幸せは、歩いて来ない。ならば、迎えに行きましょう。

緋田鞠

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「ねぇ、貴方。ご自分のお立場をご理解なさっている?」
 十歳の夏。
 ノーレイン公爵家の子供用のお茶会に呼ばれた私は、持っている中で一番上等なドレスを着せて貰って、ご機嫌で出掛けた。
 腰まで伸ばした癖のある青味がかった灰色の髪は、サイドの髪を三つ編みにして、後ろに一つに結び、後はそのままに下ろしている。
 髪をまとめているリボンは水色で、その年の誕生日にダリウス様から頂いた贈り物の箱についていたものだった。
 サックスブルーのドレスは、子供らしく脹脛丈で、裾から繊細な白いレースがたっぷりと覗いている。
 白い丸襟には、青い鳥の刺繍が刺してあって、特に気に入っていた。
 貴族同士の付き合いなど殆どないウェインズ家が、社交の場に呼ばれる事はまずなく、私にとって、複数が招待されているようなきちんとしたお呼ばれは、初めての事だった。
 それに。
 十三歳から士官学校で寄宿舎生活を送り始めたダリウス様には、長期休暇で公爵邸にお戻りになった時しか会えない。
 誕生日のプレゼントだって、人伝に渡されたものだ。
 勿論、お礼の手紙は送ったけれど、彼に会って、自分の口から直接お礼を伝えられる事が、心の底から嬉しかった。
「立場…?」
 だから、会場に着くなり、他の招待客である少女達に囲まれた時には、何の事やら全く判らず、相手の言葉を繰り返す事しか出来なかった。
 お茶会の会場は、夏薔薇が盛りの公爵邸の庭。
 サディアス様ご自慢の生垣で設えた迷路の端で、大人達の視線から隠すように取り囲まれる。
 父に似て、十歳にしては大きい方ではあったけれど、年上の少女達に比べればまだ小さかった私の体は、すっかり隠されてしまった。
「ダリウス様に、いつまでも甘えていてはいけなくてよ。ダリウス様は、公爵令息。貴方は、領地もない男爵令嬢。天と地程の差がある事位、貴方の頭でも少し考えれば判るでしょう」
 相手が誰だったのかは、判らない。
 名乗る前に、人目がない場所に連れて行かれてしまったから。
 ただ、後から、呼ばれていたのはダリウス様と同年代の伯爵以上の家のご令嬢達だった、と聞いた。
 彼女達にしてみれば、年下の男爵令嬢が、興奮の余り頬を真っ赤に染めて、にこにこと令嬢らしからぬ満面の笑みで会場にやって来た事が、気に入らなかったのだろう。
 二十五にもなれば、四つ位、大した差ではないけれど、十三、四歳の少女達から見れば、十歳は幼い子供だ。
 あの場は、ダリウス様の婚約者候補探しの場であったのだ。
 今思えば、ノーレイン家は、男爵令嬢である私に対して彼女達がどのように対応するのかも、候補選定の一つの試験にしていたのではないだろうか。
 少し考えれば、判る筈だ。
 男爵令嬢とは言えノーレイン家が招いた令嬢を、必要以上に貶める危険性を。
 同時に、忖度して私にすり寄る事も、彼女達、高位貴族の令嬢の立場で許される事ではない。
「で、でも…私を招待したのは、あに様で…」
 言葉に閊えながら、けれど、いつもの癖でダリウス様を『あに様』と呼んだ事に、少女達の目が吊り上がる。
「まぁ!」
「ダリウス様をそのようにお呼びするなんて、不敬だわ!」
「本当に、身の程をご存知ないのね!」
「そんなつもりじゃ、」
 知らなかったのだ。
 いつも、ダリウス様に招かれる時は、お喋りしながらお茶を飲んで、一緒にボードゲームやカードゲームをしたり、庭を散策したり乗馬したりして過ごしていた。
 彼とは四つの年齢差があるけれど、ダリウス様は兄貴分として、いつでも私に気を配ってくれていた。
 実力差の出る遊びでは、条件が対等になるようハンデを調整して、私が全力を出せるように、楽しんで遊べるように、考えてくれていた。
 その方が、自分も楽しめるから、と言って。
 彼は決して口数の多い人ではないけれど、私のお喋りに付き合って、いつでも楽しい時間を過ごさせてくれた。
 私は一人っ子で、よく遊ぶ相手と言えばダリウス様だったから、年上は皆、彼と同じように年下に気を遣ってくれるものだ、と思い込んでいた所がある。
 だから、初対面の私に対して最初から敵意を隠さない彼女達に、どう対応すればいいのか、判らなかった。
「どうしてダリウス様は、このような礼儀もなってない子供に目を掛けていらっしゃるのかしら」
「交友関係はそのまま、ダリウス様の評価に繋がりますのに」
 漸く、理解出来たのは。
 私とダリウス様は、本来、親しく言葉を交わし、遊んでいい関係ではないのだ、と言う事。
 ――私を構う事が、ダリウス様の評価を下げてしまう、と言う事…。
「判ったのでしたら、このまま、家にお帰りなさいな」
「貴方の存在があの方の為にならないって事を、ご理解なさったでしょ」
 でも、それでも。
 ただ一言、誕生日プレゼントのお礼を言ってから、帰りたい。
 そう考えて、腕を引く彼女達に抵抗していると、
「もう!いい加減になさいまし!」
 どん!
 感情任せに突き飛ばされた。
 全く身構えていなかった私は、抵抗らしい抵抗もしないまま、薔薇に向かって背中から倒れ込む。
 ピッと目の横を薔薇の枝が掠め、目の前が瞬間、赤く染まった。
「きゃぁぁぁ!」
 叫んだのは、誰だったのか。
 そのまま、倒れ込んだ時にオブジェとして飾られていた陶器の兎に後頭部を打ち付けて、私は昏倒した。



 目覚めた時には、ベッドの横でダリウス様が、真っ青に強張った顔で拳を固く握りしめ、じっと椅子に座っていた。
「…あに…様…?」
「ミカエラ!あぁ、良かった、目が覚めたんだな」
 ホッとしたように息をつくと、ダリウス様の眉間の皺が薄くなる。
「そんなに難しい顔をしてたら、早くにおじさんになっちゃうよ」
 そう、掠れた声で言って手を伸ばし、いつものように眉間を撫でると、ダリウス様は小さく笑った。
「そうだな」
 窓の外から見える空の色は、まだ青かった。
 私の視線を追って、ダリウス様が一つ頷く。
「お前が気を失ってから、三十分位だ」
「じゃあ、お茶会が始まってるんじゃない?主役がここにいていいの?私、もう大丈夫だよ?」
「いい。茶会は解散した」
「え、でも、」
「怪我人が出たんだ、何もなかった顔をして談笑なんて無理だろ」
「う…それは…そうかも…」
 でも、公爵家の料理人さん、張り切って、お菓子を作ったんじゃないの?
 ノーレイン家のサンドウィッチは美味しいのに、勿体ない…。
 そう言うと、ダリウス様は、呆れたように笑った。
「なら、ミカエラが持ち帰ればいい。食べきれない分は、使用人に配るから気にするな」
「そっか」
 それから、ダリウス様が説明してくれた事には。
 悲鳴を聞いて大人達が駆けつけた時には、私は気を失って倒れ、周囲の令嬢達は青くなって立ち竦むか、座り込んでいた。
 私の右のこめかみから髪の生え際に掛けて、三センチ程、薔薇の枝が掠めた切り傷が出来ている。
 打ち付けた後頭部は、大きなたんこぶになっているけれど、出血はしていない。
 その他、薔薇の棘でドレスが破れ、小さな切り傷が無数出来た。
「あの令嬢達には、今後一切、ノーレイン邸の門は潜らせない。また、茶会や夜会で俺に話し掛ける事も禁じた」
「え、そこまでしなくても」
「何故だ?主催が招いた客人を、勝手に追い出そうとしたんだぞ?招待客の選定をしたノーレイン家に対する侮辱だろう」
「なるほど…」
 公爵家の招いた客に対して、同じ立場の客が文句を言い、あまつさえ、追い出そうとしたのだ。
 ノーレイン家の立場からすると、見過ごしていい問題ではないのだろう。
 いつもよりも多いダリウス様の口数が、そのまま、彼の怒りを表しているようだ。
 でも。
「えぇと、でも、あの人達、あに様の事が好きだったんじゃ…」
「だったら何だ?俺にとっては、殆ど初対面の彼女達よりも、ミカエラの方がずっと大事だ」
 当然の顔をして言われて、う、とか、あ、とか言いながら、頬が赤くなるのが判る。
 普段、余り表情の変わらない人だけに、ストレートに親愛を表現されると、どうしていいのか判らない。
「…あのね、あに様」
「何だ?」
「心配掛けて、ごめんね」
「お前は何も悪くない」
「それと、誕生日プレゼント、有難う。とっても嬉しかった」
「十歳はもう、淑女の仲間入りだからな」
 小さな手に少しだけ大きな総レースの手袋は、細い細い糸を編んで作られたものだった。
 手首の部分に立体的な花モチーフが付けられていて、その中央に小さな真珠が飾られている。
「リボンも、使ってくれたのか」
「うん。だって、とっても綺麗な色」
「ミカエラの瞳の色に似てるだろ?だから、それにした」
 その言葉に、ダリウス様自ら、プレゼントの包装を選んでくれた事に気が付く。
「そうかな?こんなに綺麗な色じゃないよ」
「いや、綺麗だよ」
 プレゼントに掛かっていたリボンは、冬の青空のような、薄くて硬質な透き通る水色。
 対する私の瞳は、もう少しで曇り始めそうな空の色。
 なのに、ダリウス様は真っ直ぐな目で、「綺麗だ」と言ってくれた。
「頭をぶつけてるから、念の為、もう少し休んだ方がいい」
「…そうなの?」
「そうなんだ」
 瞼の上に、ダリウス様の掌がそっと乗せられる。
 硬い掌は、剣を握る人だからだ。
 直接伝わる熱に、次第に意識がとろとろと溶けていく。
「おやすみ、ミカエラ」



 意識が再浮上したものの、瞼が重くて開かない。
「やはり、此処だったか、ダリウス」
「…父上」
 どうにかこじ開けようと苦戦していると、聞き慣れた声が耳に飛び込んで来た。
「どうして、ミカエラを招待したのですか」
 ダリウス様だ。
 …どう言う事?
 私を呼んだのは、ダリウス様ではなかったの?
「ミカエラには、悪い事をしてしまった…。何らかの動きはあるだろうと思っていたが、あのご令嬢方は、想像以上に考えなしだったようだ。…ダリウス、だが、これでお前にもよく判っただろう。私達の立場では、好意だけで動く事は難しい。私が平民だったランドンを友と呼べたのは、彼が功績を挙げたからだ。しかし、武功を立て、立派な騎士となり、貴族の地位を認められたランドンですら、周囲からの謗りと妬みは免れず、苦しい思いをさせてしまった。ミカエラの場合、猶更の事。お前がどのような心積もりだろうと、周囲のご令嬢方はミカエラを放ってはおかない」
「ですが、」
「例え、お前が婚約者を決めようと、ミカエラをこれまでと同様、妹のように扱うならば、同じ事だ。今度は、ミカエラが令息方に狙われる。ミカエラ本人を欲しての事ではない。お前との、ノーレイン家との縁を望んで、だ」
「な…っ」
「単なる公爵家の次男ならば、いずれは、伯爵か子爵辺りの爵位を持って独立すればいいが、お前は、『ノーレイン公爵家』の息子だ。事はそう簡単ではない」
 サディアス様の声は淡々としていて、対するダリウス様の声は、感情を必死に抑え込んでいるように聞こえた。
 意識の表面を流れていく言葉を深くは理解出来ないけれど、此処でもやはり、私が傍にいる事が、ダリウス様にとって良くない、と言われているのだと言う事だけは、判る。
「…ハーヴェイ従兄あに上は、お元気になられたと、妃殿下が…」
 ハーヴェイ。
 何処かで聞いた、と思って、それが病弱と噂の王太子の名である事を思い出した。
「…元気、とは到底言えんな。変わらず一進一退だ。ユリシーズにも、万が一に備えておくように話をしてある。ユリシーズの婚約者は、予定通り、アラベラ姫で決まりだ。アラベラ姫と縁組すれば、義姉上も、ご納得くださるだろう」
 ユリシーズ様は、ダリウス様の六つ上の兄君だ。
 ダリウス様には他に、四つ上の姉君オーレリア様がいらっしゃるけれど、私は、ユリシーズ様ともオーレリア様とも年が離れているから、余り長くお話した事はない。
 アラベラ王女殿下も、時々、ノーレイン公爵邸でお見掛けする。
 ユリシーズ様のご婚約者様だったからなのか。
「兄上は、アラベラ従姉あね上の事を、好いておられるのですか…?」
「従妹として、国を支える同志として、親愛の情はあろうよ。我々の結婚は、互いを想い合って始まるものより、結婚してから想いを添わせるものが多いのだと、お前ももう理解しているだろう?」
 サディアス様の声は相変わらず淡々としたものだけれど、それは、何も感じていないからではないのだろう。
 王弟として、長く王位継承権第一位を務めた方の自制のようなものが、感じられた。
「何もなければそれでよい。だが、有事の際に、ノーレイン公爵家を継ぐのはお前だ。それを重々踏まえた上で、己の行動を考えるように。…ミカエラは、私にとっても可愛い娘だ。このままでは確実に、ミカエラが不幸になる。私は、彼女が傷つく事を、望まない」
「それは、俺だって…!ミカエラは、可愛い………妹、ですから」
「あぁ、そうだろう?ならば、なすべき事をなせ」
 サディアス様が退室する物音の後に、ベッドへと歩み寄る足音が聞こえて、私は、咄嗟に寝返りを打って背を向ける。
 顔を見られたら、話を聞いていた事に気づかれてしまうかもしれない。
 暫しの沈黙の後、ダリウス様の、記憶よりも随分と大きくなった手で、そっと、頭を撫でられる。
「ごめん、ミカエラ…顔に傷をつけてしまった…」
 大丈夫だよ、あに様。
 こんなの掠り傷だから。
「俺がしっかりしてないから、お前に手出しをさせてしまった」
 違うよ。
 私が、ちゃんとしてれば、あの人達も手を出す事はなかったんだよ。
「…俺は、お前が幸せであれば、それでいい」
 私だって、あに様に幸せでいて欲しいよ。
「だから…」

『さよなら』

 最後の声は、そう聞こえた。
 随分と小さくて、掠れていたから、本当は何と言ったのか、判らない。
 そのまま、そっと足音を忍ばせて部屋を出たダリウス様が扉を、パタン、と閉めたと同時に、私の心の中の扉も、パタン、と閉じた。
 閉じて初めて、私は心に扉があった事と、その扉が常に全開に開いていた事に気が付いた。
 『十歳は淑女の仲間入り』。
 そうだ、その通り。
 私はいつまでも、周囲に甘えたままの子供ではいられない。
 末端貴族と言えども、私が貴族令嬢である事は間違いない。
 己の立場を弁えて、ダリウス様とノーレイン公爵家の皆様にご迷惑とご心配を掛けないような、相応の人生を送らなければ。
 私が満足そうな顔をしていれば、ダリウス様はきっと、安心してくれる。
「良かったな、ミカエラ」
 そう、笑ってくれる。
 だから。
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