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<番外編>
<アレン>
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貴女に、
俺の剣を
俺の心を
俺の命を
捧げます。
***
学園卒業後の進路に、タウンゼント公爵家の騎士団ではなく近衛騎士団を志望したのは、タウンゼント家のしがらみから離れたかったからだ。
タウンゼントの傍系にあたる我がマーティアス子爵家。
父も、その父も、そのまた父も。タウンゼント家から分家した初代マーティアスまで遡っても皆、タウンゼント公爵家の騎士団に所属していたから、父は俺が近衛を目指すと聞いて驚いた顔をしていたものの、しばらく考えた後に、
「その方がいいかもしれんな」
と頷いた。
「現在、タウンゼントを名乗っておられるのは公爵閣下ご夫妻とご令嬢のみ。ご令嬢は王子殿下に嫁されると決まっているのだから、次代は家門内から養子を取られるおつもりなのか、ご令嬢のお子様を考えておられるのか。グリゼラ夫人が第二子を出産なされば、話は早いが……」
ロザリンド・タウンゼント公爵令嬢は、双子の王子殿下と同い年の十六歳。
タウンゼント公爵令嬢が王子殿下と結婚なさって子を生んだとしても、当然だが、全員が王になれるわけではない。
だから、玉座に座れなかった子供に公爵位を与えるというのは、よくある話のように見える。
だが、子供というものは、こちらの都合に合わせて生まれてくるわけではない。
事実、俺の両親には俺以外の子はいない。
傍から見ていても両親の夫婦仲は良好だし、二人とも健康体にもかかわらず、俺を授かるまでにも時間が掛かったと聞く。
「……まぁ、いざとなれば、キーラン家から呼び戻すのだろうが……」
「キーラン家? キーラン伯爵家ですか?」
キーラン伯爵家もまた、タウンゼントの傍系に数えられているけれど、家門の集まりには出ていなかった筈。
呼び戻す、とは、一体?
「あぁ、お前は生まれていなかったか。現在のグリゼラ夫人の前に、タウンゼント公爵閣下とご結婚されていたのが、キーラン家のご令嬢だったのだ。お二人の間には、ご子息がお一人、いらっしゃる。今は、お母上と共にキーラン家でお過ごしだ」
……奇妙な話だ。
普通、妻と離縁したとしても、嫡男は手元に残すだろうに。
王家と縁を繋ぐ為の娘が必要だったのはわかる。
だから、再婚してご令嬢を儲けた理由は想像がつくものの、後継ぎになりうる息子を家から追い出すのは、別の話だろう。
タウンゼント公爵家は、ハークリウス王国の五公爵家と呼ばれる大貴族の一つ。
その中でも一番の権勢を誇っているのは、一族の人数が多い事、家門内の集まりが頻繁でタウンゼント家への忠誠を都度試される事、表には出せないような仕事をする者達がいる事が理由だろう。
そして、それこそが、俺がタウンゼント騎士団を避ける理由でもあった。
「いずれにせよ、後継ぎ問題で荒れるだろうな。それを思えば、近衛に所属しておくのはいい考えだ」
もうすぐ卒業する学園でも、タウンゼント家門の者は徒党を組み、他の派閥と距離を置いている。
タウンゼント家門以外の貴族家との交流がなくとも、タウンゼント家の指示にさえ従っていれば、社交界で生きていけてしまうからだ。
――しかし、それは俺には、ひどく歪んだ姿に見えた。
誰かに思考を任せ、駒のように動かされているだけなのに、自分の人生を生きていると言えるのだろうか?
幼い頃から、騎士を目指して励んで来た。
そして、騎士となるからには、己のすべてを捧げられる主に出会いたかった。
前時代的と言う者もいるけれど、「騎士の誓い」を捧げられるような主に出会えれば……それこそが、幸福なのではないのか。
誰かに主を決められるのは、イヤだ。
俺は、俺の意思で主を定めたい。
結果として、タウンゼント家の誰かに忠誠を誓う日が来るのかもしれないけれど、まずは、タウンゼントの外の世界を見てみたいのだ。
そうして始まった近衛騎士団の生活は、穏やかなものだった。
ハークリウス王国は長く戦争をしていないし、家門間の争いもない今、近衛の任務は王族と王宮の守護だけ。
日々の訓練こそ厳しいけれど、俺の所属している隊の隊長は、他の隊に比べると比較的手緩い方だと思う。
第三部隊のフラネル隊長の地獄の訓練は有名だから、第三部隊の所属にならなくて良かったと安心すべきなのか、自身を鍛える為には地獄に身を置くべきなのか。
新人騎士の研修が終わってしばらく経ったある日。
俺は、お茶会の警護任務を与えられた。
双子の王子殿下が、婚約者のご令嬢達を招いて行うものだ。
「いいなぁ、マーティアス。王子殿下のご婚約者のご令嬢といえば、タウンゼント公爵令嬢だろう? 学園でも評判の美少女じゃないか」
「マーティアスもタウンゼント家門だよな? 個人的に言葉を交わした事はあるのか?」
同僚の新人騎士達に興味津々に囲まれて、
「家門の人間であっても俺は傍系の子爵家なんだから、雲の上の存在に決まってるだろ。ご挨拶した事すらないよ」
と適当に答える。
タウンゼント公爵令嬢は、赤みがかった金髪に水色の瞳を持ち、十七歳と思えない蠱惑的な肢体の持ち主で、学園でも人気が高かった。
王子殿下と結婚する未来が決まっているというのに、彼女に侍ろうとする男子生徒が絶えなかったのは、その婚約が未だ、書面上は結ばれていないからだろう。
けれど、『完璧な公爵令嬢』と呼ばれている彼女であっても、騎士の誓いを立てたいかと問われると、なんとも言えなかった。
タウンゼントの傍系とはいえ、学園の中で群れていたタウンゼント家門から離れて行動していた俺に、彼女との接点はない。
警備任務に就いていれば、何か見えてくるものがあるだろうか。
近衛に、来客と言葉を交わす機会などない。
到着した馬車を出迎えるのは執事の仕事だし、俺達は会場までの移動中、前後左右をお守りし、茶会の間、会場周辺を警備するだけだ。
タウンゼント公爵家の豪奢な馬車で登城したご令嬢は、昼の茶会とは思えないほど大胆なドレスを着て現れた。
……まだ、十七歳だよな?
お年頃の両殿下には、刺激が強過ぎるのではないだろうか……たった二歳しか違わないものの、子爵家の俺と王族のお二人では、これまでに経験してきた遊びの程度が違うように思う。
俺は……まぁ、それなりに遊んで来た方だと思うけど、それは置いておいて。
聞いていた茶会の時間よりも一時間以上早く到着したタウンゼント公爵令嬢は、執事に、
「待ち遠しくて、少し早めに着いてしまったわ。セディとルークに、わたくしが来たって伝えてもらえる?」
と、当然の顔で要求する。
執事は執事で、慣れた様子で応対しているから、いつもの事なのだろう。
いまだ学園に通う身の上とはいえ、両殿下は多忙な王族だ。
勝手に早く来ておいて、呼びつけるとはどういう事なのか……
表面上はにこやかだし、言葉も居丈高なものではないのに、どうにも不快感が残る。
両殿下は、それから、然程時間を置かずに会場に現れた。
「ねぇ、ローズ。開始が早い方が都合がいいなら、次回から時間を繰り上げようか?」
そうにこやかに問い掛けるのは、セドリック殿下。
「まぁ、いいのよ、セディ。気を遣わないで。わたくしが二人とお話したくて早く来てしまっただけですもの」
……自分から呼びつけておきながら、一体、何を言ってるのだろう。
この席は、両殿下と婚約者二人の為に設けられた席じゃないのか。
タウンゼント公爵令嬢は学園でも両殿下と顔を合わせてるのだから、ここは年下のもう一人の婚約者に交流の機会を譲るべきなのでは?
噂で聞いていた『完璧な公爵令嬢』らしからぬ振る舞いに、内心、眉を顰める。
その時、もう一人の招待客が到着するとの先触れが届いて、馬車寄せへと警護の為に移動する事になった。
俺と一緒に今日の当番に当たった騎士達は、歩きながら、
「さすが、タウンゼント公爵令嬢はお綺麗だな」
「『お話したくて……』なんて言われてみたいよ。健気だよなぁ」
と、頬を染めてデレデレしている。
健気? あれが健気に見えるのか?
健気っていうのは、相手を慮って控え目に振る舞う事だろう?
自分の都合で相手を振り回すのは、健気ではなく、我儘と言うんだ。
確か、もう一人の婚約者はアーケンクロウ公爵令嬢だったか。
お三方とは、大分年が離れていた筈。
そんな方が、あのタウンゼント公爵令嬢に対抗できるんだろうか。
「ようこそいらっしゃいました、アーケンクロウ公爵令嬢」
「……ご機嫌よう」
――これを、鈴を振るような声というのか。
アーケンクロウ家の家紋のついた馬車から降り立ったのは、小さな小さな女の子だった。
まだ少女とも呼べない、女の子。
銀色の艶やかな髪をハーフアップにまとめて、紫の石がついた髪飾りで留めてある。
彼女の年齢を示すように脹脛丈のドレスは、淡いラベンダー。
フリルやレースが好きな年頃ではないかと思うのだけれど、年上の婚約者に会う為なのか、大人びた意匠だった。
口元にはほんのりと美しい笑みを浮かべているのに、その透き通るような紫の瞳には、なんの感情も浮かんでいない。
「両殿下とタウンゼント公爵令嬢がお待ちでございます」
執事に先導され、一歩足を踏み出し掛けたアーケンクロウ公爵令嬢は、ぴた、と足を止めると、同行する為に待機していた俺達近衛騎士の方に、くるりと体を向けた。
「今日は、警護をよろしくお願いします」
そして、にこ、とはにかむように微笑む。
その笑みは、先ほどまで浮かべていた色のないものではなくて、彼女の心からのものに見えて。
とても……美しかった。
「はっ。お任せください」
本来ならば、招待客と言葉を交わす事なんてない。
けれど、反射的に俺達は、左胸に手を当てる騎士の礼を執る。
こんなに、幼いのに。
彼女は確かに、王族の妻となり、臣下を導くべく教育されてきたご令嬢だった。
――茶会の会場での事は、あまりにも低レベルで思い出したくもない。
まず、挨拶をしようとアーケンクロウ公爵令嬢が口を開いた瞬間に、タウンゼント公爵令嬢が紅茶のカップを倒した。
使用人達がばたばたする中、彼女の挨拶はなぁなぁで流されてしまう。
両殿下がアーケンクロウ公爵令嬢に話し掛ける度に、横から口を挟んで話題をすべて自分の話にすり替えるタウンゼント公爵令嬢。
アーケンクロウ公爵令嬢がわからない学園内部の話をして、彼女の存在を無視し続ける。
さらに、わざとらしくくしゃみをして、セドリック殿下から上着を借りていた。
まだ肌寒い季節だというのに、あれだけ肌を出していたら、いくら室内とはいえ、寒いのは当然だ。季節感がないのか。
最終的には、会場から辞する時に、自分を真ん中に両殿下を両側に侍らせて腕を絡めると、
「馬車まで送っていただける?」
と甘くねだっていた。
一方、一人取り残されたアーケンクロウ公爵令嬢は、何事もなかったかのように俺達と共に馬車寄せへと移動し、再び、くるりと体を向けると、
「今日はありがとうございました」
とお礼を言ってくれた。
タウンゼント公爵令嬢が、徹頭徹尾、俺達の存在を気にも留めなかったのとは、正反対の態度。
彼女の声が聞けたのは、到着時と帰宅時の挨拶のみ。
それ以外はすべて、タウンゼント公爵令嬢のせいで、聞く事は叶わなかった。
あの日から俺が近衛に所属していた二年の間、何度か茶会の警護を担当したけれど、彼等四人の関係性が変わる事はなかった。
タウンゼント公爵令嬢――気に食わないから、もう「ロザリンド」と腹の中では呼び捨てているが――が場の中心として振る舞い、両殿下は彼女を暴走させないようになんとかあしらいながらアーケンクロウ公爵令嬢――同じく、心の中では親しみを込めて「リリエンヌ様」とお呼びしている――を気に掛け、そして、リリエンヌ様は変わらぬ微笑みでやり過ごしている。
関係性が変わる事はなかったけれど、リリエンヌ様はお変わりになった――悪い方向に。
当初ははにかむように見せてくださっていた笑みが、同じ笑みでも人形のようにまったく心を映さないものになってしまった。
あれは確か、学園に通い始めてからだから、恐らく、ロザリンドが何かしたのだろう。
王宮内でも、リリエンヌ様の悪い噂が耳に届くようになった。
曰く、
「学園での成績が揮わない」
「マナーがなっていない」
「高位の貴族令嬢とは思えないほどに華がない」
まったく、根拠のないものだ。
ロザリンドが学園生活を、両殿下と男子生徒達を侍らせながら謳歌しているのに対して、リリエンヌ様はほとんど学園に通えていない。
であるにもかかわらず、リリエンヌ様の座学の成績はトップクラスだ。確かに実技科目は授業を受けられていない分、揮わないかもしれないが、そこだけを取り上げている事に作為的なものを感じる。
所作の美しさは、茶会の作法だけでなく、馬車の乗り降りを見ているだけでもわかるのだから、何をもってマナーが身に付いていないとしているのか。
何よりも、彼女の美しさを理解できないなんて。
十二歳だった女の子は、十四歳の少女に成長していた。
少しずつ女性らしく成長していく姿は、純粋に美しい。
価値観の相違というものはあるから、ロザリンドの押し付けるような華やかさを美しいと感じる者はいるだろう。
けれど、リリエンヌ様の妖精のように透き通る美しさは、もう少し成長されれば、男女問わず目を惹かれてやまないものになる筈だ。
このような不穏な噂が巡るのは、ロザリンドやタウンゼント公爵の意図的なものでないとは思えない。
ロザリンドとリリエンヌ様、二人は王子妃候補としてのライバルではない。
王子殿下はお二人いて、それぞれが嫁すると決定しているのだから。
それでもなお、タウンゼントがリリエンヌ様を蹴落とそうとするのは、リリエンヌ様が王子妃候補として優秀、ひいては王妃に相応しい方である事の証左であるように思う。
リリエンヌ様が正しい評価を受けられない事にもどかしい思いをしていたその時、タウンゼント公爵に名指しで呼び出された。
学園を卒業するロザリンドの護衛騎士になれ、と言うのだ。
「タウンゼント騎士団には、優秀な騎士が揃っているではありませんか。私一人がお傍におらずとも、ご令嬢の警護は十分かと存じますが」
誰が好き好んで、あの我儘女の護衛騎士になりたいというのか。
タウンゼント家門から近衛になった者はほとんど存在しないと聞くから、目立ってしまっているのは事実だろうが、家門内に数いる騎士の一人くらい、放っておいて欲しい。
「近衛の中でも、優秀だと聞いている」
「私には、過分な評価でございます。まだまだ、修行中の身です。この先、ご令嬢が王宮の女主人になられる頃には、鍛練の成果をお見せできる事でしょう。近衛は王族の皆様の為に存在しておりますから、王宮にて、ご令嬢を誠心誠意お守りしてまいります」
ロザリンドの護衛騎士なんてなってしまったら、リリエンヌ様を警護できなくなってしまう。
なんとか逃れようと、あれこれと言い訳をするものの、初めて対面したタウンゼント公爵は聞く耳を持たない。
「そう遠慮せずともよい。ロザリンドの傍に仕えられるのだぞ。嬉しいだろう?」
親バカといえばいいのか、バカ親といえばいいのか、俺が断ると欠片も思っていない顔で、そんな事まで言い出した。
「わかっていると思うが、私はそなたの意向を尋ねているのではない。これは、決定事項だ」
……あぁ、そうだ、近衛の居心地がよくて忘れていた。
マーティアス家に、タウンゼントの命令に逆らう術なんて、ないんだ……
それから、ロザリンドが結婚するまでの五年間は、正に地獄だった。
近衛時代に、ロザリンドの二面性も、自己中心的な性格も、わかったと思っていた。
けれど、そんな生温いものではなく、彼女はもっと狡猾で強かだった。
一体、誰が、将来王子妃となる令嬢が男遊びをしていると思う?
王族の血統の正統性を守る為に純潔を求められている身でありながら、彼女は決して秘密を暴露できない家門内の見目良い男に次々と声を掛けては、危険な遊びに巻き込んでいた。
ロザリンドの二面性をご存知の王子殿下方も、まさか、ここまで彼女が堕ちているとは把握されていないだろう。
俺自身、毎日のようにそれとなく誘い掛けられているのを、他の護衛騎士の陰に隠れながら、のらりくらりと躱し続けていた。
普通なら、据え膳食わぬは……とでも思うんだろうな。
だが、将来の王子妃に手を出す危険性なんて考えるまでもないし、何よりも俺はリリエンヌ様をお慕いしている。
慕っている、といっても、相手は未成年。俺よりずっと年下の令嬢なのだから、不純な思いではない。
リリエンヌ様は日々美しく成長され、反比例するように感情表現がなくなっていった。
陰口や蔑む視線に気づいていないわけもないのに、完璧な笑みを浮かべる彼女を揶揄して、いつしか「人形姫」と呼ばれるようになったけれど、悪意に頽れる事なく、笑みを浮かべ続けていられるのは、リリエンヌ様の強さだ。
彼女は本物の人形ではないのだから、人々の悪意に晒され、誰一人かばう者なく、孤独であり続けるのは、心削られる経験に違いない。
泣きわめき、倒れ伏しても当然だというのに、苦しい思いをしながらも顔を上げて微笑む強さを、俺は尊敬してやまない。
彼女が微笑み続けてくれているから、俺もこの不条理な環境に耐える事ができているのだ。
彼女だ、と思った。
リリエンヌ様こそ、俺が剣を捧げるべき相手だ。
騎士として、生涯尽くすべき相手だ。
俺の、人生そのものだ。
ロザリンドが結婚すれば、護衛騎士の任命権はセドリック殿下にも渡る筈。
どうにかして辞職させてもらって、リリエンヌ様の元に行きたい。
――……そう、思っていたのに。
タウンゼント父子に騙されてしまったのは、もう少しで結婚式が挙行され、彼女の執着から逃れられるだろう、と油断していたせいなのか。
目が覚めて、隣にしどけなく横たわっているロザリンドを発見した時の恐怖を、決して忘れる事はないだろう。
晩餐の途中から目が覚めるまでの記憶はないのに、何があったのかは明らかで。
自らの覚悟のない行為の責任なんて負いたくはないけれど、目を逸らす事もできずにタウンゼント公爵に王家との取次ぎを願い出ると、彼は、そなたの気にする事ではない、と笑った。
ロザリンドの妊娠が判明した時も、生まれた子供が明らかに俺に似ていた時も、なりふり構わなければ事態を公にする事はできたのだろう。
しかし……俺は結局、保身に走った。
真実が明らかになれば、俺は処罰を受ける。
だが、誰も気づきさえしなければ、誰も暴露さえしなければ、真実は永遠に闇に葬り去られると嘯いて。
そうすれば、言葉を交わす事も視線を交わす事もないけれど、リリエンヌ様を視界に映し続ける事ができる。
そうやって、自分を誤魔化し続ける中、生まれた王子殿下と両陛下の初めての面会に立ち会った時。
久し振りにお姿を拝見したリリエンヌ様は、大きな変化を遂げていらした。
微笑みには慈しみが満ち、硝子玉のようだった瞳には温もりが溢れ、その視線の先にはクローディアス王子殿下がいらっしゃる。
すべてをただ受け止めていただけのリリエンヌ様が、自ら、お子様の為に動いておられる姿に――愕然とした。
風が吹いただけで倒れそうにか細かった女の子は、いつの間にか、凛とした母になっていた。
母としての愛情を全身全霊でクローディアス殿下に傾けるお姿に、ただ足踏みをして真実から目を背けた自分を恥じた。
そして、ずっと誤魔化し続けていた思いが、敬愛ではなく、恋情である事にも気がついた。
相変わらず、ルーカス殿下との関係はぎこちないもののようだけれど、それならば……それならば、俺が彼女を支えたい。
すべてを受け止め、すべてを肯定し、俺のすべてで彼女を守る。
リリエンヌ様が、クローディアス殿下と共にいる事で笑えるのならば、それでいい。
リリエンヌ様が幸せであれば、それでいい――……
タウンゼント家を裏切り、息子をマーティアス家に迎え入れ、セドリック殿下に願い出てリリエンヌ様の護衛騎士になった。
何も知らない彼女を騙すように騎士の誓いを立てた事に、後悔はない。
リリエンヌ様は、知らなくていいのだ。
ルーカス殿下以外の男を、異性として認識していないリリエンヌ様。
俺が彼女に不純な思いを抱いている事も、けれど、決して打ち明ける気がない事も、知らなくていい。
愛されたいとは望まない。
ただ、最後まで――人生の最期まで、彼女の傍に、いられればいい。
彼女に、すべてを捧げた騎士として。
END
俺の剣を
俺の心を
俺の命を
捧げます。
***
学園卒業後の進路に、タウンゼント公爵家の騎士団ではなく近衛騎士団を志望したのは、タウンゼント家のしがらみから離れたかったからだ。
タウンゼントの傍系にあたる我がマーティアス子爵家。
父も、その父も、そのまた父も。タウンゼント家から分家した初代マーティアスまで遡っても皆、タウンゼント公爵家の騎士団に所属していたから、父は俺が近衛を目指すと聞いて驚いた顔をしていたものの、しばらく考えた後に、
「その方がいいかもしれんな」
と頷いた。
「現在、タウンゼントを名乗っておられるのは公爵閣下ご夫妻とご令嬢のみ。ご令嬢は王子殿下に嫁されると決まっているのだから、次代は家門内から養子を取られるおつもりなのか、ご令嬢のお子様を考えておられるのか。グリゼラ夫人が第二子を出産なされば、話は早いが……」
ロザリンド・タウンゼント公爵令嬢は、双子の王子殿下と同い年の十六歳。
タウンゼント公爵令嬢が王子殿下と結婚なさって子を生んだとしても、当然だが、全員が王になれるわけではない。
だから、玉座に座れなかった子供に公爵位を与えるというのは、よくある話のように見える。
だが、子供というものは、こちらの都合に合わせて生まれてくるわけではない。
事実、俺の両親には俺以外の子はいない。
傍から見ていても両親の夫婦仲は良好だし、二人とも健康体にもかかわらず、俺を授かるまでにも時間が掛かったと聞く。
「……まぁ、いざとなれば、キーラン家から呼び戻すのだろうが……」
「キーラン家? キーラン伯爵家ですか?」
キーラン伯爵家もまた、タウンゼントの傍系に数えられているけれど、家門の集まりには出ていなかった筈。
呼び戻す、とは、一体?
「あぁ、お前は生まれていなかったか。現在のグリゼラ夫人の前に、タウンゼント公爵閣下とご結婚されていたのが、キーラン家のご令嬢だったのだ。お二人の間には、ご子息がお一人、いらっしゃる。今は、お母上と共にキーラン家でお過ごしだ」
……奇妙な話だ。
普通、妻と離縁したとしても、嫡男は手元に残すだろうに。
王家と縁を繋ぐ為の娘が必要だったのはわかる。
だから、再婚してご令嬢を儲けた理由は想像がつくものの、後継ぎになりうる息子を家から追い出すのは、別の話だろう。
タウンゼント公爵家は、ハークリウス王国の五公爵家と呼ばれる大貴族の一つ。
その中でも一番の権勢を誇っているのは、一族の人数が多い事、家門内の集まりが頻繁でタウンゼント家への忠誠を都度試される事、表には出せないような仕事をする者達がいる事が理由だろう。
そして、それこそが、俺がタウンゼント騎士団を避ける理由でもあった。
「いずれにせよ、後継ぎ問題で荒れるだろうな。それを思えば、近衛に所属しておくのはいい考えだ」
もうすぐ卒業する学園でも、タウンゼント家門の者は徒党を組み、他の派閥と距離を置いている。
タウンゼント家門以外の貴族家との交流がなくとも、タウンゼント家の指示にさえ従っていれば、社交界で生きていけてしまうからだ。
――しかし、それは俺には、ひどく歪んだ姿に見えた。
誰かに思考を任せ、駒のように動かされているだけなのに、自分の人生を生きていると言えるのだろうか?
幼い頃から、騎士を目指して励んで来た。
そして、騎士となるからには、己のすべてを捧げられる主に出会いたかった。
前時代的と言う者もいるけれど、「騎士の誓い」を捧げられるような主に出会えれば……それこそが、幸福なのではないのか。
誰かに主を決められるのは、イヤだ。
俺は、俺の意思で主を定めたい。
結果として、タウンゼント家の誰かに忠誠を誓う日が来るのかもしれないけれど、まずは、タウンゼントの外の世界を見てみたいのだ。
そうして始まった近衛騎士団の生活は、穏やかなものだった。
ハークリウス王国は長く戦争をしていないし、家門間の争いもない今、近衛の任務は王族と王宮の守護だけ。
日々の訓練こそ厳しいけれど、俺の所属している隊の隊長は、他の隊に比べると比較的手緩い方だと思う。
第三部隊のフラネル隊長の地獄の訓練は有名だから、第三部隊の所属にならなくて良かったと安心すべきなのか、自身を鍛える為には地獄に身を置くべきなのか。
新人騎士の研修が終わってしばらく経ったある日。
俺は、お茶会の警護任務を与えられた。
双子の王子殿下が、婚約者のご令嬢達を招いて行うものだ。
「いいなぁ、マーティアス。王子殿下のご婚約者のご令嬢といえば、タウンゼント公爵令嬢だろう? 学園でも評判の美少女じゃないか」
「マーティアスもタウンゼント家門だよな? 個人的に言葉を交わした事はあるのか?」
同僚の新人騎士達に興味津々に囲まれて、
「家門の人間であっても俺は傍系の子爵家なんだから、雲の上の存在に決まってるだろ。ご挨拶した事すらないよ」
と適当に答える。
タウンゼント公爵令嬢は、赤みがかった金髪に水色の瞳を持ち、十七歳と思えない蠱惑的な肢体の持ち主で、学園でも人気が高かった。
王子殿下と結婚する未来が決まっているというのに、彼女に侍ろうとする男子生徒が絶えなかったのは、その婚約が未だ、書面上は結ばれていないからだろう。
けれど、『完璧な公爵令嬢』と呼ばれている彼女であっても、騎士の誓いを立てたいかと問われると、なんとも言えなかった。
タウンゼントの傍系とはいえ、学園の中で群れていたタウンゼント家門から離れて行動していた俺に、彼女との接点はない。
警備任務に就いていれば、何か見えてくるものがあるだろうか。
近衛に、来客と言葉を交わす機会などない。
到着した馬車を出迎えるのは執事の仕事だし、俺達は会場までの移動中、前後左右をお守りし、茶会の間、会場周辺を警備するだけだ。
タウンゼント公爵家の豪奢な馬車で登城したご令嬢は、昼の茶会とは思えないほど大胆なドレスを着て現れた。
……まだ、十七歳だよな?
お年頃の両殿下には、刺激が強過ぎるのではないだろうか……たった二歳しか違わないものの、子爵家の俺と王族のお二人では、これまでに経験してきた遊びの程度が違うように思う。
俺は……まぁ、それなりに遊んで来た方だと思うけど、それは置いておいて。
聞いていた茶会の時間よりも一時間以上早く到着したタウンゼント公爵令嬢は、執事に、
「待ち遠しくて、少し早めに着いてしまったわ。セディとルークに、わたくしが来たって伝えてもらえる?」
と、当然の顔で要求する。
執事は執事で、慣れた様子で応対しているから、いつもの事なのだろう。
いまだ学園に通う身の上とはいえ、両殿下は多忙な王族だ。
勝手に早く来ておいて、呼びつけるとはどういう事なのか……
表面上はにこやかだし、言葉も居丈高なものではないのに、どうにも不快感が残る。
両殿下は、それから、然程時間を置かずに会場に現れた。
「ねぇ、ローズ。開始が早い方が都合がいいなら、次回から時間を繰り上げようか?」
そうにこやかに問い掛けるのは、セドリック殿下。
「まぁ、いいのよ、セディ。気を遣わないで。わたくしが二人とお話したくて早く来てしまっただけですもの」
……自分から呼びつけておきながら、一体、何を言ってるのだろう。
この席は、両殿下と婚約者二人の為に設けられた席じゃないのか。
タウンゼント公爵令嬢は学園でも両殿下と顔を合わせてるのだから、ここは年下のもう一人の婚約者に交流の機会を譲るべきなのでは?
噂で聞いていた『完璧な公爵令嬢』らしからぬ振る舞いに、内心、眉を顰める。
その時、もう一人の招待客が到着するとの先触れが届いて、馬車寄せへと警護の為に移動する事になった。
俺と一緒に今日の当番に当たった騎士達は、歩きながら、
「さすが、タウンゼント公爵令嬢はお綺麗だな」
「『お話したくて……』なんて言われてみたいよ。健気だよなぁ」
と、頬を染めてデレデレしている。
健気? あれが健気に見えるのか?
健気っていうのは、相手を慮って控え目に振る舞う事だろう?
自分の都合で相手を振り回すのは、健気ではなく、我儘と言うんだ。
確か、もう一人の婚約者はアーケンクロウ公爵令嬢だったか。
お三方とは、大分年が離れていた筈。
そんな方が、あのタウンゼント公爵令嬢に対抗できるんだろうか。
「ようこそいらっしゃいました、アーケンクロウ公爵令嬢」
「……ご機嫌よう」
――これを、鈴を振るような声というのか。
アーケンクロウ家の家紋のついた馬車から降り立ったのは、小さな小さな女の子だった。
まだ少女とも呼べない、女の子。
銀色の艶やかな髪をハーフアップにまとめて、紫の石がついた髪飾りで留めてある。
彼女の年齢を示すように脹脛丈のドレスは、淡いラベンダー。
フリルやレースが好きな年頃ではないかと思うのだけれど、年上の婚約者に会う為なのか、大人びた意匠だった。
口元にはほんのりと美しい笑みを浮かべているのに、その透き通るような紫の瞳には、なんの感情も浮かんでいない。
「両殿下とタウンゼント公爵令嬢がお待ちでございます」
執事に先導され、一歩足を踏み出し掛けたアーケンクロウ公爵令嬢は、ぴた、と足を止めると、同行する為に待機していた俺達近衛騎士の方に、くるりと体を向けた。
「今日は、警護をよろしくお願いします」
そして、にこ、とはにかむように微笑む。
その笑みは、先ほどまで浮かべていた色のないものではなくて、彼女の心からのものに見えて。
とても……美しかった。
「はっ。お任せください」
本来ならば、招待客と言葉を交わす事なんてない。
けれど、反射的に俺達は、左胸に手を当てる騎士の礼を執る。
こんなに、幼いのに。
彼女は確かに、王族の妻となり、臣下を導くべく教育されてきたご令嬢だった。
――茶会の会場での事は、あまりにも低レベルで思い出したくもない。
まず、挨拶をしようとアーケンクロウ公爵令嬢が口を開いた瞬間に、タウンゼント公爵令嬢が紅茶のカップを倒した。
使用人達がばたばたする中、彼女の挨拶はなぁなぁで流されてしまう。
両殿下がアーケンクロウ公爵令嬢に話し掛ける度に、横から口を挟んで話題をすべて自分の話にすり替えるタウンゼント公爵令嬢。
アーケンクロウ公爵令嬢がわからない学園内部の話をして、彼女の存在を無視し続ける。
さらに、わざとらしくくしゃみをして、セドリック殿下から上着を借りていた。
まだ肌寒い季節だというのに、あれだけ肌を出していたら、いくら室内とはいえ、寒いのは当然だ。季節感がないのか。
最終的には、会場から辞する時に、自分を真ん中に両殿下を両側に侍らせて腕を絡めると、
「馬車まで送っていただける?」
と甘くねだっていた。
一方、一人取り残されたアーケンクロウ公爵令嬢は、何事もなかったかのように俺達と共に馬車寄せへと移動し、再び、くるりと体を向けると、
「今日はありがとうございました」
とお礼を言ってくれた。
タウンゼント公爵令嬢が、徹頭徹尾、俺達の存在を気にも留めなかったのとは、正反対の態度。
彼女の声が聞けたのは、到着時と帰宅時の挨拶のみ。
それ以外はすべて、タウンゼント公爵令嬢のせいで、聞く事は叶わなかった。
あの日から俺が近衛に所属していた二年の間、何度か茶会の警護を担当したけれど、彼等四人の関係性が変わる事はなかった。
タウンゼント公爵令嬢――気に食わないから、もう「ロザリンド」と腹の中では呼び捨てているが――が場の中心として振る舞い、両殿下は彼女を暴走させないようになんとかあしらいながらアーケンクロウ公爵令嬢――同じく、心の中では親しみを込めて「リリエンヌ様」とお呼びしている――を気に掛け、そして、リリエンヌ様は変わらぬ微笑みでやり過ごしている。
関係性が変わる事はなかったけれど、リリエンヌ様はお変わりになった――悪い方向に。
当初ははにかむように見せてくださっていた笑みが、同じ笑みでも人形のようにまったく心を映さないものになってしまった。
あれは確か、学園に通い始めてからだから、恐らく、ロザリンドが何かしたのだろう。
王宮内でも、リリエンヌ様の悪い噂が耳に届くようになった。
曰く、
「学園での成績が揮わない」
「マナーがなっていない」
「高位の貴族令嬢とは思えないほどに華がない」
まったく、根拠のないものだ。
ロザリンドが学園生活を、両殿下と男子生徒達を侍らせながら謳歌しているのに対して、リリエンヌ様はほとんど学園に通えていない。
であるにもかかわらず、リリエンヌ様の座学の成績はトップクラスだ。確かに実技科目は授業を受けられていない分、揮わないかもしれないが、そこだけを取り上げている事に作為的なものを感じる。
所作の美しさは、茶会の作法だけでなく、馬車の乗り降りを見ているだけでもわかるのだから、何をもってマナーが身に付いていないとしているのか。
何よりも、彼女の美しさを理解できないなんて。
十二歳だった女の子は、十四歳の少女に成長していた。
少しずつ女性らしく成長していく姿は、純粋に美しい。
価値観の相違というものはあるから、ロザリンドの押し付けるような華やかさを美しいと感じる者はいるだろう。
けれど、リリエンヌ様の妖精のように透き通る美しさは、もう少し成長されれば、男女問わず目を惹かれてやまないものになる筈だ。
このような不穏な噂が巡るのは、ロザリンドやタウンゼント公爵の意図的なものでないとは思えない。
ロザリンドとリリエンヌ様、二人は王子妃候補としてのライバルではない。
王子殿下はお二人いて、それぞれが嫁すると決定しているのだから。
それでもなお、タウンゼントがリリエンヌ様を蹴落とそうとするのは、リリエンヌ様が王子妃候補として優秀、ひいては王妃に相応しい方である事の証左であるように思う。
リリエンヌ様が正しい評価を受けられない事にもどかしい思いをしていたその時、タウンゼント公爵に名指しで呼び出された。
学園を卒業するロザリンドの護衛騎士になれ、と言うのだ。
「タウンゼント騎士団には、優秀な騎士が揃っているではありませんか。私一人がお傍におらずとも、ご令嬢の警護は十分かと存じますが」
誰が好き好んで、あの我儘女の護衛騎士になりたいというのか。
タウンゼント家門から近衛になった者はほとんど存在しないと聞くから、目立ってしまっているのは事実だろうが、家門内に数いる騎士の一人くらい、放っておいて欲しい。
「近衛の中でも、優秀だと聞いている」
「私には、過分な評価でございます。まだまだ、修行中の身です。この先、ご令嬢が王宮の女主人になられる頃には、鍛練の成果をお見せできる事でしょう。近衛は王族の皆様の為に存在しておりますから、王宮にて、ご令嬢を誠心誠意お守りしてまいります」
ロザリンドの護衛騎士なんてなってしまったら、リリエンヌ様を警護できなくなってしまう。
なんとか逃れようと、あれこれと言い訳をするものの、初めて対面したタウンゼント公爵は聞く耳を持たない。
「そう遠慮せずともよい。ロザリンドの傍に仕えられるのだぞ。嬉しいだろう?」
親バカといえばいいのか、バカ親といえばいいのか、俺が断ると欠片も思っていない顔で、そんな事まで言い出した。
「わかっていると思うが、私はそなたの意向を尋ねているのではない。これは、決定事項だ」
……あぁ、そうだ、近衛の居心地がよくて忘れていた。
マーティアス家に、タウンゼントの命令に逆らう術なんて、ないんだ……
それから、ロザリンドが結婚するまでの五年間は、正に地獄だった。
近衛時代に、ロザリンドの二面性も、自己中心的な性格も、わかったと思っていた。
けれど、そんな生温いものではなく、彼女はもっと狡猾で強かだった。
一体、誰が、将来王子妃となる令嬢が男遊びをしていると思う?
王族の血統の正統性を守る為に純潔を求められている身でありながら、彼女は決して秘密を暴露できない家門内の見目良い男に次々と声を掛けては、危険な遊びに巻き込んでいた。
ロザリンドの二面性をご存知の王子殿下方も、まさか、ここまで彼女が堕ちているとは把握されていないだろう。
俺自身、毎日のようにそれとなく誘い掛けられているのを、他の護衛騎士の陰に隠れながら、のらりくらりと躱し続けていた。
普通なら、据え膳食わぬは……とでも思うんだろうな。
だが、将来の王子妃に手を出す危険性なんて考えるまでもないし、何よりも俺はリリエンヌ様をお慕いしている。
慕っている、といっても、相手は未成年。俺よりずっと年下の令嬢なのだから、不純な思いではない。
リリエンヌ様は日々美しく成長され、反比例するように感情表現がなくなっていった。
陰口や蔑む視線に気づいていないわけもないのに、完璧な笑みを浮かべる彼女を揶揄して、いつしか「人形姫」と呼ばれるようになったけれど、悪意に頽れる事なく、笑みを浮かべ続けていられるのは、リリエンヌ様の強さだ。
彼女は本物の人形ではないのだから、人々の悪意に晒され、誰一人かばう者なく、孤独であり続けるのは、心削られる経験に違いない。
泣きわめき、倒れ伏しても当然だというのに、苦しい思いをしながらも顔を上げて微笑む強さを、俺は尊敬してやまない。
彼女が微笑み続けてくれているから、俺もこの不条理な環境に耐える事ができているのだ。
彼女だ、と思った。
リリエンヌ様こそ、俺が剣を捧げるべき相手だ。
騎士として、生涯尽くすべき相手だ。
俺の、人生そのものだ。
ロザリンドが結婚すれば、護衛騎士の任命権はセドリック殿下にも渡る筈。
どうにかして辞職させてもらって、リリエンヌ様の元に行きたい。
――……そう、思っていたのに。
タウンゼント父子に騙されてしまったのは、もう少しで結婚式が挙行され、彼女の執着から逃れられるだろう、と油断していたせいなのか。
目が覚めて、隣にしどけなく横たわっているロザリンドを発見した時の恐怖を、決して忘れる事はないだろう。
晩餐の途中から目が覚めるまでの記憶はないのに、何があったのかは明らかで。
自らの覚悟のない行為の責任なんて負いたくはないけれど、目を逸らす事もできずにタウンゼント公爵に王家との取次ぎを願い出ると、彼は、そなたの気にする事ではない、と笑った。
ロザリンドの妊娠が判明した時も、生まれた子供が明らかに俺に似ていた時も、なりふり構わなければ事態を公にする事はできたのだろう。
しかし……俺は結局、保身に走った。
真実が明らかになれば、俺は処罰を受ける。
だが、誰も気づきさえしなければ、誰も暴露さえしなければ、真実は永遠に闇に葬り去られると嘯いて。
そうすれば、言葉を交わす事も視線を交わす事もないけれど、リリエンヌ様を視界に映し続ける事ができる。
そうやって、自分を誤魔化し続ける中、生まれた王子殿下と両陛下の初めての面会に立ち会った時。
久し振りにお姿を拝見したリリエンヌ様は、大きな変化を遂げていらした。
微笑みには慈しみが満ち、硝子玉のようだった瞳には温もりが溢れ、その視線の先にはクローディアス王子殿下がいらっしゃる。
すべてをただ受け止めていただけのリリエンヌ様が、自ら、お子様の為に動いておられる姿に――愕然とした。
風が吹いただけで倒れそうにか細かった女の子は、いつの間にか、凛とした母になっていた。
母としての愛情を全身全霊でクローディアス殿下に傾けるお姿に、ただ足踏みをして真実から目を背けた自分を恥じた。
そして、ずっと誤魔化し続けていた思いが、敬愛ではなく、恋情である事にも気がついた。
相変わらず、ルーカス殿下との関係はぎこちないもののようだけれど、それならば……それならば、俺が彼女を支えたい。
すべてを受け止め、すべてを肯定し、俺のすべてで彼女を守る。
リリエンヌ様が、クローディアス殿下と共にいる事で笑えるのならば、それでいい。
リリエンヌ様が幸せであれば、それでいい――……
タウンゼント家を裏切り、息子をマーティアス家に迎え入れ、セドリック殿下に願い出てリリエンヌ様の護衛騎士になった。
何も知らない彼女を騙すように騎士の誓いを立てた事に、後悔はない。
リリエンヌ様は、知らなくていいのだ。
ルーカス殿下以外の男を、異性として認識していないリリエンヌ様。
俺が彼女に不純な思いを抱いている事も、けれど、決して打ち明ける気がない事も、知らなくていい。
愛されたいとは望まない。
ただ、最後まで――人生の最期まで、彼女の傍に、いられればいい。
彼女に、すべてを捧げた騎士として。
END
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すごく面白い!
一気読みしてしまいました。番外編で脇役たちの心情が読めて、再度最初から読みたくなりました。素敵な作品をありがとうございます。