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***

 シャーロットは、混乱の只中にいた。
 偽名と偽の身分を使うとは言え、シャーロットは王女。
 父である国王の意向に逆らう事など、出来るわけがない。
 祝福の姫として塔に保護されて以降、姉達のように結婚する将来を考える事はなかったが、もしも、万が一、誰かと添う事があるのならば、それは政略結婚の他、あり得ないとも考えていた。
 塔の外に出る機会のない、社交界に顔を出す事も儘ならないシャーロットに、それ以外の縁談など、ないのだから。
 だが。
 相手が、シャーロットが言葉を交わした唯一と言ってもよい異性と言う事もあって、却って、粛々と政略結婚を受け止める、と言う心境になれないでいた。
 胸の中に沸き起こる感情を、シャーロットは上手く整理出来ないでいる。
 そして、今。
 シャーロットは、ノーハンへと向かう馬車に揺られていた。
 ヴィンセントは元々、隣国ナランとの睨み合いの最中に、夜会に参加する目的で、王都へと来ている。
 これ以上、ノーハンを空けるのは難しい為、急いで帰途に着く必要があった。
 ならば、日を改めてシャーロットがノーハンに向かえばいいのではないかと思うのだが、姫としての身分を隠して降嫁する以上、騎士を護衛につける事が出来ない。
 シャーロットが嫁すのは、王宮の中でも一部のみが知る極秘事項なのだ。護衛をつけてしまうと、要人が移動している事が周知されてしまう。
 騎士がつけられない以上、一騎当千と言われる獣人族と共に移動するのが、最も身の安全を図れる事から、慌ただしい出立となったのである。
 当座の身の回りの品だけを持てばいい、と言われ、慌ててカーラが荷造りしたのは、小さなトランクで二つ。
 王女の嫁入りどころか、旅行の荷物にも満たないが、これが、シャーロットの全財産だった。
 獣人族は、往路は騎馬で王都まで来たらしい。
 復路は、シャーロットが加わった為、地味な外装からは判らない頑丈な馬車が用意されていた。
 ハビエルの親心と言うものだろう。
 騎馬だけであれば、ノーハンまでは通常一週間の旅程の所、シャーロットの馬車が加わった事で、十二日程になると聞いている。
 シャーロットは、旅に出るのも初めてならば、馬車に乗るのも初めてだ。
 状況をよく理解出来ないままに、気づいたら一人、馬車の中に腰掛けていた。
 そう、一人、だ。
 幼い頃から傍についていてくれたカーラは、お供します、と申し出た。
 その申し出を断ったのは、シャーロット自身。
 カーラに、ロベルトと言う恋人がおり、求婚されている事を知っているのに、見知らぬ土地に嫁ぐ自分の為に、ついて来て欲しい、とは、言えなかった。
 当然、カーラは抵抗した。
 ただでさえ、ノーハンまで十二日掛かると言われたのだ。
 獣人族達は全員男性で、女性であり王女でもあるシャーロットの身の回りの世話が出来るとは思えない、と激しく抗議した。
「大丈夫よ、カーラ」
 突然の縁談に、動揺していたのはシャーロットだけではない。カーラもだ。
 主と恋人の間でカーラの気持ちが揺れ動いている事、そして、揺れ動く自分の気持ちを許せない事に気づいているシャーロットは、何でもない事のように声を掛ける。
「聞いたでしょう?獣人族の方は、精霊の祝福を受けにくいのですって。だったら、ノーハンに行けば、侍女を務めてくれる人にも出会えると思うわ。それに、カーラが教えてくれたから、私は自分の事は自分で出来るもの。大丈夫、何とかなるわ」
「ですが、姫様、」
「あのね、カーラ。私はカーラが大切よ。だから、カーラには大好きな人と幸せになって欲しいの」
 にこりと微笑むと、カーラが動揺した。
「姫様…ご存知だったのですか…」
「ちょこっとだけね。それに…今回の事がなくても、私はいずれ、カーラに暇を出したわ」
「そんな、姫様」
「…カーラが、私の世話があるからと、自分の幸せを我慢する姿は見たくないの。いい?カーラ。これは、主としての命令よ。絶対に、幸せになって」
 シャーロットがほんの少し頬を緩めて微笑むと、カーラは泣き崩れながらも、頷いた。
 祝福を恐れるシャーロットが笑うなど、そうある事ではない、と誰よりも知っている故に。
 シャーロットの出立は、ひっそりと行われた。
 王女シャーロットが北の塔を出た、と言う情報は、公にすべきものではない。
 塔を出たと知られれば、何処にいるのかと詮索が始まるのは必須だからだ。
 それ故にシャーロットは、人気のない北門で、両親と宰相リンギット、カーラのみに見送られ、旅立つ事となった。
 他に知り合いもいないのだから、シャーロットに不満はなかったのだが、両親は、王女の降嫁なのにパレードも出来ないなんて、と、申し訳なさそうにしていた。
 シャーロットに心残りがあるとすれば、唯一つ。
「シャーロット様」
 気が付けば、馬車は足を止めていた。
 獣人族は、祖が獣だからか、馬の扱いに長けている。
 馬車の御し方も巧みで、発車時も停車時も、シャーロットは心配していたような体の負担を感じていなかった
 操縦の上手さと、ふかふかのクッションのお陰か、シャーロットの肉付きの薄い体でも、馬車の振動が今の所、苦ではない。
 物思いに耽っていたシャーロットは、客車の外から声を掛けられて、顔を上げた。
「はい」
「こちらで暫し、停車致します。扉を開けてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
 応えると、静かに扉が開けられ、ヴィンセントが顔を覗かせた。
「二時間程走りましたが、お疲れではありませんか?」
 ヴィンセントが問いながら、シャーロットに手を伸ばす。
 余りにも当然のように差し伸べられたので、シャーロットも思わず、手を重ねてしまった。
「お気遣い有難うございます。思っていたよりも揺れないものなのですね。御者の方が巧みなのでしょうか」
「そうですね、今、馬車を御している者はジェラルドと申します。今回、シャーロット様に付き従っている者の中で、最も、操縦に長けている者です」
 手を引かれるまま、シャーロットが足を庇いながら立ち上がると、ヴィンセントはシャーロットの体を抱きかかえた。
 紹介された御者が、シャーロットを振り返って、ぺこりと頭を下げる。
 周囲を見渡すと、獣人族達は皆、王宮と同じように、黒一色の衣装にスカーフを頭に巻いたままだ。
 違いと言えば、夜会のような美々しい服装ではなく、旅装のマントをしっかりと体に巻いている事だろうか。
 人族の住まう地域では、ずっと、この服装なのだろう。
 シャーロットは、ヴィンセントに抱き上げられたまま、周囲を見渡す。
 馬車は、緑の木立の中で停車していた。
 大きな街道ではないのか、土を固く突き固めた馬車一台分の道幅の道路が、脇を走っている。
「ここは…?」
「こちらは、王都の端にあるポートス墓地と言う場所です。貴族であれば、領地に先祖代々の墓がありますが、領地を持たない貴族や王都に住まう平民は、亡くなるとこの地に埋葬されるのです」
 シャーロットが、驚いてヴィンセントを振り向くと、彼は何もかも判っている顔で、頷いた。
「ローレ・ダナヤ夫人も、こちらに」
「バーナディス辺境伯様…有難うございます…」
 シャーロットの唯一の心残り。
 それは、シャーロットを育ててくれた乳母ローレの墓参に行けていない事だった。
 塔から出られなかったシャーロットは、ローレの葬儀にも参列出来なかった。
 墓参だけでも、との願いが、王都を出るタイミングで叶うとは。
「御屋形様、こちらです」
 先に、ローレの墓の位置を確認しに行ってくれたのだろう。
 獣人族の一人が、墓地の奥から戻ってきて、ヴィンセントに報告する。
「判った。シャーロット様、お連れしてよろしいですか?」
「お願いします。…あの、お名前を伺ってもよろしいかしら?」
 ヴィンセントに報告に来た獣人族――透き通るように白い肌に金色の髪、青い瞳と、王宮の夜会に出たら人目を引きそうな整った容貌の青年に尋ねると、彼は、ヴィンセントの顔を窺うように見た。
 ヴィンセントが頷くのを見て、
「コリンです」
と、名乗る。
「コリンさん、ね。有難う」
 シャーロットが目礼すると、コリンは少し戸惑った顔をして、頭を下げた。
「直ぐに全員…は難しいですけれど、ノーハンに到着するまでには、皆さんのお顔と名前が一致するようになっていたいです」
「さようですか」
 ヴィンセントは微笑んで、木立の奥に向かって歩き出す。
「朝もお話しましたが、獣人族は、家柄や身分ではなく、個人の能力で相手を判断します。今回の王都行きに同行している者は、いずれも精鋭揃い。どうぞ、ご安心ください」
 梢を渡る風が、さやさやと耳に心地よい。
 シャーロットは顔を上げて、木漏れ日の眩しさに目を細めた。
「…お日様って、こんなに眩しいものだったのですね…忘れておりました」
 それは、無意識に零れた心の声だったのだが、ヴィンセントは胸を突かれたように、眉を顰める。
「シャーロット様…」
 暗い北の塔の部屋を思い出したのだろう。
 あのように小さな窓では、日差しの眩しさなど、実感する筈もない。
 ヴィンセントの切なそうな表情には気づかずに、シャーロットは目を閉じて、思い切り息を吸い込む。
「緑の匂い…」
 北の塔は、王宮内で一番高い建物だけに、遠くまで見渡す事が出来たが、王城への侵入を防止する目的で、背の高い木は周囲に一本もなかった。
 王宮内の植物と言えば、草花と低木のみで、それらもまた、王宮の「表側」に集中している。
 北の塔がひっそりと建つ「裏側」には、不審者が隠れる物陰を作りそうな植物は植えられていないのだ。
 ヴィンセントに抱きかかえられたままではあるが、全身で自然を感じようとしているシャーロットを、ヴィンセントは沈黙したまま、見守った。
「こちらです」
 ヴィンセントが次に声を掛けたのは、ローレの墓の前だった。
 墓は、整然と並ぶ区画の片隅にあった。
 ローレが亡くなってから、三年。
 漸く、ここに足を運ぶ事が出来た。
 シャーロットは、ヴィンセントに下ろして貰うと、痛む足を庇うように膝立ちとなり、ローレの名が刻まれた墓石を覗き込む。
「…本当に、ここにいるのね…」
 シャーロットに病を移すわけにはいかないから、と、ローレもカーラも、僅かでも体調に異変を感じると、塔に足を運ばなかった。
 だから、シャーロットは本格的にローレが寝込むよりも前から、彼女の顔を見ていない。
 軽い風邪を引いたようです、と聞いていたのに、一か月後には、亡くなってしまったのだ。
 心の何処かに、シャーロットの世話に疲れて引退したのではないか、との疑念が僅かにあったのは否めない。
 ローレがシャーロットに向けてくれた愛情は確かにあったけれど、その愛情故にシャーロットの傍にい続けるのは辛いであろう事も、その頃のシャーロットにはもう、判っていた。
「ローレ…」
 母を恋しがって泣く三歳のシャーロットを、抱き締めたくとも王命により触れる事の出来ないもどかしさに、両手を強く握りしめて耐えていた姿を、思い出す。
 泣き過ぎて声が枯れ、瞼がぱんぱんに腫れて目も開かなくなったシャーロットを、直接触れなければよいだろう、と、何重にも毛布でぐるぐる巻きにくるんで、ただ一度きり、そっと胸に抱き寄せてくれたローレ。
 お父上もお母上も、シャーロット様を大切に思ってらっしゃいますよ、と、何度も何度も繰り返された言葉。
 あのような環境で、シャーロットが世を儚んで憂う事なく育つ事が出来たのは、ローレの存在による所が大きい。
 シャーロットは、墓石に刻まれたローレの名を、指でそっとなぞる。
 芝の生えた地面に埋め込まれた平板の墓石の周囲に、見慣れた葉の形を見つけて、シャーロットは呟いた。
「まぁ…ティルカの葉だわ」
 ティルカは、真夏に咲く黄色い花だ。
 夏空の濃い青に負けないくっきりとした黄色で、ローレが好んでいた。
 夏になると、シャーロットの部屋はティルカで飾られ、ほのかな甘い香りが漂っていたものである。
 シャーロットも、何度もティルカをモチーフにした刺繍を刺した。
 今はまだ初夏だから、ティルカが咲くには早いが、葉が青々と茂っていると言う事は、蕾がつくのも遠くないだろう。
「きっと、こぼれ種が芽吹いたのでしょう」
 シャーロットの言葉を受けて、ヴィンセントが答える。
 周囲を見渡しても、ティルカの葉があるのは、ローレの墓のみ。
 恐らく、カーラが手向けた花から、種が零れたのだと思われた。
 シャーロットは膝をついた姿勢のまま、両手を胸の前で組んで瞳を閉じると、祈りを捧げる。
 天の花園へと渡った人の安寧を祈る真摯な横顔を、ヴィンセントは魅入られたように見つめていた。
 その時だった。
 風が変わった気がして、ヴィンセントは素早く周囲に視線を向ける。
 シャーロットがノーハンへ向かう事は極秘事項だが、何処からか漏れて身柄を狙われる可能性は否定出来ない。
 注意深く気配を探ってみたものの、敵意のあるものは感じず、再びシャーロットに視線を戻して驚いた。
 目を閉じて祈るシャーロットの周囲を、黄色い花が埋め尽くしていたのだ。
「あれは…ティルカ…」
 ローレの墓石を囲むように芽吹いていたティルカが、ぐんぐんと茎を伸ばし、満開の花を咲かせている。
 きらきらと、シャーロットの周囲の空気が輝いて見えて、ヴィンセントは目を瞬かせた。
 シャーロットが祝福を受けている事は、十五年前のあの日、目の前で見たからよく判っている。
 それでも、時の流れを無視して花が咲く奇跡は、何度見ても引き込まれるものがある。
「…御屋形様…これは一体…」
 案内の為、傍にいたコリンが震える小声で尋ねる。
 貴族の間では、シャーロットの受けている祝福は説明するまでもない『常識』だが、王都から遠く離れたノーハンの地に住まう平民の間には、そう知られていない事を、ヴィンセントは思い出した。
「…シャーロット様は、精霊に気に入られていらっしゃるんだ」
 コリンが、息を飲む。
 だが、それは恐れよりも、畏れに近い。
 人族よりも精霊に近い獣人族にとって、精霊に気に入られると言う事は、素直に尊敬すべき点なのだから。
「…いずれ、皆に知れる事とは思うが、敢えて声高に知らせる事ではない」
「判りました」
 シャーロットがノーハンで暮らすようになれば、日々の生活の中で、精霊の祝福に気づく者が現れるだろう。
 だが、シャーロットが、そしてハビエルが恐れていたのは、人に直接影響を与える祝福だ。
 ノーハンに住まう者は殆どが獣人族。
 獣人族と精霊との関わりは、人族のそれとは異なるし、獣人族は精霊の祝福を受けにくい、と言う伝承が確かであれば、シャーロットの祝福が自然界のもの以外にも影響を持つなど、判る筈もない。
「…え」
 祈りを終えて目を開けたシャーロットが、目の前の光景に驚いて声を上げた。
 己の祝福がなくなっていない事を判ってはいても、改めて視覚的に判る祝福を受けると、体が震えてしまう。
 恐怖で引きつった貴族達の顔を思い出して青褪めたシャーロットに、ヴィンセントがおもむろに声を掛けた。
「美しいですね。一足早く、真夏の風を感じました」
「バーナディス辺境伯様…」
 穏やかなヴィンセントの笑みに、強張っていたシャーロットの体から、少しずつ力が抜けていく。
「乳母殿もお喜びでしょう。今年は長く、ティルカを楽しむ事が出来ると」
 言いながら、膝をついているシャーロットに手を伸ばし、その体を自然に抱き上げた。
「お話は、もうよろしいのですか?」
「はい…もう、十分です。連れて来て頂き、有難うございました」
 まだ青褪めた顔色ながらも、健気に礼を言うシャーロットを、ヴィンセントは眩しそうに目を細めて眺める。
「頃合いも良いでしょう。馬車に戻りましょうか」
 何の頃合いなのか判らないながらもシャーロットが頷くと、ヴィンセントは微笑んで、少しだけ彼女を抱く腕に力を込めた。
 その温かさに、シャーロットの腹の奥底にある氷のような塊が、ゆっくりと溶けていくのを感じる。
 無言のまま、緑の木立を進んでいくと、開けた場所に停められた馬車が視界に入った。
 馬車の周囲は、シャーロットが墓地に向かう前と様相が一変している。
 獣人族の従者達がきびきびと働く中、シャーロットは美味しそうな匂いが漂っている事に気づいた。
 拾った石で炉を組んで作った簡易的な調理場で、枯れ木を燃して昼食を作っているのだ。
 鉄製の大鍋には、具沢山のスープが煮えている。
「シャーロット様、お腹は空いていませんか?」
 今日は出立の準備に慌ただしく、朝のお茶の時間がなかった。
 シャーロットが食べたのは、起床後直ぐに運ばれたほんの二口ばかりのパンと、器に少しのスープのみ。
「…そう言えば…少し…」
 空腹など、感じるのはどれ位振りだろうか。
 時間ごとに運ばれる食事と軽食を、義務のように詰め込んでいたから、空腹になってから食事をするのは、覚えがない。
「では、頂きましょう。旅の間は、このような食事が中心となります。乾燥させた携行用の野菜や穀類、それと野営地周辺の自然の恵みを使ったスープです」
 それまで、黙って自分の作業をしていた獣人族達が、その言葉をきっかけに動き出す。
 シャーロットにも、木の椀にたっぷりとよそわれたスープと、木の匙が手渡された。
「あの…私は食が細いので、こんなに頂けるか…」
 量の多さに、申し訳なさそうにシャーロットが言うと、ヴィンセントが、あぁ、と頷く。
「少々、多いかもしれませんね。もう少し、少ない盛り付けに致しましょう。ですが、シャーロット様。足が治りましたら、運動して、お腹をたくさん空かせて、もっとたくさん食べられるようになりましょうね。少し、軽過ぎるようですから」
 ヴィンセントに片手でひょい、と簡単に抱き上げられてしまう自分の棒切れのような手足を見て、シャーロットは恥ずかし気に、はい、と小さく返した。
 温かそうな湯気が立つ木椀を受け取ったシャーロットは、匙で中身をぐるりとかき混ぜる。
 ヴィンセントの話した通り、たっぷりの野菜と茸、それと穀類が入って、一椀で栄養が補給出来るように考えられているらしい。
 そのまま、周囲の獣人族に倣い、匙を口に運んだシャーロットは、余りの熱さに小さく悲鳴を上げる。
「ぁつ…っ」
「シャーロット様?!」
 涙目になったシャーロットを見て慌てるヴィンセントに、何でもない、と首を振ったシャーロットは、口の中のものを飲み下した後、申し訳なさそうに眉を顰めた。
「ごめんなさい。驚かせてしまいました。湯気の立つ食べ物は温かいのだ、と、頭では判っていたつもりでしたのに…」
 長年、冷めきった食べ物しか食べて来なかったシャーロットは、熱い物は適度な温度まで冷まして食べる事を知識として知ってはいても、身についていなかったのだ。
 唖然とする獣人族達の視線に、恥ずかしそうな、困ったような顔を見せたシャーロットは、おずおずともう一匙掬って、不慣れな様子で冷めるのをじっと待ち、漸く口に運ぶ。
 その様子を、無意識に獣人族達は全員、息を飲んで見守った。
「……っ」
 舌が触れた瞬間、シャーロットが目を見開いて、口元を手で覆う。
「お、お口に合いませんでしたか…?」
 思わず、と言った様子で、従者の一人が尋ねると、シャーロットはふるふると首を横に振った。
 ポロと、その頬を涙が伝うのを見て、ヴィンセントが声を掛ける。
「シャーロット様…?」
 シャーロットは、己が泣いている事にも気づかないようで、暫く木椀を見つめた後、ヴィンセントの顔を見て、その後、車座となっている従者達を見た。
「おいしい、です…」
 ホッと息を吐いた者が何人いたものやら、安堵の表情を見せる獣人族達に、シャーロットは言葉を続けた。
「温かい食事が、誰かと共に摂る食事が、美味しいのだと言う事を、思い出しました…有難うございます」
 久し振りに食べ物の味を感じて、シャーロットは味わうようにもう一掬い、スープを口に運ぶ。
 何だか胸が一杯で、たくさん食べられる気はしないが、確かに美味しいと感じられている事を、幸せに思う。
 うっすらと頬を緩めたシャーロットに、従者達は顔を見合わせ、ヴィンセントは痛ましそうな顔を向けると、そっと、彼女のチョコレート色の髪を撫でた。
「さようですか。お口に合ったのでしたら、何よりです」
 シャーロットの涙は、宝石には転じない。
 だとすれば、これは嬉し涙ではなく、何か何処か苦い思いのある涙である筈だ。
 彼女の十五年を思って己の内に湧き上がる感情を、ヴィンセントは懸命に押し殺す。
 シャーロットは、椀に盛られた四分の一程を口にして、満腹となった。
「美味しく頂きました。恵みに感謝致します」
 シャーロットの感謝の言葉に、獣人族達は、またしても彼女の顔を見る。
 自然と共に生きる獣人族の間にも、食事に感謝の言葉を向ける者は少ない。
 ましてや、彼女は王女なのだ。
「旅の間は、このような食事ばかりになってしまいますが、夜は出来るだけ、旅籠に泊まりますのでご安心下さい」
 王宮から出た事のないシャーロットは、旅がどのようなものなのか、知らない。
 ヴィンセントの言葉に初めて、夜になったら寝るものだった、と思い出した位だ。
「あの…はたご?には、皆様、常に泊まってらっしゃるものなのですか?」
「そうですね、急ぎの旅ではない時には。旅籠は宿場町にしかございませんから、先を急いでいる時には野宿も致します」
「では、今回も、予定されている宿泊以外はどうぞ、そのようになさって下さい」
「シャーロット様…?」
 戸惑うようなヴィンセントに、シャーロットは精一杯の誠意を込めて答える。
「バーナディス辺境伯様は、ノーハンまでお急ぎだと伺いました。ナランとの間に、諍いがあるのですよね?ノーハンの方達も、バーナディス辺境伯様がいらしたら、どれだけ心強い事でしょう。ただでさえ、私が同行させて頂く事で、余計に日数が掛かってしまうのです。少しでも、早く着く方法があるのでしたら、どうぞ、そのようになさって下さい」
「ですが…寝台のない場所で、シャーロット様に眠って頂くなど」
「私は、」
 言い掛けて、シャーロットは気後れしたように一度口を噤み、考えを巡らした。
「私は、シャーロット・エイディアです。両親は貴族出身ですが、貴族籍を離脱したので、私は平民なのです」
 シャーロット・エイディア。
 新しく、シャーロットに与えられた名前だ。
 両親はそれぞれ貴族階級の生まれで、母親がリンギットの縁戚となるのだが、学究肌で他国の見識を深める為に遊学していた。
 その旅の途中で生まれた娘が、シャーロット、と言う事になっている。
 両親が不慮の事故で亡くなった為、伝手を辿ってマハトに帰国した娘。
 それが、これからのシャーロットの人生だ。
 多少、マハトの常識に疎くとも、定住しなかった両親に異国で育てられた娘だから。行動や言動が平民らしくなくとも、貴族階級だった両親に育てられたから、と言う言い訳を、リンギットが考えてくれていた。
「旅慣れた娘、の筈なのですから、寝台でなくても寝られなくてはいけません」
 シャーロットの言葉に、ヴィンセントは暫し考えた後、頷く。
「…確かに、一理ありますね」
「私の素性をご存知なのは、この場にいる皆様だけだと伺っております。ノーハンの方の安全の為にも、私はシャーロット・エイディアとして振る舞えるようにならねばならないのです。どうぞ、ご協力下さい」
 シャーロットが頭を下げると、二人の会話を見守っていた従者達が、慌てた様子で頭を下げ返した。
「バーナディス辺境伯様。一度で覚えられるか自信はありませんが、同行されている皆様をご紹介頂けますか?」
「承知致しました」
 ヴィンセントは、車座となっている従者達を、一人ずつ、丁寧に紹介していく。
 名前だけではなく、他の情報を付け加えるのは、シャーロットの印象に残って、覚えやすくする為だろう。
 十名の従者の紹介が終わると、シャーロットは、改めて背筋を伸ばす。
「ご挨拶が遅くなりまして申し訳ございません。シャーロット・エイディアでございます。この度、バーナディス辺境伯様とご縁があり、ノーハン領で暮らす事となりました。何分、世間を知りませんので、ご迷惑をお掛けする事も多いかと存じます。お手数ですが、どうぞ、その折には、改善点をご指摘下さいませ」
 獣人族は身分ではなく能力を重視するとは言え、王都に伴われるような従者は、人族の考え方もよく判っている。
 シャーロットの本来の身分を知っている従者達は、戸惑ってヴィンセントの顔を見た。
 彼女は、王族なのだ。
 普段、人族との扱いに差を感じている彼等は、深々と頭を下げたシャーロットに、どう返していいものやら迷っていた。
「お前達」
 従者の戸惑いを十分に理解した上で、ヴィンセントが口を開く。
「改めて、話しておく。シャーロット様は、この度、我がバーナディス家に嫁ぐ為、ノーハンに同行して下さる事となった。花嫁が、ノーハンの習慣に慣れたいと望んでいるのだから、その意向に添うようにして欲しい」
 シャーロットが、北の塔に保護されていた王女である事。
 シャーロットが、ノーハンで暮らす事。
 それ位の情報しか知らされていなかった為、従者達の間に、動揺が広がる。
「へい」
 一番に返答したのは、ジェラルドだった。
 彼は、物問いた気な顔をしつつも、ヴィンセントの言葉に戸惑う従者達の先陣を切って、了承の意を伝える。
 従者達のまとめ役であるロビンは、場をジェラルドに任せたのか、何も発言しない。
 ジェラルドに追従するように頷く従者たちの顔を見渡して、ヴィンセントは号令を掛けた。
「では、そろそろ出立しようか」
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