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最初に、自分の希望を口にする事を諦めたのは、確か、四歳の時だ。
捨てられていた仔犬を見つけた。
灰色に、ぽつぽつと茶色が混ざったような短い毛。
尻尾は、怪我でもしたのか短く、小さな目に潰れた鼻。
お世辞にも美人と言える顔立ちではなかったが、それでも、元気に跳ね回る仔犬の姿は愛らしかったし、末っ子のヴィヴィアンは、お姉さんになったようで、誇らしい気持ちにもなれた。
ところが、せっせと家で仔犬の世話をしていると、商談旅行から二ヶ月振りに戻ったスタンリーに、見咎められたのだ。
「何だ、その小汚いのは」
「…かわいいわんちゃんでしょう?おとうさま。ヴィヴィがみつけたの」
「犬が欲しいなら、もっと見栄えのいい犬を探してやる。そんな汚らしい犬は、クレメント家の娘であるお前に、似つかわしくない」
そのまま、摘まみ上げて追い出そうとするのに、必死に取りすがった。
ヴィヴィアンが声を枯らして泣いて頼み込んでも、スタンリーは頑として聞き入れず、母も、兄達も、姉達も、誰もが見て見ぬ振りをする。
スタンリーのいない間、皆が、それぞれに可愛がってくれていた筈なのに。
仕方なく、貰ってくれる先を探すから、と、仔犬を抱いて外に出て、途方に暮れて泣いている所で出会ったのが、ジュノだった。
「なんで、ないてるの?」
「おとうさまが、このこ、すてちゃうって…あたらしいおうち、みつけないといけないの…でも、どうすればいいかわかんない…」
「なぁんだ、そんなこと?じゃあ、うちにおいでよ、わんちゃん」
ジュノの家は、クレメント家と同じ男爵家に叙されてはいるが、家の大きさも、着ている衣服も、置いてある家具も、何もかもが違った。
違ったけれど、家族の距離は、とても近かった。
ジュノの両親が、笑顔で彼女に話し掛け、腕の中の仔犬に相好を崩している姿を見て、ヴィヴィアンが受けた衝撃が、どれ程のものだったか。
常に眉間に皺を寄せている父。
怯えたような目をしている母。
冷めた顔で皮肉気に笑う兄達。
綺麗だけれど生気のない姉達。
ヴィヴィアンの知る家族とは、全然違う。
全然違って、とても幸せそうだった。
あぁ、私の家は、何処かおかしい。
たった四つの子供でも、誰に説明されずとも理解出来た。
仔犬は、ジュノの家で、『チムニー』と名付けられた。
それを見て、初めてヴィヴィアンは、自分が仔犬に名前を付けていなかった事に気が付いた。
ジュノの家族とは違い、母も、兄達も、姉達も、
「お名前は、何てつけたの?」
なんて、聞いてはくれなかったから。
きっと彼等は、スタンリーが帰って来たら、仔犬が追い出される事を知っていたのだ。
そして、恐らくはヴィヴィアン自身も、名前をつけても取り上げられる、と心の何処かで感じていたのだろう。
スタンリーは、『クレメント家の娘』に相応しい犬を買ってやる、と、チムニーをジュノに譲ったヴィヴィアンに言った。
純血種の美しい犬こそ、お前に相応しい。
けれど、ヴィヴィアンは、
「わんちゃんは、もういい…」
と拒んだ。
以来、動物と暮らした事はない。
チムニーは、すくすくと成長し、小振りな大型犬サイズになって、ジュノの実家で、十五歳になるまで、のんびりと暮らしていた。
体は大きくとも、気の優しい犬で、ジュノのきょうだい達と仲良く遊び、老犬となってからも、穏やかな日々を過ごした。
もしも、あのまま、ヴィヴィアンの下にいたら、長生きする事は出来なかっただろう。
何かに手を伸ばす事を、望む事を諦め、スタンリーに抵抗する事を諦めたのは、この経験があるからだ。
兄達が、自身の希望とは異なる進路を強要され、下唇を噛む姿。
姉達が、笑顔も涙もなく、無言で嫁いでいった姿。
二番目の姉が、駆け落ち先から、何かが抜け落ちた顔で連れ戻された姿。
『商品』として優秀であれば、必要以上に干渉されない事を理解してからは、姉達同様、いや、それ以上に優秀な、『クレメント家の娘』になった。
「ヴィヴィ?」
いつの間にか、考え込んでいたのだろう。
恒例のお茶会に訪れたジュノが、心配そうにヴィヴィアンの顔を覗き込んでいた。
『ストップ!おっさん化計画』始動までは、月一開催だったお茶会だが、ヴィヴィアンが夜会の準備で忙しかったり、ジュノが武術大会の準備で忙しかったりで、二ヶ月振りの開催だ。
「大舞踏会まで、夜会を欠席するんですって?」
「えぇ…そうなの。アイリーンに襲われたのが、怖くて」
「それが、表向きの理由なのね?本当の所は?黒衣の騎士様絡み?」
全く本気にしていないジュノを、ヴィヴィアンが無言で見つめ返すと、ジュノは呆れたように肩を竦める。
「私が聞いた噂では、葡萄酒をドレスに掛けられた、って事だけど。…貴方、その程度で怖がるタマじゃないじゃない」
「バレたか…」
実際、アイリーンと対面した時に感じたのは、面倒臭い、と言う気持ちであって、恐怖ではない。
小柄なアイリーンが相手だから、刃物さえ持ち出されなければ、暴力に訴えられようと、最終的にはヴィヴィアンが勝つ自信があった。
「ねぇ、私、どれだけ聞きたくても、突撃訪問するのを我慢してたのよ?あの騎士様と、どんな関係なわけ?何か、私の入れない夜会で、随分仲良くしてるらしいじゃない?それに、この間は、貴族街でデートしてるのを見た、って目撃証言もあるのよ?」
さぁ、吐け、とにじり寄って来るジュノに、ヴィヴィアンは両手を上げて、降参の姿勢を見せた。
「どんな、も、何も…前に言った通りよ。夜会で顔を合わせた時に、一曲踊って、少しお話するだけ。貴族街に行ったのは、借りた上着をダメにしちゃったから、代わりを作る為で、デート…とかじゃないわ」
「じゃあ、何で、『コンラートとヴィヴィアンの純愛を見守り隊』なんてのが出来てるわけ?」
「え、何それ」
本気で知らなくて驚くヴィヴィアンに、ジュノが、呆れたように説明する。
「何かね~、ヴィヴィの境遇が余りに悲惨だ、って、広く周知されたお陰で、あの黒衣の騎士様、コンラート卿だっけ?彼とヴィヴィを結び付けよう、って水面下で動いてるらしいわよ」
「いや、本当に何それ」
だから言ったじゃないか、と、思わず、天を仰ぐ。
これでは、結婚する気はない、と言っていたコンラートの意思に関係なく、縁談が組まれてしまいそうだ。
「あいつと、離婚出来そうなの?」
打って変わって深刻そうな顔をするジュノに、
「多分…」
と、曖昧な返事をする。
「多分?」
「彼には、何か策があるみたい」
「ほら、やっぱり!彼は、ヴィヴィと結婚したいって事でしょ?求婚されたの?」
「されてないわよ。私の嫌がる事はしない、とは言ってたけど…」
「ん?何それ、どう言う意味?」
どう言う意味かなんて、ヴィヴィアンの方が聞きたい。
大舞踏会で、コンラートは正式にリンデンバーグの社交界にお披露目されるのだ、と言っていた。
そこで、コンラートの素性が判る。
そして、素性が判れば、自ずと彼の抱える事情も判るのだろう。
『全てを知った上で、また俺に会ってくれると言うなら』
コンラートは、そう言っていた。
つまり、素性と事情を知れば、ヴィヴィアンが彼を避けると思っていると言う事だ。
自他共に認める面倒臭がり屋ではあるから、ややこしい事情がある人間――例えば、夫のトビアスと、積極的に関わり合いたいとは思っていない。
そのせいで、友人がジュノ位しかいないわけなのだから。
「…ねぇ、ヴィヴィ。貴方は、コンラート卿との事を、どう思ってるの?」
「どう、って」
「結婚したい?嫌?」
考え込むヴィヴィアンに、ジュノが問いを投げかける。
「よく…判らない。だって、私達、本当に夜会の時位しか、会わないのよ。武術大会だって、出場するなんて聞いてなかったし」
「そう、それ、武術大会!貴方、怪我とか血を見た位で、倒れるようなタマでもないでしょ。何だったの、あれ」
必要ならば、貴族女性らしく幾らでも倒れて見せるけれど、何も利がなければ、それすら面倒、と言うのがヴィヴィアンだ。
「…他の出場者が怪我してても、何も思わなかったのよ?精々、『痛そうだな』位で。でも、彼の試合は、緊張と心配が凄くて…試合が終わった、と思った瞬間、気が抜けちゃったの。怪我してる事に気づいた時には、もう、頭の中が真っ白になって」
「ヴィヴィ、貴方…」
ジュノが、唖然とした顔でヴィヴィアンを見る。
「え、まさか、まだ気づいてないの?」
「何に?」
「…あのねぇ、ヴィヴィ」
ジュノは、大きな溜息を吐いた。
そのまま、呆れた顔を隠そうともせずに、話し始める。
「ヴィヴィは、他人の心配なんて、した事ないでしょう?あぁ、いいのよ、別に責めてるわけじゃないの。私が、なかなか子供を授からなくて、義両親に何やかや言われてた時期があったじゃない?一部の友人は、『焦らなくても、そのうち、出来る』って慰めてくれた。一部の友人は、『これが、妊活にいいらしい』って食べ物や、体を温める衣類を紹介してくれた。一部の友人は、『私は、これで妊娠した』って自分の経験談を話してくれた」
一度、言葉を切ると、ジュノは、何処か苦い笑みを浮かべた。
「無事にマークスを授かった今となっては、彼女達の気持ちを有難く受け止められるんだけどね。あの当時は、違ったの。確かに私は悩んでたし、何とかしたいと思ってた。でも、誰にも、『悩んでる』とか『何か方法はないか』なんて、尋ねた事はなかったのよ。彼女達は、結婚して何年も子供の出来ない私を見て、『悩んでるに違いない』、『助言が欲しいに違いない』って決めつけて心配して、親切心を発揮してくれただけ。だけど、それが、却って私を追い詰めたのよね」
一度、言葉を切って。
「だからね」
ヴィヴィアンの顔を真っ直ぐ見て、穏やかな声で続ける。
「ヴィヴィが、何も言わない事に救われた。ヴィヴィは、私に子供がいてもいなくても、変わらず、このまま、何て事ないって顔をして傍にいるんだろうな、って思うと、何だか安心して…『心配されない』事に、こんなにホッとするなんて、思ってもみなかった」
ヴィヴィアンが、気まずそうに目を逸らす。
そこまで深く考えていたわけではないからだ。
「自分で言うのも何だけど、ヴィヴィとの付き合いはもう、二十年近いのよ?その間、ヴィヴィが私を心配した事なんてない。貴方がどうにか出来る範囲以外の事で、口を出した事もない。それは多分、私を心配する役目は、両親とか、フレッドのもの、って割り切ってたからよね。でも、ヴィヴィは決して、私を一人にはしない。何も言わずに傍にいて、そのままの私を、まるごと、受け入れてくれるのよ」
断言されて、ヴィヴィアンは少し考え、頷いた。
そう、確かに武術大会の時、他の出場者を心配するのは、彼等の身内の権利だ、と思った覚えがある。
それに、ジュノはジュノでさえあればそれでいい、と思っているから、助けを求められる前に手出しする事もなかった。
勿論、ジュノからヴィヴィアンに助言や手助けを求めて来た場合は、別だ。
「さっきも言ったけど、別に、それを責めてるわけじゃないの。ヴィヴィらしいな、って思う。ヴィヴィは、誰かを心配したくないのよね。心配する事で、他人を自分の身の内に入れて、抱え込みたくないのよ。そうやってブレーキを掛けないと、際限なく相手の事を考えちゃうんでしょう。自分の気持ちだけ、大切にしていればいい環境じゃないのだもの、自衛したいって気持ちは判るわ。私だって、心配出来る範囲は、自分の両手で抱え込める分だけだし」
精々、家族と親しい友人位、と、ジュノは肩を竦めた。
「ねぇ、じゃあ、どうしてヴィヴィは、コンラート卿を心配するの?」
「…え…」
「彼が、貴方にとって、『特別な存在』だからじゃない?私には、そうとしか思えないわ」
捨てられていた仔犬を見つけた。
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お世辞にも美人と言える顔立ちではなかったが、それでも、元気に跳ね回る仔犬の姿は愛らしかったし、末っ子のヴィヴィアンは、お姉さんになったようで、誇らしい気持ちにもなれた。
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「何だ、その小汚いのは」
「…かわいいわんちゃんでしょう?おとうさま。ヴィヴィがみつけたの」
「犬が欲しいなら、もっと見栄えのいい犬を探してやる。そんな汚らしい犬は、クレメント家の娘であるお前に、似つかわしくない」
そのまま、摘まみ上げて追い出そうとするのに、必死に取りすがった。
ヴィヴィアンが声を枯らして泣いて頼み込んでも、スタンリーは頑として聞き入れず、母も、兄達も、姉達も、誰もが見て見ぬ振りをする。
スタンリーのいない間、皆が、それぞれに可愛がってくれていた筈なのに。
仕方なく、貰ってくれる先を探すから、と、仔犬を抱いて外に出て、途方に暮れて泣いている所で出会ったのが、ジュノだった。
「なんで、ないてるの?」
「おとうさまが、このこ、すてちゃうって…あたらしいおうち、みつけないといけないの…でも、どうすればいいかわかんない…」
「なぁんだ、そんなこと?じゃあ、うちにおいでよ、わんちゃん」
ジュノの家は、クレメント家と同じ男爵家に叙されてはいるが、家の大きさも、着ている衣服も、置いてある家具も、何もかもが違った。
違ったけれど、家族の距離は、とても近かった。
ジュノの両親が、笑顔で彼女に話し掛け、腕の中の仔犬に相好を崩している姿を見て、ヴィヴィアンが受けた衝撃が、どれ程のものだったか。
常に眉間に皺を寄せている父。
怯えたような目をしている母。
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綺麗だけれど生気のない姉達。
ヴィヴィアンの知る家族とは、全然違う。
全然違って、とても幸せそうだった。
あぁ、私の家は、何処かおかしい。
たった四つの子供でも、誰に説明されずとも理解出来た。
仔犬は、ジュノの家で、『チムニー』と名付けられた。
それを見て、初めてヴィヴィアンは、自分が仔犬に名前を付けていなかった事に気が付いた。
ジュノの家族とは違い、母も、兄達も、姉達も、
「お名前は、何てつけたの?」
なんて、聞いてはくれなかったから。
きっと彼等は、スタンリーが帰って来たら、仔犬が追い出される事を知っていたのだ。
そして、恐らくはヴィヴィアン自身も、名前をつけても取り上げられる、と心の何処かで感じていたのだろう。
スタンリーは、『クレメント家の娘』に相応しい犬を買ってやる、と、チムニーをジュノに譲ったヴィヴィアンに言った。
純血種の美しい犬こそ、お前に相応しい。
けれど、ヴィヴィアンは、
「わんちゃんは、もういい…」
と拒んだ。
以来、動物と暮らした事はない。
チムニーは、すくすくと成長し、小振りな大型犬サイズになって、ジュノの実家で、十五歳になるまで、のんびりと暮らしていた。
体は大きくとも、気の優しい犬で、ジュノのきょうだい達と仲良く遊び、老犬となってからも、穏やかな日々を過ごした。
もしも、あのまま、ヴィヴィアンの下にいたら、長生きする事は出来なかっただろう。
何かに手を伸ばす事を、望む事を諦め、スタンリーに抵抗する事を諦めたのは、この経験があるからだ。
兄達が、自身の希望とは異なる進路を強要され、下唇を噛む姿。
姉達が、笑顔も涙もなく、無言で嫁いでいった姿。
二番目の姉が、駆け落ち先から、何かが抜け落ちた顔で連れ戻された姿。
『商品』として優秀であれば、必要以上に干渉されない事を理解してからは、姉達同様、いや、それ以上に優秀な、『クレメント家の娘』になった。
「ヴィヴィ?」
いつの間にか、考え込んでいたのだろう。
恒例のお茶会に訪れたジュノが、心配そうにヴィヴィアンの顔を覗き込んでいた。
『ストップ!おっさん化計画』始動までは、月一開催だったお茶会だが、ヴィヴィアンが夜会の準備で忙しかったり、ジュノが武術大会の準備で忙しかったりで、二ヶ月振りの開催だ。
「大舞踏会まで、夜会を欠席するんですって?」
「えぇ…そうなの。アイリーンに襲われたのが、怖くて」
「それが、表向きの理由なのね?本当の所は?黒衣の騎士様絡み?」
全く本気にしていないジュノを、ヴィヴィアンが無言で見つめ返すと、ジュノは呆れたように肩を竦める。
「私が聞いた噂では、葡萄酒をドレスに掛けられた、って事だけど。…貴方、その程度で怖がるタマじゃないじゃない」
「バレたか…」
実際、アイリーンと対面した時に感じたのは、面倒臭い、と言う気持ちであって、恐怖ではない。
小柄なアイリーンが相手だから、刃物さえ持ち出されなければ、暴力に訴えられようと、最終的にはヴィヴィアンが勝つ自信があった。
「ねぇ、私、どれだけ聞きたくても、突撃訪問するのを我慢してたのよ?あの騎士様と、どんな関係なわけ?何か、私の入れない夜会で、随分仲良くしてるらしいじゃない?それに、この間は、貴族街でデートしてるのを見た、って目撃証言もあるのよ?」
さぁ、吐け、とにじり寄って来るジュノに、ヴィヴィアンは両手を上げて、降参の姿勢を見せた。
「どんな、も、何も…前に言った通りよ。夜会で顔を合わせた時に、一曲踊って、少しお話するだけ。貴族街に行ったのは、借りた上着をダメにしちゃったから、代わりを作る為で、デート…とかじゃないわ」
「じゃあ、何で、『コンラートとヴィヴィアンの純愛を見守り隊』なんてのが出来てるわけ?」
「え、何それ」
本気で知らなくて驚くヴィヴィアンに、ジュノが、呆れたように説明する。
「何かね~、ヴィヴィの境遇が余りに悲惨だ、って、広く周知されたお陰で、あの黒衣の騎士様、コンラート卿だっけ?彼とヴィヴィを結び付けよう、って水面下で動いてるらしいわよ」
「いや、本当に何それ」
だから言ったじゃないか、と、思わず、天を仰ぐ。
これでは、結婚する気はない、と言っていたコンラートの意思に関係なく、縁談が組まれてしまいそうだ。
「あいつと、離婚出来そうなの?」
打って変わって深刻そうな顔をするジュノに、
「多分…」
と、曖昧な返事をする。
「多分?」
「彼には、何か策があるみたい」
「ほら、やっぱり!彼は、ヴィヴィと結婚したいって事でしょ?求婚されたの?」
「されてないわよ。私の嫌がる事はしない、とは言ってたけど…」
「ん?何それ、どう言う意味?」
どう言う意味かなんて、ヴィヴィアンの方が聞きたい。
大舞踏会で、コンラートは正式にリンデンバーグの社交界にお披露目されるのだ、と言っていた。
そこで、コンラートの素性が判る。
そして、素性が判れば、自ずと彼の抱える事情も判るのだろう。
『全てを知った上で、また俺に会ってくれると言うなら』
コンラートは、そう言っていた。
つまり、素性と事情を知れば、ヴィヴィアンが彼を避けると思っていると言う事だ。
自他共に認める面倒臭がり屋ではあるから、ややこしい事情がある人間――例えば、夫のトビアスと、積極的に関わり合いたいとは思っていない。
そのせいで、友人がジュノ位しかいないわけなのだから。
「…ねぇ、ヴィヴィ。貴方は、コンラート卿との事を、どう思ってるの?」
「どう、って」
「結婚したい?嫌?」
考え込むヴィヴィアンに、ジュノが問いを投げかける。
「よく…判らない。だって、私達、本当に夜会の時位しか、会わないのよ。武術大会だって、出場するなんて聞いてなかったし」
「そう、それ、武術大会!貴方、怪我とか血を見た位で、倒れるようなタマでもないでしょ。何だったの、あれ」
必要ならば、貴族女性らしく幾らでも倒れて見せるけれど、何も利がなければ、それすら面倒、と言うのがヴィヴィアンだ。
「…他の出場者が怪我してても、何も思わなかったのよ?精々、『痛そうだな』位で。でも、彼の試合は、緊張と心配が凄くて…試合が終わった、と思った瞬間、気が抜けちゃったの。怪我してる事に気づいた時には、もう、頭の中が真っ白になって」
「ヴィヴィ、貴方…」
ジュノが、唖然とした顔でヴィヴィアンを見る。
「え、まさか、まだ気づいてないの?」
「何に?」
「…あのねぇ、ヴィヴィ」
ジュノは、大きな溜息を吐いた。
そのまま、呆れた顔を隠そうともせずに、話し始める。
「ヴィヴィは、他人の心配なんて、した事ないでしょう?あぁ、いいのよ、別に責めてるわけじゃないの。私が、なかなか子供を授からなくて、義両親に何やかや言われてた時期があったじゃない?一部の友人は、『焦らなくても、そのうち、出来る』って慰めてくれた。一部の友人は、『これが、妊活にいいらしい』って食べ物や、体を温める衣類を紹介してくれた。一部の友人は、『私は、これで妊娠した』って自分の経験談を話してくれた」
一度、言葉を切ると、ジュノは、何処か苦い笑みを浮かべた。
「無事にマークスを授かった今となっては、彼女達の気持ちを有難く受け止められるんだけどね。あの当時は、違ったの。確かに私は悩んでたし、何とかしたいと思ってた。でも、誰にも、『悩んでる』とか『何か方法はないか』なんて、尋ねた事はなかったのよ。彼女達は、結婚して何年も子供の出来ない私を見て、『悩んでるに違いない』、『助言が欲しいに違いない』って決めつけて心配して、親切心を発揮してくれただけ。だけど、それが、却って私を追い詰めたのよね」
一度、言葉を切って。
「だからね」
ヴィヴィアンの顔を真っ直ぐ見て、穏やかな声で続ける。
「ヴィヴィが、何も言わない事に救われた。ヴィヴィは、私に子供がいてもいなくても、変わらず、このまま、何て事ないって顔をして傍にいるんだろうな、って思うと、何だか安心して…『心配されない』事に、こんなにホッとするなんて、思ってもみなかった」
ヴィヴィアンが、気まずそうに目を逸らす。
そこまで深く考えていたわけではないからだ。
「自分で言うのも何だけど、ヴィヴィとの付き合いはもう、二十年近いのよ?その間、ヴィヴィが私を心配した事なんてない。貴方がどうにか出来る範囲以外の事で、口を出した事もない。それは多分、私を心配する役目は、両親とか、フレッドのもの、って割り切ってたからよね。でも、ヴィヴィは決して、私を一人にはしない。何も言わずに傍にいて、そのままの私を、まるごと、受け入れてくれるのよ」
断言されて、ヴィヴィアンは少し考え、頷いた。
そう、確かに武術大会の時、他の出場者を心配するのは、彼等の身内の権利だ、と思った覚えがある。
それに、ジュノはジュノでさえあればそれでいい、と思っているから、助けを求められる前に手出しする事もなかった。
勿論、ジュノからヴィヴィアンに助言や手助けを求めて来た場合は、別だ。
「さっきも言ったけど、別に、それを責めてるわけじゃないの。ヴィヴィらしいな、って思う。ヴィヴィは、誰かを心配したくないのよね。心配する事で、他人を自分の身の内に入れて、抱え込みたくないのよ。そうやってブレーキを掛けないと、際限なく相手の事を考えちゃうんでしょう。自分の気持ちだけ、大切にしていればいい環境じゃないのだもの、自衛したいって気持ちは判るわ。私だって、心配出来る範囲は、自分の両手で抱え込める分だけだし」
精々、家族と親しい友人位、と、ジュノは肩を竦めた。
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