獣人辺境伯と精霊に祝福された王女

緋田鞠

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***

 久し振りに、幼い頃の夢を見た。
 シャーロットは、王家に生まれた姫だったから、両親と常に共に生活していたわけではない。
 公務に忙しい両親に代わって、シャーロットの養育は乳母のローレに任されており、両親とは一日に一度、挨拶出来ればいい方だった。
 ローレは愛情深い女性だったが、飽くまで彼女はシャーロットを主として接していたので、母の代わりではない。
 両親を恋しがって泣く幼いシャーロットに、母アナリーゼが与えたのが、焦げ茶色の毛皮を持つくまのぬいぐるみだった。
「シャーロット。可愛い私のロッテ。母様は、常に貴女の傍にいてあげる事は出来ないけれど、代わりにくまさんを父様と母様と思って、抱っこしてごらんなさい。くまさんが、父様と母様の代わりに、ロッテを抱き締めるから」
 シャーロットは、『くまさん』をとても可愛がって大事にした。
 寝る時はいつも一緒。
 お庭に散歩に行く時も、おやつを食べる時も、シャーロットの隣にはくまさんがいた。
 そして、あの日。
 精霊の祝福による事件が起きたあの日、深い心の傷を負ったシャーロットが抱き締めたのもまた、くまさんだった。
 あれから、シャーロットは成人し、表立って、『くまさん』を大切にしている所は見せていない。
 けれど、王都から持参したトランクの中には、パッチワークした生地で大事にくるまれているあの日の『くまさん』がいる。
 抱き締めて、頬ずりし、シャーロットの涙を数えきれない程に拭いて来た彼の毛皮は、「風呂」と言う名の洗濯を潜り抜け、幾度となく「手術」して綻びを繕われ、今では、当初の姿は見る影もない。
 知らない者であれば、それはただの毛の塊にしか見えないだろう。
(何故、ヴィンセント様がくまさんの事をご存知なのかしら…)
 ぼんやりと意識が浮上したシャーロットは、見覚えのある丘の形にはっとした。
 あれは、領主館の建つ丘だ。
 そんなに長く、寝ていたのか。
 シャーロットが全身で凭れていても、ヴィンセントは疲労を感じなかったらしい。
「よく眠れましたか?」
 身動ぎしたシャーロットに気が付いたヴィンセントが、柔らかく声を掛ける。
「はい…」
 寝起きの少し掠れた声で返事をして、シャーロットは背筋を伸ばした後、もう一度、ヴィンセントの胸に寄り添った。
「…シャーロット?」
「ヴィンセント様が…本当に、ここにいらっしゃるか確認したくて…」
 自分に都合のいい夢を見ているのではないか、と、不安になった。
 余りにも彼に会いたい気持ちが強過ぎて、白昼夢を見ているのではないか。
 彼を想う余りに、彼もまた、シャーロットを大切に想ってくれている、なんて、そんな、都合のいい夢を。
「ここにおります。シャーロット。貴女の傍に」
「カーシャは…もう、大丈夫なのですか」
「えぇ。元々、私達からナランに侵攻する気はありません。国境を侵した部隊を、国境線の向こうに追い返していたのですが、如何せん、あちらの人数が多く、きりがなくて。これまでになく諦めが悪いのを不審に思っていた所、ピチュアが発生しました。恐らく、ピチュアの流行を待っていたのだと思われます。あれは、人族には罹患しませんから」
「ハルムの雫は、お役に立ちましたか?」
「えぇ、勿論。ジンが戻って来た時点で、感染者は二十五人まで増えていたのですよ。あの薬がなければ、部隊の大半が臥せっていた事でしょう。…精霊に、頼んで下さったのですね?」
「自力では、見つける事が出来なくて…お願いしたら、応えてくれました」
 貴方を、守りたかったから。
 言葉にすると押しつけがましい気がして、シャーロットは口を噤む。
「ピチュアが終息したのを見て、ナランは部隊を撤退させました。計算が狂ったのでしょう。私達にとって、領土を守る為とは言え、得るもののない争いですから、片がついて良かったです」
「ですが…ナランが、完全に侵略を諦めたわけではないのですよね?」
「そうでしょうね。カーシャには、常に領兵が駐屯しています。ナランの様子には気を配っていますが…少しでも長く、平和な時が続いて欲しいと願っています」
 シャーロットは、頷く事で返事に代える。
 領主館への道を上っていくと、ずらりと表玄関の前に、使用人が並んでいるのが見えた。
 中央には、家令のヘンリクと、ヴィンセントの腹心であるロビン、ウィルヘルムが近習と呼んでいた王都からノーハンに同行した従者達が集まっている。
 端の方に、厨房のハンス、厩舎のテレンス、庭師のガレン、洗濯場のタシャ、メリ、テアの姿があるから、屋敷の使用人全員がいるのだと思われた。
 彼等の姿が見えた所で、ヴィンセントが一度、馬の足を止める。
「ヴィンセント様?」
「…シャーロット。ボンネットを取って頂いてもよろしいですか?」
「?はい」
 シャーロットが、顎の下で結んでいたリボンを解いてボンネットを脱ぐと、ヴィンセントは身を屈めて、シャーロットの耳元に顔を近づけた。
「獣人族は耳がいいので、このような形で失礼します」
「は、はい」
 囁き声と共に、耳に息が掛かって、シャーロットは小さく肩を竦める。
「…私は今、腹を立てています。先程までは、貴女に無事再会出来た事に、気分が高揚していました。けれど、領主館に戻り、彼等の顔を見て、沸々と怒りが湧き上がっています。このまま、近づいたら、自分を抑えられるか自信がない…」
「ヴィンセント様…」
 その言葉を証明するように、手綱を握るヴィンセントの手には力が入り、血管が浮いていた。
「同時に、自分自身にも、憤っています」
 シャーロットが、気遣うように、ヴィンセントの顔を振り仰ぐ。
「以前したお約束を、覚えていますか?」
「以前、ですか?どのお約束の事でしょう?」
「私が、必ず貴女を護る、と」
「えぇ、勿論。…とても、嬉しかったので」
「私は…早速、お約束を破ってしまいました。ウィルヘルムの言う通りです。私自身の手で、貴女をお守りしなくてはならなかった」
 領主館から、シャーロットが追い出された件だろう。
「ヴィンセント様が、悪いわけではありません」
「ですが、貴女をお守り出来なかったのは確かです。人族がノーハンの地で過ごす際の問題点を、私は知っていた。その上で、領主館であれば貴女は安全だと驕っていた。これは、私の失態です。同時に、私の信頼を裏切った彼等に対して、失望しています」
 ヴィンセントは、冷静な口調に努めているが、言葉通り、憤りを抑えられないのだろう。
 鼈甲色の瞳が、彼の怒りを表すように、常よりも濃く見える。
「…ヴィンセント様」
 そっと、シャーロットはヴィンセントの頬に手を伸ばした。
 そのまま、無精髭に覆われた彼の頬を、宥めるように撫でる。
「済んだ事です」
「シャーロット…」
「信じていただけに裏切られたと憤るお気持ちは、ごもっともだと思います。けれど、時間は戻らない。過去は、取り戻せないのです。ですから、今後、歩み寄っていければ、それでよいのではないでしょうか」
 ただ一度きりの出来事のせいで、十五年の長きに渡り、塔に閉じ込められていたシャーロットの言葉に、ヴィンセントは、頷かざるを得なかった。
「そう、ですね…」
 ふぅ、と、ヴィンセントが息を付き、張りつめていた空気が緩まる。
「…貴女が可愛く甘えて下さるから、余計に領主館に戻った時の絶望が深く思い出されてしまって。ですが…そうですね、過去は取り戻せません。今後の私の働きで、貴女の信頼を得ていくしかありませんね」
 真摯なヴィンセントの鼈甲色の瞳を、シャーロットは見つめ返し、静かに頷いた。
「…私は、ヴィンセント様を信じております。けれど、ヴィンセント様のそのお気持ちは、心強く思います」
「シャーロット…」
 ヴィンセントは、眩しそうに目を細めてから、シャーロットのチョコレート色の巻き毛を撫でた。
「でも、一度だけ。彼等に気持ちをぶつける事をお許し頂けますか。私がどれだけ貴女を大切に想っているのか、彼等の行動がどれだけ貴女を傷つけたのか、彼等は知るべきだ。そこから、歩み寄りが始まるのではありませんか」
「…ヴィンセント様の、なさりたいように。ですが…行き過ぎていると思えば、お止めします。私は、貴方の妻なのですから」
 はにかむように告げるシャーロットに、ヴィンセントは虚を突かれたように目を見開く。
 それから、シャーロットを抱く腕に力を籠めると、彼女の髪に顔を埋めた。
「…適いませんね」
「ヴィンセント様?」
「貴女は、私を甘やかすのもお上手だ」
 暫く、ヴィンセントはじっとシャーロットの細い体を抱き締めていたが、振り切るように頭を一度振って、顔を上げる。
「では、参りましょう」
「はい」
 馬が近づいていくと、並んだ使用人達の顔がよく見えるようになる。
 彼等からも、立ち止まったヴィンセントがシャーロットと何事か話し、彼女を抱き締めていた様子は見えていた事だろう。
 それが、シャーロットを甘やかすように見えたか、ヴィンセントが甘えているように見えたかは判らない。
 ヘンリクを始め、屋敷の使用人達の顔色は、総じて悪かった。
 ロビン達、近習の顔色も決してよくはないが、それは、屋敷に残っていた者達とは異なる理由だろう。
「…御屋形様。ご無事のお戻りを、使用人一同、心よりお喜び申し上げます」
 恐らくは、今日、二度目の挨拶をして、ヘンリクが深く頭を下げる。
 一度目の時は、ヘンリクの挨拶の途中で、馬首を返してシャーロットを探しに出たと聞いた。
 ヴィンセントは、無表情で彼等をじっと見ていたが、大きく溜息を吐いて馬から飛び降りる。
 そのまま、馬上のシャーロットに手を伸ばし、彼女の体を抱き上げた。
 地面に下ろすのかと思えば、大切そうに抱き上げたまま、使用人達に向き合う。
「…長きに渡る留守を、よく守ってくれた」
 一度、言葉を切った後に、
「とでも、言うと思ったか?」
 冷たく言い放つ。
 ピリピリと張りつめた空気に、使用人の何人かが恐れるように目を伏せた。
 シャーロットの視界の隅で、イヴリン、バーリーの顔色が、白くなっていくのが見える。
 カティアだけ、憎々し気な目で、「どうしてここに」と呟いたのが聞こえた。
「俺は、このノーハンの地で最も安全な場所が、ここ領主館であると信じていた。だからこそ、大切な女性を預けたのだ。なのに、なぜ、最も守られねばならぬシャーロットが、ここにいなかった?!」
 それは、咆哮だった。
 憤りと苛立ちと怒りと。
 出会ってから初めて、シャーロットはヴィンセントが「獣人族」である事を実感する。
「彼女が到着した時に、聞いた筈だ。花嫁である、と。花嫁を見失い、屋敷だけを守ってどうする。お前達には、バーナディス家に反する意思があると言う事か」
 誰も、何も言わない。いや、言えない。
 しわぶき一つ許されない張りつめた空気の中、ヴィンセントは獰猛な笑みを見せた。
「そうか。従えぬと言うのならば、仕方あるまい。全員――」
 その時だった。
「ヴィンセント様」
 落ち着いた声が、ヴィンセントの名を呼ぶ。
 シャーロットが、小さな手で、そっとヴィンセントの頬を撫でた。
「…シャーロット」
 ハッと気づいたように、ヴィンセントの勢いが弱まる。
「もう、よろしいでしょう?」
 ひたとヴィンセントの目を見つめて、シャーロットが小さく問うと、ヴィンセントは何度か瞬きをして、怒気を抑え込んだ。
 項垂れたように目を伏せるヴィンセントの髪に、シャーロットが触れる。
「まずは、ゆっくりと湯を使って、長旅の疲れを癒して下さいませ。ヴィンセント様が休まねば、近習の皆さんも、休む事が出来ません」
「そう…ですね」
 改めて居並ぶ使用人達を見ると、近習達は旅装も解いていない。
 もしも、ヴィンセントから呼び出しがあった場合、直ぐに動けるようにする為だろう。
「話は、後で幾らでも出来るのでしょう?」
「…えぇ、そうです」
 ヴィンセントの様子が落ち着いたのを確認してシャーロットは微笑むと、ぽんぽん、と優しくヴィンセントの腕を叩いた。
「では、下ろして下さいませ。改めて、ご挨拶をしなくては」
「はい」
 ヴィンセントが、宝物のように抱き締めていたシャーロットを離した事で、近習達がホッと息を吐くのが、シャーロットの耳に届く。
 彼女が何も言わずに抱き上げられたままでいたのは、ヴィンセントを落ち着かせる為だと、少なくとも彼等だけは気が付いているだろう。
「…聞きたい事は多々あるが、それは後程、聞かせて貰う。まずは、この屋敷の女主人であるシャーロットに、挨拶をするように」
「皆様、改めまして、シャーロット・エイディアでございます。ヴィンセント様とカーシャに向かわれた皆様のお戻りを、心よりお待ちしておりました」
 町娘の服装でありながら、シャーロットの振る舞いは、王侯貴族のそれだった。
 人族の貴族と付き合いのない獣人族であっても、彼女の所作に品がある事は伝わった事だろう。
 戸惑うようにしながらも、使用人達が深く頭を下げる。
「紹介の場は、改めて設けよう。各人、持ち場に戻れ」
 ヴィンセントの言葉に一礼して、屋敷の使用人達は逃げるように素早く、去って行った。
 ヘンリクが、湯の準備をするように指示を出している所で、ロビンを始め、近習達がヴィンセントの元に駆け寄ってくる。
「お嬢様!」
 悲痛な声を上げたのは、ジェラルドだった。
「本当にすまねぇ事です、俺の説明が下手だったばっかりに…時間ケチって、カトリのヤツに紹介しなかったンも、俺の不手際で」
「いいえ、ジェラルドさん。上手に立ち回れなかったのは、私ですから」
 シャーロットが静かに首を横に振ると、ジェラルドの顔が泣きそうに歪む。
「それよりも、皆さん、ご無事のお戻り、何よりです。お怪我はありませんでしたか?」
 ノーハンへの道中で見覚えた全員の顔が揃っている事に、シャーロットは安堵の息を吐いた。
「俺達はぴんぴんしてますよ。ピチュアは、ちょっと大変でしたけど…」
 コリンが、眉を顰める。
「…でも、お嬢様の方が、大変でしたよね。何が起きたのか、まだ、聞いてませんが」
 案じるようなコリンの顔に、シャーロットは安心させるように微笑みかけた。
 ジェラルド、コリンは、ノーハンまでシャーロットと共にいたから、人一倍、責任を感じているのだろう。
「私はこうして、無事でおりますから。皆さん、まずは旅装を解いて、一息吐いて下さいませ。ヴィンセント様が飛び出していかれたから、気も休まりませんでしたよね」
 苦笑する近習達の顔に、ヴィンセントが憮然とした声を掛ける。
「シャーロット。私としては、後をついて来たのがロビンだけだった事に、言いたい事があるのですよ?」
「俺が、来なくていい、って言ったんだ。行き先は一つしかないんだから」
 呆れたようなロビンの声に、ヴィンセントがムッと黙り込んだ。
「…御屋形様は、カーシャにいる間中、ずっと、お嬢様の話しかしませんでしたしね…」
「『シャーロットの声が聞こえる!』って言いだした時は、とうとう御屋形様が壊れたのかと…」
「え?」
 シャーロットが驚いてヴィンセントの顔を見ると、彼は期待と不安が綯交ぜになったような顔で、こちらを見つめていた。
「…戦いの最中、時折、貴女の声が聞こえて来たのですよ。『どうぞ、ご無事で』と」
「それは…」
 シャーロットの、自己満足だった。
 戦地に立つ彼の身を案じて、ただ己の心の平穏の為に、繰り返していた祈り。
「本当に…届いていたのですか…?」
 茫然としたシャーロットの言葉に、近習達が驚いて声を上げる。
「え、まさか、お嬢様」
「えぇ…折に触れて、ヴィンセント様と皆様のご無事を願っておりました。『どうぞ、ご無事で』と声に出して」
 シャーロットの声が、戦地で聞こえた声と重なって、ヴィンセントは満足そうに目を細める。
「やはり。あの声に力を貰って、私はここまで、耐える事が出来ました」
「ヴィンセント様は、お強いと伺ってはいましたが…どうしても、心配で。私には、共に剣を取って戦う力はありません。何も出来ない自分が情けなく、その不安を解消する為に、願っていただけなのです」
 恥ずかしそうに目を伏せるシャーロットを、嬉しそうにヴィンセントが見つめていた。
 ノーハンへの道中で、ヴィンセントがシャーロットに向けていた愛着を、近習達はよく知っている。
 微笑ましそうに二人を眺める彼等の中で、ロビンだけが、難しい表情を浮かべていた。



 湯を使って髭をあたり、土埃に塗れた旅装からこざっぱりした衣服に着替えて、漸く、ヴィンセントは肩から力を抜いたようだった。
 土を固めた街道を馬に揺られて来たシャーロットも着替えて顔を拭い、腰を落ち着けたのは応接間だ。
 当初、ヴィンセントは、シャーロットがこの屋敷の女主人なのに、家人の為の居間ではなく、客人を迎える応接間に案内するのは納得がいかない、と、苦言を呈した。
 だが、使用人の中ですら受け入れの準備が整っていないのに、強引に推し進めるわけにはいかない、とシャーロットが説得すると、渋々とだが頷いた。
 今、応接間には、ヴィンセントとシャーロット、ロビンとヘンリクの四人がいる。
「…で?」
 ヴィンセントが、不機嫌な声も露わに、ヘンリクに問い掛けた。
「言い訳を聞こうか」
 ヘンリクは、緊張した顔つきながらも、怖気づく様子はなく、真っ直ぐにヴィンセントの顔を見る。
「ジェラルドは確かに、お嬢様を御屋形様の花嫁だと私に告げていきました。けれど、私の独断で、その事は使用人には伝えておりません」
「…何故だ」
「ジェラルドを信じていないわけではありませんが、余りに突飛な話だった事が一つ。…先代様の事がありますから、御屋形様は慎重に慎重を期して、花嫁を選ばれると考えておりましたので」
 ちらり、と、ヘンリクの視線がシャーロットに向けられる。
 シャーロットが、先代の話を知っているのか探りを入れているのだろう。
 ヴィンセントは無言で、話の先を促す。
「お嬢様の人となりにつきましては、ご滞在の二週間で、理解出来たと考えております。ですから、お嬢様ご自身には、何の問題もございません」
「ならば、」
「ですが、これ以上、バーナディス家の血が人族に近づくのは、問題がありましょう。バーナディス家は獣人貴族。…御屋形様も、十分にご理解なさっておいでの筈です」
 ヴィンセントは、何も言えずに唇を噛んだ。
 ヘンリクの話を聞きながら、あぁ、と、シャーロットはすとんと腑に落ちる。
 ヘンリクは、出会った時こそ、疑心暗鬼な目でシャーロットを見ていたが、直ぐに態度が軟化したと感じた使用人の一人だ。
 表立ってシャーロットを庇う事こそなかったものの、さり気なくフォローする位置にいてくれたと思う。
 カエルを寝室で捕まえた時だって、シャーロットの動向に常に気を配っていたから、シャーロットが夜に屋外に出ようとした事に気が付いたのだ。
 それなのに、シャーロットをマチルダの家から連れ戻す事がなかったのは、シャーロット自身が気に入らないからではなく、人族との婚姻に納得していないからか。
「…ジェラルドとの会話を聞いていた使用人の一部が、お嬢様を御屋形様の婚約者と知った上で、何かと妨害工作を行っておりました。お嬢様自ら、領主館を出て行くように、と。お嬢様は、どんな妨害を受けても歯牙にもかけず、それに苛立った者達の行動が、どんどん過激になっていきました。お嬢様。いつか、お嬢様の居室に、カエルが紛れ込んだ、と話されていた事がありましたね」
「えぇ。あの時は、ヘンリクさんに、外に逃がして頂きました」
「いいえ、逃がしておりません」
「…え?」
「あのカエルは、毒ガエルです。領主館周辺には生息しておらず、ノーハンでも西部の沼地にのみ棲む種で、唾液に毒が含まれております。気づかずに触れると、皮膚が爛れるでしょう。危険ですので、処分致しました」
「な…っ」
 ヴィンセントが、がたり、とソファから腰を浮かした。
「シャーロット…」
 ヴィンセントの声が震えるのに気づいて、シャーロットは安心させるように微笑んだ。
「…不用意に、見知らぬ生き物に触れてはならない、と言う教訓ですね」
「それまでにも、不穏な動きがある事には気づいていましたが、カエルを見て、越えてはならない一線を越えてしまった事に気づきました。その後…お嬢様を連れ出し、手ぶらで戻った時には、流石に眩暈がしましたが。あ奴らは、人族の領地に戻りたいとお嬢様に泣きつかれたから、その手助けをしただけだ、と話しておりましたな」
 ヴィンセントの眉間の皺が深くなるのを見て、シャーロットは何も言わずに、固く握りしめられた彼の拳に触れる。
「慌ててお嬢様の行方を捜し、マチルダの元に保護されている事を確認した後、領主館と、マチルダの家と、どちらがお嬢様にとって安全か、検討致しました。結論として、御屋形様のお戻りがいつになるか判らない状況で、領主館にご滞在頂くのは危険である、と判断し…現在に至るわけでございます。お嬢様への害意は、私個人にはございません。ですが、バーナディス家使用人筆頭として、御屋形様の花嫁としてお守りする事は出来ません。バーナディス家にお仕えする以上、主の意思に反してでも、『家』を守る義務がございますので」
 ヘンリクは言葉通り、シャーロットに対する敵意はないのだろう。
 だが、ヴィンセントの花嫁としては、受け入れる気がない。
「…お前の考えは、判った」
 ヴィンセントが、口を開く。
 当初の憤りは影を潜め、疲れの滲む声だった。
「…つまりは、俺が半獣人である事が問題なわけだな?」
「いいえ、御屋形様、決してそのような」
「そう言う事だろう。俺とシャーロットの間に子が生まれれば、それは、獣人族の血を四分の一しか継がない子供だ。半獣人の俺とて、獣人族と人族、どちらの特性が強く出るかは不明だった。四分の一となれば、外見にそれと判る特徴も、人族より強い体力も筋力も持たぬかもしれん。それで、獣人族の長とは、確かにおかしな話ではあるな。獣人族であれば、長に相応しい者に地位を明け渡す事に抵抗する者はいまい。だが、マハト王国編入時、爵位を賜ったのがバーナディス家である以上、長の地位を他の者に渡すと言っても、陛下はご納得下さらんだろう。…さて、どうしたものか」
 ヴィンセントの声は平坦で、内心で何を考えているのか判らない。
 シャーロットは、この時、初めて、この婚姻が抱える本当の問題に気がついた。
 ノーハン領は、獣人族の領。
 バーナディス家は、マハト王国編入時に辺境伯の爵位を受けて、マハト貴族となった。
 それは、人族から見て判りやすい領主の証だったが、獣人族はそもそも、実力主義。
 氏族をまとめる長ですら、世襲ではなく、力を認められた者がなるのだ。
 マハト王国に編入するまで、獣人族の長も同様だっただろう。
 それが、人族の社会の形に合わせる為に、偶然、当時、獣人族の長を務めていたヴィンセントの先祖が、家名を与えられ、爵位が与えられただけの事。
 それ以来、唯一、「血」で家を継ぐ事を求められているバーナディス家は、獣人族の社会で異質だ。
 ヴィンセントは、言っていた。
 不慮の事故で父を亡くし、予想外に早く襲爵した後、人心を掴むのに苦労した、と。
 それは、若さだけが理由ではないのだろう。
 彼は、母が人族の半獣人だ。
 湯を使い、髪を梳いた彼の耳は、人族のそれと同じだった。
 旅装のマントを外した後姿にも、他の者にある尾がない。
 ヴィンセントの、獣人族らしい特徴は、その目にしかないのだ。
 獣人族であれば、彼を見れば直ぐに、半獣人だと判る。
 そして…彼の弟であるウィルヘルムこそ、先代辺境伯が番に産ませた子供。
 タシャ達が話していた。
 番の間に生まれた子供は、筋力も知力も他の者に勝る、と。
 ウィルヘルムは、十五歳。
 先代が亡くなった頃には、もう生まれている。
 ヴィンセントは長男だから、彼らが普通の兄弟であったなら、爵位の継承は生まれた順に行われたのだろう。
 だが、ヴィンセントが半獣人であり、ウィルヘルムが番の子である以上、ウィルヘルムを後継に推す声も、少なくなかった筈だ。
 恐らく、ウィルヘルムがまだ幼く、ヴィンセントが優秀であったからこそ、ヴィンセントは爵位を継いだのだ。
 ヴィンセントは、知っている。
 人族の血を引く獣人族が、ノーハンでどのように扱われるかを。
 彼自身は、外見こそ人族に近いが、獣人族の体質を色濃く継いで、膂力も体力も人族よりずっと上だ。
 生まれながらの戦士と呼ばれる獣人族の中にあってすら、最強と呼び声高い。
 だが、四分の一しか獣人族の血を継がない子供が、同じように最強の戦士になれるかは未知数だ。
 それでは、辺境伯としてノーハンの地とマハト王国の国境線を守る事が、出来ないのではないか。
 獣人族は、テリトリー意識と仲間意識が強い。
 獣人族の血を引いていれば、その「仲間」と見做されると考えていたが、それだけでは足りないのだ。
 獣人族の血が四分の一の領主を、彼等は認めない。
 命を預けるに足る領主しか、認められない――…。
「…少し、一人にしてくれ。考える時間が欲しい」
 ヴィンセントの静かな声に、シャーロットはハッとなって、彼の顔を見た。
 ロビンが首を横に振って、シャーロットに退室を促す。
 ――…それから、二週間。
 またしても、シャーロットは、ヴィンセントに会えない生活を送る事となった。
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