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***
夜と朝の境のような深い深い青い空間に、シャーロットは立っていた。
天も地もなく、見渡す限りに濃淡のある青。
足元は固い床を踏まず、宙に浮いているようだが、落ちるのではないか、との不安はなかった。
空間を占める青は、寒々しくも見えるのに、シャーロットの全身は、ぽかぽかと温もっている。
暖炉の傍にいるような物理的な温かさではなく、体の内側から湧き出る温もりだ。
特に、左の手が温かいように感じて、左手を目の前に翳すと、きらきらと銀粉のような光が零れた。
「ここは…」
初めて見るが、何処か懐かしい場所だった。
シャーロットが知る場所は、少ない。
塔の中と、王宮の一部と、ノーハンの一部と。
だが、その何処にも、このような不可思議な空間はある筈もなかった。
「「「シャーロット」」」
少年のような、老人のような、妙齢の女性のような、年齢も性別も異なる複数の人々の声が、重なって聞こえる。
声の主の姿は、何処にも見えない。
だが、それに疑問を持つ事なく、シャーロットは町娘のようなワンピースの裾を摘まんで、最大限の敬意を払い、美しいお辞儀をした。
「お初にお目に掛かります。シャーロット・エイディアでございます」
新しい名を名乗ると、姿なき声は、ふ、と笑ったようだった。
空間が、ぶわり、と揺れる。
「「「偽りの名を騙るか」」」
「わたくしにとっては、偽りの名ではございません。この先を生きる名でございます」
「「「そうか。では、この先、王女に戻る気はないと、そう言う事だな」」」
「わたくしが王族として立ち続ける以上、人々は、恐れを捨て去る事は出来ませんでしょう」
もう、此処が何処なのか、シャーロットには判っていた。
此処は、人の世界と精霊の世界の挟間。
人の身であるシャーロットは、生身で精霊の世界へ渡る事は出来ない。
けれど、この空間は、精霊の気配で満ちている。
恐らくは、人として最も精霊に近づけるのが、この空間なのだろう。
そして、今、自分が何処にいるのかを理解すると同時に、今後、精霊の祝福とどう付き合っていけばいいのかも、理解出来ていた。
精霊は、気まぐれ。
精霊は、こちらの声に応えて祝福しているわけではない。
それは、ある意味で正解であり、間違いであった。
精霊は気まぐれではあるが、愛し子の声に耳を傾けないわけではない。
シャーロットの意思を無視した祝福を、与えるわけではないのだ。
シャーロットの喜びで蕾が花開くのは、花が咲く瞬間を見たシャーロットが喜んだ事を、覚えているからだ。
シャーロットの喜びに反応して、花が開くと思っていたが、より喜ばせたいと、精霊が張り切った結果だったのだ。
嬉し涙が宝石に変わるのも同様。涙が真珠に変わる姫の童話を読み聞かせられたシャーロットが、「ちれい!」と言った言葉を聞いていたからだ。真珠よりも、色とりどりの宝石の方が華やかで喜ぶだろう、と言う単純な発想に過ぎない。
シャーロットを誘拐しようとした犯人の腕を炭化させたのは、愛し子を怖がらせた仕返しだが、その後のシャーロットの恐慌具合に、やり過ぎた、と反省している。
父ハビエルの足を黄金に変えた件も、黄金を見て喜ぶ人々の反応を見覚えていたからだった。しかし、予想に反してシャーロットを保護者から引き離す事になってしまったのだから、二度としない。
精霊は、シャーロットをただ、喜ばせたいだけなのだから。
精霊と人の感性が異なるのだと言う事を、互いに理解していなかった故の齟齬だった。
つまりは、シャーロットが精霊と積極的に対話し、試行錯誤しながらでも、好ましくない事をきちんと伝えていく必要があったと言う事だ。
精霊の祝福を恐れ、目を逸らし続けた結果が、今なのだから。
今後、『精霊の祝福』が人々を傷つける事は、ない。
だが、シャーロットがそう理解していても、周囲の人々が受け止める事は困難だろう。
それについては、諦めがついている。
人と精霊の世界の挟間に存在する空間に足を踏み入れた事で、シャーロットは、これまで抱えていた疑問に対し、多くの解を得た。
もっと早くに精霊と対面していれば、シャーロットの環境は変わったのかもしれない。
だが、シャーロットが爆発させた負の感情が、人の世界に与える影響を最小限にする為に、咄嗟に精霊が取った行動がなければ、シャーロットは生涯、この空間に足を踏み入れる事はなかっただろう。
「「「シャーロット、そなたさえ望めば、我等が世界に迎え入れる準備はとうに出来ておる」」」
暗に、人の身で渡る事の出来ない精霊の世界に、来ないかと誘われる。
人と精霊は異なる存在。
愛し子と言えど、そう簡単に相見える存在ではない。
精霊は、愛し子を喜ばせる為に、ちょっとした干渉は行うが、自らが言葉を交わす事は許されていない。
愛し子であったが故、精霊はシャーロットの救済を望み、救いの手を差し伸べた。
だが、これは、精霊と人の関わりを大きく逸脱する行為だ。
――…棘の繭は、シャーロットを守る為に精霊が取った緊急避難措置だった。
シャーロットは、逃げたのだ。
思うに任せない現実から。
過去の凄惨な記憶から。
最愛の人に拒まれる恐怖から。
温かな揺り籠の中で、シャーロットは満たされていた。
時間が止まったような空間の中で、永遠に揺蕩っているのも、いいと思った。
ヴィンセントが、幸せになれるのならば。
どうせ、森と共に朽ちていくのを待つ身なのだから。
けれど…繰り返し繰り返し、シャーロットの名を呼ぶ声がする。
縋るような、慈しむような、愛おしむような。
それが誰の声なのか、考えなくても判っていた。
シャーロットの、一番大好きな人。
一番大切な人。
いつまでも、その声を聞いていたい、と微睡んでいたら、ほわほわとした熱に全身を包まれた。
じんわりと浸み込む温もりは、傷ついてボロボロになったシャーロットの心を、優しく癒してくれる。
少しずつ、自分の周囲に注意を払えるようになった時、シャーロットは、青い空間に一人で立っている事に気が付いたのだった。
「有難いお申し出ですが、わたくしには、人の世界で叶えたい願いがございます」
少し前までのシャーロットならば、精霊の誘惑に抗えなかったかもしれない。
自らに与えられた祝福が、周囲の人々を傷つける事を恐れ、望んだものに手を伸ばせない事に絶望して、精霊の手に縋ったかもしれない。
だが、シャーロットはもう知っている。
人の世界で、シャーロットただ一人を、心の底から望んでいるヒトがいる事を。
そして、そのヒトこそ、己の最愛である事を。
「「「では、シャーロット・エイディアよ」」」
姿の見えない声を、シャーロットが恐れる事はない。
この声の持ち主こそが、シャーロットが生まれてからずっと、見守ってくれた存在なのだから。
「「「そなたは、あの者を生涯の伴侶とし、添い遂げる事を望むか」」」
「はい」
「「「相分かった。ならば、」」」
最後の声は、聞こえなかった。
***
ゆっくりと、瞼を開けたシャーロットは、すっかり見慣れた天蓋にホッと息を吐いた。
傍らに熱を感じて左横に目を向けると、シャーロットの左手を握ったまま、眠りに落ちるヴィンセントの顔があった。
彼は、寝台に上半身を伏せるようにして、目を閉じている。
深く上下する胸が、彼の眠りが深い事を物語っていた。
シャーロットの手を握る両腕の隙間から、無精髭の生えた顔が覗いている。
落ち窪んだ眼窩と、濃い隈が、ヴィンセントの心労を言葉よりも雄弁に訴えかけて来た。
「…ヴィンセント様」
シャーロットの声は、自身で意図したよりも小さく掠れていた。
そっと上半身を起こし、ヴィンセントの眉間に深く刻まれた皺を、右手の親指でなぞる。
ヴィンセントの顔から、ふぅ、と力が抜けて、溝が僅かに浅くなった事を確認すると、シャーロットの頬に笑みが浮かんだ。
「本当に、仕様のない方…」
全てを一人で抱え込み、自分さえ身を引けば、全てが上手く行くと思っていたヒト。
けれど、それらは全て、シャーロットの幸せを望んだ為だと知って、嬉しくないわけがない。
ヴィンセントは、シャーロットが番なのだと言った。
もしも、番ではないのだとしても、シャーロット以外は望めないのだと言った。
それは、シャーロットも同じだ。
シャーロットには、番に感じる本能的な欲求はない。
けれど、ヴィンセント以外の異性と添いたいとは、思えなかった。
政略結婚なのだから、と、言い聞かせる時期は過ぎた。
これからは、如何にして、彼の隣に立ち続けるのかを考えなくては。
起こした体を伸ばして、伏せたままのヴィンセントの頭に、軽く口づけると、思っていた通り、柔らかな髪の感触が触れた。
全ての記憶を取り戻したシャーロットは、あの三歳のお披露目パーティでヴィンセントと交わした会話も覚えている。
にこやかに、けれど緊張しながら、シャーロットの手を引いてくれたヴィンセント。
途中で眠気に負けて、足取りが覚束なくなったシャーロットを、自然に抱き上げたヴィンセント。
「おにいちゃんは、くましゃんとおんなしね」
そう、ウトウトとしながらも告げると、いっそあどけないと言える位に無防備な顔で破顔したヴィンセント。
その笑顔と、しっかりと体を抱き締めてくれた熱が、これまでのシャーロットの心の支えだったのだと、今ならよく判る。
「ヴィンセント様」
小さく名を呼ぶと、睫毛がふるふると震えた。
「ヴィンセント様」
ハッとしたように目を見開き、がばりと体を起こす。
「ロッテ…!」
ヴィンセントは、勢いよくシャーロットを抱き締めようとして、恐る恐る、と言った様子で顔色を窺った。
「貴女を、この腕に抱く許可を、頂けますか?」
ヴィンセントは、忘れたわけではない。
今回の件は、ヴィンセントがシャーロットの気持ちを考慮しなかった事で起きたのだから。
「勿論です、ヴィンセント様」
シャーロットが微笑み、迎え入れるように両腕を広げると、ヴィンセントは泣きそうに、くしゃりと顔を歪ませた。
そして、大きな体躯に見合わない慎重さで、おずおずと手を差し伸べ、シャーロットの肩口に額を押し付けて、しがみつくように抱擁する。
「良かった…このまま、精霊の元に連れ去られてしまうのではないかと…」
耳元に、ヴィンセントの低く掠れた声が落とされて、シャーロットは軽く首を竦めた。
「もう少しで、あの方々は、そうなさっていた事でしょう」
「!まさか、」
「ですが、私の意思は、きちんとお伝えする事が出来ました」
震えるヴィンセントの頭を、子供にするようにゆっくりと撫でる。
柔らかな髪が指の間を通る感触が心地良くて、何度も何度も梳いた。
「ヴィンセント様」
「…はい」
「私達は、離れていた時間が長過ぎました。お互いに気持ちを言葉に出さず、勝手な想像をして、相手の気持ちを慮っているつもりで、傷つけていました」
「はい…」
「ですので、これからは、小さな事でもきちんと、伝える事に致しましょう」
「はい」
「私を、貴方の妻にして下さいますか?」
落ち着いたシャーロットの声に、ヴィンセントの目が見開かれ、その鼈甲色の瞳から、堪えきれない涙が溢れる。
「…勿論です。私の方から、言わせて下さい。シャーロット、愛しています。私と共に、この先の人生を歩んで下さい」
死が、二人を分かつまで。
シャーロットの耳に、そう言って笑う精霊の声が聞こえた気がした。
***
シャーロットが目覚めたと言う情報は、瞬く間に領主館を巡った。
湯浴みの準備が整ったと呼びに来たカーラに、シャーロットは驚く。
「カーラ…!もう戻って来てくれたの?」
「申し訳ございません、姫様。姫様が最もお辛い時期に、お側を離れてしまいました」
「いいえ。…今となっては、必要な経験だったのだと思うわ」
湯浴みの手伝いをしようとするカーラを、祝福を恐れて引き留める必要はもうない。
王宮を辞したのですから、私は私の望むように姫様にお仕えします!と、気合十分に意気込んでいたカーラの指先が、長年の習慣からか、僅かに戸惑いに揺れるのを見て、シャーロットは静かに告げる。
「精霊の祝福がどのようなものなのか、判ったの。彼等が貴女を傷つける事はないわ」
「姫様…!」
息を飲んだカーラは、それからは、これまでの鬱屈を晴らすようにきびきびと行動した。
ずっと一人で身の回りの事をしていたから、面映ゆくはあるが、嬉しそうにしているカーラの手を断る事が出来なかった。
「さぁ、姫様。出来ましたよ」
持参したワンピースの中でも、一番色が明るく華やかなものを着せられ、髪も丁寧に結い上げられたシャーロットは、戸惑いながら、カーラを振り返る。
「カーラ?この後、何か、あったかしら?」
「えぇ、ございますよ」
カーラはにこにこと上機嫌ながら、それ以上、語るつもりはないようで、促されるままにシャーロットは応接間に足を運んだ。
「シャーロット様をお連れしました」
カーラが声を掛けると、ヘンリクが扉を開く。
ヴィンセントに、妻にして欲しいとねだったはいいが、ヘンリクが家令として二人の婚姻に反対していた事を思い出して一瞬立ち止まると、ヘンリクは、申し訳なさそうに眉を顰めた。
「シャーロット様。無事のお目覚め、何よりでございます。一先ず、どうぞ、お入りください」
これまで、『お嬢様』と呼んでいたヘンリクに、名で呼ばれた事に戸惑いながら応接間に入ったシャーロットは、驚いて目を見開く。
広い応接間に、領主館の主だった人々が集まっていたからだ。
部屋の中央に、髪を後ろに流し、髭をあたってさっぱりとしたヴィンセントが立っているのを見て、誘われるように彼の元に歩み寄る。
ヴィンセントは、普段よりも上等な白いシャツと、ぴったりとした濃茶のトラウザーズを身に着けていた。
「ヴィンセント様…これは、何事ですか?」
「此処にいる者達を証人として、誓いを立てようと思います」
ヴィンセントはそう言うと、おもむろに片膝をついて、シャーロットを見上げる。
「シャーロット・エイディア嬢。ヴィンセント・バーナディスが愛を乞います。生涯唯一人の伴侶として、いついかなる時も、愛し続ける権利を、頂けますか」
シャーロットは、僅かに見下ろす位置にあるヴィンセントの美しい鼈甲色の瞳を、魅入られたように見つめ返した。
随分と、遠回りをした気がする。
互いの気持ちはずっと、共に未来に歩みたい、と決まっていたのに、立場や取り巻く環境の為に、そうと告げられずにいた。
だが、漸く、本当の意味での出発点に立てたと言う事だろう。
「はい…」
シャーロットが、ふわふわと浮き立つ気持ちで答えると、ヴィンセントはシャーロットの右手を壊れ物に触れるかのように掬い取る。
「シャーロット…ロッテ。愛しています」
そして、指先に軽く口づけた。
わっ、と、見守っていた領主館の人々から歓声が上がる。
拍手と共に温かな声を掛けられて、シャーロットは頬を染めた。
「本当に…よろしいのですか」
立ち上がったヴィンセントに、小さく尋ねる。
彼は、喜びを隠そうともしない熱い視線でシャーロットを見ると、微笑んだ。
「問題が皆無と言うわけではありません。ですが、貴女を失うよりも大きな問題はありませんから」
そのまま、シャーロットの肩を抱き寄せるヴィンセントの元に、ウィルヘルムとヘンリクが歩み寄る。
「兄さん、シャーロット」
ウィルヘルムが、何処かホッとしたような顔で呼ぶと、ヘンリクが改めて深く、シャーロットに頭を下げた。
「シャーロット様が愛し子であると知らなかったとは言え、このように大きな問題となりました事を、深くお詫び申し上げます」
「いえ、ヘンリクさんには、バーナディス家の家令として、負わねばならない義務がございましたでしょうから」
ちらり、とヴィンセントを見ると、彼は苦笑して、シャーロットに頷きかける。
「視野狭窄になっていたのは、事実ですね」
「まぁ、でも、解決策はあるし、シャーロットは気にしねぇで、兄さんと幸せになる事だけ、考えてりゃいい」
ウィルヘルムの言葉に、シャーロットは首を傾げた。
「解決策?」
「あぁ。ヘンリクや他の皆が心配してるのは、バーナディス家、辺境伯、と言う看板を背負う事になる当主に、他の獣人族を従えるだけの能力がない事だ。純血だって個人差が大きいのに、人族の血が入るって事は、益々、厳しい目で見られる、って事だからな」
ウィルヘルムはそこで、言葉を一度切る。
「だけどさ、当主としてノーハンの民を率いるのが難しいなら、出来るヤツがやればいい」
「それが、解決策?」
「あぁ。シャーロットは何も心配する必要はねぇよ。いざとなったら、俺がいるから」
シャーロットは、出会った時よりも頼りがいのある、しっかりと自分の足で立ち始めたウィルヘルムを見て、目を細めた。
彼の両腕についた傷を見て、申し訳なさそうに眉を顰めてから、微笑みかける。
「凄いわ、ウィル。とっても頼もしいのね」
「だろ?兄さんよりも頼りになると思ったら、今からでも乗り換えていいんだぜ?」
冗談めかして笑いながら言うウィルヘルムの遠回しな告白に、シャーロットは気づかず、笑い返す。
「あら、それは難しいかしら。だって、私は、ヴィンセント様を一番頼りにしているのだもの」
「ま、収まるべき所に収まったって事だよな」
肩を竦めるウィルヘルムの頭を、わしわしと、ヴィンセントの大きな手がかき回した。
弟の失恋に気がついてはいるが、彼の心を知りながら利用しようとした己が、慰めていい立場ではないのは、よく理解している。
「頼りにしてるぞ、ウィルヘルム」
「兄さんも、これに懲りて、勝手に一人で暴走すんなよ」
「あぁ、そうだな」
しみじみと頷くヴィンセントに、シャーロットは、はにかんだように笑い掛ける。
「ヴィンセント様。私は、十五年前の事も、すっかり思い出したのです。…三歳の私の初恋は、ヴィンセント様だったのですよ」
思い掛けない告白に、ヴィンセントは一瞬、息を止め、シャーロットの小さな肩に両手を掛けて、自分の方を向かせた。
「それは、本当ですか」
「はい。幼い私に対して、おざなりではなく丁寧に接して下さった大きな『くまさん』が、ずっと、私の心の支えだったのですから」
ヴィンセントは、一杯になった胸の内を言葉に出来ないまま、シャーロットの細い腰を大きな両手で抱き寄せる。
「ヴィンセント様?」
「…私にとっても、輝く笑顔の小さな貴女が、ずっと心の支えだったのですよ」
微笑み合う二人を見て、ヘンリクは、発言の許可を求めて手を挙げた。
「御屋形様」
「何だ」
「領主館の者は、皆、御屋形様とシャーロット様のご結婚に賛同致します。このまま、正規の手続きに則って、書面を整えましょう」
何の書面なのか気づいたシャーロットが、頬を染める。
つまりは、そう言う事だ。
あの言葉は、求婚ではなく、結婚の誓いなのだ。
そもそも、婚約者としてノーハン入りしたのだから、この時点で婚姻を結ぶ事に、何の問題もない。
「しかし、領民に触れを出すのは時期尚早かと。つきましては…少々、事前工作をさせて頂けたら、と」
「どう言う意味だ?」
「シャーロット様が愛し子である事を、前面に押し出すのは得策ではございません。いずれは知れるかもしれませんが、一先ず、秘しておかれた方がよろしいでしょう。代わりに、御屋形様とシャーロット様が、かつて、ご面識があり、お互いに惹かれつつも、種族の壁に妨げられて想いを伝えられなかった事、一度はすれ違った道が長い年月の末に再び相見えた事を、それとなく匂わせます。その上で、ピチュアの収束にシャーロット様が一役お買いになった事を付け加えれば、心証は大きく変わる事でしょう。ピチュアの一件はこれまで、箝口令を敷いておりましたから、十分な衝撃となる筈です」
事実ではあるが、伝え方次第で捉え方は大きく異なる。
人族も獣人族も、悲恋だとか純愛だとか言ったキーワードに弱いのだ。
勝手にあれこれを推測して、盛り上がってくれるに違いない。
「そうですね、これから一週間、領兵には休暇を与え、地元に帰って貰いましょう。そこで、カーシャでの戦と合わせて、ピチュアの脅威、御屋形様の恋のお話を、触れ回って貰いましょうか」
ヘンリクの言葉に、この場にいる近習達がニヤリと笑う。
領兵は、武芸で持って採用されているが、その中でもヴィンセントの近習に取り上げられるような者は、このような裏工作にも長けている。
「御屋形様ぁともかく、お嬢様の為なら、一肌脱ぎまさぁ」
「蛇族は、純愛に弱いんですよ。絶対、食いつきますから、俺も頑張ります。お嬢様の為ですからね。御屋形様はともかく」
ジェラルドとコリンの言葉に、笑いが起きた。
「…何故、俺はともかく、なんだ」
「そらぁ…御屋形様ぁ、お嬢様を泣かせなすったからなぁ」
「あんだけメロメロで、諦められると思う御屋形様が不思議です」
む、と、口を噤んだヴィンセントに、ヘンリクは、「もう一点」と付け加える。
「フェルディナンド・ロトン卿が、いつ、ノーハンに気が付かれるか判りません。取り敢えずは、領兵の半数を一週間、地元に帰し、その時点で時間的猶予がありそうならば、残り半数を交替で帰しましょう」
「ロトン卿の横槍が入る前に、領民に俺の結婚を認めさせると言う事だな」
「はい」
「私は、何をすればよろしいですか」
シャーロットが質問すると、ヴィンセントが少し考えて答える。
「ロトン卿が、どのような目的でロッテに接触しようとしているのか不明ですので、現時点では何も。ですが…恐らくは、獣人族の瑕疵を言い立てて、ロッテを己の手に入れようとなさるでしょう」
「私の意思は…」
「確認なさらないでしょうね、残念ながら。ロトン卿に限った事ではありませんが、人族の社会において、女性の、特に結婚に関する意思は、軽んじられやすいのですよ」
シャーロットは、カーラから聞いた話を思い出して黙り込んだ。
フェルディナンドはロトン公爵家の生まれだが、三男の為、公爵位は嫡男の長男が継ぐ。
恐らく、公爵位を継げないフェルディナンドは、シャーロットの王女と言う立場を足掛かりにして、王位を狙いたいのだ。
公的には病死した事になっているシャーロットの立場が、どのように利用出来るものなのか不明なものの、本当は亡くなっていないのに、亡くなったと嘘の申告をした、と言う罪で、ハビエルを王位から引きずり下ろしたいのかもしれない。
何しろ、シャーロットはただの王女ではない。
精霊の祝福を受けている、『呪われた』王女だ。
野放しにされては危険だ、と言う論調で責めるつもりだろう。
「…承知致しました。いざと言う時には、精霊の皆様に、お手伝いを頂いても?」
「ロッテにとって、負担にならないのでしたら」
「大丈夫です。精霊の祝福について、今の私は、何も恐れておりません」
シャーロットの目に力強い光を見て、ヴィンセントは眩しそうに目を細めた。
棘の繭は、ヴィンセントにとって身の凍えるような恐怖だったが、シャーロットにとっては、長年の不安が解消される一助になった事は明らかだ。
シャーロットは強い、と、改めて思う。
そして、その強さを心から尊敬する。
「では、領兵の半数は、今この時より、一週間の休暇とする。先程の、ヘンリクの言葉を覚えているな?やり過ぎない程度に人々の耳に入れて欲しい」
「はいっ」
「ピチュアの苦しみから救って頂いたんですから、しっかり仕事しますよ!」
夜と朝の境のような深い深い青い空間に、シャーロットは立っていた。
天も地もなく、見渡す限りに濃淡のある青。
足元は固い床を踏まず、宙に浮いているようだが、落ちるのではないか、との不安はなかった。
空間を占める青は、寒々しくも見えるのに、シャーロットの全身は、ぽかぽかと温もっている。
暖炉の傍にいるような物理的な温かさではなく、体の内側から湧き出る温もりだ。
特に、左の手が温かいように感じて、左手を目の前に翳すと、きらきらと銀粉のような光が零れた。
「ここは…」
初めて見るが、何処か懐かしい場所だった。
シャーロットが知る場所は、少ない。
塔の中と、王宮の一部と、ノーハンの一部と。
だが、その何処にも、このような不可思議な空間はある筈もなかった。
「「「シャーロット」」」
少年のような、老人のような、妙齢の女性のような、年齢も性別も異なる複数の人々の声が、重なって聞こえる。
声の主の姿は、何処にも見えない。
だが、それに疑問を持つ事なく、シャーロットは町娘のようなワンピースの裾を摘まんで、最大限の敬意を払い、美しいお辞儀をした。
「お初にお目に掛かります。シャーロット・エイディアでございます」
新しい名を名乗ると、姿なき声は、ふ、と笑ったようだった。
空間が、ぶわり、と揺れる。
「「「偽りの名を騙るか」」」
「わたくしにとっては、偽りの名ではございません。この先を生きる名でございます」
「「「そうか。では、この先、王女に戻る気はないと、そう言う事だな」」」
「わたくしが王族として立ち続ける以上、人々は、恐れを捨て去る事は出来ませんでしょう」
もう、此処が何処なのか、シャーロットには判っていた。
此処は、人の世界と精霊の世界の挟間。
人の身であるシャーロットは、生身で精霊の世界へ渡る事は出来ない。
けれど、この空間は、精霊の気配で満ちている。
恐らくは、人として最も精霊に近づけるのが、この空間なのだろう。
そして、今、自分が何処にいるのかを理解すると同時に、今後、精霊の祝福とどう付き合っていけばいいのかも、理解出来ていた。
精霊は、気まぐれ。
精霊は、こちらの声に応えて祝福しているわけではない。
それは、ある意味で正解であり、間違いであった。
精霊は気まぐれではあるが、愛し子の声に耳を傾けないわけではない。
シャーロットの意思を無視した祝福を、与えるわけではないのだ。
シャーロットの喜びで蕾が花開くのは、花が咲く瞬間を見たシャーロットが喜んだ事を、覚えているからだ。
シャーロットの喜びに反応して、花が開くと思っていたが、より喜ばせたいと、精霊が張り切った結果だったのだ。
嬉し涙が宝石に変わるのも同様。涙が真珠に変わる姫の童話を読み聞かせられたシャーロットが、「ちれい!」と言った言葉を聞いていたからだ。真珠よりも、色とりどりの宝石の方が華やかで喜ぶだろう、と言う単純な発想に過ぎない。
シャーロットを誘拐しようとした犯人の腕を炭化させたのは、愛し子を怖がらせた仕返しだが、その後のシャーロットの恐慌具合に、やり過ぎた、と反省している。
父ハビエルの足を黄金に変えた件も、黄金を見て喜ぶ人々の反応を見覚えていたからだった。しかし、予想に反してシャーロットを保護者から引き離す事になってしまったのだから、二度としない。
精霊は、シャーロットをただ、喜ばせたいだけなのだから。
精霊と人の感性が異なるのだと言う事を、互いに理解していなかった故の齟齬だった。
つまりは、シャーロットが精霊と積極的に対話し、試行錯誤しながらでも、好ましくない事をきちんと伝えていく必要があったと言う事だ。
精霊の祝福を恐れ、目を逸らし続けた結果が、今なのだから。
今後、『精霊の祝福』が人々を傷つける事は、ない。
だが、シャーロットがそう理解していても、周囲の人々が受け止める事は困難だろう。
それについては、諦めがついている。
人と精霊の世界の挟間に存在する空間に足を踏み入れた事で、シャーロットは、これまで抱えていた疑問に対し、多くの解を得た。
もっと早くに精霊と対面していれば、シャーロットの環境は変わったのかもしれない。
だが、シャーロットが爆発させた負の感情が、人の世界に与える影響を最小限にする為に、咄嗟に精霊が取った行動がなければ、シャーロットは生涯、この空間に足を踏み入れる事はなかっただろう。
「「「シャーロット、そなたさえ望めば、我等が世界に迎え入れる準備はとうに出来ておる」」」
暗に、人の身で渡る事の出来ない精霊の世界に、来ないかと誘われる。
人と精霊は異なる存在。
愛し子と言えど、そう簡単に相見える存在ではない。
精霊は、愛し子を喜ばせる為に、ちょっとした干渉は行うが、自らが言葉を交わす事は許されていない。
愛し子であったが故、精霊はシャーロットの救済を望み、救いの手を差し伸べた。
だが、これは、精霊と人の関わりを大きく逸脱する行為だ。
――…棘の繭は、シャーロットを守る為に精霊が取った緊急避難措置だった。
シャーロットは、逃げたのだ。
思うに任せない現実から。
過去の凄惨な記憶から。
最愛の人に拒まれる恐怖から。
温かな揺り籠の中で、シャーロットは満たされていた。
時間が止まったような空間の中で、永遠に揺蕩っているのも、いいと思った。
ヴィンセントが、幸せになれるのならば。
どうせ、森と共に朽ちていくのを待つ身なのだから。
けれど…繰り返し繰り返し、シャーロットの名を呼ぶ声がする。
縋るような、慈しむような、愛おしむような。
それが誰の声なのか、考えなくても判っていた。
シャーロットの、一番大好きな人。
一番大切な人。
いつまでも、その声を聞いていたい、と微睡んでいたら、ほわほわとした熱に全身を包まれた。
じんわりと浸み込む温もりは、傷ついてボロボロになったシャーロットの心を、優しく癒してくれる。
少しずつ、自分の周囲に注意を払えるようになった時、シャーロットは、青い空間に一人で立っている事に気が付いたのだった。
「有難いお申し出ですが、わたくしには、人の世界で叶えたい願いがございます」
少し前までのシャーロットならば、精霊の誘惑に抗えなかったかもしれない。
自らに与えられた祝福が、周囲の人々を傷つける事を恐れ、望んだものに手を伸ばせない事に絶望して、精霊の手に縋ったかもしれない。
だが、シャーロットはもう知っている。
人の世界で、シャーロットただ一人を、心の底から望んでいるヒトがいる事を。
そして、そのヒトこそ、己の最愛である事を。
「「「では、シャーロット・エイディアよ」」」
姿の見えない声を、シャーロットが恐れる事はない。
この声の持ち主こそが、シャーロットが生まれてからずっと、見守ってくれた存在なのだから。
「「「そなたは、あの者を生涯の伴侶とし、添い遂げる事を望むか」」」
「はい」
「「「相分かった。ならば、」」」
最後の声は、聞こえなかった。
***
ゆっくりと、瞼を開けたシャーロットは、すっかり見慣れた天蓋にホッと息を吐いた。
傍らに熱を感じて左横に目を向けると、シャーロットの左手を握ったまま、眠りに落ちるヴィンセントの顔があった。
彼は、寝台に上半身を伏せるようにして、目を閉じている。
深く上下する胸が、彼の眠りが深い事を物語っていた。
シャーロットの手を握る両腕の隙間から、無精髭の生えた顔が覗いている。
落ち窪んだ眼窩と、濃い隈が、ヴィンセントの心労を言葉よりも雄弁に訴えかけて来た。
「…ヴィンセント様」
シャーロットの声は、自身で意図したよりも小さく掠れていた。
そっと上半身を起こし、ヴィンセントの眉間に深く刻まれた皺を、右手の親指でなぞる。
ヴィンセントの顔から、ふぅ、と力が抜けて、溝が僅かに浅くなった事を確認すると、シャーロットの頬に笑みが浮かんだ。
「本当に、仕様のない方…」
全てを一人で抱え込み、自分さえ身を引けば、全てが上手く行くと思っていたヒト。
けれど、それらは全て、シャーロットの幸せを望んだ為だと知って、嬉しくないわけがない。
ヴィンセントは、シャーロットが番なのだと言った。
もしも、番ではないのだとしても、シャーロット以外は望めないのだと言った。
それは、シャーロットも同じだ。
シャーロットには、番に感じる本能的な欲求はない。
けれど、ヴィンセント以外の異性と添いたいとは、思えなかった。
政略結婚なのだから、と、言い聞かせる時期は過ぎた。
これからは、如何にして、彼の隣に立ち続けるのかを考えなくては。
起こした体を伸ばして、伏せたままのヴィンセントの頭に、軽く口づけると、思っていた通り、柔らかな髪の感触が触れた。
全ての記憶を取り戻したシャーロットは、あの三歳のお披露目パーティでヴィンセントと交わした会話も覚えている。
にこやかに、けれど緊張しながら、シャーロットの手を引いてくれたヴィンセント。
途中で眠気に負けて、足取りが覚束なくなったシャーロットを、自然に抱き上げたヴィンセント。
「おにいちゃんは、くましゃんとおんなしね」
そう、ウトウトとしながらも告げると、いっそあどけないと言える位に無防備な顔で破顔したヴィンセント。
その笑顔と、しっかりと体を抱き締めてくれた熱が、これまでのシャーロットの心の支えだったのだと、今ならよく判る。
「ヴィンセント様」
小さく名を呼ぶと、睫毛がふるふると震えた。
「ヴィンセント様」
ハッとしたように目を見開き、がばりと体を起こす。
「ロッテ…!」
ヴィンセントは、勢いよくシャーロットを抱き締めようとして、恐る恐る、と言った様子で顔色を窺った。
「貴女を、この腕に抱く許可を、頂けますか?」
ヴィンセントは、忘れたわけではない。
今回の件は、ヴィンセントがシャーロットの気持ちを考慮しなかった事で起きたのだから。
「勿論です、ヴィンセント様」
シャーロットが微笑み、迎え入れるように両腕を広げると、ヴィンセントは泣きそうに、くしゃりと顔を歪ませた。
そして、大きな体躯に見合わない慎重さで、おずおずと手を差し伸べ、シャーロットの肩口に額を押し付けて、しがみつくように抱擁する。
「良かった…このまま、精霊の元に連れ去られてしまうのではないかと…」
耳元に、ヴィンセントの低く掠れた声が落とされて、シャーロットは軽く首を竦めた。
「もう少しで、あの方々は、そうなさっていた事でしょう」
「!まさか、」
「ですが、私の意思は、きちんとお伝えする事が出来ました」
震えるヴィンセントの頭を、子供にするようにゆっくりと撫でる。
柔らかな髪が指の間を通る感触が心地良くて、何度も何度も梳いた。
「ヴィンセント様」
「…はい」
「私達は、離れていた時間が長過ぎました。お互いに気持ちを言葉に出さず、勝手な想像をして、相手の気持ちを慮っているつもりで、傷つけていました」
「はい…」
「ですので、これからは、小さな事でもきちんと、伝える事に致しましょう」
「はい」
「私を、貴方の妻にして下さいますか?」
落ち着いたシャーロットの声に、ヴィンセントの目が見開かれ、その鼈甲色の瞳から、堪えきれない涙が溢れる。
「…勿論です。私の方から、言わせて下さい。シャーロット、愛しています。私と共に、この先の人生を歩んで下さい」
死が、二人を分かつまで。
シャーロットの耳に、そう言って笑う精霊の声が聞こえた気がした。
***
シャーロットが目覚めたと言う情報は、瞬く間に領主館を巡った。
湯浴みの準備が整ったと呼びに来たカーラに、シャーロットは驚く。
「カーラ…!もう戻って来てくれたの?」
「申し訳ございません、姫様。姫様が最もお辛い時期に、お側を離れてしまいました」
「いいえ。…今となっては、必要な経験だったのだと思うわ」
湯浴みの手伝いをしようとするカーラを、祝福を恐れて引き留める必要はもうない。
王宮を辞したのですから、私は私の望むように姫様にお仕えします!と、気合十分に意気込んでいたカーラの指先が、長年の習慣からか、僅かに戸惑いに揺れるのを見て、シャーロットは静かに告げる。
「精霊の祝福がどのようなものなのか、判ったの。彼等が貴女を傷つける事はないわ」
「姫様…!」
息を飲んだカーラは、それからは、これまでの鬱屈を晴らすようにきびきびと行動した。
ずっと一人で身の回りの事をしていたから、面映ゆくはあるが、嬉しそうにしているカーラの手を断る事が出来なかった。
「さぁ、姫様。出来ましたよ」
持参したワンピースの中でも、一番色が明るく華やかなものを着せられ、髪も丁寧に結い上げられたシャーロットは、戸惑いながら、カーラを振り返る。
「カーラ?この後、何か、あったかしら?」
「えぇ、ございますよ」
カーラはにこにこと上機嫌ながら、それ以上、語るつもりはないようで、促されるままにシャーロットは応接間に足を運んだ。
「シャーロット様をお連れしました」
カーラが声を掛けると、ヘンリクが扉を開く。
ヴィンセントに、妻にして欲しいとねだったはいいが、ヘンリクが家令として二人の婚姻に反対していた事を思い出して一瞬立ち止まると、ヘンリクは、申し訳なさそうに眉を顰めた。
「シャーロット様。無事のお目覚め、何よりでございます。一先ず、どうぞ、お入りください」
これまで、『お嬢様』と呼んでいたヘンリクに、名で呼ばれた事に戸惑いながら応接間に入ったシャーロットは、驚いて目を見開く。
広い応接間に、領主館の主だった人々が集まっていたからだ。
部屋の中央に、髪を後ろに流し、髭をあたってさっぱりとしたヴィンセントが立っているのを見て、誘われるように彼の元に歩み寄る。
ヴィンセントは、普段よりも上等な白いシャツと、ぴったりとした濃茶のトラウザーズを身に着けていた。
「ヴィンセント様…これは、何事ですか?」
「此処にいる者達を証人として、誓いを立てようと思います」
ヴィンセントはそう言うと、おもむろに片膝をついて、シャーロットを見上げる。
「シャーロット・エイディア嬢。ヴィンセント・バーナディスが愛を乞います。生涯唯一人の伴侶として、いついかなる時も、愛し続ける権利を、頂けますか」
シャーロットは、僅かに見下ろす位置にあるヴィンセントの美しい鼈甲色の瞳を、魅入られたように見つめ返した。
随分と、遠回りをした気がする。
互いの気持ちはずっと、共に未来に歩みたい、と決まっていたのに、立場や取り巻く環境の為に、そうと告げられずにいた。
だが、漸く、本当の意味での出発点に立てたと言う事だろう。
「はい…」
シャーロットが、ふわふわと浮き立つ気持ちで答えると、ヴィンセントはシャーロットの右手を壊れ物に触れるかのように掬い取る。
「シャーロット…ロッテ。愛しています」
そして、指先に軽く口づけた。
わっ、と、見守っていた領主館の人々から歓声が上がる。
拍手と共に温かな声を掛けられて、シャーロットは頬を染めた。
「本当に…よろしいのですか」
立ち上がったヴィンセントに、小さく尋ねる。
彼は、喜びを隠そうともしない熱い視線でシャーロットを見ると、微笑んだ。
「問題が皆無と言うわけではありません。ですが、貴女を失うよりも大きな問題はありませんから」
そのまま、シャーロットの肩を抱き寄せるヴィンセントの元に、ウィルヘルムとヘンリクが歩み寄る。
「兄さん、シャーロット」
ウィルヘルムが、何処かホッとしたような顔で呼ぶと、ヘンリクが改めて深く、シャーロットに頭を下げた。
「シャーロット様が愛し子であると知らなかったとは言え、このように大きな問題となりました事を、深くお詫び申し上げます」
「いえ、ヘンリクさんには、バーナディス家の家令として、負わねばならない義務がございましたでしょうから」
ちらり、とヴィンセントを見ると、彼は苦笑して、シャーロットに頷きかける。
「視野狭窄になっていたのは、事実ですね」
「まぁ、でも、解決策はあるし、シャーロットは気にしねぇで、兄さんと幸せになる事だけ、考えてりゃいい」
ウィルヘルムの言葉に、シャーロットは首を傾げた。
「解決策?」
「あぁ。ヘンリクや他の皆が心配してるのは、バーナディス家、辺境伯、と言う看板を背負う事になる当主に、他の獣人族を従えるだけの能力がない事だ。純血だって個人差が大きいのに、人族の血が入るって事は、益々、厳しい目で見られる、って事だからな」
ウィルヘルムはそこで、言葉を一度切る。
「だけどさ、当主としてノーハンの民を率いるのが難しいなら、出来るヤツがやればいい」
「それが、解決策?」
「あぁ。シャーロットは何も心配する必要はねぇよ。いざとなったら、俺がいるから」
シャーロットは、出会った時よりも頼りがいのある、しっかりと自分の足で立ち始めたウィルヘルムを見て、目を細めた。
彼の両腕についた傷を見て、申し訳なさそうに眉を顰めてから、微笑みかける。
「凄いわ、ウィル。とっても頼もしいのね」
「だろ?兄さんよりも頼りになると思ったら、今からでも乗り換えていいんだぜ?」
冗談めかして笑いながら言うウィルヘルムの遠回しな告白に、シャーロットは気づかず、笑い返す。
「あら、それは難しいかしら。だって、私は、ヴィンセント様を一番頼りにしているのだもの」
「ま、収まるべき所に収まったって事だよな」
肩を竦めるウィルヘルムの頭を、わしわしと、ヴィンセントの大きな手がかき回した。
弟の失恋に気がついてはいるが、彼の心を知りながら利用しようとした己が、慰めていい立場ではないのは、よく理解している。
「頼りにしてるぞ、ウィルヘルム」
「兄さんも、これに懲りて、勝手に一人で暴走すんなよ」
「あぁ、そうだな」
しみじみと頷くヴィンセントに、シャーロットは、はにかんだように笑い掛ける。
「ヴィンセント様。私は、十五年前の事も、すっかり思い出したのです。…三歳の私の初恋は、ヴィンセント様だったのですよ」
思い掛けない告白に、ヴィンセントは一瞬、息を止め、シャーロットの小さな肩に両手を掛けて、自分の方を向かせた。
「それは、本当ですか」
「はい。幼い私に対して、おざなりではなく丁寧に接して下さった大きな『くまさん』が、ずっと、私の心の支えだったのですから」
ヴィンセントは、一杯になった胸の内を言葉に出来ないまま、シャーロットの細い腰を大きな両手で抱き寄せる。
「ヴィンセント様?」
「…私にとっても、輝く笑顔の小さな貴女が、ずっと心の支えだったのですよ」
微笑み合う二人を見て、ヘンリクは、発言の許可を求めて手を挙げた。
「御屋形様」
「何だ」
「領主館の者は、皆、御屋形様とシャーロット様のご結婚に賛同致します。このまま、正規の手続きに則って、書面を整えましょう」
何の書面なのか気づいたシャーロットが、頬を染める。
つまりは、そう言う事だ。
あの言葉は、求婚ではなく、結婚の誓いなのだ。
そもそも、婚約者としてノーハン入りしたのだから、この時点で婚姻を結ぶ事に、何の問題もない。
「しかし、領民に触れを出すのは時期尚早かと。つきましては…少々、事前工作をさせて頂けたら、と」
「どう言う意味だ?」
「シャーロット様が愛し子である事を、前面に押し出すのは得策ではございません。いずれは知れるかもしれませんが、一先ず、秘しておかれた方がよろしいでしょう。代わりに、御屋形様とシャーロット様が、かつて、ご面識があり、お互いに惹かれつつも、種族の壁に妨げられて想いを伝えられなかった事、一度はすれ違った道が長い年月の末に再び相見えた事を、それとなく匂わせます。その上で、ピチュアの収束にシャーロット様が一役お買いになった事を付け加えれば、心証は大きく変わる事でしょう。ピチュアの一件はこれまで、箝口令を敷いておりましたから、十分な衝撃となる筈です」
事実ではあるが、伝え方次第で捉え方は大きく異なる。
人族も獣人族も、悲恋だとか純愛だとか言ったキーワードに弱いのだ。
勝手にあれこれを推測して、盛り上がってくれるに違いない。
「そうですね、これから一週間、領兵には休暇を与え、地元に帰って貰いましょう。そこで、カーシャでの戦と合わせて、ピチュアの脅威、御屋形様の恋のお話を、触れ回って貰いましょうか」
ヘンリクの言葉に、この場にいる近習達がニヤリと笑う。
領兵は、武芸で持って採用されているが、その中でもヴィンセントの近習に取り上げられるような者は、このような裏工作にも長けている。
「御屋形様ぁともかく、お嬢様の為なら、一肌脱ぎまさぁ」
「蛇族は、純愛に弱いんですよ。絶対、食いつきますから、俺も頑張ります。お嬢様の為ですからね。御屋形様はともかく」
ジェラルドとコリンの言葉に、笑いが起きた。
「…何故、俺はともかく、なんだ」
「そらぁ…御屋形様ぁ、お嬢様を泣かせなすったからなぁ」
「あんだけメロメロで、諦められると思う御屋形様が不思議です」
む、と、口を噤んだヴィンセントに、ヘンリクは、「もう一点」と付け加える。
「フェルディナンド・ロトン卿が、いつ、ノーハンに気が付かれるか判りません。取り敢えずは、領兵の半数を一週間、地元に帰し、その時点で時間的猶予がありそうならば、残り半数を交替で帰しましょう」
「ロトン卿の横槍が入る前に、領民に俺の結婚を認めさせると言う事だな」
「はい」
「私は、何をすればよろしいですか」
シャーロットが質問すると、ヴィンセントが少し考えて答える。
「ロトン卿が、どのような目的でロッテに接触しようとしているのか不明ですので、現時点では何も。ですが…恐らくは、獣人族の瑕疵を言い立てて、ロッテを己の手に入れようとなさるでしょう」
「私の意思は…」
「確認なさらないでしょうね、残念ながら。ロトン卿に限った事ではありませんが、人族の社会において、女性の、特に結婚に関する意思は、軽んじられやすいのですよ」
シャーロットは、カーラから聞いた話を思い出して黙り込んだ。
フェルディナンドはロトン公爵家の生まれだが、三男の為、公爵位は嫡男の長男が継ぐ。
恐らく、公爵位を継げないフェルディナンドは、シャーロットの王女と言う立場を足掛かりにして、王位を狙いたいのだ。
公的には病死した事になっているシャーロットの立場が、どのように利用出来るものなのか不明なものの、本当は亡くなっていないのに、亡くなったと嘘の申告をした、と言う罪で、ハビエルを王位から引きずり下ろしたいのかもしれない。
何しろ、シャーロットはただの王女ではない。
精霊の祝福を受けている、『呪われた』王女だ。
野放しにされては危険だ、と言う論調で責めるつもりだろう。
「…承知致しました。いざと言う時には、精霊の皆様に、お手伝いを頂いても?」
「ロッテにとって、負担にならないのでしたら」
「大丈夫です。精霊の祝福について、今の私は、何も恐れておりません」
シャーロットの目に力強い光を見て、ヴィンセントは眩しそうに目を細めた。
棘の繭は、ヴィンセントにとって身の凍えるような恐怖だったが、シャーロットにとっては、長年の不安が解消される一助になった事は明らかだ。
シャーロットは強い、と、改めて思う。
そして、その強さを心から尊敬する。
「では、領兵の半数は、今この時より、一週間の休暇とする。先程の、ヘンリクの言葉を覚えているな?やり過ぎない程度に人々の耳に入れて欲しい」
「はいっ」
「ピチュアの苦しみから救って頂いたんですから、しっかり仕事しますよ!」
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