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結論。
夜会は、面倒臭い。
出来るだけ存在感を消して、壁際に飾られた大きな花瓶と花瓶の間に身を潜めるようにしながら、ヴィヴィアンは扇の陰で、ふぅ、と溜息を吐いた。
張り切ったジュノが、ブライトン家の家令と手を組んで、トビアス達が参加しない夜会を選び、出席の返信を送ってしまった。
家令は、代々ブライトン家に仕えているのだが、主家の窮状を救ってくれたヴィヴィアンに対する主の態度を、腹に据えかねているのだ。
幼いトビアスの教育係だった彼は、結婚当初から何度も何度も、苦言を呈してくれた。
そもそも、トビアスは当初、本邸でアイリーンと暮らし、ヴィヴィアンを追い出すつもりだったのだ。
それを、正妻であるヴィヴィアンを追い出そうとするとは何事か、と叱責した事で、家を出て行くのはトビアスになった。
家令は、アイリーンが関わると、トビアスの判断基準がおかしくなる事が以前から不満で、彼女と別れるように勧め続けていたらしいのだが、彼が聞き入れる事はなかった。
主を諫められなかった、とヴィヴィアンに負い目のある家令とジュノが組んだせい…いや、お陰で、ヴィヴィアンは、週に最低で一度、多い時は三度、夜会に出席している。
パートナーのエスコートが必須ではない気楽な会が中心なのがまだましなものの、人々の視線が、社交の場に滅多に出ないヴィヴィアンに向かう事に変わりはない。
夫が同伴するわけでもなく、身内の他の男性が同伴するわけでもなく、夜会が始まってからひっそりと訪れて、散会の前にひっそりと帰っていく姿に、当然のように様々な憶測が飛んだ。
息苦しくなって化粧室に逃げようとした時に、中から、
「ブライトン伯爵夫人は、何をしにいらしているのかしら?ご夫君に相手にされていないのですもの、愛人探し?」
「まぁ、ちょっと、お可哀想よ。あ、もしかして、正妻の地位を振りかざして、ブライトン伯爵が愛人といる言い逃れ出来ない現場に乗り込もう、とか?修羅場?」
「え?わたくしは、既にいい方がいて、その方と隠れて連絡を取り合う為の目くらましと聞いたけれど…」
なんて話が聞こえてきて、ずきずきとこめかみが痛んだのは、確か前々回に参加した夜会だ。
火のない所に煙は立たないと言うけれど、どうしてこうも、轟々と炎を上げて燃え盛っているのだろう。
予想に反し、あからさまに体目当てでヴィヴィアンに声を掛ける男性は、いない。
ちらちらとこちらを見ているのは判っているのだから、いっその事、直接、問い質してくれればいいのだ。
そうすれば、
「大舞踏会の前に、ダンスのおさらいをしておきたくて…誘ってくださる?」
と、しおらしく答えるものを。
実際の所、ヴィヴィアンは自分のダンスの腕前を、可もなく不可もなく、と思っている。
型通りの動きをなぞらえる事は出来るが、それ以上でも以下でもない。
だが、心のない夫とのダンスなど、それで十分だ。
義務で踊るダンスが楽しいと思った事など、ただの一度もないのだから。
夜会に参加している目的の遂行状況だが、確かに、ジュノが話していた通り、会場のあちこちで、恋の駆け引きは行われていた。
しかし、出来るだけ壁と同化して気配を殺して様子を窺ってみたものの、ジュノの言うような『ドキドキ』、『ときめき』、『きゅんっ』には、出会える気がしない。
何と言うか、まだるっこしい。
相手の気を惹く為の美辞麗句も、好意を伝えようとする熱視線も、
「好きなら好きって言えば?何をジレジレしてるのよ、面倒臭いなぁ」
と、半ばキレながら思ってしまう。
生まれた時から政略結婚する事が決まっていたヴィヴィアンと違って、この国は恋愛結婚推奨なのだから、好意を告げる事に何で躊躇するのかが判らない。
それとも、このもどかしいやりとりこそが、恋愛の醍醐味なのだろうか。
だったら、ヴィヴィアンに恋愛は向いていない。
ジュノに、そろそろ降参して引き篭もってもいいか、と尋ねたら、『大舞踏会までは頑張りなさい』と、飾りも素っ気もない白地に赤インクの返信が届いて、余りの恐ろしさに、仕方なく、今夜もこの場にいる。
幼い頃からよく知っている相手だからか、ヴィヴィアンはどうにもジュノには抵抗出来ない。
あぁ、視界の端で、薄茶の髪に青灰色の瞳の人畜無害そうな顔をした青年が、まだ社交界デビューから日も経っていないであろう大人しそうな令嬢に声を掛けている。
何かを言われて、頬を染めた令嬢。
会話を続けながら、さり気なく彼女の背に腕を回し、庭へと降りる階段に誘っていく青年…。
気を付けて、その男、前回も前々回もその前もそのもっと前も、違う令嬢に声を掛けていたから。
そう伝えたくとも、恋愛結婚至上主義のこの国で、無粋な横槍を入れる事になってもな、と躊躇するヴィヴィアンの前に、金色の細かな泡が立つグラスが差し出された。
給仕かと思って、断ろうと視線を向けたヴィヴィアンは、思わず息を飲む。
夜闇のような漆黒の短髪。
翡翠のような深い翠の瞳。
浅黒いと言う程には黒くなく、けれど、健康的に日焼けした肌。
女性としては長身であるヴィヴィアンが見上げる体躯に、広い肩幅。
隣国サーラで流行っている型の、上質なシルクと繊細な刺繍で出来た黒い礼装。
何よりも、一目見れば忘れる事は出来ないだろう美しい男性だった。
女性的と言うわけではない。
野性の獣のような精悍な顔立ちと、隙のない洗練された身のこなしは、場の空気を支配するだけの圧倒的な存在感がある。
金髪碧眼が美しいとされるこの国の美の基準とは真逆ながら、誰もが彼に目を奪われるだろう。
「ご一緒に、いかがですか?」
知らない男だ。
だが、見知らぬわけではない。
名は知らないものの、ここ何回かの夜会に彼が参加していた事に、ヴィヴィアンは気が付いていた。
ヴィヴィアンは、社交の場から遠ざかってはいるものの、「人」の情報は商売に必須。
だが、これ程に目立つ男だと言うのに、彼の名も、地位も、何も知らない。
サーラの礼装を着ているが、彼がサーラ人なのか、それともリンデンバーグ人なのかも知らない。
こんなにも艶のある低い声だとも、知らなかった。
「…嬉しいお誘いですけれど、わたくし、酒精は苦手ですの」
本当はザルを通り越してワクだが、知らない男の手にあった酒を飲む程、世間知らずではない。
少々の毒ならば体を慣らしてあるけれど、媚薬の類ならば問題だ。
「あぁ、これは失礼しました。では、」
男は慣れた様子で給仕を呼び寄せると、果実水を手に取った。
「こちらでは?」
男の手元は、じっと見ていた。
給仕がずっと会場にいる人間なのも確認しているし、給仕が歩み寄る少しの間にも、幾つものグラスが盆から無作為に取られていた。
大丈夫だ、と判断したヴィヴィアンは、微笑んで謝意を述べ、グラスを受け取る。
何しろ、夜会に出るようになってから、初めて声を掛けてくれた男だ。
そもそも、政略結婚する事が決まっていたヴィヴィアンは、結婚前に夜会に出た時も、兄達のどちらかがついて来ていて、うっかりヴィヴィアンが声を掛けられる事のないように周囲に視線を配っていたから、こうして、一対一で異性と対峙した経験がなかった。
珍しく好奇心に駆られたのだと、自分で判る。
壁の花が受ける痛い位の視線に、思っていたより、気疲れしていたらしい。
ヴィヴィアンに向けられていた視線の多くが、隣の目立つ男へと向けられて、知らずにホッと息を吐いた。
「今宵の出会いに」
気障な台詞だ、と思いはしたが、背中が痒くならないのは、そんな台詞が似合ってしまう男だからか。
乾杯、と軽くグラスが触れ合わされると、チン、と高く澄んだ音がした。
いいグラスだ、と、ヴィヴィアンはつい、反射的に考える。
この薄さは恐らく、ラメール工房のグラスだ。
「申し遅れました。私は、コンラートと申します」
家名を名乗らないのは、飽くまでこの場の会話だけに留めたいからか。
そう受け止めたヴィヴィアンは、にこやかに、
「ヴィヴィアンですわ」
と、こちらも家名を省いて返した。
人脈を築く事が目的ならば、家名を伏せての交流に意味はない。
つまりは、この男の目的は。
ヴィヴィアンが、過去の夜会でコンラートの存在に気づいていたように、コンラートがヴィヴィアンに気づいていたのならば、彼は、噂を信じて声を掛けて来たのかもしれない。
すなわち、成金貴族クレメント男爵家の娘で、現在はブライトン伯爵夫人であるヴィヴィアンは、夫に捨て置かれている寂しさを、一夜の火遊びで埋めている、と。
判らないのは、こんなにも見目麗しい男性ならば、敢えて人妻であるヴィヴィアンに声を掛けずとも、相手に困らないだろうに、と言う事なのだが。
実際、彼の背後に見える未婚のご令嬢方が、目をハートにして何処となく桃色の空気をまき散らしながら、一心にコンラートを見つめている。
それとも、未婚のご令嬢に声を掛けると、結婚を迫られる危険性があるから、そう言った心配のない人妻狙いなのだろうか。
「ヴィヴィアン嬢」
「…わたくし、既婚者ですの」
「では、ヴィヴィアン、とお呼びしても?」
一足飛びに距離を詰め過ぎだろう、と、ヴィヴィアンは唖然としてコンラートの顔を見上げた。
少し首が痛くなって、彼がそれだけ背が高いのだと改めて確認する。
丁寧な言葉遣いだが、給仕を呼び寄せた時の様子からしても、高位貴族である事は間違いない。
家名を名乗っておけば、ブライトン夫人、と呼ばせる事が出来たのに、と、ヴィヴィアンは内心、舌打ちをする。
何ら思い入れのない名ではあるものの、五年も使えば、それなりに慣れる。
「私の事は、どうぞ、コンラートと」
家名を知らないのだから、下の名で呼ぶしかないのだが、恐らく、敢えて強調してきたのは、呼び捨てで呼んでくれ、と言う事なのだ。
「初めてお会いする殿方の事を、そのように気安く呼ぶのは恐れ多いですわ」
「悲しい事を仰らないでください」
コンラートは、真っ直ぐに通った秀眉を寂しそうに顰めた。
「漸く今日、貴方に声を掛ける勇気を得られたのですから」
彼はやはり、ヴィヴィアンの存在に気づいていたらしい。
いや、気づいていたからこそ、身を潜めるようにしていたヴィヴィアンに敢えて、声を掛けて来たのだろう。
何処か懇願するような響きを帯びたコンラートの声は、恐らく、多くの女性にとって、心を浮き立たせ、好意を抱かせるものだった。
だが。
ヴィヴィアンは、探るように彼の顔を見る。
表面上は、取り澄ました笑顔を浮かべたままで。
そして、彼の目を見て、自分の疑いに確信を持つ。
「まぁ…嬉しい事を言ってくださるのね。でしたら、ダンスのお相手を一曲、お願い出来ます?わたくし、大舞踏会前におさらいがしたいのです」
嫣然と微笑んだヴィヴィアンの手からグラスを受け取ると、コンラートは流れるように彼女の手を取り、指先に口づける。
「勿論、月の女神の仰せの儘に」
夜会は、面倒臭い。
出来るだけ存在感を消して、壁際に飾られた大きな花瓶と花瓶の間に身を潜めるようにしながら、ヴィヴィアンは扇の陰で、ふぅ、と溜息を吐いた。
張り切ったジュノが、ブライトン家の家令と手を組んで、トビアス達が参加しない夜会を選び、出席の返信を送ってしまった。
家令は、代々ブライトン家に仕えているのだが、主家の窮状を救ってくれたヴィヴィアンに対する主の態度を、腹に据えかねているのだ。
幼いトビアスの教育係だった彼は、結婚当初から何度も何度も、苦言を呈してくれた。
そもそも、トビアスは当初、本邸でアイリーンと暮らし、ヴィヴィアンを追い出すつもりだったのだ。
それを、正妻であるヴィヴィアンを追い出そうとするとは何事か、と叱責した事で、家を出て行くのはトビアスになった。
家令は、アイリーンが関わると、トビアスの判断基準がおかしくなる事が以前から不満で、彼女と別れるように勧め続けていたらしいのだが、彼が聞き入れる事はなかった。
主を諫められなかった、とヴィヴィアンに負い目のある家令とジュノが組んだせい…いや、お陰で、ヴィヴィアンは、週に最低で一度、多い時は三度、夜会に出席している。
パートナーのエスコートが必須ではない気楽な会が中心なのがまだましなものの、人々の視線が、社交の場に滅多に出ないヴィヴィアンに向かう事に変わりはない。
夫が同伴するわけでもなく、身内の他の男性が同伴するわけでもなく、夜会が始まってからひっそりと訪れて、散会の前にひっそりと帰っていく姿に、当然のように様々な憶測が飛んだ。
息苦しくなって化粧室に逃げようとした時に、中から、
「ブライトン伯爵夫人は、何をしにいらしているのかしら?ご夫君に相手にされていないのですもの、愛人探し?」
「まぁ、ちょっと、お可哀想よ。あ、もしかして、正妻の地位を振りかざして、ブライトン伯爵が愛人といる言い逃れ出来ない現場に乗り込もう、とか?修羅場?」
「え?わたくしは、既にいい方がいて、その方と隠れて連絡を取り合う為の目くらましと聞いたけれど…」
なんて話が聞こえてきて、ずきずきとこめかみが痛んだのは、確か前々回に参加した夜会だ。
火のない所に煙は立たないと言うけれど、どうしてこうも、轟々と炎を上げて燃え盛っているのだろう。
予想に反し、あからさまに体目当てでヴィヴィアンに声を掛ける男性は、いない。
ちらちらとこちらを見ているのは判っているのだから、いっその事、直接、問い質してくれればいいのだ。
そうすれば、
「大舞踏会の前に、ダンスのおさらいをしておきたくて…誘ってくださる?」
と、しおらしく答えるものを。
実際の所、ヴィヴィアンは自分のダンスの腕前を、可もなく不可もなく、と思っている。
型通りの動きをなぞらえる事は出来るが、それ以上でも以下でもない。
だが、心のない夫とのダンスなど、それで十分だ。
義務で踊るダンスが楽しいと思った事など、ただの一度もないのだから。
夜会に参加している目的の遂行状況だが、確かに、ジュノが話していた通り、会場のあちこちで、恋の駆け引きは行われていた。
しかし、出来るだけ壁と同化して気配を殺して様子を窺ってみたものの、ジュノの言うような『ドキドキ』、『ときめき』、『きゅんっ』には、出会える気がしない。
何と言うか、まだるっこしい。
相手の気を惹く為の美辞麗句も、好意を伝えようとする熱視線も、
「好きなら好きって言えば?何をジレジレしてるのよ、面倒臭いなぁ」
と、半ばキレながら思ってしまう。
生まれた時から政略結婚する事が決まっていたヴィヴィアンと違って、この国は恋愛結婚推奨なのだから、好意を告げる事に何で躊躇するのかが判らない。
それとも、このもどかしいやりとりこそが、恋愛の醍醐味なのだろうか。
だったら、ヴィヴィアンに恋愛は向いていない。
ジュノに、そろそろ降参して引き篭もってもいいか、と尋ねたら、『大舞踏会までは頑張りなさい』と、飾りも素っ気もない白地に赤インクの返信が届いて、余りの恐ろしさに、仕方なく、今夜もこの場にいる。
幼い頃からよく知っている相手だからか、ヴィヴィアンはどうにもジュノには抵抗出来ない。
あぁ、視界の端で、薄茶の髪に青灰色の瞳の人畜無害そうな顔をした青年が、まだ社交界デビューから日も経っていないであろう大人しそうな令嬢に声を掛けている。
何かを言われて、頬を染めた令嬢。
会話を続けながら、さり気なく彼女の背に腕を回し、庭へと降りる階段に誘っていく青年…。
気を付けて、その男、前回も前々回もその前もそのもっと前も、違う令嬢に声を掛けていたから。
そう伝えたくとも、恋愛結婚至上主義のこの国で、無粋な横槍を入れる事になってもな、と躊躇するヴィヴィアンの前に、金色の細かな泡が立つグラスが差し出された。
給仕かと思って、断ろうと視線を向けたヴィヴィアンは、思わず息を飲む。
夜闇のような漆黒の短髪。
翡翠のような深い翠の瞳。
浅黒いと言う程には黒くなく、けれど、健康的に日焼けした肌。
女性としては長身であるヴィヴィアンが見上げる体躯に、広い肩幅。
隣国サーラで流行っている型の、上質なシルクと繊細な刺繍で出来た黒い礼装。
何よりも、一目見れば忘れる事は出来ないだろう美しい男性だった。
女性的と言うわけではない。
野性の獣のような精悍な顔立ちと、隙のない洗練された身のこなしは、場の空気を支配するだけの圧倒的な存在感がある。
金髪碧眼が美しいとされるこの国の美の基準とは真逆ながら、誰もが彼に目を奪われるだろう。
「ご一緒に、いかがですか?」
知らない男だ。
だが、見知らぬわけではない。
名は知らないものの、ここ何回かの夜会に彼が参加していた事に、ヴィヴィアンは気が付いていた。
ヴィヴィアンは、社交の場から遠ざかってはいるものの、「人」の情報は商売に必須。
だが、これ程に目立つ男だと言うのに、彼の名も、地位も、何も知らない。
サーラの礼装を着ているが、彼がサーラ人なのか、それともリンデンバーグ人なのかも知らない。
こんなにも艶のある低い声だとも、知らなかった。
「…嬉しいお誘いですけれど、わたくし、酒精は苦手ですの」
本当はザルを通り越してワクだが、知らない男の手にあった酒を飲む程、世間知らずではない。
少々の毒ならば体を慣らしてあるけれど、媚薬の類ならば問題だ。
「あぁ、これは失礼しました。では、」
男は慣れた様子で給仕を呼び寄せると、果実水を手に取った。
「こちらでは?」
男の手元は、じっと見ていた。
給仕がずっと会場にいる人間なのも確認しているし、給仕が歩み寄る少しの間にも、幾つものグラスが盆から無作為に取られていた。
大丈夫だ、と判断したヴィヴィアンは、微笑んで謝意を述べ、グラスを受け取る。
何しろ、夜会に出るようになってから、初めて声を掛けてくれた男だ。
そもそも、政略結婚する事が決まっていたヴィヴィアンは、結婚前に夜会に出た時も、兄達のどちらかがついて来ていて、うっかりヴィヴィアンが声を掛けられる事のないように周囲に視線を配っていたから、こうして、一対一で異性と対峙した経験がなかった。
珍しく好奇心に駆られたのだと、自分で判る。
壁の花が受ける痛い位の視線に、思っていたより、気疲れしていたらしい。
ヴィヴィアンに向けられていた視線の多くが、隣の目立つ男へと向けられて、知らずにホッと息を吐いた。
「今宵の出会いに」
気障な台詞だ、と思いはしたが、背中が痒くならないのは、そんな台詞が似合ってしまう男だからか。
乾杯、と軽くグラスが触れ合わされると、チン、と高く澄んだ音がした。
いいグラスだ、と、ヴィヴィアンはつい、反射的に考える。
この薄さは恐らく、ラメール工房のグラスだ。
「申し遅れました。私は、コンラートと申します」
家名を名乗らないのは、飽くまでこの場の会話だけに留めたいからか。
そう受け止めたヴィヴィアンは、にこやかに、
「ヴィヴィアンですわ」
と、こちらも家名を省いて返した。
人脈を築く事が目的ならば、家名を伏せての交流に意味はない。
つまりは、この男の目的は。
ヴィヴィアンが、過去の夜会でコンラートの存在に気づいていたように、コンラートがヴィヴィアンに気づいていたのならば、彼は、噂を信じて声を掛けて来たのかもしれない。
すなわち、成金貴族クレメント男爵家の娘で、現在はブライトン伯爵夫人であるヴィヴィアンは、夫に捨て置かれている寂しさを、一夜の火遊びで埋めている、と。
判らないのは、こんなにも見目麗しい男性ならば、敢えて人妻であるヴィヴィアンに声を掛けずとも、相手に困らないだろうに、と言う事なのだが。
実際、彼の背後に見える未婚のご令嬢方が、目をハートにして何処となく桃色の空気をまき散らしながら、一心にコンラートを見つめている。
それとも、未婚のご令嬢に声を掛けると、結婚を迫られる危険性があるから、そう言った心配のない人妻狙いなのだろうか。
「ヴィヴィアン嬢」
「…わたくし、既婚者ですの」
「では、ヴィヴィアン、とお呼びしても?」
一足飛びに距離を詰め過ぎだろう、と、ヴィヴィアンは唖然としてコンラートの顔を見上げた。
少し首が痛くなって、彼がそれだけ背が高いのだと改めて確認する。
丁寧な言葉遣いだが、給仕を呼び寄せた時の様子からしても、高位貴族である事は間違いない。
家名を名乗っておけば、ブライトン夫人、と呼ばせる事が出来たのに、と、ヴィヴィアンは内心、舌打ちをする。
何ら思い入れのない名ではあるものの、五年も使えば、それなりに慣れる。
「私の事は、どうぞ、コンラートと」
家名を知らないのだから、下の名で呼ぶしかないのだが、恐らく、敢えて強調してきたのは、呼び捨てで呼んでくれ、と言う事なのだ。
「初めてお会いする殿方の事を、そのように気安く呼ぶのは恐れ多いですわ」
「悲しい事を仰らないでください」
コンラートは、真っ直ぐに通った秀眉を寂しそうに顰めた。
「漸く今日、貴方に声を掛ける勇気を得られたのですから」
彼はやはり、ヴィヴィアンの存在に気づいていたらしい。
いや、気づいていたからこそ、身を潜めるようにしていたヴィヴィアンに敢えて、声を掛けて来たのだろう。
何処か懇願するような響きを帯びたコンラートの声は、恐らく、多くの女性にとって、心を浮き立たせ、好意を抱かせるものだった。
だが。
ヴィヴィアンは、探るように彼の顔を見る。
表面上は、取り澄ました笑顔を浮かべたままで。
そして、彼の目を見て、自分の疑いに確信を持つ。
「まぁ…嬉しい事を言ってくださるのね。でしたら、ダンスのお相手を一曲、お願い出来ます?わたくし、大舞踏会前におさらいがしたいのです」
嫣然と微笑んだヴィヴィアンの手からグラスを受け取ると、コンラートは流れるように彼女の手を取り、指先に口づける。
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