婚約破棄は、まだですか?

緋田鞠

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「エディス!」
「姉さん!」
 四カ月振りに、エディスがイエスタ領のラングリード邸に戻ると、ラングリード家の男達が勢揃いで出迎えた。
 彼等の巨体に隠れてよく見えないが、アーサー、イネス、ウォルトの妻達、オリバー、カーティスの婚約者達、そして、エルミナ・ダンレッド伯爵令嬢もまた、笑顔でエディスを出迎えた。
 キムは、エルミナを夜会でエスコートして以来、順調に交際を深め、両家公認の元、婚約が内定している。
 ポチから降りて手綱を持ったまま、エディスは、同様にヴァージルの手綱を引くジェレマイアへと目を遣った。
「ジェレマイア。父と兄弟達、エルミナ様はご存知でしょう。彼等の配偶者と婚約者は、後程、ゆっくりとご紹介させて頂ければ」
「あぁ、頼む」
「皆、ただいま。こちらが、ジェレマイア・ユーキタス公爵令息で、西域騎士団副団長殿だ」
 エディスの紹介に、兄弟はよく似た魔除けの置物顔に満面の笑みを浮かべ、彼等の妻と婚約者もまた、にこやかな笑みを返した。
 純粋な好意のみを向けられて、ジェレマイアの頬もまた、緩む。
 エディスが、ラングリード家で如何に大切にされて来たのかを、まざまざと実感して。
「ジェレマイア・ユーキタスだ」
 ジェレマイアが、優雅に礼を執ると、場の空気がパッと明るくなった。
「ポチ達を厩舎に入れて来い。正式な紹介は、昼餐でな」
 パンパン、と、トマスが両手を叩くと、騎士一家らしく、全員がきびきびと行動を開始した。
 


 ジェレマイアとエディスの婚約が、各地域の顔役である貴族の口から広まって以降、身上書は減るどころか、増えた。
 それは、ジェレマイア宛だけではなく、エディス宛も、だ。
 夜会に参加し、実際に二人の様子を見た一部の貴族を除き、多くが、筆頭公爵家であり西域騎士団の重鎮ユーキタス家の令息ジェレマイアと、女性騎士第一号であり東域騎士団の重鎮ラングリード家の令嬢エディスの結婚を、政略結婚だと認識したからだ。
 公爵家令息であり、自身の地位も十分なジェレマイアよりも条件のいい男性は、王族以外に存在しないのだが、エディスに対しては、「モテモテの旦那様だと気苦労が絶えませんよ。その点、うちの息子なら、丁度いいですよ」だとか、「女性騎士第一号の誉を使い潰されるよりも、我が家で伸び伸びと腕を振るいませんか」だとか、「冷めた夫婦関係よりも、温かな家庭をいかがですか」だとか、平たく言えば、ジェレマイアに捨てられる前に捨ててしまえば?との余計なお節介が多い。
 変化球として、「存分に、騎士のお仕事に励んで下さい。家の事は、お任せを」とご令嬢の売り込みもあったのだが、一体、何をどう勘違いされたのか。
 一方、ジェレマイアを望むご令嬢の家は、「ジェレマイア殿もお可哀想に。女性騎士とは、つまり、ゴリラと言う事だろう。淑女らしさの欠片もない行き遅れよりも、うちの娘の方が、ジェレマイア殿に相応しい」と、娘を売り込むと言う恥知らずな行為を繰り返した。
 女性騎士第一号と言う肩書を盾にして、ご令嬢人気ナンバーワンの貴公子ジェレマイアに、無理矢理結婚を承諾させた傲慢な女。
 それが、いつの間にやらエディスにつけられたイメージとなった。
 勿論、率先してイメージの流布に動いたのは、ヘーデル公爵家だ。
 ジェレマイアからすれば、尻込みするエディスを説き伏せて結婚に持ち込んだのだから、全くの見当外れがさも事実かのように巷間の噂に上る事が、腹の立つ事この上ない。
 エディスは、予想していた事だから、と言うけれど、隠した憂いに気づけない程、鈍感でもなかった。
 ジェレマイアは、エディスとの間にあった認識の齟齬を理解してから、エディスの心の機微に敏感になった。
 彼女はとにかく、自分の事を後回しにする。
 周囲の幸せを第一に動く。
 復讐など、そもそも思考の端にもない。
 けれど、決してエディス自身が傷ついていないわけではない。
 これまで、必要最低限しか顔を出していなかった王都の夜会に、エディスを同伴して積極的に出席するようになったのは、ジェレマイアの方がエディスに惚れ込んでいるのだ、と言う事実を理解させる為。
 そして、エディスが多少規格外だろうと、素晴らしい淑女なのだと知らしめる為。
 サラとナナの尽力もあり、エディスは日々、磨かれていっている。
 ケイトリンもまた、エディスに似合うドレスの開拓に余念がなく、一部の令嬢の間で、最先端のスタイルとして、エディスを真似る者が出て来ている。
 女性として見られる事などない、と諦めていたエディスの意識改革がなされた事もあって、元々、美人と言われていた母タチアナに似た顔立ちのエディスの輝きは、増すばかりだ。
 人とは現金なもので、エディスが令嬢らしく装い、振る舞えば、そのように扱う。
 若いご令嬢の中で、密かにファンクラブが出来たと言う噂も聞いた。
 淑女として扱われる機会が増え、エディスの女性としての自信が増していく事が手に取るように判って、ジェレマイアも嬉しい。
 問題なのは、騎士団内でエディスに向けられる憧れの視線に、不穏な物が混じり始めている事なのだが…自分の内に留めるだけならば、ジェレマイアから注意喚起する事も出来ない。
 何より、良からぬ事を考えたとしても、エディスに勝てる者はいない。
 誰にも見せたくない、可愛いエディスは自分だけが知っていればいい、と言う独占欲と、ほら、こんなに綺麗だろう?理解したか?と見せびらかしたい顕示欲の挟間で、ジェレマイアは揺れ動いていた。
 夜会で、ジェレマイアがエディスの傍にぴったりと張り付いて決して離さず、甲斐甲斐しく世話を焼いては、他の者に見せない満面の笑みを向ける事から、次第に、付け入る隙がない事を理解した人々が増えたのだが、やはり、まだ一部に、粘る者達がいる。
 いい加減、鬱陶しくなったジェレマイアの次の手段が、大急ぎで書類を整え、婚姻を成立させる事だった。
 その為に、今日、ラングリード邸を訪問し、ラングリード一族全員と面会するのだ。
「改めて、よく来たな、ジェレマイア」
 ご機嫌なトマスが、にこにこと――如何せん、顔が怖いので迫力満点だ――ジェレマイアを出迎え、席を勧めた。
 ラングリード邸の中で最も広い食堂だが、現在は大きなテーブルの周囲に当主であるトマス、七人兄弟それぞれの配偶者及び婚約者、そして子供達(全員男)、合わせて二十四名が揃っている為、かなりの圧迫感だ。
 何しろ、ラングリード兄弟はいずれも巨漢なのだから。
 九歳を頭にしたエディスにとっての甥っ子達も、いずれも今後の成長が楽しみな体格をしている。
 トマスの背後に、木製の大きな衝立が立てられているのが、余計に空間を狭くしていた。
「お時間を頂いて感謝致します、ラングリード侯爵」
「おいおい、義父上と呼んでくれて構わんぞ?うちは息子が多いが、義理の息子は初めてだからなぁ!」
 ワハハ、と笑うトマスに、ジェレマイアも笑みを返す。
「では、遠慮なく、義父上」
「おう!」
 それから、トマスは端から順に、家族を紹介していった。
「最後に、末息子のキムと、婚約者予定のエルミナ・ダンレッド伯爵令嬢だ。予定、とは言っても、日取りを見ている最中でな。身内として扱っていいと、先方から言われている」
 頷きを返すと、トマスは満面の笑みで、エディスとジェレマイアを手招きする。
「こっちに来い」
「はい」
 二人がトマスに並ぶと、彼は、皆の目に見えるよう、高く婚姻誓約書を掲げた。
「今日、ジェレマイア・ユーキタス殿と、俺達が愛するエディスの婚姻が成立する。異議のある者は?」
 ギロ、と、トマスが睥睨するが、誰もが真面目な顔で彼を見返していて、異議の申し立てをする者はいない。
 いや、一人、いた。
「…本当に、エディス姉を大事にしてくれるの?」
 アーサーの長男、クリスだ。
 クリスは目に涙を一杯浮かべて、ジェレマイアを睨みつけている。
「エディス姉は、優しいんだ。お菓子作りも上手だし、裁縫だって母さんより上手い。絵本の読み聞かせだって、赤ん坊の寝かしつけだって…!」
「あぁ、そうだな」
 クリスの中に、エディスを慕う一人の男の姿を見て、ジェレマイアは真摯に答えた。
「そんで、めちゃくちゃ、強いんだ。父さんだって、エディス姉みたいに魔核破壊は出来ない。他の誰にも出来ない事を、何て事ない顔でやって、格好いいんだ!」
「あぁ、俺もそう思う」
「…っ、許さないからな!エディス姉を泣かしたら、俺が許さないんだからな!!」
「あぁ、約束する。絶対に、泣かせない。幸せにするよ」
 クリスは、ぐい、と涙を袖で拭うと、
「……仕方ないから、認めてやるよ」
と言った。
 クリスの賛同を受けて、トマスは再び、全員の顔を眺めると頷いた。
「じゃあ、ここに二人の署名を」
 促されて、まずはジェレマイアが、続いてエディスが、自分の名を記す。
 二人の名の記された婚姻誓約書を、再び、トマスが全員の目に触れるように掲げた。
「これで、二人は誰にも横槍を入れられる事のない夫婦となった」
「いや、まだでしょ。王宮に提出して、陛下のご許可を頂かないと」
 思わずエディスが突っ込むと、トマスはしれっとした顔で、
「おぉ、問題ねぇよ。な、ナイジェル?」
と、衝立の後ろに声を掛ける。
「あぁ、問題ない」
 そう言いながら、衝立の背後から姿を現した国王の姿に、アーサー以外がギョッとしたが、当のナイジェルは、悪戯が成功したように無邪気に笑っていた。
「ジェレマイア、エディス、結婚おめでとう。何、今、私がここで、ちょちょいとサインすれば、二人の婚姻は成立だ」
「陛下…」
 ナイジェルは父ティボルトの従兄なので、他の貴族よりも顔を合わす機会は多いが、流石のジェレマイアも言葉に詰まる。
「感謝致します」
 だが、深く礼を執り、謝意を示した。
 その隣で、エディスもまた、令嬢としての礼を執る。
「弁えない者達のせいで、二人の周囲を騒がしくしてすまないな。余りにも目に余る者がいれば、言ってくれ。こちらで何とかする」
 ナイジェルの言葉に憤りが隠れているようなのは、気のせいではないだろう。
 何しろ、国王自らが婚約を承認し、婚姻の許可を与えたと言うのに、未だに二人の邪魔をしようとしているのだ。
 国王への不敬と取られても、仕方あるまい。
「それで?式はどうするのだ?」
 何処かワクワクした様子で尋ねるナイジェルに、ジェレマイアは苦笑した。
「大分落ち着いたとは言え、まだまだ、西域も気が抜ける状況ではありません。準備の全てを母に任せて、ウェルトの本邸で慎ましく式を挙げるのがいいかと」
 筆頭公爵家ともなると、王都の大教会で挙式する事が多い。
 ティボルトとケイトリンの式も、そうだった。
 だが、王都で挙式すれば、筆頭公爵家であるユーキタス家は、多くの貴族を招かざるを得ないし、何よりも、ヘーデル公爵家を招待せねばならない。
 それならば、二人の結婚を心から歓迎してくれる人々の前だけで、式を挙げたい。
「エディスは、それでいいのか?結婚式とは一生に一度の事。ご令嬢にとって、夢のある日なのでは」
 気遣わし気なナイジェルに、エディスは微笑み返した。
「そもそも、私は結婚出来ると思っておりませんでした。ですから、式自体への拘りはございません。本当に祝福して欲しい方にだけ、お伝えする事が出来れば、それでよろしいのです」
「そうか…」
「まぁ、そうは言っても、母はエディスのドレスを見立てる事に夢中ですから。生涯の思い出に残るウェディングドレスを仕立ててくれる事でしょう」
「そうか!」
 ジェレマイアの言葉に、ナイジェルはパッと顔を明るくした。
 国王と言っても、私的な場では表情がくるくる変わる楽しい人なのだ。
 トマスの親友である事がよく判る。
「では、その折には私にも祝わせておくれ。参列は叶わんだろうが、私が祝福していると知って、その上で難癖をつける者など、そうはおるまい」
「ご厚情、感謝致します」

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