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***
それからの二日間は、同じ事の繰り返しだった。
王都から離れる程、宿場町の間隔が間遠になり、王宮を出て三日目の晩は、初めての野宿となった。
当然、体を拭う事など出来ず、シャーロットは顔を洗うだけで夜の支度を済ませる。
シャーロットの馬車を囲むように男達は寝場所を決め、火の番をする順を決めていた。
「シャーロット」
外から声を掛けられて、シャーロットは横たえようとしていた体を起こす。
この四日で聞き慣れたヴィンセントの声は、いつでも上質なヴェルヴェットのように柔らかい。
「星が綺麗ですよ。ご覧になりませんか」
「!見て、みたいです」
北の塔は高い。
だが、部屋の窓は余りに小さいし、塔の周辺は暗がりを作らぬように篝火が多く焚かれていて、星空を見るのには適していなかった。
そんな話を数日前にした事を、覚えてくれていたのだろう。
シャーロットが弾んだ声で返事すると、くすり、と、ヴィンセントの笑う声が聞こえた。
「初夏とは言え、夜は冷えますので、厚手の上着を羽織って下さいね」
「はい」
野宿だから、寝衣には着替えず、体の楽なワンピースを着たままのシャーロットは、ヴィンセントの言葉に頷いて、カーラが持たせてくれた厚手の上着を羽織る。
塔から出る事のなかったシャーロットは自身の上着など持っていなかったのだが、突然の出立に、カーラが大急ぎで手配したものだ。
シャーロットの体には大きすぎる上着の袖を一つ折り返して、馬車の外に出ると、ヴィンセントが当然のように、シャーロットを抱き上げる。
「あの…もう大分、足の痛みも引きました」
「それは良かったです」
気にしていない様子のヴィンセントに、シャーロットは少し焦って言葉を重ねた。
「ですから、もう、自分で歩く事が出来ます」
「…あぁ」
ヴィンセントは、初めて気づいた、と言うように、抱き上げた事で直ぐ傍にあるシャーロットの顔を見つめた。
焚火に照らされ明るく見える顔の右半分が赤いのは、焚火に照らされているからだけだろうか。
「…そう、ですね…ご自分で、歩けますよね…」
少し残念そうな声で、だが、離す気配のないヴィンセントに、シャーロットは何だか悪い事を言った気になって、目を伏せた。
「…ですが、こうしていた方が暖かいですし、空も近いでしょう?今夜は、このままでもよろしいですか…?」
確かに、ヴィンセントの言葉通り、厚手の上着を着ていても夜気は肌寒く、触れ合っている場所は暖かい。
周囲の従者達の目を気にしつつも、シャーロットは小さく頷いた。
「…ヴィンセント様の、ご負担でなければ…」
「負担等、ありませんよ。シャーロットとこうしていられるのは、この上ない喜びですから」
ヴィンセントはいつでも、シャーロットの傍にいる事が嬉しいと、言葉でも、表情でも、態度でも、示してくれる。
それが何処かこそばゆくて、そして嬉しくて、シャーロットは、今一つ掴みかねている自身の気持ちを、そっと吐息と共に零すのだった。
「あぁ、流れ星だ」
ヴィンセントの声に、俯かせていた顔を上げる。
見上げた空は、濃い藍色。
銀色の砂糖菓子を零したような一面の星空に、シャーロットは息を飲む。
「綺麗…」
藍色の夜空は、全てが一色で塗りこめられているわけではなく、濃淡がついているように見えた。
星も、均一に散っているわけではないし、色も何通りかあるように見える。
本で読んで知識としてはあったが、実際の星空は、想像とは違った。
この旅を始めて、何冊の本を読むよりも、実際に一目、目にする方が、多くを理解出来る事を知った。
「私は…何も知りませんね」
夜の暗さも、月の眩さも、星の瞬きも。
言葉では知っていても、己のものとして理解していたわけではない、と言う事を知った。
「では、私と共に、色々なものを見ていきましょう」
ヴィンセントは、気負いもなく、そう応えた。
その言葉が嬉しくて、シャーロットは微笑む。
「はい…」
彼の隣に相応しくなれるように、努力しよう、と、心に決めて。
***
ノーハンに向かって五日目。
前日も野宿となり、眠りの浅かったシャーロットは、昼食を摂って満腹になった後、馬車の中でウトウトとしていた。
太陽が中天を越えた頃、バサバサと聞き慣れぬ音がして、シャーロットは目を覚ます。周囲の空気がぴり、とした事を不思議に思い、馬車の窓から外を覗いた。
これまでの道中、何の問題もなかったわけではない。
獣人族と気づかなかったらしい野盗に一度、手負いの野生の大鹿に一度、遭遇している。
いずれも、接触する大分前に、獣人族達は気配を察知して、迎撃準備をしていたが、今回は特に何の準備もしていた気配がないから、敵襲ではないのだろう。
だが、ピンと張りつめたような緊張感を感じて、首を傾げる。
何が起きたのか判らないまま、暫し進んだ後、馬車は突然、停車した。
先程、昼食休憩を取ったばかりだから、次の休憩地点はまだ先の筈だ。
「シャーロット」
ヴィンセントの声に、シャーロットは警戒を解いた。
「はい」
「少し、お話が」
ヴィンセントが馬車の扉を開けて、シャーロットに手を差し伸べる。
シャーロットがその手を取ると、軽く抱き留められ、外で下ろされた。
いつも、シャーロットに向き合う時は笑みを浮かべているヴィンセントの顔に、緊張の色が浮かんでいる。
「現在、ノーハンの領兵が、ナランとの国境にある村に駐在しているお話はしましたね」
「はい。ヴィンセント様も、夜会にいらっしゃるまでは、そちらに滞在されていたと」
「現場を任せていた部下から、緊急の連絡が入りました。ナランからの攻撃が激化しているそうです」
「!」
「至急、私は向かわなくてはなりません」
「はい…承知致しました」
シャーロットが、何も問わずに頷くと、ヴィンセントは少しだけ、辛そうに眉を顰めた。
だが、それには触れず、言葉を続ける。
「シャーロットはこのまま、領主館へと向かって下さい。護衛を、ロビン、コリン、ジェラルド、サーフィス、ティムに任せます」
十人ついていた護衛のうち、シャーロットに半分残すと聞いて、シャーロットは顔色を変えた。
「領主館まで送って頂きたいとは思いますが、護衛の人数は、そこまで必要ですか?」
「…本来なら、この全員でお守りしたい所を、半数まで減らさなくてはならないのですよ」
ヴィンセントは、苦渋の決断として話すが、侍女一人で生活していたシャーロットに取ってみれば、自分一人の為に五人の護衛は多すぎるように感じる。
それに、身の危険度で言えば、ヴィンセントの方が格段に高い筈だ。
「確かに、私は自分の身を一人では守る事が出来ません。ですが、国境に向かう皆様が心配なのです。一人でも多くの人手が必要なのではありませんか?」
「お言葉は有難いのですが…」
「御屋形様、お話中、失礼致します」
固い顔のロビンが、ヴィンセントに声を掛ける。
「御屋形様が別行動なさるのであれば、この先、確実に宿場町で宿泊するように致しましょう。そうすれば、寝ずの番の人数を減らす事が出来ます。そうですね、私とジェラルド、コリンの三名でもよろしいでしょう」
「だが、」
言い掛けたヴィンセントは、迷うように口を閉じた。
その背後に、これまで見た事のない獣人族を見止めて、シャーロットが首を傾げる。
彼は、他の獣人族のように頭に黒いスカーフを巻いていない。
だが、特徴的な耳は見当たらず、その代わり、背に大きな黒い翼が生えていた。
「御屋形様。大変申し訳ないのですが、カーシャの地では、皆が御屋形様の到着をお待ちしております」
固い声で呼びかける翼の生えた男に、ヴィンセントは小さく頷く。
「…あぁ、判っている」
それから、何かを振り切るように頭を一つ振ると、シャーロットの両手を取った。
「シャーロット」
そのまま、彼女の体をそっと引き寄せて、軽く抱擁する。
「いつまでに戻る、とはお約束出来ません。ですが、必ず、貴女の元へと帰ります。それまで、お待ち頂けますか」
「勿論です。ご無事のお戻りをお待ちしております」
シャーロットが気丈に微笑むと、ヴィンセントはきゅっと唇を噛んだ。
「ロビン、ジェラルド、コリン」
「はい、御屋形様」
「シャーロットを頼んだ」
「承知致しました」
名残惜しそうに、最後に一つ、シャーロットの巻き毛を撫でてから、ヴィンセントは抱擁を解く。
「行くぞ」
短い指令に、シャーロットの護衛を命じられた者以外が、さっと踵を返した。
ジェラルドが、馬車に繋いでいた替え馬一頭を含めた三頭を放すと、馬達は大人しく一団の後に付く。
「カーシャへ!」
ヴィンセントの号令と共に、一団は駆け出した。
騎手のない馬達も、迷わずに後を追っていくのを、シャーロットは見えなくなるまで見送った。
残った護衛達は何も言わずに馬を繋ぎ直し、隊列を組み直す。
「お嬢様」
ロビンが小さく声を掛け、馬車に乗るよう促してから、漸く、シャーロットはヴィンセントの背を追っていた視線を逸らした。
「ロビンさん、ジェラルドさん、コリンさん、お手数ですが、どうぞ、ノーハンまでよろしくお願いします」
改めて頭を下げるシャーロットを見て、三人は顔を見合わせた。
「どうぞ、お顔を上げて下さい」
三人の中で最も年長なのは、三十代後半のジェラルドだが、代表して口を開いたのは、ロビンだった。
「我々に指令を下したのは、御屋形様です。領主館までは、安心して頂いて大丈夫です」
固い声で告げられたロビンの言葉を聞いて、シャーロットは少し、困ったような顔をした。
「ごめんなさい、言葉が足りなかったようです。私は、不安に感じているわけではありません。ただ、道中を共にして下さるようにお願いしたかっただけなのです」
主として認めているヴィンセントの指令だから、その指令を守る、と言うロビンと、護衛してくれるのだから、礼節を守りたいシャーロット。
シャーロットの言葉を聞いて、ジェラルドが頷いた。
「ノーハンはノーハンの規律で動いとりますが、だからと言って、人族の規律を無視しようたぁ思ってません。しかし、お嬢様は、人族の規律とも少し違う、ご自分の規律をお持ちのようですな。俺ぁ好ましいと思いますよ」
ノーハンの規律の一つが実力主義であり、人族の規律の一つが身分制度だ。
シャーロットを身分で判断しているのは、実は獣人族ではないか、と、ジェラルドは暗に指摘する。
ジェラルドの言葉を聞いて、ロビンは渋々頷いた。
「我々だって、無力な女子供を護る事はやぶさかではありません。…ましてや、御屋形様の大切な方ですから」
この五日の間、休憩の度に少しずつ、獣人族の従者達と会話を交わすようになったシャーロットだが、彼らがヴィンセントの花嫁として手放しで受け入れてくれたわけではない事は、重々承知している。
態度が徐々に軟化しているのは、ヴィンセントがシャーロットを大切に扱ってくれているからなのも、判っている。
ロビン達は、ヴィンセントの命令を守るだろうが、身を挺してまでシャーロットを守って欲しい、とは、彼女自身、考えていない。
話を聞いて想像していた以上に、ナランとの関係は悪化しているようだ。
平穏が乱され、波だった心が、シャーロットと言う異質な娘を受け入れてくれるものなのか。
守るべき領民や従者が、シャーロットを花嫁として受け入れてくれなかった時に、ヴィンセントはどうするのか。
不安は解消されていない。
だが、これ以上、言い募るのは逆効果に思えて、シャーロットはロビンの言葉に頷くと、馬車に乗ったのだった。
五日目の夜は、三日ぶりに、旅籠で宿泊した。
前日までであれば、後三時間は走って野宿になっていたであろう、まだ日も高い時間だったが、少ない護衛と替え馬のない状態で移動するには、十分な休養が必要だ。
シャーロットは部屋に食事を運んで貰い、一人で食事を取る。
ヴィンセントが向かいに座っていると、彼の一挙手一投足が気になって緊張するのに、いないと寂しい。
十五年前に会った事があるらしいとは言え、言葉を交わすようになってから一週間しか経っていない相手だ。
なのに、シャーロットの心は、ヴィンセントに占められている。
「…今頃、どの辺りにおいでなのかしら」
野宿して先を急いだ事で、十二日間掛かる予定だった行程が短縮されたとは聞いていた。
騎馬だけなら、馬車が同行するよりも早く着く筈だから、緊迫した現場に一日でも早く到着するとよいのだが。
だが、同時に、危険な場所にヴィンセントに行って欲しくない、とも思う。
彼は辺境伯だし、国境の守りを任された獣人貴族だから、自らが先頭に立つ必要があるのだろう。
それを、頭で納得する事と、案ずる気持ちは別の話なのだ、と、シャーロットは理解する。
「…どうぞ、ご無事で」
両手指を組んで、ノーハンの方面を向いて、祈る。
精霊に願うわけでも、他の誰かに願うわけでもないが、ただ、願いを声に出す。
声に出した事で、自分が考えていた以上に、ヴィンセントの無事を願っている事を自覚する。
シャーロットの十八年の人生において、名を知る人の数は、驚く程少ない。
その半数以上が、今回の旅で知り合った人々だ。
だから、名を知る人々の無事を切に願う。
その中でも、ヴィンセントに向ける思いは大きくて、どうしてここまで、彼が気に掛かるのか、とシャーロットは首を捻った。
彼が、夫となる人だからか。
ただでさえ、貴族女性は保護者となる男性に人生を左右されるのだ。
父親の庇護下を離れたシャーロットにとって、新しい保護者であるヴィンセントの動向は大きな意味を持つ。
だが、自分の生活の安定の為に、ヴィンセントに無事でいて欲しい、とは、シャーロットは思っていなかった。
王宮の書面でヴィンセントとシャーロットの婚姻が調っていても、その事を知る者は、ヴィンセントとシャーロット、王宮の一部のみ。
シャーロット・エイディアとしてのシャーロットと、ヴィンセントの婚姻は、まだ、ノーハンの地で成立していない。
現状のまま、ヴィンセントに何かあったら、シャーロットは何の後ろ盾もない平民の女性として、暮らしていく事になるのだろう。
しかし、未知の生活への不安よりも、ヴィンセント自身の安否への不安の方が、ずっと大きい。
それが、想像力の不足によるものなのか、より現実味のある事態だからなのか、シャーロットには判断出来なかった。
「ロビンさんは、どうしてあぁなんですかね」
考え込んでいたシャーロットは、ふと聞こえた声に顔を上げた。
シャーロットが宿泊する部屋の隣に従者達が宿泊する部屋があり、交代で扉を見張るとの説明を受けていた。
恐らく、先に食事を取りに行ったコリンが、交代の為にやってきたのだろう。
分厚い扉の前で小声で交わされる会話は、普通の人間には聞こえない。
実際、シャーロットにも聞こえていなかったのだが、精霊の祝福によるものだろう、不意に耳に飛び込んで来た。
「お嬢様は、俺達に馴染もうと努力してくれてるじゃないですか。何よりも、御屋形様が大切にしてるのは、傍から見ててよく判る。なのに、何でロビンさんは、頑なに受け入れようとしないんです?」
「仕方なかろぉよ」
答えたのは、ジェラルドだ。
恐らく、今はロビンが食事に行っているのだろう。
「ロビンは、先代様の事があるから、御屋形様を心配してンのさ。いや、御屋形様だけじゃぁねぇ、あぁ見えて、お嬢様の事も心配してンだ。あいつぁ、先代様の騒動ン時、もう御屋形様のお傍にいたからな」
「先代様の騒動…ですか。俺にはどうも、ピンと来ないなぁ」
「お前ぇはチビだったからなぁ。お母ちゃんが、知らせんようにしたンだろぉよ」
「何か…複雑だなぁ…あんだけ大切にしてるのに、それだけじゃダメなんですか?」
「ダメってわけじゃぁねぇ。だからこそ、先代様ン時ぁ大騒動になったンさ」
先代、とは、不慮の事故で亡くなったと言う、ヴィンセントの父親の事だろう。
話の内容は判らない。
だが、聞いてはいけない事なのではないか、と、シャーロットは迷う。
しかし、その思いとは裏腹に、精霊は会話をシャーロットに届ける事を止めない。
そして、シャーロットには、精霊の気まぐれを制御する術はない。
「それになぁ」
苦笑と共に、ジェラルドは続けた。
「お前ぇにどう見えてるかぁ知らねぇが、俺ぁ、御屋形様の態度もどんなもんかと思うンだがなぁ」
「え?凄く可愛がって大切にしてるなぁ、って思いますけど?普通、あんなに堂々と抱っこします?メロメロじゃないですか」
「そうだな。だがな、それぁ、嫁さんを可愛がって大切にしてんのと同じなんか、って話さ」
「…ん~と?」
「俺にも恋女房がいっからわかんだよ。俺にゃぁ、ちっちぇ娘や妹を可愛がってるようにしか、見えンのさ」
あぁ。
シャーロットは、違和感の正体を理解して、深く納得すると同時に、目の前が暗くなった。
固い椅子に腰掛けている筈なのに、足元が抜ける感覚。
奈落の底に、何処までも落ちていく。
そうだ。
ヴィンセントと共にいて、感じていた違和感。
彼は、シャーロットを尊重し、大切にし、真綿で包むように可愛がってくれた、と思う。
過保護ではないか、と感じる位に、何くれとなく手を出し、声を掛けてくれた。
彼自身が望んで娶りたいのだと、言葉にして言ってくれた。
それに安心していたけれど、ずっと何処かで、何かが引っ掛かっていた。
カーラとロベルトの会話を聞いていたから、だろう。
二人の関係と何かが…違う、と。
勿論、それは出会って間もないから、恋愛感情があって結ばれる夫婦ではないからだ、と思っていた。
一方で、ヴィンセントがとても優しいから、出会ったばかりとは思えない慈しみを向けてくれるから、きっと思っているよりも早く、本物の夫婦になれるとも思っていた。
シャーロットにとって、夫婦の見本は両親しかないが、両親は互いを思い合っているように見えたから、いつかはヴィンセントとも、そのような関係になれると信じていた。
「そう、よね…」
最初から、ヴィンセントは言っていたではないか。
シャーロットがノーハンに来たら、妹のように大切にするように、父親に言われていたのだ、と。
彼はずっと、年の離れた妹を見守るように、シャーロットの事を思ってくれていたのだ。
そして、シャーロットの境遇を知り、そこから救い出す為に、動いてくれたのだ。
例え、妹のように思っていようと実際には血縁がない上、シャーロットが成人していたばかりに、娶らなくてはならなくなっただけで。
「……っ」
気づいたら、シャーロットの頬を、涙が零れていた。
悔しかったわけではない。
悲しかったわけではない。
ヴィンセントの思いに気づかなかった自分が、情けなかった。
彼に、このような気を遣わせた自分が、嘆かわしかった。
そして同時に、気が付いた。
いつの間にか、ヴィンセントを、好きになっていた事を。
「…ごめん、なさい…っ」
彼の、鼈甲色の瞳が好きだ。
不思議な縦型の瞳孔は、目が合うといつも、優しく微笑んでくれた。
彼の、柔らかそうな黒い癖毛が好きだ。
抱き上げられると直ぐ目の前で揺れているから、思わず伸ばしたくなる手を、必死に抑え込んでいた。
彼の、少し厚い唇が好きだ。
その口から語られるのは、いつだってシャーロットを案じてくれる言葉だった。
彼の、皮膚の固い大きな手が好きだ。
触れられる場所が、触れた体温以上に熱くなった。
――…例え、彼が妹としか思ってくれていないのだとしても。
それでも、彼の事が、好きなのだ。
同じだけの思いを返してくれなかったとしても、彼の事が好きなのだ…。
「心、だけは、自由だもの…」
塔の中に閉じ込められていても、シャーロットの心だけは、誰にも縛られなかった。
だから。
だから、ヴィンセントがシャーロットを妹と思っていようと、シャーロットがヴィンセントを夫として慕う自由はあるだろう。
妹、と言う言葉の衝撃に、シャーロットはうっかり、それまでの彼らの会話を忘れてしまった。
確かに何か、引っ掛かる言葉があった筈なのに。
それからの二日間は、同じ事の繰り返しだった。
王都から離れる程、宿場町の間隔が間遠になり、王宮を出て三日目の晩は、初めての野宿となった。
当然、体を拭う事など出来ず、シャーロットは顔を洗うだけで夜の支度を済ませる。
シャーロットの馬車を囲むように男達は寝場所を決め、火の番をする順を決めていた。
「シャーロット」
外から声を掛けられて、シャーロットは横たえようとしていた体を起こす。
この四日で聞き慣れたヴィンセントの声は、いつでも上質なヴェルヴェットのように柔らかい。
「星が綺麗ですよ。ご覧になりませんか」
「!見て、みたいです」
北の塔は高い。
だが、部屋の窓は余りに小さいし、塔の周辺は暗がりを作らぬように篝火が多く焚かれていて、星空を見るのには適していなかった。
そんな話を数日前にした事を、覚えてくれていたのだろう。
シャーロットが弾んだ声で返事すると、くすり、と、ヴィンセントの笑う声が聞こえた。
「初夏とは言え、夜は冷えますので、厚手の上着を羽織って下さいね」
「はい」
野宿だから、寝衣には着替えず、体の楽なワンピースを着たままのシャーロットは、ヴィンセントの言葉に頷いて、カーラが持たせてくれた厚手の上着を羽織る。
塔から出る事のなかったシャーロットは自身の上着など持っていなかったのだが、突然の出立に、カーラが大急ぎで手配したものだ。
シャーロットの体には大きすぎる上着の袖を一つ折り返して、馬車の外に出ると、ヴィンセントが当然のように、シャーロットを抱き上げる。
「あの…もう大分、足の痛みも引きました」
「それは良かったです」
気にしていない様子のヴィンセントに、シャーロットは少し焦って言葉を重ねた。
「ですから、もう、自分で歩く事が出来ます」
「…あぁ」
ヴィンセントは、初めて気づいた、と言うように、抱き上げた事で直ぐ傍にあるシャーロットの顔を見つめた。
焚火に照らされ明るく見える顔の右半分が赤いのは、焚火に照らされているからだけだろうか。
「…そう、ですね…ご自分で、歩けますよね…」
少し残念そうな声で、だが、離す気配のないヴィンセントに、シャーロットは何だか悪い事を言った気になって、目を伏せた。
「…ですが、こうしていた方が暖かいですし、空も近いでしょう?今夜は、このままでもよろしいですか…?」
確かに、ヴィンセントの言葉通り、厚手の上着を着ていても夜気は肌寒く、触れ合っている場所は暖かい。
周囲の従者達の目を気にしつつも、シャーロットは小さく頷いた。
「…ヴィンセント様の、ご負担でなければ…」
「負担等、ありませんよ。シャーロットとこうしていられるのは、この上ない喜びですから」
ヴィンセントはいつでも、シャーロットの傍にいる事が嬉しいと、言葉でも、表情でも、態度でも、示してくれる。
それが何処かこそばゆくて、そして嬉しくて、シャーロットは、今一つ掴みかねている自身の気持ちを、そっと吐息と共に零すのだった。
「あぁ、流れ星だ」
ヴィンセントの声に、俯かせていた顔を上げる。
見上げた空は、濃い藍色。
銀色の砂糖菓子を零したような一面の星空に、シャーロットは息を飲む。
「綺麗…」
藍色の夜空は、全てが一色で塗りこめられているわけではなく、濃淡がついているように見えた。
星も、均一に散っているわけではないし、色も何通りかあるように見える。
本で読んで知識としてはあったが、実際の星空は、想像とは違った。
この旅を始めて、何冊の本を読むよりも、実際に一目、目にする方が、多くを理解出来る事を知った。
「私は…何も知りませんね」
夜の暗さも、月の眩さも、星の瞬きも。
言葉では知っていても、己のものとして理解していたわけではない、と言う事を知った。
「では、私と共に、色々なものを見ていきましょう」
ヴィンセントは、気負いもなく、そう応えた。
その言葉が嬉しくて、シャーロットは微笑む。
「はい…」
彼の隣に相応しくなれるように、努力しよう、と、心に決めて。
***
ノーハンに向かって五日目。
前日も野宿となり、眠りの浅かったシャーロットは、昼食を摂って満腹になった後、馬車の中でウトウトとしていた。
太陽が中天を越えた頃、バサバサと聞き慣れぬ音がして、シャーロットは目を覚ます。周囲の空気がぴり、とした事を不思議に思い、馬車の窓から外を覗いた。
これまでの道中、何の問題もなかったわけではない。
獣人族と気づかなかったらしい野盗に一度、手負いの野生の大鹿に一度、遭遇している。
いずれも、接触する大分前に、獣人族達は気配を察知して、迎撃準備をしていたが、今回は特に何の準備もしていた気配がないから、敵襲ではないのだろう。
だが、ピンと張りつめたような緊張感を感じて、首を傾げる。
何が起きたのか判らないまま、暫し進んだ後、馬車は突然、停車した。
先程、昼食休憩を取ったばかりだから、次の休憩地点はまだ先の筈だ。
「シャーロット」
ヴィンセントの声に、シャーロットは警戒を解いた。
「はい」
「少し、お話が」
ヴィンセントが馬車の扉を開けて、シャーロットに手を差し伸べる。
シャーロットがその手を取ると、軽く抱き留められ、外で下ろされた。
いつも、シャーロットに向き合う時は笑みを浮かべているヴィンセントの顔に、緊張の色が浮かんでいる。
「現在、ノーハンの領兵が、ナランとの国境にある村に駐在しているお話はしましたね」
「はい。ヴィンセント様も、夜会にいらっしゃるまでは、そちらに滞在されていたと」
「現場を任せていた部下から、緊急の連絡が入りました。ナランからの攻撃が激化しているそうです」
「!」
「至急、私は向かわなくてはなりません」
「はい…承知致しました」
シャーロットが、何も問わずに頷くと、ヴィンセントは少しだけ、辛そうに眉を顰めた。
だが、それには触れず、言葉を続ける。
「シャーロットはこのまま、領主館へと向かって下さい。護衛を、ロビン、コリン、ジェラルド、サーフィス、ティムに任せます」
十人ついていた護衛のうち、シャーロットに半分残すと聞いて、シャーロットは顔色を変えた。
「領主館まで送って頂きたいとは思いますが、護衛の人数は、そこまで必要ですか?」
「…本来なら、この全員でお守りしたい所を、半数まで減らさなくてはならないのですよ」
ヴィンセントは、苦渋の決断として話すが、侍女一人で生活していたシャーロットに取ってみれば、自分一人の為に五人の護衛は多すぎるように感じる。
それに、身の危険度で言えば、ヴィンセントの方が格段に高い筈だ。
「確かに、私は自分の身を一人では守る事が出来ません。ですが、国境に向かう皆様が心配なのです。一人でも多くの人手が必要なのではありませんか?」
「お言葉は有難いのですが…」
「御屋形様、お話中、失礼致します」
固い顔のロビンが、ヴィンセントに声を掛ける。
「御屋形様が別行動なさるのであれば、この先、確実に宿場町で宿泊するように致しましょう。そうすれば、寝ずの番の人数を減らす事が出来ます。そうですね、私とジェラルド、コリンの三名でもよろしいでしょう」
「だが、」
言い掛けたヴィンセントは、迷うように口を閉じた。
その背後に、これまで見た事のない獣人族を見止めて、シャーロットが首を傾げる。
彼は、他の獣人族のように頭に黒いスカーフを巻いていない。
だが、特徴的な耳は見当たらず、その代わり、背に大きな黒い翼が生えていた。
「御屋形様。大変申し訳ないのですが、カーシャの地では、皆が御屋形様の到着をお待ちしております」
固い声で呼びかける翼の生えた男に、ヴィンセントは小さく頷く。
「…あぁ、判っている」
それから、何かを振り切るように頭を一つ振ると、シャーロットの両手を取った。
「シャーロット」
そのまま、彼女の体をそっと引き寄せて、軽く抱擁する。
「いつまでに戻る、とはお約束出来ません。ですが、必ず、貴女の元へと帰ります。それまで、お待ち頂けますか」
「勿論です。ご無事のお戻りをお待ちしております」
シャーロットが気丈に微笑むと、ヴィンセントはきゅっと唇を噛んだ。
「ロビン、ジェラルド、コリン」
「はい、御屋形様」
「シャーロットを頼んだ」
「承知致しました」
名残惜しそうに、最後に一つ、シャーロットの巻き毛を撫でてから、ヴィンセントは抱擁を解く。
「行くぞ」
短い指令に、シャーロットの護衛を命じられた者以外が、さっと踵を返した。
ジェラルドが、馬車に繋いでいた替え馬一頭を含めた三頭を放すと、馬達は大人しく一団の後に付く。
「カーシャへ!」
ヴィンセントの号令と共に、一団は駆け出した。
騎手のない馬達も、迷わずに後を追っていくのを、シャーロットは見えなくなるまで見送った。
残った護衛達は何も言わずに馬を繋ぎ直し、隊列を組み直す。
「お嬢様」
ロビンが小さく声を掛け、馬車に乗るよう促してから、漸く、シャーロットはヴィンセントの背を追っていた視線を逸らした。
「ロビンさん、ジェラルドさん、コリンさん、お手数ですが、どうぞ、ノーハンまでよろしくお願いします」
改めて頭を下げるシャーロットを見て、三人は顔を見合わせた。
「どうぞ、お顔を上げて下さい」
三人の中で最も年長なのは、三十代後半のジェラルドだが、代表して口を開いたのは、ロビンだった。
「我々に指令を下したのは、御屋形様です。領主館までは、安心して頂いて大丈夫です」
固い声で告げられたロビンの言葉を聞いて、シャーロットは少し、困ったような顔をした。
「ごめんなさい、言葉が足りなかったようです。私は、不安に感じているわけではありません。ただ、道中を共にして下さるようにお願いしたかっただけなのです」
主として認めているヴィンセントの指令だから、その指令を守る、と言うロビンと、護衛してくれるのだから、礼節を守りたいシャーロット。
シャーロットの言葉を聞いて、ジェラルドが頷いた。
「ノーハンはノーハンの規律で動いとりますが、だからと言って、人族の規律を無視しようたぁ思ってません。しかし、お嬢様は、人族の規律とも少し違う、ご自分の規律をお持ちのようですな。俺ぁ好ましいと思いますよ」
ノーハンの規律の一つが実力主義であり、人族の規律の一つが身分制度だ。
シャーロットを身分で判断しているのは、実は獣人族ではないか、と、ジェラルドは暗に指摘する。
ジェラルドの言葉を聞いて、ロビンは渋々頷いた。
「我々だって、無力な女子供を護る事はやぶさかではありません。…ましてや、御屋形様の大切な方ですから」
この五日の間、休憩の度に少しずつ、獣人族の従者達と会話を交わすようになったシャーロットだが、彼らがヴィンセントの花嫁として手放しで受け入れてくれたわけではない事は、重々承知している。
態度が徐々に軟化しているのは、ヴィンセントがシャーロットを大切に扱ってくれているからなのも、判っている。
ロビン達は、ヴィンセントの命令を守るだろうが、身を挺してまでシャーロットを守って欲しい、とは、彼女自身、考えていない。
話を聞いて想像していた以上に、ナランとの関係は悪化しているようだ。
平穏が乱され、波だった心が、シャーロットと言う異質な娘を受け入れてくれるものなのか。
守るべき領民や従者が、シャーロットを花嫁として受け入れてくれなかった時に、ヴィンセントはどうするのか。
不安は解消されていない。
だが、これ以上、言い募るのは逆効果に思えて、シャーロットはロビンの言葉に頷くと、馬車に乗ったのだった。
五日目の夜は、三日ぶりに、旅籠で宿泊した。
前日までであれば、後三時間は走って野宿になっていたであろう、まだ日も高い時間だったが、少ない護衛と替え馬のない状態で移動するには、十分な休養が必要だ。
シャーロットは部屋に食事を運んで貰い、一人で食事を取る。
ヴィンセントが向かいに座っていると、彼の一挙手一投足が気になって緊張するのに、いないと寂しい。
十五年前に会った事があるらしいとは言え、言葉を交わすようになってから一週間しか経っていない相手だ。
なのに、シャーロットの心は、ヴィンセントに占められている。
「…今頃、どの辺りにおいでなのかしら」
野宿して先を急いだ事で、十二日間掛かる予定だった行程が短縮されたとは聞いていた。
騎馬だけなら、馬車が同行するよりも早く着く筈だから、緊迫した現場に一日でも早く到着するとよいのだが。
だが、同時に、危険な場所にヴィンセントに行って欲しくない、とも思う。
彼は辺境伯だし、国境の守りを任された獣人貴族だから、自らが先頭に立つ必要があるのだろう。
それを、頭で納得する事と、案ずる気持ちは別の話なのだ、と、シャーロットは理解する。
「…どうぞ、ご無事で」
両手指を組んで、ノーハンの方面を向いて、祈る。
精霊に願うわけでも、他の誰かに願うわけでもないが、ただ、願いを声に出す。
声に出した事で、自分が考えていた以上に、ヴィンセントの無事を願っている事を自覚する。
シャーロットの十八年の人生において、名を知る人の数は、驚く程少ない。
その半数以上が、今回の旅で知り合った人々だ。
だから、名を知る人々の無事を切に願う。
その中でも、ヴィンセントに向ける思いは大きくて、どうしてここまで、彼が気に掛かるのか、とシャーロットは首を捻った。
彼が、夫となる人だからか。
ただでさえ、貴族女性は保護者となる男性に人生を左右されるのだ。
父親の庇護下を離れたシャーロットにとって、新しい保護者であるヴィンセントの動向は大きな意味を持つ。
だが、自分の生活の安定の為に、ヴィンセントに無事でいて欲しい、とは、シャーロットは思っていなかった。
王宮の書面でヴィンセントとシャーロットの婚姻が調っていても、その事を知る者は、ヴィンセントとシャーロット、王宮の一部のみ。
シャーロット・エイディアとしてのシャーロットと、ヴィンセントの婚姻は、まだ、ノーハンの地で成立していない。
現状のまま、ヴィンセントに何かあったら、シャーロットは何の後ろ盾もない平民の女性として、暮らしていく事になるのだろう。
しかし、未知の生活への不安よりも、ヴィンセント自身の安否への不安の方が、ずっと大きい。
それが、想像力の不足によるものなのか、より現実味のある事態だからなのか、シャーロットには判断出来なかった。
「ロビンさんは、どうしてあぁなんですかね」
考え込んでいたシャーロットは、ふと聞こえた声に顔を上げた。
シャーロットが宿泊する部屋の隣に従者達が宿泊する部屋があり、交代で扉を見張るとの説明を受けていた。
恐らく、先に食事を取りに行ったコリンが、交代の為にやってきたのだろう。
分厚い扉の前で小声で交わされる会話は、普通の人間には聞こえない。
実際、シャーロットにも聞こえていなかったのだが、精霊の祝福によるものだろう、不意に耳に飛び込んで来た。
「お嬢様は、俺達に馴染もうと努力してくれてるじゃないですか。何よりも、御屋形様が大切にしてるのは、傍から見ててよく判る。なのに、何でロビンさんは、頑なに受け入れようとしないんです?」
「仕方なかろぉよ」
答えたのは、ジェラルドだ。
恐らく、今はロビンが食事に行っているのだろう。
「ロビンは、先代様の事があるから、御屋形様を心配してンのさ。いや、御屋形様だけじゃぁねぇ、あぁ見えて、お嬢様の事も心配してンだ。あいつぁ、先代様の騒動ン時、もう御屋形様のお傍にいたからな」
「先代様の騒動…ですか。俺にはどうも、ピンと来ないなぁ」
「お前ぇはチビだったからなぁ。お母ちゃんが、知らせんようにしたンだろぉよ」
「何か…複雑だなぁ…あんだけ大切にしてるのに、それだけじゃダメなんですか?」
「ダメってわけじゃぁねぇ。だからこそ、先代様ン時ぁ大騒動になったンさ」
先代、とは、不慮の事故で亡くなったと言う、ヴィンセントの父親の事だろう。
話の内容は判らない。
だが、聞いてはいけない事なのではないか、と、シャーロットは迷う。
しかし、その思いとは裏腹に、精霊は会話をシャーロットに届ける事を止めない。
そして、シャーロットには、精霊の気まぐれを制御する術はない。
「それになぁ」
苦笑と共に、ジェラルドは続けた。
「お前ぇにどう見えてるかぁ知らねぇが、俺ぁ、御屋形様の態度もどんなもんかと思うンだがなぁ」
「え?凄く可愛がって大切にしてるなぁ、って思いますけど?普通、あんなに堂々と抱っこします?メロメロじゃないですか」
「そうだな。だがな、それぁ、嫁さんを可愛がって大切にしてんのと同じなんか、って話さ」
「…ん~と?」
「俺にも恋女房がいっからわかんだよ。俺にゃぁ、ちっちぇ娘や妹を可愛がってるようにしか、見えンのさ」
あぁ。
シャーロットは、違和感の正体を理解して、深く納得すると同時に、目の前が暗くなった。
固い椅子に腰掛けている筈なのに、足元が抜ける感覚。
奈落の底に、何処までも落ちていく。
そうだ。
ヴィンセントと共にいて、感じていた違和感。
彼は、シャーロットを尊重し、大切にし、真綿で包むように可愛がってくれた、と思う。
過保護ではないか、と感じる位に、何くれとなく手を出し、声を掛けてくれた。
彼自身が望んで娶りたいのだと、言葉にして言ってくれた。
それに安心していたけれど、ずっと何処かで、何かが引っ掛かっていた。
カーラとロベルトの会話を聞いていたから、だろう。
二人の関係と何かが…違う、と。
勿論、それは出会って間もないから、恋愛感情があって結ばれる夫婦ではないからだ、と思っていた。
一方で、ヴィンセントがとても優しいから、出会ったばかりとは思えない慈しみを向けてくれるから、きっと思っているよりも早く、本物の夫婦になれるとも思っていた。
シャーロットにとって、夫婦の見本は両親しかないが、両親は互いを思い合っているように見えたから、いつかはヴィンセントとも、そのような関係になれると信じていた。
「そう、よね…」
最初から、ヴィンセントは言っていたではないか。
シャーロットがノーハンに来たら、妹のように大切にするように、父親に言われていたのだ、と。
彼はずっと、年の離れた妹を見守るように、シャーロットの事を思ってくれていたのだ。
そして、シャーロットの境遇を知り、そこから救い出す為に、動いてくれたのだ。
例え、妹のように思っていようと実際には血縁がない上、シャーロットが成人していたばかりに、娶らなくてはならなくなっただけで。
「……っ」
気づいたら、シャーロットの頬を、涙が零れていた。
悔しかったわけではない。
悲しかったわけではない。
ヴィンセントの思いに気づかなかった自分が、情けなかった。
彼に、このような気を遣わせた自分が、嘆かわしかった。
そして同時に、気が付いた。
いつの間にか、ヴィンセントを、好きになっていた事を。
「…ごめん、なさい…っ」
彼の、鼈甲色の瞳が好きだ。
不思議な縦型の瞳孔は、目が合うといつも、優しく微笑んでくれた。
彼の、柔らかそうな黒い癖毛が好きだ。
抱き上げられると直ぐ目の前で揺れているから、思わず伸ばしたくなる手を、必死に抑え込んでいた。
彼の、少し厚い唇が好きだ。
その口から語られるのは、いつだってシャーロットを案じてくれる言葉だった。
彼の、皮膚の固い大きな手が好きだ。
触れられる場所が、触れた体温以上に熱くなった。
――…例え、彼が妹としか思ってくれていないのだとしても。
それでも、彼の事が、好きなのだ。
同じだけの思いを返してくれなかったとしても、彼の事が好きなのだ…。
「心、だけは、自由だもの…」
塔の中に閉じ込められていても、シャーロットの心だけは、誰にも縛られなかった。
だから。
だから、ヴィンセントがシャーロットを妹と思っていようと、シャーロットがヴィンセントを夫として慕う自由はあるだろう。
妹、と言う言葉の衝撃に、シャーロットはうっかり、それまでの彼らの会話を忘れてしまった。
確かに何か、引っ掛かる言葉があった筈なのに。
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