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コンラートの礼装と、ヴィヴィアンのドレスを仕立てに行く為の、デートと言う名の待ち合わせ。
普段ならば、家に職人を呼ぶのだが、コンラートをブライトン家に招き入れるわけにはいかないので、こちらから貴族街にある工房を訪れるのだ。
アイリーンに駄目にされたドレスは、リンデンバーグ国内で流通していない天鵞絨を個人的に入手して工房に持ち込み、マダムと相談して一から作り上げただけに、他のドレスよりも思い入れはある。
それに、コンラートが気づいてくれたのかと思うと、心の奥の方が、温かい気がする。
工房にはまだ、生地の残りがある筈だから、あと一着は仕立てられるだろう。
今日、着ているのも、その工房で仕立てたものだった。
今日のヴィヴィアンは、しっかりと目の詰まったボルドーレッドの毛織物で仕立てたドレスを着ていた。
スタンドカラーに、体にぴったりと添った上身頃、袖はたっぷりと襞を取っており、長めのカフスでまとめてある。
デート、と言う甘い言葉には似つかわしくないかっちりしたドレスを選んだのは、コンラートに逃げ場を残さなくては、との一心からだった。
浮かれている、と、周囲に思わせてはならない。
飽くまで、用事に同行したと言う体を取らなくては。
そう思ってはいても、異性と私的な場で二人になった事などなく、そわそわしながら待っていたヴィヴィアンは、待ち合わせ場所に現れたコンラートを見て、目を見開いた。
「黒くない…」
深緑のスーツは、確かにコンラートの翡翠色の瞳によく似合う。
けれど、知り合ってからおよそ二ヶ月、黒の服しか着ている姿を見た事がなかっただけに、驚いた。
「そこまで驚くか?」
「驚くわよ。貴方、黒衣の騎士様、とか、黒衣の美丈夫、とか呼ばれてるのよ?」
「お、じゃあ、今日はこれで変装になるな」
茶化すように笑うと、コンラートはヴィヴィアンにエスコートの為の腕を差し出した。
例え、黒い衣服を着ていなくとも、これだけ目立つ長身に人目を惹く顔立ちの彼を、見間違える者はいない。
ましてや、髪色を変えるなどの工作もしていないのだから、変装など、端からする気はないのだろう。
これまで、ヴィヴィアンは偶然を装ってしか、コンラートと会った事はない。
昼日中、堂々と彼を伴っていれば、逃げ道を作ったつもりであっても、二人の関係が一歩進んだ、と思われるのは必須だ。
「…今更だけど、本当にいいのかしら…」
「何が?」
「言ったでしょう、外堀を埋められるって」
「俺も確認しただろ?本気で離婚するのか、って」
「そうだけど」
ヴィヴィアンの不貞を理由に、離婚されるとは思っていない。
不貞が理由になるなら、とうの昔に解放されている。
「私の事じゃないのよ?貴方の結婚の話じゃない」
「…大丈夫だ。君が嫌がる事はしない」
工房のマダムは、夜会の噂を知っていたらしく、ヴィヴィアンが異性と訪れたにも関わらず、何事もなかったかのように、応対した。
流石、客商売と言うべきか。
渾身のドレスが駄目になってしまった事は残念がっていたが、先の物よりも完成度を上げて見せる、と、新たなドレスと、コンラートの礼装の製作を請け負ってくれた。
コンラートの夜会用の衣装は全て、サーラに滞在中に作ったものだったので、ここぞとばかりに、今のリンデンバーグの流行に乗ったものを注文しておく。
何しろ、背が高く肩幅があり、礼装がよく似合うので、色々と試し甲斐があるのだ。
「いつまでもサーラの服を着てると、求婚者が、『やっぱり、サーラが好きなんだ』と思って諦めないわよ」
「そうか、その危険性があったか」
深刻な顔をするコンラートに、本当に苦手な相手なんだな、と、気の毒になる。
サーラで十年を過ごしたと言うコンラートだから、サーラへの思い入れが全くないわけではないだろう。
けれど、それと、生涯を共に歩む配偶者選びは別の話の筈だ。
「腹が減ったな。ヴィヴィアン、何処かで食事でもどうだ?」
「いいわね。貴方は、貴族街に詳しい?」
「いや。帰国してからの外出先は、殆どが夜会だったから」
「じゃあ、お勧めは、あそこ」
ヴィヴィアンが勧めたレストランで舌鼓を打ちながら、コンラートは、
「君の贔屓の店か?」
と尋ねた。
「う~ん…贔屓、と言うか、これから人気が出るだろうな、と思ってるお店」
「うん?それは、贔屓とか、人気店とは違うのか?」
「今も、それなりに注目はされてると思うけれど、これから人気が右肩上がりになると思うわよ」
曖昧なヴィヴィアンの言い方に、首を傾げたコンラートは、
「あぁ、商品と一緒か。先見の明ってヤツだな」
と言った。
「そんな感じかしら。世間での味の好みの変化とか、内装の流行とか、諸々を合わせて考えた結果ね」
「確かに美味い。ヴィヴィアンも、こう言う料理が好きか?」
「…人気になる、とは思うけど」
「…好みとは違う?」
「何て言えばいいのかしら…私には、好みとか、そう言うのはないから」
苦笑を返すヴィヴィアンに、コンラートが眉を顰める。
「ない、って事はないんじゃないか?」
「ないのよ。料理だけじゃないわ。お菓子でも、ドレスでも、宝石でも。自分の好みはないの。身に付ける物も、料理やお菓子も、商会として広く売り出したい物、これから売れる物、と言う目で選ぶから」
言葉に詰まったコンラートを見て、ヴィヴィアンは、困ったように続けた。
「本も音楽もそう。私が好きかどうか、じゃないの。売れるかどうか、と言う目でしか、見られないのよ。…つまらない女でしょう?」
自嘲気味に付け加えてしまったのは、コンラートに言われる前に自分で言った方が、傷口が浅い、と思ったからだろうか。
「昔から、そうなの。個人の嗜好は、不要だって言われて来たから」
「…誰にだ」
「父に…私はクレメント家の商品で、嫁ぎ先に染まる必要があるのだから、個人の嗜好は持つべきではないって。夫とは不仲だから、結局、嫁ぎ先に染まる事もなかったのだけど」
気づいたら、言うつもりのなかった事まで、口にしていた。
「自分でも、判ってるの。父に呪縛されているって事は。ジュノに言われたわ。今は、四六時中、父の目があるわけではないのだから、自分の好きなものを探せばいいのに、って。でも、ダメね。なかなか、変われるものじゃない」
コンラートが、厳しい顔をしている。
「…そう、だな。なかなか変われない、と言うのは判る。俺も、そうだ」
「貴方も?」
「ヴィクターに聞いたんだろう?俺が…他人と一線を引いている、と」
「…少し、ね。私は…余り、そう言う印象はなかったけど」
寧ろ、ヴィヴィアンには過保護な位に干渉してきている、と思っている。
他人への興味が薄い、とヴィクターは言っていたけれど、そんな人が、ヴィヴィアンの安全に気を配り、心の負担を案じ、夫の非道に憤ってくれるとは思えない。
「多分、そんな事を言うのはヴィヴィアンだけだろうな」
「そうなの?」
「俺は、他人と深く関わり合いになりたくない、と思ってる。前にも少し話したが、当主の座を巡って、ややこしい間柄の人間がいてな。優しい顔して近づいて来た人間が、敵対勢力に属していて、あの手この手で陥れようとする、なんて事が日常だった」
「え…」
「相手を信用するから、裏切られた時に苦しいんだ、と理解してからは、誰とも距離を取って、深入りしないようになった。その頃だな、ヴィクターと知り合ったのは。俺は六歳で、ヴィクターは十一。少し年が離れていた分、俺が過剰なまでに他人を突き放すのが、気になったらしい。あぁ見えて、面倒見がいい男だ」
六歳。
まだ、幼いと言っていい子供が、そこまでして心を守らねばならない状況に置かれていたとは。
「サーラに行ったのは、十五の時だ。この国で俺が置かれている状況を危ぶんだ母方の親戚が、呼び寄せてくれた。それで、十年。もうこの国に戻る事はないかもしれない、と思ってたんだが…サーラでの状況も、好ましいものと言えなくなった」
「求婚の事?」
「あぁ。結婚する気はなかったんだが、どうせ、リンデンバーグに戻る気はないんだろう、丁度いいじゃないか、と俺の意思を無視して話を進められそうになって…こっちには、逃げて来たようなものだ」
「そんな…」
リンデンバーグにも、サーラにも、コンラートの心が休まる居場所はない、と言うのか。
「貴方の居場所を作る為に、今回の作戦が必要だったのね」
「あぁ……けど、俺は、思い違いをしていたのかもしれない」
「え?」
「居場所、って言うのは…肩書とか、身分とか、そう言うもので保障されるものじゃなくて…誰が傍にいるか、が大事なのかもしれない、って」
ヴィヴィアンは、コンラートの言葉を考えるように黙り込むと、小さく頷いた。
「そう、ね…判る気がする。私は…クレメント男爵令嬢であった時も、ブライトン伯爵夫人である今も、此処が自分の居場所だとは思えないもの。きっと、贅沢なのよね、生きていくだけなら、十分なものが与えられているのに」
「今日、生きるのに必死な人々から見れば、贅沢な悩みだと思われるのかもしれないな。けど、俺も君も、此処にいていいのかと悩み、幸せだと思えずにいる。そんな暮らしで、本当に生きていると言えるのか、疑問でもある」
父や夫に逆らわず、自分の好みすら判らず、ただ、『美しくあれ』と言われて生きて来た。
それが、お前の商品としての価値だ、と。
彼等に逆らってもどうにもならない、と、諦め、『面倒だから』と言い訳して、深く考えず、目を逸らして来た。
あぁ、確かに、アイリーンの言う通り、人形でしかない、と、ヴィヴィアンは顔を俯ける。
「だが、ヴィヴィアンは、自分の気持ちを口に出せるようになっただろ?」
「え…」
「武術大会で、俺が怪我する事を『怖い』と言った。ブライトン伯爵が家に戻ろうと考えている事を『嫌だ』と言った。…これは、嘗ての君なら、考えられなかった変化じゃないのか?」
「あ…」
コンラートの優しい声に、ヴィヴィアンは顔を上げ、彼の顔を見つめた。
「俺達は、一緒に変わっていけると思う。美味しいと思うレストランが、人気にならなくてもいいじゃないか。好きな色のドレスが、流行とずれていてもいいじゃないか。他人からすれば、取るに足らない小さな事であっても、自分の気持ちを大事にする経験が、今の俺達には必要なんじゃないだろうか」
コンラートの翡翠色の瞳が、何処か緊張感と熱を孕んでヴィヴィアンを見つめ返す。
「ヴィヴィアン」
「…なぁに?」
「大舞踏会で、俺はリンデンバーグの社交界に、正式に出る事になる。今日、言えなかった俺の事情も、明かされるだろう。もし…もし、君が、全てを知った上で、また俺に会ってくれると言うなら」
こくり、と、鳴った喉は、コンラートのものか、ヴィヴィアンのものか。
「また、こうして共に、出掛けてはくれないだろうか」
普段ならば、家に職人を呼ぶのだが、コンラートをブライトン家に招き入れるわけにはいかないので、こちらから貴族街にある工房を訪れるのだ。
アイリーンに駄目にされたドレスは、リンデンバーグ国内で流通していない天鵞絨を個人的に入手して工房に持ち込み、マダムと相談して一から作り上げただけに、他のドレスよりも思い入れはある。
それに、コンラートが気づいてくれたのかと思うと、心の奥の方が、温かい気がする。
工房にはまだ、生地の残りがある筈だから、あと一着は仕立てられるだろう。
今日、着ているのも、その工房で仕立てたものだった。
今日のヴィヴィアンは、しっかりと目の詰まったボルドーレッドの毛織物で仕立てたドレスを着ていた。
スタンドカラーに、体にぴったりと添った上身頃、袖はたっぷりと襞を取っており、長めのカフスでまとめてある。
デート、と言う甘い言葉には似つかわしくないかっちりしたドレスを選んだのは、コンラートに逃げ場を残さなくては、との一心からだった。
浮かれている、と、周囲に思わせてはならない。
飽くまで、用事に同行したと言う体を取らなくては。
そう思ってはいても、異性と私的な場で二人になった事などなく、そわそわしながら待っていたヴィヴィアンは、待ち合わせ場所に現れたコンラートを見て、目を見開いた。
「黒くない…」
深緑のスーツは、確かにコンラートの翡翠色の瞳によく似合う。
けれど、知り合ってからおよそ二ヶ月、黒の服しか着ている姿を見た事がなかっただけに、驚いた。
「そこまで驚くか?」
「驚くわよ。貴方、黒衣の騎士様、とか、黒衣の美丈夫、とか呼ばれてるのよ?」
「お、じゃあ、今日はこれで変装になるな」
茶化すように笑うと、コンラートはヴィヴィアンにエスコートの為の腕を差し出した。
例え、黒い衣服を着ていなくとも、これだけ目立つ長身に人目を惹く顔立ちの彼を、見間違える者はいない。
ましてや、髪色を変えるなどの工作もしていないのだから、変装など、端からする気はないのだろう。
これまで、ヴィヴィアンは偶然を装ってしか、コンラートと会った事はない。
昼日中、堂々と彼を伴っていれば、逃げ道を作ったつもりであっても、二人の関係が一歩進んだ、と思われるのは必須だ。
「…今更だけど、本当にいいのかしら…」
「何が?」
「言ったでしょう、外堀を埋められるって」
「俺も確認しただろ?本気で離婚するのか、って」
「そうだけど」
ヴィヴィアンの不貞を理由に、離婚されるとは思っていない。
不貞が理由になるなら、とうの昔に解放されている。
「私の事じゃないのよ?貴方の結婚の話じゃない」
「…大丈夫だ。君が嫌がる事はしない」
工房のマダムは、夜会の噂を知っていたらしく、ヴィヴィアンが異性と訪れたにも関わらず、何事もなかったかのように、応対した。
流石、客商売と言うべきか。
渾身のドレスが駄目になってしまった事は残念がっていたが、先の物よりも完成度を上げて見せる、と、新たなドレスと、コンラートの礼装の製作を請け負ってくれた。
コンラートの夜会用の衣装は全て、サーラに滞在中に作ったものだったので、ここぞとばかりに、今のリンデンバーグの流行に乗ったものを注文しておく。
何しろ、背が高く肩幅があり、礼装がよく似合うので、色々と試し甲斐があるのだ。
「いつまでもサーラの服を着てると、求婚者が、『やっぱり、サーラが好きなんだ』と思って諦めないわよ」
「そうか、その危険性があったか」
深刻な顔をするコンラートに、本当に苦手な相手なんだな、と、気の毒になる。
サーラで十年を過ごしたと言うコンラートだから、サーラへの思い入れが全くないわけではないだろう。
けれど、それと、生涯を共に歩む配偶者選びは別の話の筈だ。
「腹が減ったな。ヴィヴィアン、何処かで食事でもどうだ?」
「いいわね。貴方は、貴族街に詳しい?」
「いや。帰国してからの外出先は、殆どが夜会だったから」
「じゃあ、お勧めは、あそこ」
ヴィヴィアンが勧めたレストランで舌鼓を打ちながら、コンラートは、
「君の贔屓の店か?」
と尋ねた。
「う~ん…贔屓、と言うか、これから人気が出るだろうな、と思ってるお店」
「うん?それは、贔屓とか、人気店とは違うのか?」
「今も、それなりに注目はされてると思うけれど、これから人気が右肩上がりになると思うわよ」
曖昧なヴィヴィアンの言い方に、首を傾げたコンラートは、
「あぁ、商品と一緒か。先見の明ってヤツだな」
と言った。
「そんな感じかしら。世間での味の好みの変化とか、内装の流行とか、諸々を合わせて考えた結果ね」
「確かに美味い。ヴィヴィアンも、こう言う料理が好きか?」
「…人気になる、とは思うけど」
「…好みとは違う?」
「何て言えばいいのかしら…私には、好みとか、そう言うのはないから」
苦笑を返すヴィヴィアンに、コンラートが眉を顰める。
「ない、って事はないんじゃないか?」
「ないのよ。料理だけじゃないわ。お菓子でも、ドレスでも、宝石でも。自分の好みはないの。身に付ける物も、料理やお菓子も、商会として広く売り出したい物、これから売れる物、と言う目で選ぶから」
言葉に詰まったコンラートを見て、ヴィヴィアンは、困ったように続けた。
「本も音楽もそう。私が好きかどうか、じゃないの。売れるかどうか、と言う目でしか、見られないのよ。…つまらない女でしょう?」
自嘲気味に付け加えてしまったのは、コンラートに言われる前に自分で言った方が、傷口が浅い、と思ったからだろうか。
「昔から、そうなの。個人の嗜好は、不要だって言われて来たから」
「…誰にだ」
「父に…私はクレメント家の商品で、嫁ぎ先に染まる必要があるのだから、個人の嗜好は持つべきではないって。夫とは不仲だから、結局、嫁ぎ先に染まる事もなかったのだけど」
気づいたら、言うつもりのなかった事まで、口にしていた。
「自分でも、判ってるの。父に呪縛されているって事は。ジュノに言われたわ。今は、四六時中、父の目があるわけではないのだから、自分の好きなものを探せばいいのに、って。でも、ダメね。なかなか、変われるものじゃない」
コンラートが、厳しい顔をしている。
「…そう、だな。なかなか変われない、と言うのは判る。俺も、そうだ」
「貴方も?」
「ヴィクターに聞いたんだろう?俺が…他人と一線を引いている、と」
「…少し、ね。私は…余り、そう言う印象はなかったけど」
寧ろ、ヴィヴィアンには過保護な位に干渉してきている、と思っている。
他人への興味が薄い、とヴィクターは言っていたけれど、そんな人が、ヴィヴィアンの安全に気を配り、心の負担を案じ、夫の非道に憤ってくれるとは思えない。
「多分、そんな事を言うのはヴィヴィアンだけだろうな」
「そうなの?」
「俺は、他人と深く関わり合いになりたくない、と思ってる。前にも少し話したが、当主の座を巡って、ややこしい間柄の人間がいてな。優しい顔して近づいて来た人間が、敵対勢力に属していて、あの手この手で陥れようとする、なんて事が日常だった」
「え…」
「相手を信用するから、裏切られた時に苦しいんだ、と理解してからは、誰とも距離を取って、深入りしないようになった。その頃だな、ヴィクターと知り合ったのは。俺は六歳で、ヴィクターは十一。少し年が離れていた分、俺が過剰なまでに他人を突き放すのが、気になったらしい。あぁ見えて、面倒見がいい男だ」
六歳。
まだ、幼いと言っていい子供が、そこまでして心を守らねばならない状況に置かれていたとは。
「サーラに行ったのは、十五の時だ。この国で俺が置かれている状況を危ぶんだ母方の親戚が、呼び寄せてくれた。それで、十年。もうこの国に戻る事はないかもしれない、と思ってたんだが…サーラでの状況も、好ましいものと言えなくなった」
「求婚の事?」
「あぁ。結婚する気はなかったんだが、どうせ、リンデンバーグに戻る気はないんだろう、丁度いいじゃないか、と俺の意思を無視して話を進められそうになって…こっちには、逃げて来たようなものだ」
「そんな…」
リンデンバーグにも、サーラにも、コンラートの心が休まる居場所はない、と言うのか。
「貴方の居場所を作る為に、今回の作戦が必要だったのね」
「あぁ……けど、俺は、思い違いをしていたのかもしれない」
「え?」
「居場所、って言うのは…肩書とか、身分とか、そう言うもので保障されるものじゃなくて…誰が傍にいるか、が大事なのかもしれない、って」
ヴィヴィアンは、コンラートの言葉を考えるように黙り込むと、小さく頷いた。
「そう、ね…判る気がする。私は…クレメント男爵令嬢であった時も、ブライトン伯爵夫人である今も、此処が自分の居場所だとは思えないもの。きっと、贅沢なのよね、生きていくだけなら、十分なものが与えられているのに」
「今日、生きるのに必死な人々から見れば、贅沢な悩みだと思われるのかもしれないな。けど、俺も君も、此処にいていいのかと悩み、幸せだと思えずにいる。そんな暮らしで、本当に生きていると言えるのか、疑問でもある」
父や夫に逆らわず、自分の好みすら判らず、ただ、『美しくあれ』と言われて生きて来た。
それが、お前の商品としての価値だ、と。
彼等に逆らってもどうにもならない、と、諦め、『面倒だから』と言い訳して、深く考えず、目を逸らして来た。
あぁ、確かに、アイリーンの言う通り、人形でしかない、と、ヴィヴィアンは顔を俯ける。
「だが、ヴィヴィアンは、自分の気持ちを口に出せるようになっただろ?」
「え…」
「武術大会で、俺が怪我する事を『怖い』と言った。ブライトン伯爵が家に戻ろうと考えている事を『嫌だ』と言った。…これは、嘗ての君なら、考えられなかった変化じゃないのか?」
「あ…」
コンラートの優しい声に、ヴィヴィアンは顔を上げ、彼の顔を見つめた。
「俺達は、一緒に変わっていけると思う。美味しいと思うレストランが、人気にならなくてもいいじゃないか。好きな色のドレスが、流行とずれていてもいいじゃないか。他人からすれば、取るに足らない小さな事であっても、自分の気持ちを大事にする経験が、今の俺達には必要なんじゃないだろうか」
コンラートの翡翠色の瞳が、何処か緊張感と熱を孕んでヴィヴィアンを見つめ返す。
「ヴィヴィアン」
「…なぁに?」
「大舞踏会で、俺はリンデンバーグの社交界に、正式に出る事になる。今日、言えなかった俺の事情も、明かされるだろう。もし…もし、君が、全てを知った上で、また俺に会ってくれると言うなら」
こくり、と、鳴った喉は、コンラートのものか、ヴィヴィアンのものか。
「また、こうして共に、出掛けてはくれないだろうか」
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