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「何処に行っていたのだ!」
トビアスに見つかるなり、頭ごなしに怒鳴られた。
「お前のせいで、恥をかいたではないか!」
ヴィヴィアンは、浮かべた微笑をそのままに、トビアスに一通の手紙を差し出した。
「何だ、これは」
「アーヴァイン殿下から、直々にお預かりしたものです」
「!アーヴァイン殿下、お手ずから、か」
今夜、披露されたばかりの主役の一人であり、挨拶を望む人々に囲まれる立場の人間が、社交の時間を割いてヴィヴィアンに接触した、と言う事実に、トビアスの背を、冷たい汗が伝う。
本来、手紙とは、目の前にいない人物に宛てて、送られるものだ。
それが、『同じ空間にいる人物から』、『人伝に』、渡された。
ここで、問題になる点が幾つかある。
まず、わざわざ形に残る手紙である点。
これは、確実な証拠を残し、言った言わないの水掛け論を防止すると言う事。
続いて、夜会の会場で渡された点。
後日で良い内容ならば、自宅に送付するのだから、今、この場での確認が求められていると言う事。
そして、ヴィヴィアンを介して渡された点。
正式に紹介を受けた訳ではないが、トビアスはアーヴァインと一度、言葉を交わしている。
同じ大広間にいるにも関わらず、直接声を掛けられるわけでも、部下を仲介するわけでもないと言う事は、伯爵家当主であるトビアスよりも、妻であるヴィヴィアンを重視していると言う事。
どの点を取っても、トビアスにとって、好意的な内容とは思えない。
内容が気になるが、ヴィヴィアンの目の前で開封すべきか否か、悩ましい。
そわそわと封筒を確認していたトビアスは、裏の封蝋を見て、動揺のあまり、凍りついた。
「…これは、陛下のお印ではないか…」
小刻みに震えているトビアスに、ヴィヴィアンは、「まぁ」と小さく声を上げた。
「アーヴァイン殿下から、と言ってはいなかったか」
「わたくしがお預かりしたのは、アーヴァイン殿下ご本人からですが、何方からのお手紙かは存じ上げません」
アーヴァインが、ヴィヴィアンに、国王からの手紙を預けた。
それは、彼のヴィヴィアンへの信頼の深さを表す。
トビアスも、ヴィヴィアンに対する態度こそ最悪だが、文官としては優秀な男だ。
王族の振る舞いの意味位、理解出来るつもりだ。
「何故、殿下がお前を…」
独り言のつもりが、ヴィヴィアンの耳に、しっかりと届いていた。
「殿下はお優しい方ですので、お気遣いくださっているのです」
「…」
トビアスは、複雑な表情を浮かべると、ヴィヴィアンに顎をしゃくり、壁際へと誘導した。
手紙の内容如何によっては、仲介人であるヴィヴィアンを通じて返答しなければならない。
封蝋を切ったトビアスは、厚みのある便箋を広げると、震える手で読み始めた。
王宮に伺候していると言えども、国王からの手紙など、受け取った事はないのだから。
次第に、真っ青に血の気が下がり、一気に老け込んだかのように真っ白になったかと思えば、真っ赤な顔で、荒い息を飲み込む。
「……っ」
何か言おうと口を開き、だが、それは音にならず、結果として、ハクハクと口を開閉しているだけだ。
「…一週間以内に、荷物をまとめて、家を出て行くといい」
最終的に絞り出したのは、そんな言葉だった。
「畏まりました」
理由も問わず、ヴィヴィアンは従順に受け入れる。
「…何故、とは、聞かんのか」
「年明けに、本邸にお戻りになると仰っていましたので」
「…あぁ、そうだったな…」
ヴィヴィアンが、すっかり大人しくなったトビアスの顔を見ると、彼は溜息を吐いてから、
「陛下により、この婚姻の無効が認められた」
と、答えた。
離婚は本来ならば、夫と、妻の実家の当主――ヴィヴィアンの場合は父スタンリー、双方の了解を得なくてはならない。
そして、婚姻無効は、白い結婚の証拠を上げて、国に訴え出なくてはならない。
だが、国主たる国王であれば、話は別だ。
勿論、国王だからと言って、安易に人の人生を左右する決断をくだしていいわけはない。
数々の証拠を重ねた結果、トビアスとヴィヴィアンの結婚が、ブライトン伯爵家、そして、リンデンバーグ王国に益を齎さない為、白い結婚として婚姻無効にすべき、と判断された、と言う事だ。
「…これらの資料をお集めになったのは、アーヴァイン殿下なのであろうな…改めて文書にされると、我ながら、最低な行動を取っていたものだ」
初めて聞く、落ち着いたトビアスの声に、ヴィヴィアンは首を傾げた。
この様子だけを見れば、優秀な文官、との噂も眉唾ではないのかもしれない。
彼もまた、人生に翻弄されて、ヴィヴィアンへの態度がこじれた一人なのだろう。
「書類が整ったら、アイリーンと籍を入れるよう、ご指示を受けた」
ヴィヴィアンは、黙って頷いた。
アイリーンもまた、ヴィヴィアンにとっては良い印象のない人物だが、彼女がトビアスを一心に慕っていた事だけは、認められる。
「…私は、父親になるそうだ」
トビアスの頬を、涙が一粒、零れ落ちた。
手紙の中に、アイリーンの懐妊を示す証拠があったと言う事か。
愛する人との子にブライトン家を継がせる、と言いながら、アイリーンに子を生ませる様子がなかったから、どうする気なのだろう、と思ってはいた。
恐らく、彼等もまた、子を授からない事に悩んでいたのだ。
ランドリック侯爵の夜会で取り乱していたアイリーンも、妊娠により情緒不安定になっていたのだ、と思えば、納得出来なくはない。
…彼女は元々、癇の強い女性ではあったけれど。
「それは…おめでとうございます」
子供に罪はない。
新たな命の誕生は喜ばしい、と、ヴィヴィアンが何の含みもなく祝意を述べると、トビアスは気まずそうに目を逸らした。
「援助を受けた資金については…時間は掛かってしまうが、返済する。ランドリック侯爵への慰謝料も、自分の手で、何とかする。…私は、父と同じにはならない。生まれて来る、子の為にも」
何だかいい感じにまとめようとしているが、決して、これまでの五年を水に流してやるわけではない。
そんな思いを込めて、ヴィヴィアンが意図的ににっこりと微笑むと、トビアスは、ぐ、と言葉に詰まった後に、深く頭を下げた。
「…これまで、申し訳、なかった…」
生活レベルの維持を目的に、アイリーンを切り捨てようとしたトビアス。
十年以上の月日を共にしたのに、捨てられそうになったアイリーン。
ヴィヴィアンとの縁が切れる以上、これまでしていた贅沢三昧が出来ない所か、返済がある分、生活は苦しくなる。
ブライトン伯爵邸で、ヴィヴィアンは女主人として五年に渡り、使用人への手当てを厚くし、彼等の教育に力を入れる事で(主目的は、ヴィヴィアンが楽をしつつ、商品価値を上げる為だったが)、使用人を置いて家を出たトビアスよりも、それなりに慕われていた。
子を授かったから、と、元の鞘に収まって籍を入れたとしても、夫婦間も、使用人との仲も、上手くやっていけるのかは、判らない。
ヴィヴィアンと言う障害があったからこそ、燃え上がっていた部分もあるのだろうから。
だが、それこそ、ヴィヴィアンの知った事ではない。
「どうぞ、お幸せに」
「クレメント男爵、少しいいかね」
大舞踏会の最中、ランドリック侯爵に呼び止められ、スタンリーは足を止めた。
商売の都合上、社交界での顔は広いが、これまで、ランドリック侯爵と個人的に言葉を交わした事はない。
社交界でも王宮でも、重鎮としての地位を築いているランドリック侯爵は、政治的にも私生活でも、スタンリーが付け入るような隙のある人物ではないからだ。
「これはこれは、ランドリック侯爵閣下。私に、何か御用でしょうか」
商売柄、人に警戒心を抱かせない笑みの浮かべ方は、よく心得ている。
家族の前ではまず見せない笑顔で応対すると、ランドリック侯爵は、にこやかな笑みを浮かべた。
「いや、何、少々込み入った話をしたいのだが、時間を貰えるかね?」
「えぇ、勿論です」
その隙に、夫の隣で微笑んでいたランドリック侯爵夫人が、スタンリーの妻リズを連れて、彼等から少し距離を取る。
「…おや、妻には聞かせられないようなお話で?」
「うむ。悪い話ではないと思うのだが、ご細君には少々、辛いやもしれんのでな」
「と、仰いますと?」
「卿のご息女、ヴィヴィアン嬢を、ランドリック家の養女にせんかね?」
「ヴィヴィアン、ですか…」
スタンリーは、ちら、と広間に視線を巡らせた。
銀の髪を持つ彼の娘は、広間の何処にいても、直ぐに見つけられる。
彼女は今、夫トビアスと、壁際で何やら話し込んでいた。
不仲である彼等が言葉を交わしているなど、天変地異の前触れではないか。
「有難いお話ですが、娘は、ブライトン伯爵家に嫁いでおります」
「これは、異な事を」
「…は?」
「ブライトン伯爵夫妻の婚姻は、無効である、と、認定されている」
「な、」
滅多な事では狼狽える事のないスタンリーは、思わず、声を上ずらせた。
「無効?離縁ではなく、無効ですか?一体、どう言う事でしょうか」
「それは、卿がよくご存知だろう?陛下直々に、二人の婚姻に実態はなく、白い結婚であると認められたのだよ」
「陛下、が、」
日頃、貴族の爵位を、如何に稼ぐ為の踏み台にするかしか考えていないスタンリーだが、国王と言う地位だけは、触れてはならない領域だと理解している。
一代で財を築いただけの商人であるスタンリーなど、国王に目をつけられれば、終わりだ。
「陛下は、ブライトン伯爵夫妻の不仲を、殊の外、気に掛けていらしてな。ブライトン家の為にも、我が国の為にも、婚姻をなかった事にして、互いに別の道に進ませた方がよい、と結論づけられた」
「さ、ようで…」
「だが、ブライトン伯爵家との縁は、卿にとって、意味のあるものだろう。代わりに、と言っては何だが、ヴィヴィアン嬢をランドリック家の養女とする事で、我が家との縁を築けばよいのではないか、と思うのだが、どうかね?」
「どうかね?」と尋ねつつも、ランドリック侯爵の笑顔の圧は強い。
是、以外の回答は、受け付けない、と言う態度を隠しもしていない。
「それは…我が家にとっても、娘にとっても、この上ないお申し出ではございますが、閣下にどのような利があるのか、私の頭では、とんと思いつきません」
「ふむ、利か」
ランドリック侯爵はそう言うと、顎を撫でた。
「私が、ヴィヴィアン嬢を気に入ったから、と言うのでは不足か?」
「白い結婚と申しましても、現実として他家に出た事のある娘では、何処ぞに縁づかせるには、使い勝手が悪いのではございませんか」
「使い勝手、なぁ」
ランドリック侯爵は、苦笑する。
スタンリーがこのような男だと話には聞いていても、実際に言葉を交わすと、考え方が全く違うのだと思わざるを得ない。
心と心の結びつきによる家族の存在など、スタンリーには、想像の埒外なのだろう。
「我が家は、男ばかりが三人生まれてな。娘が欲しいのだ。ヴィヴィアン嬢は、稀有な色を持つ美しいご令嬢だろう?」
「…はぁ…」
「何、我が家の家名があれば、引く手数多だ。良い縁があれば、我が家から嫁に出そう。だが、下手な家と縁づく位ならば、家にいてくれていい。妻の社交の良き補佐となってくれるだろうからな」
「なるほど、奥方様の補佐ですか。そこまで、仰って頂けるのでしたら…私としても、閣下との縁は、喉から手が出る程に欲しいものですから、お願い致しましょう」
貴族にとって、養子の話は然して、珍しいものではない。
だが、本人の意思を確認する事も、ヴィヴィアンの母親である妻の意見を聞く事もないスタンリーに、ランドリック侯爵は内心、呆れ果てた。
そう言う男だと聞いていたし、このような話運びにすれば、確実に養子の話に乗って来る、と聞いてはいたけれど、余りにも親子の情が薄い。
だが、そのような気持ちなど、おくびにも出さず、契約成立とばかりに畳み掛ける。
「そうかそうか。では、早速だが、こちらの書類に署名を貰えるかな?善は急げと言うだろう?」
『ランドリック侯爵。折り入って、頼みがある』
大舞踏会の少し前、自身の正体を明かした彼は、臣下の礼を執ろうとするランドリック侯爵に対して、深々と頭を下げた。
『ヴィヴィアンが、どんな未来を選ぶかは、まだ判らない。だが、彼女が何の懸念もなく、進みたい未来へと歩んでいけるようにしておきたい』
手を貸せるのは、此処までだ。
これからの未来がどう進むのか、ランドリック侯爵は、静かに見守る事に決めた。
トビアスに見つかるなり、頭ごなしに怒鳴られた。
「お前のせいで、恥をかいたではないか!」
ヴィヴィアンは、浮かべた微笑をそのままに、トビアスに一通の手紙を差し出した。
「何だ、これは」
「アーヴァイン殿下から、直々にお預かりしたものです」
「!アーヴァイン殿下、お手ずから、か」
今夜、披露されたばかりの主役の一人であり、挨拶を望む人々に囲まれる立場の人間が、社交の時間を割いてヴィヴィアンに接触した、と言う事実に、トビアスの背を、冷たい汗が伝う。
本来、手紙とは、目の前にいない人物に宛てて、送られるものだ。
それが、『同じ空間にいる人物から』、『人伝に』、渡された。
ここで、問題になる点が幾つかある。
まず、わざわざ形に残る手紙である点。
これは、確実な証拠を残し、言った言わないの水掛け論を防止すると言う事。
続いて、夜会の会場で渡された点。
後日で良い内容ならば、自宅に送付するのだから、今、この場での確認が求められていると言う事。
そして、ヴィヴィアンを介して渡された点。
正式に紹介を受けた訳ではないが、トビアスはアーヴァインと一度、言葉を交わしている。
同じ大広間にいるにも関わらず、直接声を掛けられるわけでも、部下を仲介するわけでもないと言う事は、伯爵家当主であるトビアスよりも、妻であるヴィヴィアンを重視していると言う事。
どの点を取っても、トビアスにとって、好意的な内容とは思えない。
内容が気になるが、ヴィヴィアンの目の前で開封すべきか否か、悩ましい。
そわそわと封筒を確認していたトビアスは、裏の封蝋を見て、動揺のあまり、凍りついた。
「…これは、陛下のお印ではないか…」
小刻みに震えているトビアスに、ヴィヴィアンは、「まぁ」と小さく声を上げた。
「アーヴァイン殿下から、と言ってはいなかったか」
「わたくしがお預かりしたのは、アーヴァイン殿下ご本人からですが、何方からのお手紙かは存じ上げません」
アーヴァインが、ヴィヴィアンに、国王からの手紙を預けた。
それは、彼のヴィヴィアンへの信頼の深さを表す。
トビアスも、ヴィヴィアンに対する態度こそ最悪だが、文官としては優秀な男だ。
王族の振る舞いの意味位、理解出来るつもりだ。
「何故、殿下がお前を…」
独り言のつもりが、ヴィヴィアンの耳に、しっかりと届いていた。
「殿下はお優しい方ですので、お気遣いくださっているのです」
「…」
トビアスは、複雑な表情を浮かべると、ヴィヴィアンに顎をしゃくり、壁際へと誘導した。
手紙の内容如何によっては、仲介人であるヴィヴィアンを通じて返答しなければならない。
封蝋を切ったトビアスは、厚みのある便箋を広げると、震える手で読み始めた。
王宮に伺候していると言えども、国王からの手紙など、受け取った事はないのだから。
次第に、真っ青に血の気が下がり、一気に老け込んだかのように真っ白になったかと思えば、真っ赤な顔で、荒い息を飲み込む。
「……っ」
何か言おうと口を開き、だが、それは音にならず、結果として、ハクハクと口を開閉しているだけだ。
「…一週間以内に、荷物をまとめて、家を出て行くといい」
最終的に絞り出したのは、そんな言葉だった。
「畏まりました」
理由も問わず、ヴィヴィアンは従順に受け入れる。
「…何故、とは、聞かんのか」
「年明けに、本邸にお戻りになると仰っていましたので」
「…あぁ、そうだったな…」
ヴィヴィアンが、すっかり大人しくなったトビアスの顔を見ると、彼は溜息を吐いてから、
「陛下により、この婚姻の無効が認められた」
と、答えた。
離婚は本来ならば、夫と、妻の実家の当主――ヴィヴィアンの場合は父スタンリー、双方の了解を得なくてはならない。
そして、婚姻無効は、白い結婚の証拠を上げて、国に訴え出なくてはならない。
だが、国主たる国王であれば、話は別だ。
勿論、国王だからと言って、安易に人の人生を左右する決断をくだしていいわけはない。
数々の証拠を重ねた結果、トビアスとヴィヴィアンの結婚が、ブライトン伯爵家、そして、リンデンバーグ王国に益を齎さない為、白い結婚として婚姻無効にすべき、と判断された、と言う事だ。
「…これらの資料をお集めになったのは、アーヴァイン殿下なのであろうな…改めて文書にされると、我ながら、最低な行動を取っていたものだ」
初めて聞く、落ち着いたトビアスの声に、ヴィヴィアンは首を傾げた。
この様子だけを見れば、優秀な文官、との噂も眉唾ではないのかもしれない。
彼もまた、人生に翻弄されて、ヴィヴィアンへの態度がこじれた一人なのだろう。
「書類が整ったら、アイリーンと籍を入れるよう、ご指示を受けた」
ヴィヴィアンは、黙って頷いた。
アイリーンもまた、ヴィヴィアンにとっては良い印象のない人物だが、彼女がトビアスを一心に慕っていた事だけは、認められる。
「…私は、父親になるそうだ」
トビアスの頬を、涙が一粒、零れ落ちた。
手紙の中に、アイリーンの懐妊を示す証拠があったと言う事か。
愛する人との子にブライトン家を継がせる、と言いながら、アイリーンに子を生ませる様子がなかったから、どうする気なのだろう、と思ってはいた。
恐らく、彼等もまた、子を授からない事に悩んでいたのだ。
ランドリック侯爵の夜会で取り乱していたアイリーンも、妊娠により情緒不安定になっていたのだ、と思えば、納得出来なくはない。
…彼女は元々、癇の強い女性ではあったけれど。
「それは…おめでとうございます」
子供に罪はない。
新たな命の誕生は喜ばしい、と、ヴィヴィアンが何の含みもなく祝意を述べると、トビアスは気まずそうに目を逸らした。
「援助を受けた資金については…時間は掛かってしまうが、返済する。ランドリック侯爵への慰謝料も、自分の手で、何とかする。…私は、父と同じにはならない。生まれて来る、子の為にも」
何だかいい感じにまとめようとしているが、決して、これまでの五年を水に流してやるわけではない。
そんな思いを込めて、ヴィヴィアンが意図的ににっこりと微笑むと、トビアスは、ぐ、と言葉に詰まった後に、深く頭を下げた。
「…これまで、申し訳、なかった…」
生活レベルの維持を目的に、アイリーンを切り捨てようとしたトビアス。
十年以上の月日を共にしたのに、捨てられそうになったアイリーン。
ヴィヴィアンとの縁が切れる以上、これまでしていた贅沢三昧が出来ない所か、返済がある分、生活は苦しくなる。
ブライトン伯爵邸で、ヴィヴィアンは女主人として五年に渡り、使用人への手当てを厚くし、彼等の教育に力を入れる事で(主目的は、ヴィヴィアンが楽をしつつ、商品価値を上げる為だったが)、使用人を置いて家を出たトビアスよりも、それなりに慕われていた。
子を授かったから、と、元の鞘に収まって籍を入れたとしても、夫婦間も、使用人との仲も、上手くやっていけるのかは、判らない。
ヴィヴィアンと言う障害があったからこそ、燃え上がっていた部分もあるのだろうから。
だが、それこそ、ヴィヴィアンの知った事ではない。
「どうぞ、お幸せに」
「クレメント男爵、少しいいかね」
大舞踏会の最中、ランドリック侯爵に呼び止められ、スタンリーは足を止めた。
商売の都合上、社交界での顔は広いが、これまで、ランドリック侯爵と個人的に言葉を交わした事はない。
社交界でも王宮でも、重鎮としての地位を築いているランドリック侯爵は、政治的にも私生活でも、スタンリーが付け入るような隙のある人物ではないからだ。
「これはこれは、ランドリック侯爵閣下。私に、何か御用でしょうか」
商売柄、人に警戒心を抱かせない笑みの浮かべ方は、よく心得ている。
家族の前ではまず見せない笑顔で応対すると、ランドリック侯爵は、にこやかな笑みを浮かべた。
「いや、何、少々込み入った話をしたいのだが、時間を貰えるかね?」
「えぇ、勿論です」
その隙に、夫の隣で微笑んでいたランドリック侯爵夫人が、スタンリーの妻リズを連れて、彼等から少し距離を取る。
「…おや、妻には聞かせられないようなお話で?」
「うむ。悪い話ではないと思うのだが、ご細君には少々、辛いやもしれんのでな」
「と、仰いますと?」
「卿のご息女、ヴィヴィアン嬢を、ランドリック家の養女にせんかね?」
「ヴィヴィアン、ですか…」
スタンリーは、ちら、と広間に視線を巡らせた。
銀の髪を持つ彼の娘は、広間の何処にいても、直ぐに見つけられる。
彼女は今、夫トビアスと、壁際で何やら話し込んでいた。
不仲である彼等が言葉を交わしているなど、天変地異の前触れではないか。
「有難いお話ですが、娘は、ブライトン伯爵家に嫁いでおります」
「これは、異な事を」
「…は?」
「ブライトン伯爵夫妻の婚姻は、無効である、と、認定されている」
「な、」
滅多な事では狼狽える事のないスタンリーは、思わず、声を上ずらせた。
「無効?離縁ではなく、無効ですか?一体、どう言う事でしょうか」
「それは、卿がよくご存知だろう?陛下直々に、二人の婚姻に実態はなく、白い結婚であると認められたのだよ」
「陛下、が、」
日頃、貴族の爵位を、如何に稼ぐ為の踏み台にするかしか考えていないスタンリーだが、国王と言う地位だけは、触れてはならない領域だと理解している。
一代で財を築いただけの商人であるスタンリーなど、国王に目をつけられれば、終わりだ。
「陛下は、ブライトン伯爵夫妻の不仲を、殊の外、気に掛けていらしてな。ブライトン家の為にも、我が国の為にも、婚姻をなかった事にして、互いに別の道に進ませた方がよい、と結論づけられた」
「さ、ようで…」
「だが、ブライトン伯爵家との縁は、卿にとって、意味のあるものだろう。代わりに、と言っては何だが、ヴィヴィアン嬢をランドリック家の養女とする事で、我が家との縁を築けばよいのではないか、と思うのだが、どうかね?」
「どうかね?」と尋ねつつも、ランドリック侯爵の笑顔の圧は強い。
是、以外の回答は、受け付けない、と言う態度を隠しもしていない。
「それは…我が家にとっても、娘にとっても、この上ないお申し出ではございますが、閣下にどのような利があるのか、私の頭では、とんと思いつきません」
「ふむ、利か」
ランドリック侯爵はそう言うと、顎を撫でた。
「私が、ヴィヴィアン嬢を気に入ったから、と言うのでは不足か?」
「白い結婚と申しましても、現実として他家に出た事のある娘では、何処ぞに縁づかせるには、使い勝手が悪いのではございませんか」
「使い勝手、なぁ」
ランドリック侯爵は、苦笑する。
スタンリーがこのような男だと話には聞いていても、実際に言葉を交わすと、考え方が全く違うのだと思わざるを得ない。
心と心の結びつきによる家族の存在など、スタンリーには、想像の埒外なのだろう。
「我が家は、男ばかりが三人生まれてな。娘が欲しいのだ。ヴィヴィアン嬢は、稀有な色を持つ美しいご令嬢だろう?」
「…はぁ…」
「何、我が家の家名があれば、引く手数多だ。良い縁があれば、我が家から嫁に出そう。だが、下手な家と縁づく位ならば、家にいてくれていい。妻の社交の良き補佐となってくれるだろうからな」
「なるほど、奥方様の補佐ですか。そこまで、仰って頂けるのでしたら…私としても、閣下との縁は、喉から手が出る程に欲しいものですから、お願い致しましょう」
貴族にとって、養子の話は然して、珍しいものではない。
だが、本人の意思を確認する事も、ヴィヴィアンの母親である妻の意見を聞く事もないスタンリーに、ランドリック侯爵は内心、呆れ果てた。
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だが、そのような気持ちなど、おくびにも出さず、契約成立とばかりに畳み掛ける。
「そうかそうか。では、早速だが、こちらの書類に署名を貰えるかな?善は急げと言うだろう?」
『ランドリック侯爵。折り入って、頼みがある』
大舞踏会の少し前、自身の正体を明かした彼は、臣下の礼を執ろうとするランドリック侯爵に対して、深々と頭を下げた。
『ヴィヴィアンが、どんな未来を選ぶかは、まだ判らない。だが、彼女が何の懸念もなく、進みたい未来へと歩んでいけるようにしておきたい』
手を貸せるのは、此処までだ。
これからの未来がどう進むのか、ランドリック侯爵は、静かに見守る事に決めた。
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