ストップ!おっさん化~伯爵夫人はときめきたい~

緋田鞠

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 コンラートは、その後も危な気なく勝ち上がっていく。
 試合の前後に、さり気なくヴィヴィアンへと視線を送って来るが、それにどれ程の人数が気づいているのかは判らない。
 一方、アマンダの夫ダニーは二回戦で、エッダの夫ヘンリーは三回戦で、ジュノの夫フレッドは四回戦で敗退した。
 だが、彼女達は満足そうに、
「今夜は、夫の好きな物を用意してねぎらいましょう」
と話し合っている。
 そもそもが、武術大会に出場する時点で実力者と認められているのだから、一回でも勝ち上がれば、それで十分なのだ。
「準決勝に進んだのは、団長様と副団長様、そして、ウェリントン卿と黒衣の騎士様ね」
「例年通りと言えば、例年通りね。黒衣の騎士様の実力は、判らないけれど…」
 聞き覚えのある名に、ヴィヴィアンが口を挟む。
「ウェリントン卿?」
「えぇ、ウェリントン侯爵様のご次男ヴィクター様よ。次期副団長との呼び声も高い方なの。侯爵家のお生まれなのに、近衛ではなく、敢えて王都騎士団を選ばれる辺り、ちょっと変わってらっしゃるかも」
 そう言う目で見てみれば、確かに、劇団ユニコーン座長のカミロ・ウェリントンによく似た男性が、試合を待っている。
 準決勝は時間制限なし。
 一試合ずつ行われるが、厳正な抽選の結果、団長と副団長、ヴィクターとコンラートと言う組み合わせになった。
 団長と副団長と言う実力者が、準決勝で当たる事に、観客席が大きくどよめく。
 準決勝第一試合は、ヴィクターとコンラート。
 ヴィクターが強い事は、素人であるヴィヴィアンにも判る。
 知識も先入観もない状態であろうと、四回戦まで見て来たのだ。
 コンラートも強いと思うけれど、ヴィヴィアンの目には、どちらの実力が上なのか、全く判らない。
 知らず、体が前のめりになり、何かに縋るように手すりを握っていた。
「準決勝第一試合、前へ!」
 審判の号令に、コンラートが視線をヴィヴィアンに流した後、前に出てヴィクターと向き合い、一礼した。
 ――それから後の事を、ヴィヴィアンは余り覚えていない。
 ヴィヴィアンの動体視力では、一体、何がどうなっていたのか、よく判らなかったのもある。
 コンラートの黒衣とヴィクターの紺色の騎士服が入り乱れ、金属のぶつかり合う高い音がして、飛んだ汗が日にきらきらと反射していた、と思う。
 気づいた時には、手すりにしがみつくようにしていた両手指が強張り、喉がカラカラに乾き、眩暈で立っていられなくなっていた。
 瞬きを忘れていたのか、目が霞む。
 チカチカと、目の前で小さな光が弾けた。
「勝者、コンラート!」
 地面に膝をつくヴィクターと、彼に切っ先を向けたコンラート。
 ドクンドクンと、心臓が嘗てない程大きな音を立て、耳鳴りがする。
 緊張していたのだ、と、頭の何処か冷静な部分で思った時に、ヴィヴィアンは糸が切れたように、ふら、と前方に蹌踉よろめいた。
 大きなつばのボンネットが、風の抵抗を受けて揺れる。
「!危ない!」
 既に、聞き馴染んだ声。
 胸下の高さの手すりに向かい、ヴィヴィアンの体が倒れ込んだ事に気づいたコンラートが、模造刀を落して駆け寄り、すっかり脱力したヴィヴィアンを支えた。
 ふわ、と汗の匂いと共に、微かに香水が香る。
 その衝撃で、ボンネットが地面に落下して、ヴィヴィアンの眩いばかりの銀髪が晒された。
 かしゃん、と、サラサラの髪をまとめ上げていた髪飾りが、闘技場へと落下する音が、やけに大きく聞こえて、ヴィヴィアンは、閉じかけた瞼を開ける。
 すると、普段は見上げる長身のコンラートの顔が、観客席の段差の分、ヴィヴィアンの目の前にあった。
 額に滲んだ汗が、顎から滴っている。
 それ程に、ヴィクターとの試合は、激しいものだったのだ。
「大丈夫ですか?!」
「…ぁ…」
「ゆっくり、大きく、息を吐いて。足に、力は入りますか?」
 焦ってヴィヴィアンを背後から支えるジュノ達を横目で確認しながら、コンラートは、意識して低い声で、ゆったりと話し掛ける。
「…えぇ…もう、大丈夫…」
 大丈夫、と言いながらも、ぼんやりとした様子のヴィヴィアンに、コンラートは眉を顰めた。
 荒事に慣れているとは思わなかったけれど、まさか、武術大会のようなお上品な試合で、此処まで衝撃を受けるとは考えてもみなかった。
 彼女は商人らしく、どんな時でも、冷静に周囲の状況を分析し、場にあるものの商品価値を探っているように見えていた。
 武術大会だって、落ち着いて観察して、後で、「あの武器は〇〇産ね」だとか、「長靴なら、△△工房がいいわ」だとか、いつものようにさり気なく知識を披露してくれるものだと思っていたのに。
「私が勝ちましたよ。…もしかして、私を心配してくださったのですか?」
 自信満々ね、と呆れたように言われる事を前提に掛けたコンラートの言葉を、
「…心配…」
と繰り返したヴィヴィアンは、あぁ、と、腑に落ちた顔をした。
「…これが、『心配』なのですね…」
 そう、ぽつりと呟いた後、顔を上げて、ヴィヴィアンを支えているコンラートの顔に、改めて目を向ける。
「!お怪我を」
 コンラートの頬に、ヴィクターによって作られた五センチ程の切り傷があった。
 刃を潰してある剣であっても、扱う人間次第で、相手を傷つける事は出来る。
 当たり所が悪ければ、打撲や骨折をする所だが、コンラートはギリギリで避けたせいで、皮膚が割けた。
 ヴィヴィアンは、蒼白になって、震える指で隠しを探り、真っ白なハンカチを取り出すと、コンラートの頬に当てた。
「大丈夫です、これ位の傷、直ぐに血は止まります」
「ですが、」
 痛そうに眉を顰めたヴィヴィアンの目が潤み出したのを見て、コンラートは、胸を衝かれた。
 常になく無防備な様子のヴィヴィアンに、会場中の目が集まってしまっている。
 そして、ヴィヴィアンはそれに気づいた様子がない。
 それだけ心配させてしまったのだ、と思うと、コンラートの胸に、何処か甘い掻痒感が湧き起こる。
 あれだけ完璧に演技が出来るヴィヴィアンの心を乱したのが自分である事に、誰に向けたわけでもない優越感があった。
 だが。
 今のこの状況は、まずい。
 確かに、この機会を利用して、王宮内にコンラートの叶わぬ片思いの噂を広めたいとの思惑はあった。
 ヴィヴィアンの前で、格好つけたい男心、と言うものを演じたかった。
 しかし、これだけ茫然自失しているヴィヴィアンは、儚げな容貌も相俟って、人目を惹き過ぎる。
「ヴィヴィアン、気絶して」
 周囲に聞こえないように耳元で囁くと、ヴィヴィアンは一瞬、ハッとした顔をした。
 自分が今、置かれている状況を思い出したのだろう。
 ヴィヴィアンは、コンラートの頬の傷を押さえていたハンカチをのろのろと外し、白いハンカチに鮮やかについた赤い染みを見て、
「血…」
と、か細く呟いたかと思うと、ぱたり、とコンラートに向かって倒れ込んだ。
 慌てた様子でヴィヴィアンの名を呼ぶジュノ達に断り、手すりを軽々と飛び越え、力強く彼女の体を抱き上げる。
「失礼、こちらのご婦人が気を失われたので、私は救護室に向かいます。試合は棄権でお願いします」
 ヴィヴィアンを横抱きにしたコンラートは、審判に向かって声を張った。
「え、棄権ですか?!」
「はい。ウェリントン卿が強敵で、随分と消耗してしまいました。この状態で決勝に出ても、皆様をご満足させられるような試合は出来ないでしょう。でしたら、次の、アドルフ団長とユール副団長の試合を決勝にして頂きたく思います」
 消耗しているとは思えない程にハキハキとした声で、軽々と成人女性を抱えて言う台詞ではない。
 審判が、試合の為に待機していた団長と副団長に視線で問うと、アドルフは面白そうに頷く。
「是非とも、手合わせをお願いしたかったが、そう言う事ならば、仕方なかろう。だが、また、別の機会を作って欲しいものだ」
「私も、お願いしたいですね」
 巌のような体を持つアドルフに対し、いっそ優美な程に細身のユールが、にこりと笑って要請すると、コンラートは苦笑して首肯した。
「では、決勝戦を行います」
 気を取り直したように声を上げる審判と、手を振って歓声に応える二人の騎士に、観客達の意識は、コンラートとヴィヴィアンから、闘技場中央へと移動する。
 ヴィヴィアンを心配そうに見ているのは、ジュノ達、三人の夫人だけだ。
「既にご承知かとは思いますが、私はブライトン夫人とは既知の仲です。この後、救護室にお連れしてから、馬車にお連れしようと思うのですが」
 誰かついてくるか、と目で問うと、ジュノ達は顔を見合わせて、
「お任せ致します」
と、きっぱり言った。
「ご事情が、おありのご様子ですので」
 ジュノが小声で言う辺り、ヴィヴィアンの気絶がである事に、気が付いているのだろう。
 こんな事でもしないと、逢瀬の機会がない、とでも、思われているかもしれない。
 だが、コンラートは、肯定も否定もしなかった。
「では、失礼致します」
 ヴィヴィアンを大切そうに抱え直すと、コンラートは、関係者専用の裏通路へと、向かったのだった。
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