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「だから、ここに署名しろ、と言ってるんだ」
ダイニングテーブルで私の向かいに座る夫、隆之の隣には、何度か彼が連れて来た会社の部下の女性が、澄ました顔で座っていた。
左手の薬指に、これ見よがしに大粒のダイヤの指輪。
婚約指輪のつもりだろうか。
苛立たし気に、右手人差し指でコンコンと隆之が叩くのは、テーブル上の――離婚届。
「…別に、離婚に同意しない、とは言っていません。でも、その前に、条件について話し合っておくべきでしょう?」
「条件?俺達には子供もいないんだ、何を話し合う事がある」
子供がいなかろうと専業主婦で職のない私と彼の有責で別れるのだから、慰謝料について、話し合う必要があるでしょうに。
突然、自宅マンションに浮気相手を連れて来て離婚届を突き付けるとは、最後の最後まで、私の事を何一つ考えてくれていない。
「本当に、奥様には申し訳ないと思ってるんですぅ。でも、あのぉ…私のお腹には赤ちゃんがいるのでぇ、母子手帳の申請をするのに、旧姓のままだと、ちょっと…なので、早く籍を入れたいんですよねぇ」
未だに、このように語尾を伸ばして話す子がいるのか。
夫が、連絡なしに会社の部下を自宅に連れて来るのは、いつもの事だった。
社外での付き合いなど、今の若い人は面倒だと思うらしいのに、無料飯目当てでついて来る調子のいい数人の中の一人が、今、夫にしなだれかかっているこの女性。
確かまだ、二十代半ばか後半に入ったばかりだろう。
夫は四十五になったが、子供がいないからなのか、自分のお洒落にはお金を惜しまないからなのか、三十代に見えるとは言え、随分と年が離れているのは確かだ。
「…浅木さん、だったかしら。赤ちゃんに不自由を掛けたくない、と思うのは私も一緒よ。けれど、夫が離婚する前に子を生した責任は貴方にもあると、理解してらっしゃる?」
「コヲナス、って…」
半笑いになった彼女――浅木結愛は、口の中で小さく、
「ほんと、うざ…」
と呟く。
「貴方は、この家を何度も訪問されてるわよね。だから、私が彼の妻であり、離婚していない事をご存知だったでしょう?だから、私を『奥様』と呼んだのでは?」
「実加。今、それは関係ないだろう。俺とお前の離婚の話だ」
「その離婚に、浅木さんが無関係だと?浮気相手にも、妻は慰謝料を請求出来るんですよ?」
淡々と返すと、夫はチッと舌打ちをした。
「だから、お前は可愛げがないと言ってるんだ!」
「そう思っていらしたなら、私が離婚を求めた時、別れてくだされば良かったのに」
一瞬、口を噤んだ彼は、顔を歪めてそっぽを向く。
…最初に、離婚して欲しい、と切り出したのは、結婚から三年が経った頃。
二十五で求婚され、半年後に結婚。
最初のうちは、まだ普通の夫婦関係の範疇だったと思う。
けれど――私が一年経っても妊娠しない事で、彼とも、彼の両親とも、関係が悪化していった。
「実加さん。貴方ねぇ、後継ぎを早く生んで貰わないと困るわ。お友達の家には皆、もう孫が二人はいるのよ」
夫は長男だけれど、後継ぎが必要な家業をしているわけでもない、ごく普通のサラリーマン家庭で育った。
けれど、顔を合わせる度に、「不妊の嫁に騙された」「不良品を押し付けられた」と、私に聞こえるように言う義母。
私に直接苦言する事はないけれど、義母を嗜めるわけでもない義父。
そして、検査をする為、一緒に病院に行ってくれ、と頼む私を、
「は?妊娠は女がするものだろ?何で俺が一緒に行く必要があるんだ」
と、拒んだ夫。
「不妊の原因は、男性と女性、どちらにも同じ位あるらしいんです。治療すれば、妊娠する可能性があります」
と、調べた資料を渡そうとしても、「俺には関係ない」「俺は疲れてるんだ」「そんなに行きたきゃ一人で行け」と逃げ回る夫に疲れきり、離婚を申し出たのは、私が二十八、彼が三十三の時の事。
「私では後継ぎを生めないし、お義母さんを苛立たせてしまうから、離婚してください」
夫は暫く逡巡した後、
「離婚する必要はない。義母さんは気にするな」
と返して、この話を終わりにした。
以来、私の不出来を取り沙汰にされる度に、何度も離婚を申し入れた。
口頭だけではなく、本気であると示す為に離婚届も添えたものの、毎回、破かれて終わった。
離婚届の用紙を何度も取りに行く私の事を、役所の職員が覚えているとも思えないけれど、行く度に自意識過剰になって、挙動不審になった。
正直な所、離婚したいと言う気持ちも本当だったけれど、離婚に応じない夫に、私への愛情があるのでは、と僅かばかりの希望があった事は否めない。
今、振り返れば。
私は、彼にとって、都合のいい無料家政婦だったのだ。
私と夫の出会いは、結婚相談所。
当時は、就職氷河期と呼ばれていた時代。
特に専門知識や資格を得られるわけでもない大学を何とか卒業した私は、就職活動に大苦戦して、漸く潜り込んだ小さな会社で働いていた。
定時にタイムカードを切る事を強要され、サービス残業の毎日。
仕事に遣り甲斐を見出せるわけでもなく、再就職する自信がないからしがみついているだけ。
そんな日々に、いつしか、疲れ切ってしまった。
自分の人生の行く末が、見えなかったせいもあるのかもしれない。
私は――安易に、結婚して家庭に入れば、この苦境から逃れられる、と思ってしまったのだ。
特に容姿に秀でているわけでも、高い学歴を持つわけでも、実家が裕福なわけでもない私が、妻子を養えるような収入を持つ男性に出会える方法として選択したのが、結婚相談所だった。
当時の結婚相談所は、男女共に結婚適齢期を過ぎても出会いのない人間が、最後に駆け込む場所、と言うイメージだった。
けれど、交際経験が、大学時代に他大との合同サークルで一緒だった男性一人だけだった私には、他の方法が思いつかなかった。
実際の所、彼にとって私は『都合のいい女』で、別に本命の彼女がいたそうだから、交際していた、と言っていいのか判らない。
サークルで出会って、話が合う事をきっかけに二人で出掛けるようになって、求められるままに体を重ねて…いつかは結婚したい、と思っていたけれど、大学卒業から暫くすると音信不通になり、サークル仲間を通じて、彼が本命の彼女と結婚した事、私が便利に使われていた事を知った。
私は、面と向かってフラれる事すらなく、用済みとして廃棄されていたのだ。
この経験は、私の自己肯定感に大きな影を残していて、一からまた恋愛するなんて、とても考えられなくなってしまった。
だからこその、結婚相談所だ。
当時の私は、まだ二十四、と言う年齢。
他の何はなくとも、若さだけはある。
そこそこの容姿。
そこそこの学歴。
そこそこの家庭環境。
我が強いと言う程には強くなく、会話が出来ないと言う程には自己主張が控えめでもなく。
無意識に、気に入られようとして、相手の望むような女性を演じていた部分もあったかもしれない。
そこはやはり、恋人だと思っていた相手に、愛されていなかった事を知ったせいもあるだろう。
好かれたい、と言うよりも、嫌われるのが怖いのだ。
そのお陰なのかどうか、会いたい、と言ってくれる人は多かった。
どの人にもいい所も悪い所もあるけれど、なかなか、全てをいいと思える人と出会えない。
けれど、「あの人を断ったのだから、あれ以上の人を」との欲は、キリがない。
ただ漠然と探しても出会えない、と考えられるようになったのは、入会から半年が経ち、実際に顔を合わせた男性が三十人を迎える頃。
私は、希望する条件を揃えた男性の中で、私を気に入ってくれた人と、結婚する事に決めた。
お相手の男性にも女性に望む条件があるのだから、互いの条件が合致していれば、きっと、上手く行く筈だ。
――そうして、出会ったのが、夫である山口隆之だった。
誰もが聞いた事のある大学を出て、テレビでCMを流す一流企業に勤めていて、すらりと背も高い。
顔立ちだって、十人いれば七人は「格好いいね」と言うだろう爽やかな好青年だ。
年の差が五歳あったものの、少し年上の人の方が頼り甲斐があると思っていた私には、ちょうど良かった。
今では死語なのだろうけれど、所謂、高学歴、高収入、高身長の彼が、何故、結婚相談所で相手を探していたのか。
「仕事が忙しくって…」
と苦笑する姿を鵜呑みにして、
「実加さんみたいに、話しやすい女性は初めてですよ」
なんて言葉に有頂天になって。
初対面から、デートを三回。
茹だるような夏の熱い日に、
「俺と結婚してください」
とプロポーズされて、即了承してしまった。
少しでも躊躇う様子があれば、彼が直ぐに次の女性を探すだろう、と焦ったのもある。
この機会を逃したら、このような好条件の相手からまた求婚されるか、判らない。
少しずつ、女性が結婚、出産後も仕事をする流れが出来始めた中ではあったけれど、私のいた会社では制度があるだけで、育休どころか産休すら実際には取れなかった。
当初は妊娠するまで続けるつもりだった仕事を、結婚と同時に辞めたのは、会社から「いつ辞める事になるか判らない人間は、迷惑だ」と言われたせいもあるけれど、夫がそう望んだからだった。
「実加は、俺の奥さんなんだからさ。家の事を、やって欲しいんだよね」
その言葉を、頼られている、と何故思ってしまったのか。
夫は、家の事を何一つ出来ない人だった。
結婚前、彼の自宅マンションを訪れた際、清掃もされていたし、整頓もされていたから、綺麗好きな人なのだろう、と思っていたら、何て事はない。
合鍵を持つ義母が、通って家事をしていただけだった。
結婚後は、その仕事が私の担当になっただけ。
最初のうちは、頼ってくれているのだ、と、嬉しかった。
結婚する時に友人達から、一流企業勤めで顔もいい夫を掴まえた、と羨ましがられたのも大きかった。
皆の前では格好をつけないとならないあの人が素を見せられるのは、私だけ、と、自惚れていた。
私がいないと駄目なんだわ、と、何処か優越感すら、抱いていた気もする。
現実が、全く見えていなかった。
――実際は。
どれだけ、私が夫の要望に応えようと、彼が私に感謝する事はなかった。
何故なら、それは妻として当然の、最低限の役目だから。
その上で、義母からの子供の催促だ。
よその夫婦関係が判らないから、夫婦生活の回数が多いのか少ないのかは判らないけれど、一年経っても妊娠の兆しがなければ、焦って来る。
どれだけ望んでも妊娠しない事に負い目を抱き、己の存在意義を示す為に、一層、夫の要望を完璧に叶えようと必死になった。
私の体に先天的な問題があるのだとしたらどうしよう…と、不安になって、こっそりと婦人科で検査もした。
身体的には何も問題ない、と言われて、じゃあ、何で出来ないんだ、と泣き崩れた私に、看護師が、
「今度は、旦那さんも連れて来てね」
と、同情めいた視線で言った事を忘れられない。
体の問題ではなく、ストレスが大きな要因になっている可能性もある事。
夫側に原因がある可能性もある事。
夫婦共に原因がなくとも、子を授からない夫婦は少なくない事。
けれど、もしも、何か原因が見つかれば、治療出来る可能性はある事。
結局…彼が病院に行った事はないのだけれど。
夫の協力が得られそうにない、と相談した所、性交後試験を受ける事を提案されて、夫に内緒で何度か試験を受けた。
結果は、夫に起因する結果が極めて悪く、このままでは自然妊娠は難しいとの所見だった。
でも、プライドが高く、妊娠はひとえに女性の問題と思い込んでいる彼が、その結果を受け入れるとは到底思えず…私に出来たのは、遠回しに離婚を求める事だけだった。
冷静に考えてみれば、私自身は、何を擲ってでも子供が欲しいわけではなかった。
一人っ子の私は小さな子供に馴染みがなかったし、どちらかと言うと子供の甲高い声を煩いと感じる方だったからだ。
ただ、『家族』と言う単位には、両親と子供が揃っているものだろう、と思い込んでいただけ。
だから、もしも夫が労わってくれていたのなら、義母の暴言の尻馬に乗らず、彼女を諫めてくれていたのなら、夫婦二人だけで暮らす事に何の問題もなかった。
でも、彼は、夫婦に子供二人(息子一人娘一人)と言う自分の理想を叶えなかった私の事を、何をしてもよい相手としか、思ってはくれなかった。
彼が私を選んだのは、私が、
「家事は好きな方です」
と言ったからで、はっきりと自己主張出来る程には自分に自信がなかったから。
その事実に漸く気づいたのは、彼の浮気に気づいた時だった。
彼は、愛情があるから私を選んだのでも、私と離婚しないのでもなかった。
幸せなど、欠片も感じられなかった結婚生活。
なのに、私はそこから一歩も動き出す事が出来なかった。
肉体的な暴力はなかったけれど、精神的な暴言や金銭的支配に、雁字搦めに囚われていた。
自分は価値のない人間で、私が何をしても何を言っても何も変わらないのだと、思い込まされていた。
両親や友人に、外面がいい夫や義母からの重圧を相談する事が出来なかったのは、私のちっぽけなプライドから。
見合い結婚だけれど仲睦まじかった両親の前で、自ら『選んだ』夫がハズレだったなんて、情けなくて言えなかった。
条件だけで言えば夫に一歩及ばないとしても、互いに想い合っている配偶者のいる友人達の前で、私は愛されてないだなんて、恥ずかしくて言えなかった。
もしも。
もしも、あのプロポーズされた二十五の夏に戻れたならば。
求婚を断って、何年掛かっても、もっといい人との出会いを探すのに。
彼が特に隠す様子もなく浮気するようになってからは、家にいる時間が短くなって、寧ろ、ホッとした。
一人でいる時間が長くなる程、少しずつ、ズタズタに引き裂かれていた心が回復していく。
夫がこれ見よがしに、自分が関係を持っている部下の女性を自宅に連れて来ても、にこやかに応対出来る。
彼女達の目が、
「美人でもないのにナチュラルメイクを勘違いした薄化粧とか、ありえないでしょ。折角、イケメン旦那に拾って貰ったのに、これじゃ引き留められないよね…子なしで暇な癖に、外で働きもしない、旦那の慈悲に縋るだけの無能な女って、可哀想」
と語っていても、凪いだ心で流す事が出来る。
貴方達は知らないでしょう?
勤めていた時と同じように化粧した私を、
「誰もお前の顔なんて見てないんだから、金の無駄だ。それとも、よその男に色目を使う気か?」
と、夫が怒鳴りつけた事を。
人間関係が断絶していく事を恐れ、
「午前中だけでいいから、パートに出たい」
と言った私に、
「俺に恥を掻かせる気か?俺の収入が足りないみたいに見えるだろう!みっともない事をするな!」
と、夫が激怒した事を。
私が専業主婦なのは、夫のプライドを守る為。
貴方達の目には、夫は、収入があり、お洒落のセンスが良く、何も出来ない子なしの妻を広い心で養っている人格者に見えているのかもしれない。
けれど、夫の金回りが良く見えるのは、生活費以外を小遣いとして全て使ってしまうからだ。
預金は、殆どない。
服は、私が毎シーズン用意して、毎日、全身コーディネートしている。
結婚前、彼はデートで会う度にセンスよくブランド物の服を着ていたけれど、その服を用意していたのは、義母だった。
結婚後は私の担当となり、天気予報に合わせて翌日に着る一式を揃え、並べておくまでが仕事。
夫の好みと体感温度を完全に把握するまでに、二年掛かった。
勿論、入浴時には、バスタオルと下着、パジャマを揃えて渡さなくてはならない。
やかんでお湯すら沸かせないのに、私には、主菜に加えて副菜を最低三品作る事を求める。
理由は、少しずつ、様々な味を楽しみたいから。
副菜であっても、同じおかずが連続すると叱られる。
その上、彼は会社の同僚を連絡なしに連れ帰って来るので、いつ、そうなってもいいように、常に多めの食材を冷蔵庫にストックしておかなければならない。
同時に、食材はきちんと使い切らなければ、無駄にした、と叱られる。
ごみ捨ての曜日すら覚えていないのに、窓が曇っているだとか、風呂場の鏡がくすんでいるだとか、細かい指摘が多い。
貴方達が、「センスいい」と大喜びしたプレゼントを選んだのは、私。
貴方達が、完璧な男だと思っているハリボテを作り上げているのは、私だ。
そんな昏い喜びだけで、十五年。
時間だけは誰の上にも平等で、何も成さないまま、四十になった私は今、初めて夫の側から離婚を申し立てられている。
薄々、そんな日が来る事は予想していた。
だから、家計費を節約してこっそりと貯めたお金を安全な場所に移し、慰謝料など頭にもないだろう夫から無一文で切り捨てられても、当座は困らないようにしてあった。
何しろ、夫には預金がない上に、彼は専業主婦である私にお金が必要であるとの考えはなく、『小遣い』ですら、貰った事はないのだから。
夫が私の美容院代をケチるから、長く伸ばしただけで手入れが十分に出来ていない髪には、白髪が混じっている。
肩から流れる艶のない髪を見ながら、極めて事務的に告げた。
「離婚には、応じます。荷物が多いので、そうですね、一週間は猶予を差し上げます。一週間以内に、必要な物をまとめて、どうぞ、出て行ってください。残された物は、不用品として勝手に処分しますので」
「…は?」
間の抜けた声は、夫のものだったのか、浅木さんのものだったのか。
「お前、何言って、」
「お忘れですか?このマンションは、亡くなった両親が私に残した物です。名義も私ですし、毎年の税金も、組合の管理費も、私個人の資産から払っています。…貴方が、私の持ち物なのだから自分で管理しろ、と言ったのでしょう?勿論、貴方から家賃を貰った事もありません」
十年前に交通事故で両親が亡くなった時、遺産に現金が殆どなかったのを、「貯めていたお金はマンションの頭金になったし、余裕があったら繰り上げ返済してたから」と説明したら、納得したのは貴方でしょう?
浅木さんが、隣の夫の顔を、まじまじと見つめた。
二十年前、然程便利ではなかった駅の目の前に建っているこのマンションを購入したのは、私の両親だ。
一人娘の私が、慣れない葬式の手配や遺産相続の手続き、事故相手の保険会社との対応で忙殺される中、それまでの賃貸住まいから引っ越しをしよう、と言ったのは夫だった。
駅前の再開発が進み、地価が一気に上がった頃で、両親の荷物の整理が済み次第、売却を考えていた私を鼻で嗤って、「タダで住める家があるのだから」と、引っ越しを強行した。
便利になった駅前のファミリー向け分譲マンションは、築年数が経っていても新築より広い事で人気があり、家に来る部下達に羨ましがられていた事を知っている。
…夫は、このマンションが私の物である事を忘れていたのだろう。
唖然とした顔で私を見た後、キッと睨みつけた。
「お前は一人なんだから、アパートでも何でも暮らせばいいだろう。俺は子供が生まれるんだぞ!」
「でしたら、買い取ってください。先月、不動産鑑定して頂いた時は、この金額でしたから」
す、と彼の前に書類を差し出すと、二人はギョッとした顔をした。
有名な不動産会社の名前が入った用紙に、次第に顔色が悪くなってくる。
勿論、夫に一括で購入出来る金額ではない事も、彼に住宅ローンと言う発想もない事も、私は誰よりも理解している。
彼等の脳内では、自分達に都合のいいストーリーが出来上がっていたに違いない。
便利な駅前のマンションで、邪魔な先妻を追い出しての薔薇色の新婚生活。
何の咎も負担もなく、そんな日々が迎えられると、何故、思えたのか。
「一週間以内に荷物を引き上げる、と約束してくれるのであれば、離婚届に記入もするし、弁護士を挟む事もしません。貴方と浅木さんの慰謝料も、諦めましょう。そちらにはいい条件だと思いますよ」
淡々とそう告げると、夫は、ぎり、と歯軋りした後、
「誰の入れ知恵だ」
と言った。
「入れ知恵、だなんて。私の交友関係を制限したのは、貴方でしょう。今では、友人と呼べる人など一人もいません。私の個人資産は、マンションの維持費用程度しか残っていないんです。そのお金だって底が見えて来て不安になったから、売却を考えて鑑定して貰ったんですよ?自由になるお金もないのに、一体、誰に相談出来たと言うのでしょう?」
「…」
聞いていた話と違うのだろう。
経済的DVを示唆する言葉に、浅木さんが顔を強張らせて、隣に座る夫を見る。
彼は、焦ったようにこちらを睨みつけ、がたり、と大きな音を立てて椅子から立ち上がると、浅木さんの腕を引いた。
「行くぞ」
「ぇ、でも、」
「こんな性悪と一緒にいると、子供によくない。俺だけで仕切り直す」
玄関に向かう二人を、じっと見送る。
このまま、素直に条件を飲んでくれればいい。
こつこつと貯めていたお金は、十五年、こき使われた分には到底足りないけれど、両親の保険金がまだあるから、何とかなる。
だから、心の平穏さえ取り戻せれば、それでいい。
夫が、私の人生にこれ以上関わって来なければ、それで、いい。
けれど。
こちらに背を向けていた夫は、腹いせに、なのだろう。
振り返って、盛大に嗤った。
「やはり、畑が悪かったんだな。お前の胎に問題があったんだ」
…あぁ。
何も言わずに、済ませるつもりだったのに。
先に仕掛けたのは、貴方だ。
「医学の進歩って、凄いですね」
見送る為に立ち上がって、思わず、うっすらと笑みを浮かべてしまった。
後で、塩を撒いておかなければ。
「……何?」
「自然妊娠は奇跡と言われた貴方が、子供を授かるのですから」
浅木さんの顔が、真っ青になった。
確信はないけれど、ある程度、予想はしている。
夫以外の男と、親し気に寄り添って歩いていた彼女。
その腹の子が本当に夫の子であると、一体、誰が確認したのだろう?
「…結愛?」
硬直した浅木さんの顔を、不審そうに夫が覗き込む。
「ゃ、ちが、これは、」
動揺する浅木さんを見て、夫の頭に、私の言葉の意味がじわじわと浸透したらしい。
「頑として病院に行ってくれなかった貴方が、不妊治療に前向きになったんですね。あれから十五年経ってるのだから、絶望的だったあの頃よりも、数値はもっと悪くなってる筈ですけど」
「おい、まさか、」
「ちが、ちがう、違う…!」
そして。
恐慌状態に陥った浅木さんは。
私に向けて、傍にあった花瓶を投げつけた。
「高価なのだから、破損でもした日には判ってるだろうな」と夫に繰り返し脅されていた私は、受け止めるべきなのか、避けるべきなのか、咄嗟の判断に迷う。
「おい…?!」
ガッ!
中途半端に身動きを止めたせいだろう。
肩に、勢いよく花瓶がぶつかった。
勢いに押されて足を滑らせ転倒し、リビングボードに激しく後頭部を打ち付ける。
痛みよりも、まず襲ったのは、熱さ。
目の前が、パッと真っ赤に染まったかと思うと、次の瞬間、かくり、と全身から力が抜けた。
「実加…?!」
ダイニングテーブルで私の向かいに座る夫、隆之の隣には、何度か彼が連れて来た会社の部下の女性が、澄ました顔で座っていた。
左手の薬指に、これ見よがしに大粒のダイヤの指輪。
婚約指輪のつもりだろうか。
苛立たし気に、右手人差し指でコンコンと隆之が叩くのは、テーブル上の――離婚届。
「…別に、離婚に同意しない、とは言っていません。でも、その前に、条件について話し合っておくべきでしょう?」
「条件?俺達には子供もいないんだ、何を話し合う事がある」
子供がいなかろうと専業主婦で職のない私と彼の有責で別れるのだから、慰謝料について、話し合う必要があるでしょうに。
突然、自宅マンションに浮気相手を連れて来て離婚届を突き付けるとは、最後の最後まで、私の事を何一つ考えてくれていない。
「本当に、奥様には申し訳ないと思ってるんですぅ。でも、あのぉ…私のお腹には赤ちゃんがいるのでぇ、母子手帳の申請をするのに、旧姓のままだと、ちょっと…なので、早く籍を入れたいんですよねぇ」
未だに、このように語尾を伸ばして話す子がいるのか。
夫が、連絡なしに会社の部下を自宅に連れて来るのは、いつもの事だった。
社外での付き合いなど、今の若い人は面倒だと思うらしいのに、無料飯目当てでついて来る調子のいい数人の中の一人が、今、夫にしなだれかかっているこの女性。
確かまだ、二十代半ばか後半に入ったばかりだろう。
夫は四十五になったが、子供がいないからなのか、自分のお洒落にはお金を惜しまないからなのか、三十代に見えるとは言え、随分と年が離れているのは確かだ。
「…浅木さん、だったかしら。赤ちゃんに不自由を掛けたくない、と思うのは私も一緒よ。けれど、夫が離婚する前に子を生した責任は貴方にもあると、理解してらっしゃる?」
「コヲナス、って…」
半笑いになった彼女――浅木結愛は、口の中で小さく、
「ほんと、うざ…」
と呟く。
「貴方は、この家を何度も訪問されてるわよね。だから、私が彼の妻であり、離婚していない事をご存知だったでしょう?だから、私を『奥様』と呼んだのでは?」
「実加。今、それは関係ないだろう。俺とお前の離婚の話だ」
「その離婚に、浅木さんが無関係だと?浮気相手にも、妻は慰謝料を請求出来るんですよ?」
淡々と返すと、夫はチッと舌打ちをした。
「だから、お前は可愛げがないと言ってるんだ!」
「そう思っていらしたなら、私が離婚を求めた時、別れてくだされば良かったのに」
一瞬、口を噤んだ彼は、顔を歪めてそっぽを向く。
…最初に、離婚して欲しい、と切り出したのは、結婚から三年が経った頃。
二十五で求婚され、半年後に結婚。
最初のうちは、まだ普通の夫婦関係の範疇だったと思う。
けれど――私が一年経っても妊娠しない事で、彼とも、彼の両親とも、関係が悪化していった。
「実加さん。貴方ねぇ、後継ぎを早く生んで貰わないと困るわ。お友達の家には皆、もう孫が二人はいるのよ」
夫は長男だけれど、後継ぎが必要な家業をしているわけでもない、ごく普通のサラリーマン家庭で育った。
けれど、顔を合わせる度に、「不妊の嫁に騙された」「不良品を押し付けられた」と、私に聞こえるように言う義母。
私に直接苦言する事はないけれど、義母を嗜めるわけでもない義父。
そして、検査をする為、一緒に病院に行ってくれ、と頼む私を、
「は?妊娠は女がするものだろ?何で俺が一緒に行く必要があるんだ」
と、拒んだ夫。
「不妊の原因は、男性と女性、どちらにも同じ位あるらしいんです。治療すれば、妊娠する可能性があります」
と、調べた資料を渡そうとしても、「俺には関係ない」「俺は疲れてるんだ」「そんなに行きたきゃ一人で行け」と逃げ回る夫に疲れきり、離婚を申し出たのは、私が二十八、彼が三十三の時の事。
「私では後継ぎを生めないし、お義母さんを苛立たせてしまうから、離婚してください」
夫は暫く逡巡した後、
「離婚する必要はない。義母さんは気にするな」
と返して、この話を終わりにした。
以来、私の不出来を取り沙汰にされる度に、何度も離婚を申し入れた。
口頭だけではなく、本気であると示す為に離婚届も添えたものの、毎回、破かれて終わった。
離婚届の用紙を何度も取りに行く私の事を、役所の職員が覚えているとも思えないけれど、行く度に自意識過剰になって、挙動不審になった。
正直な所、離婚したいと言う気持ちも本当だったけれど、離婚に応じない夫に、私への愛情があるのでは、と僅かばかりの希望があった事は否めない。
今、振り返れば。
私は、彼にとって、都合のいい無料家政婦だったのだ。
私と夫の出会いは、結婚相談所。
当時は、就職氷河期と呼ばれていた時代。
特に専門知識や資格を得られるわけでもない大学を何とか卒業した私は、就職活動に大苦戦して、漸く潜り込んだ小さな会社で働いていた。
定時にタイムカードを切る事を強要され、サービス残業の毎日。
仕事に遣り甲斐を見出せるわけでもなく、再就職する自信がないからしがみついているだけ。
そんな日々に、いつしか、疲れ切ってしまった。
自分の人生の行く末が、見えなかったせいもあるのかもしれない。
私は――安易に、結婚して家庭に入れば、この苦境から逃れられる、と思ってしまったのだ。
特に容姿に秀でているわけでも、高い学歴を持つわけでも、実家が裕福なわけでもない私が、妻子を養えるような収入を持つ男性に出会える方法として選択したのが、結婚相談所だった。
当時の結婚相談所は、男女共に結婚適齢期を過ぎても出会いのない人間が、最後に駆け込む場所、と言うイメージだった。
けれど、交際経験が、大学時代に他大との合同サークルで一緒だった男性一人だけだった私には、他の方法が思いつかなかった。
実際の所、彼にとって私は『都合のいい女』で、別に本命の彼女がいたそうだから、交際していた、と言っていいのか判らない。
サークルで出会って、話が合う事をきっかけに二人で出掛けるようになって、求められるままに体を重ねて…いつかは結婚したい、と思っていたけれど、大学卒業から暫くすると音信不通になり、サークル仲間を通じて、彼が本命の彼女と結婚した事、私が便利に使われていた事を知った。
私は、面と向かってフラれる事すらなく、用済みとして廃棄されていたのだ。
この経験は、私の自己肯定感に大きな影を残していて、一からまた恋愛するなんて、とても考えられなくなってしまった。
だからこその、結婚相談所だ。
当時の私は、まだ二十四、と言う年齢。
他の何はなくとも、若さだけはある。
そこそこの容姿。
そこそこの学歴。
そこそこの家庭環境。
我が強いと言う程には強くなく、会話が出来ないと言う程には自己主張が控えめでもなく。
無意識に、気に入られようとして、相手の望むような女性を演じていた部分もあったかもしれない。
そこはやはり、恋人だと思っていた相手に、愛されていなかった事を知ったせいもあるだろう。
好かれたい、と言うよりも、嫌われるのが怖いのだ。
そのお陰なのかどうか、会いたい、と言ってくれる人は多かった。
どの人にもいい所も悪い所もあるけれど、なかなか、全てをいいと思える人と出会えない。
けれど、「あの人を断ったのだから、あれ以上の人を」との欲は、キリがない。
ただ漠然と探しても出会えない、と考えられるようになったのは、入会から半年が経ち、実際に顔を合わせた男性が三十人を迎える頃。
私は、希望する条件を揃えた男性の中で、私を気に入ってくれた人と、結婚する事に決めた。
お相手の男性にも女性に望む条件があるのだから、互いの条件が合致していれば、きっと、上手く行く筈だ。
――そうして、出会ったのが、夫である山口隆之だった。
誰もが聞いた事のある大学を出て、テレビでCMを流す一流企業に勤めていて、すらりと背も高い。
顔立ちだって、十人いれば七人は「格好いいね」と言うだろう爽やかな好青年だ。
年の差が五歳あったものの、少し年上の人の方が頼り甲斐があると思っていた私には、ちょうど良かった。
今では死語なのだろうけれど、所謂、高学歴、高収入、高身長の彼が、何故、結婚相談所で相手を探していたのか。
「仕事が忙しくって…」
と苦笑する姿を鵜呑みにして、
「実加さんみたいに、話しやすい女性は初めてですよ」
なんて言葉に有頂天になって。
初対面から、デートを三回。
茹だるような夏の熱い日に、
「俺と結婚してください」
とプロポーズされて、即了承してしまった。
少しでも躊躇う様子があれば、彼が直ぐに次の女性を探すだろう、と焦ったのもある。
この機会を逃したら、このような好条件の相手からまた求婚されるか、判らない。
少しずつ、女性が結婚、出産後も仕事をする流れが出来始めた中ではあったけれど、私のいた会社では制度があるだけで、育休どころか産休すら実際には取れなかった。
当初は妊娠するまで続けるつもりだった仕事を、結婚と同時に辞めたのは、会社から「いつ辞める事になるか判らない人間は、迷惑だ」と言われたせいもあるけれど、夫がそう望んだからだった。
「実加は、俺の奥さんなんだからさ。家の事を、やって欲しいんだよね」
その言葉を、頼られている、と何故思ってしまったのか。
夫は、家の事を何一つ出来ない人だった。
結婚前、彼の自宅マンションを訪れた際、清掃もされていたし、整頓もされていたから、綺麗好きな人なのだろう、と思っていたら、何て事はない。
合鍵を持つ義母が、通って家事をしていただけだった。
結婚後は、その仕事が私の担当になっただけ。
最初のうちは、頼ってくれているのだ、と、嬉しかった。
結婚する時に友人達から、一流企業勤めで顔もいい夫を掴まえた、と羨ましがられたのも大きかった。
皆の前では格好をつけないとならないあの人が素を見せられるのは、私だけ、と、自惚れていた。
私がいないと駄目なんだわ、と、何処か優越感すら、抱いていた気もする。
現実が、全く見えていなかった。
――実際は。
どれだけ、私が夫の要望に応えようと、彼が私に感謝する事はなかった。
何故なら、それは妻として当然の、最低限の役目だから。
その上で、義母からの子供の催促だ。
よその夫婦関係が判らないから、夫婦生活の回数が多いのか少ないのかは判らないけれど、一年経っても妊娠の兆しがなければ、焦って来る。
どれだけ望んでも妊娠しない事に負い目を抱き、己の存在意義を示す為に、一層、夫の要望を完璧に叶えようと必死になった。
私の体に先天的な問題があるのだとしたらどうしよう…と、不安になって、こっそりと婦人科で検査もした。
身体的には何も問題ない、と言われて、じゃあ、何で出来ないんだ、と泣き崩れた私に、看護師が、
「今度は、旦那さんも連れて来てね」
と、同情めいた視線で言った事を忘れられない。
体の問題ではなく、ストレスが大きな要因になっている可能性もある事。
夫側に原因がある可能性もある事。
夫婦共に原因がなくとも、子を授からない夫婦は少なくない事。
けれど、もしも、何か原因が見つかれば、治療出来る可能性はある事。
結局…彼が病院に行った事はないのだけれど。
夫の協力が得られそうにない、と相談した所、性交後試験を受ける事を提案されて、夫に内緒で何度か試験を受けた。
結果は、夫に起因する結果が極めて悪く、このままでは自然妊娠は難しいとの所見だった。
でも、プライドが高く、妊娠はひとえに女性の問題と思い込んでいる彼が、その結果を受け入れるとは到底思えず…私に出来たのは、遠回しに離婚を求める事だけだった。
冷静に考えてみれば、私自身は、何を擲ってでも子供が欲しいわけではなかった。
一人っ子の私は小さな子供に馴染みがなかったし、どちらかと言うと子供の甲高い声を煩いと感じる方だったからだ。
ただ、『家族』と言う単位には、両親と子供が揃っているものだろう、と思い込んでいただけ。
だから、もしも夫が労わってくれていたのなら、義母の暴言の尻馬に乗らず、彼女を諫めてくれていたのなら、夫婦二人だけで暮らす事に何の問題もなかった。
でも、彼は、夫婦に子供二人(息子一人娘一人)と言う自分の理想を叶えなかった私の事を、何をしてもよい相手としか、思ってはくれなかった。
彼が私を選んだのは、私が、
「家事は好きな方です」
と言ったからで、はっきりと自己主張出来る程には自分に自信がなかったから。
その事実に漸く気づいたのは、彼の浮気に気づいた時だった。
彼は、愛情があるから私を選んだのでも、私と離婚しないのでもなかった。
幸せなど、欠片も感じられなかった結婚生活。
なのに、私はそこから一歩も動き出す事が出来なかった。
肉体的な暴力はなかったけれど、精神的な暴言や金銭的支配に、雁字搦めに囚われていた。
自分は価値のない人間で、私が何をしても何を言っても何も変わらないのだと、思い込まされていた。
両親や友人に、外面がいい夫や義母からの重圧を相談する事が出来なかったのは、私のちっぽけなプライドから。
見合い結婚だけれど仲睦まじかった両親の前で、自ら『選んだ』夫がハズレだったなんて、情けなくて言えなかった。
条件だけで言えば夫に一歩及ばないとしても、互いに想い合っている配偶者のいる友人達の前で、私は愛されてないだなんて、恥ずかしくて言えなかった。
もしも。
もしも、あのプロポーズされた二十五の夏に戻れたならば。
求婚を断って、何年掛かっても、もっといい人との出会いを探すのに。
彼が特に隠す様子もなく浮気するようになってからは、家にいる時間が短くなって、寧ろ、ホッとした。
一人でいる時間が長くなる程、少しずつ、ズタズタに引き裂かれていた心が回復していく。
夫がこれ見よがしに、自分が関係を持っている部下の女性を自宅に連れて来ても、にこやかに応対出来る。
彼女達の目が、
「美人でもないのにナチュラルメイクを勘違いした薄化粧とか、ありえないでしょ。折角、イケメン旦那に拾って貰ったのに、これじゃ引き留められないよね…子なしで暇な癖に、外で働きもしない、旦那の慈悲に縋るだけの無能な女って、可哀想」
と語っていても、凪いだ心で流す事が出来る。
貴方達は知らないでしょう?
勤めていた時と同じように化粧した私を、
「誰もお前の顔なんて見てないんだから、金の無駄だ。それとも、よその男に色目を使う気か?」
と、夫が怒鳴りつけた事を。
人間関係が断絶していく事を恐れ、
「午前中だけでいいから、パートに出たい」
と言った私に、
「俺に恥を掻かせる気か?俺の収入が足りないみたいに見えるだろう!みっともない事をするな!」
と、夫が激怒した事を。
私が専業主婦なのは、夫のプライドを守る為。
貴方達の目には、夫は、収入があり、お洒落のセンスが良く、何も出来ない子なしの妻を広い心で養っている人格者に見えているのかもしれない。
けれど、夫の金回りが良く見えるのは、生活費以外を小遣いとして全て使ってしまうからだ。
預金は、殆どない。
服は、私が毎シーズン用意して、毎日、全身コーディネートしている。
結婚前、彼はデートで会う度にセンスよくブランド物の服を着ていたけれど、その服を用意していたのは、義母だった。
結婚後は私の担当となり、天気予報に合わせて翌日に着る一式を揃え、並べておくまでが仕事。
夫の好みと体感温度を完全に把握するまでに、二年掛かった。
勿論、入浴時には、バスタオルと下着、パジャマを揃えて渡さなくてはならない。
やかんでお湯すら沸かせないのに、私には、主菜に加えて副菜を最低三品作る事を求める。
理由は、少しずつ、様々な味を楽しみたいから。
副菜であっても、同じおかずが連続すると叱られる。
その上、彼は会社の同僚を連絡なしに連れ帰って来るので、いつ、そうなってもいいように、常に多めの食材を冷蔵庫にストックしておかなければならない。
同時に、食材はきちんと使い切らなければ、無駄にした、と叱られる。
ごみ捨ての曜日すら覚えていないのに、窓が曇っているだとか、風呂場の鏡がくすんでいるだとか、細かい指摘が多い。
貴方達が、「センスいい」と大喜びしたプレゼントを選んだのは、私。
貴方達が、完璧な男だと思っているハリボテを作り上げているのは、私だ。
そんな昏い喜びだけで、十五年。
時間だけは誰の上にも平等で、何も成さないまま、四十になった私は今、初めて夫の側から離婚を申し立てられている。
薄々、そんな日が来る事は予想していた。
だから、家計費を節約してこっそりと貯めたお金を安全な場所に移し、慰謝料など頭にもないだろう夫から無一文で切り捨てられても、当座は困らないようにしてあった。
何しろ、夫には預金がない上に、彼は専業主婦である私にお金が必要であるとの考えはなく、『小遣い』ですら、貰った事はないのだから。
夫が私の美容院代をケチるから、長く伸ばしただけで手入れが十分に出来ていない髪には、白髪が混じっている。
肩から流れる艶のない髪を見ながら、極めて事務的に告げた。
「離婚には、応じます。荷物が多いので、そうですね、一週間は猶予を差し上げます。一週間以内に、必要な物をまとめて、どうぞ、出て行ってください。残された物は、不用品として勝手に処分しますので」
「…は?」
間の抜けた声は、夫のものだったのか、浅木さんのものだったのか。
「お前、何言って、」
「お忘れですか?このマンションは、亡くなった両親が私に残した物です。名義も私ですし、毎年の税金も、組合の管理費も、私個人の資産から払っています。…貴方が、私の持ち物なのだから自分で管理しろ、と言ったのでしょう?勿論、貴方から家賃を貰った事もありません」
十年前に交通事故で両親が亡くなった時、遺産に現金が殆どなかったのを、「貯めていたお金はマンションの頭金になったし、余裕があったら繰り上げ返済してたから」と説明したら、納得したのは貴方でしょう?
浅木さんが、隣の夫の顔を、まじまじと見つめた。
二十年前、然程便利ではなかった駅の目の前に建っているこのマンションを購入したのは、私の両親だ。
一人娘の私が、慣れない葬式の手配や遺産相続の手続き、事故相手の保険会社との対応で忙殺される中、それまでの賃貸住まいから引っ越しをしよう、と言ったのは夫だった。
駅前の再開発が進み、地価が一気に上がった頃で、両親の荷物の整理が済み次第、売却を考えていた私を鼻で嗤って、「タダで住める家があるのだから」と、引っ越しを強行した。
便利になった駅前のファミリー向け分譲マンションは、築年数が経っていても新築より広い事で人気があり、家に来る部下達に羨ましがられていた事を知っている。
…夫は、このマンションが私の物である事を忘れていたのだろう。
唖然とした顔で私を見た後、キッと睨みつけた。
「お前は一人なんだから、アパートでも何でも暮らせばいいだろう。俺は子供が生まれるんだぞ!」
「でしたら、買い取ってください。先月、不動産鑑定して頂いた時は、この金額でしたから」
す、と彼の前に書類を差し出すと、二人はギョッとした顔をした。
有名な不動産会社の名前が入った用紙に、次第に顔色が悪くなってくる。
勿論、夫に一括で購入出来る金額ではない事も、彼に住宅ローンと言う発想もない事も、私は誰よりも理解している。
彼等の脳内では、自分達に都合のいいストーリーが出来上がっていたに違いない。
便利な駅前のマンションで、邪魔な先妻を追い出しての薔薇色の新婚生活。
何の咎も負担もなく、そんな日々が迎えられると、何故、思えたのか。
「一週間以内に荷物を引き上げる、と約束してくれるのであれば、離婚届に記入もするし、弁護士を挟む事もしません。貴方と浅木さんの慰謝料も、諦めましょう。そちらにはいい条件だと思いますよ」
淡々とそう告げると、夫は、ぎり、と歯軋りした後、
「誰の入れ知恵だ」
と言った。
「入れ知恵、だなんて。私の交友関係を制限したのは、貴方でしょう。今では、友人と呼べる人など一人もいません。私の個人資産は、マンションの維持費用程度しか残っていないんです。そのお金だって底が見えて来て不安になったから、売却を考えて鑑定して貰ったんですよ?自由になるお金もないのに、一体、誰に相談出来たと言うのでしょう?」
「…」
聞いていた話と違うのだろう。
経済的DVを示唆する言葉に、浅木さんが顔を強張らせて、隣に座る夫を見る。
彼は、焦ったようにこちらを睨みつけ、がたり、と大きな音を立てて椅子から立ち上がると、浅木さんの腕を引いた。
「行くぞ」
「ぇ、でも、」
「こんな性悪と一緒にいると、子供によくない。俺だけで仕切り直す」
玄関に向かう二人を、じっと見送る。
このまま、素直に条件を飲んでくれればいい。
こつこつと貯めていたお金は、十五年、こき使われた分には到底足りないけれど、両親の保険金がまだあるから、何とかなる。
だから、心の平穏さえ取り戻せれば、それでいい。
夫が、私の人生にこれ以上関わって来なければ、それで、いい。
けれど。
こちらに背を向けていた夫は、腹いせに、なのだろう。
振り返って、盛大に嗤った。
「やはり、畑が悪かったんだな。お前の胎に問題があったんだ」
…あぁ。
何も言わずに、済ませるつもりだったのに。
先に仕掛けたのは、貴方だ。
「医学の進歩って、凄いですね」
見送る為に立ち上がって、思わず、うっすらと笑みを浮かべてしまった。
後で、塩を撒いておかなければ。
「……何?」
「自然妊娠は奇跡と言われた貴方が、子供を授かるのですから」
浅木さんの顔が、真っ青になった。
確信はないけれど、ある程度、予想はしている。
夫以外の男と、親し気に寄り添って歩いていた彼女。
その腹の子が本当に夫の子であると、一体、誰が確認したのだろう?
「…結愛?」
硬直した浅木さんの顔を、不審そうに夫が覗き込む。
「ゃ、ちが、これは、」
動揺する浅木さんを見て、夫の頭に、私の言葉の意味がじわじわと浸透したらしい。
「頑として病院に行ってくれなかった貴方が、不妊治療に前向きになったんですね。あれから十五年経ってるのだから、絶望的だったあの頃よりも、数値はもっと悪くなってる筈ですけど」
「おい、まさか、」
「ちが、ちがう、違う…!」
そして。
恐慌状態に陥った浅木さんは。
私に向けて、傍にあった花瓶を投げつけた。
「高価なのだから、破損でもした日には判ってるだろうな」と夫に繰り返し脅されていた私は、受け止めるべきなのか、避けるべきなのか、咄嗟の判断に迷う。
「おい…?!」
ガッ!
中途半端に身動きを止めたせいだろう。
肩に、勢いよく花瓶がぶつかった。
勢いに押されて足を滑らせ転倒し、リビングボードに激しく後頭部を打ち付ける。
痛みよりも、まず襲ったのは、熱さ。
目の前が、パッと真っ赤に染まったかと思うと、次の瞬間、かくり、と全身から力が抜けた。
「実加…?!」
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