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 ロトン公爵家の屋敷は、大きかった。
 領地は王都から馬車で二日程の位置にあるが、王都滞在用の屋敷も十分に大きい。
 ロトン公爵家は元々、何代か前の王弟が臣籍降下した際に起こされた家であり、度々、王家の血筋の者が降嫁している。
「よく来てくれた。先日は、我が弟が不躾な真似をした。申し訳ない」
 夜会に招かれたヴィンセントとシャーロットを出迎えたのは、フェルディナンドの長兄フィンリーだった。
 彼は次代公爵として名声を欲しいままにしている。
 フェルディナンドによく似た濃い金髪に、彼よりも色味の薄い碧眼を柔らかく細めたフィンリーは、ヴィンセントとシャーロットを丁重に迎え入れると、自ら、案内し始めた。
 その様子を見て、周囲の者が、ちらちらとこちらを窺いながら、ヴィンセント達の素性を探ろうとするのを感じる。
「いえ、誤解が無事に解けたようで、良かったです」
 にこやかに応えるヴィンセントは、シャーロットと出会った夜会で着ていた黒の夜会服を纏っている。
 首元のスカーフは、黒ではなく、ドレスシャツに合わせた白があしらわれていた。
 尾を隠す為に腰にたっぷりと生地を取った変則的なデザインのジャケットだが、特徴のある頭部のスカーフがないからか、彼が獣人貴族である事に気づいた者はいないらしい。
「ご夫人も、怖い思いをされたのでは?」
「ご心配、有難うございます」
 シャーロットもまた、あの日の夜会のドレスを、仕立て直して着ていた。
 少し筋肉がついて体がしっかりしてきたものの、どうにも体に合わなかったので、サイズを調整している。
 色も淡緑から深緋に染め直した。
 また、染めの段階で、ずっしりと重い原因であった小粒の宝石は全て外し、一部を控えめに付け直してある。
 殆ど夜会の会場にいなかったシャーロットのドレスのデザイン等、覚えている者はいないだろうから、これだけ変わっていれば問題ない筈だ。
 王都の夜会で目立たないようにするには、ある程度、周囲のドレスに馴染ませる努力も必要だ、とは、カーラの談による。
「バーナディス辺境伯」
 フィンリーの声は、僅かに大きかった。
 これは敢えて、周囲の者に聞かせる為の会話だ。
「色々と思う所はおありだろうが、今後、末永く誼を通じてくれると嬉しい」
「こちらこそ、よろしくお願い致します。妻を娶りましたし、私もナランとの国境にばかり、気を払っている場合ではないと思っております。今後は、ノーハンより外へ出て、交流する機会も増えますでしょう」
 周囲の人々は、各自の会話に専心しているように見せ掛けて、実際は、フィンリーとヴィンセントのやり取りに集中している。
 筆頭公爵家であるロトン家が、バーナディス辺境伯家と距離を詰めた、と判れば、バーナディス家に好意的になる貴族は少なくない。
 それは同時に、ヴィンセントの妻であるシャーロットに手出しする危険を冒す者が減る、と言う事でもある。
「ほぅ?ノーハンは、人族との交流をお望みか?」
 事前にフェルディナンドから聞いていただろうに、フィンリーは、意外そうな顔を作って問うた。
 それだけ、獣人族が閉鎖的な種族だと言う事だ。
「妻が人族である事もありますし、私自身、ご覧の通り、純血の獣人族ではありません。獣人族の誇りは勿論持っておりますが、人族の文化や知識にも魅力を感じております。互いの文化の良い所を交えていけば、よりよい環境を我が領民達に提供出来るのでは、と考えております」
「なるほど。確かに。言われてみれば、我々は獣人族の文化を知らん。マハトの一層の発展が見込めるだろうな」
 フィンリーの言葉に、ノーハン及び獣人族の持つものが、人族を圧倒する武力のみではない可能性に気が付いたらしい。
 目端の利く貴族は、早速、ノーハンに近づく算段を立てる。
 商売するにせよ、交流を始めるにせよ、早い方がより大きな利益を得られると言うものだろう。
「あぁ、もし、ご存知でしたら、ご紹介頂きたいのですが」
 さも、今、思い出した、と言うようにヴィンセントが口を開く。
「手始めに、我が領では他領の領兵の受け入れを考えております」
「他領の兵を?」
 親しい、もしくは利益を同じくする領主から預かるのでなければ、己に服従を誓っていない兵士がいる等、危険ではないのか。
 眉を顰めるフィンリーに、ヴィンセントは淡々と説明する。
「一個小隊単位でノーハンの領兵の訓練に参加して頂きます。彼等が自領に戻って我々の訓練内容を伝えていく事で、マハト全体の戦力向上が見込めますでしょう。これが、兵を預けて頂く領の利益」
「確かに、武力に名高いノーハンの訓練に参加出来るとなれば、望む者も多かろうな。だが、ノーハンにとっては割に合わないのではないか」
「いえ。訓練が身に着くまで、半年もしくは一年滞在して欲しいのですが、その間にナランから侵攻があった場合には、お預かりしている領兵にも出陣して頂きます」
「なるほど…兵力の増強か」
「マハトは、ナラン以外との関係は良好です。ノーハン以外の領兵は、実戦らしい実戦の経験がありません。我々は北の護りとして、ナランを押し返しておりますが、ナランの国主が代替わりしてからと言うもの、国境を侵される頻度が上がっております。いつ、ノーハン以外の地が戦地になるのか判らないのです。その際に、実戦経験のない兵しかいないのでは、話になりません」
「ふむ…いや、だが、それではやはり、ノーハンの益にはならなかろう?」
「小さい事を言うようですが、実戦をご存知ない方程、ナラン等、取るに足らないと仰る。であれば、現実の戦をご覧になって、我々がこれまで、何をしてきたのかを、知って頂きたいのですよ」
「あぁ」
 得心したように、フィンリーは頷くと破顔した。
「つまりは、ノーハンが、獣人族が、何をしているのかを、その目で見ろ、と」
「平たく言ってしまえば」
「ははっ」
 フィンリーの笑い声を聞いて、周囲の者達がぎょっとする。
 彼は、常に笑顔でありながらも、真に笑う事は少ない。
 それこそが高位貴族の証だと言われてしまう位に、己の内心を隠すのに長けた人物なのだ。
 そのフィンリーが、声を上げて笑うのだから、何事かと思われるのも当然だろう。
「確かに、ノーハンにとっては大きな益だろうな。我々人族が、獣人族に抱く勝手な印象を覆したい、と言う事か」
「さようで」
 ヴィンセントは、フィンリーの様子も気に掛けず、穏やかに微笑んでいるままだ。
「つまり、バーナディス辺境伯は、私にノーハンで訓練させたい兵のいる領主を紹介して欲しいのだな?」
 その声に、周囲の者の耳がぴく、と動いた。
 一騎当千と言われる獣人族の訓練だ。
 領兵強化の為に、是非とも参加させたい。
 だが、兵を預けて得られるのは利益だけではない。
 ナランとの戦線で、人命が失われる可能性もあるのだ。その危険性は、領内に出没する野盗退治や、大型の獣討伐の比ではないだろう。
 それを承知の上で、行ってこい、と己の兵に言い切るだけの自信がない。
「では、我が領の兵をまず、参加させて頂こう。よろしいか?」
「願ってもないお話です」
 気負った様子のないフィンリーに、話を盗み聞いていた者達から、感嘆の溜息が漏れる。
 そして、初めて、ノーハンは常に、人命が失われる危険性と隣り合わせにある事を意識した。
 ヴィンセントを見る周囲の眼差しに、獣人族に対する好奇や嫌悪ではない、ある種の感嘆が含まれ始めた事に、フィンリーはほくそ笑む。
 開かれたノーハンへの第一歩は、こうして、無事に好調に進んだのだった。
「フィンリー。紹介して頂けるかしら」
 その時だった。
 フィンリーに柔らかく声を掛けて来たのは、栗色の髪に濃緑の瞳を持つ美しい妙齢の女性だった。
「ケイトリン」
 フィンリーは、慣れた様子で女性の腰に腕を回すと、ヴィンセントとシャーロットに紹介する。
「紹介させて頂こう。妻のケイトリンだ。ケイトリン、こちらは、ノーハン領主バーナディス辺境伯ご夫妻だよ」
「はじめまして、ロトン夫人」
 ヴィンセントとシャーロットが揃って頭を下げると、ケイトリンは艶やかに微笑んだ。
「はじめまして。ノーハンの方にお会いするのは初めてですわ。バーナディス辺境伯様、貴方はフィンリーと殿方同士のお話をなさるのでしょう?その間、奥様とお話していても構わないかしら?」
「えぇ、勿論です」
 ケイトリンがシャーロットを誘導して、男性陣から離れると、さり気なく、そちらに足を向ける者達がいる。
 ケイトリンとフィンリーは、十年前に結婚して、一男一女を設けているが、それまでの彼女は、第六王女だった。
 もしも、一部の者達の推測通りにシャーロットが王女だとしたら、姉妹の久し振りの再会となる。
 シャーロットが王女である、との確信を持ちたい者達が、二人の動向に目を配っていると言う事だ。
 三歳で北の塔に住まう事になったシャーロットと、ケイトリンの接触等、なかったのだが、徹底してシャーロットと外部の接触が制限されていた事を、貴族達は知らない。
「いかかですか?ご不自由なく、お過ごしになれまして?」
 ケイトリンの質問に、シャーロットはにこりと微笑んだ。
「お気遣い有難うございます、ロトン夫人」
「まぁ、是非、ケイトリンと呼んで下さいませ」
「では、わたくしの事も、シャーロット、と」
「有難うございます、シャーロット様。ふふ、わたくし、新しくお友達が出来るのは、久し振りですわ」
 ケイトリンは、二人の子供がいるようには見えない位に若々しく美しい。
 彼女とシャーロットの面立ちに、似通ったものを見出す事は可能だろうが、ケイトリンが匂い立つ薔薇だとすれば、シャーロットは楚々とした菫。
 醸し出す雰囲気が全く違う。
「シャーロット様は、まだ、ご新婚なのでしたかしら?」
「えぇ。まだふた月経っておりません」
「まぁ!社交も貴族の妻の務めとは言え、ご結婚早々、お忙しいのね。わたくしも、慣れるまでは苦労致しました」
「ケイトリン様でも、ですか?わたくしは元々、貴族階級の生まれではございませんから、何から何まで手探りで…正直な所、夫について回るので精一杯なのです。よろしければ、貴族の妻としての心構えを、ご教授頂けませんでしょうか」
 貴族の生まれではない。
 この言葉に嘘はない。彼女は、王族なのだから。
 だが、そこに気づかずに、「何だ、やはり人違いか」とシャーロットへの興味を失う者達の何と多い事か。
 真摯なシャーロットの言葉に、ケイトリンはにこりと艶やかに微笑んだ。
「えぇ、わたくしでよろしければ。貴族の務めを果たそうとする熱意のある方は、大歓迎ですわ」
 ケイトリンが、筆頭公爵家たるロトン家嫡男に嫁いだのは、年回りの良さだけが理由ではない。
 その聡明さが、最も大きな要因だ。
 ロトン家は、王家の暗部を司る家。
 妻である彼女もまた、一翼を担っている。
「そうですわね…まず、一番に大切な事は、夫の生そうとしている事を、可能な限り、理解する、と言う事ですかしら」
「夫の生そうとしている事、ですか?」
「えぇ。それを知っているのと知らないのとでは、妻としての立ち回りが変わって参りますもの」
 ケイトリンの言葉に、シャーロットは大きく頷く。
 夫の計画を遂行するのに、協力的な人物と繋がりを作り、敵対する人物を懐柔する。
 それこそが、貴族の妻としての社交に必要なのだ。
 ただ、広く交流を図ればいいわけではない。
「これまで、社交の場に出た事がございませんから、荷が勝ちますが、一歩ずつ進んで参りたいと思います」
「社交界も、狐狸ばかりではございませんわ。それに、シャーロット様はもう、わたくしのお友達。こんなに愛らしい方に牙を向けるおバカさんは、いらっしゃらなくてよ」
 ケイトリンの言葉は、周囲で聞き耳を立てている者達への宣戦布告だ。
 シャーロットに害意を持って関われば、ケイトリンが、ロトン家が、容赦はしない、と暗に言っている。
「それとね、シャーロット様」
 悪戯っぽく目を煌めかせるケイトリンは、三十になるとは見えない程、若々しい。
「結婚生活の先輩として一言アドヴァイスさせて頂くなら、夫には常に、素直な気持ちを伝えるべき、と申し上げますわ」
 ケイトリンは微笑んでから、少し、寂しそうな表情を浮かべた。
「わたくし、姉妹が多いのです。物心ついた頃には姉達はお嫁に行っておりましたけれど、何かと顔を合わせる機会がありましたから、何か思う所があっても、『次にお会いした時に伝えればいいわ』と思っていたの。でも…末の妹には、伝える機会がないまま、天の花園へ渡ってしまって」
 シャーロットは神妙な顔をして、
「妹君は、花園で心穏やかにお過ごしの事でしょう」
と、弔意を述べる。
「有難う。わたくしも、そう願っているわ。でもね、妹に伝えたかった言葉を、届けられなかった後悔は残っているの。ですから、フィンリーにも子供達にも、悔いのないように、思った事は直ぐに伝えるようにしているのです。…妹にも、伝えたかったわ。『何があっても、貴女はわたくしの妹。愛しているわ』って」
 シャーロットは、ケイトリンの顔を思わず、まじまじと見てしまった。
 正直な所、三歳のシャーロットには、交流の少ない姉達の区別が余りついていなかった。
 第六王女であるケイトリンとは年が離れているし、記憶を辿っても、どの姉だったのか思い出せない。
 だが、シャーロットが生まれた時に既に大きかったケイトリンにとって、精霊の祝福を持っていた末の妹が特別な存在だったのは、容易に想像出来た。
「…妹君がそのお言葉を聞いたら、お喜びになる事でしょう」
「そうだと嬉しいわ。本当に、あの子はわたくし達にとって、特別だったから…」
 シャーロットは、微笑みを絶やさないようにしながら、胸の内で静かな感動に震えていた。
 これまで、辛かったのは、諦めたのは、自分ばかりだと思っていた。
 だが、姉達もまた、理不尽な状況に嘆き、苦しんでいたのだろう。
 十五年の月日は決して、短いものではない。
 けれど、同じように痛みを抱えてくれていた事を知って、申し訳ないと思うと同時に、嬉しいと感じる自分もいる。
「ね、シャーロット様。また是非、お話しましょうね」
「はい、ケイトリン様」
 お互いににこやかに微笑んで挨拶をした所で、それぞれの夫が隣に立った。
「ケイトリン。夫人との話は弾んだようだね?」
「えぇ。とても可愛らしい方で、わたくし、今後も仲良くして頂きたいわ」
「そうか。それは良かった。ノーハンは今後、人族との社交を活発に行っていくようだからね。慣れるまで、ロトン家が支援していこうと思うんだ」
「まぁ、それは素晴らしいお考えね」
 筆頭公爵家のロトン家が、バーナディス家の後ろ盾についた。
 この情報は、即座にマハト中の貴族に広まる事となったのだった。



 ロトン公爵家の夜会を終えた後、ヴィンセント達は宿で一泊してから、ノーハンへと戻った。
 行きと同じく、馬車でカーラと揺られながら、シャーロットは考える。
 夜会に招待したフェルディナンドの思惑通り、『シャーロット王女』を無理矢理にでも手に入れ、女婿として王位を狙う者は、もういないだろう。
 ノーハンの武力に、ロトン家の権威を見て、その上でシャーロットを狙う程の無鉄砲な者がいるとは思えない。
 だが、現状、ハビエルの後継者として突出して支持を集める者がいないのも、事実だ。
 王妹の息子であるフィンリーが、最も知名度も実力もある、とされているが、彼はロトン家を継ぐ事を第一義としている。
 どのような形で後継者争いに決着がつくのか、検討もつかない。
 塔で暮らしていた時には、まさか、このような形で自分が関わっていくとは思いもしなかった。
 シャーロットの身分を利用しようとする者がいる、と聞いても、現実味がなかったのだ。
 それが、今では。
 負の感情ならば、三歳の時に存分に向けられた。
 それが原因となって、シャーロットの胸には、大きな空洞がぽっかりと空いていた。
 けれど、塔を出て一年にも満たないこれまでの期間に受けた気遣いが、空洞を埋め尽くして、シャーロットの胸を温かいもので満たすようになった。
 不遇の十五年、ずっと傍にいてくれたカーラ。母のような愛情を向けてくれた、亡くなったローレ。
 倒れたシャーロットを救ってくれたマチルダ、ウィルヘルム。
 ノーハンの近習達。
 リンギット、フェルディナンド、フィンリー、ケイトリン。
 表立って支援出来ずとも、シャーロット自身の幸福を最後には考えてくれた両親。
 そして…誰よりも、ヴィンセント。
 彼がシャーロットに向けてくれる愛情が、心を満たし、溢れている。
 彼を想う愛情が、シャーロット自身もまた、癒している。
「ヴィンセント様」
 小休憩の時に、シャーロットはヴィンセントに声を掛けた。
「お話がしたいのですが、お時間を頂いてもよろしいですか?」
「ロッテ」
 ヴィンセントは、少し驚いたような顔を見せたが、笑顔で頷いた。
「勿論です。慌ただしくて、なかなか、ゆっくりお話しする時間もありませんでしたからね」
 ヴィンセントは、ロベルトを呼ぶと、
「カーラと二人乗りが出来るか?」
と、尋ねる。
「はい、大丈夫です。王宮を辞した後、実家に戻る時には二人乗りで行きましたから」
 カーラもまた頷いたのを見て、ヴィンセントはカーラと入れ替わりに馬車に乗った。
 生まれて初めて馬車に乗ったシャーロットが、政略結婚になりえない結婚でもいいのか、と、ヴィンセントに問うた時と同じく、二人きりだ。
 あの時は、向かい合わせに座っていたが、今回は違う。
 ヴィンセントはシャーロットの隣に座ると、少し考える顔をして、そっと膝の上にシャーロットを抱き上げる。
「ヴィンセント様?!」
「ずっと、触れられていませんでしたから。…お嫌ですか?」
「いや、な、わけでは…」
 ノーハンで正式に結婚を表明したとは言え、多忙だったのもあって、夫婦らしい触れ合いは一度もなかった。
 貴族の妻として、役目を果たせているのか、と、シャーロットは漠然と不安を感じていたのだが、突然に触れられると、心臓が壊れそうな程に震えてしまう。
 固い膝の温かい感触に、息が詰まった。
 だが、馴染んだヴィンセントの香りが鼻腔を擽った事で、シャーロットの体から反射的に力が抜ける。
 このヒトが好きだ、と、改めて想いが沸き起こり、シャーロットは、ケイトリンの言葉を思い出した。
 思った時に伝えなくては、いつか、後悔する。
「ヴィンセント様」
「はい、何でしょう」
「…大好きです」
 そっと、頭をヴィンセントの胸に凭せ掛けると、ヴィンセントの体が小さく震えた。
 ヴィンセントは、大きな掌でシャーロットの髪を撫でていたが、彼女を抱え込むようにして、艶やかなチョコレート色の髪に顔を埋める。
「私も、愛しています」
 万感の思いが籠った声だった。
 十五年、思い続けて、漸く腕の中にいる人。
 そのまま、頬を摺り寄せるように、すん、とシャーロットの甘い匂いを嗅ぐと、抱き締める腕に力が籠った。
「口づけても、いいですか」
 声に出して返事をするのは恥ずかしく、シャーロットは、小さく頷く事で返事に代える。
 つむじに、こめかみに、瞼の上に、頬に、軽く触れる口づけが繰り返される。
 恥ずかしさに赤く染まる頬を見て、ヴィンセントがくすりと笑った。
「もっと、触れても?」
 頷く事も声を出す事も出来ずに、潤んだ瞳で見上げると、小さな溜息が零される。
「いけませんよ、そんな顔を見せては。…離せなくなる」
 シャーロットの頤を、大きな手で掬い上げると、まずは、触れ合わせるだけの口づけを。
 詰めていた息を吐き出した所で、深い口づけを。
 角度を変えて貪られ、シャーロットは呼吸も出来ないままに翻弄された。
「…んっ」
 背筋に痺れのようなものが走って、シャーロットは思わず、ヴィンセントの厚い胸板に縋る。
 鼻にかかったような声が漏れた所で、ヴィンセントの満足そうな吐息が漏れた。
「愛しています、ロッテ。早く貴女と、本当の意味で家族になりたい」
 熱の籠った囁きに、シャーロットはぼんやりと視点の定まらないまま、小さく頷く。
 十五年の月日を、なかった事には出来ない。
 けれど、暗く淀んでいた感情は、胸の内から去っていた。
 今はただ、愛する人の隣で、前を見ていたい。
 シャーロットは、漸く、過去と決別する事が出来た。
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