幸せは、歩いて来ない。ならば、迎えに行きましょう。

緋田鞠

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 私が幼い頃、ダリウス様とお会いしていたのは、客人を迎える為の表側の別棟で、昨夜、泊めて頂いた客間もそちらにある。
 今、向かっているのは主家家族がプライベートを過ごす本棟の中の、更に私的な空間である朝餐の間。
 緊張していないと言えば嘘になるけれど、誠心誠意、祝宴を騒がせたお詫びをしなくては…。
 朝、お時間を頂くと言う事は、それ以外、割いて頂けるお時間がないと言う事なのだろうから。
「旦那様、ミカエラ様がおいでです」
「あぁ」
 朝餐の間には、既にダリウス様がいらしていた。
 シャツのボタンの一番上を開け、幾つか折り返した袖口から鍛えられた前腕が見える。
 このような人目を意識しない姿は、私的な場所だからこそ見られるものだ。
 彼は、ちら、と私に目を遣ると、少し目を細めて、何処か満足そうに、うん、と小さく頷く。
 フェリシア様がこのドレスをお召しだった時の事を、思い出されたのだろうか。
「掛けてくれ」
「…ぇ」
 このまま、ダリウス様が朝食を召し上がる前に謝罪すればいい、と思っていた私は、戸惑って思わず声を上げた。
「朝食にしよう。昨夜は眠っていたから、晩餐を食べ損ねているだろう?」
 そう言えば。
 気づいてしまうと、急激に空腹を感じるようになる。
 ダリウス様の言葉を合図に、壁際で控えていた使用人達が動き始めた。
「よろしいのですか?」
「聞いていないのか?最初から、お前の分も用意させている」
「…畏まりました。有難くご相伴に与ります」
 ダリウス様と最後にお会いしてから、十年。
 結婚するまでは、お誕生日にメッセージカードを送っていたけれど、それも二年前に止めた。
 最初の三年は、国境から離れられなかった、と、父を通じて聞いている。
 以降は、最初は年に一度、そのうち、年に数度は戦況報告の為に王都を訪れていたようで、父は何度かダリウス様に面会していた。
 マスカネル王国は、飽くまでボーディアンの侵略から自国を守りたいだけなので、防戦一方。
 その為、これだけ長い時間が掛かってしまった。
 漸く昨年末、敵軍に大打撃を与え、先日、無事にマスカネル王国有利の和平協定を結ぶ事が出来たそうだ。
 市井の噂で何度も上がった立役者の名が、ダリウス様のものだった。
 戦闘の中でお顔に傷を負われたと聞いた時には、血の気が下がり、世界がぐにゃりと歪むような感覚を覚えた。
 騎士の娘として、判っているつもりでいたのに、きっと、本当には理解していなかった。
 戦地に向かうと言う事は、怪我だけではなく、命の危険があるのだ、と言う事を。
「……」
 十年振りと言っても、実際、親しくお話させて頂いたのは、十歳のお茶会が最後。
 実に十五年振りの事だ。
 互いにいい年の大人になったのに、いや、だからこそか、どのような話題を出せばいいのか、判らない。
 昔は何も気にせず、己の興味の赴くままに喋り通していたのだ、と気がついた。
 衣擦れの微かな音だけが、室内に響く。
 昔馴染みなどと言っても、それは飽くまで、過去の話でしかない。
「…悪かったな」
「閣下?」
「ランドンが屋敷に籠っていると聞いていながら、招待状を送ってしまった。それ故、気を遣わせたのだろう?」
 ダリウス様の大きな体が、意気消沈しているように見えた。
 お互いに、こんな気まずい再会は望んでいなかった。
「父は、閣下のお心遣いに感謝しております。ただ、前公爵閣下と母を喪った痛みは大きく、思うように振る舞えないだけなのです。娘として、わたくしも閣下には感謝しております。ノーレイン家の皆様にお認め頂く事が、父にとっては何よりの励みでございますから」
 父ランドンは、体が大きく力加減の出来ない不器用さから、家業を継ぐ事を諦めた人だ。
 当時、ボーディアンとの小競り合いが増え、兵力が不足した事から、広く平民からも兵が募られていた。
 向いていれば、一般兵士から従騎士、騎士へと昇進出来ると聞いて、父が兵士となったのは、十三の時だと聞いている。
 こつこつと功績を立てた事で従騎士になった父は、『マグノリアの奇跡』でサディアス様と知り合った。
 平民でありながらその体格と膂力で目立っていた父は、貴族の子息に何かと因縁をつけられていたらしい。
 そのせいで貴族への苦手意識があったのだけれど、王弟であるサディアス様は、「身分など戦場では何の意味もなさない。大怪我を負って冥府への旅に向かうばかりだった私を連れ戻したのは、ランドンだ」、と言って父を友と呼び、実際に親しく付き合ってくださった。
 サディアス様のお役に立つ事が、父にとって、最も誇りとなる事だったのだ。
 名誉爵位を受けたのも、ひとえにサディアス様のお傍にいられる身分が欲しかったが為。
 だからこそ、サディアス様亡き後、父は大変落ち込み、それに追い打ちを掛けたのが母の死だった。
「だが、それならば後日、個人的に会いに行けば良かっただけの話だ。…俺は、ノーレイン家とウェインズ家の関係を、改めて人々に知らしめたかった。四十年前、『マグノリアの奇跡』で父が大怪我を負いつつも勝利を収めたのは皆の知る所だが、その父を助けたランドンの名を知る者は、若い者にはいない。…それが、悔しくてな」
 …あぁ。
 ダリウス様は、お変わりない。
 昔から、剣の手ほどきをした父を、大切にしてくださっている。
 サディアス様の盾となった平民の従騎士の名など、語り継がれている筈もないのだから、父の名が知られていないのは当たり前の事だ。
「謝らねばならないのは、わたくしです。父の状況を正確にお伝えする事を躊躇したのは、わたくしなのですから。そのうえ、折角の祝宴で流血するなど、大変申し訳ございませんでした。…あの、夫は、どうなりましたでしょうか」
 私が転倒して直ぐに悲鳴が聞こえたと言う事は、争う声を聞いて、誰かが近くまで来ていたと言う事なのだろう。
 ダリウス様は、一瞬、口元を引き結ぶ。
「マイルズ・ウェインズには、邸内で騒ぎを起こした事を理由に、自宅での謹慎を求めた。本人は、事故であり、暴力行為ではない、と主張していたが…」
「…そう、ですね、夫に、わたくしを害そうと言う意識はなかったと思います。ですが、ノーレイン家の慶事をお騒がせしたのは事実です」
 彼を同伴したのが私である以上、ウェインズ家として責任を負わなくてはならない。
 だが、そう言うと、ダリウス様は眉を顰めて溜息を吐いた。
「気にするな。と言っても難しいだろうが。出席者で、お前の怪我に気づいている者は殆どいない」
 そう言って、ダリウス様は当日の事を話してくれた。
 事故に気づいたのは、祝宴の給仕をしていた年若いメイド。
 彼女の悲鳴を聞いて駆け付けた護衛が、その場でマイルズを確保し、医師を呼んでくれたそうだ。
 私の怪我を診た医師が、私がダリウス様の昔馴染みであるウェインズ家の娘であると気づいた為に、祝宴の最中のダリウス様に密かに伝言が届けられた。
 中座したダリウス様は、昏倒した私を確認した後にマイルズに面会、話を聞いた。
 要領を得なかったものの、取り敢えず、私の命に別状はないと言う事で、自宅での謹慎を求めたらしい。
「お前の口からも、状況を尋ねたい」
「はい」
 身内の恥を晒す事になるけれど、それよりもダリウス様にご迷惑をお掛けする方が問題だ。
 これは、マイルズに、貴族としての常識が備わっていない事に気づかなかった私の落ち度で起きた事故なのだから。
 説明を聞き終えたダリウス様の眉間には、深い皺が寄っていた。
 幼い頃は、その皺を指で伸ばしてあげていたな、と、懐かしく思い出す。
「…ランドンは、」
「はい」
「ランドンは、お前は夫と幸せに暮らしている、と話していた…」
「…衣食住の足りる生活を送っておりますので、幸せです」
 そわり、と動きそうになる指を、必死に抑え込む。
 本心のつもりだけれど、余りに真剣な顔で見つめられて、思わず目を逸らした。
「……」
 ダリウス様の眉間に、一層、深い皺が寄る。
 自分でも、『幸せ』と言う言葉の薄っぺらさに気が付いている。
 だが、そうとでも思わなければ、歩み寄る気のない夫との結婚生活は送れなかった。
 実際に結婚するまでは、恋愛結婚ではなくとも、結婚をきっかけに互いに情が湧くものだ、と思っていた。
 私の両親が、そうだったから。
 熊男と呼ばれていた父ランドンは、体が大きく力持ちだけれど、それ以外の事はとんと向いていない人だ。
 当然のように、異性を喜ばせる術なども知らない。
 その父が三十を迎えるに辺り、持ち上がった縁談が、子爵令嬢だった母とのものだった。
 母は、生まれつき病弱だった事、実家が然して裕福ではない事から、二十二まで縁談がなかったのだと言う。
 縁談のない者同士なのだから、丁度良かろう、と、当時の父の上司が取りまとめたと聞いた。
 病弱故に社交経験の少なかった母は、当初、それまでの自分の世界に存在しなかった熊男に酷く怯えたらしい。
 けれど、図体に似合わず小心者である父に、次第に絆されていって、私が生まれたのだ。
 病弱である事に変わりはない為、子供は私一人しか生む事はなかったのだけれど。
 そんな両親を見ていたから、始まり方が問題なのではなく、結婚生活を送るにあたり、互いの心構えこそが大切だと思っていた。
 マイルズとの結婚を受け入れたのは、彼もまた、前向きに結婚生活に向き合ってくれれば、相応に幸せになれると思っていたからだ。
 燃え上がるような恋情はなくとも、夫婦としての情は抱けると、そう信じていたからだ。
 それこそ、子はかすがいと言うように、子供を授かれば『家族』らしくなれるだろう、と。
 …でも、現実は私の想定通りにはならなかった。
 彼は私と向き合う事はなく、結婚生活は破綻している。
 互いの結婚観のすり合わせが十分ではなかったのもあるだろう。
 マイルズの為人ひととなりを理解しないまま、男爵令嬢に相応しい結婚だと流されたのもあるだろう。
 けれど、この国で生きていく以上、貴族の家に生まれた娘として、破綻していようが結婚生活を続けるしかない。
 仕方のない事だ。
 ――…本当に?
 ふと、何か閃くように、心の隅に疑問が湧いた。
 本当に、全てに目を瞑って、結婚生活を続けるしかないの?
 思い出すのは、ミカが夫タカユキに一方的に奉仕し、己を犠牲にした十五年。
 ミカは、タカユキの要望に必死になって応えて、けれど、歩み寄りも労りも受け取れず、すり減って、そして、死んだ。
 幸せだと思い込めたのは、ほんの一瞬だけ。
 此処は、ミカのいた国とは違う。
 女性の職業選択が極めて限定的なこの国で貴族女性に求められるのは、家庭に入り、次世代へと血を繋いでいく事。
 だからこそ、独身の貴族女性への目がどれ程冷たく不快なものか、私は知っている。
 これまでの私は、父にこれ以上の心的負担を強いたくないし、マイルズと離縁しても、次の相手が見つかるわけではないのだから…と離縁を選べずにいた。
 周囲からの評価を気にして、何とか埋没しようと苦心して、『それなりに幸せだ』と、自分で自分を誤魔化していた。
 幸せになれ、と、願ってくれたダリウス様に応える為、と、己に言い聞かせて。
 でも。
 ダリウス様にこのような顔をさせる生活の、何が幸せなものか。
 いや、違う。
 ダリウス様を言い訳にしてはいけない。
 私は、自分の選択の責任を、自分で負わねばならない。
 自分の手で、自分を幸せにする努力をしなくては。
 その手段として、ミカの暮らした世界を知った今の私の頭には、別の選択肢が有力なものとして浮かんでいる。
 マイルズと暮らした所で義務は果たせず、次の縁談など求めるべくもない私。
 ならば、血を繋ぐ事を諦め、ウェインズ家を父の代で終わらせると受け入れて、貴族の義務を手離したっていいだろう。
 私は私の未来を考えればいい。
 父一人ならば、貴族年金と少数の使用人でも暮らせる。
 私達夫婦の不仲が、父の気鬱に良い影響を与えているわけもないし、悪い話ではない筈だ。
 そうだ。
 そもそも、私が、夫からの不条理な扱いに黙っている事がおかしい。
 『幸せ』にならねば、と、そればかりに囚われて、本来の自分を見失っていた。
 険しい顔で黙りこくったままのダリウス様のお顔を、初めて、真正面から見つめた。
「ですが…ウェインズ家は、父の代で終わらせます」
「…何?」
「夫は、わたくしを妻とは思っておりませんので」
 自嘲しながら言うと、ダリウス様は何か問いた気に口を開き掛け、思い直したように押し黙った。
「今回の事で、決心がつきました。夫と離縁致します」
「…離縁して、どうする」
「幸いにも体は丈夫ですので、何処かで職を得ようと考えております。何の伝手もございませんから、一朝一夕には見つからないと思いますが、わたくし一人の食い扶持位は、何とかなるのではないかと」
「…お前は、相変わらず、一度決めると思い切りがいいな」
 呆れたような、だが、少しホッとしたような複雑な顔で、ダリウス様は笑った。
 …あぁ、こんな顔をすると、少年の頃とお変わりない。
「離縁に関して揉めそうなら、俺を頼れ」
「ですが、ご迷惑をお掛けするわけには」
「我が邸内で起こった事だからな、幾らでも証言しよう。これでも公爵だ。後ろ盾として、これ以上ないだろう?」
「それは、勿論ですけれど、」
「ミカエラ」
 真剣な声音に、一層背筋が伸びた。
「昔も今も、お前は俺にとって可愛い妹だ」
 ヒュッ、と喉が鳴る。
 ダリウス様の瞳に、昔はなかった影のようなものを感じ取って。
 十年。
 実に、十年の長きに渡って、ダリウス様は戦場に立ち続けた。
 その日々は、国境から遠く離れた王都で暮らしていた私には、想像すら及ばない。
 何があったのか、と問い質したくなって、グッと言葉を堪える。
 これは、何も知らない私が不用意に触れていい場所じゃない。
「…有難う、ございます」
 私にとっても、ダリウス様は昔も今も、唯一人の特別な方なのだと判っていれば、それでいい。
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