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私の仕事は、日勤、原則週五日。
ミカの言葉で言えば、平日フルタイム勤務だ。
最初のうちは能動的に動く事なく、現状をこの目でしっかりと見て問題点を把握して欲しい、とのアラベラ様のご要望で、部屋の隅でじっと気配を殺す事、一週間。
いよいよ、本格的に業務が始まる。
業務内容は、『教育係』だ。
「わたくしには、二人の子供がいるの。十歳の娘ユージェニーと、七歳の息子アルフォンスよ。ミカエラさんには、アルフォンスの教育係になって欲しいのよ」
依頼を引き受ける、と頷いた後、アラベラ様は漸く、仕事について、説明してくださった。
「教育係、でございますか?」
思い掛けない言葉に思わず、問い返してしまう。
アルフォンス様は、王太子殿下だ。
優秀な家庭教師を幾人もつけておられるだろう。
それを、敢えて家庭教師ではなく、教育係をつける意図は何処にあるのだろうか?
勿論、私程度の知識では、王族の家庭教師など引き受けられるわけもないのだけれど。
「えぇ、そうよ。アルフォンスがもう少し小さければ、乳母、と呼んだでしょうね」
「乳母…」
「ミカエラさんもご存知の通り、ユリシーズは元々、王位を継ぐ予定ではなかったわ。だから、アルフォンスが王城に来るまで受けて来たのは、公爵令息に必要となる教育なの」
幾ら、ハーヴェイ王太子殿下が生まれつき虚弱だったとは言え、ご健在であり、いつ後継者に恵まれるかも判らない状況で、アルフォンス様に王族としての教育を与える事は難しい。
アルフォンス様が誕生された時点での王位継承権は、四位なのだから。
公爵令息として以上の教育を与えると、ともすると、王位簒奪を企んでいるのではないかと、穿って見られる危険性がある。
「長くなる上に、表には出せない事情があるのだけれど…」
アラベラ様の口が重くなるものの、何かを振り切るように小さく首を振った。
「三年前、ハーヴェイが後継のないまま亡くなった時、アルフォンスは四歳。…その時点で本来ならば、王位継承権第一位として、ユリシーズが王籍に入り、立太子する筈だった。でも、そうはならなかったの」
言われて、そう言えば、と思い出す。
ハーヴェイ王太子殿下が亡くなった後も、先王であるアラベラ様のお父君コーネリアス陛下がご健在だったから、特に不思議には思っていなかった。
けれど。
改めて考えると、王位の後継者を示すと言う視点から見て、ユリシーズ様が立太子されなかったのには違和感がある。
「立太子出来なかった為に、王位継承順位は変わらず、ユリシーズが一位、ダリウスが二位、アルフォンスが三位。アルフォンスは引き続き、公爵令息としての教育のみを受ける事になったわ。ユリシーズが即位して、その息子であるアルフォンスがマスカネル王国を率いていく立場になる未来が最も濃厚だと言うのに」
それではまるで、ユリシーズ様達を王位から遠ざけようとしているような。
まさか。
ハッとして、アラベラ様の顔を見ると、悲しそうな顔で頷かれた。
「わたくしの母、エメライン先王妃が原因よ。わたくしは…母と余り上手くいっていなくて。後継となる王子を生む事を期待されていながら、結婚から五年経って漸く生まれたのは、女であるわたくし。それから四年後にハーヴェイを授かったけれど、あの子は生まれつき病弱だった。わたくしは、風邪一つ引かないと言うのにね。母は、わたくしが女として生まれた事も、弟の健康を全て持ち去った事も、全てが疎ましかったのでしょう」
「そんな…」
親子であれば、誰もが仲の良い関係になれるわけではない。
血縁関係があると言うだけの事で、人はそれぞれ、独立した人格を持つのだから。
先王妃殿下も、後継となる男児を求められる難しいお立場だったのは理解出来るけれど、だからと言って、実の娘にぶつけていい感情ではない。
「わたくしが、ハーヴェイが体調を崩す度に、メディセ家ではなくノーレイン家に預けられていたのも、似たような理由よ。母は、ハーヴェイの婚約者をメディセ家から挙げたかったものだから、わたくしがメディセ家の令息と誼を結ぶ事を嫌ったの。姉弟の二人ともが、同じ家の相手と結婚する事は出来ないもの」
思わず、絶句してしまう。
「サディアス様がユリシーズとわたくしの婚約を調えたのは、母に嫁ぎ先を考慮して貰えないだろうわたくしの事を慮ってくれたのと同時に、将来、ユリシーズが即位する可能性を考えての事。ユリシーズとわたくしの子は、母にとって孫ですもの。母の血を引く子が王位に就くのであれば、母の気持ちも収まるとお考えになったの」
それから、アラベラ様は視線を伏せる。
「…残念ながら、その思いは届かなかったのだけれど」
『ユリシーズの婚約者は、予定通り、アラベラ姫で決まりだ。アラベラ姫と縁組すれば、義姉上も、ご納得くださるだろう』。
十五年前、お茶会で怪我をした私の枕元で、サディアス様とダリウス様が交わしていた会話。
あの会話の真意は、ここにあったのか。
「ハーヴェイが亡くなってから一年は、カタリナがハーヴェイの忘れ形見を宿しているかもしれない、と、立太子を先延ばしにされた。お子を授かっている可能性はない、と確定した後は、母が新たにもう一人の王子を授かるかもしれない、と立太子を拒まれた。子を望めるような年ではもうなかったのに、母は少々難しい人だから、父にもどうにも出来なくて…結局、父が亡くなって、母に打つ手がなくなるまで、何も変えられなかった。…大人はね、まだ良かったの。時間が解決する問題だろうと判っていたし、三年なんてあっという間だったから。けれど…アルフォンスには、そうではなかった」
アラベラ様の言葉に、ハッとする。
次第に周囲の出来事を理解し始め、大人の言葉の意味や表情を読めるようになってくる四歳から、アルフォンス様は不安定な立場に置かれ続けたと言う事だ。
王子として生まれ、将来を嘱望される中で、王子となる為の勉学に励めたわけではない。
王族にお生まれになる重圧は当然存在するだろうけれど、その重圧を、周囲からの期待だと変換する事は可能だろう。
けれど、アルフォンス様は。
否定しようのない可能性として王族入りする未来が見えているのに、血の繋がった祖母にその座に就く事を望まれなかった。
それは、己の存在の否定と同じだ。
大人であれば、ある種の諦めがつく事であっても、幼い子供の心にどれ程の傷が残った事か。
焦る気持ちもあるだろう。
やらなければならない事が目の前に見えているのに、手を出し倦ねるのだから。
「おおよその事情は承知致しました。アラベラ様は、アルフォンス様の心身の健康を懸念されているのですね。『アルフォンス王子殿下』の家庭教師ではなく、『アルフォンス様』をお守りする立場として、教育係をお求めなのだと理解致しました」
アラベラ様は、黙って頷かれる。
確かに、これは乳母の仕事だ。
乳母とは、心身の健康を保ち、何よりもご本人に愛情をそそぐ存在だから。
けれど、乳母は三歳になればお役御免になるものだ。
その為、便宜上、教育係と呼ぶのだろう。
だが。
「ですが、わたくしはご承知の通り、結婚した事はございますが、育児の経験がございません」
それは、ミカの人生でも同じ事。
育児に奮闘する友人達を横目で見ながら、『大変だな』『頑張ってるな』と他人事として見ていただけだ。
次第に疎遠となってしまった彼女達の子供は、ミカの覚えている時点で、アルフォンス様と同年代の子が最も年長だった。
「えぇ、判っているわ。わたくしが、ミカエラさんをアルフォンスの教育係に望んだ理由は、大きく分けて二つ」
そう言うと、アラベラ様は爪先まで手入れされたほっそりとした人差し指を一本、立てた。
「一つは、育児経験がないから。人は誰しも、自分の経験が標準、平均、と思いがちでしょう?育児経験があると、我が子を基準にしてしまう。そこからはみ出た部分を、大仰に賛美するのも非難するのも、今のアルフォンスの状況に望ましくないの」
確かに、それはあるかもしれない。
賛美する事も、非難する事も、話に伺っている状況では、アルフォンス様に過度な負担を掛けてしまいそうだ。
「わたくしは、アルフォンス・ノーレイン・マスカネルと言う七歳の男の子を、ただ受け入れてくれる方を探しているのよ」
王子の扱いに慣れた人間は、もう十分に揃っているから。
アラベラ様は、そう付け加える。
「そしてね、もう一つ。これが、わたくしにとって最も重要なのだけれど…ミカエラさんは、ダリウスを変えた方だから」
先程も、確かにそう仰っていた。
けれど、その言葉の意味が判らない。
三歳の私は、一体、ダリウス様に何をしたと言うのか。
「そうねぇ…気にしないで、と言っても難しいでしょうけれど、余り、気負わずにアルフォンスに接して欲しいわ。そのままのミカエラさんがいいのよ」
そう言われてしまうと、頷く他はない。
「ミカエラさん。まずは、明日から一週間、アルフォンスの様子をただ黙って見てちょうだい。城の者には話しておくから、貴方はアルフォンスが訪れる何処にでもついていく事が出来るわ。そして、あの子の課題が見えたら…貴方なりの方法で、あの子を導いて欲しいの。大丈夫、不敬だとか何だとか、そんな事は言わせないから」
…アラベラ様は、私がアルフォンス様に何をすると思われているのだろうか。
「この件に関しては、パウズが担当するわ」
「畏まりました」
この一週間、アルフォンス様の生活をお傍でじっと観察して来た。
部屋の壁と同化するように並ぶ侍女達の隣に、彼女達のお仕着せに似たワンピースドレス姿で立っているから、誰も、私が普通の侍女ではないと気づく事はない。
一見すると地味な、紺色に衿とカフスだけ白いワンピース。
その衿に同色の白で目立たぬように刺繍されているアラベラ様のお徴のカメリアが、アラベラ様直属の特命を帯びた侍女、と言う証になるらしい。
王城での私の書面上の肩書は、侍女なのだ。
アルフォンス様は、一言で言ってしまえば、『完璧な王子様』だった。
貴族も平民も、誰もが思い描くような理想的な王子様。
色の濃い金髪に青い瞳は、ユリシーズ様とアラベラ様の丁度中間の色合いで、七歳にして完成された整った容姿に、よく似合っている。
滑らかな弧を描く眉、すっきりと高い鼻梁、薄い唇は、流石叔父と甥の関係と言うべきか、ダリウス様にも似ているけれど、アルフォンス様の方が優し気だ。
口角を常に僅かに上げて、微笑みの表情を保ち、それでいて己の心情は決して悟らせない。
誰にでも物腰柔らかく丁寧に接し、彼と接した者は、例えどれ程年が離れていようとも、アルフォンス様に心惹かれていくのが判る。
実際、家庭教師達は皆、勤勉で呑み込みが早いアルフォンス様が、可愛くて仕方がないようだ。
あれもこれも教えたい、と前のめりになっている。
勉学面だけではなく、体術や剣術でも、アルフォンス様は才能を発揮されている。
剣術師範が、騎士の令息であっても七歳には荷が勝つような課題を与えるのは、能力を高く評価しているからなのだろう。
正に、文武両道だ。
使用人達への態度も、素晴らしいものがある。
決して横柄な態度は取らず、それでいて、必要以上に踏み込ませない。
親しさと馴れ馴れしさは異なる事を、既に理解されているのだ。
アルフォンス様は、とても優秀だ。
現国王であるユリシーズ様も、ボーディアンとの協定をマスカネル有利に結んだ事で高く評価されているけれど、アルフォンス様への期待値は、それを上回るだろう。
完璧な王子様。
けれど、その完璧さが、私にはとても危ういものに見えた。
だって、アルフォンス様は、まだ七歳なのだ。
『完璧』なわけがない。
そう言う目で見れば、アルフォンス様が白鳥のように、人々の見えない所で必死に足を動かしている姿が見えて来る。
なのに、周囲の大人達はそれに気づかず、彼を『神童だ』『天才だ』と褒めそやし、更に期待を寄せていく。
期待される事で、その期待に応えようと努力するものだから、適度な期待はいいだろう。
けれど、一方的に掛ける過度な期待は恐ろしい。
勝手に期待しておきながら、それが叶わなかったならば、裏切られた、と感じる事を、私は知っているからだ。
タカユキに、自分の望む結婚生活を夢見たミカのように。
私も、そうだ。
マイルズに対して、私の期待する家庭を築く協力をしてくれるに違いない、と思い込んだ。
そして、初夜の一言に幻滅して、心の中でマイルズを夫の地位から切り捨てた。
人間は、見たいものを見たいように見る生き物だから、己にとって都合のいい面だけを、誇張して見る。
雪だるま式に膨れ上がった期待は、大きくなればなる程、反動が大きいものだ。
ミカエラとしての二十五年、そしてミカの四十年の経験を持つ私は、その反動が怖い。
人間なのだから、誰しも失敗するし、成長と共に変わっていくものもあるだろう。
だが、アルフォンス様がただの一度でも『失敗』したら、彼を持て囃す大人達は落胆し、掌を返すように非難するのではないか。
そう考えてしまう程に、周囲の大人がたった七歳の子供に掛ける期待が大き過ぎる。
「あぁ、そうか…」
アルフォンス様は、決して弱音を吐かない。
出来ない、とも、難しい、とも言わない。
それは、アルフォンス様自身が、己に呪縛を掛けてしまっているからだ。
完璧でなければならないと。
聡明なお子様なのは事実だ。
アルフォンス様は、自ら進んで課題に取り組み、励まれている。
毎晩、遅くまで、アルフォンス様の私室の灯りが落とされる事はないと聞く。
彼は決して一を聞いて十を知る天才ではなく、弛まぬ努力が出来る秀才なのだ。
愚痴や弱音を小出しにしていれば、大人達も普通の子供に接するようにしただろう。
だが、努力する姿を見せず、完璧に振る舞っているから、アルフォンス様もまた普通の子供である事を、忘れてしまうのだ。
もっと出来るだろう、もっと行けるだろう、と期待を上乗せ、そして、アルフォンス様はその期待に応えなければならない、と必死になってすり減っていく。
ご家族の前ですら、完璧な王子の顔をし続けているのならば。
アラベラ様は、それはご心配な事だろう。
七歳。
同い年の子供が、勉強を如何にサボって遊ぶかを真剣に悩む時期だ。
それを、アルフォンス様は強迫観念に駆られて、生き急いでいらっしゃるように見える。
ふと、既視感を覚えて、記憶を掘り起こす。
必死になって、周囲の期待に応えねば、と身も心もすり減らし、けれど、それを悟らせまいと懸命だった人。
――出会った頃のダリウス様だ。
だが、いつからだろう?
幼いダリウス様には、張りつめた所がなくなった。
満面の笑みは希少だったけれど、私の記憶にあるのは、何処か緩んだ空気を纏い、楽しそうに口端を上げていた姿だ。
私の行動が、ダリウス様にどんな影響を与えたのかは判らない。
けれど、アラベラ様が私を買ってくださっていると言う事は、ダリウス様の変化の一端を担えたと言う事なのだろう。
何しろ、出会った時の私は三歳。
それこそ、己の気持ちに素直に、思うがままに行動するお年頃だ。
出会ったタイミングが良かっただけだ。
けれど、もしも、私に何か出来る事があるのならば。
アルフォンス様の、今にも切れそうに張りつめた空気を、緩める事が出来るかもしれない。
ミカの言葉で言えば、平日フルタイム勤務だ。
最初のうちは能動的に動く事なく、現状をこの目でしっかりと見て問題点を把握して欲しい、とのアラベラ様のご要望で、部屋の隅でじっと気配を殺す事、一週間。
いよいよ、本格的に業務が始まる。
業務内容は、『教育係』だ。
「わたくしには、二人の子供がいるの。十歳の娘ユージェニーと、七歳の息子アルフォンスよ。ミカエラさんには、アルフォンスの教育係になって欲しいのよ」
依頼を引き受ける、と頷いた後、アラベラ様は漸く、仕事について、説明してくださった。
「教育係、でございますか?」
思い掛けない言葉に思わず、問い返してしまう。
アルフォンス様は、王太子殿下だ。
優秀な家庭教師を幾人もつけておられるだろう。
それを、敢えて家庭教師ではなく、教育係をつける意図は何処にあるのだろうか?
勿論、私程度の知識では、王族の家庭教師など引き受けられるわけもないのだけれど。
「えぇ、そうよ。アルフォンスがもう少し小さければ、乳母、と呼んだでしょうね」
「乳母…」
「ミカエラさんもご存知の通り、ユリシーズは元々、王位を継ぐ予定ではなかったわ。だから、アルフォンスが王城に来るまで受けて来たのは、公爵令息に必要となる教育なの」
幾ら、ハーヴェイ王太子殿下が生まれつき虚弱だったとは言え、ご健在であり、いつ後継者に恵まれるかも判らない状況で、アルフォンス様に王族としての教育を与える事は難しい。
アルフォンス様が誕生された時点での王位継承権は、四位なのだから。
公爵令息として以上の教育を与えると、ともすると、王位簒奪を企んでいるのではないかと、穿って見られる危険性がある。
「長くなる上に、表には出せない事情があるのだけれど…」
アラベラ様の口が重くなるものの、何かを振り切るように小さく首を振った。
「三年前、ハーヴェイが後継のないまま亡くなった時、アルフォンスは四歳。…その時点で本来ならば、王位継承権第一位として、ユリシーズが王籍に入り、立太子する筈だった。でも、そうはならなかったの」
言われて、そう言えば、と思い出す。
ハーヴェイ王太子殿下が亡くなった後も、先王であるアラベラ様のお父君コーネリアス陛下がご健在だったから、特に不思議には思っていなかった。
けれど。
改めて考えると、王位の後継者を示すと言う視点から見て、ユリシーズ様が立太子されなかったのには違和感がある。
「立太子出来なかった為に、王位継承順位は変わらず、ユリシーズが一位、ダリウスが二位、アルフォンスが三位。アルフォンスは引き続き、公爵令息としての教育のみを受ける事になったわ。ユリシーズが即位して、その息子であるアルフォンスがマスカネル王国を率いていく立場になる未来が最も濃厚だと言うのに」
それではまるで、ユリシーズ様達を王位から遠ざけようとしているような。
まさか。
ハッとして、アラベラ様の顔を見ると、悲しそうな顔で頷かれた。
「わたくしの母、エメライン先王妃が原因よ。わたくしは…母と余り上手くいっていなくて。後継となる王子を生む事を期待されていながら、結婚から五年経って漸く生まれたのは、女であるわたくし。それから四年後にハーヴェイを授かったけれど、あの子は生まれつき病弱だった。わたくしは、風邪一つ引かないと言うのにね。母は、わたくしが女として生まれた事も、弟の健康を全て持ち去った事も、全てが疎ましかったのでしょう」
「そんな…」
親子であれば、誰もが仲の良い関係になれるわけではない。
血縁関係があると言うだけの事で、人はそれぞれ、独立した人格を持つのだから。
先王妃殿下も、後継となる男児を求められる難しいお立場だったのは理解出来るけれど、だからと言って、実の娘にぶつけていい感情ではない。
「わたくしが、ハーヴェイが体調を崩す度に、メディセ家ではなくノーレイン家に預けられていたのも、似たような理由よ。母は、ハーヴェイの婚約者をメディセ家から挙げたかったものだから、わたくしがメディセ家の令息と誼を結ぶ事を嫌ったの。姉弟の二人ともが、同じ家の相手と結婚する事は出来ないもの」
思わず、絶句してしまう。
「サディアス様がユリシーズとわたくしの婚約を調えたのは、母に嫁ぎ先を考慮して貰えないだろうわたくしの事を慮ってくれたのと同時に、将来、ユリシーズが即位する可能性を考えての事。ユリシーズとわたくしの子は、母にとって孫ですもの。母の血を引く子が王位に就くのであれば、母の気持ちも収まるとお考えになったの」
それから、アラベラ様は視線を伏せる。
「…残念ながら、その思いは届かなかったのだけれど」
『ユリシーズの婚約者は、予定通り、アラベラ姫で決まりだ。アラベラ姫と縁組すれば、義姉上も、ご納得くださるだろう』。
十五年前、お茶会で怪我をした私の枕元で、サディアス様とダリウス様が交わしていた会話。
あの会話の真意は、ここにあったのか。
「ハーヴェイが亡くなってから一年は、カタリナがハーヴェイの忘れ形見を宿しているかもしれない、と、立太子を先延ばしにされた。お子を授かっている可能性はない、と確定した後は、母が新たにもう一人の王子を授かるかもしれない、と立太子を拒まれた。子を望めるような年ではもうなかったのに、母は少々難しい人だから、父にもどうにも出来なくて…結局、父が亡くなって、母に打つ手がなくなるまで、何も変えられなかった。…大人はね、まだ良かったの。時間が解決する問題だろうと判っていたし、三年なんてあっという間だったから。けれど…アルフォンスには、そうではなかった」
アラベラ様の言葉に、ハッとする。
次第に周囲の出来事を理解し始め、大人の言葉の意味や表情を読めるようになってくる四歳から、アルフォンス様は不安定な立場に置かれ続けたと言う事だ。
王子として生まれ、将来を嘱望される中で、王子となる為の勉学に励めたわけではない。
王族にお生まれになる重圧は当然存在するだろうけれど、その重圧を、周囲からの期待だと変換する事は可能だろう。
けれど、アルフォンス様は。
否定しようのない可能性として王族入りする未来が見えているのに、血の繋がった祖母にその座に就く事を望まれなかった。
それは、己の存在の否定と同じだ。
大人であれば、ある種の諦めがつく事であっても、幼い子供の心にどれ程の傷が残った事か。
焦る気持ちもあるだろう。
やらなければならない事が目の前に見えているのに、手を出し倦ねるのだから。
「おおよその事情は承知致しました。アラベラ様は、アルフォンス様の心身の健康を懸念されているのですね。『アルフォンス王子殿下』の家庭教師ではなく、『アルフォンス様』をお守りする立場として、教育係をお求めなのだと理解致しました」
アラベラ様は、黙って頷かれる。
確かに、これは乳母の仕事だ。
乳母とは、心身の健康を保ち、何よりもご本人に愛情をそそぐ存在だから。
けれど、乳母は三歳になればお役御免になるものだ。
その為、便宜上、教育係と呼ぶのだろう。
だが。
「ですが、わたくしはご承知の通り、結婚した事はございますが、育児の経験がございません」
それは、ミカの人生でも同じ事。
育児に奮闘する友人達を横目で見ながら、『大変だな』『頑張ってるな』と他人事として見ていただけだ。
次第に疎遠となってしまった彼女達の子供は、ミカの覚えている時点で、アルフォンス様と同年代の子が最も年長だった。
「えぇ、判っているわ。わたくしが、ミカエラさんをアルフォンスの教育係に望んだ理由は、大きく分けて二つ」
そう言うと、アラベラ様は爪先まで手入れされたほっそりとした人差し指を一本、立てた。
「一つは、育児経験がないから。人は誰しも、自分の経験が標準、平均、と思いがちでしょう?育児経験があると、我が子を基準にしてしまう。そこからはみ出た部分を、大仰に賛美するのも非難するのも、今のアルフォンスの状況に望ましくないの」
確かに、それはあるかもしれない。
賛美する事も、非難する事も、話に伺っている状況では、アルフォンス様に過度な負担を掛けてしまいそうだ。
「わたくしは、アルフォンス・ノーレイン・マスカネルと言う七歳の男の子を、ただ受け入れてくれる方を探しているのよ」
王子の扱いに慣れた人間は、もう十分に揃っているから。
アラベラ様は、そう付け加える。
「そしてね、もう一つ。これが、わたくしにとって最も重要なのだけれど…ミカエラさんは、ダリウスを変えた方だから」
先程も、確かにそう仰っていた。
けれど、その言葉の意味が判らない。
三歳の私は、一体、ダリウス様に何をしたと言うのか。
「そうねぇ…気にしないで、と言っても難しいでしょうけれど、余り、気負わずにアルフォンスに接して欲しいわ。そのままのミカエラさんがいいのよ」
そう言われてしまうと、頷く他はない。
「ミカエラさん。まずは、明日から一週間、アルフォンスの様子をただ黙って見てちょうだい。城の者には話しておくから、貴方はアルフォンスが訪れる何処にでもついていく事が出来るわ。そして、あの子の課題が見えたら…貴方なりの方法で、あの子を導いて欲しいの。大丈夫、不敬だとか何だとか、そんな事は言わせないから」
…アラベラ様は、私がアルフォンス様に何をすると思われているのだろうか。
「この件に関しては、パウズが担当するわ」
「畏まりました」
この一週間、アルフォンス様の生活をお傍でじっと観察して来た。
部屋の壁と同化するように並ぶ侍女達の隣に、彼女達のお仕着せに似たワンピースドレス姿で立っているから、誰も、私が普通の侍女ではないと気づく事はない。
一見すると地味な、紺色に衿とカフスだけ白いワンピース。
その衿に同色の白で目立たぬように刺繍されているアラベラ様のお徴のカメリアが、アラベラ様直属の特命を帯びた侍女、と言う証になるらしい。
王城での私の書面上の肩書は、侍女なのだ。
アルフォンス様は、一言で言ってしまえば、『完璧な王子様』だった。
貴族も平民も、誰もが思い描くような理想的な王子様。
色の濃い金髪に青い瞳は、ユリシーズ様とアラベラ様の丁度中間の色合いで、七歳にして完成された整った容姿に、よく似合っている。
滑らかな弧を描く眉、すっきりと高い鼻梁、薄い唇は、流石叔父と甥の関係と言うべきか、ダリウス様にも似ているけれど、アルフォンス様の方が優し気だ。
口角を常に僅かに上げて、微笑みの表情を保ち、それでいて己の心情は決して悟らせない。
誰にでも物腰柔らかく丁寧に接し、彼と接した者は、例えどれ程年が離れていようとも、アルフォンス様に心惹かれていくのが判る。
実際、家庭教師達は皆、勤勉で呑み込みが早いアルフォンス様が、可愛くて仕方がないようだ。
あれもこれも教えたい、と前のめりになっている。
勉学面だけではなく、体術や剣術でも、アルフォンス様は才能を発揮されている。
剣術師範が、騎士の令息であっても七歳には荷が勝つような課題を与えるのは、能力を高く評価しているからなのだろう。
正に、文武両道だ。
使用人達への態度も、素晴らしいものがある。
決して横柄な態度は取らず、それでいて、必要以上に踏み込ませない。
親しさと馴れ馴れしさは異なる事を、既に理解されているのだ。
アルフォンス様は、とても優秀だ。
現国王であるユリシーズ様も、ボーディアンとの協定をマスカネル有利に結んだ事で高く評価されているけれど、アルフォンス様への期待値は、それを上回るだろう。
完璧な王子様。
けれど、その完璧さが、私にはとても危ういものに見えた。
だって、アルフォンス様は、まだ七歳なのだ。
『完璧』なわけがない。
そう言う目で見れば、アルフォンス様が白鳥のように、人々の見えない所で必死に足を動かしている姿が見えて来る。
なのに、周囲の大人達はそれに気づかず、彼を『神童だ』『天才だ』と褒めそやし、更に期待を寄せていく。
期待される事で、その期待に応えようと努力するものだから、適度な期待はいいだろう。
けれど、一方的に掛ける過度な期待は恐ろしい。
勝手に期待しておきながら、それが叶わなかったならば、裏切られた、と感じる事を、私は知っているからだ。
タカユキに、自分の望む結婚生活を夢見たミカのように。
私も、そうだ。
マイルズに対して、私の期待する家庭を築く協力をしてくれるに違いない、と思い込んだ。
そして、初夜の一言に幻滅して、心の中でマイルズを夫の地位から切り捨てた。
人間は、見たいものを見たいように見る生き物だから、己にとって都合のいい面だけを、誇張して見る。
雪だるま式に膨れ上がった期待は、大きくなればなる程、反動が大きいものだ。
ミカエラとしての二十五年、そしてミカの四十年の経験を持つ私は、その反動が怖い。
人間なのだから、誰しも失敗するし、成長と共に変わっていくものもあるだろう。
だが、アルフォンス様がただの一度でも『失敗』したら、彼を持て囃す大人達は落胆し、掌を返すように非難するのではないか。
そう考えてしまう程に、周囲の大人がたった七歳の子供に掛ける期待が大き過ぎる。
「あぁ、そうか…」
アルフォンス様は、決して弱音を吐かない。
出来ない、とも、難しい、とも言わない。
それは、アルフォンス様自身が、己に呪縛を掛けてしまっているからだ。
完璧でなければならないと。
聡明なお子様なのは事実だ。
アルフォンス様は、自ら進んで課題に取り組み、励まれている。
毎晩、遅くまで、アルフォンス様の私室の灯りが落とされる事はないと聞く。
彼は決して一を聞いて十を知る天才ではなく、弛まぬ努力が出来る秀才なのだ。
愚痴や弱音を小出しにしていれば、大人達も普通の子供に接するようにしただろう。
だが、努力する姿を見せず、完璧に振る舞っているから、アルフォンス様もまた普通の子供である事を、忘れてしまうのだ。
もっと出来るだろう、もっと行けるだろう、と期待を上乗せ、そして、アルフォンス様はその期待に応えなければならない、と必死になってすり減っていく。
ご家族の前ですら、完璧な王子の顔をし続けているのならば。
アラベラ様は、それはご心配な事だろう。
七歳。
同い年の子供が、勉強を如何にサボって遊ぶかを真剣に悩む時期だ。
それを、アルフォンス様は強迫観念に駆られて、生き急いでいらっしゃるように見える。
ふと、既視感を覚えて、記憶を掘り起こす。
必死になって、周囲の期待に応えねば、と身も心もすり減らし、けれど、それを悟らせまいと懸命だった人。
――出会った頃のダリウス様だ。
だが、いつからだろう?
幼いダリウス様には、張りつめた所がなくなった。
満面の笑みは希少だったけれど、私の記憶にあるのは、何処か緩んだ空気を纏い、楽しそうに口端を上げていた姿だ。
私の行動が、ダリウス様にどんな影響を与えたのかは判らない。
けれど、アラベラ様が私を買ってくださっていると言う事は、ダリウス様の変化の一端を担えたと言う事なのだろう。
何しろ、出会った時の私は三歳。
それこそ、己の気持ちに素直に、思うがままに行動するお年頃だ。
出会ったタイミングが良かっただけだ。
けれど、もしも、私に何か出来る事があるのならば。
アルフォンス様の、今にも切れそうに張りつめた空気を、緩める事が出来るかもしれない。
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その一方、私は貴族とは名ばかりのしがない男爵家出身だった。けれど2人は身分差に関係なく私に優しく接してくれるとても大切な存在であり、私は密かに彼に恋していた。
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自体に陥る。幼い弟は父の知り合いに引き取られることになったが、私は住む場所を失ってしまう。
そんな矢先、幼なじみの彼に「一生、面倒をみてあげるから家においで」と声をかけられた。まるで夢のような誘いに、私は喜んで彼の元へ身を寄せることになったのだが――
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