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今を時めく劇団ユニコーンの、話題となっている演目を見る為、ヴィヴィアンは友人のジュノと連れ立って、劇場を訪れた。
内容は、王道のラブストーリー。
惹かれ合った二人の男女が、権力者の手によって引き裂かれ、数々の苦難を乗り越えて再び巡り会う、と言うものだ。
会場の方々からすすり泣く声が聞こえ、最後のカーテンコールは熱狂的な拍手に迎えられて、何と三回行われた。
劇団ユニコーンが他の劇団と違う所は、全ての役者が男性である、と言う事。
女性の役も、男性が演じている。
男性が演じているとは思えないヒロインの美しさに、観客は溜息を零し、主人公二人のキスシーンは、男性の役者同士、と思うと倒錯的な美しさがあり…と、まぁ、そんなわけで、観客の大多数が女性なのだった。
「よがっだねぇぇ!」
貴族夫人と思えない程に顔中をくしゃくしゃに泣き濡らしたジュノは、ハンカチを握りしめて隣席のヴィヴィアンに話し掛けた。
「ジェニーを想うケヴィンの愛が、もぉ!もぉぉ!!」
「牛?」
「何でヴィヴィは泣いてないのよ?!凄く良かったでしょ?!」
「そうねぇ」
自身のハンカチをビショビショに濡らしたジュノに、自分のハンカチを渡してやりながら、ヴィヴィアンは、う~ん、と考える。
「ジェニー役の役者さんのアイライン、泣いても落ちないって凄いわ…何処のメーカーのかしら。舞台専門の化粧品かしら。あと、あの首飾り。カットが綺麗で舞台映えするわね。硝子なのか、それとも奮発してスピネル?近くで見ないと判らないけど、照明で本物のルビーに見えるのは、流石。何処の工房のものか、聞いてみたいわ。それと…そうね、ケヴィン役の役者さんが王との謁見で着てた衣装。あれって、最新の流行を取り入れてるのね。時代物なのに、違和感がなくて面白かったわ」
ヴィヴィアンが話せば話す程、ジュノの顔から、スン…と表情が消えていく。
「…それだけ?」
「え?えーと…」
「ジェニー役のロビン・ケストナーは女性役を演じる事が多いんだけど、本当に男性かしら?!って思う位、綺麗じゃない?」
「え、えぇ、そうね。上手に相手役に体格のいい役者さんを持って来て、華奢に見せてるな~、と思うわ。お化粧映えするお顔立ちなのね、どんな役柄も出来そう」
「…ケヴィン役のロード・アイルゼンは、今まで脇役が多くて、今回が初めての主人公なのよ。凛々しくて誠実なケヴィンは、彼の当たり役だと思うわ」
「何処か地方のご出身なのでしょうね。ちょっとぎこちない標準語が、誠実で生真面目な騎士と言う役どころにぴったり」
どうやら、求められている答えと違うらしい、とは判ったけれど、ジュノがどんな言葉を求めているのかが判らない。
困惑したヴィヴィアンが首を傾げると、ジュノは、はぁ、と溜息を吐いた。
「ロビンを見て、『こんな綺麗な人が男性だなんて!凄いわ、ドキドキする!』とか、ロードを見て、『きゃっ、何て凛々しいの!私も守って欲し~い!』とか…」
きょとんとしているヴィヴィアンを見て、ジュノは諦めたように、
「思わない、んでしょうねぇぇ…」
「ごめん…」
つい、謝ってしまう。
そうだった。
そもそも、舞台を観劇するのは、ヴィヴィアンの『ストップ!おっさん化』計画の一つだった。
王道ラブストーリーにドキドキして、女子憧れのシチュエーションにときめいて、綺麗な男性、格好いい男性にきゅんっとするのが目的だった。
の、だが。
残念ながら、ヴィヴィアンの関心はそちらには向かわず…舞台衣装や化粧、果ては大道具のシャンデリアが気になる有様だ。
仕方ないだろう、何しろ、商人の娘。
本物を見て目を養え、と商談に連れ回されていたのだ。
良さそうな商品があったら、チェックしておきたいのは、最早職業病だ。
勿論、可愛らしい娘にかこつけて、商談を有利に運ぶ為の餌にされていた事には気づいている。
「…これで、ヴィヴィが気に入ったら、ときめき補充する為には観劇すればいいわ、って思ったんだけど…違ったみたいね」
「うん、ごめん…」
「好みのタイプじゃなかった?」
「好み、って言うのが、よく判らないわ。だって、舞台に上がるような役者さんですもの、皆、整ったお顔立ちでしょう?」
「じゃあ、舞台見てもつまらなかった?」
「面白かったわよ?この作品は、ジョバンニの『騎士物語』をベースにアレンジされてるのでしょう?政治とかの小難しい会話はテンポよく短くまとめて、ジェニーとケヴィンの別れと再会は、抒情的にたっぷりと間を取って…緩急のつけ方が見事ね。背景音楽も、新進気鋭の作曲家のレナートを起用しているのではないかしら。あの決闘の場面の打楽器は、緊張感を煽って素晴らしかったわ。照明も、相当な練習を積んだのでしょう。場面ごとの切り替えが巧みで、二人が離れている時間の表現がよく伝わって来たわよね。色の濃淡だけで変化を表現するなんて、考えた事もなかったもの。衣装も、舞台映えする良い発色の生地を使って、遠くからでも役柄の性格が伝わるような印象深いデザインで…あれは舞台衣装だからこそ、なのだろうけれど、このデザイナーが作る普通の夜会用ドレスも見てみたいわ。面白いのが出来そう」
ヴィヴィアンの感想に、ぽかん、とジュノが口を開ける。
偶然、聞こえていたのであろう周囲の観客もまた。
「…私、何かおかしな事を言った…?」
「うぅん…何か…私の方こそごめん、って気になって…」
「?」
「…ヴィヴィが楽しんでくれたみたいで、何よりだわ…」
その時だった。
「失礼致します、お客様。当劇団の座長が、是非ともお話を伺いたいと申しているのですが、お時間を頂けないでしょうか?」
髪を後ろに流した青年が、柔らかな物腰で話し掛けて来る。
なかなかの美形で、周囲のご婦人達が、ちらちらと横目で見ながら、きゃあきゃあ騒いでいるのが判った。
もしかすると、役者の一人であるのかもしれない。
「…わたくしに?」
「はい、さようでございます。よろしければ、お連れ様も」
「え、座長って、カミロ・ウェリントン様?!」
「はい」
「きゃぁっ!ね、ね、ヴィヴィ、是非ともお話伺いましょうよっ!こんな機会、もうないわよ?!」
「そう?じゃあ…」
乗り気のジュノに勧められるがまま、ヴィヴィアンは案内の青年に連れられて、舞台の裏側へとついていった。
普段ならば、声を掛けられても断るのだけれど、ここは著名な歌劇場だし、ジュノもいる。
ジュノの夫のフレッド・バレントは騎士団に所属しているから、彼の名を出せばいい。
好き好んで、騎士団関係者の縁者に不埒な真似をする者はいるまい。
案内された舞台裏には、後援者や高位貴族の来訪に備えてだろう、応接室があった。
好奇心旺盛に辺りをきょろきょろと窺うジュノに対し、ヴィヴィアンは前を見据えて、口元にはほんのりと余所行きの微笑を浮かべている。
「よくいらしてくださいました、ヴィヴィアン・ブライトン伯爵夫人」
出迎えたのは、金髪碧眼の整った甘い顔立ちの男性だ。
目尻のほくろに、何とも言えない色気がある。
年の頃は二十代後半だろう。背が高く手足が長いので舞台映えするだろうが、今日の舞台には出演していなかった。
「…まぁ、初めてお目に掛かると思うのですけれど、わたくしをご存知でしたか?」
「えぇ、勿論。我が国でも稀有な色を持つ美しい方を、見間違える筈もありません。…あぁ、失礼しました。私は、カミロ・ウェリントン。ウェリントン侯爵家の三番目の道楽息子です」
「ご丁寧に有難うございます。ご存知のようですが、わたくしは、ヴィヴィアン・ブライトンです。こちらは、友人のジュノ・バレント男爵夫人。ご夫君が王都騎士団に勤めていらっしゃいますの」
にこ、とヴィヴィアンが微笑むと、カミロもまた、笑みを深くする。
自分の笑顔の威力を、よく理解している男だ、と、ヴィヴィアンは感じた。
その証拠に、隣でジュノが無音の黄色い声を上げる、と言う器用な事をしているのが判る。
「舞台袖から、ブライトン夫人が客席にいらしているのに気づいたのですが、どうやら、舞台芸術に造詣が深くていらっしゃるご様子。是非とも、我が劇団と今後、懇意にして頂きたい、と思いまして」
そう言うと、カミロはヴィヴィアンの繊手を掬い上げるように軽く握り、指先に唇を近づけた。
貴族には、女性への挨拶として、指先に口づける礼儀があるが、これは、口づける振りだけをするもの。
だが、カミロはヴィヴィアンの指先に、確かに唇を触れさせた。
そのまま、上目遣いで意味ありげに、ヴィヴィアンの珊瑚色の瞳を見つめる。
ヴィヴィアンは、「まぁ」と小さく言うと、誰もが見惚れる艶やかな笑みを浮かべた。
「わたくし、今回の舞台の衣装を担当された方にお会いしてみたいのです。ご紹介頂けますかしら?」
「えぇ、勿論。ブライトン夫人のお眼鏡に叶った事を、喜ぶでしょう」
「次の公演も、楽しみにしておりますわ」
「団員一同、一層励んで参ります」
その間、カミロにずっと手を預けたまま、辞去の挨拶をしたヴィヴィアンは、カミロの視線から解放され、ジュノと二人になった瞬間、大きな溜息を吐いた。
「え、何、て言うか、さっきの何」
「後援者探しでしょ。どんなに人気の劇団だろうと、後援者は一人でも多い方がいいのだもの」
「それは判るけど。…ん?じゃ、ヴィヴィは、ユニコーンを支援するの?」
「しないわよ」
「え、何で」
きょとんとしているジュノをよそに、ヴィヴィアンは、ハンカチで指先を拭う。
別に唇が触れただけだから、湿っているわけでもないのだが、何となくそうしないと気持ちが悪い。
「そうねぇ、もし、彼が劇団の内情を明かして、私に具体的な予算を提示した上で、金銭の支援のみを求めて来たのなら、考えるわ」
「んーと…うん?」
「ジュノは、こう言う若手美形男性役者の多い劇団の後援者で最も多いのは、どんな人物か知ってる?」
「えぇ?えーと、まずは、お金に余裕がある人、よね。で、芸術振興を目的とした…そうね、ご隠居様とか」
「違うわ」
「違うの?」
「まぁ、お金に余裕はあった方がいいわよね。自分の生活を削って支援する方もいるみたいだけれど、それで身上を潰したら本末転倒だもの。一番多いのは、壮年から老年の女性よ」
「壮年から老年の…女性?」
「そう。夫から相手にされなくなった女性。特に、夫が外に女性を囲っているか、未亡人が多いわね」
「!」
ヴィヴィアンの言葉に、ジュノは目を見開く。
「つまり…そう言う事?」
「そう言う事。お気に入りの役者を侍らせて、若い燕ごっこが出来るでしょう?その『燕さん』が、何処までご奉仕してくれるのかは知らないけど」
興味もない、と、ヴィヴィアンは言い切った。
「えーと…もしかして、ヴィヴィには珍しい話ではない?」
「そうね…」
ヴィヴィアンは、うんざりした顔をすると、ジュノに向かって肩を竦めた。
「結婚してから半年位経ってからかしら。役者、画家、音楽家、作家…色々な職種の男性に声を掛けられたわよ。年齢も様々ね。どうしてだか、彼等は皆、私が『寂しい思い』をしていると思い込んでるの。『顧みない夫を家で一人待つ身は、お辛いでしょう。私なら、貴方にそんな顔はさせないのに』とか何とか」
「うわぁ…」
「回りくどく色々言ってくるけど、要約すればつまりは、『金銭援助と引き換えに、愛人になります』って事。容姿に自信があるのでしょうね。単純に、取引として私に利を示した上で援助を望むのなら、投資先として考えなくもないのよ。でも、私みたいな『寂しい女』なら、整った容姿の男が愛人になるとチラつかせれば、それだけで大喜びで誘いに乗るだろう、と思っているその傲慢さが、許せないの」
私は別に、寂しくないし。
そう、ヴィヴィアンが言い切ると、ジュノは、「う~ん…」とはっきりしない返答をする。
「何?ジュノも、若い燕を持ちたいの?」
「要らないわよ。私はフレッドとマークスで手一杯。そうじゃなくてね。そう言う、打算込みの相手だとしても、女性として扱われたら、ときめいたりしないのかな、って。ウェリントン卿も、さっき、何か仕掛けて来たんでしょ?」
「そうね…でも、ときめきとやらはないわ。逆に冷めるって言うか」
「あ~…」
ヴィヴィアンは、下心そのものは嫌いではない。
取引だって、自分により利があるように動くのは当然の事だ。
それを、下心、と呼ぶのであれば、ヴィヴィアンだって常に下心で一杯だ。
けれど、彼等が、『夫に相手にされていない』『寂しい』ヴィヴィアンならば、少し甘い言葉を掛けてやれば、直ぐに彼等の言いなりになる、と思っている事が許せないのだ。
彼等には、ヴィヴィアンへの好意があるわけではない。
好意があるように見せ掛けているだけで、興味があるのはヴィヴィアンの資産と体のみ。
若くて美しいヴィヴィアンなら、他の後援者と付き合うよりも二度美味しい、と思っているだけの事だ。
その証拠に、夫であるトビアスの非道を責めても、誰一人として、彼からヴィヴィアンを奪うとは言わない。
ヴィヴィアンの事を、資産家の実家を持っているが、夫一人すら意のままに出来ない、頭の弱い貴族女性、としか思っていないからだろう。
美とドレスと宝石と、そのような物にしか興味のない、享楽的で刹那的な女性は、後援者として泡沫の遊び相手には相応しいが、真面目に心を交わす恋愛の相手としてはリスクが高い。
「取引を希望するなら、交換条件を提示すべきでしょう。なのに、持ってもいない好意がある振りをして、私には何の利も与えず、一方的に搾取しようとするのがイヤなの。その気持ちが、私に透けて見えると思っていない所も」
「そうね、男って、何故か自分の気持ちがバレてるって思わない生き物よね」
フレッドもそうなのだろうか。
ヴィヴィアンは、常に真面目な顔を崩さないジュノの夫の顔を思い浮かべて、小さく頷いた。
「女には考える頭もない、と思っているのなら、それは大きな間違いだわ。確かに、私は父の言いなりになって政略結婚して、夫の言いなりになってお飾りの妻の地位に甘んじているけれどね。でも、それは何も考えてない結果ではないのだもの」
父や夫に反抗する事の無意味さを知っているが故の無抵抗だけれど、ヴィヴィアンなりに考えた結果の選択なのだ。
傍から見ていて、そうは見えないのだろう事は、重々に承知しているけれど。
「そうよね…ヴィヴィのお父様は、なかなかの強敵だから…」
ジュノは溜息を吐いた後に、ぽん、と手を打ち合わせた。
「ねぇ、ヴィヴィ。演劇とヴィヴィの相性が余り良くなさそうなのは判ったわ。今度は、夜会に出てみない?」
「夜会…」
結婚以来、ヴィヴィアンが夜会に出席するのは、夫であるトビアスが正妻を同伴しなくてはならない時だけ。
トビアス自身は、愛人であるアイリーンを連れてあちらこちらに顔を出しているようなのだが、万が一にでも彼等と鉢合わせて好奇の視線に晒されない為と、不要な噂を呼んで父や夫に叱責されるのが面倒で、ヴィヴィアン自身は遠ざかっている。
「何でまた」
「そもそもの目的を忘れてない?目指せ、可愛いおばあちゃま、よ!女性として扱われたら、ヴィヴィのかっさかさに砂漠化した心も、潤うってものでしょう」
「女性として、ねぇ…今日のウェリントン卿を見ても判るでしょ?私が何者かなんて、判る人には直ぐに判るのよ。夫と不仲のお飾り妻に、下心なしに声を掛ける人なんているわけないわ。もし、いるとしたら、求めるものが、お金か体か、ってだけじゃない?」
「それは、やってみなきゃ判らないでしょ。別にいいのよ、壁の花でも。夜会は婚活市場よ?いいお相手を探そうと頑張ってる若い男女に刺激を受ける、って事もあるでしょう。男女の駆け引きを見て、ときめくかもしれないじゃない。いい?何の成果もない、と思っても、そうね、大舞踏会までは、最低週一ペースで参加する事を目標にしましょう。勿論、下心満載の下種男の相手をする必要はなし。火遊びしたいわけじゃないんだから。何か聞かれたら、『大舞踏会までに、ダンスの練習をしておきたくて…お相手してくださる?』とでも言っておけばいいわ。ダンスが目的、ってはっきり言っておけば、その後の誘いを断りやすいし、あの男に口を挟ませる事もないでしょ。練習相手を請け負わないのは、あいつなんだから」
ジュノの勢いに、ヴィヴィアンは圧倒されて、思わず頷く。
トビアスの呼び名が、あの男、から、あいつ、に変わっているが、ヴィヴィアン以上にトビアスを毛嫌いしている事は、よく判っている。
「あぁあ、幼馴染の私からすると、歯痒くって仕方ないわ。ヴィヴィは折角美人なんだから、お父様とあいつから救い出してくれるヒーローに、出会えればいいのに!」
本気でそう願ってくれているらしいジュノに、ヴィヴィアンは苦笑を返す。
「ジュノの気持ちは嬉しいけど、着飾った外見にしか用のない男なら、願い下げ。互いの気持ちが向き合ってない関係なんて、今と大差ないもの」
「ヴィヴィ…」
恋愛感情など、自分には縁のないものだと決めつけているヴィヴィアンの言葉に、ジュノは眉尻を下げた。
誰かを好きになる、と言う気持ちが判らない自分は、人として何処かが欠けているのではないか、と、ヴィヴィアンが幼い頃から悩んでいた事を知っているから、余計に。
「でも、一方的に憎まれるよりも、好意的な相手と暮らす方がいいじゃない?」
「外見だけが欲しいのなら、加齢と共にその感情は薄れるでしょ?夫の気持ちが若くて美しい女性に移ろっていくのを、ハンカチをぎりぎり噛み締めながら見送ればいいの?」
幼馴染との小さな恋を実らせたジュノには言えないが、恋愛で始まった関係だって、時間が経てば、互いへの想いが変わってしまう夫婦は少なくない。
時間と共に明らかに変化する外見がきっかけで始まる関係ならば、猶更の事だろう。
「それは…」
他ならぬヴィヴィアンの両親の関係がそうだ。
この国では珍しい銀髪に珊瑚色の瞳をした母リズと、父スタンリーは、スタンリーが商談で訪れた隣国カナルで出会ったと聞く。
若く美しいが困窮していた下級貴族の娘リズを、当時まだ商人だったスタンリーは、金の力で手に入れた。
そこに、愛があったのかどうか、年の離れた末子であるヴィヴィアンは知らない。
少なくとも、ヴィヴィアンに物心ついた時には、両親の仲は冷めていて、スタンリーはリズを、美しい娘と言う駒を生む道具としか見做していないように見えた。
けれど、リズの方にはスタンリーへの執着のような想いがあった事もまた、知っている。
リズにとって、この国は異国。
知り合いもなく、学もなく、立て続けに出産、育児を繰り返している為、家の中以外の世界を知らないリズにとって、スタンリーだけが、頼れる人間だったのだろう。
「例え、形式だけであっても、私は今、人妻だもの。醜聞が起きれば、父にも夫にも、口を極めて罵られるわ」
「勘違いしないで、ヴィヴィ。私は、貴方に浮気を勧めてるわけじゃないのよ?そりゃあ、ヴィヴィを奪うだけの気概がある男が何処かに転がってないかな~、って思っているのも本当だけれど、一番は、『ストップ!おっさん化』。これでしょ?」
「え、えぇ…」
『ストップ!おっさん化』。
何という字面のインパクト。
「自分で言ってたじゃない。商品価値は大事だ、って。おっさん化したら、心通わない夫にとって、嫁としての価値は底辺よ?」
「…そうね…」
例え、声を掛けられた所で、ヴィヴィアンが能動的に動かなければ、浮気と呼ばれる事はない。
ならば、不機嫌な夫に神経をすり減らす事なく、ただ、夜会と言う場を楽しんでもいいだろうか。
『ドキドキ』、『ときめき』、『きゅんっ』、が、転がっているのを、観察位は出来るだろうか。
内容は、王道のラブストーリー。
惹かれ合った二人の男女が、権力者の手によって引き裂かれ、数々の苦難を乗り越えて再び巡り会う、と言うものだ。
会場の方々からすすり泣く声が聞こえ、最後のカーテンコールは熱狂的な拍手に迎えられて、何と三回行われた。
劇団ユニコーンが他の劇団と違う所は、全ての役者が男性である、と言う事。
女性の役も、男性が演じている。
男性が演じているとは思えないヒロインの美しさに、観客は溜息を零し、主人公二人のキスシーンは、男性の役者同士、と思うと倒錯的な美しさがあり…と、まぁ、そんなわけで、観客の大多数が女性なのだった。
「よがっだねぇぇ!」
貴族夫人と思えない程に顔中をくしゃくしゃに泣き濡らしたジュノは、ハンカチを握りしめて隣席のヴィヴィアンに話し掛けた。
「ジェニーを想うケヴィンの愛が、もぉ!もぉぉ!!」
「牛?」
「何でヴィヴィは泣いてないのよ?!凄く良かったでしょ?!」
「そうねぇ」
自身のハンカチをビショビショに濡らしたジュノに、自分のハンカチを渡してやりながら、ヴィヴィアンは、う~ん、と考える。
「ジェニー役の役者さんのアイライン、泣いても落ちないって凄いわ…何処のメーカーのかしら。舞台専門の化粧品かしら。あと、あの首飾り。カットが綺麗で舞台映えするわね。硝子なのか、それとも奮発してスピネル?近くで見ないと判らないけど、照明で本物のルビーに見えるのは、流石。何処の工房のものか、聞いてみたいわ。それと…そうね、ケヴィン役の役者さんが王との謁見で着てた衣装。あれって、最新の流行を取り入れてるのね。時代物なのに、違和感がなくて面白かったわ」
ヴィヴィアンが話せば話す程、ジュノの顔から、スン…と表情が消えていく。
「…それだけ?」
「え?えーと…」
「ジェニー役のロビン・ケストナーは女性役を演じる事が多いんだけど、本当に男性かしら?!って思う位、綺麗じゃない?」
「え、えぇ、そうね。上手に相手役に体格のいい役者さんを持って来て、華奢に見せてるな~、と思うわ。お化粧映えするお顔立ちなのね、どんな役柄も出来そう」
「…ケヴィン役のロード・アイルゼンは、今まで脇役が多くて、今回が初めての主人公なのよ。凛々しくて誠実なケヴィンは、彼の当たり役だと思うわ」
「何処か地方のご出身なのでしょうね。ちょっとぎこちない標準語が、誠実で生真面目な騎士と言う役どころにぴったり」
どうやら、求められている答えと違うらしい、とは判ったけれど、ジュノがどんな言葉を求めているのかが判らない。
困惑したヴィヴィアンが首を傾げると、ジュノは、はぁ、と溜息を吐いた。
「ロビンを見て、『こんな綺麗な人が男性だなんて!凄いわ、ドキドキする!』とか、ロードを見て、『きゃっ、何て凛々しいの!私も守って欲し~い!』とか…」
きょとんとしているヴィヴィアンを見て、ジュノは諦めたように、
「思わない、んでしょうねぇぇ…」
「ごめん…」
つい、謝ってしまう。
そうだった。
そもそも、舞台を観劇するのは、ヴィヴィアンの『ストップ!おっさん化』計画の一つだった。
王道ラブストーリーにドキドキして、女子憧れのシチュエーションにときめいて、綺麗な男性、格好いい男性にきゅんっとするのが目的だった。
の、だが。
残念ながら、ヴィヴィアンの関心はそちらには向かわず…舞台衣装や化粧、果ては大道具のシャンデリアが気になる有様だ。
仕方ないだろう、何しろ、商人の娘。
本物を見て目を養え、と商談に連れ回されていたのだ。
良さそうな商品があったら、チェックしておきたいのは、最早職業病だ。
勿論、可愛らしい娘にかこつけて、商談を有利に運ぶ為の餌にされていた事には気づいている。
「…これで、ヴィヴィが気に入ったら、ときめき補充する為には観劇すればいいわ、って思ったんだけど…違ったみたいね」
「うん、ごめん…」
「好みのタイプじゃなかった?」
「好み、って言うのが、よく判らないわ。だって、舞台に上がるような役者さんですもの、皆、整ったお顔立ちでしょう?」
「じゃあ、舞台見てもつまらなかった?」
「面白かったわよ?この作品は、ジョバンニの『騎士物語』をベースにアレンジされてるのでしょう?政治とかの小難しい会話はテンポよく短くまとめて、ジェニーとケヴィンの別れと再会は、抒情的にたっぷりと間を取って…緩急のつけ方が見事ね。背景音楽も、新進気鋭の作曲家のレナートを起用しているのではないかしら。あの決闘の場面の打楽器は、緊張感を煽って素晴らしかったわ。照明も、相当な練習を積んだのでしょう。場面ごとの切り替えが巧みで、二人が離れている時間の表現がよく伝わって来たわよね。色の濃淡だけで変化を表現するなんて、考えた事もなかったもの。衣装も、舞台映えする良い発色の生地を使って、遠くからでも役柄の性格が伝わるような印象深いデザインで…あれは舞台衣装だからこそ、なのだろうけれど、このデザイナーが作る普通の夜会用ドレスも見てみたいわ。面白いのが出来そう」
ヴィヴィアンの感想に、ぽかん、とジュノが口を開ける。
偶然、聞こえていたのであろう周囲の観客もまた。
「…私、何かおかしな事を言った…?」
「うぅん…何か…私の方こそごめん、って気になって…」
「?」
「…ヴィヴィが楽しんでくれたみたいで、何よりだわ…」
その時だった。
「失礼致します、お客様。当劇団の座長が、是非ともお話を伺いたいと申しているのですが、お時間を頂けないでしょうか?」
髪を後ろに流した青年が、柔らかな物腰で話し掛けて来る。
なかなかの美形で、周囲のご婦人達が、ちらちらと横目で見ながら、きゃあきゃあ騒いでいるのが判った。
もしかすると、役者の一人であるのかもしれない。
「…わたくしに?」
「はい、さようでございます。よろしければ、お連れ様も」
「え、座長って、カミロ・ウェリントン様?!」
「はい」
「きゃぁっ!ね、ね、ヴィヴィ、是非ともお話伺いましょうよっ!こんな機会、もうないわよ?!」
「そう?じゃあ…」
乗り気のジュノに勧められるがまま、ヴィヴィアンは案内の青年に連れられて、舞台の裏側へとついていった。
普段ならば、声を掛けられても断るのだけれど、ここは著名な歌劇場だし、ジュノもいる。
ジュノの夫のフレッド・バレントは騎士団に所属しているから、彼の名を出せばいい。
好き好んで、騎士団関係者の縁者に不埒な真似をする者はいるまい。
案内された舞台裏には、後援者や高位貴族の来訪に備えてだろう、応接室があった。
好奇心旺盛に辺りをきょろきょろと窺うジュノに対し、ヴィヴィアンは前を見据えて、口元にはほんのりと余所行きの微笑を浮かべている。
「よくいらしてくださいました、ヴィヴィアン・ブライトン伯爵夫人」
出迎えたのは、金髪碧眼の整った甘い顔立ちの男性だ。
目尻のほくろに、何とも言えない色気がある。
年の頃は二十代後半だろう。背が高く手足が長いので舞台映えするだろうが、今日の舞台には出演していなかった。
「…まぁ、初めてお目に掛かると思うのですけれど、わたくしをご存知でしたか?」
「えぇ、勿論。我が国でも稀有な色を持つ美しい方を、見間違える筈もありません。…あぁ、失礼しました。私は、カミロ・ウェリントン。ウェリントン侯爵家の三番目の道楽息子です」
「ご丁寧に有難うございます。ご存知のようですが、わたくしは、ヴィヴィアン・ブライトンです。こちらは、友人のジュノ・バレント男爵夫人。ご夫君が王都騎士団に勤めていらっしゃいますの」
にこ、とヴィヴィアンが微笑むと、カミロもまた、笑みを深くする。
自分の笑顔の威力を、よく理解している男だ、と、ヴィヴィアンは感じた。
その証拠に、隣でジュノが無音の黄色い声を上げる、と言う器用な事をしているのが判る。
「舞台袖から、ブライトン夫人が客席にいらしているのに気づいたのですが、どうやら、舞台芸術に造詣が深くていらっしゃるご様子。是非とも、我が劇団と今後、懇意にして頂きたい、と思いまして」
そう言うと、カミロはヴィヴィアンの繊手を掬い上げるように軽く握り、指先に唇を近づけた。
貴族には、女性への挨拶として、指先に口づける礼儀があるが、これは、口づける振りだけをするもの。
だが、カミロはヴィヴィアンの指先に、確かに唇を触れさせた。
そのまま、上目遣いで意味ありげに、ヴィヴィアンの珊瑚色の瞳を見つめる。
ヴィヴィアンは、「まぁ」と小さく言うと、誰もが見惚れる艶やかな笑みを浮かべた。
「わたくし、今回の舞台の衣装を担当された方にお会いしてみたいのです。ご紹介頂けますかしら?」
「えぇ、勿論。ブライトン夫人のお眼鏡に叶った事を、喜ぶでしょう」
「次の公演も、楽しみにしておりますわ」
「団員一同、一層励んで参ります」
その間、カミロにずっと手を預けたまま、辞去の挨拶をしたヴィヴィアンは、カミロの視線から解放され、ジュノと二人になった瞬間、大きな溜息を吐いた。
「え、何、て言うか、さっきの何」
「後援者探しでしょ。どんなに人気の劇団だろうと、後援者は一人でも多い方がいいのだもの」
「それは判るけど。…ん?じゃ、ヴィヴィは、ユニコーンを支援するの?」
「しないわよ」
「え、何で」
きょとんとしているジュノをよそに、ヴィヴィアンは、ハンカチで指先を拭う。
別に唇が触れただけだから、湿っているわけでもないのだが、何となくそうしないと気持ちが悪い。
「そうねぇ、もし、彼が劇団の内情を明かして、私に具体的な予算を提示した上で、金銭の支援のみを求めて来たのなら、考えるわ」
「んーと…うん?」
「ジュノは、こう言う若手美形男性役者の多い劇団の後援者で最も多いのは、どんな人物か知ってる?」
「えぇ?えーと、まずは、お金に余裕がある人、よね。で、芸術振興を目的とした…そうね、ご隠居様とか」
「違うわ」
「違うの?」
「まぁ、お金に余裕はあった方がいいわよね。自分の生活を削って支援する方もいるみたいだけれど、それで身上を潰したら本末転倒だもの。一番多いのは、壮年から老年の女性よ」
「壮年から老年の…女性?」
「そう。夫から相手にされなくなった女性。特に、夫が外に女性を囲っているか、未亡人が多いわね」
「!」
ヴィヴィアンの言葉に、ジュノは目を見開く。
「つまり…そう言う事?」
「そう言う事。お気に入りの役者を侍らせて、若い燕ごっこが出来るでしょう?その『燕さん』が、何処までご奉仕してくれるのかは知らないけど」
興味もない、と、ヴィヴィアンは言い切った。
「えーと…もしかして、ヴィヴィには珍しい話ではない?」
「そうね…」
ヴィヴィアンは、うんざりした顔をすると、ジュノに向かって肩を竦めた。
「結婚してから半年位経ってからかしら。役者、画家、音楽家、作家…色々な職種の男性に声を掛けられたわよ。年齢も様々ね。どうしてだか、彼等は皆、私が『寂しい思い』をしていると思い込んでるの。『顧みない夫を家で一人待つ身は、お辛いでしょう。私なら、貴方にそんな顔はさせないのに』とか何とか」
「うわぁ…」
「回りくどく色々言ってくるけど、要約すればつまりは、『金銭援助と引き換えに、愛人になります』って事。容姿に自信があるのでしょうね。単純に、取引として私に利を示した上で援助を望むのなら、投資先として考えなくもないのよ。でも、私みたいな『寂しい女』なら、整った容姿の男が愛人になるとチラつかせれば、それだけで大喜びで誘いに乗るだろう、と思っているその傲慢さが、許せないの」
私は別に、寂しくないし。
そう、ヴィヴィアンが言い切ると、ジュノは、「う~ん…」とはっきりしない返答をする。
「何?ジュノも、若い燕を持ちたいの?」
「要らないわよ。私はフレッドとマークスで手一杯。そうじゃなくてね。そう言う、打算込みの相手だとしても、女性として扱われたら、ときめいたりしないのかな、って。ウェリントン卿も、さっき、何か仕掛けて来たんでしょ?」
「そうね…でも、ときめきとやらはないわ。逆に冷めるって言うか」
「あ~…」
ヴィヴィアンは、下心そのものは嫌いではない。
取引だって、自分により利があるように動くのは当然の事だ。
それを、下心、と呼ぶのであれば、ヴィヴィアンだって常に下心で一杯だ。
けれど、彼等が、『夫に相手にされていない』『寂しい』ヴィヴィアンならば、少し甘い言葉を掛けてやれば、直ぐに彼等の言いなりになる、と思っている事が許せないのだ。
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「取引を希望するなら、交換条件を提示すべきでしょう。なのに、持ってもいない好意がある振りをして、私には何の利も与えず、一方的に搾取しようとするのがイヤなの。その気持ちが、私に透けて見えると思っていない所も」
「そうね、男って、何故か自分の気持ちがバレてるって思わない生き物よね」
フレッドもそうなのだろうか。
ヴィヴィアンは、常に真面目な顔を崩さないジュノの夫の顔を思い浮かべて、小さく頷いた。
「女には考える頭もない、と思っているのなら、それは大きな間違いだわ。確かに、私は父の言いなりになって政略結婚して、夫の言いなりになってお飾りの妻の地位に甘んじているけれどね。でも、それは何も考えてない結果ではないのだもの」
父や夫に反抗する事の無意味さを知っているが故の無抵抗だけれど、ヴィヴィアンなりに考えた結果の選択なのだ。
傍から見ていて、そうは見えないのだろう事は、重々に承知しているけれど。
「そうよね…ヴィヴィのお父様は、なかなかの強敵だから…」
ジュノは溜息を吐いた後に、ぽん、と手を打ち合わせた。
「ねぇ、ヴィヴィ。演劇とヴィヴィの相性が余り良くなさそうなのは判ったわ。今度は、夜会に出てみない?」
「夜会…」
結婚以来、ヴィヴィアンが夜会に出席するのは、夫であるトビアスが正妻を同伴しなくてはならない時だけ。
トビアス自身は、愛人であるアイリーンを連れてあちらこちらに顔を出しているようなのだが、万が一にでも彼等と鉢合わせて好奇の視線に晒されない為と、不要な噂を呼んで父や夫に叱責されるのが面倒で、ヴィヴィアン自身は遠ざかっている。
「何でまた」
「そもそもの目的を忘れてない?目指せ、可愛いおばあちゃま、よ!女性として扱われたら、ヴィヴィのかっさかさに砂漠化した心も、潤うってものでしょう」
「女性として、ねぇ…今日のウェリントン卿を見ても判るでしょ?私が何者かなんて、判る人には直ぐに判るのよ。夫と不仲のお飾り妻に、下心なしに声を掛ける人なんているわけないわ。もし、いるとしたら、求めるものが、お金か体か、ってだけじゃない?」
「それは、やってみなきゃ判らないでしょ。別にいいのよ、壁の花でも。夜会は婚活市場よ?いいお相手を探そうと頑張ってる若い男女に刺激を受ける、って事もあるでしょう。男女の駆け引きを見て、ときめくかもしれないじゃない。いい?何の成果もない、と思っても、そうね、大舞踏会までは、最低週一ペースで参加する事を目標にしましょう。勿論、下心満載の下種男の相手をする必要はなし。火遊びしたいわけじゃないんだから。何か聞かれたら、『大舞踏会までに、ダンスの練習をしておきたくて…お相手してくださる?』とでも言っておけばいいわ。ダンスが目的、ってはっきり言っておけば、その後の誘いを断りやすいし、あの男に口を挟ませる事もないでしょ。練習相手を請け負わないのは、あいつなんだから」
ジュノの勢いに、ヴィヴィアンは圧倒されて、思わず頷く。
トビアスの呼び名が、あの男、から、あいつ、に変わっているが、ヴィヴィアン以上にトビアスを毛嫌いしている事は、よく判っている。
「あぁあ、幼馴染の私からすると、歯痒くって仕方ないわ。ヴィヴィは折角美人なんだから、お父様とあいつから救い出してくれるヒーローに、出会えればいいのに!」
本気でそう願ってくれているらしいジュノに、ヴィヴィアンは苦笑を返す。
「ジュノの気持ちは嬉しいけど、着飾った外見にしか用のない男なら、願い下げ。互いの気持ちが向き合ってない関係なんて、今と大差ないもの」
「ヴィヴィ…」
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「でも、一方的に憎まれるよりも、好意的な相手と暮らす方がいいじゃない?」
「外見だけが欲しいのなら、加齢と共にその感情は薄れるでしょ?夫の気持ちが若くて美しい女性に移ろっていくのを、ハンカチをぎりぎり噛み締めながら見送ればいいの?」
幼馴染との小さな恋を実らせたジュノには言えないが、恋愛で始まった関係だって、時間が経てば、互いへの想いが変わってしまう夫婦は少なくない。
時間と共に明らかに変化する外見がきっかけで始まる関係ならば、猶更の事だろう。
「それは…」
他ならぬヴィヴィアンの両親の関係がそうだ。
この国では珍しい銀髪に珊瑚色の瞳をした母リズと、父スタンリーは、スタンリーが商談で訪れた隣国カナルで出会ったと聞く。
若く美しいが困窮していた下級貴族の娘リズを、当時まだ商人だったスタンリーは、金の力で手に入れた。
そこに、愛があったのかどうか、年の離れた末子であるヴィヴィアンは知らない。
少なくとも、ヴィヴィアンに物心ついた時には、両親の仲は冷めていて、スタンリーはリズを、美しい娘と言う駒を生む道具としか見做していないように見えた。
けれど、リズの方にはスタンリーへの執着のような想いがあった事もまた、知っている。
リズにとって、この国は異国。
知り合いもなく、学もなく、立て続けに出産、育児を繰り返している為、家の中以外の世界を知らないリズにとって、スタンリーだけが、頼れる人間だったのだろう。
「例え、形式だけであっても、私は今、人妻だもの。醜聞が起きれば、父にも夫にも、口を極めて罵られるわ」
「勘違いしないで、ヴィヴィ。私は、貴方に浮気を勧めてるわけじゃないのよ?そりゃあ、ヴィヴィを奪うだけの気概がある男が何処かに転がってないかな~、って思っているのも本当だけれど、一番は、『ストップ!おっさん化』。これでしょ?」
「え、えぇ…」
『ストップ!おっさん化』。
何という字面のインパクト。
「自分で言ってたじゃない。商品価値は大事だ、って。おっさん化したら、心通わない夫にとって、嫁としての価値は底辺よ?」
「…そうね…」
例え、声を掛けられた所で、ヴィヴィアンが能動的に動かなければ、浮気と呼ばれる事はない。
ならば、不機嫌な夫に神経をすり減らす事なく、ただ、夜会と言う場を楽しんでもいいだろうか。
『ドキドキ』、『ときめき』、『きゅんっ』、が、転がっているのを、観察位は出来るだろうか。
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