ない機会を、エレオノーラは最大限に利用して、彼に好意をアピールしてきた…つもりだった。
「…あのさ、エリー。言いにくいんだけど…」
「なぁに、バーニー」
バーネットとは、領地に居る時よりも会える頻度はぐっと下がっていた。
仕方がない。
バーネットは、エディール子爵家の跡取り。
エレオノーラの従者ではないのだから。
それでも、彼は、王都に来る機会があれば、必ず、エレオノーラの所に顔を出した。
乳兄弟であるバーネットと向き合う時だけは、令嬢として作っている顔が崩れて、元の『エリー』でいられる。
「ユーキタス公爵令息なんだけどさ」
「ジェレマイア様が、どうしたの?」
「あの方には、エリーのアプローチの方法は、向いてないと思う、って言うか…」
「…何を言っているの?お母様もお父様も、こうしなさい、って仰っているわ」
「うん、そうだね、普通の貴族の子息なら、間違ってないと思う。でも、あの方はほら、将来、騎士団の幹部候補と言う武闘派の方でしょ?令嬢らしさをアピールするよりも、騎士のお仕事を支えるべきじゃない?」
エレオノーラは、ジェレマイアに会う機会がある度に、如何に自分が令嬢としての資質に恵まれているかをアピールしてきた。
華奢で小柄でありながら、女性らしい凹凸のある体は、儚げで嫋やかであるべし、とされるサンクリアーニの令嬢として、随一と自信がある。
幼少期から手入れを続けたお陰で、黄金のように眩く輝く艶やかな髪。
青く大きな瞳は、エレオノーラの自慢の一つだ。
少し垂れた目尻が、甘えたような雰囲気で庇護欲をそそる事を、自分でよく判っている。
公爵令嬢と言う高い地位を存分に活用して、取り巻きと呼べる令嬢を多く自陣営に引き込んだ。
…そして、その方法では、ジェレマイアがこちらを見てくれない事にも、気がついてはいた。
幼い頃からの知り合いなのだし、他の令嬢よりも早い時期からアプローチしていたのだから、先んじている、と思えたのは一瞬だけ。
彼は、とても穏やかな貴公子の笑みを浮かべてくれるけれど、それは、エレオノーラ以外の令嬢に対してと全く同じもので。
エレオノーラを覚えてはくれているものの、幼い頃のように名では呼んでくれず、いつも「ヘーデル公爵令嬢」と他人行儀に呼ぶ。
他の令嬢とエレオノーラの扱いに、全く差がない。
けれど。
一体、どうすればいいと言うのだろう。
他の方法等、誰も教えてはくれないと言うのに。
「放っておいてちょうだい。今はジェレマイア様も、騎士団に慣れるのにお忙しいだけ。公爵令息であるジェレマイア様が必要となさるのは、将来の公爵夫人よ。落ち着かれたら、わたくしこそが相応しい事に、気づいて下さるのだから!」
だから、諦めさえしなければ、必ず選んでくれる。
そう思っていないと、前を向けない。
社交界デビューを果たして、数多くの令息に声を掛けられた。
エレオノーラが公爵令嬢であり、実家には跡取りのジョセフがいる事を知っている令息達からのアプローチは、彼女の自尊心を満たすのに十分だった。
美しい令嬢だと褒めそやされ、比類なき淑女だと持て囃され、貴方の隣に立つ男は、どれ程に誇らしいでしょう、と言われ続けていれば、自分こそが頂点だと自信を持つに決まっている。
なのに、ジェレマイアは一向に、エレオノーラに振り向いてはくれない。
ダンスの誘い一つない。
それどころか、夜会に出ても、言葉すら交わしてくれなくなってしまった。
二十歳までに婚約を取り付けねば、行き遅れと言われてしまう。
婚約さえしておけば、二十を幾つか越えようとも、幾らでも言い訳が出来るのだ。
両親からの重圧は、日々、増している。
『ジョセフの事を考えろ。お前は姉だろう。何て情けないのだ』
『姉らしく、ジョセフを支える為に出来る事をなさい。努力が足りないのではなくて?』
重圧に耐えかねて、少々、暴走した自覚はある。
けれど…まさか、ジェレマイアの相手が、年上で、長身で、筋肉質のがっちりした体格の女性騎士だなんて、想像も出来なかった。
何しろ彼女は、王都の社交界に一度として顔を出した事もないのだ。
サンクリアーニの女性貴族として、エディス・ラングリード程、将来の公爵夫人らしくない女性はいない。
そんな事位、ジェレマイアなら判っているだろうに。
なのに、彼が選んだのは、エディスだった。
エレオノーラと一緒になって、他の令嬢達を蹴落としていた取り巻き達が、一人、また一人と、離れていく。
代わりとばかりに、エディスの周囲には、彼女を慕うご令嬢が集まるようになった。
風向きが変わった事に気づいていたが、両親が立ち止まる事を許さない。
白い目に耐えかねても、一人で立つ事が辛くても、泣き言を聞いては貰えなかった。
「女として生まれておきながら、女の武器も使えずに終わるのか」、そう、父に言われて、屈辱で頭が真っ白になった。
「貴方を磨き上げる為に、一体幾ら、つぎ込んだと思っているの」、そう、母に言われて、悔しさから血の気が引いた。
ジェレマイアを望んでいたのは、誰だったのだろう。
幼い日の憧れは、いつしか、両親の欲望に歪められてしまったと言うのに。
「荷物は、これだけ?」
失意のまま、バルアン領に戻るエレオノーラについてくるのは、侍女が一人と、御者が一人。
これまでは、侍女が十人いたのに、
「茶会も夜会も、ご招待されないのだから、不要でしょう」
と、母に取り上げられてしまった。
公爵令嬢が一週間掛ける馬車旅に、護衛すらつけて貰えない。
恐らく両親は、エレオノーラの、ひいてはヘーデル公爵家の悪評を、「なかった事」にしたいのだ。
道中で、エレオノーラがどうなってもいいのだろう。
見送りすらなく、しん、と凍えた心で準備をしていたエレオノーラは、久し振りに聞こえた声に、耳を疑った。
「…バーニー…?」
「久し振り、エリー」
社交界デビューの後、エレオノーラのやり方に苦言を呈したバーネットとは、距離が出来ていた。
振り返ると、もう三年、顔を合わせていない事になる。
それすらも気にしていられない位、エレオノーラは日々、必死だったのだ。
――久し振りに会ったバーネットは、何だか随分と、体格が良くなっていた。
「…どうして、此処に…」
「バルアンに戻るって聞いた。だから、護衛しようかな、って思って」
昔と変わらない笑顔。
バーネットの、目尻の笑い皺が好きだった事を、エレオノーラは思い出した。
「護衛って…貴方、剣は使えるの?」
「それなりに使えると思うよ。俺は今、南域騎士団の騎士だからね」
「騎士?!」
バーネットは、エディール子爵家の跡取りだと言うのに、何故、そのような危険な職に。
「何で…」
「う~ん…言わないと、判らない?」
そう微笑んだバーネットの笑みが余りにも優しくて、エレオノーラは、胸が詰まったようになって、ぎゅっと胸元で手を握った。
昔と変わらないけれど、その視線の意味を、今のエレオノーラは理解出来る。
「バーニー…あの…」
「俺が騎士になろうと、エディール家が子爵家なのは変わらない。それに、エリーに苦労を一つもさせないか、ってなると、胸張って頷けない」
別に、貧乏ってわけじゃないし、侍女も雇えるけど、ヘーデル家程のドレスや宝石はちょっと無理。
そう、バーネットは苦笑する。
「でもね。俺は多分、この国の誰よりも一番、エリーの事を見て来たよ」
「…!」
「エリーが、公爵ご夫妻の求める淑女になる為に、どれだけ努力をして来たのか、知ってる。王都の社交界で、懸命に自分の地位を築いて来たのを、知ってる。…自分のした事を、後悔してる事も、知ってるよ」
エレオノーラは、下唇を噛む事で、震えをやり過ごそうとする。
「間違った事した、って今は、判ってるんだろ?」
「…えぇ…ラングリード侯爵令嬢に、酷い事を言ってしまったわ…ジェレマイア様…ユーキタス公爵令息にも、ご迷惑をお掛けして…」
エレオノーラやヘーデル公爵家が何を言っても、何をしても、ジェレマイアの気持ちは欠片も変わらなかった。
それどころか、怒りを買うばかり。
最後に顔を合わせた王都の夜会では、エレオノーラを見て苛立たし気な態度を隠そうともしないジェレマイアを、被害者である筈のエディスが懸命に宥めていた位だ。
その姿に、あぁ、この二人の間を裂こう等、自分には到底無理な話だったのだ、と、漸く思い切る事が出来た。
「今直ぐに受け入れて頂く事は難しいでしょうけれど…いずれは、きちんとお詫びを申し上げなくては」
「うん、そうだね」
あの二人が、羨ましい。
貴族の結婚なんて、互いの欲が絡んだ条件ありきのものだと思っていたのに、違うのだと、最も必要としている相手を選んだのだと、そう、全身で表現するジェレマイアの姿は、余裕などなく、いっそ清々しい位に必死で、憧れていた童話の王子様とは全然違う。
なのに、それだけエディスが愛されていると言う事なのだ、と思うと、羨ましくて仕方がない。
エディスがジェレマイアに向ける目に、確かな信頼と愛情が見えるからこそ、余計に。
ジェレマイアの父であるユーキタス公爵と、エディスの父であるラングリード侯爵が、二人に向ける視線の温かさもまた、エレオノーラが心から欲して止まないものだった。
それは、エレオノーラが一度も受けた覚えのないものだったから。
「エリー。今直ぐに答えを出して、とは言わないよ。でも、考えてみて欲しい」
「…考えるまでもないわ」
「…そう、だよね…」
ぎこちなく笑うバーネットに、エレオノーラは首を振る。
「私、貴方と結婚する」
久し振りに、「わたくし」ではなく「私」と言った。
この方が、自分らしくて好きだ。
「え」
言い出しておきながら、唖然として口を開けたまま固まるバーネットの顔を、エレオノーラは見上げた。
「恐らく、子爵家に嫁ぐと知ったら、お父様もお母様も、煩く色々と言い出すとは思うわ。でも、ユーキタス家に反目した上に、これだけ悪評の立った私を欲しがる人なんて、他にいるわけがないのだし、だったら、私は、バーニーと一緒にいたい」
「エ、エリー」
「バーニーこそ、問題があるのではなくて?エディール家なら他に、もっと気立ても評判も良いご令嬢との縁談があるでしょう?幾ら、私の乳母だったとは言え、受け入れてくれるとは思えないわ」
「父さんも母さんも、エリーの事は小さい頃から知ってる。…無理してるんじゃないか、ってずっと、心配してたんだ」
「持参金もきっと、余り持たせて頂けないでしょうね。…それでもいいの?」
「そんなの関係ない。俺は、エリーと結婚したいんであって、公爵家との縁が欲しいわけじゃないんだ」
初めて、バーネットの口から『結婚』と言う言葉が出て、エレオノーラはホッとして微笑んだ。
そう言う事だろう、とは思ったけれど、自信が持てなかったから。
「直ぐにヘーデル公爵様が許して下さるか判らないけど…俺、許して貰えるまで、頑張るから」
南域騎士団に入ったのは、騎士であるジェレマイアに少しでも対抗したかったから。
子爵家の領地経営だけでは、公爵令嬢であるエレオノーラに不足だと思ったから。
一生懸命頑張って、今では小隊の副隊長になった。
会わなかった間の話を、少し気恥ずかしそうに話すバーネットの横顔が愛おしくて、幼い頃から、彼といるとこんな温かい気持ちだった事を思い出した。
「私がジェレマイア様に選ばれないと、そう思っていたのね…?」
「…遠く離れてるからこそ、見えるものもあるんだよ」
ずっと、見ていたんだから。
その言葉に、これまでの時間が報われた気がした。
「どれだけ掛かったとしても…私もずっと、貴方を待つわ」
ジェレマイアとエディスの婚姻が成立してから、一年後。
エレオノーラ・ヘーデル公爵令嬢は、バーネット・エディール子爵令息の元に嫁いだ。
王都の社交界では、姿を見せなくなったエレオノーラに対して、公爵家から子爵家とは、エレオノーラ嬢も堕ちたものだ、ユーキタス家を怒らせるから、と噂された。
ヘーデル公爵は、後継ぎの為に、娘を切り捨てたのだ、と。
以来、エディール夫妻は、王都に足を運んでいない。
しかし、夫婦仲は極めて良好で、結婚から二年後、待望の赤ん坊が生まれた折には、エディス・ユーキタス夫人より、刺繍入りのおくるみが贈られたそうである。
END
苦虫を噛み潰したような顔で、ヘーデル公爵は娘に言い放った。
「そうよ、エレオノーラ。ほとぼりが冷めるまで、領地で大人しくしていらっしゃい」
母である公爵夫人も、心配そうな面持ちを作っているが、内心では腸が煮えくり返っている事を、エレオノーラは知っている。
「…承知致しました」
エレオノーラは先日、二十一歳になった。
婚約者のいない二十一歳の令嬢が、社交の場が限られる領地に引っ込む事…それはすなわち、婚期を逃して、下手すると結婚出来ない、と言う事である。
けれど、両親二人からの命令に、エレオノーラは逆らう事は出来なかった。
エレオノーラ・ヘーデル。
彼女は、サンクリアーニ王国の南域にあるバルアン領を治めるヘーデル公爵家の長子として生まれた。
サンクリアーニの貴族は、なかなか子供を授からない。
それ故に、婿を取って公爵家を継ぐ事を前提に育てられていたエレオノーラの生活が一変したのは、六歳の時。
弟のジョセフが生まれたのだ。
以来、両親の関心は専ら弟に向けられるようになり、エレオノーラは、より良い条件の男性の元に嫁ぐ事を求められるようになった。
「エレオノーラ。こちらが、ユーキタス公爵家のご子息、ジェレマイア様よ」
初めて、母にジェレマイアと引き合わされたのは、七歳の時。
両親と共に、王都を訪れた時だった。
王都の屋敷が近いと言う事で、双方の母親がお茶会をした際に挨拶したのだ。
「初めまして、エレオノーラ嬢」
そう微笑んだジェレマイアは、まだ十一歳の少年だと言うのに、これまでにエレオノーラが出会ったどの少年よりも大人びていて、礼儀正しく、美しかった。
一目惚れ、と言うよりも、憧れと言った方がいいだろう。
まるで、童話の中の王子様みたいだ。
けれど、両親の考えは、違った。
「いいか、エレオノーラ。ユーキタス家の子はジェレマイア殿一人。ユーキタス公爵のお母上は前陛下の妹君であったし、今でも王家と親しくしている。上手く取り入れば、我がヘーデル家の力が一層増すと言うものだ。それは、ジョセフの力になる」
「そうよ、エレオノーラ。女の幸せは、どれだけ爵位が高く、資産のある家に嫁げるかで決まるのです。貴方は家を出て嫁ぐ身なのですから、己を磨いて、ジェレマイア様を振り向かせなさい。そして、ジョセフに良い伝手を作ってちょうだい」
公爵家の令嬢として受けるべき教育に追加される、様々な指導。
まだ幼い娘の肌を、擦り剥ける程に磨き、化粧を施し、完璧な令嬢の笑みが浮かべられるようになるまで、食事も与えない。
食べ盛りのエレオノーラのウェストをコルセットで締め上げ、
「淑女は、小鳥のように少食なものよ」
と嘯く母。
唯一、気が抜けたのは、乳兄弟であるバーネットと共にいる時だけだった。
バーネットの母であるエディール子爵夫人が、エレオノーラの母に会いに来ると、子供達は自由に遊ばせて貰える。
昔からの友人であるエディール子爵夫人とのお茶会だけは、母がお喋りに夢中になって、エレオノーラから目を離してくれるのだ。
「…エリー…また、ちっちゃくなった?」
「私が小さいのではないわ。バーニー、貴方が大きくなったのよ」
そう言うと、エレオノーラは、バーネットに微笑んだ。
茶色の髪に茶色の目、清潔感はあるけれど、決して王子様のようにきらきらしていない彼は、少し心配そうに目を細めた。
幼い頃は、同じ位の背丈だった筈が、ぐんぐん成長するバーネットと異なり、なかなか背が伸びないエレオノーラ。
華奢で小柄な女性の方が愛される、と言う母の持論で、エレオノーラはいつもお腹が空いていた。
「でも、それにしても、エリーは細すぎるよ。ちょっと強い風が吹いたら、飛んでっちゃいそうだ。だから、ほら」
そう言って渡してくれるのは、日持ちのする焼き菓子。
「部屋に隠しておいで」
笑うと、目尻にくしゃりと皺が寄る。
「…有難う、バーニー」
バーネットはいつでも、エレオノーラの味方だ。
そんな二人の関係が変わり始めたのは、ジェレマイアが社交界デビューした年の事。
「エレオノーラ。王都の屋敷に滞在なさい」
母の指示に、エレオノーラは首を傾げた。
「理由を伺ってもよろしいですか?」
「ジェレマイア様が、社交界デビューなさるのよ。ジェレマイア様は、お父様と同じく西域騎士団に入団されるから、なかなか社交の場にお姿をお見せになる事はないでしょう。だから、少しでもお会い出来る機会を逃さない為に、これからはずっと、王都にいるべきだわ」
エレオノーラは、まだ十四歳。
以来、領地と王都を行き来する両親と弟と離れ、一人で王都の屋敷に滞在する事になる。
社交界デビューする年齢ではないが、同じくデビュー前のご令嬢達とのお茶会を通じて、社交界に確実な地位を築いていった。
筆頭公爵家の嫡男であるジェレマイアを慕う令嬢は、多い。
その中で、一歩でも先んじる為に、懸命に己の美と社交術を磨き、他の令嬢を牽制する。
公爵令嬢であるエレオノーラがジェレマイアを望んでいる、と知れば、下位貴族の令嬢は、まず勝ち目はないとして身を引く。
なかなか諦めないのが、伯爵家以上のご令嬢だ。
婿取りをしなくてはいけない令嬢ですら、彼の事を慕うと言うのだから、恋敵の多さは尋常ではない。
母の予想通り、ジェレマイアが王都に出て来る機会は多くはないが、その数少ない機会を、エレオノーラは最大限に利用して、彼に好意をアピールしてきた…つもりだった。
「…あのさ、エリー。言いにくいんだけど…」
「なぁに、バーニー」
バーネットとは、領地に居る時よりも会える頻度はぐっと下がっていた。
仕方がない。
バーネットは、エディール子爵家の跡取り。
エレオノーラの従者ではないのだから。
それでも、彼は、王都に来る機会があれば、必ず、エレオノーラの所に顔を出した。
乳兄弟であるバーネットと向き合う時だけは、令嬢として作っている顔が崩れて、元の『エリー』でいられる。
「ユーキタス公爵令息なんだけどさ」
「ジェレマイア様が、どうしたの?」
「あの方には、エリーのアプローチの方法は、向いてないと思う、って言うか…」
「…何を言っているの?お母様もお父様も、こうしなさい、って仰っているわ」
「うん、そうだね、普通の貴族の子息なら、間違ってないと思う。でも、あの方はほら、将来、騎士団の幹部候補と言う武闘派の方でしょ?令嬢らしさをアピールするよりも、騎士のお仕事を支えるべきじゃない?」
エレオノーラは、ジェレマイアに会う機会がある度に、如何に自分が令嬢としての資質に恵まれているかをアピールしてきた。
華奢で小柄でありながら、女性らしい凹凸のある体は、儚げで嫋やかであるべし、とされるサンクリアーニの令嬢として、随一と自信がある。
幼少期から手入れを続けたお陰で、黄金のように眩く輝く艶やかな髪。
青く大きな瞳は、エレオノーラの自慢の一つだ。
少し垂れた目尻が、甘えたような雰囲気で庇護欲をそそる事を、自分でよく判っている。
公爵令嬢と言う高い地位を存分に活用して、取り巻きと呼べる令嬢を多く自陣営に引き込んだ。
…そして、その方法では、ジェレマイアがこちらを見てくれない事にも、気がついてはいた。
幼い頃からの知り合いなのだし、他の令嬢よりも早い時期からアプローチしていたのだから、先んじている、と思えたのは一瞬だけ。
彼は、とても穏やかな貴公子の笑みを浮かべてくれるけれど、それは、エレオノーラ以外の令嬢に対してと全く同じもので。
エレオノーラを覚えてはくれているものの、幼い頃のように名では呼んでくれず、いつも「ヘーデル公爵令嬢」と他人行儀に呼ぶ。
他の令嬢とエレオノーラの扱いに、全く差がない。
けれど。
一体、どうすればいいと言うのだろう。
他の方法等、誰も教えてはくれないと言うのに。
「放っておいてちょうだい。今はジェレマイア様も、騎士団に慣れるのにお忙しいだけ。公爵令息であるジェレマイア様が必要となさるのは、将来の公爵夫人よ。落ち着かれたら、わたくしこそが相応しい事に、気づいて下さるのだから!」
だから、諦めさえしなければ、必ず選んでくれる。
そう思っていないと、前を向けない。
社交界デビューを果たして、数多くの令息に声を掛けられた。
エレオノーラが公爵令嬢であり、実家には跡取りのジョセフがいる事を知っている令息達からのアプローチは、彼女の自尊心を満たすのに十分だった。
美しい令嬢だと褒めそやされ、比類なき淑女だと持て囃され、貴方の隣に立つ男は、どれ程に誇らしいでしょう、と言われ続けていれば、自分こそが頂点だと自信を持つに決まっている。
なのに、ジェレマイアは一向に、エレオノーラに振り向いてはくれない。
ダンスの誘い一つない。
それどころか、夜会に出ても、言葉すら交わしてくれなくなってしまった。
二十歳までに婚約を取り付けねば、行き遅れと言われてしまう。
婚約さえしておけば、二十を幾つか越えようとも、幾らでも言い訳が出来るのだ。
両親からの重圧は、日々、増している。
『ジョセフの事を考えろ。お前は姉だろう。何て情けないのだ』
『姉らしく、ジョセフを支える為に出来る事をなさい。努力が足りないのではなくて?』
重圧に耐えかねて、少々、暴走した自覚はある。
けれど…まさか、ジェレマイアの相手が、年上で、長身で、筋肉質のがっちりした体格の女性騎士だなんて、想像も出来なかった。
何しろ彼女は、王都の社交界に一度として顔を出した事もないのだ。
サンクリアーニの女性貴族として、エディス・ラングリード程、将来の公爵夫人らしくない女性はいない。
そんな事位、ジェレマイアなら判っているだろうに。
なのに、彼が選んだのは、エディスだった。
エレオノーラと一緒になって、他の令嬢達を蹴落としていた取り巻き達が、一人、また一人と、離れていく。
代わりとばかりに、エディスの周囲には、彼女を慕うご令嬢が集まるようになった。
風向きが変わった事に気づいていたが、両親が立ち止まる事を許さない。
白い目に耐えかねても、一人で立つ事が辛くても、泣き言を聞いては貰えなかった。
「女として生まれておきながら、女の武器も使えずに終わるのか」、そう、父に言われて、屈辱で頭が真っ白になった。
「貴方を磨き上げる為に、一体幾ら、つぎ込んだと思っているの」、そう、母に言われて、悔しさから血の気が引いた。
ジェレマイアを望んでいたのは、誰だったのだろう。
幼い日の憧れは、いつしか、両親の欲望に歪められてしまったと言うのに。
「荷物は、これだけ?」
失意のまま、バルアン領に戻るエレオノーラについてくるのは、侍女が一人と、御者が一人。
これまでは、侍女が十人いたのに、
「茶会も夜会も、ご招待されないのだから、不要でしょう」
と、母に取り上げられてしまった。
公爵令嬢が一週間掛ける馬車旅に、護衛すらつけて貰えない。
恐らく両親は、エレオノーラの、ひいてはヘーデル公爵家の悪評を、「なかった事」にしたいのだ。
道中で、エレオノーラがどうなってもいいのだろう。
見送りすらなく、しん、と凍えた心で準備をしていたエレオノーラは、久し振りに聞こえた声に、耳を疑った。
「…バーニー…?」
「久し振り、エリー」
社交界デビューの後、エレオノーラのやり方に苦言を呈したバーネットとは、距離が出来ていた。
振り返ると、もう三年、顔を合わせていない事になる。
それすらも気にしていられない位、エレオノーラは日々、必死だったのだ。
――久し振りに会ったバーネットは、何だか随分と、体格が良くなっていた。
「…どうして、此処に…」
「バルアンに戻るって聞いた。だから、護衛しようかな、って思って」
昔と変わらない笑顔。
バーネットの、目尻の笑い皺が好きだった事を、エレオノーラは思い出した。
「護衛って…貴方、剣は使えるの?」
「それなりに使えると思うよ。俺は今、南域騎士団の騎士だからね」
「騎士?!」
バーネットは、エディール子爵家の跡取りだと言うのに、何故、そのような危険な職に。
「何で…」
「う~ん…言わないと、判らない?」
そう微笑んだバーネットの笑みが余りにも優しくて、エレオノーラは、胸が詰まったようになって、ぎゅっと胸元で手を握った。
昔と変わらないけれど、その視線の意味を、今のエレオノーラは理解出来る。
「バーニー…あの…」
「俺が騎士になろうと、エディール家が子爵家なのは変わらない。それに、エリーに苦労を一つもさせないか、ってなると、胸張って頷けない」
別に、貧乏ってわけじゃないし、侍女も雇えるけど、ヘーデル家程のドレスや宝石はちょっと無理。
そう、バーネットは苦笑する。
「でもね。俺は多分、この国の誰よりも一番、エリーの事を見て来たよ」
「…!」
「エリーが、公爵ご夫妻の求める淑女になる為に、どれだけ努力をして来たのか、知ってる。王都の社交界で、懸命に自分の地位を築いて来たのを、知ってる。…自分のした事を、後悔してる事も、知ってるよ」
エレオノーラは、下唇を噛む事で、震えをやり過ごそうとする。
「間違った事した、って今は、判ってるんだろ?」
「…えぇ…ラングリード侯爵令嬢に、酷い事を言ってしまったわ…ジェレマイア様…ユーキタス公爵令息にも、ご迷惑をお掛けして…」
エレオノーラやヘーデル公爵家が何を言っても、何をしても、ジェレマイアの気持ちは欠片も変わらなかった。
それどころか、怒りを買うばかり。
最後に顔を合わせた王都の夜会では、エレオノーラを見て苛立たし気な態度を隠そうともしないジェレマイアを、被害者である筈のエディスが懸命に宥めていた位だ。
その姿に、あぁ、この二人の間を裂こう等、自分には到底無理な話だったのだ、と、漸く思い切る事が出来た。
「今直ぐに受け入れて頂く事は難しいでしょうけれど…いずれは、きちんとお詫びを申し上げなくては」
「うん、そうだね」
あの二人が、羨ましい。
貴族の結婚なんて、互いの欲が絡んだ条件ありきのものだと思っていたのに、違うのだと、最も必要としている相手を選んだのだと、そう、全身で表現するジェレマイアの姿は、余裕などなく、いっそ清々しい位に必死で、憧れていた童話の王子様とは全然違う。
なのに、それだけエディスが愛されていると言う事なのだ、と思うと、羨ましくて仕方がない。
エディスがジェレマイアに向ける目に、確かな信頼と愛情が見えるからこそ、余計に。
ジェレマイアの父であるユーキタス公爵と、エディスの父であるラングリード侯爵が、二人に向ける視線の温かさもまた、エレオノーラが心から欲して止まないものだった。
それは、エレオノーラが一度も受けた覚えのないものだったから。
「エリー。今直ぐに答えを出して、とは言わないよ。でも、考えてみて欲しい」
「…考えるまでもないわ」
「…そう、だよね…」
ぎこちなく笑うバーネットに、エレオノーラは首を振る。
「私、貴方と結婚する」
久し振りに、「わたくし」ではなく「私」と言った。
この方が、自分らしくて好きだ。
「え」
言い出しておきながら、唖然として口を開けたまま固まるバーネットの顔を、エレオノーラは見上げた。
「恐らく、子爵家に嫁ぐと知ったら、お父様もお母様も、煩く色々と言い出すとは思うわ。でも、ユーキタス家に反目した上に、これだけ悪評の立った私を欲しがる人なんて、他にいるわけがないのだし、だったら、私は、バーニーと一緒にいたい」
「エ、エリー」
「バーニーこそ、問題があるのではなくて?エディール家なら他に、もっと気立ても評判も良いご令嬢との縁談があるでしょう?幾ら、私の乳母だったとは言え、受け入れてくれるとは思えないわ」
「父さんも母さんも、エリーの事は小さい頃から知ってる。…無理してるんじゃないか、ってずっと、心配してたんだ」
「持参金もきっと、余り持たせて頂けないでしょうね。…それでもいいの?」
「そんなの関係ない。俺は、エリーと結婚したいんであって、公爵家との縁が欲しいわけじゃないんだ」
初めて、バーネットの口から『結婚』と言う言葉が出て、エレオノーラはホッとして微笑んだ。
そう言う事だろう、とは思ったけれど、自信が持てなかったから。
「直ぐにヘーデル公爵様が許して下さるか判らないけど…俺、許して貰えるまで、頑張るから」
南域騎士団に入ったのは、騎士であるジェレマイアに少しでも対抗したかったから。
子爵家の領地経営だけでは、公爵令嬢であるエレオノーラに不足だと思ったから。
一生懸命頑張って、今では小隊の副隊長になった。
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「私がジェレマイア様に選ばれないと、そう思っていたのね…?」
「…遠く離れてるからこそ、見えるものもあるんだよ」
ずっと、見ていたんだから。
その言葉に、これまでの時間が報われた気がした。
「どれだけ掛かったとしても…私もずっと、貴方を待つわ」
ジェレマイアとエディスの婚姻が成立してから、一年後。
エレオノーラ・ヘーデル公爵令嬢は、バーネット・エディール子爵令息の元に嫁いだ。
王都の社交界では、姿を見せなくなったエレオノーラに対して、公爵家から子爵家とは、エレオノーラ嬢も堕ちたものだ、ユーキタス家を怒らせるから、と噂された。
ヘーデル公爵は、後継ぎの為に、娘を切り捨てたのだ、と。
以来、エディール夫妻は、王都に足を運んでいない。
しかし、夫婦仲は極めて良好で、結婚から二年後、待望の赤ん坊が生まれた折には、エディス・ユーキタス夫人より、刺繍入りのおくるみが贈られたそうである。
END
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