婚約破棄は、まだですか?

緋田鞠

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 いよいよ、夜会。
 エディスは、サラとナナにされるがままとなっていた。
 一晩、考えた。
 ぐるぐると考えて考えて考えて…脳味噌が沸騰しそうになる位に考えて、いい加減、覚悟を決めた。
 婚約者が本当にエディスとの結婚を望むのであれば、貴族の娘として、嫁ぐ。
 エディスがジェレマイアに抱いている好意なんて、誰も知らない。
 だから、何も気づいていない事にして、流れに身を任せるべきなのだ。 
 婚約者の申し出を有難く受け止めて、ジェレマイアの婚約を笑顔で祝福する。
 それが一番、皆が幸せになれる方法の筈だ。
 心が痛い気がするけれど、余計な事を言って、周囲に不要な気を遣わせたくない。
 自分の気持ちは…後回しでいい。
 そもそも、頭を使うのは苦手なのだ。特に、自分の気持ちを考える事は。
 『考えるな、やれ』が、骨の髄まで沁みている。
 だから、これでいい。
 用意されていたドレスは、艶やかな光沢のある黒。
 黒でありながら光を受けて輝く生地が、最高級のものである事を知らしめる。
 首元に、サンクリアーニ王国では珍しい真珠がチョーカーのように留めつけられている以外には、装飾らしい装飾のないシンプルなドレスだった。
 ホルターネックで袖はなく、肩をしっかりと出すデザインで、上半身は体にぴったり添う立体的な縫製になっている。
 スカート部分のボリュームは控えめ、エディスの長身に添うように縦のラインが強調され、膝下から綺麗にフレアが広がっていた。
 背面は、大胆に開けられて、引き締まった背が見える。
 すっきりと細身のドレスは、歩幅が制限されてしまう。
 普段、トラウザーズを穿いて生活しているエディスからすると、足が思い切り開かないと言うのは、何とも心許ない。
 用意されていた靴は、ドレスに合わせるには低い五センチのヒール。
 足が長いエディスにとって、底上げの必要性はないが、最低限のヒールは必須と言う事だろう。
 慣れない踵の高い靴では、これがエディスの限界とも言える。
「エディス様…お胸を潰してしまいますと、形が崩れますから、お勧め出来ませんわ」
 魔獣討伐の際は、動きの邪魔にならないように晒しで胸を押さえているが、ドレスを着る場合には、綺麗に形を作る必要がある。
「しかし、動きにくいでしょう」
「最近、王都で流行っている女性用の下着で、しっかりと固定しつつ、形も維持出来る優れものがございますのよ。エディス様のお胸は、ドレスを着るのに、丁度よい大きさなのですから、形を整えるだけで全くシルエットが変わります」
 形等、崩れようが何しようが、誰に見せるわけでもない、と開き直っていたものの、こうも真剣に言われてしまうと、頷く他、ない。
 何と言うか、サラの目が、ある意味、魔獣よりも怖い。
「エディス様はお背中がお綺麗ですから、やはり、御髪はアップスタイルにしましょう」
 ナナはそう言うと、真っ直ぐでさらさらとまとまりにくいエディスの髪を、器用に結い上げた。
 エディスに出来る事と言えば、せいぜい三つ編みまでなので、その躊躇ない手捌きに感心する。
 妹でもいれば、エディスもヘアスタイルの研究をしたかもしれないけれど、残念ながら兄弟は全員男で、彼等の子供も全員男だ。
 すっきりとまとめた髪には、首元と同じく真珠の髪飾りがあしらわれた。
 黒髪に、真珠の光沢が映える。
「昨今は、きっちり作り込んだお化粧が流行りですが、エディス様はお顔立ちがはっきりされているので、少し印象を変える程度に致しますね…まぁ、素敵だわ!」
 仕上げに肘までを覆うドレスと共布のロンググローブを身に着けると、満足そうな二人が歓声を上げた。
 勧められるままに、エディスは初めて、姿見の前に立つ。
「…これは…」
 艶やかな髪はタイトにまとめられ、幾分、頭が小さく見えるだろうか。
 肩を出している事で、引き締まった肩から二の腕のラインがすっきりして見える。
 勿論、ほっそり、とは間違っても言えない。
 兄達のような筋肉がないだけで、他のご令嬢に比べてがっしりしている事に変わりはないし、柔らかなラインは何処にもない。
 いや、サラが、エディスの体のあちこちから薄くついた脂肪を引っ張ってきてくれたから、胸元には女性らしい円やかさがあった。
 普段、まじまじと自分の体を見る事などないから、胸部の膨らみがはっきりと見えて驚く。
 縦長のラインを濃色で強調しているのに、心配していたような圧迫感はなく、エディス一人を見るのであれば、全体のバランスは良いように思う。
 何を着ても女装男にしかならないだろう、と思っていた。
 しかし、ドレスの色とデザインで、ここまで個性を活かせるとは。
 何よりも、化粧。
 社交界デビューの日以来、エディスは碌に化粧をした事もない。
 お見合いを始めた当初は、少しばかり気合を入れていたものの、回数を重ねるごとにおざなりになっていった。
 どうせ、何をした所で、見合い相手の反応は芳しいものではない。
 寧ろ、気合を入れた時程、相手の反応が悪かった気がする。
 だが、サラ達の手で施された化粧は、今までのものと全然違った。
 切れ長で、涼やかであるとか凛々しいと言う評価を受けやすいエディスの目元が、柔らかく見える。
 顔の作りが変わっているようには見えないのに、印象が全く異なるのだ。
 半ば茫然と姿見に映った姿を眺めた後、淡い期待が、エディスの胸に湧いた。
 これならば、女性らしく見える筈だ。
 エディスとの結婚を望んでくれたと言う婚約者に、夜会の場で恥を掻かせる事もないのではないか。
 例え、相手が望んでいるのがラングリード家との繋がりだけだとしても、不要な波風は立てたくない。
「二人とも、有難う。…こんなに綺麗にしてくれて…」
「いいえ!わたくし達こそ、エディス様にはお礼を申し上げたいのです」
「礼、ですか?」
「はい!エディス様が、わたくし達の道を切り拓いて下さいましたから」
「??」
 何を示しているのか判らないエディスに、だが、二人はにこにこと微笑むだけだ。
「おぉ、エディス。準備は出来たか?」
「父さん」
 トマスは珍しく、がっしりと分厚い体を、貴族らしい正装に窮屈そうに押し込めていた。
 騎士団長としての礼装なら見慣れているが、男爵としての礼装を見る機会は余りない。
「いやぁ、随分と綺麗にして貰ったなぁ!タチアナそっくりじゃねぇか!」
 デレデレと目尻を下げ、母に似ているとやに下がる顔は、トマスの顔を見慣れたエディスであっても正直、怖い。
「ありがとな、二人とも。うちは男ばっかりで、エディスに綺麗なかっこをさせてやる事が出来なくてなぁ」
「いいえ、ラングリード男爵、わたくし達こそ、感謝しております」
 サラとナナの綺麗なお辞儀を見て、エディスは、今日は令嬢として振る舞わなければいけないのだ、と言う事を思い出した。
 貴族令嬢としてのマナーは一通り教わったが、ここ十年、実践する機会などなかった。
「エディス、じゃあ、行くか」
「はい」

 夜会では、爵位の低い順に入場時間が定められている。
 トマスは東域騎士団を預かる騎士団長だが、今日は騎士団長としてではなく、ラングリード男爵として参加するらしい。
 その為、入場時間は最も早い時間帯に設定されていた。
 エディスは、トマスと共に、ユーキタス家の馬車を借りて、王宮へと向かう。
「…ねぇ、父さん」
「ん?」
「私の、婚約者、なんだけど」
 思い切って、尋ねてみた。
 西域騎士団の中にいる、婚約者。
 まだ、誰なのか想像がついていない。
 でも、お見合いの場のように、少し緊張して、ちょっとばかり見栄を張ったエディスではない、自然体の姿を見てくれていた筈だ。
 そのエディスを、選んでくれた人ならば。
 ジェレマイアのように、エディスをそのまま受け入れる事は難しいかもしれないけれど…彼も、言っていたように、これから、心を寄せていけばいいのだ。
 …大丈夫。
 ジェレマイアの顔を思い浮かべて心が痛いなんて、気のせいだ。
「おぉ!いやぁ、お前と気が合うだろう、って確信はしてたけどな?今日の夜会で婚姻を宣言したいってのは驚いたなぁ!」
「え?!」
 確かに、結婚を申し込まれた、とは聞いたけれど。
 今日の夜会で発表するのは、婚約ではなかったのか。
「西域はまだ落ち着かんし、当面は婚約だけでいいと思ってたんだが、ま、結果としては、いいタイミングだな。今回の夜会で、お前が騎士として紹介される。ナイジェルが立てた計画に、お前の存在が必要不可欠でな。そしたら、お前への求婚者が増えるだろう。俺としては、お前を称号でしか見ねぇようなヤツには、やれんからな。婚姻の許可を出しといて良かったぜ」
「陛下のご計画…?騎士として…?え?どう言う事?」
「ナイジェルは、女性騎士の正式登用を決定した」
「!」
 確かにこの国で、騎士と同等の仕事をしている女性は、エディス以外に聞いた事はない。
 エディスにしたって、女性である事を前面に打ち出しているわけではない為、女性騎士の発想すらない人間が殆どだろう。
「さっきのサラとナナは、代々騎士の家系に生まれた娘だ。騎士になりたくともなれず、鍛錬だけ続けて来たらしい。だが、女性騎士が正式登用されれば、騎士団所属も夢じゃねぇ」
「あぁ…」
 だから、二人は『道を切り拓いてくれた』と礼を言ってくれたのか。
 彼女達の実力がどれ程のものかは不明だが、男性であれば騎士になれるわけではないように、女性であっても騎士を目指せる者はいる筈だ。
「お前は、女性騎士の象徴になる。その為の、お披露目だ」
「…父さん。そう言う大事な話は、ちゃんと聞かせておいて欲しかったんだけど…?」
「?だから、今、言っただろ?」
 トマスは、きょとんと目を丸くした。
 本気で、何故、伝えておかなくてはならなかったのか、理解していないのだろう。
 どうせ夜会に出るのだから、とでも思っていたに違いない。
 エディスは溜息を一つ吐くと、首を一つ振った。
「それで…私は、何をすればいいの?」
「俺も詳しくは聞いてねぇ。ナイジェルが女性騎士の正式登用について発表する、その際にお前が紹介される、ってだけだな」
「女性騎士登用の発表って事は…エスコートは、父さん?」
「いや、俺は俺で、別件でナイジェルに呼ばれてる。漸く、正式にお披露目出来るんだ。エスコートは、正々堂々、婚約者にして貰え」
 そうだ、婚約者。
「あの、だから、婚約者、」
「あいつな!女性騎士登用の話がなくても、婚姻の発表を急ぎたいって言ってたけどな。お前、西域でも順調に信奉者を増やしてるんだって?このままじゃ、いつ、他の男に掻っ攫われるか心配なんだとよ。俺はあいつが騎士団に入団したほんのひよっこの時から知ってるが、この二年位で、随分といい面構えになった。俺に婚姻の申し込みをした時なんざ、地竜の時ですら見せなかった真剣な顔して緊張してたぞ。その癖に、お前の事を話す時だけ、鼻の下をびよ~んと伸ばしてデレデレして、まぁ、面白いの何の」
 …ダメだ、聞けない。
 こんなに結婚を喜んでいるトマスに、今更、
「で、婚約者って誰なの?」
 なんて、聞けない…。
 そもそも、エディスについて、鼻の下を伸ばしてデレデレしながら話すような関係性の騎士の姿が、記憶にない。
 と言うか、寧ろ、怖い。
 婚約者の脳内で、二人の関係はどう言う事になっているのだろう?
 まさか、過去にお断りしたような、特殊性癖の持ち主なのか?
 いや、だが、不穏な視線を感じたら気づいた筈で…。
 どうしよう。
 婚約発表早々、殴り飛ばしてしまうかもしれない。
 困惑した表情のエディスに気づいたトマスが、殊更、ゆっくりと口を開く。
「心配すんな。婚姻の報告と女性騎士登用の話と、どっちが先になるかは判らんが、ナイジェルが上手くやる。お前は、聞かれた事に答えればいいだけだ」
 幼馴染とは言え、国王に丸投げのトマスに、エディスの眉が一層寄った。
「エディス。確かに俺は、お前に確認しねぇで婚約を結んだ。婚姻の許可を与えた。でもな、俺は、お前が幸せになれる、って自信があるぜ?タチアナと、お前を大切にするヤツに嫁にやる、って約束したんだ。あいつは絶対、お前を大事にするさ」
 トマスが、エディスの事を思ってくれている事は、よく判っている。
 ちょっと大雑把な人だが、父の愛を疑った事は、一度としてない。
「…うん。父さん、有難う」



 王宮に到着すると、ユーキタス公爵家の紋章が入っている馬車だからか、乗っていたのが東域騎士団長であるトマスだからか、丁重な出迎えがあった。
 本来ならば、男爵位では控室など、ある筈もないのだが、トマスは当然の顔をして、控室へとエディスをエスコートしていく。
 エディスはと言えば、初めて訪れる煌びやかな王宮に圧倒されていた。
 夜会までの時間があるから、まだ、人はまばら。
 エディスを目にして驚くような人物もいない。
「ほら、ここで、迎えが来るまで待ってろ。俺は、ナイジェルと話がある。また、後でな」
 慣れた様子のトマスに連れて来られた控室は、ラングリード家の巨体に合わせたものか、一つ一つの椅子が大振りだった。
 控室の並ぶ廊下には、王宮の護衛が等間隔で立っており、部屋の中にはエディスだけ。 
 落ち着かない気持ちで、ソファに浅く腰を下ろす。
 心拍が上がるのを感じて、意識して深く呼吸した。
 普段の恰好ならば、もう少し気を抜けるのだが、ドレス姿ではいつも以上に背筋が伸びる。
 大丈夫だ。
 トマスの言葉を信じるのであれば、婚約者は、ラングリード家の娘としてではなく、エディスを望んでくれている。
 その方向性だけ、ちょっと心配ではあるが、自分の気持ちさえ整理してしまえば、これ程いい話はない。
 …大丈夫、ジェレマイアに抱いていた思慕は、忘れられる。
 痛みなんて、気のせいだ。
 遠くから、人々のざわめきが聞こえ出した。
 夜会の参列者が、続々と到着しているのだろう。
 魔獣討伐の為に鍛えた聴覚が、室内にいても、周囲の状況を伝えてくれる。
 その中に、こちらに近づいてくる固い靴音を捉えて、エディスは伏せていた顔を上げた。
 足音は、エディスのいる控室の前で、止まる。
 コンコン
「はい」
「失礼する」
「…ジェレマイア?!」
 ノックに応じて返答したエディスは、聞こえた声に驚いて、小さく彼の名を呼んだ。

 何故、此処にジェレマイアが。

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